戦の熱気が冷めやらぬ山陽の地から、中華の中心たる秦の首都・咸陽へ。
麃公軍の若き将、麃修が足を踏み入れたのは、鉄と血の臭いが漂う戦場とは対極にある、絢爛豪華な後宮であった。
事の始まりは数日前に遡る。
山陽攻略を終え、当面は大きな遠征の予定もない麃公軍。その本陣で、修は父である麃公と酒を酌み交わしていた。
そこへ、同世代の将である信が息を切らして飛び込んできたのである。
「修! 頼む、お前の力を貸してくれ!」
「なんだよ、いきなり。酒がまずくなるだろ」
「そんなこと言ってる場合じゃねえんだよ!」
信は一息に事情を説明した。
秦王・嬴政は、相国である呂不韋と激しく対立している。宮廷内の勢力争いは後宮にも及びかねず、王の妃たちを守るためにも、信頼できる護衛が必要だという。
「政の奴は今、宮廷で呂不韋の野郎とやり合ってる。後宮に毒だの刺客だのを送り込まれたら厄介だ。お前なら絶対に裏切らねえし、腕も立つ。親父さん譲りで強い上に、俺と違って頭も回るだろ!たまにアホだが」
「おい、最後の一言は余計だろ」
「頼むって! 当分戦もねえんだろ? 次の出陣まで後宮の護衛を引き受けてくれ!」
信の言葉に、修は腕を組んだ。
後宮の警護。
戦場で敵と刃を交えるのとは勝手が違う。相手は兵士だけとは限らない。毒、密告、謀略。目に見えない敵が多い場所だ。
面倒な仕事であることは間違いない。
だが、嬴政が置かれている状況を考えれば、断る理由もなかった。
「分かった。次の戦までなら引き受けてやる」
「助かるぜ、修!」
「ただし、俺を後宮に押し込んだ責任はお前にもあるからな。何かあったら覚えてろよ」
「お、おう!」
そうして修は、期間限定で後宮の警護を務めることになった。
甲冑を解き、黒を基調とした上質な着物に身を包んだ修は、後宮の庭園を歩いていた。
整えられた植え込みに、手入れの行き届いた池。色鮮やかな花々が咲き誇り、どこを見ても贅を尽くした造りである。
しかし、修の目には美しい景色よりも、そこに潜む人の気配の方が気になった。
(……妙な場所だな)
戦場ならば、敵意を持つ者は分かりやすい。殺気を放ち、武器を構え、こちらの命を狙ってくる。
だが、ここでは違う。
笑顔の裏に悪意を隠し、何気ない会話の中に毒を仕込む。誰が敵で、誰が味方なのかも分からない。
(戦場なら敵の首を跳ね飛ばせば終わりだが、ここは目に見えねえ毒やら陰謀やらが渦巻いてやがる。空気の淀みがハンパじゃねえぞ)
そんなことを考えながら歩いていた時だった。
腐葉土の臭いと、微かに鼻を突く青臭い薬草の匂い。
そして、庭園の奥深く、鬱蒼と茂る樹木の影から漂う――戦場の殺気とはまったく異なる、妙に歪んだ「狂気」の気配。
修は足を止めた。
庭園の奥、木々の陰に何者かの気配がある。
(……誰かいるな)
足音を殺して近づく。
茂みの向こうにいたのは、一人の小柄な少女だった。
少女は地面にしゃがみ込み、倒木に生えた斑点模様の茸をじっと眺めていた。傍らには竹籠が置かれ、その中には何種類かの草や茸が入っている。
「……ひひ、ありましたよ。こんな貴重な猛毒キノコが、こんな手入れの行き届いた庭の隅に眠っていたなんて。これを乾燥させて粉末にして、あの毒草の根と混ぜれば……ふふ、どんな症状が出るか……」
気味の悪い笑みを浮かべ、うっとりとキノコを見つめる少女。
修は呆れ果て、頭を掻きむしりながら声をかけた。
「おい、そこのでけえ面の娘。何やってんだお前? 後宮の庭でそんな気味の悪いモン拾って、毒殺の準備でもしてんのか?」
「ひゃっ」
少女が肩を跳ねさせた。
振り返った顔は、痩せていて、目立った特徴もない。後宮にいる侍女の中に紛れれば、すぐに見失いそうな容姿だった。
変な声を上げて跳び上がったのは、つい最近、人さらいの集団に拐われてこの後宮へ売り飛ばされた下女――猫猫(マオマオ)であった。
猫猫は慌てて懐にキノコを隠し、即座に死んだような無表情を作ると、深々と頭を下げた。
「これは、護衛の方。私は庭の手入れを少々」
「庭の手入れねえ。そいつは随分と変わった手入れだな」
修は少女の籠を指差した。
「その茸、毒があるんじゃねえのか?だいたい、お前……その手に持ってる草、トリカブトの類じゃねえか。なんでそんなヤバいモン見て頬を赤らめてんだよ」
「……さあ。どうでしょう」
「さっき、毒性がどうとか言ってただろ」
「聞き間違いでは?」
「俺の耳はそんなに悪くねえぞ」
少女は答えず、籠を自分の背後へと隠した。
その動作を見て、修はますます怪しんだ。
「お前、名前は?」
「猫猫と申します。ただの下女です」
「猫猫か。俺は麃修。麃公軍の将だ。訳あって、しばらくここを警護することになった」
「それはご苦労さまです」
猫猫は冷や汗を流しながら、目の前に立つ男を観察した。
身につけている衣服の質、そして何より全身から溢れ出る圧倒的な圧迫感と覇気。後宮によくいる軟派な飾りの護衛ではない。修羅場を幾度も潜り抜けてきた、本物の「戦客」の匂いだ。
武人というものは、花街にも時折やって来た。だが、この男から感じる圧迫感は別物だった。
(チッ……面倒な奴に見つかったな。なんなんだこの威圧感は。軍の偉いさんのドラ息子か? 突っ込まれる前にさっさとズラかるか……)
心の中で吐き捨てながら、猫猫は静かに後退りしようとする。
「では、私はこれで」
「待てよ。」
修が軽々と手を伸ばし、猫猫の衿首をひょいと掴み上げた。子猫のように吊り上げられた猫猫は、無表情のまま足をパタパタと動かす。
「逃がさねえよ。お前、さっきの身のこなしといい、薬草に対する目つきといい、ただの下女じゃねえ
「……ただの薬師の娘でございます。拐かされてここに売られただけの、害のない平民ですよ」
「へえ、薬師ねえ」
修の瞳の奥に、知将らしいギラリとした光が宿った。
後宮は今、政派閥と呂不韋派閥の暗闘の真っただ中。見えない毒や暗殺の手口を警戒していた修にとって、毒や薬に異常なほど詳しいこの少女の存在は、思わぬ「拾い物」に思えた。
「なあ、薬師の娘。お前、毒が好きなのか?」
「……好き、と言いますか。知識として嗜む程度で」
「嘘つけ、さっきヨダレ垂らしそうだったろ。」
修は少し考え込んだ。
後宮では、これから何が起きるか分からない。毒を使った暗殺など、十分にあり得る話だ。
そんな場所で、薬や毒に詳しい人間がいるのは心強い。
修は猫猫を地面に降ろすと、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。その顔は、父である麃公将軍が戦場で敵の首を狙う時の顔にどこか似ていた。
「よしならお前、俺に協力しろ」
「お断りします」
即答だった。
「まだ何も説明してねえぞ」
「説明されるまでもありません。面倒事の気配がしますので」
「お前な……」
猫猫は籠を抱え直した。
「私はただの下女です。後宮の政治抗争だの、権力者様の腹ぐろい化かし合いだのに首を突っ込んで、首と胴体がサヨナラするのはまっぴら御免でございます。どうか私のような下衆はお見逃しいただき、優秀な御医者様でもお呼びになってください」
その言葉には、妙な説得力があった。
実際、猫猫は後宮で目立つことを避けている。人さらいに攫われ、売り飛ばされてここへ来た身だ。これ以上、面倒なことに巻き込まれるのは御免だった。
(だいたい、なんで私がそんな命がけの面倒事に付き合わなきゃいけないんですか。このゴツい将校、見た目はまあ整ってる方かもしれないが、中身は完全に脳筋の野蛮人ですよ。関わったらろくなことがないです)
すげなく背を向けようとする猫猫。修はそんな猫猫の様子を眺めていたが、ふと思いついたように懐へ手を入れた。
「では、失礼します」
「ふーん……そうか。残念だなあ。俺の親父……大将軍・麃公の軍が、この前の山陽の戦のついでに南蛮の商人から買い叩いた『激稀少な毒蜘蛛の乾燥標本』と、楚の国境近くの秘境にしか生えないという『触れただけで全身が痺れて激痛が走る極上の麻酔草の種』、お前にやろうと思ったんだがなあ……」
猫猫の足が止まった。
ゆっくりと首だけを修の方へ向ける。その瞳は、先ほどまでの死んだような光とは一変し、まるで飢えた野獣のように爛々と輝いていた。
「……いま、何とおっしゃいましたか?」
「ん? だから、南蛮の珍しい毒蜘蛛と、楚の秘境の麻酔草の種。麃家の権力と金のパイプを使えば、こんなモンいくらでも手に入るんだがなー。興味ねえなら、そこらのドブにでも捨てるか――」
「捨てたら殺しますよ」
猫猫の口から、低く鋭い、ドスの効いた声が漏れ出た。
普段の大人しい敬語はどこへやら、花街の修羅場で培われた素の「恫喝」が顔を出す。
「……ゴホン。失礼いたしました。修様とおっしゃいましたね?」
「……お話を伺いましょう」
「お、興味が出たか?」
「いえ。あくまで薬学の知識を持つ者として、貴重な品を無駄にしないためですですから、その毒蜘蛛と麻酔草の種、今すぐ私に検分させていただけますね?」
修は声を上げて笑った。
「ハハハ! 分かりやすい奴だな!。よし、交渉成立だ」
「ただし、危険な仕事はお断りします」
「そりゃ内容次第だな」
「……先に条件を決めておくべきでした」
猫猫は小さく息を吐いた。
こうして、麃公軍の若き将・麃修と、薬と毒に詳しい下女・猫猫の奇妙な縁が始まったのである。
aiと一緒に書いてるので違和感とかあるかもしれませんがよろしくお願いします