総じて俺は運がいいらしい 作:ヤンデレすこすこ侍
「お金なら払います。いくらでも払いますから」
さっきまで俺の胸ぐらをつかんでいた人が、床に正座していた。その隣に、もう二人。狭い事務所だったので、真ん中の人はコピー機に膝がぶつかっている。痛そうだったが、位置をずらす気配はない。
「いくらでもって。求人には、五千円って書いてありましたけど」
「五千……」
男の顔から、また血の気が引いた。
「す、すぐには、それだけの額は」
「円です。五千円」
ほかの単位で考えられても困る。俺は高校二年生で、今日は三時間、段ボールを運んだだけなのだ。
日曜の午後。駅前で見つけた、倉庫整理の単発アルバイト。ここまでは普通だった。作業を終えたあと、事務所で渡された次の仕事が、普通ではなかった。知らない人の家を訪ねて、荷物を受け取ってくる。会社名は名乗らない。身分を聞かれたら、渡された紙のとおりに答える。俺でもおかしいとわかる。
「そういう仕事だとは聞いてないので、帰ります」
そう断ったら、出口をふさがれた。胸ぐらをつかまれ、履歴書に書いた住所の話をされた。
まずい、と思った。
床に置いた鞄まで二歩。スマホはその中。廊下まで声が届くかどうかは、わからない。せめて首元だけでも緩めようと、相手の手に触れた。そこで、男が黙った。俺の顔を見ていたはずの目が、少し上へ動いた。口が開き、息だけが漏れた。胸ぐらをつかむ指が、一本ずつ離れていく。
次の瞬間、背後で椅子が倒れた。振り返ると、残りの二人も立ち上がっていた。片方は机につまずき、もう片方は壁に背中を押しつけている。そこから先は、早かった。三人とも謝り始めたのである。
「本当に、知りませんでした」
「いや、求人と違うことをさせるのは、知ってたんじゃないですか」
「それは、その、本当に、申し訳なく」
男は額を床につけた。何がそこまで申し訳なくなったのかは、わからない。けれど、帰してもらえるなら、いまはそれで十分だった。
「わかったので、顔を上げてください」
上がらなかった。
「じゃあ、せめてドアを」
三人が一斉に立とうとして、また一人、コピー機に膝をぶつけた。鍵を開けてもらい、俺は鞄を拾った。すると、分厚い封筒を押しつけられた。断っても、頑として引っ込めない。
「バイト代、そんなにいらないです」
「いえ。どうか。どうか、それで」
最後のほうは、泣いていた。大人の男が三人そろって泣くところは、なかなか見ない。俺もどうしていいかわからず、とりあえず頭を下げた。
「じゃあ、失礼します」
男たちは、俺が出ていくまでずっと頭を下げていた。階段を下りると、夕方の風が、汗の冷えた首元に触れた。そこでようやく、膝が少し震えた。
助かった。
封筒の中身は数えず、近くの交番へ持っていった。住所を知られていることも含めて説明したら、話が思ったより長くなった。お巡りさんには、今度から応募する前に誰かに相談するよう言われた。まったく、そのとおりだと思う。反省すべき点はある。
ただ、まあ。
今回も、殴られたりはしなかった。
俺は基本的に、運がいい。
***
「それ、運がいいで済ませていい話?」
翌朝、幼馴染に昨日の話をすると、まっとうな感想が返ってきた。七瀬澪は、俺の隣を歩きながら、きゅっと眉を寄せていた。家が隣で、同じ高校の二年生。小さいころからの付き合いなので、俺が笑ってごまかそうとしても、だいたい通用しない。
「交番には行った」
「行けば帳消しになると思ってる?」
「なってない。次から募集先をちゃんと調べる」
澪は何か言いかけて、やめた。代わりに、俺の制服の襟を指で直した。昨日つかまれたところとは違うのに、妙に慎重な手つきだった。
「……痛くない?」
「大丈夫。ほら」
首を左右に曲げてみせる。
澪はようやく、小さく息を吐いた。
「あんた、前にもあったよね。そういうの」
「バイトは初めてだけど」
「飛行機」
「ああ」
中学のとき、家族旅行で乗った飛行機がハイジャックされたことがある。通路で怒鳴っていた犯人が、俺たちの列まで来たところで、急に黙り込んだ。それから、客室乗務員さんに何度も謝った。何度も「警察を呼んでくれ」と頼んでいたが、さすがに空の上までは来てもらえなかった。そのあと俺は、母親の袖を握って、着陸まで目を閉じていた。誰も大けがをせずに済んだと聞いたときは、本当にほっとした。
「あのときも運がよかったよな」
「そもそも普通は、そんなに巻き込まれないんだよ」
それはそうかもしれない。ただ、宝くじが当たるとか、買ったアイスに当たり棒がついているとか、そういう幸運には縁がない。面倒事に出会っても、最後にはなんとか帰ってこられる。俺の運のよさは、だいたいそういう方向に偏っている。できれば、もう少し穏当なところで発揮されてほしい。たとえば、犬に好かれるとか。
通学路の角にいる柴犬が、俺を見た。散歩中の飼い主を置き去りにする勢いで、電柱の陰へ逃げ込んだ。目が合っただけだった。
「今日も駄目か……」
「見つめるからじゃない?」
「昨日は見ないで通った」
「どうだった?」
「気づかれた」
澪は慰め方が見つからなかったらしく、俺の肩を一回だけ叩いた。犬だけではない。猫も逃げる。鳩も逃げる。動物園のふれあい広場では、俺が入った側だけ、ヤギが一頭もいなくなった。係の人には、申し訳なさそうにブラシを回収された。
人間相手でも、似たようなことはある。女子に借りた消しゴムを返したら、「そこに置いて」と、二メートル先の机を指定されたことがある。グループ分けのときは、俺の周囲から先に人数が確定していく。勇気を出して理由を聞いたら、相手の女子は困り切った顔で、こう答えた。
『ごめん。朝倉くんが何かしたとかじゃなくて。ただ、なんか、怖くて』
鏡で確認したこともある。背は平均くらい。目つきは、眠いと少し悪くなる。髪も染めていない。学校では、怖がらせるようなことをした覚えがない。笑顔の練習もしてみたが、その翌日は男子にも道を譲られたのでやめた。
「澪は、よく俺の隣を歩けるよな」
「いまさら?」
「ありがたいなと思って」
澪が、ちょっとだけ歩くのを遅くした。
「……そういうこと、急に言わないで」
「じゃあ、予告すればいいのか」
「しなくていい」
難しい。
横断歩道で立ち止まったとき、澪が俺の鞄を見た。
「そもそも、何のお金が欲しかったの?」
「ゲーム」
「また一人でやるやつ?」
「いや。カードの。クラスのやつらが昼休みにやってて、面白そうだったから」
通販の画面を見せる。箱の隅には、二人から五人用、と書いてある。澪はそこをしばらく見てから、俺にスマホを返した。
「……先に、混ぜてって言ってみれば」
「言おうとは思ってる」
それは本当だ。先週の月曜から、ずっと思っている。輪に近づくと、会話が止まる。何の用かと聞かれるまでの短い間に、だいたい勇気を使い切ってしまう。同じゲームを持っていたら、話しかける理由になるかと思ったのだ。
信号が青になった。
歩き出すと、澪も隣に並んだ。
「悠真」
「ん?」
「最近、誰かと仲よくなった?」
また、それか。
ここ二週間ほど、澪はよく俺の交友関係を聞いてくる。
昨日もメッセージで聞かれたし、金曜の帰り道でも聞かれた。
「なってないよ。今の話を聞いて、なってると思うか?」
「学校の人じゃなくても。外で会った人とか、ネットで知り合った人とか」
「バイト先の人とは、仲よくなれそうにない」
「その人たちと、何か約束した?」
即座に聞き返された。
「約束?」
「また会うとか。連絡するとか。頼まれたことを引き受けるとか」
「してない。もう会いたくないし」
澪は、俺の顔を見ていた。
いや、ほんの少しだけ、視線がずれていたような気もする。
「なら、いい」
その言い方が、引っかかった。
「もしかして、最近変な勧誘でも流行ってるのか?」
「似たようなもの。知らない人に何か頼まれたら、引き受ける前に一度、私に言って」
「わかった。澪は大丈夫か」
「私は大丈夫」
「何かあったら言えよ。断るの、手伝うくらいはできるから」
なんか怖い、という俺の評判にも、使い道はあるかもしれない。
澪は一度、唇を結んだ。
それから、困ったように笑った。
「そうだね。頼りにしてる」
***
俺の隣の席は、四月から空いていた。前の席のやつが机を離し気味にしていることを除けば、窓際で、日当たりもよくて、悪い場所ではない。そこに人が来たのは、月曜のホームルームだった。
「三枝小春です。よろしくお願いします」
黒板の前で、転校生が頭を下げた。肩に届かないくらいの髪が、片側だけ少しはねていた。緊張しているのか、両手で持った教科書の端が、少し曲がっている。担任は出席簿を閉じると、俺の隣を指した。
「席は、朝倉の横な。朝倉、教科書が違うところもあるから、見せてやってくれ」
「はい」
三枝さんが、こちらへ歩いてくる。机の間を通り、俺の隣で立ち止まった。一瞬、目が合った。
あ、と思った。いつもの反応が来る。理由を説明できないまま相手の顔がこわばる、あの瞬間を、俺は何度も見てきた。せっかく転校してきた初日なのに、申し訳ない。
けれど、三枝さんは笑った。
「よろしくね、朝倉くん」
そして、ごく普通に、椅子を引いた。
「……よろしく」
返事が少し遅れた。変なやつだと思われただろうか。担任が連絡事項を読み始める横で、三枝さんは鞄から筆箱を出した。俺は黒板を見ながら、さりげなく机の位置を確かめた。隙間が、ほとんどなかった。
近い。
転校生だから、このクラスの机の間隔を知らないのかもしれない。俺は数センチだけ、窓側へずらした。三枝さんがこちらを見た。
「狭い?」
「いや。俺は大丈夫だけど」
「私も大丈夫」
そう言って、笑った。
その日の一時間目が何の授業だったか、あまり覚えていない。
教科書を見せる約束だけは、ちゃんと果たした。
***
昼休みになった。澪からは、委員会があるので今日は先に食べて、と連絡が来ていた。いつもは一人で食べる俺を見かねて、別のクラスから、ときどき来てくれる。俺は購買で買っておいたパンを机に置いた。隣では、三枝さんが小さな弁当箱を出していた。朝から何人かが彼女に話しかけに来ていた。昼も誰かと食べるだろうと思っていたが、三枝さんは弁当箱の包みをほどきながら、黒板の上の時計を見ている。
俺はパンの袋を開けた。
また閉じた。
「あの」
声を出すと、三枝さんが振り向いた。
「うん?」
「もし、誰かと約束してるんじゃなかったら」
ここで切るな。
用事があるのかどうかだけ聞くのは、一番困らせる。
「一緒に、食べませんか」
なぜか敬語になった。三枝さんは、俺の顔を見た。それから、俺の背後にある窓のほうへ、ちらりと目を動かした。誰か待っていたのかもしれない。だったら悪いことをした。
「うん。食べよう」
彼女は弁当箱を持ち上げ、俺のほうへ椅子を向けた。それだけのことだった。机を寄せて、弁当の蓋を開ける。教室のあちこちで、毎日見ている光景だった。俺の机でもできるのか、と、妙なことを思った。
「朝倉くん、パンだけ?」
「今日は。三枝さんは、自分で作ったの?」
「ううん。卵焼きだけ」
「それでもすごい。俺、自分で作ると、だいたい炒り卵になる」
「巻く前に触りすぎるんじゃない?」
そんな話をした。
転校前の学校は、購買の焼きそばパンが大きかったらしい。こっちの学校はクリームパンがうまい、と教えたら、明日買ってみると言った。彼女は数学が苦手で、俺も数学が苦手だった。
「じゃあ、教えてもらえないね」
「一緒にわからなくなることはできる」
「それ、ちょっと助かるかも」
笑ってくれた。笑わせようと思って、誰かが笑ってくれた。俺は調子に乗って、今朝、犬に逃げられた話までした。ふれあい広場のヤギの話をすると、三枝さんは箸を持ったまま肩を震わせた。
「ブラシまで?」
「回収された。何も撫でてないのに」
「それは……うん、ごめん。笑っていいのかわからないけど」
「笑ってくれたほうが助かる」
それも、本当だった。
弁当が半分ほど減ったころ、三枝さんがふと尋ねた。
「朝倉くんって、友達いる?」
俺の手が止まった。
「……そんなにわかる?」
「あ、ごめん。そういう意味じゃなくて」
「いや、まあ。いないけど」
言ってから、ちょっとだけ後悔した。
ここは見栄を張るところだったかもしれない。
「幼馴染はいるよ。同じ学校に。一組の七瀬」
「その子は、友達じゃないの?」
「友達っていうか……」
説明しようとして、詰まった。冷蔵庫のどこに麦茶が入っているか、互いに知っている。小学校のころ、澪が夜のトイレを怖がっていたことを、俺は知っている。その同じ家で、俺が階段から落ちて泣いたことを、澪は知っている。改めて友達になろうと言ったことがないまま、ずっと隣にいた。
「家族に近いのかな。いないと困るけど、友達に数えるのは、なんか違うっていうか」
三枝さんは、しばらく黙っていた。
それから箸を置き、俺をまっすぐに見た。
「じゃあ、私が一人目になってもいい?」
廊下で誰かが笑う声がした。
机を引きずる音がして、ボールペンが床に落ちた。
俺だけが、返事を忘れていた。
「友達。嫌じゃなければ」
「嫌じゃない」
勢いよく答えすぎた。
「あ、ごめん。嫌じゃないです。よろしくお願いします」
「また敬語」
三枝さんが笑って、右手を差し出した。握手までしたら大げさだろうか、と一瞬だけ思った。でも、先に手を出してくれたのだから、いいのだろう。俺はその手を握った。指先が、少し冷たかった。窓が、かたん、と鳴った。三枝さんの指に、力がこもった。その顔から、ほんの一瞬だけ笑みが消えたように見えた。
「……三枝さん?」
「小春でいいよ」
もう笑っていた。
「じゃあ、俺も悠真で」
「うん。悠真くん」
そう呼ばれて、俺は、何もかもうまくいった気がした。昨日は妙なバイトに引っかかった。今朝も犬に逃げられた。でも今日は、初めて自分から昼飯に誘えて、友達までできた。家に帰ったら、あのカードゲームを注文しよう。バイト代はまだ手元にないけれど、貯金を少し使えば買える。
総じて、俺は運がいいらしい。
「悠真」
入口に、澪が立っていた。
片手に紙パックの飲み物を二つ持っている。
委員会が早く終わったのだろう。
「あ、澪。ちょうどよかった」
俺は小春のほうを向いた。
「さっき話してた、幼馴染。澪、こっちは今日転校してきた――」
「手、離して」
聞いたことのない声だった。
澪が近づいてくる。俺たちのつないだ手を見て、それから小春の顔を見た。持っていた紙パックが、指の下で小さくへこんだ。
「その子と、何を約束したの」
「約束って……」
俺は小春から手を離した。
別に、悪いことはしていない。
そう思うのに、澪の顔を見ると、なぜか言い訳を探してしまった。
「友達になろうって。それだけだよ」
澪が、息を止めた。
隣で、小春が静かに笑った。
「聞こえたよね」
澪に言ったのだと思った。
けれど、小春は彼女を見ていなかった。
「悠真くんが、いいって言ってくれたよ。だから――」
さっきまで冷たかった手で、俺の袖をつまむ。
「私とも、仲よくしてね」
小春の視線は、俺の右肩の、少し上に向いていた。
昨日の男たちが、泣きながら見上げていたのと、同じ場所だった。