翌朝。
咸陽宮の回廊は、後宮の華やかで湿り気のある雰囲気とは打って変わり、張り詰めた政治の空気に満ちていた。
磨き上げられた石の床に文官たちの規則正しい足音が響き、すれ違う官吏の誰もが、甲冑を脱いでなお溢れ出る修の巨躯と圧迫感を見上げては、引きつった顔で慌てて道を空けていく。
「どいつもこいつも、人を猛獣か何かみたいな目で見やがる。やりづらくて敵わんぜ」
麃修は窮屈な礼装の襟元を太い指でぐいと緩めながらぼやいた。戦装束なら何の苦もなく動けるというのに、こうした文官どもの礼装という奴はどうにも肌に馴染まない。
「実際、似たようなものではありませんか」
半歩後ろから、猫猫(マオマオ)がボソリと呟いた。
「あ?」
「いえ、何でもありません」
猫猫は下女の質素な衣服に身を包み、薬材を入れた小さな包みを大事そうに抱えている。表情は相変わらずの無表情だが、その足取りだけは妙に重かった。
「そんなに嫌なら、来なくてもよかったんだぞ」
「修様が『毒の鑑定役が要る』と仰ったのでしょう。それに、私を置いていったら後で面倒な報告書の読み合わせをさせられます。そちらの方が遥かに苦痛です」
「結局ついて来るんじゃねえか」
「報酬のためです」
「はいはい、分かったよ」
修は呆れたように笑い、ふと声を潜めた。
「で……その壬氏(じんし)って奴は、そんなにヤバいのか? 後宮じゃ有名だって言ってたが」
「ヤバいというより……厄介です。私は遠目に見たことがあるだけですが、あの手の方に目をつけられると、なぜか不必要に仕事が増えるのです」
「仕事が増える?」
「ええ。それも、断りにくい最高に厄介な形で」
「なんだそりゃ」
修はガハハと豪快に笑い飛ばしたが、猫猫の目は一切笑っていなかった。
案内された先は、咸陽宮の奥まった一角にある豪奢な執務室だった。
重厚な扉の前で二人を待っていたのは、背の高い壮年の男だった。無駄のない整った所作と、鋭さを内に隠した隙のない目つき。派手さはないが、只者ではない武の気が一目で伝わってくる。
「麃修殿ですね。お待ちしておりました。私は高順(こうじゅん)と申します」
「麃修だ。呼ばれたから来た」
「お噂はかねがね伺っております。麃公将軍のご子息で、大王様のご信頼も厚いお方だと」
高順は静かに一礼しながら、修の足運びや身体の軸を鋭く見定めていた。修もまた、その視線の質を察し、瞳の奥に武人としての光を宿す。
(ほう……こいつ、相当やるな。戦場で場数を踏んできた『本物』の目だ)
「後ろにおられる方は?」
「猫猫だ。毒と薬の鑑定役として連れてきた。今回の件には欠かせねえ目利きだ」
「……左様ですか」
高順は猫猫を一瞥した。その視線の中に、ほんの一瞬だけ何かを悟ったような色が浮かんだ気がした。
「では、中へどうぞ。壬氏様がお待ちです。……麃修殿、一つだけ申し上げさせてください」
「何だ?」
「壬氏様は少々、癖のあるお方です。ですが、決して悪いお方ではございません。どうか、お気を悪くなさらぬように」
「癖ねえ。まあ、会ってみりゃ分かるだろ」
高順が静かに扉を開けた。
部屋の中は、清らかな高貴な香の匂いに満ちていた。
窓から差し込む柔らかな光の中に、一人の男が立っている。
艶やかな黒髪。透き通るような白磁の肌。長い睫毛の下で妖しく微笑む瞳。
その佇まいは、天女が舞い降りてきたと言われても誰も疑わないであろう、あまりにも浮世離れした美貌であった。
「よく来てくれたね、麃修殿。私が壬氏だ」
甘く、耳に心地よく響く柔らかな声。
修は一瞬だけ足を止め、それから隠す様子もなく無遠慮に相手を上から下までマジマジと眺めた。
「……なるほどな」
「ん?」
「いや。確かにこりゃ、後宮で噂になるわけだと思ってな。男でこの顔は、珍しいもんだ」
壬氏の完璧な微笑みが、ほんのわずかにぴくりと固まった。
背後に控えていた高順が、明後日の方向を向いてゴホンと小さく咳払いをする。
「……随分と、率直な方だね」
「回りくどいのは性分に合わねえんだ。悪気はねえよ」
「ふふ。構わないよ。そういう素直な方の方が、話が早くて助かる」
壬氏はすぐに華やかな笑みを立て直し、視線を修の後ろへ移した。
「そちらの小柄な娘は?」
「猫猫だ。さっき高順殿にも言ったが、毒の鑑定役として連れてきた」
猫猫は深々と頭を下げ、完全に気配を殺した。顔を上げず、視線も合わせない。
壬氏はそんな彼女を面白そうにじっと見つめ、少しだけ首を傾げた。
「顔を上げてくれないか」
「畏れ多いことでございます」
「命令だ」
猫猫は観念したように、ゆっくりと顔を上げた。
壬氏がその顔を覗き込む。世の女ならば一瞬で腰を抜かすような絶世の美貌が、至近距離で極上の微笑みを投げかけている。
――しかし。
猫猫の表情は、一ミリたりとも動かなかった。
「……」
「……」
「……私の顔に、何か不都合でもついているだろうか?」
「いえ。誠にお美しいお顔立ちでございます」
「そうか。……それだけかい?」
「それだけでございます」
あまりにも淡々とした、死んだ魚のような目での返答。
壬氏の引きつった口元が微かにピクピクと動く。横に立つ高順は、必死に拳を握りしめて笑いを堪えていた。
(……あの高順って人、絶対心の中で爆笑してやがるな)
修は内心で苦笑しつつ、腕を組みながら事の成り行きを興味深く眺めていた。
「……フフ、面白い娘だね」
壬氏は小さく溜息をつくと、一瞬で瞳の奥の光を鋭く切り替えた。
「さて、戯れ言はここまでにしよう。麃修殿、後宮での調査について、報告を聞かせてほしい」
修は一連の経緯を、戦況を報告するかのように順序立てて説明した。
梨花妃の宮での毒物混入事件。
実行犯である『赤い刺繍』の侍女の確保と、牢内での謎の死。
手際よく行方をくらませた内務監の官僚。
侍女の私物から見つかった怪しい香袋と、複数の宮に配られた同じ形の袋。
そして、内務監の物品帳簿に存在する不自然な薬材消費の『穴』。
壬氏は途中で一度も口を挟まず、静かに耳を傾けていた。高順は部屋の隅で、紙に手際よく何かを書き留めている。
「……以上だ。薬の方の詳しいカラクリは、こいつに任せる」
修が顎で示すと、猫猫が一歩前へ出た。
「香袋の中身は、単体で見ればどれも毒ではありません。ですが、特定の薬材を決まった順番で組み合わせることで、猛毒に変わる仕組みになっています。材料を別々の袋に分けて各宮へ届けることで、一箇所が見つかっても全体像が分からないよう隠蔽されているのです」
「作る者と運ぶ者を分ける……分業化か」
「はい。おそらく、何人もの手とルートを経ています」
壬氏は細い指を顎にあて、深慮するように目を細めた。
「大王様の後宮で、そこまで周到な真似ができる者は限られるね」
「内務監の上の方は、呂不韋(りょふい)の息がかかってるって話だが」
修が吐き捨てるように言うと、壬氏は静かに首を振った。
「私も同じ見立てだ。だが、単なる呂不韋派の嫌がらせと断定するのは早い。行方をくらませた官僚の手際の良さ……あれは一官僚の判断でできる芸芸ではない。裏に、もっと大きな何かが動いている」
「内務監そのものが、どこぞの勢力に乗っ取られてるってことか」
「あるいは、ね。いずれにせよこちらでも追っているが、後宮の深部は外の者の目が届きにくい。だからこそ、君たちの鋭い鼻と動きが頼りになる」
壬氏は机の上から、一冊の密帳を取り上げた。
「内務監の出入りの記録だ。表向きの帳簿とは別に、人の動きだけを私の手の者に記録させてある。持っていくといい」
修は帳簿を受け取り、パラパラとめくった。細かな字で日付と人名、行き先がびっしりと書き込まれている。
「……こいつは助かる。いいのか、こんな重要そうなもんを渡して」
「構わないよ。君は信用できる男だと、玉葉様から聞いている」
「へえ」
「それに、君を大王様に推薦したのは、あの信という若者だそうだね。大王様と昌文君様がよく話題にされる」
「信か。あいつは俺の同期だ。……俺が口を利いたわけじゃねえ、あいつが勝手に俺の名を挙げたんだよ」
「ふふ。実にいい同期をお持ちだ」
壬氏が微笑んだところで、高順が静かに進み出た。
「壬氏様。そろそろ、もう一つの件を」
「……ああ、そうだったね」
壬氏の顔から優美な笑みが消え、部屋の空気が一段、冷たく張り詰めた。
「実は、五日後に後宮で大規模な『宴』が催される。大王様が、各宮の妃たちを労うために開かれるものだ。そして……そこで各宮に、宴の記念として新たな香袋が配られる予定になっている」
猫猫の肩が、ピクリと跳ねた。
「……その香袋の手配は、どちらが?」
「内務監だ」
部屋の中が、しんと静まり返った。
猫猫は顔を青ざめさせ、ボソリと呟いた。
「宴の席には、各宮の妃様と侍女たちが一堂に集まります。そこで配られた香袋を、皆が同じ場所に持ち寄るとしたら……」
「別々に運ばれていた薬材が、一箇所に集まる」
修が低い声で後を継いだ。
「そうか。毒を完成させるための『最後の組み合わせ』を、宴の場そのもので完成させる気か」
「確証はない。だが、無視できる危険ではない」
壬氏は静かに二人を見据えた。
「宴を中止すれば、相手に気づかれたことを教えるだけだ。だから中止はしない。その代わり……君たちには、宴の前に配られる香袋を事前に洗い出し、何が仕込まれているかを看破してほしい」
猫猫の顔に『絶対にやりたくありません』と大きく書かれているのを、修は見逃さなかった。
壬氏もそれに気づいたのだろう。猫猫に向き直し、極上の甘い声で囁きかけた。
「猫猫、と言ったね。この件、君が引き受けてくれると非常に助かるのだが」
「畏れながら、私はただの下女にございます。そのような大任は……」
「もちろん、相応の報酬は用意するよ」
「……」
「後宮の『特別薬材庫』への立ち入りを許可しよう。普段は御医ですら入れない、異国から取り寄せた珍しい薬材が山ほど眠っている場所だ。楚の秘境の毒草や、南蛮の珍虫の標本もね」
猫猫の目が、爛々と怪しい光を放ち始めた。
「……珍しい、とは、どの程度でございますか」
「見れば泣いて喜ぶレベルだ」
「……」
猫猫の喉が、こくりと鳴った。
「……お引き受けいたします」
「早えよ!!」
修と思わず怒号を上げた。
「お前、今まであんなに嫌がってたじゃねえか!」
「仕事は仕事です。報酬が見合えば、お断りする理由はありません」
「『薬材庫』って言葉一つで即落ちしてんじゃねえよ!」
壬氏は心底楽しそうに目を細めた。
「ふふ、話が早くて助かるよ」
その絶世の笑顔を向けられている猫猫を見て、修は胸の奥に、何か妙な『ざわつき』を覚えた。
(……あん? なんだ、今の妙な不快感は)
別に何かが気に食わないわけではない。ただ、壬氏が猫猫に向けた視線と、猫猫が薬につられて見せた反応のやり取りが、どうにも武将としてのカンを逆撫でさせる。
修はその違和感を、頭をガシガシと掻いて振り払った。
(チッ、気のせいだろ。俺が気にすることでもねえ)
壬氏の執務室を辞した後、二人は咸陽宮の広大な回廊を並んで歩いていた。
「……だから、嫌だったのです」
猫猫が深いため息をつきながらぼやいた。
「何がだ?」
「仕事が増えました。しかも、完璧に断れない形で」
「あー、さっき言提案されたやつか」
修は手にした密帳を腕に抱え直した。
「まあ、悪い奴じゃなさそうだったがな。腹の内はサッパリ読めねえが」
「悪くないから厄介なのです。悪い奴なら関わらずに済みます。ですが、有能で話が通じて、断る理由を完璧に潰してくる方は一番逃げ場がありません」
「なるほどな。お前の言いたいこと、ちょっと分かった気がするぜ」
修が笑うと、猫猫はジト目で修を見上げた。
「修様こそ、あの方を前にして『珍しい顔だ』などと仰っていましたね。あれは失礼です」
「事実を言っただけだ。男であんな天女みたいな顔してたら目立ってしゃあねえろ」
「事実でも、言っていいことと悪いことがあります」
「お前に言われたくねえよ! 毒蜘蛛の足を解剖したいとか言ってる奴に!」
「あれは学術的な探究心です」
いつもの喧嘩腰のやり取りが戻り、猫猫の口元がほんの少しだけ緩んだ。修はそれを見て、さっき感じた胸のざわつきがスッと引いていくのを感じた。
「五日後か」
修は表情を武将のそれに引き締めた。
「宴まで時間がねえな。兵士どもを総動員して、内務監から出る香袋を片っ端から洗わせる。お前は薬材庫で組み合わせのパターンを全部潰してくれ」
「承知しました。……ただ、修様」
「ん?」
「宴は大王様がお出になる席です。もし本当に毒が仕掛けられているとしたら、狙いは妃様方だけではないかもしれません」
猫猫の言葉に、修の目が鋭く光った。
「……大王様も、ってことか」
「可能性の話です。ですが、備えておくべきでしょう」
修は足を止め、咸陽宮の澄み渡る空を見上げた。
後宮の毒は、たった一つの梨から始まった。それが五日後の宴へと繋がり、秦の王にまで届こうとしている。
「……信にも話を通しておく必要があるな。あいつなら、宴の警備に回せる飛信隊の動きや宮中の配置も大王様から聞いてる可能性がある。」
「信様、ですか」
「おう。俺の同期だ。バカみたいに声がデカくて口は悪いが、土壇場じゃ一番頼りになる」
「修様の周りは、口の悪い方ばかりですね」
「お前が言うな!!」
修の怒号が回廊に爽快に響き渡った。
その頃。壬氏の執務室。
二人の足音が完全に消えると、壬氏は豪華な椅子に深く身体を預け、クックッと低く笑った。
「麃修、か。麃公将軍の息子とは聞いていたが、思った以上に面白い男だね」
「率直で、恐れを知らぬお方ですね」
高順が淡々と応じる。
「そして……あの娘だ」
「猫猫でございますか」
「私の顔を見て、あれほど眉一つ動かさない者は初めてだよ。……いや、そうでもないか。いるのだね、世の中には」
壬氏はどこか悔しそうに、けれど楽しそうに呟いた。高順は小さく息をつき、窓の外へ目を向けた。
「壬氏様。あまり、あの娘をからかわれませんよう」
「からかってなどいないよ。有能な人間を見つけたから、使いたいだけさ」
「……それだけ、でございますか?」
「高順」
「……失礼いたしました」
高順が深々と一礼する。
壬氏は窓から見える咸陽の空を見つめ、静かに目を細めた。
後宮に忍び寄る影は、確実にその密度を増している。
大戦乱の世の猛者・麃修と、毒を愛する少女・猫猫。
二人が挑む『五日後の宴』は、すぐそこまで迫っていた――。
いよいよ事件もいい感じに煮詰まってきました。