雄英高校、サポート科実習棟。
放課後の実験室に、苛立った声が響いていた。
「……だから、なんでそうなるんだよ!」
機巧創は机に広げた計算用紙を睨みつけていた。
身長百八十センチの人間を、百メートルまで巨大化させる。
倍率は約五十五・六倍。
体積は約十七万倍。
当然、質量もそれに比例して増大する。
ここまではいい。
いや、全然よくない。
質量保存則を真正面から殴り倒している時点で、物理学的には大問題だ。
しかし、個性というものはそういうものだ。現代科学では説明できない現象など、珍しくもない。
問題は、その先だった。
「百メートルの人間が、なんで自分の体重を支えられるんだ……?」
普通、生物を相似形のまま巨大化させれば、体重は身長の三乗に比例して増加する。
一方、筋力を左右する筋肉の断面積は、おおむね身長の二乗に比例する。
つまり、巨大化すればするほど、自分の体重を支えることが難しくなる。
ところが。
巨勢大という少年は、百メートルの巨体で歩き、走り、跳び、巨大なロボットを握り潰した。
しかも、本人は至って健康体。
筋肉も骨格も、巨大化による負荷に耐えている。
「……どうなってんだよ、あいつの身体」
創は頭を掻きむしった。
そのとき。
「おう! 創! 来たぜ!」
実験室の扉が開いた。
身をかがめて入ってきたのは、身長二百五十センチの大男。
赤銅色の短髪。
琥珀色の瞳。
分厚い胸板と丸太のような腕。
雄英高校ヒーロー科一年A組、巨勢大。
個性『スケールシフト』の持ち主である。
その後ろから、銀白色の髪をした少年が入室した。
「こんにちは、機巧君。本日はよろしくお願いします」
障守盾真。
薄紫色の瞳を細め、柔和な笑みを浮かべている。
「おう! 来たか!」
創は立ち上がった。
「待ってたぜ、巨勢! 今日はお前の個性を徹底的に調べるからな!」
「はっはっは! おう! 好きにしてくれ!」
「大君。そう簡単に身体を差し出さないでいただけますか?」
「ん? でも創なら大丈夫だろ?」
「……その無警戒さは、少々心配になりますね」
盾真は小さくため息をついた。
「おい障守。今日は真面目な研究だからな。邪魔すんなよ」
「もちろんです。僕も大君の個性には大変興味がありますから」
「だったらいいけどよ」
「ただし、危険な実験を行う場合は僕が止めます」
「わかってるよ!」
創はホワイトボードに大きく文字を書いた。
『スケールシフト検証実験』
「じゃあ、始めるぞ!」
◆
「まずは基本的な質量変化だ!」
実験室には、サポート科が資材の重量測定に使用する大型電子秤が設置されていた。
最大計量二トン。
大が普段の二百五十センチで乗ると、表示は三百キロを大きく超えた。
「……重いな」
「はっはっは! この身体だからな!」
「次は本来の百八十センチ!」
「おう!」
大の身体が縮む。
天井近くにあった頭が下がり、普通の成人男性ほどの身長になった。
もっとも、体格は普通とは言い難い。
百八十センチになっても、分厚い胸板と太い腕は健在だった。
「……なるほど」
創は数値を記録する。
「体重の変化は、身長倍率の三乗とほぼ一致するな」
「そうなのか?」
「ああ。お前は単に見た目が大きくなってるんじゃねえ。質量そのものが増えてる」
「おう! そういう個性だからな!」
「だから、その『そういう個性』の中身を調べてんだよ!」
続いて百センチ。
五十センチ。
三十センチ。
大が縮むたびに、電子秤の表示も小さくなっていく。
最終的に、秤上には三十センチの小さな巨漢が立っていた。
「おお! やっぱりこのサイズだと世界が広いな!」
声も身体に合わせて高くなっている。
創は机の上に用意した小型の精密秤に切り替え、測定を続けた。
「……ほぼ理論値通りか」
記録を取る創の隣で、盾真がしゃがみ込んだ。
「大君」
「おう! どうした、盾真?」
「少し、こちらへ来ていただけますか?」
「おう!」
大は盾真の差し出した手のひらに乗った。
盾真の表情が、わずかに緩む。
三十センチ。
自分の手のひらに収まるほど小さな巨人。
分厚い胸板も、太い腕も、豪快な笑顔も、そのまま縮小されている。
「……素晴らしいですね」
「はっはっは! 何がだ?」
「いえ。大君は本当に、どの大きさでも素晴らしいと思いまして」
「おう! ありがとな!」
盾真は微笑みながら、小さな大の背中を指先で撫でた。
その表情は、普段の慇懃無礼な少年とは少し違っていた。
「おい障守!」
創が叫ぶ。
「勝手に実験中の巨勢を持ってくな!」
「実験中だからこそ、安全な場所に移動していただいたのですが?」
「お前の手のひらが安全かどうかなんて聞いてねえ!」
「少なくとも、機巧君の雑然とした机よりは安全でしょうね」
「……ぐっ」
創は反論しかけて、散乱した工具を見た。
「……片付けるよ!」
「それがよろしいかと」
「はっはっは! 仲いいな、お前ら!」
「「よくありません!」」
◆
「次は物質の追従性だ」
創は小さな金属球を取り出した。
直径二センチ。
材質は純鉄。
実験前に重量と寸法を測定し、記録してある。
「巨勢。お前の個性って、身体の中に入れたものも一緒に大きくなったり小さくなったりするんだよな?」
「おう! 飯も飲み物もな!」
「じゃあ、口に含んだだけでも変化するのか?」
「さあ? 考えたことなかったな!」
「よし。試してみようぜ」
大は百八十センチに戻り、金属球を受け取った。
「飲み込むなよ。口に入れるだけだ」
「おう!」
金属球を口に含む。
「じゃあ、三十センチまで縮んでくれ」
大の身体が縮んだ。
百八十センチ。
百センチ。
五十センチ。
三十センチ。
「よし。吐き出してみろ」
大は机の上に置かれた小皿に、金属球を吐き出した。
ころん。
小さな金属音が響く。
創はピンセットで球を摘み上げた。
「……ん?」
直径、約三・三ミリ。
大の縮小率とほぼ一致している。
「……なるほど。口の中に入ってるだけでも追従するのか」
創はノートに記録した。
そして、次の実験の準備を始めようとして。
手を止めた。
「…………ん?」
もう一度、金属球を見る。
小さい。
当然だ。
大が縮小したのだから。
だが。
「……おい」
創の声が低くなった。
「巨勢」
「おう?」
「……これ、なんで戻らねえんだ?」
「ん?」
「いや……」
創は小さな金属球を見つめた。
金属球は、縮んだままだった。
大の口から出ている。
身体から完全に離れている。
それなのに。
元の大きさに戻らない。
「……巨勢」
「なんだ?」
「お前、今までこういうこと、したことあるか?」
「んー? そうだな。食い物とか飲み物なら普通にあるけどな!」
「いや、食い物じゃなくて。金属とか、そういうものだ」
「ねえな!」
「……そうか」
創は精密秤に金属球を載せた。
表示された重量を確認する。
計算する。
もう一度、計算する。
そして。
「…………は?」
創の顔から、表情が消えた。
元の金属球と比べて、質量が約五千八百三十二分の一になっている。
体積の変化と一致する。
密度は変わっていない。
つまり。
鉄そのものが、減っている。
「……おいおい」
創は椅子に座り込んだ。
「……嘘だろ」
「創?」
大が首を傾げる。
「どうした?」
創は答えなかった。
小さな金属球を見つめている。
さっきまで興奮していた少年が、まるで別人のように黙り込んでいた。
盾真が目を細めた。
「……機巧君」
「…………」
「何か、問題が?」
創はゆっくり顔を上げた。
「……問題?」
乾いた笑いが漏れる。
「問題どころじゃねえよ」
創は金属球を指差した。
「これがどういうことかわかるか?」
盾真は金属球を見る。
そして、少し考えた。
「……大君の個性による質量変化が、身体から離れた物質にも永続するということですね」
「そうだ」
創は頷いた。
「じゃあ、その逆は?」
「……逆?」
「小さくするんじゃなくて、大きくしたらどうなる?」
沈黙。
盾真の表情が、わずかに変わった。
「……なるほど」
創は続けた。
「例えば、金を一グラム用意する」
机に指で数字を書く。
「それを巨勢の身体に取り込んで、十倍に巨大化させる」
指が動く。
「体積は千倍。質量も千倍」
創は顔を上げた。
「一グラムの金が、一キログラムになる」
大が目を丸くした。
「おお! すげえな!」
「すげえで済むか!」
創は叫んだ。
「金だぞ!? 金! 貴金属だ! それが無尽蔵に増やせるかもしれねえんだぞ!」
「おお……!」
「金だけじゃねえ! プラチナ! レアメタル! 半導体材料! 希少資源!」
創の声が震えた。
「資源不足なんて言葉が、意味を失うかもしれねえ!」
大は感心したように頷いた。
「はっはっは! そりゃ便利だな!」
「便利!?」
創は立ち上がった。
「巨勢! お前、わかってんのか!?」
「ん?」
「お前一人で、世界の資源市場をひっくり返せるかもしれねえんだぞ!」
実験室が静まり返った。
◆
「……いや、待て」
創は自分の言葉を否定するように首を振った。
「まだ決まったわけじゃねえ」
深呼吸する。
「縮小した物質が元に戻らないことは確認できた。だが、巨大化でも同じことが起こるとは限らねえ」
創は小さな金属球を見つめた。
「それに、質量が本当に増えるなら、その分のエネルギーはどこから来る? 元素の組成は変わらねえのか? 内部構造は?」
次々と疑問が浮かぶ。
「……調べる必要がある」
創は大を見た。
「巨勢。もう一回、実験していいか?」
「おう! もちろんだぜ!」
「今度は巨大化だ」
創は別の小さな金属球を取り出した。
「これを口に含んで、身体を大きくしてくれ」
「おう!」
大は百八十センチに戻った。
金属球を口に含む。
「じゃあ、二百五十センチまで」
身体が膨らむ。
そして、大が金属球を吐き出した。
小皿の上に落ちた球は、明らかに大きくなっていた。
創は無言で測定器を取り出した。
直径。
質量。
密度。
すべて測る。
元の金属球に対し、質量は約二・七倍。
密度は、測定誤差の範囲で変わっていない。
「…………」
創は黙り込んだ。
「……機巧君?」
盾真が声をかける。
「……増えてる」
創は呟いた。
「……本当に、増えてる」
そして、椅子に深く腰を下ろした。
「……やべえ」
その声は、興奮ではなかった。
恐怖だった。
◆
「……巨勢」
創は真剣な顔で大を見た。
「お前、この実験のこと、他のやつに話すな」
「ん? なんでだ?」
「いいから」
「でもよ、創」
「頼む」
創は頭を下げた。
大は驚いた。
それまでずっと騒がしかった創が、初めて真剣な声で頼み込んできたのだ。
「……おう。わかったぜ」
創は息を吐いた。
「……ありがとな」
盾真が静かに口を開いた。
「機巧君」
「……なんだよ」
「大君の個性が、社会に与える影響を懸念しているのですね」
「ああ」
創は頷いた。
「もし本当に、どんな物質でもリスクなしで増やせるなら……」
机の上の金属球を見る。
「金の価値が暴落するかもしれねえ。資源を輸出してる国の経済が崩れるかもしれねえ。逆に、希少資源を必要としてる産業は一気に発展するかもしれねえ」
創は続けた。
「物流だってそうだ。物資を小さくして運べるなら、輸送コストは劇的に下がる。巨大化で資材を増やせるなら、建設も製造も変わる」
「ええ」
「だが、そんな都合のいい話だけじゃ済まねえ」
創の表情が険しくなる。
「質量を自由に増やせるってことは、兵器にも使える」
大の笑顔が、少しだけ消えた。
「……兵器?」
「ああ」
創は頷いた。
「小さな物体を、巨大な質量に変える。そんな技術を欲しがる連中がいねえわけがない」
実験室に沈黙が落ちた。
盾真は、大を見上げた。
二百五十センチの巨体。
豪快で、人懐っこくて、誰に対しても分け隔てなく接する少年。
その大が。
誰かに利用される。
誰かの利益のために、身体を使われる。
誰かの命令で、延々と物質を増やし続ける。
――冗談ではない。
盾真の胸の奥で、冷たい感情が膨らんだ。
「……機巧君」
声は穏やかだった。
「この実験の記録は、どこに保存されていますか?」
「……あ?」
「記録です。測定結果、映像、音声。すべて」
「そりゃ、俺の端末と実験室の記録装置だけど……」
「では、外部から閲覧できないようにしてください」
盾真は微笑んだ。
「可能なら、研究内容も当面は伏せていただきたいですね」
「……お前」
創は盾真を見た。
「何考えてんだ?」
「大君の安全ですよ」
盾真は即答した。
「この能力が公になれば、大君は多くの人間から利用価値を見出されるでしょう」
「……まあ、そうだな」
「政府、企業、研究機関。場合によっては犯罪組織も」
盾真の笑みは変わらない。
「大君を一人の人間ではなく、便利な資源生産装置として扱う人間が現れるかもしれません」
創は黙った。
「僕は、それが気に入りません」
静かな声。
だが、そこには明確な拒絶があった。
「大君は、誰かの所有物ではありませんから」
大は二人を見比べた。
「……なんか、すげえ話になってきたな!」
そして、豪快に笑った。
「はっはっは! でもよ、俺はヒーローになるんだぜ?」
二人が大を見る。
「困ってるやつがいたら助ける! 手伝いを求められたらそりゃあ手伝ってやりてぇ!」
大は胸を張った。
「でも、誰かに命令されて嫌なことをするつもりもねえよ!」
琥珀色の瞳が、まっすぐ二人を見つめる。
「俺の個性は俺のもんだ! どう使うかは俺が決める!」
創は目を瞬かせた。
盾真は、ゆっくりと笑みを深めた。
「……ええ」
その声は、ひどく満足そうだった。
「その通りです、大君」
――そうだ。
――あなたは、誰のものでもない。
――誰にも、好き勝手に使わせたりしない。
盾真は大を見上げた。
その瞳に宿る感情を、創は読み取れなかった。
◆
「……さて」
創は気を取り直した。
「次は食事についてだ」
「おう! 飯か!」
大の顔が明るくなった。
「いや、食事の実験だ!」
「なんだ、食えるんじゃねえのか!」
「食うけどな!」
創は机の上に、二つの容器を置いた。
一つは普通の大きさ。
もう一つは、小さな容器。
「巨勢。お前、食事するときは縮むんだよな?」
「おう! 三十センチくらいになって食うぜ!」
「なんでだ?」
「そりゃ、食う量が減るからだな!」
「……空腹になりにくくなるのか?」
「いや? 腹は普通に減るぜ!」
「……ん?」
創は首を傾げた。
「じゃあ、なんで食う量が減るんだ?」
「胃袋が小さくなるからだろ?」
大は当然のように答えた。
「身体が小さくなりゃ、腹に入る量も少なくなるからな!」
「……ああ」
創は頷いた。
「なるほど。満腹になるまでの量が減るわけか」
「そういうことだ!」
「じゃあ、腹が減るまでの時間は?」
「変わんねえな!」
「……マジか」
「おう! 俺、燃費悪いからな! 小さくなっても腹は減るぜ!」
創はノートに書き込んだ。
『縮小による食事量減少=胃容量の減少』
『空腹までの時間=大きな変化なし』
『燃費の悪さは維持』
「……なるほどな」
創は腕を組んだ。
「つまり、縮小すれば食費は抑えられるが、食事の頻度まで減るわけじゃねえのか」
「おう! そうだな!」
「……変な個性だな」
「はっはっは! 今さらだろ!」
盾真が口を開いた。
「大君は、食事のたびに縮小するのが習慣になっているのですよね?」
「おう! 専用の食器もあるぜ!」
「ふふ。今度、ぜひ拝見したいですね」
「おう! 今度うち来いよ!」
盾真の笑みが、わずかに深くなった。
「……ええ。ぜひ」
創は二人を見た。
「……お前ら、なんか俺の知らねえところで話進んでねえか?」
「気のせいでしょう」
「絶対気のせいじゃねえだろ!」
◆
続いて筋力測定。
大は百八十センチに戻り、握力計を握った。
表示が跳ね上がる。
「……おいおい」
創は呟いた。
「このサイズでも十分化け物じゃねえか」
「はっはっは! 鍛えてるからな!」
「鍛えてるってレベルじゃねえよ!」
次に二百五十センチ。
測定器の上限を超えた。
「……駄目だ。機械が足りねえ」
「じゃあ、小さくなるか?」
「ああ。百センチまで頼む」
大が縮む。
再び握力計を握る。
今度は数値が出た。
創は計算を始めた。
「……ん?」
もう一度計算する。
「……なるほど」
「どうした?」
「筋力の変化が、質量の変化と一致してねえ」
創はホワイトボードに図を描いた。
「質量は身長の三乗に比例する。でも筋力は、単純にその割合で変化するわけじゃねえ」
「そうなのか?」
「ああ。筋肉の断面積に近い傾向がある」
創は続けた。
「普通、身体が大きくなるほど、自分の体重を支えるのが難しくなる」
「おう」
「なのにお前、百メートルになっても普通に歩いてたよな?」
「おう! 走ることもできるぜ!」
「それがおかしいんだよ!」
創は頭を抱えた。
「普通なら自重で潰れる! 骨も筋肉も耐えられねえ!」
盾真が口を開いた。
「つまり、大君の個性には、巨大化した身体を維持するための補正が存在する可能性があるわけですね」
「そういうことだ!」
創は頷いた。
「骨格の強度か、筋肉の出力か、それとも別の仕組みか。とにかく、通常の生物学じゃ説明できねえ何かがある!」
「はっはっは! 俺の身体、そんなに面白いか!」
「面白いに決まってんだろ!」
創は即答した。
「お前の個性、調べれば調べるほどわけわかんねえ!」
盾真は大を見上げた。
「ええ。本当に素晴らしい身体ですね」
「……お前、今の話ちゃんと聞いてたか?」
「もちろんですよ、機巧君」
盾真は微笑んだ。
「僕は最初から、大君が素晴らしいと申し上げているだけです」
「……そうかよ」
◆
最後の実験は、巨大化時の触覚だった。
場所を移し、雄英高校の屋外訓練場。
念のため担任の岩動剛志が立ち会う中、創は大を見上げていた。
「巨勢! 今日は最大八十メートルまでだ!」
「おう! わかってるぜ!」
大は上着を脱ぎ、巨大化に対応した特注のパンツ姿になった。
盾真がその隣に立つ。
「大君。何か異常を感じたら、すぐに中止してくださいね」
「おう! 任せろ!」
大の身体が膨れ上がった。
五メートル。
十メートル。
二十メートル。
五十メートル。
そして。
八十メートル。
巨大な影が訓練場を覆った。
「……っ!」
創は思わず息を呑んだ。
知識としては知っていた。
入学試験の映像も見た。
だが、実際に目の前で見ると、まるで違う。
空を背景にそびえ立つ、巨大な人間。
山のような胸板。
建造物ほどもある腕。
そして、そのすべてが生きた肉体なのだ。
「……すげえ」
創の口から、素直な感嘆が漏れた。
隣の盾真は、何も言わなかった。
ただ、頬をわずかに紅潮させている。
薄紫の瞳は、巨人の姿を一瞬たりとも見逃すまいとするように輝いていた。
『おーい! 創! 聞こえるかー!』
頭上から声が降ってくる。
空気が震えた。
「聞こえる! 声でけえよ!」
『はっはっは! すまん!』
創は携帯端末を取り出した。
「まずは触覚だ! 巨勢、手を下ろしてくれ!」
『おう!』
巨大な手が、ゆっくりと降りてきた。
その手のひらだけで、小さな部屋ほどの広さがある。
創は用意していた圧力測定器を取り出した。
「まず、指先に触れるぞ!」
『おう!』
創が巨大な人差し指に触れる。
「わかるか!?」
『おう! 触ったな!』
「じゃあ、これは!?」
創は測定器で指先を軽く押した。
『……ん?』
「どうだ!?」
『なんか触ってるのはわかるけど、細かい感覚はあんまりないな!』
創は頷いた。
「やっぱりか……!」
大は以前、自分の触覚について説明していた。
八十メートルまでは、手のひらに人間を乗せても、その存在を認識できる。
しかし、それ以上になると、ほとんど感じなくなる。
創はその境界を調べようとしていた。
「巨勢! 今度は手のひらに乗るぞ!」
『おう! 気をつけろよ!』
創が手のひらに乗ろうとした、そのとき。
「お待ちください」
盾真が割って入った。
「その役目は僕が引き受けます」
「はあ!? なんでだよ!」
「大君の感覚を調べるのでしょう? ならば、僕が乗った方が適切です」
「何が適切なんだよ!」
「僕の障壁なら、万が一の際にも落下を防ぐことができます」
「……あー」
創は言葉に詰まった。
確かに、その点は合理的だった。
「……わかったよ。じゃあお前が乗れ」
「ありがとうございます」
盾真はにこりと笑った。
そして、大の巨大な手のひらへと足を踏み出す。
八十メートルの巨人。
その手のひらに乗る。
入学試験で初めて見たときから、何度も想像していた光景だった。
巨大な指。
広大な掌。
自分の身体など、簡単に包み込めてしまう圧倒的な大きさ。
盾真は胸の奥が熱くなるのを感じた。
『盾真! 乗ったかー!?』
「はい、大君!」
声が少し弾んだ。
「問題ありません!」
『おう! じゃあ少し持ち上げるぞ!』
手のひらが上昇する。
地面が遠ざかっていく。
十メートル。
二十メートル。
そして、巨人の胸元へ。
盾真は手のひらの中央に立った。
目の前には、大の巨大な顔がある。
琥珀色の瞳。
太い眉。
豪快な笑顔。
『どうだ、盾真! 怖くねえか!?』
「……まさか」
盾真は微笑んだ。
「最高ですよ、大君」
その声は、地上の創には届かなかった。
◆
「おーい! 障守! 聞こえるか!」
通信機から創の声が響いた。
『まずは巨勢の指先に触れてくれ!』
「承知しました」
盾真は大の人差し指に手を伸ばした。
指の腹に、そっと触れる。
『大君。わかりますか?』
『おう! 触ってるな!』
『じゃあ、これは?』
盾真は指先を軽く撫でた。
『……んー? なんか動いてる気はするな!』
『では、こちらは?』
今度は両手で押してみる。
『おう! それはわかるぜ!』
盾真は通信機に報告した。
「機巧君。軽い接触は認識できますが、細かな動きは判別しづらいようです」
『よし! 次は手のひらの中央で動いてくれ!』
盾真は手のひらを歩いた。
大の巨大な掌紋が、足元に広がっている。
その感触を確かめるように、一歩ずつ進む。
『大君。僕が今どこにいるかわかりますか?』
『おう! 真ん中あたりだろ!』
「正解です」
『はっはっは! よかったぜ!』
盾真は笑った。
そして、ふと思いつく。
「大君。少しお願いしてもよろしいですか?」
『ん? なんだ?』
「僕を、軽く握ってみてください」
通信機の向こうで創が叫んだ。
『おい! 勝手な実験すんな!』
「安全性の確認です」
『絶対違うだろ!』
大は少し考えた。
『……大丈夫か? 力加減、難しいぞ?』
「大丈夫ですよ。僕が障壁を展開しますから」
盾真の周囲に、半透明の正六角形が現れる。
二十四枚。
それらが連結し、盾真を包み込むような防護構造を形成した。
「これなら、多少の圧力は受け止められます」
『おお! すげえな!』
「ふふ。ありがとうございます」
大の巨大な指が、ゆっくりと動いた。
一本。
二本。
そして五本。
巨大な手が、盾真を包み込む。
視界が暗くなる。
周囲を、大の指と手のひらが覆っていく。
盾真は目を細めた。
自分より遥かに大きな存在に、完全に包み込まれている。
その気になれば、ひと握りで自分を潰せるほどの力。
けれど、その力は今、自分を傷つけないよう慎重に制御されている。
――ああ。
盾真は胸の奥で、静かに息を吐いた。自分の周りの障壁を解除する。ほんの少し圧力が増したが、何の問題もなかった。
――本当に。
――たまらないですね。
『盾真! 大丈夫か!?』
巨大な声が響く。
「……ええ」
盾真は笑った。
「とても、心地よいですよ」
◆
実験が終わる頃には、すっかり夕方になっていた。
大は二百五十センチに戻り、服を着直していた。
「いやー! 面白かったな!」
「……ああ」
創は分厚いノートを抱えている。
ページには、びっしりと数字と考察が書き込まれていた。
だが、その表情は複雑だった。
「巨勢」
「おう?」
「……お前の個性、まだ全然わかんねえ」
「はっはっは! そうか!」
「ああ」
創は苦笑した。
「でも、一つだけわかったことがある」
「なんだ?」
創は大を見上げた。
「お前の個性は、ただ身体を大きくしたり小さくしたりするだけじゃねえ」
少し間を置く。
「……世界を変えられるかもしれねえ個性だ」
大は目を丸くした。
そして、豪快に笑った。
「はっはっは! そりゃすげえな!」
創も笑った。
だが、その笑みには、わずかな緊張が残っていた。
盾真は、そんな二人を静かに見つめていた。
◆
その夜。
サポート科の実習室で、創は一人、今日の実験結果を整理していた。
質量変化。
体内物質の追従。
筋力と体格の関係。
縮小時の食事量。
巨大化時の触覚。
どれも興味深い。
だが、創が最も気になっていたのは、やはり金属球の実験だった。
机の上には、二つの金属球が置かれている。
一つは、縮小したもの。
もう一つは、巨大化したもの。
どちらも、元の大きさには戻っていない。
創は小さな金属球を摘み上げた。
「……これ、どうすんだよ」
呟く。
大の個性があれば、資源を増やせる。
物資を小さくして運べる。
巨大な建造物の材料を、簡単に用意できるかもしれない。
だが。
それは同時に、世界中の人間が大を欲しがる理由にもなる。
金を増やしてほしい。
希少金属を増やしてほしい。
資源を増やしてほしい。
兵器を作ってほしい。
そして、誰かが必ず考える。
巨勢大という人間を、自由に使えるようにできないか、と。
「……くそ」
創は金属球を机に置いた。
自分は発明家になりたい。
人の役に立つ道具を作りたい。
個性の可能性を広げたい。
だが。
今日、初めて思った。
知らない方がよかったことも、あるのかもしれない。
創はしばらく黙っていた。
そして、ノートを開いた。
新しいページに、一つの見出しを書く。
『スケールシフト研究計画』
その下に、さらに一行。
『研究目的:巨勢大の個性の解明と、安全な運用方法の確立』
創はペンを止めた。
少し考え、もう一行を書き足した。
『研究成果の公開には、本人の同意を必須とする』
「……よし」
創は頷いた。
「絶対、変な連中には利用させねえ」
机の上には、小さな金属球が転がっている。
それは、世界の常識を覆しかねない発見の証拠だった。
そして。
その発見をした少年は、まだ十五歳だった。