宴まで、あと五日。
大王・嬴政が主催する後宮の宴の裏で、香袋を使った毒殺の計画が動いている。そう分かってからというもの、咸陽宮の空気は日ごとに張り詰めていた。
修は壬氏から預かった内務監の密帳を小脇に抱え、軍の幕僚区画を大股で歩いていた。そこへ、廊下の向こうから威勢のいい大声が響き渡る。
「おう、修じゃねえか! 後宮の護衛はどうだ? おしとやかな女官どもに囲まれて、鼻の下伸ばしてんじゃねえぞ!」
甲冑の金具を鳴らして駆けてきたのは、飛信隊隊長の信だった。背中には相変わらず巨大な剣を背負い、直情径行を絵に描いたような顔でガハハと笑っている。
「バカ言え。鼻の下が伸びるどころか、毎日、目に見えねえ毒だの陰謀だのの匂いを追わされて、胃が痛えよ」
修が素っ気なく返すと、信の笑顔がすっと引いた。
「……マジかよ。 あと暗文で送ってきたあの手紙の政を狙う影ってのは、本当なのか?」
「ああ」
修は周囲に人気がないのを確かめ、声を落とした。
「後宮の妃どもだけじゃねえ。五日後の宴には大王様も出る。内務監の連中が配る予定の香袋と、宴の席での何らかの仕掛けを組み合わせて、まとめて毒で仕留める気だ。裏には呂不韋の息がかかった連中がいる可能性もある」
「ふざけやがって……!」
信の瞳に、一瞬で怒りの炎が灯る。背中の剣の柄に、手が伸びた。
「今すぐ内務監に殴り込んで、関わってる奴ら片っ端から叩き斬ってやる!」
「待て、信!」
修は信の肩を掴み、強い力で引き留めた。
「頭を冷やせ、脳筋。戦場なら敵陣に突っ込めば終わりだが、ここは宮廷だ。証拠もなしに刀を抜いてみろ。『麃公の息子と飛信隊が、後宮で暴挙を働いた』って口実を、呂不韋に与えるだけだ」
「ぐっ……相変わらず、お前は冷静だな……」
信は苦々しく吐き捨て、頭をがしがしと掻いた。修は声の調子を変え、真剣な目で信を見据える。
「お前に頼みたいのは、外側の警戒だ。宴の当夜、後宮の周りを飛信隊で固めてくれ。毒の手が潰されたと気づいた連中が、力押しで政の首を狙ってくる可能性がある。逃げ道も、外からの刺客の道も、全部塞いでほしい」
「へっ、そういうことならお手の物だ!」
信はニッと笑い、修の肩を力強く叩いた。
「鼠一匹通さねえように固めてやる。内側の毒は、お前に任せたぞ」
「ああ、任せとけ」
そこで信は、ふと首を傾げた。
「そういやお前、毒に詳しい奴を連れてるって聞いたぜ。どんな奴だ? 会わせろよ」
「宴が終わったらな」
「なんでだよ」
「あいつは、騒がしいのが苦手だ。お前が行ったら、三日は口を利かなくなる」
「俺を何だと思ってやがる!」
「お前みたいなのだ」
「ひでえ!」
信の抗議を背に、修は笑いながら踵を返した。
それから、四日が過ぎた。
咸陽宮の奥深くに、「特別薬材庫」がある。普段は厳重に鍵がかけられ、御医ですら滅多に入れない部屋だ。
その薬材庫の中で、猫猫は文字通り、狂喜乱舞していた。
天井まで届く棚には、見たこともない異国の草根、怪しげな鉱物、乾燥した毒虫の標本が、ぎっしりと並んでいる。
「……ふふ。ふふふふ。楚の極毒草だけでなく、南蛮の痺れ薬の原石まで……こんな宝の山が、咸陽の宮に眠っていたなんて……」
目の下には濃い隈。髪は乱れ、袖は粉にまみれている。それでも猫猫の目は、爛々と輝いていた。壬氏から提示された報酬に完全に目が眩んだ彼女は、宴で使われる可能性のある毒の組み合わせを洗い出すため、四日間、ほとんど眠らずに作業を続けていた。
重い扉が、ガチャリと開いた。
「おい、毒狂い。生きてるか?」
入ってきたのは、湯気の立つ飯と肉の煮込みを木鉢に盛った、修だった。机の上に並んだ無数の皿と、猫猫の顔を見るなり、修は呆れた声を上げる。
「お前な、鏡を見てみろ。妖や幽霊より、よっぽど恐ろしい顔してるぞ」
「失礼ですね。私は今、最高の探究の最中なのです。声をかけないでいただけますか」
「やかましい。さっさと食え。死にそうな顔で作業されたら、見てるこっちの気分が悪い」
修は木鉢を、猫猫の目の前にどんと置いた。肉の香ばしい匂いが、薬材庫の中にふわりと広がる。
猫猫は木鉢を見つめ、じと目で修を見上げた。
「……毒味は、済んでいますか?」
「俺の差し入れに毒盛る馬鹿がどこにいる! さっさと食わねえと、その楚の毒草、全部ドブに捨てるぞ!」
「食べます! 今すぐいただきます!」
猫猫は慌てて木鉢を抱え込み、肉を口に運び始めた。
武人の大雑把な料理だが、味付けは濃く、疲れ切った身体に染み渡っていく。修は薬棚にもたれかかり、黙ってその様子を眺めていた。
何かを話しかけるでもない。急かすでもない。ただ、そこにいるだけだった。
(……不思議ですね)
猫猫は肉を噛みながら、ぼんやりと思った。
普段、誰かが傍にいると、どうにも落ち着かない。話しかけられれば返事をしなければならないし、視線を感じれば手が止まる。だから、人の少ない場所を好んで選んできた。
なのに、この男が壁にもたれて黙っていても、まったく気にならない。むしろ、その気配が、薬材庫の静けさに自然と溶け込んでいるようにさえ感じる。
(疲れないのです。この方の隣は)
その事実に気づいたとき、猫猫の箸が、ほんのわずかに止まった。
「……無理すんじゃねえぞ」
ぽつりと、修が言った。
「お前が凄腕の薬師なのは、もう十分分かってる。だが、命まで削るような真似はするな。宴の最中、危なくなったら俺の背中の後ろに隠れろ。刺客だろうが毒だろうが、俺が全部叩き潰してやる」
淡々とした、けれど絶対的な武の自信に満ちた言葉だった。
猫猫は一瞬、ぽかんと目を丸くした。それから視線をさまよわせ、木鉢の汁を、小さく啜った。
「……修様は、本当にバカがつくほど、真っ直ぐですね」
「ああ!?」
「いえ。ごちそうさまでした」
猫猫は口元を拭い、いつもの無表情に戻ると、机の上に並べた三つの皿を指差した。
「おかげさまで、毒の正体が、すべて割れました」
修の目が、すっと細くなった。
「聞かせろ」
猫猫は薬師の顔になり、皿の粉末を指で示しながら説明を始めた。
「宴で配られる予定の香袋ですが、これ自体には、麻痺作用を持つ野草の粉末が、ごく少量しか入っていません。これ単体なら、肩こりを和らげる香として、誤魔化せる程度です」
「ただの香、ってことか」
「ええ。ですが」
猫猫は別の包みを開けた。
「宴の席には、楚の国から献上された甘い果実酒が出される予定です。その酒の香りと、香袋の粉末が、広間の熱で空気中に広がって混ざり合ったとき……強い、遅効性の呼吸麻痺を引き起こす毒に変わります」
「……なるほどな」
修の声が、低くなった。
「香袋単体でも、酒単体でも毒じゃねえ。宴の会場という閉ざされた空間で、二つが揃った瞬間に初めて毒になる。だから、一つずつ調べても見つからなかったわけだ」
「はい。しかも、効き始めるまでに、半刻ほどかかります。異変に気づいたときには、大王様も、玉葉妃様も、他の妃様方も、すでに身体が動かなくなり、息ができなくなって倒れていく。非常に、周到な計画です」
「ハッ。考えることが、相変わらず陰湿だぜ」
修は首の骨をごきりと鳴らし、凶暴な笑みを浮かべた。
「だが、仕掛けが割れちまえば、あとは潰すだけだ。香袋が配られる前に差し替えられるか?」
「替えの香袋は、私がすでに用意してあります。見た目は同じで、中身は無害な薬草です。あとは、配られる直前にすり替える手立てを」
「それは、俺と壬氏殿に任せろ。お前は毒の見張りだ」
「承知しました」
修は猫猫を見下ろし、真剣な声で言った。
「猫猫。明日の宴、お前は俺の隣から、絶対に離れるな」
「言われなくても、そうします。修様の大きな背中が、一番の盾ですので」
「お前は、本当に素直じゃねえな!」
修の大笑いが、薬材庫に響き渡った。
猫猫は呆れたように息を吐いたが、その口元は、ほんの少しだけ緩んでいた。
修が詰所に戻って、飛信隊との配置の最終確認を済ませた頃には、夜がすっかり更けていた。
ふと気になって、再び薬材庫を覗く。灯りは、まだ点いていた。
そっと扉を押し開けると、猫猫が机に突っ伏して、小さな寝息を立てていた。手には、書きかけの紙と筆が握られたままだ。
「……おい」
小声で呼んだが、返事はない。四日間、ろくに眠っていなかったのだろう。毒の正体を突き止めて、張り詰めていたものが、ようやく切れたらしい。
修は静かに歩み寄り、猫猫の手から、そっと筆を外した。それから、自分の羽織を脱ぎ、小さな肩にかける。
「……無理しやがって」
呟いてから、修は自分で驚いた。こんな声を出したことが、今まであっただろうか。
起こして部屋に帰らせるべきかもしれない。だが、せっかく眠れているのを、邪魔したくなかった。
修は灯りの油を足し、窓の隙間を閉じ、扉の前に腰を下ろした。壁に背を預け、腕を組む。
今夜は、自分が起きていよう。
猫猫が目を覚ますまで、ここは何があっても、安全な場所にしておきたかった。
明け方。
猫猫は、はっとして目を覚ました。窓の外が、うっすらと白んでいる。肩には、見覚えのある大きな羽織がかかっていた。
「……」
視線を上げると、扉の前で、修が壁にもたれて目を閉じていた。眠っているのか、起きているのか、分からない。ただ、一晩中そこを動かなかったことだけは、確かだった。
猫猫は羽織の端を握りしめ、しばらく修の顔を見つめた。
それから、そっと立ち上がり、羽織を修の膝にかけ直そうとして。
「……起きたか」
目を閉じたまま、修が言った。
「……起きていらしたのですか」
「半分な」
「申し訳ありません。眠ってしまいました」
「構わねえ。四日も寝ねえで働いたんだ。そろそろ宴の支度だろう。顔を洗ってこい。ひどい顔だぞ」
「失礼ですね」
「事実だ」
猫猫は羽織を畳み、修に差し出した。
「……ありがとうございました」
「何がだ」
「いえ。何でもありません」
猫猫は小さく頭を下げ、薬材庫を出て行った。修は羽織を受け取り、まだわずかに温もりの残るそれを肩にかけて、小さく笑った。
そして、運命の宴の夜が訪れた。
咸陽宮の大広間は、色鮮やかな装飾と、眩いばかりの灯火に包まれていた。
玉葉妃、梨花妃をはじめ、後宮の妃たちが華やかな衣装をまとって席に着き、中央の玉座には、若き秦王・嬴政が、威厳に満ちた佇まいで座している。広間の天井には香が焚かれ、あちこちから、楽の音が静かに響いていた。
宴の開始を告げる太鼓の音が、重く腹に響く。
内務監の侍女たちが、列を成して広間に入ってきた。手には、小さな盆。その上には、「記念の香袋」が、一つずつ丁寧に載せられている。
修は、甲冑の着用を許されない宴の場で、上質な黒の礼装に身を包み、広間の一角に立っていた。鋭い目が、会場全体の空気の乱れを、一つも見逃すまいと動いている。
その傍らには、侍女の姿に変装した猫猫が、静かに控えていた。普段は無造作に束ねている髪を整え、質素ながら清潔な衣をまとった彼女は、一見すれば、どこにでもいる侍女にしか見えない。
けれど、猫猫の視線は、配られていく香袋と、杯に注がれる酒の動きを、一瞬たりとも逃さず追っていた。
「……始まりますね」
猫猫が、唇をほとんど動かさずに呟いた。
「ああ。離れるなよ」
「承知しております」
修は広間の外に意識を向けた。すでに宮の外周は、信の飛信隊が固めているはずだ。鼠一匹通さないと、あの男は言った。
そして広間の隅。
美貌の宦官・壬氏が、柱の陰から、静かに修たちへ視線を送っていた。目が合うと、壬氏は、妖しく口元をほころばせる。
(あの野郎、楽しんでやがるな)
修は小さく舌打ちした。隣で猫猫が、ごく小さく、同じ種類の溜息をついたのが聞こえた。
香袋が、最初の妃の卓に置かれる。
その瞬間。
広間の空気が、ほんのわずかに張り詰めた。
刺客たちの罠、大王の命、そして後宮の陰謀。すべての思惑が交錯する嵐の宴が、ついに、幕を開けようとしていた。
はいと言うことで、毒と仕掛けの正体は混ぜるな危険でした、これは現実でもある話なので皆様も気をつけてください。
少し猫猫と修の距離が近づく話も挟んで、次は第八話です次の話もお待ちください。