―もしも炭治郎が現代に生まれていたら   作:オミ

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第2話 判断が遅い

家族の葬儀を終えた数日後、炭治郎は禰豆子とともに奥多摩を離れた。

出発の日、三郎が見送りに来てくれた。何か言いたげな顔をしていたが、結局口にしたのは一言だけだった。

「二人とも、ちゃんと帰ってこい」

「はい! 必ず帰ってきます!」

三郎は黙って頷き、炭治郎の肩を叩いた。

住み慣れた土地を離れるのは寂しい。けれど、立ち止まってはいられなかった。禰豆子を人間に戻すにも、まず鬼のことを知らなければならない。

 

義勇がくれた紙には、鱗滝左近次という名前と住所が書かれている。炭治郎は地図アプリで場所を調べ、道順と周辺の地形をダウンロードしておいた。二度と充電切れは起こさないと、大容量のモバイルバッテリーもリュックに詰めてある。

禰豆子はまだ言葉を話せないが、兄の言うことはある程度わかっているようだった。昼は眠り、夜になると起きている。炭治郎のそばから離れようとはしなかった。

狭霧山の麓に着いたのは、すっかり日が暮れてからだった。

 

◇

 

山道に入ってしばらくすると、スマートフォンが圏外になった。保存した地図は見られるが、現在地がずれている。

道は二手に分かれていた。片方は山の奥へ、もう片方は古いお堂のほうへ続いている。

「どっちだろう」

迷っていると、禰豆子がふいに顔を上げた。炭治郎もほぼ同時に気づく。風に乗って、血の匂いが流れてきた。獣のものではない。

「禰豆子、俺から離れるなよ」

声を落としたとき、お堂の陰から男が出てきた。痩せこけた体に薄汚れた服。片腕をだらりと垂らし、口の周りが赤く濡れている。

 

「おい、そこのお前」

「……はい」

「こんな時間に何してる。ここは俺の縄張りだ」

「人を探しています。鱗滝左近次さんという方なんですが、ご存じありませんか」

男は答えず、炭治郎の後ろにいる禰豆子へ目をやった。

「何だ、そいつ……鬼じゃねえか」

背筋が冷えた。男の口元が歪み、鋭い牙が覗く。

「面白えな。鬼と人間が連れ立ってるなんてよ」

次の瞬間、男が飛びかかってきた。

炭治郎は咄嗟に禰豆子を突き飛ばし、自分も横へ跳んだ。爪が地面を抉る。振り返った男が距離を詰めてくる。炭治郎はスマートフォンのライトを最大にして、その顔へ向けた。

「眩しっ!」

男が目を細めた。その隙に離れたが、人間離れした脚力ですぐに追いつかれる。

「小賢しい真似を!」

振り下ろされた腕をかわしきれず、肩を裂かれた。痛みをこらえて後ずさると、背中がお堂の壁にぶつかる。

そのとき、頭上の防犯照明が点いた。

人感センサーが反応したのだろう。強い白色の光が辺りを照らし、鬼の姿が浮かび上がる。だが鬼は、鬱陶しそうに顔をしかめただけだった。

(これでも駄目なのか)

義勇は、鬼は光を浴びれば死ぬと言った。けれど、これだけ明るい照明でも殺せない。人工の光では、鬼は倒せないのだ。

「余計なもんを!」

鬼が跳び上がり、照明を叩き壊す。辺りが闇に戻った。

その闇の中から、禰豆子が飛び出した。

強烈な蹴りが鬼の腹に突き刺さり、そのまま首まで振り抜かれる。鈍い音がして、鬼の首が胴体から離れ、宙を舞った。

「えっ……」

首は遠くの木にぶつかり、胴体は地面に倒れ伏す。人間なら即死だ。終わった、と炭治郎は思った。

「てめえ……同じ鬼のくせに……!」

声がした。木の根元に落ちた首が、こちらを睨んで喋っている。

さらに、首のない胴体が起き上がった。禰豆子の背後へ腕を振り上げる。

「禰豆子! 後ろだ!」

胴体が禰豆子に掴みかかるのと同時に、首の切り口から細い腕が二本生え、炭治郎の顔めがけて飛びついてきた。

「うわあっ!」

頭突きを食らって倒れる。顔に張りついた鬼の首が、耳元でわめいた。

「お前から喰ってやる!」

炭治郎は無我夢中で、腰の手斧を引き抜いた。炭焼きに使うものだ。顔に張りついた首を引き剥がし、近くの木の枝へ髪ごと叩きつける。斧で枝に縫い止めると、首は牙を鳴らして暴れた。

「離せ! ぶっ殺してやる!」

枝がみしみしと軋む。長くは持たない。胴体のほうでは、禰豆子が鬼の腕を掴んで押し返している。爪で肉を引きちぎっても、傷口から新しい肉が盛り上がってきた。

早く仕留めなければ、禰豆子が危ない。

炭治郎は足元の岩を拾い上げた。これで頭を叩き潰せば、少なくとも動きは止まる。

大きく振りかぶる。

そこで、腕が止まった。

(これを、振り下ろすのか)

首は醜く歪んでいたが、確かに人の顔をしていた。潰せば、骨が砕け、肉が潰れる感触が手に伝わるだろう。

「何してやがる! 早く離せ!」

相手は人を喰う化け物だ。わかっている。頭ではわかっているのに、腕が震えて動かなかった。

「何をしている」

背後で、低い声がした。

風が走り、白刃が閃いた。木に縫い止められた首が真っ二つに割れ、禰豆子と揉み合っていた胴体も、袈裟懸けに斬り落とされる。

斬られた体は、傷口から灰のように崩れ、夜風に溶けて消えた。

炭治郎が座り込んだまま振り返ると、天狗の面をつけた老人が立っていた。手には、月の光を鈍く返す日本刀。

「竈門炭治郎だな」

「は、はい!」

「冨岡から聞いている。鱗滝左近次だ」

「あなたが鱗滝さんですか!」

炭治郎は慌てて立ち上がり、頭を下げた。

「よろしくお願いします! 俺、鬼と戦えるように強く――」

「なぜ手を止めた」

言葉が途切れた。

「えっ」

「あの鬼の頭を潰そうとしただろう。なぜ止まった」

炭治郎は、手に持ったままの岩を見下ろした。

「……元は人間だったのかと思うと、手が動かなくなってしまって」

「その間も、お前の妹は戦っていた」

答えられなかった。

鱗滝は禰豆子へ目を向けた。妹は兄のそばに戻り、見知らぬ老人を警戒して低く唸っている。

「鬼が人を庇うとはな。だが、この先も襲わぬとは限らん」

「禰豆子は人を食べたりしません!」

「もしもの話をしている。妹が人を喰ったとき、お前はまた同じように迷うのか」

「俺が、止めます!」

「どうやってだ。また岩を持ち上げて、震えるのか」

炭治郎は言葉に詰まった。

パァン、と乾いた音が山に響いた。

鱗滝の平手が、炭治郎の頬を打っていた。

「判断が遅い!」

よろめいて頬を押さえる炭治郎に、鱗滝は続けた。

「お前が迷っている間に、人は死ぬ。鬼を前にして考え込む暇などない」

低く、重い声だった。

「妹を守ると言うなら、覚悟を決めろ。鬼を斬る覚悟も、妹が道を誤ったとき、自分の手で止める覚悟もだ」

炭治郎は顔を上げた。禰豆子が心配そうに、兄の袖を掴んでいる。その手は、鬼になっても温かかった。

この手を、自分が止めなければならなくなるかもしれない。想像しただけで、胸が潰れそうだった。

それでも義勇の言葉が、耳によみがえる。生殺与奪の権を他人に握らせるな。あの日から、自分はまだ一歩も進めていない。

「……はい」

深く頭を下げた炭治郎から、鱗滝は目を離した。

「妹を連れてついてこい。日が昇る」

それだけ言って、老人は音もなく山道を歩き出した。

 

◇

 

鱗滝の家に着く頃には、空が白み始めていた。

禰豆子を光の入らない部屋で休ませ、肩の傷に荒っぽい手当てを受けると、炭治郎はすぐ居間に呼ばれた。

「竈門炭治郎。お前に剣士の素質があるか、確かめる」

「はい!」

「ついてこい」

休む暇もなかった。鱗滝は霧の立ち込める山を登っていく。炭焼きで山歩きには慣れているはずなのに、老人の速さについていくだけで精一杯だった。肺が焼けるように痛い。

中腹まで来たところで、鱗滝が足を止めた。

「ここから家まで、自分の足で戻れ。日が暮れるまでにだ」

「ここからですか!?」

炭治郎は山を見下ろした。霧が濃く、歩いてきた道さえ白く塗り潰されている。

「あの、地図を見てもいいですか」

「好きにしろ」

スマートフォンを出すと、地形も現在地も表示されている。等高線を見れば、麓へ下りる方角はわかる。

「この斜面を下りれば、着くはず……」

「一つ言っておく」

鱗滝が言った。

「この山には罠を仕掛けてある。道を知っているだけでは、下りられん」

「罠、ですか?」

顔を上げたときには、老人の姿は霧の向こうに消えていた。

「鱗滝さん!?」

返事はなかった。

炭治郎は画面を見ながら、慎重に歩き出した。足元を確かめ、匂いにも気を配る。数歩進んだところで、何かが足首に触れた。

細いワイヤーだった。

「あっ」

頭上で風を切る音がした。巨大な丸太が迫る。

「うわああっ!」

地面に飛び込み、間一髪でかわした。丸太は頭上を抜け、木々の間へ戻っていく。

心臓が早鐘を打っている。危なかった。そう思った直後、足元の落ち葉が沈んだ。

「うわっ!」

落とし穴だった。斜面を転がり落ち、木の根にしがみついてようやく止まる。全身が泥まみれで、手当てしたばかりの肩の傷がずきずきと痛んだ。

炭治郎は、ひび割れかけた画面を見つめた。地図には、何も映っていない。

当たり前だ。地図は地形を教えてくれても、木の間に張られたワイヤーや、隠された穴までは教えてくれない。

自分の目と耳と鼻で、探るしかない。

 

炭治郎はスマートフォンをポケットの奥にしまい、立ち上がった。

「よし、もう一度!」

鼻から深く息を吸う。禰豆子が待っている。

そこから先は、罠の連続だった。足を払う縄、竹のしなりを使った仕掛け、突然崩れる地面。避けたと思えば別の仕掛けが動き、何度も泥の中を転がった。かすり傷が増え、息が上がり、膝が笑う。

やがて炭治郎は、闇雲に進むのをやめた。

落ち葉の不自然な盛り上がり。木と木の間に張られた細い線。それから、匂い。湿った土や苔の中に、かすかに残る鱗滝の匂い。登ってきた道筋を思い出しながら、鼻を大きく開いて辿っていく。

すべての罠を見抜けたわけではない。何度も転び、枝に打たれ、気づけば日は西に傾いていた。

それでも炭治郎は、足を止めなかった。

 

◇

 

炭治郎が家に戻ったのは、日が沈む少し前だった。

服は破れ、全身が泥と落ち葉と血にまみれている。玄関で膝をつき、肩で息をする姿を見ても、鱗滝は眉一つ動かさなかった。

「遅い」

「す、すみません……」

「明日はもっと速く下りろ」

「……明日も、ですか?」

「当然だ」

炭治郎は目眩を覚えた。鱗滝はそれ以上何も言わず、食事を取るよう言いつけた。

 

◇

 

翌日から、本格的な修行が始まった。

朝は山を駆け下り、戻れば腕が上がらなくなるまで素振りをする。滝に打たれ、肺が破れそうになるまで走る。何より厳しいのは、鱗滝に教わる呼吸の修行だった。

全身の血管に酸素を行き渡らせ、体の力を極限まで引き出す、全集中の呼吸。

話を聞いたときは、わかったつもりでいた。けれど、いざやってみると、内臓が悲鳴を上げる。

「呼吸が乱れている!」

「はいっ、げほっ!」

「返事の前に息を整えろ!」

慌てて深く吸い込むと、空気が気管に詰まり、激しくむせた。

「力任せに吸えばいいというものではない!」

竹刀が飛んでくる。

罠は日ごとに配置が変わり、昨日覚えた道は今日は通用しない。刀を振れば姿勢を竹刀で叩き直され、呼吸に気を取られれば足が止まる。炭治郎は毎晩、食事を終えると泥のように眠った。

それでも、気がかりなことが一つあった。

禰豆子が、以前より長く眠るようになっていたのだ。

最初のうちは夜になると起きていたのに、ある日を境にぱったりと目を覚まさなくなり、呼びかけても反応しない。

「禰豆子、起きてくれ。俺だよ」

体が冷えているわけではない。穏やかな寝息も聞こえる。それなのに、目を開けてくれない。

不安になって、鱗滝を呼んだ。鱗滝は禰豆子の脈を取り、しばらく黙っていた。

「人を喰ったことは、一度もないのだな」

「はい。絶対に食べさせません」

「ならば、眠って体力を補っているのかもしれん」

「眠って……?」

「決まったわけではない。今は、様子を見るしかあるまい」

炭治郎は禰豆子の手を両手で包んだ。このまま二度と目を開けないのではないか。嫌な想像ばかりが浮かぶ。

「禰豆子、俺、頑張るからな」

そっと布団へ手を戻して、続けた。

「お前が起きたときには、今よりずっと強くなってるから」

 

◇

 

修行を始めて一か月ほど経った頃。炭治郎は、自分の剣がどれだけ上達しているのか、知りたくなっていた。

山下りの時間は縮み、素振りの回数も増えた。それでも鱗滝の竹刀は、相変わらず飛んでくる。

「腰が高い!」

「はい!」

「踏み込みが遅い!」

「はい!」

「腕だけで振るな!」

「はい!」

言われていることはわかる。直そうともしている。けれど、刀を振ると、体がその通りに動かない。

ある日の稽古のあと、炭治郎は庭の岩にスマートフォンを立てかけ、素振りを動画に撮ってみた。

再生して、目を丸くする。

「あれ……?」

振り下ろす直前、わずかに腰が浮いていた。しっかり踏みしめているつもりだったのに、映像では、足より先に肩が動いている。スロー再生にすると、その不格好さがはっきりわかった。

「自分の感覚と実際の動きは、こんなにずれてるのか」

下半身に意識を集めてもう一度振り、撮り直して見比べる。さっきより、ほんの少しだけ重心が安定していた。

それから炭治郎は、稽古の合間にフォームを撮るようになった。正面、横、足元。画面の中の自分は、欠点だらけだった。踏み込みで肩が力む。太刀筋がぶれる。疲れるとフォームが崩れる。

映像を頼りに、一つずつ直していった。

数日後のことだった。

「何をしている」

背後で、冷ややかな声がした。鱗滝が腕を組んで立っている。

「鱗滝さん! 自分の動きを動画で撮っていたんです。今まで気づかなかった癖が、よくわかって……」

炭治郎は誇らしげに画面を見せた。鱗滝はしばらく映像を眺めていた。

「前より腰は落ちているな」

「本当ですか!」

「だが、これでは実戦で真っ先に斬られる」

「えっ」

「もう一度振ってみろ」

炭治郎は木刀を構え、映像で直したフォームを意識して振り下ろした。

その瞬間、死角から竹刀が跳ね上がった。

「うわっ!」

手首を打たれ、木刀が落ちる。

「痛っ……何が悪かったんですか」

「お前は自分の動きばかり見ている。相手を見ていない」

鱗滝は落ちた木刀を、竹刀の先で指した。

「鬼は、お前の素振りを眺めて待ってはくれん」

手首をさすりながら、炭治郎ははっとした。

画面の中では、同じ動きを何度でも繰り返せる。止めることも、巻き戻すこともできる。けれど実際の戦いは、相手がどこから、どんな速さで来るかわからない。自分の型ばかり気にしていれば、目の前の動きに遅れる。

「……わかりました」

「構えろ」

「はい!」

鱗滝は竹刀をだらりと下げた。

「今度は、起こりを見ろ」

言うが早いか、姿がぶれた。

「うわっ!」

初撃はどうにか受けたが、重さに体勢が崩れる。二撃目には、まるで対応できなかった。肩を打たれて転がる。

「遅い。次」

「はい!」

その日の稽古は、全身が痣だらけになるまで続いた。

 

◇

 

修行は、さらに厳しくなった。

ある晩、鱗滝は炭治郎を暗い庭へ呼び出した。

「今夜は、暗がりで稽古をする」

「夜にですか?」

「鬼が動くのは夜だ。明るい場所でしか戦えんのでは話にならん」

庭には薄い月明かりしかなく、木々の影に呑まれて足元もおぼつかない。鱗滝は数メートル先の闇に立ち、竹刀を構えた。

「来い」

「はい!」

炭治郎は踏み込んだ。けれど暗闇では、距離がつかめない。振り下ろした先にはもう老人はおらず、背中に強烈な一撃が入った。

「ぐあっ!」

地面に突っ伏す。

「遅い」

「はい!」

構え直しても、今度は足を払われて宙を舞う。何度挑んでも、木刀はかすりもしなかった。

そのとき、炭治郎は、山の麓で戦った鬼のことを思い出した。スマートフォンのライトで、一瞬だけ目を眩ませたことを。

「鱗滝さん!」

「何だ」

「少し準備をしてもいいですか! 試したいことがあります!」

鱗滝は少し黙ってから、短く言った。

「よかろう」

 

炭治郎はリュックから、充電式のLEDランタンを取ってきた。夜の山歩き用に買っておいた、直視できないほど明るいものだ。スイッチを最大にして、鱗滝のほうへ向ける。

「明るくすれば、見えるので戦いやすいと思ったんです!」

「ならば、やってみろ」

白い光が庭を照らし、老人の姿が浮かび上がった。

「よし!」

木刀を構えて踏み込む。だが鱗滝は正面から受けず、すっと光の届かない木の裏へ退いた。

「あっ、待って……」

慌ててランタンの向きを変えようとした瞬間、老人が視界から消えた。

脇腹に重い一撃が入り、炭治郎は息を詰まらせて転がった。

「何を見ていた」

「……ゲホッ……ランタンを、動かそうと……」

「道具に気を取られて、敵から目を離したか」

鱗滝は竹刀を下ろした。

「光があれば、お前には見える。だが敵にも、お前が見える」

炭治郎は、這いつくばったままランタンを見た。光のそばに立つ自分は、闇に潜む鱗滝から見れば、これ以上ない的だった。

「……もう一度、お願いします!」

痛む脇腹を押さえて立ち上がる。

 

 

今度はランタンを遠くの岩の上に置き、庭全体を薄く照らすようにした。自分は光の当たらない場所に立ち、鱗滝が動くのを待つ。

鼻からゆっくり、深く息を吸った。

冷たい夜気が、肺の底まで満ちる。目だけには頼らない。土の匂い。風の動き。そして、かすかな殺気の匂い。

闇の奥で、何かが揺らいだ。

右だ。

反射的に木刀を振り上げた直後、闇から竹刀が突き出された。

ガキン、と鈍い音が響いた。

初めて、鱗滝の一撃を正面から受け止めた。

腕の骨が軋むほどの衝撃。それでも、防げた。

けれど喜ぶ間もなく、老人は手首を返して次の一撃を放ってきた。それは防げず、顎をかすめて、炭治郎は尻餅をついた。

「まだまだだ」

そう言った鱗滝の声が、ほんの少しだけ違って聞こえた。

「はい! でも今のは、匂いで少しわかりました!」

「わかった気になっているうちは、すぐに死ぬ」

「はい!」

炭治郎は泥を払い、再び木刀を構えた。

映像も、ランタンも、使い方を誤れば自分の首を絞める。それでも、覚悟と組み合わせれば武器になる。炭治郎はその感覚を、体に刻み込んでいった。

 

◇

 

季節は巡り、狭霧山に冬が来て、また春が来た。

炭治郎の体は、一年前とは別人のように厚くなっていた。山下りの時間は大きく縮み、罠の気配も匂いで嗅ぎ分けられる。木刀を握る腕には筋が浮き、全集中の呼吸も、意識せずに肺の奥まで届くようになった。

動画でのフォーム確認は続けていたが、今では型を整えるためではなく、実戦での無駄な力みを削るために使っている。

禰豆子は、相変わらず眠ったままだった。

炭治郎は修行を終えると、毎日妹の布団のそばに座った。

「禰豆子。今日は鱗滝さんの竹刀を、三回続けて弾き返せたんだ」

白く細い手を握り、静かに語りかける。

「まだ一本も打ち込めないけど、強くなってる。絶対に、お前を治すからな」

穏やかな寝息だけが返ってきた。炭治郎は妹の髪をそっと撫でて、立ち上がった。

明日も修行がある。まだ、力が足りない。

 

◇

 

狭霧山に来て一年半が過ぎた頃、炭治郎は鱗滝に呼び止められた。

「竈門炭治郎」

「はい!」

「ついてこい」

連れていかれたのは、山のさらに奥の、開けた場所だった。そこには、一抱えでは足りない巨大な岩があった。苔がびっしりとむし、注連縄が巻かれている。

鱗滝は岩の前で足を止めた。

「お前に教えることは、もうない」

「えっ……?」

「あとは自分で鍛えろ」

鱗滝は炭治郎の腰の刀へ目をやった。

「この岩を斬れ。斬れたなら、最終選別へ行くことを許す」

「……岩を、ですか?」

「そうだ」

炭治郎は、目の前の岩を見上げた。丸太は斬ってきた。だが、こんなものを刀で両断できるはずがない。

「これを、真っ二つにするんですか」

「そうだ」

それだけ言って、鱗滝は背を向けた。

「あの、鱗滝さん!」

老人は立ち止まらない。

「本当に、これを斬ればいいんですね!」

返事はなかった。天狗の面は、霧の向こうへ消えていった。

炭治郎は岩に近づき、冷たい苔に手を当てた。硬い。どう見てもただの石だ。刀を振り下ろしても、刃が欠けるだけだろう。

それでも、やるしかなかった。

ゆっくりと刀を抜き、正眼に構える。大きく息を吸い、全集中の呼吸で全身に酸素を巡らせる。筋肉が熱を持ち、鼓動が速くなる。

「はああっ!」

渾身の力で振り下ろした。

ギィィン、と耳を裂く金属音が山に響き、刀が弾き返された。

「痛っ……!」

両腕の骨が折れたかと思うほどの反動だった。痺れる手を押さえて岩を見る。苔が少し剥げただけで、傷一つない。

「……こんなの、どうやって斬るんだ」

思わず声が漏れた。

一年半の修行が、この岩の前ではひどく小さく思える。それでも、諦めるわけにはいかない。

禰豆子が、あそこで眠って待っている。

炭治郎は痺れる手で刀を握り直し、もう一度、深く息を吸った。

――第二話 了。

 

◇

 

現代コソコソ噂話 その弐

実は鱗滝さん、炭治郎がスマートフォンで素振りを撮って熱心に分析していること自体には、内心感心しているそうです。

ただ、炭治郎が動画を見せて「昨日より良くなりましたか!」と目を輝かせて尋ねたところ、返ってきたのは一言だけでした。

「画面に聞くな。あと千回振れ」

それ以来、炭治郎は動画を見返す時間さえ惜しんで、素振りに打ち込んでいるそうです。

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