後宮の空には、薄い雲が広がっていた。
昨夜の騒動が嘘のように、女官たちはいつも通り宮の廊下を行き交い、侍女たちは朝餉の支度に追われている。
しかし、修次の目には、昨日までとは違う光景に映っていた。
梨花妃の宮で起きた毒物混入事件。
その実行犯だった侍女は牢の中で死亡し、指示役とされた内務監の官僚も姿を消した。
事件は一応の決着を見たものの、肝心な部分は何一つ解決していない。
「……チッ、胸糞悪い終わり方させやがって」
修は詰所の机に広げられた報告書を睨みつけ、苛立ち紛れに腕を組んだ。戦場なら敵の首を叩き落とせば終わりだが、この宮廷の陰謀ってやつは泥沼みたいに足を取られやがる。
「修様」
気配もなくぬっと現れたのは、猫猫(マオマオ)だった。
相変わらず死んだ魚のような目をして、手には小さな包みを持っている。
「おう、猫猫か。どうした?」
「昨日の侍女の件ですが、少し調べたいことがあります」
「何だ?」
「亡くなる直前に、あの女が何を口にしたのか。それをもう一度確認したいのです」
修次は椅子の背もたれに身体を預けた。
「毒を盛られたのは、牢に入れられた後ってことか?」
「それは分かりません。牢に入る前から、身体の中に毒を仕込まれていた可能性もあります」
「なるほどな。口封じのタイミングまで計算済みってわけか」
猫猫は手に持った包みを机に置いた。
「侍女は梨花妃の宮に毒を入れたことを認めました。ですが、あの女が自分で毒を用意したとは到底思えません」
「前にも言ってたな。あの下女には知識がまるで足りねえって」
「はい。あの毒は、ただの下女が簡単に作れる代物ではありません。誰かから渡されたと考えるのが自然です」
「で、用済みになったら毒ごと使い捨てられた、と。……胸糞悪い手口だな」
修次は机の上の報告書を指で叩いた。
「よし、調べるぞ。俺は兵士どもの尻を叩いて聞き込みをさせる。お前は何を調べたい?」
「侍女が捕らえられたときの所持品です。衣服や髪飾り、化粧道具なんかも含めて」
「分かった。手配しておく」
「ありがとうございます」
「礼を言うのは早い。何か分かってからにしろ」
「では、何か分かったら改めて礼を申し上げます」
「そういう意味じゃねえよ!」
修は苦笑しながらツッコミを入れた。
侍女の所持品は、後宮の管理を担当する役人によって保管されていた。
修が事情を説明すると、役人は少し渋い顔をしながらも、事件の調査ということで品物を見せてくれた。
並べられたのは、替えの衣服、櫛、髪飾り、小さな化粧箱、そして香袋だった。
猫猫は一つずつ手に取り、確かめていく。
「何か怪しいものはあったか?」
「まだ何とも言えません」
猫猫は櫛を置き、髪飾りを改め、続いて化粧箱を開けた。中には白粉と紅が入っていた。
「普通の化粧道具ですね」
「じゃあ、ハズレか?」
「そうとも限りません。毒ってのは見た目だけで判断できるほど甘くはありませんから」
猫猫は化粧箱を閉じると、最後に小さな香袋を手に取った。淡い色の刺繍が施された布袋だ。
猫猫がそれを鼻先に近づけた瞬間、その瞳が微かに光った。
「……妙ですね」
「あんだ、何か匂うのか?」
「香料の匂いが、少し不自然です」
「毒か!?」
「だから、まだ分かりませんって」
猫猫はピンセットで香袋の中身を少量取り出した。乾燥した植物の欠片に、細かな粉末が混ざっている。
指先で揉み込み、匂いを嗅いだ猫猫の眉がぴくりと動いた。
「これは普通の香料ではありませんね」
「何が入ってんだ?」
「薬材の粉末です。香りを整えるためか、それとも別の目的か……」
猫猫は香袋を慎重に包みに戻した。
修は脇に立つ役人を鋭い眼光で睨みつけた。
「おい。この品物は、誰が回収して保管してた?」
「は、はいっ! 侍女が捕らえられた際、警備兵が回収し、すぐにこちらで厳重に保管しておりました!」
「捕らえられたとき、あの侍女は何か吐いてたか?」
「い、いえ特に……ただ、ひどく怯えて震えておりました」
「そうかよ」
修はその言葉を脳内で転がした。
捕らえられたとき、侍女は怯えていた。
それは罪を犯したからか。
それとも、自分がどうなるかを知っていたからか。
その後、修は侍女を捕らえた兵士たちを集め、当日の様子を聞き直した。
「おい、捕らえたとき、あの女は抵抗したか?」
「いえ! 最初は逃げようとしましたが、修様の威圧感に気圧されてすぐに諦めました!」
「何か持っていたか?」
「特にありません。衣服の中も確認しました」
「他に変わったことや怪しい動きはなかったか?」
「特に……あ、いや! そういえば捕まる直前、何かをギュッと握りしめていたような……」
「何をだ?」
「はっきりとは分かりません。小さな布のようなものだったと思います」
「それはどこへ行った?」
「……申し訳ありません。覚えておりません」
「分かった。もう一度確認しておけ」
兵士たちが去った後、修次は腕を組んだ。
(小さな布か。……あの香袋のことか?確証はねえが。だが、猫猫が見つけたあの妙な香袋と無関係なわけがねえ。)
昼過ぎ。
猫猫は採取した香袋の中身を机に広げ、目をギラつかせて調べていた。
そこへ、外の捜査を終えた修が戻ってくる。
「どうだ、毒オタク。なんか分かったか?」
「ええ、少し」
猫猫は包みを開けて見せた。
「この香袋、ただの香料じゃありません。薬材の粉末が混ぜ込まれています」
「それが殺しの毒なのか?」
「いえ。これ自体がすぐ人を殺すような猛毒ではありません」
「じゃあ何のためにそんなもん仕込んでんだ?」
「他の毒と組み合わせたり、特定の成分を運ぶための『仕込み』だった可能性があります。あるいは……」
猫猫は一瞬思考を巡らせ、冷ややかに言った。
「気になるのは、これが侍女の私物だった点です。あんな知識のない下女が自前で用意できる代物じゃありません」
「ってことは、最初から誰かに渡されてたってことだな」
「ええ。自分で毒を作れない侍女に毒と香袋を渡し、事件を起こさせる。で、捕まったら身内の手で口を封じる。完璧な使い捨てです」
「ハッ、手際だけは一丁前だなタコ助どもが!」
修は吐き捨てるように鼻で笑った。
「つまり、その香袋を配った元を辿れば、裏で糸引いてる黒幕の尻尾が掴めるわけだ」
「支給されたものか、個人的に渡されたものかは分かりませんが……まずは同じ香袋が他の宮にも出回っていないか調べるべきですね」
「よし、兵士どもを動かして片っ端から洗わせる。お前は薬のルートを調べろ!」
「お任せください」
翌日。
修のもとに、後宮の物品管理に関する報告が届いた。
侍女が身につけていた香袋と同じものは、ほかの宮でもいくつか確認されていた。
しかし、支給記録には不自然な点があった。
香袋に使われている香料や薬材は、内務監を経由して複数の宮へ届けられていたものの、受け取り人の名前が曖昧なものがいくつかある。
さらに、一部の薬材は帳簿上の在庫と実際の数がまったく合っていなかった。
修次は報告書を読みながら、眉間に皺を寄せた。
「……チッ! 補給の記録がボロボロじゃねえか!」
戦場で兵糧や矢の数が合わねえのと同じだ。物資が裏でどこかに流流出されている。しかも後宮の中でだ。
「おい猫猫を呼んでくれ」
駆けつけた猫猫に帳簿を見せると、彼女は記載された薬材名を指で追った。
「この薬材、何に使うんだ?」
「単体ならただの香料や薬です。ですが、組み合わせ次第では別の作用を引き出せます」
「……毒になるってことか」
「毒になることもあります。ただし、組み合わせや量によります」
猫猫は帳簿の数字を指差した。
「見てください。この薬材、短期間に不自然な量が繰り返し支給されています。普通の香料として使う量じゃありませんよ」
「誰かが毒を大量調合するために、後宮の裏でこっそり材料を集めてやがるな」
「その可能性が高いです。修様、内務監の物品管理のルート、もっと深く洗った方がいいですよ」
「分かった。俺の方で調べておく」
「私は薬材の使い道を調べておきます」
「頼んだぞ、猫猫!」
猫猫は頷いた。
その日の夕刻。
修は庭園の回廊で、手元で小さな包みを弄んでいる猫猫を見つけた。
「また毒草弄ってんのかお前は」
「ええ。先日修様からいただいた標本です。保存状態が素晴らしいので、見ているだけで飯が食えます」
「飯は言い過ぎだろ!まったく、報酬を渡した甲斐があったってもんだぜ」
猫猫は包みを大切そうに懐へしまうと、ふと修を見上げた。
「修様」
「ん?」
「一つ聞いていいですか」
「何だ言ってみろ」
「どうして私みたいな下女に、ここまで調査を任せるんですか?」
修は「は?」と可笑しそうに口元を歪めた。
「どうしてって、お前が一番毒や薬に詳しいからだろ」
「……それだけですか? 私はただの拐かされた下女ですよ」
「ハッ、関係ねえよ!」
修は頭をガシガシと乱暴に掻いた。
「俺は将だ。戦場なら強い兵士の力を借りるし、知恵の回る軍師の策も聞く。自分一人で全部できるなんて思ってねえよ。だいたい、俺がいくら剣を振り回したって、毒の匂いや成分なんて見分けられねえからな」
猫猫は丸くした目で修を見つめている。
「ここは戦場じゃねえが、俺の知らねえルールで動いてる。だから頼れるやつに頼る。お前の『毒狂い』の知識が必要だから任せてんだ。文句あるか?」
「……いえ。別に」
「何だよ。変なことを聞くな」
「いえ。少し気になっただけです」
これまで彼女は、後宮の人間から何かを頼まれることがあっても、都合よく使われることの方が多かった。
だが目の前にいるこの男は、自分を「毒の専門家」として対等に扱い、戦場の仲間と同じように頼ってくる。それが妙に可笑しく、そして不快ではなかった。
「修様」
「ん?」
「今後も捜査に協力することについては、異論ありません」
「おっ、珍しく素直じゃねえか」
「ただし、報酬は別です」
「結局そこかよ!! てめえは本当にぶれねえな!」
修の大笑いが夕暮れの回廊に響き渡る。
猫猫は呆れ顔で溜息をついたが、その瞳から最初の警戒心は完全に消え去っていた。
その夜。
後宮の外れにある一室。
一人の男が、机の上に置かれた帳簿を眺めていた。
「内務監の物品管理に、麃家の若い将が手を伸ばしているようです」
報告を受けた男は、眉を動かした。
「例の事件を調べているのか」
「はい。侍女の所持品から、香袋を調べているようです」
「薬師の女も一緒か?」
「いかがいたしましょう?」
「今は何もするな。下手に動けば、こちらの存在を知らせることになる」
男は窓の外を見た。
「だが、あの女には気をつけろ。毒の知識がある者は、余計なものまで見つけてしまう」
報告者は深く頭を下げた。
その部屋の灯りが消える。
後宮の闇は、まだ晴れない。
後宮の闇はさらに深く。修と猫猫の凸凹コンビは、知らず知らずのうちに巨大な陰謀の渦中へと突き進んでいた――。
はいこれからの話の布石になる話ですね、そろそろ原作のあの男にも出てきてもらいましょう、次の話もお待ちください。
気になった文はドンドン直していくのでよろしくお願いします、目指せ初執筆ハーメルンランキング上位。