猫猫と知り合ってから、数日が経った。
麃修は後宮の警護という仕事にも、少しずつ慣れ始めていた。
もっとも、慣れたといっても、ここでの仕事が楽になったわけではない。
戦場ならば敵の位置も、兵の数も、ある程度は目で見て判断できる。だが後宮では、誰が味方で誰が敵なのか、それすら定かではない。
女たちの笑顔の裏に隠された思惑。侍女たちの間で交わされる噂話。些細な言葉一つが、後宮では大きな意味を持つこともある。
「……チッ、やっぱり慣れねえな。歩いてるだけで女どもの視線が突き刺さる」
大将軍・麃公(ひょうこう)の血を引く修の威容は、どれほど身なりを整えても隠せるものではない。背丈の高さと引き締まった体躯、そして何より瞳の奥に宿る野生の鋭さは、軟派な後宮護衛たちの中で異彩を放ちすぎていた。
修は廊下を歩きながら、そんなことを考えていた。
そんな修の前に、無表情で薬草の入った竹籠を抱えた小柄な少女が通りかかる。
「おや、修様。今日も後宮の蝶々さんたちに囲まれてモテモテでございますね」
「てめえ、猫猫(マオマオ)。軽口叩いてんじゃねえぞ。南蛮の毒蜘蛛の標本、早く拝みたかったらもうちょっと愛想良くできねえのか?」
「仕事に愛想は不要でございます。それより、あの蜘蛛の足を解剖する道具をどこで調達するかで頭がいっぱいなもので」
淡々と言い放つ猫猫の頭には、権力争いも色恋沙汰も微塵もない。修は呆れ半分、感心半分で頭を掻いた。
この数日で分かったことがある。
猫猫は必要なこと以外、あまり話さない。人付き合いも得意ではないらしく、誰かに話しかけられても最低限の返事しかしない。
ただし、薬草や毒の話になると少しだけ様子が変わる。
先日、修が軍の薬師に頼んで見せた珍しい植物の標本を前にした時など、普段の無表情を崩さないまま、食い入るように観察していた。
あれはあれで、なかなか面白い顔だった。
「今日は玉葉妃様の宮へ行くぞ」
「玉葉妃様?」
「嬴政様の妃の一人だ。後宮にいる間、挨拶くらいはしておけって言われてな」
「なるほど」
「お前も一緒に来い」
「私は下女ですが」
「薬に詳しい下女だろ。何かあった時に役立つかもしれねえ」
「何も起こらないことを願っています」
「そうだな」
修はそう答えたが、内心では少し違うことを考えていた。
この後宮で何も起こらないということは、まずないだろう。
玉葉妃の住まう宮は、後宮の中でもひときわ華やかだった。
庭には色とりどりの花が植えられ、宮の中からは女官たちの穏やかな声が聞こえてくる。
修が案内されて室内へ入ると、そこには一人の美しい女性が座っていた。
赤みを帯びた髪に、柔らかな笑み。
秦王・嬴政の妃、玉葉である。
「まあ、あなたが麃公将軍のご子息、麃修様ね。お噂は伺っているわ」
玉葉妃は穏やかに微笑んだ。
「麃修と申します。しばらくの間、後宮の警護を務めさせていただきます」
「そんなに堅くならなくてもいいのよ。ここでは戦場のように肩に力を入れなくても大丈夫だから」
「ははっ、そう言われましても、これが性分なもので」
「ふふ。麃公将軍に似ているのかしら」
「よく言われます」
玉葉妃は楽しそうに笑った。
そして、修の後ろに控える猫猫へ視線を向ける。
「あら、その子は?」
「猫猫と申します。薬草や毒に詳しいと聞いて、俺が協力を頼んでいる下女です」
「猫猫……」
玉葉妃は少し考えるように彼女を見つめた。
「あなたが猫猫なのね。噂は聞いているわ」
「……どのような噂でしょうか」
「庭で珍しい草を見つけては、熱心に調べているとか。侍女たちの間でも、少し話題になっているのよ」
「それは……あまり広めていただきたくない話です」
猫猫は表情を変えずに答えた。
玉葉妃はくすりと笑う。
「面白い子ね。修殿、あなたも大変でしょう?」
「ええ、まあ。目を離すと毒草を探しにどこかへ行っちまうんで」
「失礼ですね。必要なものを採取しているだけです」
「それを毒草って言うんだ」
二人のやり取りに、玉葉妃は楽しそうに目を細めた。
「なんだか二人のやり取りを見ていると微笑ましいわね」
「微笑ましいだなんて滅相もございません、妃殿下。私はただ、修様から珍しい毒草を巻き上げるために従っているだけでございます」
「お前な、妃殿下の前で『巻き上げる』とか言うんじゃねえよ!」
修の荒々しいツッコミに、玉葉妃はさらに笑みを深めるのだった。
玉葉妃はそんな二人を見て、柔らかな笑みを浮かべた。
「後宮は窮屈な場所でしょうけれど、何か困ったことがあれば私にも相談してちょうだい。あなたたちが安心して過ごせるようにしたいもの」
その言葉には、妃としての立場だけでなく、一人の人間としての優しさが感じられた。
修は自然と背筋を伸ばした。
「ありがとうございます。必ずお守りいたします」
◇
玉葉妃の宮を辞した後、修は後宮の案内を兼ねて別の宮へ向かうことになった。
そこに住まうのは、もう一人の妃、梨花妃である。
梨花妃は玉葉妃とは対照的に、落ち着いた気品を持つ女性だった。
表情は穏やかで、言葉遣いも丁寧。しかし、その目には妃としての誇りと、簡単には揺るがない意志が宿っている。
「麃公将軍のご子息が護衛に来られたと聞いております」
「麃修です。しばらくの間、警護を務めさせていただきます」
「頼もしいことです。後宮は外の世界とは違います。どうか、こちらの事情も少しずつ知っていただければと思います」
「心得ております」
梨花妃は一度頷き、修の後ろにいる猫猫へ目を向けた。
「そちらの娘は?」
「猫猫です。薬に詳しいので、俺の仕事を手伝ってもらっています」
「薬に?」
「はい。多少の知識があるだけでございます」
猫猫は控えめに頭を下げた。
梨花妃は猫猫をしばらく見つめていたが、やがて静かに口を開いた。
「実は、少し相談したいことがあるのです」
「何でしょうか」
修が尋ねると、梨花妃の表情がわずかに曇った。
「ここ数日、私の宮に仕える侍女たちが、食事の後に体調を崩すことが続いております」
「体調を?」
「腹痛や吐き気を訴える者が何人か。今のところ命に別状はありませんが、同じような症状が続いているのです」
修の目が鋭くなる。
「食事に何か盛られた可能性は?」
「それも考えました。ですが、私自身は何ともありませんし、同じ食事を口にした者でも症状が出ない者がおります」
「ふむ……」
修は考え込んだ。
食事に毒が盛られたのなら、口にした者が同じように倒れるとは限らない。量の違いや体質による差もある。
しかし、後宮で同じ症状が続いているとなれば、偶然とは考えにくい。
「猫猫」
「はい」
「見てくれるか?」
「分かりました。患者の方々に話を聞かせてください」
猫猫はすぐに答えた。
その声には、先ほどまでの気だるさはない。
梨花妃の宮の一室。
そこには、体調を崩した侍女が二人休んでいた。
猫猫はまず、彼女たちの顔色や唇の色、呼吸の様子を確かめた。
続いて、腹部の痛みがどの辺りにあるのか、吐き気がいつから始まったのかを尋ねていく。
「症状が出たのはいつ頃ですか?」
「食事を終えて、しばらくしてからです」
「食べたものは?」
「いつもと同じです。粥と野菜、それから果物を少し」
「果物?」
猫猫の目がわずかに動いた。
「何を食べましたか?」
「梨です。甘くて、とても美味しかったので」
「梨を食べたのは、あなた一人ですか?」
「いえ。他の者も食べていました」
猫猫はもう一人の侍女へ視線を向ける。
「あなたも梨を?」
「はい。ただ、私は少しだけでした」
「それで、症状は?」
「私も腹痛がありました。ですが、もう落ち着いています」
猫猫は小さく頷いた。
次に、同じ食事をしたにもかかわらず症状が出なかった侍女にも話を聞く。
食事の内容はほとんど同じ。違いがあるとすれば、果物を食べたかどうかだった。
「梨を食べなかった方は、具合が悪くなっていないのですね」
「はい。私は甘いものが苦手で、果物には手をつけませんでした」
猫猫は黙り込んだ。
修はその様子を見ていた。
「何か分かったのか?」
「まだです」
猫猫はそう答え、食事を運んだ侍女を呼ぶよう頼んだ。
やがて、盆を運んだ侍女が部屋へ入ってくる。
猫猫は食事の準備について、細かく質問した。
梨を切ったのは誰か。皿に盛りつけたのは誰か。果物を運んだのは誰か。
そして、食事を出すまでに何か変わったことはなかったか。
「特には……」
侍女は困ったように答えた。
「いつも通りに準備いたしました。ただ、配膳の前に別の侍女が手伝おうとしてくれました」
「別の侍女?」
修が口を挟んだ。
「はい。ですが、私一人で運べる量でしたので、お断りしました」
「その者は誰だ?」
「名前は存じています。後ほど確認いたします」
修は頷いた。
「分かった。そいつのこと調べておいてくれ」
猫猫は侍女の話を聞き終えると、静かに立ち上がった。
迷いのない足取りで調理場へと向かった。修もその後を追う。
調理場へ向かう途中、修は猫猫に尋ねた。
「梨が原因だと思うのか?」
「可能性は高いと思います」
「毒か?」
「まだ分かりません。ただ、同じ食事をした者の中で、梨を食べた者だけが症状を訴えているのであれば、まずはそこを調べるべきでしょう」
「毒なら、誰かが意図的に盛ったことになる」
「そうとは限りません。保存状態が悪かった可能性もありますし、食べ合わせの問題かもしれません」
「なるほどな」
修は頷いた。
猫猫の言葉には無駄がない。
最初から毒と決めつけるのではなく、考えられる可能性を一つずつ潰している。
戦場で敵の動きを読むのとは違う。
だが、目の前にある情報から答えを導き出すという点では、似ている部分もある。
調理場に着くと、猫猫は梨を保管していた場所を調べた。
残っていた梨を一つ手に取り、表面を確かめる。
「……やはり」
「何か分かったのか、猫猫?」
「ええ。梨の皮の表面に、不自然な粉末が付着しています。これを口にしたことで腹痛と吐き気が出たのでしょう」
猫猫は梨を鼻先へ近づけた。
そして、ほんのわずかに眉を寄せる。
「これは……」
「毒か?」
「断定はできません。ですが、自然についたものではなさそうです」
猫猫は梨の表面を少しだけ削り、紙に包んだ。
「これを持ち帰って調べます」
修は梨を見つめた。
「誰かが毒を塗ったってことか」
「その可能性があります」
猫猫の観察力に驚きつつ、修もまた己の武人としての経験と観察眼を動かした。侍女たちや調理場の者に手早く聞き込みを行う。
「おい、今日この調理場に梨を運び込んだのは誰だ? 配膳を手伝おうとした奴はいなかったか?」
修の威圧感に気圧されながら、調理係の男が答える。
「あ、はい……配膳の直前、見慣れない侍女が一人手伝いを申し出てくれて……そういえば、その者の着物の袖に、色鮮やかな『赤い刺繍』が入っていたのを覚えています」
「赤い刺繍の袖、か……」
修は腕を組み、本能型のカンを働かせる。
(刺客というよりは、裏でコソコソ動く陰湿な手口……呂不韋の息がかかった者の工作か、あるいは後宮内の妃同士の嫌がらせか……)
その日の夕刻。
修は梨を運んだ侍女から、もう一度話を聞いていた。
猫猫の調査と並行して、現場に関わった者の動きを確認するためである。
「配膳を手伝おうとした侍女の名前は?」
「はい。確か、李という者です」
「その者は普段から調理場に出入りしているのか?」
「いえ。普段は梨花妃様のお部屋の掃除などを担当しております」
「その日に限って手伝おうとした理由は?」
「そこまでは……」
修は侍女の顔を見つめた。
嘘をついている様子はない。
しかし、何かを思い出そうとしているようにも見えた。
「何か気になることがあったんじゃねえのか?」
「そういえば……その日、李という侍女は、袖口を気にしていたように思います」
「袖口?」
「はい。赤い刺繍の入った袖だったと思います」
修の目が細くなる。
「赤い刺繍か」
「ただ、それが何か関係あるのかは分かりません」
「いや、十分な手がかりだ。助かった」
修は侍女を下がらせた。
(赤い刺繍……。調理場に出入りしてた女と同じか)
偶然か、それとも何かの目印か。
まだ分からない。
だが、こうした小さな情報が事件の糸口になることもある。
修はそのことをよく知っていた。
戦場でも、勝敗を分けるのは時に些細な違和感だった。
夜。
猫猫は自室で、昼間に採取した梨の表面の粉を調べていた。
少量を器に移し、別の薬液と合わせる。
しばらく観察していた猫猫は、静かに息を吐いた。
「……なるほど」
粉末には、腹痛や吐き気を引き起こす作用を持つ成分が含まれているようだった。
致死性は高くない。
だが、食べた者の体調を崩すには十分な量である。
猫猫は紙に結果を書き留めた。
(殺すつもりなら、もっと別の方法がある。わざわざ体調を崩す程度の毒を使ったのは、何か目的があるのだろうか)
梨花妃の宮に仕える侍女たちを病気にする。
それによって得をする者がいるのか。
あるいは、梨花妃自身を疑わせるためか。
考えられることはいくつもある。
猫猫は筆を置いた。
(面倒なことになりそうだ)
その時、戸の向こうから声がした。
「猫猫、いるか?」
修だった。
「どうぞ」
修が入ってくると、猫猫は調べた結果を伝えた。
「梨の表面から、腹痛や吐き気を引き起こす成分が見つかりました。おそらく、誰かが意図的に付着させたものです」
「やっぱり毒だったか」
「ええ。ただし、量はそれほど多くありません。命を奪うことが目的ではないでしょう」
「死なねえ毒、だと?」
「ええ。もし本気で梨花妃様や侍女たちを殺す気なら、もっと確実で即効性のある毒を使います。つまり……今回の毒の目的は『殺害』ではなく、梨花妃様の宮を混乱させ、体調不良を引き起こして体面を失わせること……あるいは、何か別の本命の工作から目を逸らすための『陽動』である可能性もあります」
猫猫は紙を差し出した。
「こちらが調べた結果です。詳しいことは、もう少し調べる必要があります」
修は紙を受け取った。
文字を追いながら、少し驚いたように猫猫を見た。
「……お前、これだけで分かったのか?」
「これだけではありません。患者の症状、食べたもの、食べた量、梨の状態。それらを合わせて考えただけです」
「簡単に言うなよ」
「難しいことはしていません」
猫猫は何でもないように答えた。
しかし、修は違った。
昼間のやり取りを思い返す。
猫猫は最初から毒と決めつけなかった。患者一人一人に話を聞き、共通点を探し、食事の内容を調べた。
そして、他の者が気にも留めなかった梨に目をつけた。
自分ならば、まず誰が怪しいかを探していただろう。
だが猫猫は、誰が犯人かを考える前に、何が起きたのかを突き止めたのだ。
(こいつ……ただ薬に詳しいだけじゃねえな)
修は初めて、猫猫という少女の本当の能力を理解した。
戦場であれば、敵の陣形や兵の動きを見て勝機を探る。
猫猫は、人の身体に現れた小さな変化から、目に見えない毒の存在を見抜く。武力も威圧感もないが、この狭い後宮という戦場において、猫猫の観察力と推理力はどんな猛者にも勝る強力な武器だ。
「猫猫」
「はい」
「お前、すげえな」
猫猫は小さく息を吐いた。
「仕事ですので。……それより修様、報酬の約束をお忘れなきよう」
「わかってるよ! お前は本当に花気(色気)もへったくれもねえな!」
「それと、今回の毒について、もう少し調べたいことがあります」
「何だ?」
「この成分を使った理由です。殺すためではないのなら、何か別の目的があるはずです」
修は頷いた。
「分かった。俺の方でも調べてみる」
「お願いします」
猫猫は再び紙に目を落とした。
だが、事件はまだ終わっていなかった。
「赤い刺繍の袖を持つ侍女」が一体誰なのか、そして誰の命を受けて毒を仕込んだのか――真犯人とその真の動機は、闇の中に包まれたままだ。
部屋の机の前で、猫猫が梨の表面についた毒の粉末を愛おしそうに見つめ、指を舐めようと口元へ運ぼうとした、その瞬間。
ガシッ、と修の大きな手が猫猫の首根っこを掴み上げた。
「……お前な、今何を考えた?」
「ひゃい!? い、いえ、ほんの少し試すだけでどんな刺激が来るか試してみようかと……」
「試すんじゃねえよイカレ女! 自殺志願者かてめえは!」
「毒味は薬師の嗜みでございます!」
「屁理屈こいてんじゃねえ!ガキか手前は没収だ没収!」
修は猫猫の額を指でバシッと弾き、梨を懐深くに押し込んだ。
額を押さえて「うう……私の毒梨が……」と本気で悔しがっている猫猫を見て、修は「本物のバカかコイツは……」と頭を抱えた。
首をつままれてパタパタとあがく猫猫を呆れ顔で見下ろしながら、修の心境は確実に変化していた。
最初は「信に頼まれたから」「毒や薬に詳しい便利そうな奴だから」という程度で連れ回していたが、違う。
この後宮という陰謀の毒が渦巻く暗闇を生き抜き、政(嬴政)の陣営を守り抜くためには――この毒狂いの少女の力が絶対に不可欠だ、と。
「おい、猫猫。事件の続きを追うぞ。あの『赤い刺繍の侍女』を炙り出す」
「えー……めんどくさいです……」
「南蛮の毒蜘蛛に加えて、楚の珍しい毒草の種も追加してやる」
「……お任せください、修様。根こそぎ調べ上げましょう」
手のひらを返した猫猫の目が爛々と輝く。
猫猫と主人公の初めての事件、クロスオーバーなので少し妃達の登場の仕方とか原作と違うのはご勘弁お願いします。