好きなキャラの短編集 作:チーズと唐揚げ、そしてハンバーグ
平塚敏深が、卒業した元教え子と結婚し、二人の子どもと暮らしている未来IFの短編です。
片づけというのは、始めるまでが面倒くさい。
そして始めてしまうと、だいたい余計なものを見つけて手が止まる。
「……あー。こんなのあったな」
居間の棚を整理していた敏深は、古い封筒から滑り出した一枚の写真を拾った。
校門の前。胸に花をつけた制服姿の青年と、いかにも写真を撮られ慣れていない顔の自分。
卒業式の日の写真だった。
彼は真っすぐカメラを見て笑っている。敏深は少しだけ身体を斜めにして、隣に立つ彼より、撮影している誰かへ文句を言いたそうな顔をしていた。
写真の端を親指で撫でる。
台所からは、玉ねぎを炒める匂いがしていた。夫が夕飯を作っている。子どもたちは二階で遊んでいるはずだったが、ときどき、何かが倒れる音と、それを二人でごまかそうとする声が聞こえた。
後で見に行こう。
そう思いながら、敏深は写真を膝に置いた。
制服の彼を、もう一度見る。
──本当に、色々あった。
最初の告白は、今でもよく覚えている。
放課後の教室だった。
敏深が提出物をまとめていると、彼は机の前に立って、妙に真剣な顔で言った。
「先生。俺、先生が好きです」
敏深は顔を上げた。
少し考え、それから彼の手元へ目を落とした。
「そうか。で、提出物は?」
「あります」
「じゃあ、まずそっち寄越せ」
差し出されたノートを受け取ると、彼はまだ立っていた。
「今の、流しました?」
「聞いたよ」
「返事は」
「先生だからな」
そのときは、それで終わりだと思っていた。
若い頃の好意なんて、本人には大事件でも、しばらくすれば形が変わる。新しい友達ができて、楽しいことを見つけて、同じ年頃の誰かを好きになる。
そうして思い出したときに、少し恥ずかしくなるくらいでいい。
彼にも、そういう高校生活を送ってほしかった。
だから、個人的な誘いには応じなかった。先の約束もしなかった。授業で手を抜けば注意したし、進路の話をするときには、敏深の顔色ではなく自分の将来を見るように言った。
彼はそのたび、少し残念そうな顔をした。
それでも、学校生活まで投げ出すようなことはなかった。
友達とくだらないことで笑い、行事では騒ぎ、必要なときには机に向かった。敏深に何か言いたげな顔をしながらも、友人に呼ばれればそちらへ走っていった。
その背中を見て、これでいいと思っていた。
ただ、彼の好意は、敏深が思っていたよりずっと長持ちした。
二年になっても、三年になっても。
「お前、そろそろ他に気になる相手とかできないのか」
一度、呆れてそう聞いたことがある。
彼は少しも迷わず答えた。
「できないですね」
「即答すんな。ちょっと考えろ」
「考えても変わらないんで」
困ったやつだ。
そう思った。
けれど、彼について覚えていることは、告白ばかりではない。
文化祭の片づけで雨が降った日。
敏深が校舎の軒下から見たとき、彼は友人たちと一緒に濡れた資材を運んでいた。担当の仕事はもう終わっているはずだったのに、別のクラスが困っているのを見て、そのまま手伝っていたらしい。
「おーい。そっち、一回置け。無理して運ぶな」
声をかけると、彼は振り向いて笑った。
「これ戻したら休みます」
「休むのも仕事のうちだぞ」
「はい。先生も」
そう言って、敏深の抱えていた箱を半分持っていった。
礼を言わせる間もなく、友人に何か言われて笑いながら歩いていく。
自分の前でだけ、いい格好をするわけではない。
敏深はそういうところを、何度も見ていた。
困っている人に声をかけるところも、間違えれば謝るところも。頼まれたことを忘れて叱られ、次は同じ失敗をしないようにしているところも。
立派なことを言うだけの少年ではなかった。
三年間、彼の先生をしていた敏深は、それを知っていた。
卒業式の日、彼は十八歳になっていた。
教室で最後の挨拶を済ませ、友人たちと写真を撮り、泣いている同級生にからかわれながら笑っていた。
敏深が校門へ向かうと、彼がこちらに気づいた。
「先生」
その呼び方を聞くのも、これからは少なくなる。
そう思うと、いつもの卒業式と同じように、胸の奥が少し寂しくなった。
「卒業おめでとう」
「ありがとうございます」
彼は頭を下げた。
それから顔を上げ、何か言いかけた。
敏深は、その先を聞く前に口を開いた。
「今日は、友達とちゃんと写真撮っとけよ。後から欲しくなっても、同じのは撮れないからな」
彼は一瞬黙り、それから笑った。
「じゃあ、先生とも」
そうして撮ったのが、この写真だった。
その数日後。
彼は改めて敏深に会いに来て、今度はきちんと向かい合って言った。
「結婚してください」
敏深は、しばらく返事ができなかった。
聞き慣れたはずの言葉だった。
それなのに、制服ではない彼が目の前に座っているだけで、今までと同じ返し方ができなくなった。
「……いきなり結婚か」
「ずっと考えてました」
「お前はな」
敏深は息をついた。
年の差のことも話した。
これから始まる仕事や生活のことも、自分が思っているほど、敏深は出来のいい人間ではないということも。
彼は、途中で遮らずに聞いていた。
全部うまくいく、と簡単に言い切ることもしなかった。
「困ることは、あると思います」
「あるだろうな」
「喧嘩もすると思います」
「するだろうな。片づけとかで」
そこで彼が、少し笑った。
敏深も、つられて笑いそうになった。
「それでも、一緒に暮らしたいです」
彼は言った。
「帰ってきたときに、敏深さんがいたら嬉しいと思うから」
初めて、名前で呼ばれた。
敏深はカップへ手を伸ばした。中身はもうぬるくなっていたが、持っていないと、手の置き場所がわからなかった。
教師として彼を見てきた三年間があった。
それを踏まえたうえで、これから一緒に暮らす相手として、もう一度彼を見た。
そのとき初めて、自分も同じ家に帰りたいと思っていることを認めた。
「……朝、弱いぞ」
「知ってます」
「片づけも苦手だし」
「それも知ってます」
「結婚したら急にちゃんとする、とか期待するなよ」
「じゃあ、二人でやりましょう」
ずいぶんあっさり言う。
敏深は困ったように笑った。
そこから先は、驚くほど慌ただしかった。
互いの家族に話をして、春からの仕事と住まいのことを決めて、足りない家具を見に行って。周囲には何度も驚かれ、そのたび二人で頭を下げたり、笑ったりした。
婚姻届を出したのは、卒業式からまだひと月も経っていない日だった。
書類を書き終えた彼が、何度も日付を確かめていたことを覚えている。
「そんなに見ても変わらんぞ」
「わかってます」
「じゃあ何見てんだ」
「今日が結婚記念日なんだなって」
あまりにも嬉しそうに言うから、敏深はそれ以上からかえなくなった。
役所を出ると、風が強かった。
乱れた髪を押さえた敏深へ、彼が手を差し出した。
少し迷ってから握ると、その手は思っていたより大きかった。
結婚したからといって、毎日がきれいに片づくわけではなかった。
洗濯の仕方で揉めたこともある。買ってくると言ったものを二人とも忘れ、夕飯の前に顔を見合わせたこともある。
敏深が疲れて余計なことを言い、彼が黙り込んだ夜もあった。
逆に、彼の「大丈夫」を真に受けてしまい、ずいぶん無理をさせていたと後から気づいたこともある。
娘が生まれてからは、なおさらだった。
眠れない日が続くと、普段なら笑えるようなことに腹が立った。年上なのだから自分がしっかりしなければと思って、余計に抱え込んだこともあった。
ある夜、泣き止まない娘を抱いたまま、敏深が途方に暮れていたとき。
彼は何か気の利いたことを言う代わりに、隣へ座った。
「交代しよう」
「……お前も寝てないだろ」
「だから、順番にしよう」
娘を預けると、彼も眠そうな顔をしていた。
それを見て、敏深はようやく肩の力を抜いた。
二人目が生まれたころには、全部を説明しなくても伝わることが増えていた。
どちらかが子どもを抱けば、もう一人が食事を温める。
何かをこぼせば、片方が拭いて、片方が着替えを持ってくる。
それでも失敗はするし、ときどき言い合いにもなる。
そうやって暮らしているうちに、家の中には、四人分の靴と、四人分の食器が並ぶようになっていた。
「おかーさん」
膝に、ぺた、と手が乗った。
敏深が顔を上げると、三歳の息子が立っていた。その後ろから、六歳の娘が写真をのぞきこむ。
「それ、だれ?」
「お父さん」
「えー。ちがう」
息子は写真と台所を見比べた。
敏深は笑った。
「昔のお父さんだよ」
「こっちは、お母さん?」
「そう。まだお前たちが生まれる前」
娘は写真を受け取ると、まじまじと見た。
それから、何か重大なことに気づいた顔になる。
「お父さん、せいふく着てる」
「高校生だったからな」
「お母さんは?」
敏深が答えるより早く、台所から夫が顔を出した。
「お母さんは、俺の先生だったんだよ」
娘の目が丸くなった。
「先生とけっこんしたの?」
「そう」
「おこられなかった?」
夫が笑う。
「いっぱい怒られた」
「お前が余計なことばっか言ってたからだろ」
敏深が言うと、娘はますます興味を持ったらしく、写真を胸に抱えて近づいてきた。
「どんなこと?」
「それはお父さんに聞け」
「お母さんが好きです、って」
「おい。夕飯は」
「もうできる」
「じゃあ先にそっちやれ」
夫は笑いながら台所へ戻っていった。
娘は写真の父親を見てから、敏深を見た。
「お母さんも、お父さん好きだった?」
敏深は、少しだけ考えた。
「……そうじゃなきゃ、結婚しないよ」
娘は嬉しそうに笑った。
その顔が夫に似ていて、敏深は思わず娘の頭へ手を置いた。
すると息子が、自分も、とばかりに身体を寄せてくる。
「ぼくは?」
「お前も好きだよ」
「わたしも?」
「はいはい。お前も」
二人の頭を順番に撫でていると、台所からもう一つ声がした。
「俺は?」
敏深は顔を上げた。
夫は皿を二枚持ち、いかにも真面目な顔を作って立っている。
「お前はさっき聞いただろ」
「直接は聞いてない」
「面倒くさいな、ほんと」
そう言いながら、敏深は立ち上がった。
彼の横を通るとき、子どもたちには聞こえないくらいの声で付け足す。
「……好きだよ。今も」
夫の顔が、あの卒業写真と同じように緩んだ。
何年経っても、そこは変わらない。
敏深は照れくさくなって、彼の持っていた皿を一枚取り上げた。
「ほら、運ぶぞ」
食卓に四人分の夕飯が並ぶ。
娘は学校であったことを、最初から順番に話そうとしている。息子は途中で何度も口を挟み、ついには二人で別の話を同時に始めた。
「待て待て。耳は二つあるけど、同時には無理だ」
敏深が言うと、夫が笑った。
「じゃあ、こっちの話は俺が聞く」
「お前、後でちゃんと教えろよ」
「そっちもな」
娘の話を聞きながら、息子の口元についたソースを拭く。
夫がご飯をよそい直す。
小さなコップが倒れそうになると、敏深が押さえ、夫が場所をずらした。会話はその間も途切れなかった。
昔から、世話を焼く相手はいた。
気にかけている生徒も、大切にしている人もいた。
けれど、自分がこんなふうに、誰かの妻になって、二人の子どもの母親になっているところまでは、想像していなかった。
休日の夕方に四人で座って、夕飯の味より先に、今日あった出来事を聞いている。
食べ終われば風呂の順番を決めて、明日の支度を確かめて、眠くなった子どもを抱き上げる。
その先にも、一緒に片づけをする相手がいる。
敏深は、向かいの夫を見た。
息子の説明がよくわからないらしく、彼は真剣な顔で聞き返していた。息子も真剣に、さらにわからない説明を重ねている。
それを見ていたら、不意に胸がいっぱいになった。
笑えるくらい、幸せだった。
「……敏深?」
視線に気づいた夫が、こちらを見る。
「どうした?」
「いや」
敏深は首を振った。
けれど、夫がまだ見ているので、少しだけ本当のことを言った。
「色々あったなと思って」
「写真見てたから?」
「ああ」
夫も、棚に立てかけた写真へ目を向けた。
「懐かしいな」
「お前、ほんとによく諦めなかったな」
「敏深こそ、よく結婚してくれたよな」
敏深はコップを置いた。
食卓の上には、娘が一生懸命並べたスプーンがある。一つだけ向きが逆だった。
息子の皿には、小さく切り分けたおかず。
その向こうに、彼がいる。
「……したかったんだよ」
夫がこちらを見る。
敏深は、その顔を見ながら続けた。
「お前となら、してみたいと思った」
照れ隠しの言葉を足そうとしたが、やめた。
たまには、そのままでもいい。
夫は少し黙ってから、嬉しそうに笑った。
「俺も。結婚してよかった」
娘が二人を見比べる。
「なかよしだね」
「そうだな」
「ぼくも!」
息子が手を上げる。
何に参加したつもりなのかわからなくて、三人で笑った。
敏深も笑いながら、その小さな手をつかんで下ろしてやる。
「わかってるよ。お前も一緒」
夫が敏深の皿へ、おかずを一つ足した。
「あんまり食べてないだろ」
「話聞いてたからな」
「冷める前に食べよう」
敏深は箸を取り、温かいうちにひと口食べた。
ちょうど好きな味だった。
明日は仕事がある。
洗濯物も、子どもの支度もある。今夜だって、このまま大人しく寝てくれるとは限らない。
それでも、明日の夕方には、またこの食卓に四人で座る。
敏深は、棚の上の写真をちらりと見た。
あの頃の自分に教えたところで、きっと信じないだろう。
だから今は、目の前にいる三人をちゃんと見ていればいい。
「お母さん、聞いてる?」
娘に呼ばれ、敏深は顔を戻した。
「聞いてるよ。で、そのあとどうなった?」
娘が嬉しそうに話し始める。
隣では息子が夫の袖を引いている。
敏深はもう一口、夕飯を食べた。