ㅤ廊下の終点にある両開きの扉を開放すると、視界下半分には緑、上半分には赤がぶわりと広がった。
ㅤ緑というのは、居並ぶ植物の生き生きとした葉の鮮緑だ。長い葉を花火のようにつけた活気ある樹木や、顔よりも巨大な葉を何枚も生やした見上げるほどの大木、肉厚の葉を四方に投げ出した1m超えのアガベ……非常に西洋的な、人工的に囲われた森林がそこにはあった。
ㅤ赤とは何かというと、このコンサバトリーのガラス越しに見える空の色だ。 不気味に赤黒い虚ろな空は、酸素の輝きを失った血の色に似ている。
「……空ってこんな色だったっけ?」エマは言った。
「?よく分かんねぇけど、こんなモンじゃねーか?」
ルカ──最初に出会った金髪の少年──は曖昧に返した。この小さな現実主義者は、そもそも現在の己の目的に無関係な空の色なんて気にしていない。善良な心のために儀礼として返事をしただけだ。
「…………ううん、違うと思う。空はこんなのじゃなかった。」
無意識のうちに強い否定語が出た。
ㅤ私はこれから書くことについて戸惑っているが、エマの奇妙な性質について読者に伝えておかねばならない。
ㅤエマには生前から一貫して独特な考え方の癖があった。一言でまとめるなら、彼女は現実から乖離している。だがもしエマ自身に向かってそう言えば、彼女は否定しただろう。彼女は、現実というものを、世界から最も遠いところにあると思っていた。現実とは彼女にとってちょうどこの赤い空のように、奇妙で、整然さがなく、間違っているものだったからだ。
エマ: 記憶のカケラ【青い空】取得
「青色だ!空は青色だよ。はっきり思い出したんだ」
エマは、気の遠くなるほど遥か高い真っ青の空を目に映し取ったまま叫んだ。
「あ?……あー、言われてみれば、そうだった気が……する?」
ルカは、老眼のような目つきになると首を傾げた。私はルカの一語一語全てに疑問符をつけて表記してもおかしくなった。
「…………。ま、まぁ別に、何色でもいいんじゃない?なんであれ僕らには関係ないわけだし……」
ダンは曖昧に微笑んだ。
「そ、そうかなぁ!?私、大事なことだと思うんだけど、」
「そ、そう。ェ、エマにとって大事なら、僕にも大事だけどさぁ。ただあの、こうも思うんだ……考えすぎるとまずい事柄もあるって。だから、ね、今は目標に集中してみない?」
「うーん……、分かった……。」
ㅤエマはゆっくり答えながら目を逸らした。はぐらかされた気がした。しかしダンから殊の外 優しい言葉を突然与えられたので、そのことで胸がいっぱいになり、本当に何も考えつかなくなってしまったのだ。
〈対話判定〉
エマ: 9 成功 ダンへの保護 ●●〇〇
ダン: 3 失敗 エマへの執着 ●●●〇
ㅤ三人が歩くのは曲線緩やかな石畳。左右の植物の元気が良すぎるせいで通り抜けには狭いけれど、植物が揺れるたびに微かに緑の心安らぐ匂いがする。
「……おっ。この花、なんか甘い匂いがしねーか!?」
ㅤ先頭を歩いていたルカはくるりと振り返ると、雰囲気を変えるためだろうか、無邪気そうな笑顔を向け、枝を引っ張って小さな白い花を主人公に差し向けた。彼は人を気遣っていた。
「本当だ!素敵な香り」
「だろ!?ちょっとだけするよな」
「うん」
ㅤいや、しっかり香るけど……とエマは困惑したが、嗅覚の鋭さは人それぞれだと自分を納得させた。
ㅤ「お前も嗅いでみろって」と彼はダンにも勧めた。ダンは遠慮がちでおっかなびっくりだったが、とうとう堪忍して花に顔を近づけた。
「……えっ?全然分からない……」
ダンは困ったように呟いた。
ㅤ人間なら、重度の鼻詰まりでもない限りそんなことは有り得ない。いやでも、嗅覚の鋭さは人それぞれなのだろう……とエマは自分を納得させた。
「惜しいけど、そんなこともあるよね」
ㅤエマは素敵な香りのお礼をするようにハート型の葉を撫でた。
ㅤ暫く歩くと三人は、ドーム状ののっぺりとしたベージュの天井を擁する空間に辿り着いた。
「ここは……?」ダンがぼんやり呟く。
「あっ!エントランスじゃないっ?」エマは声を上げた。
ㅤ根拠は直感。いかにもチケット販売っぽいカウンターが目に入ったのだ。実際、チケットの束が置かれているし、呼び鈴があるし、透明な仕切り板で隔てられている。うん、エントランスだ。エマは振り返って、コンサバトリーへつづく開かれた門に掲げられたロゴを見た。
「分かったぁ。私たち、植物園の中にいるんだ。薔薇の花がたくさん植えられた展示室から廊下に出て、そのときダンに出会って、このコンサバトリーを歩いて、逆に入口に辿り着いたってことだよ!」
「エマの言う通りだ!」
ルカが良い笑顔になった。
「だが一つ大事なことが抜けてるぜ。エントランス入り口ってのは、出口にもなるっつーことだ!」
ルカはワニ似の四本指の足でずしずしと歩き、自信を持って出入口の扉に手をかけた。──開かない。
「鍵がかかってるみたいだね」
ダンが気まずそうに口元に手を遣った。
ㅤそれって、だいぶまずいんじゃ……?とエマは不安に駆られた。
「あぁ〜…、だ、大丈夫!まだ方法はあるよ。」
エマは無理筋で励ますと、受付カウンターの内線電話を掴み取った。
「あー、ハロー?どなたか、いますかぁ?」
あれこれボタンを試しても、そもそも電気が通っていないようで、何を押してもうんともすんとも音が鳴らない。「…………」エマは受話器を置いた。
「大丈夫、大丈夫。探せば鍵は出てくるかも。いつかは出てくるよ、いつかは……、」
エマは受付カウンターの引き出しを開けに開けたが、印象に残らないポスターしか出てこない。「ああもう……」
ㅤそのとき、ルカの手が彼女の顔の近くを掠めた。
「……?」
ㅤ彼は、カウンターに置かれていた職員暇潰し用の新聞を手に取って眺め、やがて目を細めた。
「やっぱりここ、合集国なんだな」
彼はどことなく平坦な表情で言った。
「本当っ?」心底明るい声が出た。
「おう。これ合集国の新聞社だろ。書かれてるニュースも出てくる場所も全部そう」
「よ、良かったぁ……!」
エマの頬が緩んだ。それなら幾らか帰りやすい、あとは州が同じか近ければ最高だ、と考えていた。
「エマは合集国人なのか?」ルカが尋ねた。
「えっ?うん、そうだよ」
何を当たり前のことをと答えたとき、エマにはおやと疑問が湧いた。
「キミは……?」
「オレは……いや……そうだったら説明がつかないんだよな」
ルカは顎に手を当てて独り言を呟いた。
ㅤ彼は瞬きをした。瞼にまでついた鱗が、微かに金色を帯びてアイシャドウに似ている。
「オレは……そうだ……、連邦だ」
彼は知的な心地よさを覚えた様子で口の片方の端で笑って、それから二人に弾けるような明るい笑顔を向けた。
「っはは、やっと疑問が解けたぜ!なんかおかしいと思ってたんだよ、二人ともずっと外国語で喋ってるし!」
ルカ: 記憶のカケラ【故郷】獲得
「気づかなかった……、」
ㅤエマはルカを見つめた。彼女よりすこし背が低く、肉づきが悪いせいでタンクトップが肩から落ちかけている。薄暗い空間でも金髪は光ろうとし、日光をあまり浴びていない色白の肌は青っぽく見えた。エマは、ルカが目を覚まして最初に叫んだ言葉を思い出す。全く聞き取れなくて流してしまったが、あれが連邦語だったのかもしれないと思い至った。今 彼が話している私たちの言葉は母音の発音に多少癖があって、話し慣れていない様子だ。
ㅤつづいてエマは口元を覆った。
「じゃあ、ルカはどうやって帰るの……!?ねぇ、私にとっては幸運だったけど、彼にとっては全然そうじゃない」
彼は軽く受け流した。
「んなことないぜ。なんか知らねーけど、行きはタダで海外旅行できるんだから。ここを脱出さえできりゃあ、観光し放題だ」
「それなら泊まってってよ……」
心配で堪らない、と思った。エマにも分かっていた。彼は、姉妹に気を遣わせないために楽観的な展望を嘯いてくれているだけだ。実際には彼の置かれた状況は他二人より悪いし、一度も改善していない。
ㅤふとエマはダンに意識を向けた。
「はっ、ダンは!?ダンはどこから来たの!?」
「え、僕?全然、新ジャージー州だけど……」
ダンは黒髪を揺らす。その地名に、記憶がバチ、と反応を起こした。具体的なことを何も思い出せないが……その地名に何らかの形で関係していたことを直感した。絶対にこの地名を聞いたことがあった。
「私と同じかもしれない。凄い偶然だ、」
言葉に力がこもるあまり、エマは翼がバサリと動いてしまった。ルカがへらりと笑う。
「当たり前すぎて気付かないだけで、覚えてることもあるもんだな」
「!」
ㅤエマはこのとき、脱出ばかりを急いで追わずとも、情報収集もまた重要だと認識し始めた。実のところ、ものの見方を変えればそこらじゅうが己の状況を知る手がかりだらけだ。
ㅤ彼女は受付カウンターの卓上カレンダーを手に取った。この場所が今通常通りに運営されていないのは誰の目にも明らかだが、このカレンダーは少なくとも──受付の担当者が真面目な性格なら──植物園がまともに運営されていた最後の月を示しているはずだ。
「え……」
ㅤカレンダーは2155年12月を示していた。
「ま、待って。待って待って。そんなに時間、経ってるっけ、」
我々の主人公はまだこのことが信じられず、ルカが持つ新聞に片手を添えて、上部の端にプリントされた日付を確認した。同じ2155年12月だ。
「嘘でしょ……?」
自分が何年を生きていたのか明確には覚えていないが、ここまで経っていなかったのは確かだった。
〈狂気判定〉
エマ: 5 失敗 ルカへの友情 ●●●〇
ダン: 8 成功
ルカ: 6 成功
ㅤエマ同様に新聞の日付を読んだルカが、表情を暗くした。
「訳分かんねぇ……。一晩二晩じゃねー、一体何年 意識を失ってた?」
ㅤエマは再び己の善性を発揮した。そうだ、ルカが不憫だ。一人だけ全くの異国に置いていかれてしまった。家族やクラスメートは長らく帰りを待っているはずなのに、身の回りに頼る術もない。こんな状況で、私は友達として彼の力になれていないなんて。エマは落ち着かなくて三つ編みを撫でた。
ㅤダンは肩を竦めた。
「もう……、何が来ても驚かない気分」
コツコツとダンのヒールの足音が聞こえる。顔を上げると、彼は壁に設置された地図を指し示していた。
「エマ。エマ?こ、これ、園内の案内図。地下に園長室があるみたいだけど、良かったら……行ってみない?」
ㅤはっとしたエマは会話に戻った。
「凄いアイデアだね!そこなら鍵も置いてありそう」
「お、鍵があんのか?」
「ううん、分からないよ。私があると思ってるだけ」
「いや、エマがそう言うならオレは信じる。行ってみようぜ、」
ㅤちらりと横目を掠めた非常口案内は明かりすら壊れていた。