ヨルムンガンド -地を這う世界-   作:右左右左右

3 / 3
第3話 武器を置いた兵士たち

 ヨルムンガンド発動から二日後。

 

 世界各地では、航空機墜落による被害の確認が続いていた。

 

 空中にいたおよそ七十万人が命を落とし、各国の救助機関は対応能力を超えた惨事に追われている。

 

 各国政府は原因の究明を急いでいたが、有力な手掛かりは得られていなかった。

 

 一方、軍事面でも混乱は続いている。

 

 航空支援を失い、広域通信や補給に支障をきたした軍隊は、従来の作戦を維持できなくなっていた。

 

 もっとも、それですべての戦争が終わったわけではない。

 

 戦車は走り、銃は撃てる。

 

 今も各地では戦闘が続いている。

 

 ただ、その一方で。

 

 昨日まで敵を殺すために集結していた兵士たちが、別の選択を迫られていた。

 

◇

 

 アゼルバイジャン国境付近。

 

 新ソ連軍、前線指揮所。

 

「偵察部隊の指揮官はどうした!」

 

 ヴォロノフ大佐の怒声が響いた。

 

 昨日、偵察部隊は前進命令に反して停止した。

 

 敵の陣地を確認しながら、それ以上の接近を拒否したのである。

 

「現在も指定地域で警戒を継続しています」

 

 副官が答えた。

 

「ならば、なぜ連れてこない!」

 

「現地を離れれば、監視に空白が生じます。それに、上級司令部から新しい命令が届いています」

 

「……何?」

 

 差し出された書類を読み、大佐の表情が険しくなった。

 

 攻勢作戦の無期限延期。

 

 現在位置での防御態勢維持。

 

 不要な武力衝突の回避。

 

 さらに、現地の緊張緩和に必要な接触については、承認を条件に認めると記されていた。

 

「……ふざけるな」

 

 大佐は書類を机に叩きつけた。

 

「ここまで兵力を集めておいて、戦うなというのか!」

 

「航空戦力の運用再開は不可能です。補給計画も復旧していません」

 

「地上部隊は健在だ!」

 

「しかし、予定通りの作戦は実行できません」

 

 大佐は副官を睨みつけた。

 

 反論したかった。

 

 だが、航空支援がなく、補給の見通しも立たない状況で進軍すれば、部隊が孤立する危険性は高い。

 

 それに、上級司令部は作戦停止を明確に命じている。

 

「……偵察部隊は現位置で待機させろ」

 

「了解しました」

 

「ただし、勝手な判断は二度と許さんと伝えろ」

 

「はっ」

 

 副官が敬礼する。

 

 大佐は椅子に腰を下ろした。

 

 戦力は残っている。

 

 敵に敗北したわけでもない。

 

 それなのに、侵攻作戦は再開できない。

 

 その事実が、彼には何より屈辱的だった。

 

◇

 

 国境地帯。

 

 新ソ連軍の偵察部隊は、昨日からほとんど位置を変えていなかった。

 

 三両の装甲車両が斜面の陰に停車し、前方のアゼルバイジャン軍陣地を監視している。

 

「……車長」

 

「何だ?」

 

「昨日のこと、やっぱり処分されるんですかね」

 

 若い兵士が尋ねた。

 

 車長は双眼鏡を下ろした。

 

「さあな。司令部次第だ」

 

「命令違反ですからね」

 

「そうだな」

 

 昨日、彼は前進を拒否した。

 

 あのまま進めば、敵軍との交戦は避けられなかっただろう。

 

 部隊を停止させた判断に後悔はない。

 

 だが、それを上層部がどう評価するかは別問題だった。

 

「……ま、帰ってから考えよう」

 

 車長は再び双眼鏡を構えた。

 

 そのとき、道路脇に停車している複数の車両が目に入った。

 

「ん?」

 

「どうしました?」

 

「あれを見ろ」

 

 兵士も双眼鏡を覗く。

 

 古いバスと数台の乗用車が、道路脇に停まっている。

 

 車両から降りた人々が、何かを話し合っていた。

 

「民間人ですかね?」

 

「おそらくな」

 

 車長は周囲の地形を確認する。

 

 問題の道路は、両軍の警戒区域に近かった。

 

 軍用車両が接近するだけでも緊張が走る場所である。

 

「……まずいな」

 

「何がです?」

 

「あの連中、このままだと危険な区域へ入るぞ」

 

 車長は通信機を手に取った。

 

「指揮所に報告しろ。民間車両が接近している」

 

◇

 

 アゼルバイジャン軍、監視所。

 

「少佐、民間車両を確認しました!」

 

 アリエフ少佐は双眼鏡を構えた。

 

 確かに、複数の車両が道路脇に停車している。

 

 古いバスには子供や老人の姿も見えた。

 

「人数は?」

 

「二十人以上と思われます」

 

「何をしている?」

 

「閉鎖された検問所を避けようとして、進路を間違えた可能性があります」

 

 少佐は顔をしかめた。

 

 新ソ連軍の侵攻が迫っているという情報に加え、世界規模の航空機墜落。

 

 国境付近では、住民の避難が相次いでいる。

 

 問題は、あの車両が停車している場所だった。

 

 少し先には新ソ連軍の偵察部隊がいる。

 

 こちらから保護部隊を出せば、敵に攻撃と誤認される危険があった。

 

「……面倒なことになったな」

 

「どうしますか?」

 

 部下が尋ねる。

 

 少佐は少し考えた。

 

「敵に連絡を取る」

 

「……敵軍にですか?」

 

「ああ」

 

「しかし、通信が通じるかどうか……」

 

「駄目なら別の方法を使う」

 

 少佐は双眼鏡を下ろした。

 

「民間人を通す。そのために互いの部隊を動かさないよう、調整したい」

 

「相手が応じるでしょうか?」

 

「分からん」

 

 少佐は答えた。

 

「だが、撃ち合うよりはましだ」

 

◇

 

 新ソ連軍、偵察部隊。

 

「車長! 敵陣地に動きがあります!」

 

 報告を受けた車長が双眼鏡を構えた。

 

 アゼルバイジャン軍の陣地から、小型の軍用車両が一台出てきている。

 

 そのアンテナには、白い布が結び付けられていた。

 

「……白旗か?」

 

「そのようです」

 

 車両はゆっくりと進み、民間車両から少し離れた場所で停止した。

 

 乗っていた兵士が降りてくる。

 

 武器は携行しているようだが、構えてはいない。

 

「どうします?」

 

「まず指揮所に報告しろ」

 

 兵士が通信機を操作する。

 

 しばらくして返答が届いた。

 

『偵察一号、現位置で待機。接触は許可しない』

 

「……了解」

 

 車長は顔をしかめた。

 

 向こうの兵士は、依然として白い布を掲げている。

 

 どう見ても、戦闘を始めようとしている様子ではない。

 

 だが、命令は待機だ。

 

「参ったな……」

 

 車長が呟いたとき、再び通信機が鳴った。

 

『偵察一号、応答せよ』

 

「こちら偵察一号」

 

『上級司令部からの指示だ。民間人保護に必要な接触について、限定的な許可を与える』

 

「……了解しました」

 

『ただし、軍事的な交渉は認められない。独断で停戦協定など結ぶな』

 

「承知しています」

 

 通信が切れた。

 

 車長は隣の兵士を見る。

 

「……行ってくる」

 

「一人でですか?」

 

「ああ」

 

「危険ですよ」

 

「分かってる」

 

 車長は腰の拳銃を外し、車内へ置いた。

 

「預かってろ」

 

 兵士は驚いた。

 

「武器を持たずに行くんですか?」

 

「話をするだけだ」

 

「相手がそう思ってるとは限りませんよ」

 

「だからこそ、こっちから銃を向けるわけにはいかん」

 

 車長は車両から降りた。

 

 少し離れた場所では、アゼルバイジャン軍の兵士が待っていた。

 

◇

 

 国境線に近い道路。

 

 二人の軍人が向かい合っていた。

 

 一人は新ソ連軍の偵察部隊の車長。

 

 もう一人は、アゼルバイジャン軍から派遣された若い将校だった。

 

 互いに武器を構えていない。

 

 だが、周囲では両軍の兵士たちが警戒を続けている。

 

 何かあれば、すぐに銃撃戦が始まる。

 

 そんな状況だった。

 

「……民間人の件か?」

 

 先に口を開いたのは、新ソ連軍の車長だった。

 

 相手の将校が頷く。

 

「そうだ」

 

「こちらでも確認している」

 

「道路を通行させたい。そちらの部隊が誤って攻撃しないよう、協力を求める」

 

「こちらから攻撃するつもりはない」

 

「それを保証できるのか?」

 

 車長は少し考えた。

 

「……俺の部隊についてならな」

 

 将校は黙った。

 

「上の連中が何を考えているかまでは分からん」

 

「……こちらも同じだ」

 

 将校は苦笑した。

 

 しばらく沈黙が続いた。

 

 遠くでは、民間人たちが不安そうにこちらを見つめている。

 

「……妙な話だな」

 

 車長が言った。

 

「何がだ?」

 

「昨日まで、俺たちはあんたらを攻撃するつもりだった」

 

「そうだな」

 

「それが今日は、民間人をどう通すか相談してる」

 

「……確かに」

 

 将校は空を見上げた。

 

 航空機の姿はない。

 

「世界中で、飛行機が落ちた」

 

 将校が呟く。

 

「ああ」

 

「俺の知り合いも乗っていた」

 

 車長は相手を見た。

 

「……そうか」

 

「まだ安否は分からない」

 

 将校は視線を落とした。

 

「昨日までなら、こんな話を敵の軍人にするなんて考えもしなかった」

 

「……俺もだ」

 

 車長は答えた。

 

 しばらくして、将校が顔を上げる。

 

「通行させたいのは、あのバスと乗用車だけだ。軍用車両は出さない」

 

「こちらも部隊は動かさない」

 

「移動経路を確認したい」

 

「分かった。ただし、そちらが勝手に兵力を増やすなら話は別だ」

 

「それはこちらの台詞だ」

 

 二人は互いを睨んだ。

 

 だが、銃を抜く者はいなかった。

 

 やがて、車長が小さく息を吐いた。

 

「……やろう」

 

「何を?」

 

「民間人を通すんだろ?」

 

 将校は少し驚いた顔をした。

 

 そして、頷いた。

 

「ああ」

 

 その場で決まったのは、ほんの小さな取り決めだった。

 

 互いの部隊を動かさないこと。

 

 民間車両が通過する間、武器を向けないこと。

 

 そして、何か問題が起きた場合は、まず連絡を取ること。

 

 国家間の停戦協定ではない。

 

 戦争の終結でもない。

 

 ただ、民間人を安全に通すための協力だった。

 

◇

 

 数時間後。

 

 民間車両が、ゆっくりと道路を進み始めた。

 

 先頭のバスには、子供や老人の姿が見える。

 

 少し離れた場所では、新ソ連軍の装甲車両が停車していた。

 

 反対側では、アゼルバイジャン軍の兵士たちが監視を続けている。

 

 双方とも武器を持っていた。

 

 だが、誰も発砲しなかった。

 

 バスが危険な区域を通過する。

 

 続いて乗用車が一台、また一台と進んでいった。

 

 最後の車両が通過すると、新ソ連軍の兵士が小さく息を吐いた。

 

「……全車両、通過しました」

 

「ああ」

 

 車長は双眼鏡を下ろした。

 

「指揮所に報告しろ」

 

「了解」

 

 兵士が通信機を操作する。

 

 車長は、遠ざかっていく民間車両を見つめていた。

 

 昨日は敵軍への接近を拒否した。

 

 今日は、その敵軍と直接話をした。

 

 結果、民間人は誰一人撃たれることなく通過できた。

 

「……車長」

 

「何だ?」

 

「こういうことも、できるんですね」

 

 兵士が呟いた。

 

 車長は少し笑った。

 

「まあな」

 

 それだけ答え、車内へ戻った。

 

 通信機からは、すでに指揮所の呼び出しが聞こえていた。

 

◇

 

 アゼルバイジャン軍、監視所。

 

「民間車両、全車通過しました!」

 

 報告を受けたアリエフ少佐は頷いた。

 

「よし」

 

「新ソ連軍の動きは?」

 

「変化ありません」

 

「そうか」

 

 少佐は双眼鏡を置いた。

 

 最悪の事態は避けられた。

 

 だが、問題が解決したわけではない。

 

 国境の向こうには依然として新ソ連軍が展開している。

 

 こちらも防御態勢を解除することはできなかった。

 

「少佐」

 

 部下が口を開いた。

 

「今後も、あのような接触を続けるのですか?」

 

「必要ならな」

 

「敵ですよ?」

 

「分かっている」

 

 少佐は答えた。

 

「だからといって、話をすることまで禁じられているわけじゃない」

 

 部下は黙った。

 

「次に何かあったとき、互いの意図を確認する手段があるだけでも違う」

 

「……確かに」

 

「今回の件を上へ報告しろ。正式な連絡窓口が必要だ」

 

「了解しました」

 

 少佐は窓の外へ目を向けた。

 

 新ソ連軍の装甲車両が、遠くに見える。

 

 あの中にいる兵士が、どんな人間なのかは分からない。

 

 だが、少なくとも今日は、約束を守った。

 

 それだけは事実だった。

 

◇

 

 新ソ連軍、前線指揮所。

 

「……敵軍と接触しただと?」

 

 ヴォロノフ大佐は報告書を睨みつけていた。

 

「はい。民間車両の通行に関する限定的な調整を行ったとのことです」

 

 副官が答える。

 

「勝手に交渉したのか!」

 

「上級司令部の許可の範囲内です」

 

「……またそれか!」

 

 大佐は椅子から立ち上がった。

 

「敵軍と馴れ合うために、我々はここへ来たのではない!」

 

「承知しています」

 

「ならば、なぜ止めなかった!」

 

「交戦を避ける必要があったためです」

 

 副官は淡々と答えた。

 

 大佐が怒鳴り返そうとした、そのとき。

 

「大佐! 本国から新しい指示です!」

 

 通信担当の将校が入室してきた。

 

 差し出された書類を読み、大佐の表情が変わる。

 

 攻勢作戦停止の維持。

 

 偶発的な武力衝突の回避。

 

 そして、必要に応じた連絡窓口の設置。

 

 上級司令部も、限定的な協議を認める方針へ移行していた。

 

「……馬鹿な」

 

 大佐は呟いた。

 

 副官が静かに口を開く。

 

「大佐。現在の兵力を維持するだけでも、相当な負担がかかります」

 

「……」

 

「航空支援も補給の見通しもないまま戦闘を始めれば、我々が不利になる可能性もあります」

 

 大佐は副官を睨みつけた。

 

 だが、反論はできなかった。

 

 机の上には、侵攻作戦の地図が広げられている。

 

 そこに描かれた進撃経路は、もはや実行できるものではなくなっていた。

 

「……全軍、現位置を維持」

 

 大佐は低い声で命じた。

 

「余計な挑発はするな」

 

「了解しました」

 

 副官が敬礼した。

 

 大佐は椅子に腰を下ろした。

 

 戦争は終わっていない。

 

 しかし、少なくとも今は戦うことを許されていなかった。

 

◇

 

 アゼルバイジャン国内。

 

 ココ部隊は、道路沿いの宿泊施設で休息を取っていた。

 

 建物の一角では、レームが現地の情報を確認している。

 

 テーブルには飲み物と簡単な食事が並び、ルツは椅子に深く腰掛けていた。

 

「……あー、疲れた」

 

「どうした?」

 

 ワイリが尋ねる。

 

「移動だよ、移動。飛行機が使えないってのは、想像以上に面倒だな」

 

「しばらくは仕方ない。道路も鉄道も混雑するだろうし」

 

「参ったねえ」

 

 ルツは大げさに肩を落とした。

 

「俺たち、これからずっと車移動か?」

 

「船もあるよ」

 

 トージョが答える。

 

「港まで行くのも大変だろ?」

 

「まあ、それはそうだろうけど」

 

 そんな会話の中、ココが端末から顔を上げた。

 

「レーム」

 

「ん?」

 

「バクー近郊で、新ソ連軍とアゼルバイジャン軍が接触したって」

 

「交戦か?」

 

「ううん。民間人を通すために話し合ったみたい」

 

 レームは少しだけ眉を上げた。

 

「ほう」

 

「両軍とも約束を守って、避難民を通したらしいよ」

 

「……へえ」

 

 ルツが意外そうな声を上げる。

 

「敵同士が協力したのか?」

 

「限定的にね」

 

 ココは端末をテーブルへ置いた。

 

 その表情に、普段の楽しげな笑みはない。

 

「でも、たったそれだけのことだよ」

 

 ルツが首を傾げた。

 

「お嬢、嬉しくないのか?」

 

「嬉しい?」

 

 ココは小さく笑った。

 

「敵同士が話し合うなんて、本当なら当たり前にできていいことじゃない?」

 

「……そりゃそうだけどよ」

 

「それができなくて、今までどれだけ人が死んだと思う?」

 

 ルツは口を閉じた。

 

 ココは端末へ視線を落とした。

 

「たった一度の話し合いで、人間が変わったなんて思わないよ」

 

 レームが彼女を見る。

 

「だが、少なくとも今回は、戦闘にならずに済んだ」

 

「……うん」

 

 ココは短く頷いた。

 

「そうだね」

 

 しばらく沈黙が続いた。

 

 ヨナが口を開いた。

 

「……ココ」

 

「何?」

 

「それでも、人間が変わらなかったら?」

 

 ココは少しだけ目を細めた。

 

「……そのときは、そのときだよ」

 

「……」

 

「私が変えたのは、戦争を続けるための条件。人間そのものを変えたわけじゃない」

 

 ヨナは黙って聞いていた。

 

「それに、今までだって話し合うことはできたはずなんだよ」

 

 ココは静かに続ける。

 

「それでも戦争を繰り返してきた。何度も何度もね」

 

 その声には、いつもの明るさがなかった。

 

「だから、私はヨルムンガンドを発動した」

 

 ヨナはココを見つめた。

 

 彼女は笑っていなかった。

 

 人間が争いをやめる日を、ただ待っているだけでは何も変わらない。

 

 そう判断したからこそ、ココは世界の空を奪った。

 

 たとえ、途方もない犠牲を払うことになっても。

 

「……ココは、人間を信じてるのか?」

 

 ヨナが尋ねる。

 

 ココは少し考え、それから首を横に振った。

 

「信じられるなら、こんなことしてないよ」

 

 短い答えだった。

 

 ヨナは何も言わなかった。

 

「……ただ」

 

 ココが続ける。

 

「これまでと同じことができなくなった世界で、人間がどうするのか。それは確かめないとね」

 

 レームが飲み物を口にする。

 

「ずいぶん長い付き合いになりそうだな」

 

「そうだね」

 

 ココは小さく微笑んだ。

 

「でも、もう引き返せないから」

 

 それ以上、誰も口を開かなかった。

 

 端末には、世界各地の情報が絶え間なく流れ続けている。

 

 航空機墜落の被害報告。

 

 軍事作戦の停止。

 

 補給網の混乱。

 

 そして、依然として続く戦闘。

 

 ココはそれらの情報を、一つずつ確認していた。

 

◇

 

 同じ頃。

 

 世界の別の場所でも、軍事作戦の見直しが進められていた。

 

 ある紛争地域では、補給の遅延を理由に攻勢が延期された。

 

 別の地域では、航空支援を失った政府軍が進撃を中止した。

 

 さらに別の場所では、敵対する武装勢力同士が一時的な停戦を検討し始めている。

 

 理由はそれぞれ違っていた。

 

 補給の問題。

 

 軍事的な損得。

 

 政治的な判断。

 

 そして、これ以上戦争を続けることへの疑問。

 

 ただし、世界中の戦闘が停止したわけではない。

 

 依然として銃声の響く地域も存在した。

 

 戦争によって利益を得る者もいる。

 

 過去の憎しみに囚われ、戦い続ける者もいる。

 

 ヨルムンガンドは、そうした人間の感情まで消し去ることはできなかった。

 

 それでも、大規模な戦争を続けるための仕組みは、大きく揺らいでいた。

 

 航空支援は使えない。

 

 軍事輸送は滞り、情報網も信用できない。

 

 戦争を継続するための負担は、確実に増していた。

 

 その中で、武力衝突を避ける選択をした人間たちがいた。

 

◇

 

 夜。

 

 アゼルバイジャン国境付近。

 

 新ソ連軍とアゼルバイジャン軍は、依然として互いに警戒を続けていた。

 

 戦車も装甲車両も、その場に残っている。

 

 兵士たちは武器を手放していなかった。

 

 だが、昼間に行われた民間人の通行をめぐる協議は、両軍の上層部へ報告されている。

 

 そして、正式な連絡窓口の設置について、検討が始まっていた。

 

 停戦ではない。

 

 和平でもない。

 

 ただ、敵同士が再び話し合うための道が、一つ開かれただけだった。

 

 新ソ連軍の偵察部隊では、車長が夜空を見上げていた。

 

 隣にいた兵士が声をかける。

 

「……車長」

 

「何だ?」

 

「今日のこと、本国じゃどう評価されるんでしょうね」

 

「さあな」

 

「命令違反で処分されたりしませんか?」

 

「まだ分からん」

 

 車長は答えた。

 

「ただ、民間人は無事に通れた」

 

「……そうですね」

 

「それでいい」

 

 兵士は少し笑った。

 

「変な話ですよね」

 

「何がだ?」

 

「敵と話しただけなのに、こんなに安心するなんて」

 

 車長は黙って空を見上げた。

 

 航空機は飛んでいない。

 

 世界中から、空を飛ぶ自由が失われた。

 

 その代償として、およそ七十万人が命を落とした。

 

 だが、今ここにいる自分たちは生きている。

 

 そして今日、敵を殺さずに一日を終えた。

 

「……そうだな」

 

 車長は小さく答えた。

 

 遠くには、アゼルバイジャン軍の陣地が見える。

 

 あそこにも兵士がいる。

 

 こちらと同じように、夜を迎えた人間たちが。

 

 明日、戦うことになるかもしれない。

 

 だが、明日も戦わずに済むかもしれない。

 

 その可能性があることを、彼らは知った。

 

 空を失った世界で。

 

 戦争が終わったわけではない。

 

 人間が変わったと証明されたわけでもない。

 

 それでも、この日。

 

 国境を挟んだ二つの軍隊の間に、銃声は響かなかった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
点
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。