麃家の若獅子と後宮の猫   作:俺は鳥頭ではない

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第三話 赤い刺繍と毒の痕跡

翌日の朝

翡翠宮の裏手にある鬱蒼とした庭園。

木漏れ日が差し込む木かげで、修は腕を組みながら、足元で目を輝かせる小柄な少女を見下ろしていた。

 

「……なあ、猫猫。お前、さっきから何の手を伸ばしてんだ?」

 

「修様、何を仰いますか。あの梨の表面についていた珍しい毒の粉末……ほんの少しでいいので、私の爪の先に分けてはいただけないでしょうか。あの成分からして、皮膚に直接擦り込めばどのような強烈な痒みと痺れが襲ってくるのか、想像するだけで夜も眠れません」

 

「寝ろよ! あと絶対ダメだ! お前はちょっと目を離すとすぐ自分を実験台にしようとするな!」

 

修は呆れ果てて頭を抱えた。

梨花妃(りふぁひ)の宮で起きた「梨への毒物混入事件」。致死性のない遅効性の毒を使って宮中を混乱させた犯人の狙いが「陽動」であると見抜いたまでは良かったが、この薬師の少女は事件の重大さよりも毒の成分そのものに夢中になっていた。

 

「ちぇっ……ケチですね。私はただ、自分の体で毒性を正確に測定しようという高尚な探究心から……」

 

「それを世間じゃ『イカレた自殺志願』って言うんだよ! いいから頭冷やせ!」

 

修の荒々しいツッコミが静かな庭園に響く。

しかし、ひとしきり呆れた後、修の表情から冗談めいた色が消え、大将軍の血を引く「知将」としての鋭い眼光が戻った。

 

「雑談はここまでだ。……行くぞ猫猫。事件はまだ終わっちゃいねえ。『赤い刺繍の袖』を持つ侍女の首根っこ、引っ掴みに行く」

 

「……はあ、承知いたしました。まあ、約束の報酬(楚の珍しい毒草)が上乗せされるなら、お供いたしますよ」

 

猫猫は面倒くさそうに溜息をつきつつも、その瞳の奥には冷徹な観察者の光を宿していた。

二人はまず、犯人を特定するための捜査に取りかかった。

 

「それで、修様は何を調べていらっしゃるのですか?」

 猫猫が尋ねる。

「犯人だよ。お前の話じゃ、毒を仕込んだ奴は騒ぎを起こすのが目的だったんだろ?」

「はい」

「だったら、毒を仕込める場所と時間を調べればいい。戦場と同じだ。敵がどこから入り、どこへ抜けたか。それを考えりゃ、ある程度は絞れる」

 

 修は懐から折り畳んだ紙を取り出した。

 そこには、水晶宮周辺の簡単な見取り図が描かれていた。

 出入り口、調理場、物品庫、侍女たちの居住区。

 そして、いくつかの場所に印が付けられている。

「……これは?」 

 

「後宮の見取り図だ。警備兵に頼んで調べてもらった出入りの記録と、配膳に関わった奴らの動きをまとめた」

 猫猫は紙を覗き込んだ。

 思った以上に細かい。

 

「随分と几帳面ですね」

「戦場じゃ地形を知らねえ奴から死ぬ。ここでも同じだろ」

「後宮で死ぬのは、敵の矢ではなく毒や陰謀でしょうけど」

「だから面倒なんだよ」

 

修のアプローチは、戦場で敵の布陣と動線を読み解く「本能型」そのものだった。

広大な後宮の地図を頭の中に描き出し、配膳に関わる者たちの配置、巡回の手薄になる時間帯、そして事件前後に「不自然な動き」を見せた者の情報を、後宮内に配置された警備兵や下女たちから力ずく……ではなく、圧倒的な威圧感と手際の良い問診で素早く聞き出していく。

 

「申の刻前後に調理場の裏手を通った奴で、やたらと周囲を気にしてた侍女……二人目の撃証言が取れた。どちらも『着物の袖に赤い刺繍があった』と言ってる」

 

「他にも事件の前日から、ある侍女が何度も物品庫の近くをうろついていたらしい。普段は別の宮に仕えている奴だ」

「別の宮?」

「そうだ。水晶宮に用があるような立場じゃねえ。しかも、事件当日にも一度ここへ来ていた」

 猫猫は考え込む。

「それだけでは証拠として弱いですね」

「分かってる。だから、お前の方はどうだ?」

「私も一つ気になることがありまして」

 

猫猫は袖から、小さな布切れを取り出した。

 赤い糸で刺繍が施されている。

「これは事件当日、調理場の近くで見つけたものです」

 

「赤い刺繍か」

「ええ。侍女の衣服の一部が引っ掛かって、糸が残ったのでしょう」

「これだけで誰か分かるのか?」

 

「色だけでは無理です。ただこの刺繍に使われている糸、ただの赤い糸ではありません。『朱砂(しゅしゃ)』と呼ばれる、非常に高価な硫化水銀系の鉱物性染料で染められています。このような高級な糸を下給の侍女が個人的に所有できるはずがありません」

 

猫猫は指先で繊維を転がしながら、淡々と論理を展開する。

「つまり、その侍女は『朱砂の糸を支給されるほど格式の高い宮に仕えている者』、あるいは『特定の人物から手引きとしてその衣類を与えられた者』に限定されます。そして……最近、内務監を通じてその特別な朱砂の糸を支給されたのは、後宮内でたった一つの宮だけです」

「……どこだ?」

「郭妃(かくひ)様の宮……いえ、正確にはその宮の雑用を引き受けている、半月ほど前に入ったばかりの新人の侍女です」

 

修の本能的な直感による「動線と証言の特定」と、猫猫のロジカルな「現場検証と知識」。

二人の異なる才能が見事に合致し、広大な後宮の中に潜むたった一人の「赤い刺繍の侍女」の存在が、完璧に炙り出された。

修は口元を凶暴なまでに歪めてニヤリと笑った。

 

「ハッ、上等じゃねえか。完璧に繋がったな。……行くぞ、猫猫。3日以内に現場を押さえてやる」

 

翌日。

 修は後宮の警備兵から新たな報告を受けていた。

「麃修様。例の侍女ですが、今朝も物品庫の近くにいたそうです」

「今朝もか?」

「はい。どうやら何かを探しているような様子だったと」

「そうか。ご苦労」

 兵士を下がらせると、修は猫猫の方を向いた。

「どうやら当たりらしいな」

「まだ決めつけるのは早いかと」

「慎重だな」

「慎重でなければ、薬師など務まりません」

 猫猫は淡々と返した。

「それに、犯人が証拠を隠そうとしているのなら、今度こそ尻尾を掴めるかもしれません」

「よし。今夜、動くぞ」

「私は遠慮しておきます」

「何言ってんだ、お前も来るんだよ」

「なぜです?」

「毒を扱った奴が相手だ。俺だけじゃ何を持ってるか分からねえ」

「……私は護衛対象ではなく、毒の鑑定役ですか」

「そういうこった」

 猫猫は小さくため息をついた。

「分かりました。ただし、危険な場所には近づきません」

「分かってる分かってる」

 修は笑った。

 もっとも、修にとっての危険と猫猫にとっての危険には、かなりの隔たりがありそうだった。

夜。

 後宮の一角にある物品庫の裏手。

 月明かりの下、修は物陰に身を潜めていた。

 少し離れた場所には猫猫がいる。

「……来ました」

 猫猫の小さな声が聞こえた。

 暗がりから、一人の侍女が現れた。

周囲を何度も見回し、誰もいないことを確認すると、懐から小さな包みを取り出す。手に持った小さな包みを井戸の中に投げ捨てようとしていた。証拠隠滅――梨に塗った毒の残りを処分しようとしているのだ。

 

「――そこに何か落とすと、井戸の水が腐るぞ」

 

修の声が響いた。

 

頭上から響いた低い声に、侍女は悲鳴を上げて跳び上がった。

「ひっ……!」

 侍女が振り返る。

 次の瞬間、彼女は包みを投げ捨てて走り出した。

 だが、逃げ道にはすでに修が回り込んでいる。

「逃がすかよ」

「ど、どうして……!」

「こっちが聞きてえよ。夜中にこそこそ何をしてやがる?」

 侍女は逃げようとしたが、修の腕に肩を掴まれ、その場に引き止められた。

 体格の差は歴然だった。

「離してください! 私は何も……!」

「だったら、今すぐ逃げる必要もねえだろ」

 修は落ち着いた声で言った。

「おい、猫猫。こいつが持っていたものを調べてくれ」

「はい」

 猫猫は地面に落ちた包みを拾い上げた。

 中には、乾燥した草を細かく砕いた粉末が入っていた。

 猫猫は少量を紙の上に取り、匂いを確かめる。

「……やはり」

「何だ?」

「楚の国境付近で採れる野草の根粉末。梨についていたものと完全に一致します」

「う、うう……」

「言い逃れはできませんよ」

 

猫猫の声音が、一瞬で変わった。

普段の大人しく淡々とした丁寧語から、花街の泥と修羅場で培われた、相手の肉体を根元から震えあがらせるような、低くドスの効いた「恫喝」のトーンへ。

「あなた、これをどこで手に入れました?」

「知りません……!」

「そうですか」

 猫猫は静かに侍女へ近づいた。

「では、なぜこれを持っていたのでしょう?」

「私は……ただ、頼まれただけで……」

「誰に?」

「それは……」

 侍女の顔が青ざめる。

 猫猫は表情を変えなかった。

「この粉末の調合は、素人が簡単にできるものではありません。あなたが自分で作ったとは思えませんね」

「……」

「誰かに指示されたのでしょう?」

「知らない! 私は何も知らない!」

 侍女は首を振った。

修が一歩前に出る。

「おい。こっちはお前を捕まえるために、わざわざ夜まで待ってたんだ。今さら知らねえで済むと思うなよ」

猫猫は膝をつき、侍女の顔のすぐ近くまで顔を近づけた。その瞳は濁り、死んだ魚のようでありながら、どこか狂気を感じさせる冷酷さに満ちていた。

「正直に吐きなさい。……言わないなら、この包みに入っている毒粉、全部あなたの口の中に押し込んで、どんな苦しみが襲ってくるかじっくり観察していいんですよ」

「ヒッ……!? ひいいいっ! 言います! 言いますからお許しください!!」

修の物理的な威圧感と、猫猫の精神的な恐怖政治。

二人の挟み撃ちにあった侍女は、ボロボロと涙をこぼしながら自白を始めた。

「内務監の……内務監の役人様です! 『梨花妃の宮を混乱させれば、実家へ帰して金をやる』と言われて……! 私はただ、言われた通りに粉を塗って……!」

「内務監……」

修は腕を組み、苦々しく吐き捨てた。

内務監は後宮の物品や人事を管理する部署だが、その上層部はことごとく呂不韋(りょふい)派閥の息がかかっている。

政(嬴政)の陣営に属する妃たちの宮を狙い、後宮内に「不祥事」や「管理不届き」の噂を流すことで、大王派の求心力を削ごうという政治的暗闘の一環だったのだ。

「なるほどな。首謀者は呂不韋の側のタコ助どもか」

修が事件の裏にある政治的背景を瞬時に解読した、まさにその時――。

「――そこまでだ!!」

静寂を破り、十数名の後宮警備兵たちが刃を抜いて雪崩れ込んできた。

指揮を執っているのは、内務監に所属する中年の官僚だった。

「麃修殿! 後宮警護の任にある者が、下女相手に暴力を振るうとは何事か! その女の身柄は我ら内務監が預かる!」

官僚の目は泳ぎ、明らかに焦っていた。この侍女が自白する前に口封じ、あるいは連れ去ろうという腹づもりだ。

侍女は「助けて……!」と叫ぼうとしたが、官僚が背後の部下に目配せした瞬間、連れてこられた警備兵の一人が手際よく侍女の口を塞ぎ、拘束しようとする。

「ハッ、手際が良いことだな」

修は逃がさないと言わばかりに、一歩前へ踏み出した。

その瞬間、修の全身から膨れ上がった殺気と威圧感は、狭い路地の空気を物理的に押し潰すほどの圧迫感となって警備兵たちを襲った。

「ひっ……!?」

「動くな。……俺の獲物に勝手に手を出すんじゃねえよ」

修の瞳は、まるで戦場で敵陣を喰らい尽くす猛牛そのものだった。

本能型の野生が解き放たれ、並の兵士ならそれだけで足がすくんで動けなくなるほどの覇気。

だが、修は感情に任せて斬り捨てるような真似はしなかった。鋭い知性が、ここで刃を抜けば呂不韋側に口実を与えるだけだと冷たく計算していたからだ。

「おい、内務監の文官さんよ。この侍女は、梨花妃の宮に毒を仕込んだ犯人として証拠と共に押さえた。大王様直属の護衛である俺が、責任を持って政様のもとへ連れて行く。文句があるなら、呂不韋本人を連れてきな」

「くッ……! 麃公のドラ息子が……!」

官僚は歯噛みしながらも、修の放つ圧倒的な「武」の圧迫感に気圧され、それ以上手出しをすることができなかった。

事件は一応の収束を見せた。

捕らえられた侍女は政の側近へと引き渡され、内務監の裏工作を暴く貴重な手掛かりとなるはずだった。

……しかし。

その日の夜遅く、修のもとへ衝撃的な知らせが届く。

『捕らえられた侍女が、牢内で突然の急死。毒殺による口封じと思われる。また、指示を出したとされる内務監の官僚も行方をくらませた』

翡翠宮の回廊でその報告を受けた修は、壁にもたれかかりながら冷たい夜空を見上げた。

「……チッ。トカゲの尻尾切りか。手回しが早すぎやがる」

「そうですね」

修の隣で、猫猫がぽつりと呟いた。

 

「証人の侍女を殺し、指示役も消す。裏で糸を引いている人物は、相当後宮の深くまで根を張っていますよ。今回の毒入れも、ただの嫌がらせではなく……これから始まる『もっと大きな毒殺』の予行演習だったのかもしれません」

猫猫の言葉には、確かな重みがあった。

後宮という場所は、華やかな衣の裏で、常に目に見えない「毒」と「陰謀」が渦巻く戦場なのだ。

「……ふん」

修はフッと鼻で笑うと、拳を固く握りしめた。

「上等じゃねえか。戦場なら敵の全軍を叩き潰せば終わりだが、ここは追いかけっこだ。裏で糸引いてる黒幕ごと、根こそぎ引っぺがしてやるよ」

「……随分と物騒なことをおっしゃいますね」

「俺は武将だぞ」

「知っています」

 

その力強い言葉に、猫猫は呆れたように肩をすくめた。

事件の一連の報告は、梨花妃にも届けられた。

 水晶宮の一室。

 梨花妃は報告を聞き終えると、静かに目を伏せた。

「そうですか。私の宮で、そのようなことが……」

「申し訳ありません。警備に不備がありました」

 修が頭を下げる。

「いいえ。あなたの責任ではありません。むしろ、これ以上被害が出る前に見つけてくださったことに感謝します」

 梨花妃は修に穏やかな視線を向けた。

「麃公将軍のご子息と聞いておりましたが、戦場だけでなく、このような場所でも働けるのですね」

「恐縮です」

「それに、猫猫」

「はい」

「あなたにも礼を言わなくてはね。今回も助かりました」

「私は頼まれたことをしただけです」

 猫猫はいつもの調子で答える。

 梨花妃はそんな猫猫を見て、少しだけ微笑んだ。

その日の夕刻。

 修は庭園の隅で猫猫を見つけた。

 彼女は小さな包みを手に、じっと中身を眺めている。

「おい、猫猫」

「……修様」

 修から猫猫に包みを投げ渡します。

 それを受け取った猫猫が包みを少し開くと。

 中には、珍しい乾燥植物の標本が入っていた。

「今回の報酬ですか?」

「おう。約束してただろ」

 猫猫の目が、ほんのわずかに輝いた。

「……これは、なかなか」

「気に入ったか?」

「ええ。保存状態も良いです。これなら成分を調べるのにも適しています」

「そりゃよかった」

 

「ですが修様」

「あ?」

猫猫は修の顔をじと目で見つめ、手を差し出した。

「今回の事件、一応犯人の特定と自白まで漕ぎ着けましたので。……『追加の報酬』、期待しておりますよ?」

「お前な、事件が完全に解決してねえのにちゃっかり要求してんじゃねえよ!」

「約束は約束です。南蛮の毒蜘蛛の標本、足を一本ずつ解剖する許可をください」

「イカれてんのかてめえは!」

「報酬に不満を述べるのは自由でしょう?」

「まったく、ちゃっかりしてやがる」

 修は笑いながら猫猫の頭に手を伸ばした。

 わしゃわしゃと髪を撫でる。

「ちょっ、何をするのですか!」

「いや、よくやったと思ってな」

「髪が乱れます!」

「ハハハ!」

 猫猫は乱れた髪を整えながら、修を睨んだ。

 しかし、その表情には以前ほどの警戒心はなかった。

 修はそんな猫猫を見て、ふと思う。

(こいつ、見た目は地味だし、普段は妙にやる気がねえが……いざとなると頭が回る。しかも、毒や薬の知識は相当なもんだ)

 戦場では、優れた将が一人いるだけで戦況が変わることがある。

 ならば、この後宮ではどうだろう。

 目に見えない敵と戦うために、この女の知識は必要不可欠なのかもしれない。

「なあ、猫猫」

「何でしょう?」

「これからも頼むぞ」

「……報酬次第です」

「そこは少しくらい格好つけさせろよ!」

 修の笑い声が庭園に響いた。

 猫猫は呆れたように息を吐く。

 しかし、手元の包みを見つめる口元は、ほんの少しだけ緩んでいた。

 後宮での事件は、一つの決着を迎えた。

 だが、その背後にはまだ姿の見えない何者かがいる。

 そして、戦場の若獅子と毒を愛する猫は、知らぬ間にその陰謀の入り口へと足を踏み入れていた。

 ――二人の奇妙な協力関係は、まだ始まったばかりである。




二人の最初の事件の解決編です
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