人が鬼に喰われる。
そんな話を、いまどき本気で信じる者がどれだけいるだろう。街には防犯カメラが並び、誰もがスマートフォンを持ち歩いている。
人は空を飛び、宇宙へ出て、不治と呼ばれた病のいくつかさえ退けた。百年前なら物の怪の仕業にされた出来事も、今は理屈で説明がつく。少なくとも、世間はそう思っていた。
それでも、説明のつかない事件は起きる。深夜の住宅街から消えた会社員。山中で見つかった、獣の仕業とは思えない遺体。防犯カメラの端を、人とは思えない速さで横切る黒い影。ネットでは加工だ、新種の生物だ、人体実験だと騒がれたが、出所の怪しい映像などありふれていて、数日もすれば別の話題に埋もれていく。
ただ、真相を知る者がいないわけではなかった。闇に紛れて人を喰らう存在が、今も生きていること。鬼と人との戦いが、千年以上続いていること。彼らはそれを知っている。
◇
十二月の奥多摩。冷たい風の抜ける坂道を、大きな荷物を背負った少年が白い息を吐きながら登っていた。
「よし、あと三軒だ!」
竈門炭治郎、十五歳。赤みがかった瞳に、額の火傷の痕。耳には花札のような耳飾りが揺れている。父を亡くしてから、学校に通う傍ら、母や弟妹を支えて家業の炭焼きを手伝ってきた。
令和の今、炭を日常に使う家は多くない。それでも飲食店やキャンプ場、昔なじみの客が、竈門の炭を買ってくれる。注文の管理は近ごろ禰豆子が引き受け、ネット経由の客も増えた。ただ近所への配達だけは、客と話すのが好きな炭治郎が自分の足で回っていた。
山道沿いの小さな飲食店で、女性店主は炭の具合を確かめて目を細めた。
「ここの炭は火持ちがいいから助かるよ。お父さんの頃から変わらないねえ」
「父さんの焼き方を、母さんと守ってるんです!」
「それにしても、歩いて来なくたって配達に頼めばいいのに」
「近くのお客さんには直接届けたいんです。重い荷物を運ぶのも鍛錬になりますし」
「何の鍛錬だい」
炭治郎は少し考えて、背中の荷物を見下ろした。
「……足腰、ですかね?」
「こっちに聞かれても困るよ」
呆れて笑った店主が、うちの孫なんか休みの日はずっとスマホだと零す。炭治郎もポケットから端末を出し、禰豆子が送ってくれた注文の一覧を見せようとして、画面の隅の数字に気づいた。
「あ、充電がもう十パーセントだ」
「朝のうちにしてこなかったのかい」
「したんですけど、六十パーセントくらいで出てきちゃって。今日は地図も何度も見たし、写真も送ったので」
「いつも足りるからって、今日も足りるとは限らないよ」
「はい、次から気をつけます!」
「返事だけは百パーセントだねえ」
店主は笑いながら奥へ引っ込み、小さな包みを持って戻ってきた。
「今日作ったお饅頭。弟さんたちと食べなさい」
「ありがとうございます! みんな喜びます!」
残る二軒を回り終えて帰路についた頃には、空は夕暮れの色に染まっていた。背中の荷物は軽くなったが、歩き通しの足は重い。午後五時を回ると山はもう夜の暗さで、炭治郎が襟を引き寄せたところで、ポケットの端末が震えた。
母からだった。『帰りが遅くなるようなら連絡してね』。
続けて禰豆子から、台所に並ぶ野菜と鍋の写真が届く。なぜか誇らしげに親指を立てた茂が一緒に写っていて、『今日は茂もお手伝いしたよ』と添えられていた。
炭治郎は思わず笑い、『すごいな! 茂にもありがとうって伝えてくれ!』と返した。すぐに返信が来る。
『ところでお兄ちゃん、帰りにお豆腐買える?』
集落の商店に寄れば間に合うだろう。『わかった!』と送ると、笑顔のスタンプが返ってきた。口元を緩めたところで、画面の隅の残量が一パーセントになっているのに気づく。母に遅くなると知らせようとした矢先、画面が暗転した。電源ボタンを押しても、何も映らない。
「あと一通だったのに」
店主の言葉が頭をよぎり、炭治郎は小さく息を吐いた。道はわかっているから、困りはしない。ただ、家族を心配させるのは嫌だった。帰ったらすぐ充電しよう、と思いながら家路を急いだ。
◇
同じ頃、東京都内。高層ビルの地下深くで、一人の男が実験映像を眺めていた。壁の大型モニターには二つの映像が並んでいる。人工光を浴びた黒い組織片は、表面を焼かれながらもゆっくりと元の形に戻っていく。同じ由来の組織片に自然の太陽光を当てた方は、再生する間もなく崩れ、灰のような残滓だけになった。
「これが今回の結果か」
穏やかな声だったが、背後の研究員の肩が小さく跳ねた。
「第七十六試験です。照射強度を三割ほど上げ、可視光域の比率も……」「結果を聞いている」
研究員は言葉を詰まらせ、資料を握り直した。
「……完全崩壊には至りませんでした。ただ、再生速度は従来より、最大で一・八パーセント低下しています」
「六日かけて、誤差のような数字を持ってきたのか」
「申し訳ありません!」「謝れと言ったか」
男が歩み寄ると、研究員は後ずさった。
「金も設備も人も、望んだものは与えている。次があると思うな」
男が指先で机の資料を弾き、紙束が床に散らばった。研究員は慌てて拾おうとするが、指が震えて、一枚拾うたびに別の一枚が滑り落ちる。
「もう一度だけ機会をやる。礼を言う暇があるなら働け」
扉が閉まると、男はモニターに向き直った。傷ついた組織が、跡形もなく塞がっていく。
「忌々しい」
瞳が赤く染まる。鬼舞辻無惨。千年以上も死を拒み続けてきた、すべての鬼の始祖である。
この百年、無惨は人間の科学が育っていくのを見てきた。医学は進み、遺伝子の構造が解かれ、細胞の仕組みが暴かれた。その恩恵を使わない手はない。表向きは生命科学の企業を支配し、研究者を集めて巨額を注いでいる。彼らは試料の正体を知らず、異常な再生能力を持つ細胞組織、とだけ聞かされていた。それで足りる。交換のきく道具にすぎない。
だが、その道具をどれだけ揃えても、太陽は越えられなかった。紫外線も可視光も赤外線も、既知の条件はすべて再現した。弱い鬼なら人工光でも殺せる。それでも自然の太陽光と同じ結果にはならない。何が違うのか、無惨にはわからなかった。
「青い彼岸花」
かつて自分を鬼に変えた薬の原料。あれさえあれば、未完成のままの薬を仕上げられれば、太陽を克服できるかもしれない。
机のスマートフォンが震えた。西多摩で、青い彼岸花らしき植物を記した古い採集記録が見つかったという報告だった。添付の写真には、変色した手帳と、掠れた字の横の簡素なスケッチ、山の斜面の略図。現在の地図に重ねると、奥多摩の山間の一帯を指している。
採集者の素性は曖昧で、本物かどうかも怪しい。似た記述を追って空振りに終わったことは、一度や二度ではない。それでも、無視する理由にはならなかった。
黒いコートを取り、無惨は最後にもう一度モニターを見た。人工光を浴びた組織は、すでに元の形を取り戻している。
「西多摩か。くだらん研究結果を聞くよりは、よほど有益だな」
◇
午後六時を過ぎた頃、炭治郎は山道の途中で足を止めていた。いつもの近道が落石で通れなくなっていたのだ。迂回すれば時間がかかるうえ、商店はもう閉まっている。豆腐も買えず、母たちにも連絡できない。ため息をついて荷物を背負い直し、迂回路を歩き出すと、木々の向こうに見覚えのある灯りが見えた。
「あっ、三郎さんの家だ!」
引き戸を開けて顔を出したのは、近所の老人だった。竈門家とは昔からの付き合いで、炭治郎も幼い頃から世話になっている。
「こんな時間に何してる」
「配達が長引いたのと、道が通れなくなっていて。スマホも充電が切れてしまって」
「またか。先月も同じこと言ってなかったか」
「はい」
「若いもんはスマホに頼りすぎだと思ってたが、お前はもう少し頼れ」
「すみません!」「褒めてねえぞ」
三郎は笑わなかった。炭治郎の荷物に目をやり、声を落とす。
「今から帰るつもりか。今日はやめとけ。この辺りで、また人が消えた」
一昨日、山の向こうで男が一人。先月も似たことがあったらしい。警察が調べているが、まだ見つかっていないという。奥多摩で山の遭難は珍しくない。それでも三郎の口調には、ただの世間話にはない重さがあった。
「昔から、この辺りじゃ夜に出歩くなって言うだろう」
「鬼が出る、って話ですよね」
「お前は信じねえのか」
炭治郎は少し考えてから答えた。
「見たことがないので、わかりません。でも、見たことがないからって、絶対にいないとも言えないですよね」
三郎は炭治郎の顔をしばらく見つめ、黙って頷いた。
「だったら泊まっていけ。夜の山を甘く見るな。何かあったら、母ちゃんたちが悲しむだろうが」
戸口の向こうには街灯もなく、木々の間はすでに真っ暗だった。落石のこともある。三郎がここまで強く引き止めるのには、理由があるのだろう。
「……お世話になります」
借りた電話で事情を話すと、母の葵枝は少し心配そうだったが、三郎の家だと聞いて安心したようだった。
『三郎さんに、きちんとお礼を言ってね』
「うん。明日の朝、早く帰るから。あ、禰豆子に、豆腐が買えなかったって伝えてくれる? ごめんって」
『明日、自分で言ってあげてね』
「うん。おやすみ、母さん。みんなにも」
『おやすみ、炭治郎』
受話器を置くと、囲炉裏のそばには湯気の立つ鍋が運ばれていた。
「肉はもうねえぞ」
「野菜だけで十分です!」
「本当にいい子だな、お前は」
冷えきった体に、煮込まれた大根と白菜の汁が沁みた。
◇
午後七時四十八分、竈門家。
窓の外を見ていた茂が、「お兄ちゃん帰ってこないの?」と口を尖らせた。鍋の火を弱めながら、禰豆子が答える。
「三郎さんのお家に泊まるって。道が通れなくなってるみたいだから」
「でも、豆腐は?」
「茂は、お兄ちゃんが心配なの? 豆腐が心配なの?」
茂は真剣に考え込んだ。
「両方」
禰豆子が吹き出すと、六太が元気よく手を挙げた。
「僕はお兄ちゃんが心配! でも豆腐も食べたい!」
「兄ちゃん、明日買ってくるってさ」
竹雄がそう言うと、花子が嬉しそうに頷いた。
「じゃあ明日はお豆腐いっぱいだね」
居間に笑い声が広がった。父が亡くなってから苦しいこともあったが、この家から笑い声が絶えたことはない。炭治郎のいない夕食は少し寂しいが、朝には帰ってくる。きっと、豆腐のことを何度も謝るだろう。葵枝はそんな子どもたちを穏やかに見守っていた。
「さて、ご飯にしましょうか」
葵枝が立ち上がったとき、玄関のチャイムが鳴った。来客の予定はない。禰豆子がインターホンのモニターを覗くと、黒いコートに品のいい帽子の男が映っていた。整った顔立ちの、どこか都会的な雰囲気の男だった。
『夜分に失礼します。この土地について、少しお伺いしたいことがありまして。古い植物の調査をしています』
「詳しいことは、母に聞いてみないと……」
『そうですか』。男の視線が、玄関脇から家の裏手へ続く踏み跡をなぞった。
『この家は、昔からこちらに?』
「はい。でも、あの……」
『では、家の者に聞く』
「今、母を呼びますので」『必要ない』
冷たく言い捨てられ、禰豆子は思わず後ずさった。画面越しの視線が、ひどく恐ろしいものに思えた。居間へ声をかけようとしたとき、玄関の扉で小さく金属が軋んだ。鍵の周りに亀裂が走る。扉が内側へ押し開かれ、壊れた錠前が床に落ちた。冷たい夜気とともに、男が玄関へ足を踏み入れる。
「何を……」
「騒ぐな。私は時間を無駄にするのが嫌いでな」
奥から葵枝の声がした。
「禰豆子? どうしたの?」
「お母さん、来ちゃ駄目!」
叫んだときには、男はもう廊下へ踏み出していた。
◇
翌朝、炭治郎は窓の薄明るさに気づいて跳ね起きた。時計は六時二十分。昨夜は三郎と話しているうちに眠ってしまったらしい。慌てて布団を畳み、荷物を背負う。
「朝飯くらい食ってけ」
「家で食べます! ありがとうございました!」
外に飛び出すと、冷たい空気が頬を刺した。空は白み始めているが、稜線にはまだ日が隠れている。屋根にも道端の草にも、薄く霜が降りていた。
坂を登りながら、炭治郎は家の朝食のことを考えていた。茂は豆腐がないと文句を言うだろうか。先に禰豆子に謝って、三郎の鍋のお礼も母に伝えなければ。饅頭もある。見せれば六太が真っ先に駆け寄ってきて、花子は自分の分を半分にして母にあげようとするだろう。そんな顔を思い浮かべていた炭治郎の足が、ふいに止まった。
鼻の奥に、嫌な匂いが触れた。鉄のような、生臭い匂い。山のどこかで獣が死んでいるのかと辺りを見回したが、匂いは風に乗って、もっと先から流れてくる。風上には、自分の家がある。背筋に冷たいものが走り、炭治郎は駆け出した。近づくほど血の匂いは濃くなった。息が上がっても、足がもつれても止まれなかった。
最後の曲がり角を抜けると、家の玄関が目に入った。扉は不自然に傾き、足元には木片と金属の破片が散らばっている。玄関の上の防犯カメラも、根元から折れていた。
「母さん? 禰豆子! 竹雄!」
返事はない。床には赤黒い跡があり、誰かを引きずったように廊下の奥まで続いていた。背中の荷物を下ろすのも忘れて、居間の引き戸を開けた。
そこに、家族が倒れていた。
割れた茶碗、倒れたテーブル、壁一面に飛び散った、見たこともない量の血。茂、竹雄、花子、六太。見慣れた服の弟妹が、あちこちに倒れている。母もいた。誰も動かなかった。
母の肩に触れると、冷たかった。何かの間違いだと思って何度も揺すり、顔を覗き込む。
「母さん、起きてよ。俺、帰ってきたよ。三郎さんのところに泊まってたんだ。電話、しただろ?」
頬の血を拭おうとして、自分の手まで赤く染まった。袖で拭い直しても、母は目を閉じたまま答えない。六太を抱き起こして名前を呼び、花子の手に触れ、竹雄にも茂にも声をかけた。誰か一人でも返事をしてくれないかと呼び続けたが、誰も目を開けなかった。
六太を床へ戻そうとしたとき、指に小さな手が触れた。何かあるたびに、炭治郎の服を引っ張っていた手だった。
「六太……お願いだから、起きてくれよ……」
その手を握ったまま、動けなくなった。息を吸おうとしても喉が詰まり、母の顔は涙で滲んで見えない。目の前の光景を、どうしても受け入れられなかった。
「うあああああっ!」
少年の叫びが、朝の山に響き渡った。
◇
その頃、竈門家から少し離れた山の斜面を、左右で柄の違う羽織の男が歩いていた。腰には刀。足音を立てず、木々や地面に目を配りながら進んでいる。
冨岡義勇、鬼殺隊の水柱。近隣で続く失踪事件を追って夜通し山道を回っていたが、鬼の姿はまだ捉えていなかった。夜が明け、別の道へ移ろうとしたとき、山の向こうから少年の叫びが届く。声のほうには家が点在し、一軒だけ玄関の戸が壊れていた。義勇は山道を離れ、木々の間を斜面ごと駆け下りた。
◇
炭治郎は母の着物を握ったまま膝をついていた。どれだけ時間が経ったのかわからない。そのとき、倒れた棚の陰で何かが動いた。
「禰豆子……?」
血にまみれた妹が、棚の陰に横たわっていた。触れると温かい。指先がかすかに動く。
「禰豆子! 聞こえるか!」
生きている。慌てて自分のスマートフォンを出したが、昨日から切れたままで、いくら押しても反応しない。
「くそっ!」
床に母の端末が落ちていた。画面は割れていたが、点いた。震える指で、一、一、九を押す。
『火事ですか、救急ですか』
「救急です! 家族が血だらけで……奥多摩町の……」
声は何度も詰まり、そのたびに相手が落ち着いた声で住所を確かめてくれた。
『傷病者は何人ですか』
「六人です。母さんと、弟たちと、妹と……妹だけ、息をしてて」
『ほかの方の呼吸は確認できますか』
炭治郎は母を見た。動かない。抱き起こしたときの冷たさが、手のひらに残っていた。
「お願いです、早く来てください」
『救急車は向かっています。電話は切らずに、指示を聞いてください』
返事をしかけたとき、腕の中で禰豆子の体が跳ねた。指が床を掻き、肩が激しく震える。
「禰豆子? どうした!」
目が開いた。見慣れた瞳が赤く変わり、口元に人のものではない牙が覗いている。次の瞬間、禰豆子が跳ね起きた。炭治郎は押し倒されて背中を床に打ちつけ、手から落ちた母の端末が『もしもし?』と鳴ったが、答える余裕はなかった。妹とは思えない力で押さえ込まれ、口が喉元に迫る。咄嗟に腕を突き出した。牙が触れそうになったその瞬間、禰豆子の動きが止まった。口元を震わせ、苦しげに顔を歪めたまま、それ以上近づいてこない。
「禰豆子、俺だ。炭治郎だよ」
赤い瞳も牙も伸びた爪も、知っている妹のものではない。何が起きたのか、何一つわからなかった。それでも禰豆子は泣いていた。「大丈夫だ。お兄ちゃんがいるから」震える手を伸ばすと、涙が頬を伝った。
「そこから離れろ」
背後で低い声がした。黒い影が視界を横切り、禰豆子の体が引き剥がされる。目の前に、黒髪に左右で柄の違う羽織の男が立っていた。手には刀。男は炭治郎を背に、禰豆子と向き合っている。
「鬼か」
「……鬼?」
「動くな。人を喰う前に斬る」
「待ってください! その子は妹です!」
「わかっている。鬼になっている」
「だったら!」「退け」「嫌です!」
炭治郎は両腕を広げて男を睨んだ。刀を見れば、脅しでないことはわかる。それでも退けなかった。
「禰豆子は俺の妹です。家族はみんな殺されたんです。母さんも、弟も妹も……生きてるのは、禰豆子だけなんです」
背後の居間が目に入って、言葉が詰まった。男は黙っている。
「お願いします、何でもします。だから妹だけは」
炭治郎は膝をつき、深く頭を下げた。
「助けてください!」
「生殺与奪の権を他人に握らせるな!」
怒声が室内に響いた。顔を上げると、それまで淡々としていた男の目に、激しい怒りが宿っていた。
「妹を守りたいと言いながら、その命を俺の判断に委ねるのか。頭を下げれば助けてもらえると思うな。鬼に、お前の願いなど通じない」
「家族を奪われたんだろう。妹まで奪われたくないなら、考えろ。今のお前に何ができるか、必死に考えろ」
炭治郎は唇を噛んだ。相手は刀を持っている。素手で敵う相手ではない。男の向こうで、禰豆子が唸りながら身を起こそうとしている。あの刀が振るわれたら、妹は二度と戻らない。どうすれば守れる。
倒れた棚のそばに薪が散らばり、血のついた包丁が一本転がっていた。炭治郎は頭を下げたまま、そっと柄を握った。一瞬でも、男の注意を妹から逸らせれば。
薪を掴んで立ち上がりざま男の顔へ投げ、続けて包丁を放ち、その陰から身を低くして駆けた。だが男は、飛んでくる刃に最初から気づいていた。半歩ずらして避け、炭治郎が懐に入るより早く体を捌く。腹に衝撃が走り、炭治郎は床を転がった。息が詰まって起き上がれない。
その横を、禰豆子が男へ飛びかかった。鋭い爪が迫り、男は刀を構え直す。ところが禰豆子の体は男の目前で向きを変え、倒れた兄の前に降り立った。
牙を剥き、低く唸りながら、男が右へ動けば右へ、左へ動けば左へ、兄との間に割って入る。爪は一度も炭治郎に向かなかった。男は刀を下ろさなかった。鬼が人を庇うなど聞いたことがない。かといって、先ほど兄を襲っていたのも確かだ。
やがて踏み込んできた爪を、男は刀を持たない腕で外し、横へ回り込んだ。背後へ抜け、振り向かれる前に首筋へ手刀を打ち込む。禰豆子の体から力が抜けた。
「禰豆子!」
駆け寄ろうとする炭治郎を、男は片手で制した。
「近づくな。殺してはいない」
足が止まる。男は妹の様子をもう一度確かめてから、ようやく炭治郎に顔を向けた。
「名前は」
「竈門炭治郎です。妹は禰豆子」
「竈門炭治郎。妹は鬼になっている。人を襲う可能性がある。お前も例外じゃない」
押し倒された感触は、まだ体に残っている。それでも炭治郎は、まっすぐ男を見た。
「禰豆子は俺を噛みませんでした。苦しそうにして、それでも我慢してくれたんです。さっきだって俺を守ってくれた。禰豆子は人を食ったりしません。俺はそう信じています」
男はしばらく黙っていた。庇った事実は、自分の目で見たものだ。
「……今はな。これからもそうだとは限らない。信じるだけでは守れない」
何か言い返したかったが、否定できるだけのものを、炭治郎はまだ何も持っていなかった。
「……はい」
男は刀を鞘に納めた。
「冨岡義勇。鬼を斬る者だ」
三郎から聞いた昔話が頭をよぎったが、まさか自分がそれを目にするとは思っていなかった。
「本当に、鬼がいるんですか」
「妹を見ただろう。鬼は傷を再生する。人間より遥かに強い」
「禰豆子を、人間に戻す方法はあるんですか」
「……わからない」
期待した答えではなかった。それでも禰豆子は生きている。炭治郎が妹の顔を見つめていると、義勇が窓の外へ目をやった。
「日が出る。鬼は太陽の光を浴びると死ぬ」
炭治郎は顔色を変えて窓に駆け寄り、カーテンを閉めた。
「日中は外に出すな。光を遮れ」
「はい!」
床の母の端末から、まだ声が聞こえていた。通話は切れていなかった。
『もしもし? 聞こえますか? 救急隊が向かっています。現場にほかの方はいますか』
炭治郎は端末を拾い、義勇を見た。
「助けに来てくれた人がいます。……俺は、大丈夫です」
口にした途端、その言葉がひどく空っぽに響いた。家族は死に、禰豆子は人ではなくなったという。それなのに自分は、大丈夫だと答えている。義勇は何も言わず、眠る妹に視線を戻した。
◇
遠くでサイレンが鳴り始めた。義勇は懐の端末で、複数の死者と二名の生存者、妹の鬼化を短く報告した。やがて救急車と警察車両が山道を上ってきたが、最初に入ってきた警察官は、義勇の腰の刀を見て足を止めた。
「あなたは? その刀は何です」
「冨岡義勇だ。照会してくれれば、担当者に伝わる」
義勇は刀から手を離し、逆らわずに待った。
家の中では救急隊員が家族の状態を確かめ、炭治郎も毛布を掛けられて怪我を尋ねられた。腕にも肩にも痛みはあったが、気になるのは妹のことだけだった。
「妹は! 禰豆子はどうなるんですか」
「妹さんも診ます。君もまず座って」
「待ってくれ」
義勇が声をかけた。
「その少女は、意識が戻ったとき周囲に危害を加えるおそれがある。詳しくは話せない。責任者に確認を頼む」
それでも容体を確かめないわけにはいかない。現場の責任者と警察官が相談して周囲の人員を下げ、隊員が一人だけ近づいた。呼びかけにも触れても、禰豆子は目を覚まさなかった。
九時過ぎ、側面に何の表示もない黒いワンボックスが着いた。降りてきた作業服姿の男女は、鬼殺隊の後方を支える隠だった。警察が無線で身元を照会する間も、彼らは禰豆子を起こさないよう、遮光設備のある車までの経路を静かに確かめていく。
炭治郎は女性警察官に家族のことを聞かれ、三郎の家に泊まったこと、最後に母と電話で話したこと、不審な人物に心当たりがないことを、言葉に詰まりながら話した。遺体の調査や葬儀のことは、これから説明があるという。すぐには家に帰れないが、手続きや生活の支援は担当者が一緒に考えてくれるらしい。炭治郎にはまだ、聞かれたことに答えるので精一杯だった。
「俺も一緒に行けますか」と隠の一人に尋ねると、離れずに済むよう調整している、と返ってきた。
警察官が温かい飲み物を差し出した。紙コップを両手で包み、冷えた指を温める。近くの机には、充電させてもらっていた自分のスマートフォンがあった。やがて画面が点き、通知が浮かぶ。禰豆子からだった。
『お兄ちゃん、帰りにお豆腐買える?』
その下に、昨日の自分の返事が残っている。『わかった!』。笑顔のスタンプ。何も知らずに送った一言が、そこにあった。
禰豆子はいつものように返事をくれたのに、同じように話せるのかさえ、もうわからない。
「ごめん……ごめんな、禰豆子」
約束したのに。画面を握りしめると、文字が滲んで涙が落ちた。女性警察官は何か言いかけて、そっと口を閉じた。
◇
昼前、禰豆子を乗せる車の用意が整い、炭治郎も一時的な保護先へ移ることになった。玄関の外で報告を受けていた義勇は、近づいてくる炭治郎に足を止めた。
「冨岡さん、一つ聞いてもいいですか。どうして刀を持った人が、警察の人と普通に話せるんですか」
義勇は炭治郎を見た。真面目な顔で見返されて、少し間が空く。
「説明すると長い」
「じゃあ、今度教えてください」
「わかった」
義勇は懐から一枚の紙を出した。住所と、鱗滝左近次という名前が書かれている。
「お前に行ってほしい場所がある。俺の育手だった人だ。鬼殺隊の剣士を育てる」
「俺が、剣士に?」
「なれるかどうかは、お前次第だ。今のお前では妹を守れない」
「……はい」
「鬼と戦う術を教えてくれる」
「そこに行けば、禰豆子を人間に戻す方法がわかりますか」
「わからない」
嘘のない答えだった。炭治郎は紙を見つめ、顔を上げた。
「それでも、行った方がいいんですよね。……俺、行きます。禰豆子を守れるくらい、強くなりたいんです」
義勇はわずかに頷いた。
「まず家族のことを済ませろ。今すぐでなくていい。終わったら鱗滝さんを訪ねろ。連絡は俺がしておく」
炭治郎は紙を大切に折って胸元にしまい、深く頭を下げた。義勇は一度だけ振り返り、車のそばの隠に禰豆子から目を離すなと短く告げて、山道を下りていった。左右で柄の違う羽織が木々の間に消えるまで、炭治郎はその背中を見送った。
◇
その日の午後、無惨は西多摩の報告書を机の端へ押しやった。古い採集地の周辺を調べても、対象植物の生育を裏づける資料は出てこなかったという。記録にある土地の名を知る者は少なく、当時の植生を覚えている人間などいるはずもない。道路の整備や地形の変化で、採集地点を割り出すことさえ難しかった。
「西多摩の記録を洗い直せ。採集者、土地の所有者、古い文献。調べるものはまだあるだろう」
「しかし、現存する資料はほぼ確認済みで……」「誰が終わりにしていいと言った。同じ報告を持ってくるな」
研究員が足早に出ていくと、無惨は壁のモニターに目を移した。地上の観測カメラが、冬の東京を映している。高層ビルの谷間から午後の日が差し、行き交う人々を照らしていた。世界は変わり、科学は進み、文明は育った。それでも、あの光だけは変わらない。
「いつまで私を煩わせる」
答える者はいなかった。
◇
同日午後三時、警視庁の会議室では、西多摩の一家殺傷事件の資料が広げられていた。現場の遺体には、通常の凶器では説明しにくい損傷がある。玄関の防犯カメラは破壊され、犯行の全容はつかめていない。周辺の失踪事件との関連も、まだ判断できなかった。
初老の男は写真を置いた。
「別の事件の可能性も残して調べろ。鬼殺隊からの情報は必要だが、我々が確認した事実と混同するな。報告は分けて整理しろ」
鬼化した少女が兄を襲いかけ、その後は兄を庇ったという報告も、冨岡本人の目撃として上がっている。
「少女の処遇をこちらで決める話ではない。ただ、現場で被害が出ないようにする責任まで消えるわけではない」
「それから、生存者の少年は十五歳だったな。家族を失ったばかりだ。保護と今後の生活については、担当部署と連携を取れ」会議室には、紙をめくる音だけが残った。
◇
夕方、炭治郎は隠が用意した一時的な保護施設で、眠り続ける禰豆子のそばにいた。窓は厚い遮光材で塞がれ、照明も落とされている。不用意に近づかないよう言われたが、手に触れることは許されていた。炭治郎は椅子を寄せ、妹の手をそっと握った。
「今日、冨岡さんに会ったんだ。すごく強い人だったよ。俺もあんなふうに強くなれるかな」
うまく笑えなかった。母の冷たい手。呼んでも答えなかった弟たち。花子がいつも座っていた場所。もう一度家に帰ればみんないるのではないか、とそこまで考えて、唇を噛んだ。
「禰豆子、俺、鱗滝さんって人のところに行こうと思う。鬼のことも、禰豆子がどうしてこうなったのかも、まだ何もわからない。だから強くなるよ」
部屋の外で人の話し声がする。葬儀の話もしなければならない。三郎にも会いたい。饅頭をくれた店主には、何と言えばいいのだろう。考え始めればわからないことばかりで、今は、目の前の妹が生きていることだけが支えだった。
握った手が、わずかに動いた。顔を覗き込むと、妹は目を閉じたままで、頬に一筋の涙が伝っていた。指先でそっと拭う。
「必ず、人間に戻すからな」
窓を塞がれた部屋には、朝も夕暮れもない。昨日まで当たり前だった太陽の光は、禰豆子にとって命を奪うものになった。炭治郎は眠る妹の手を握りしめた。いつかもう一度、禰豆子と一緒に朝日を見られる日が来ることを信じて。
◇
――第一話 了。
現代コソコソ噂話
無惨の研究施設では、研究員たちは扱っている試料の正体を知らないそうです。
驚異的な再生能力を持つ細胞ですが、研究員たちの間では単に「例の細胞」と呼ばれているのだとか。
ちなみに、研究所で最も恐れられているのは、その細胞ではなく所長だそうです。