好きなキャラの短編集   作:チーズと唐揚げ、そしてハンバーグ

10 / 10


吉田優子がオリ主の幼馴染と結婚し、娘と息子を育てている未来IFです。優子の視点で、病室で二人が描いたすごろくと、家族で囲む雨の日の食卓を描きます。桃・ミカン・リリスから幼馴染への片想いを含みます。


コロッケ屋さんの、その先(まちカドまぞく、吉田優子)

 

 

 うちには、いったんコロッケ屋さんに入ると二度と出られなくなる、恐ろしいすごろくがある。

 

「お母さん。ここ、まちがってるよ」

 

 雨の日曜日。ちゃぶ台に古い紙を広げた七歳の娘が、二つ並んだマスを指さした。

 

「『いいにおい。ひとつすすむ』でお店に入るでしょ。次が『あついので、ひとつもどる』。これだとずっとコロッケだよ?」

 

「よく気がつきましたね。お母さんもそこに二十年以上閉じ込められたことがあります」

 

「いや、帰ってきてるだろ、お前」

 

 隣でじゃがいもの皮をむいていた夫が口を挟んだ。何を隠そう、この欠陥すごろくの作者である。

 

 四歳の息子はしばらく考え、自分の駒をお店の真ん中に置いた。

 

「ぼく、ここにすむ」

 

「なるほど。うちの息子には向いてたな、このゲーム」

 

「解決したみたいな顔をしないでください。あなた、小さいころからそこを直してくれないんですから」

 

 すごろくは先週、妹の良が実家の押し入れから発見したものだ。裏が白いチラシを何枚も貼り合わせてある。道は途中から紫色で、そのあと水色になり、最後はまた黒に戻っていた。黒のクレヨンを二人であちこち探した挙げ句、彼がずっとお尻の下に敷いていたことまで、私は覚えている。

 

「久しぶりだな。これで優子を泣かせたっけ」

 

「泣いた理由まで覚えてます?」

 

「俺の絵が下手すぎた」

 

「そんなことで泣いていたら、私は毎日泣き暮らしていますよ」

 

「ひでぇな。当たりはどっちだ?」

 

 私はすごろくの端をそっと伸ばした。くしゃくしゃになった病院の絵が、窓からの薄明かりに浮かんだ。

 

「……あのね。あの日の私は、あなたがうらやましかったんです」

 

*

 

 小さいころの私にとって、多魔の町は、病室の窓から見える電信柱のあたりで大体おしまいだった。

 

 同い年の子が今日はどこを歩いたとか、道の端に何が落ちていたとか、そういう話が私は好きだった。大人はみんな私のために楽しい話を選んでくれるけれど、うちの近所に住んでいたその子は、わざわざお見舞いに来て、こんなことまで報告した。

 

「昨日、かっこいい石拾ったんだよ。洗ったら全然かっこよくなかった」

 

「なんで洗っちゃったの」

 

「泥だと思ったとこが、かっこいいとこだった」

 

 その大失敗があんまりおかしくて、私は布団をかぶって笑った。お母さんに何が面白かったのか聞かれても、うまく説明できない。たぶん、せっかく私に会いに来たのに石の失敗談を始める人が、ほかに一人もいなかったからだと思う。

 

 すごろくを作ったのも彼だった。

 

 スタートは病院。右に曲がると花屋さん。少し歩くと、彼のおばあちゃんがやっている小さなお総菜屋さん。お店のガラスには、子どもの目の高さに、揚げたものが金色に並んでいるらしい。

 

 それまでは、私も楽しく聞いていた。

 

 ところが、もうすぐ何日かだけ家に帰れるはずだったのが取りやめになった日、彼がいつも通りコロッケの話をしたとたん、どうしても我慢ができなくなった。

 

「……もう、そのお店はいい」

 

「なんで?」

 

「だって、行けるの、そっちだけじゃん」

 

 彼が黙った。私は布団を握りしめた。

 

 本当は、続きを聞きたかった。紙の道をもっと描いてほしかった。でも、彼は帰りに本物のお店の前を通る。私は駒を何度進めても、夜になれば同じ天井を見ながら眠る。その日の私には、その違いがひどく悔しかった。

 

「ごめん」と彼が言った。

 

 謝ってほしかったわけでもなくて、私はもっと泣いた。彼は困った顔で丸椅子に座り続け、面会の終わりを知らせる音楽が鳴ってから帰った。

 

 翌日、彼は紙もクレヨンも持ってこなかった。

 

 椅子に座り、窓の外で電線を直している人を一緒に見ていた。私が先に飽きた。

 

「今日、お話ないの?」

 

「ある。昨日、優子が怒ったあと、俺も腹が立った」

 

「……私に?」

 

「ううん。なんで優子の家に帰る日、俺たちで決めらんないんだろうって」

 

 そのとき初めて知った。私に帰ってきてほしいと思って、一緒に腹を立ててくれる人だったのだ。

 

「すごろく、明日もってきて」

 

「いいの?」

 

「いい。コロッケの次のお店、まだ知らないから」

 

 そこから二人で続きを描いた。歩ける日には病院の廊下の端まで行き、窓の下の通りで、すごろくと同じ色の屋根を探した。歩けない日には、彼が丸椅子の上で店員さんの真似をした。おばあちゃん役が妙にうまかった。

 

 やがて私は家に帰れた。初めて彼の横を歩いてあのコロッケ屋さんに着いた日は、嬉しいことに、紙の上にはない椅子が軒先にあった。

 

 二人で腰かけて、半分ずつ食べた。

 

 あんなに食べたかったのに、熱くてなかなか口に入れられない。彼のおばあちゃんが、店の奥で笑っていた。

 

「ほら見ろ。熱いので一つ戻る、だろ?」

 

 得意げに言われて、あのときだけは、よくできたすごろくだと思った。

 

*

 

「俺、その翌日のこと、ちょっと違うふうに覚えてるぞ」

 

 台所で夫が言った。じゃがいもを鍋に入れ、娘に任せていたにんじんの皮むきを点検する。今日のにんじんはずいぶん細身だが、娘が誇らしげなので、どちらも何も言わなかった。

 

「ほんとはな、もう来んなって言われると思ってた。売店の前を三往復してから病室に入った」

 

「……初耳です」

 

「そしたら優子、俺が椅子に座る前に、窓の外を指さしたんだ。『あの人、朝から電柱にいるよ』って。あ、俺に教えようと思って覚えててくれたんだなって。あれ、すげえ嬉しかった」

 

 夫はそう言って、鍋の火をつけた。

 

 私は、ずいぶん長いこと、あの日はあの人が私を慰めに来てくれたのだとばかり思っていた。

 

 そうか。あの丸椅子に座るのに、この人にも勇気の要る日があったのか。

 

「どうした、優子」

 

「私たち、まだ知らない話があるんですね」

 

「あるだろ。お前、俺に内緒で変なこといっぱいしてたし」

 

「あなたに変なことの代表みたいに言われる筋合いはありません。だいたい、高校に入ってからは私だって、好きで変なことをしてたわけじゃ……半分くらいは違います」

 

「半分は認めるのかよ」

 

 だって、気がついたらツノとしっぽが生えていたのだ。しかも、魔法少女を倒さないといけないという。あのころの私にしてみれば、昨日と同じように制服に着替えて家を出られただけで、かなり立派だったと思う。

 

 例の朝、私をひと目見た彼が最初に言ったのは、「優子、背ぇ伸びた?」だった。

 

「そこは身長に含めないでください!」

 

 翌日の雨の中で一緒に傘に入ると、昨日よりこぶし一つ高いところに傘があった。私が何も言わなくても、もうツノの先がつっかえないようになっていた。

 

 あの人はときどき、こういうことを、ごく普通の顔でする。

 

 好きになったのがいつかと聞かれると、だから、今でも少し困るのだ。

 

*

 

 高校に入ってからの地図は、とてもチラシ一枚には収まらない。

 

 桃と初めて会った道。勝負を申し込んだのに、なぜか私の筋肉を育てる話になってしまった河川敷。ミカンさんにレモンを加減してもらうことを覚えた食卓。ごせんぞが小さな依代に入って、偉そうに先頭を歩いては、溝の手前で誰かが気づくまで待っていた商店街。

 

「余はここで景色を眺めておったのだぞ。決して渡れなくなったわけではない!」

 

「わかってるよ。ほら、リリス。肩とポケット、どっちがいい?」

 

「……今日は肩にしてやろう。眺めがよいからな」

 

 彼がひょいと持ち上げると、ごせんぞは襟のところをぎゅっとつかんだ。何年経っても、ごせんぞは彼にだけは、持ち上げられる前から両手を伸ばす。

 

 みんなで笑った日。本気で腹を立てた日。怖くて、誰にも見られないところでしっぽを両手で握った日。

 

 お父さんは遠くへ働きに行っているのだと思っていた。そうではないと知った日のことは、今も忘れられない。

 

 長いこと吉田家の暮らしの真ん中にあった、みかん箱。そのすぐそばで、私は良と宿題をした。お母さんと安売りの相談もした。お父さんはどんな顔をして私たちを見ていたんだろう。そう思っても、声を聞くことはできなかった。

 

 その夜、みんなが寝静まってから箱の前に座っていたら、忘れ物を取りに戻った彼が、私を見つけた。

 

「私ね、お父さんに聞いてほしい話ができたとき、ずっと、帰ってきたら話そうって後回しにしてたんです。でも、こんなに近くにいたなら、その日に話せばよかった」

 

「……今日の分、まだ間に合うぞ」

 

 彼は私の隣に座った。

 

「何を話せばいいでしょう」

 

「俺だったら、娘さんのしっぽが今日、弁当のソースに浸かりましたってとこから」

 

「よりによってその件を父に報告する必要がありますか!?」

 

 奥で良が寝返りを打ち、二人して慌てて口を押さえた。

 

 それから小声で話をした。学校であったこと。お母さんが少し疲れているから明日は私が朝ごはんを作ること。いいところもあるけど、私の宿敵は訓練がかなり厳しいということ。

 

 最後に「おやすみなさい、お父さん」と言えた。

 

 寂しさは変わらなかったけれど、その日の話は、その日のうちに届けられた。

 

 病院のころの記憶をたどって、桃のお姉さんの桜さんに会ったときには、別の痛みも知った。私が大きくなれたわけを、私は長いあいだ何も知らなかった。その裏に家族の選択があって、桜さんのくれたものがあって、そのお姉さんにずっと会いたがっている桃がいた。

 

 夢の奥で動けなくなった私を助けに来てくれたのも、桃だった。

 

 目が覚めたあと、私は桃の前でごはんをおいしいと言うことさえ、少し申し訳なく感じてしまった。

 

 そんなある日の放課後、桃が私のお弁当をのぞき込んだ。

 

「シャミ子。その卵焼き、一個ちょうだい」

 

「あ、はい。今日はちょっと甘くしすぎたかも……」

 

 桃は食べて、わずかに目を細めた。

 

「私は好き。シャミ子は?」

 

 ひと口かじったら、思ったよりも上手にできていた。

 

「……おいしいです」

 

「うん。じゃあ今度、お姉ちゃんにも作ってあげて」

 

 私は何度も頷いた。あんまり頷いたものだから、ツノが彼女のおでこに当たった。二人でおでこをさすりながら、残りのおかずを交換した。

 

 あのころの私には、こういう友達がいた。彼もいた。誰か一人だけでは連れていけなかったところへ、あっちからもこっちからも手を引かれて、ようやくたどり着けたのだと思う。

 

 そして私にも、誰かの手を引ける日が来た。

 

 高校二年の秋、あのコロッケ屋のおばあちゃんが亡くなった。

 

 お葬式の間、彼は親戚にお茶を配り、小さい子の相手をして、ずっと忙しそうにしていた。泣いているところを、一度も見なかった。

 

 二週間ほど経った夕方、閉まったお店の軒先で一人、腰かけている彼を見つけた。私は隣に座り、帰りに買ったコロッケパンを二つに割った。

 

 半分を受け取った彼は、紙に包まれたそれを見たまま言った。

 

「俺、最後になんて言ったか覚えてねぇんだ」

 

「おばあちゃんに?」

 

「うん。たぶん店のタオルどこだとか、そういうのだよ。もっとマシなこと言っとけばよかった」

 

 何と言ったらいいか、わからなかった。

 

 勝手におばあちゃんの気持ちを想像して、大丈夫だとも言いたくなかった。

 

 だから、自分が覚えている話をした。

 

「私、初めてここの椅子で食べた日のこと、覚えてますよ。あなた、おばあちゃんのエプロンで手を拭いて、ものすごく怒られたでしょう」

 

「……ああ。布巾が目の前にあんのにって」

 

「そのときね、おばあちゃん、私にはこっそりエプロンの端を貸してくれたんです」

 

「なんだそれ。ずりぃ」

 

 そこで彼がちょっと笑った。

 

「ほかにもある?」

 

「ありますよ。私、ここのお店の話なら、行けるようになる前のことまで知ってます」

 

 長いこと、二人で話した。

 

 とうとう彼が泣いたとき、私は病室の丸椅子を思い出していた。あの日の彼だって、何を言えばいいのかわからなかったのだろう。それでも、帰る時間までは座っていてくれた。

 

 私は彼が立ち上がるまで、隣にいた。

 

 それから卒業までの一年余り、二人で帰る日が増えた。

 

 町のことで大変な日は相変わらずあった。なのに、私の記憶にいちばん鮮やかに残っているのは、白い息を吐きながら焼き芋を分けたことや、赤信号がいつもより長いのを、こっそり嬉しいと思ったことだった。

 

 卒業式の帰り、あのお店の前で、私はとうとう彼の袖を引いた。

 

「私、明日から困ることがあるんです」

 

「何だ?」

 

「学校がなくなると、一緒に帰ろうって言えません」

 

 彼がこちらを見た。私は袖を離さなかった。

 

「幼馴染だからたまたま同じ道を帰ってるんだって顔をするの、もうやめたいです。私、あなたと手をつないで帰りたい。……好きなんです」

 

 言えた、と思った直後、彼がふいにしゃがみ込んだ。

 

「ど、どうしました!? 卒業に伴う急な貧血ですか!?」

 

「違う。ちくしょう。ここで俺から言うつもりだったのに」

 

「……ここで?」

 

「ああ。朝からずっと練習してた」

 

 彼は赤い顔で立ち上がり、私の手を取った。

 

「好きだ、優子。明日は俺がお前んちに迎えに行く。そっから二人で、行きたいとこ決めようぜ」

 

 よく晴れた三月の夕方だった。シャッターの下の隙間から、昔の揚げ油の匂いが、ほんの少しした気がした。

 

「じゃあ、明日はお昼前に来てください。お弁当、二人分作ります」

 

「わかった」

 

「あと……手をつなぐのは、今日からがいいです」

 

 彼は笑って、握り方を変えた。

 

 それまで何度も引っ張ったり引っ張られたりした手なのに、指の間に指が入ってくるのは、初めてだった。

 

*

 

「それで、最初のデート用のお弁当の味見をさせられたのが私」

 

 すぐ後ろから桃の声がして、私は飛び上がった。

 

「桃!? いつからそこに!?」

 

「今来た。玄関開けてくれたのは息子くん。お土産の代わりにコロッケ屋の永住権をもらったよ」

 

 居間を見ると、息子はせっせと、すごろくの隣に座布団を運んでいた。永住者が増えたらしい。

 

 桃の後ろから、ミカンさんが濡れた傘を畳んで入ってきた。片手に柑橘の入った袋、もう片方の手に、うちの娘が好きな絵本。ごせんぞは彼女の肩に乗り、濡れないようハンカチで頬かむりをしていた。

 

「すまぬな、優子。雨が強くなったので、迎えを頼んだ」

 

「ごせんぞ。朝はうちにいらっしゃいましたよね?」

 

「小さい客人にコマとして採用されかけたので、ちょっと散歩に出たのだ」

 

「大冒険でしたね……」

 

 夫がごせんぞを受け取り、ちゃぶ台の上に置いた。ちゃんと顔がみんなの方を向くように、くるりと回す。

 

「ありがと。そなた、昔からそういうところが好きだぞ」

 

「どういたしまして、リリス」

 

 さらっと返されたごせんぞは少し黙り、それから私の方を見た。

 

「……優子よ。余は今、けっこう真剣に言ったのだが」

 

「知ってますよ。ごせんぞ、あの人に名前で呼ばれると、ご機嫌になりますもんね」

 

「む。子孫の観察力が年々侮れなくなっておる」

 

 知っていることは、ほかにもある。

 

 桃が、今でも夫を好きなこと。

 

 高校のとき、桃は一度だけ彼に告白している。私たちが付き合うより前のことだ。彼に「俺は優子が好きだから」と言われたその日の夕方、桃は私のところに来て、一緒に肉まんを食べた。半分ほど食べてからようやく事情を話し、私が何か言おうとするのを「今はシャミ子と普通に食べたい」と留めた。

 

 大人になって、一度だけ尋ねたことがある。もう思い出になりましたか、と。

 

 桃は小さく笑って答えた。

 

「思い出だけでいいなら、今日あの人に会えるからって、服を三回も替えなかったよ」

 

 あのとき初めて、いつも同じように見えていた桃の服に、彼女なりの三択があったのだと知った。

 

 今日も、桃は揚げ物を始めた夫の横に立ち、新しいシャツの袖をまくった。

 

「手伝う。油の番するよ」

 

「ありがとな、桃。あ、その服いいな。似合ってる」

 

「……うん。選んでよかった」

 

 ほんの少し頬が赤い。その向こうでミカンさんが、私にだけわかるように片目をつぶった。

 

 そういうミカンさんだって、人のことばかり言えない。

 

 持ってきた柑橘の中に、一つだけ、夫の好きな甘い品種が入っている。高校の帰り道、二人で分けて食べて以来、色々なものをもらうようになったけれど、それだけはずっと彼の分だ。

 

「ミカンさん。今年も一つだけなんですね」

 

 こっそり言うと、彼女は台所に背を向け、果物ナイフを出しながら笑った。

 

「高校のころは二つ持ってきたのよ。一個どうぞって口実がないと、話しかけられなかったから」

 

「え。あのミカンさんがですか?」

 

「私だって好きな男の子と二人きりになる理由くらい考えるわよ。……今はもう、ご家族全員に好みがばれてるから、一個で大丈夫」

 

 それからちょっとだけ目を細め、こっちを見ずに付け足した。

 

「今日もね。あの人が喜ぶといいなと思って選んだの。そこは今も、高校の私とおんなじよ」

 

 甘酸っぱい香りが部屋に広がった。

 

 三人の気持ちを、初めから余裕をもって見ていられたわけではない。桃と彼の帰りが遅いとそわそわした日もあるし、ミカンさんがあまりに自然に彼の腕を取ったときには、私のしっぽが無言で彼の反対の腕を確保したこともある。ちなみに、しっぽは今もときどきそうする。

 

 でも、好きな人に好きだと言う勇気がどんなに要るか、私はあのシャッターの前で知った。桃が肉まんを飲み込むまでにかかった時間も覚えている。三人と一緒に笑ってごはんを食べたいのは、誰かに頼まれたからじゃない。私がそうしたいのだ。

 

 それに、夫が揚げたての小さいコロッケを一つ割って、真っ先に差し出す相手は、今日も私だった。

 

「優子。ほら、味見」

 

「熱いですか?」

 

「熱い。だから端っこからな」

 

 夫の指にも、私の指にも、もう何年も前に交換した結婚指輪が光っている。

 

 あの卒業式の翌日のお弁当は、結局ちょっとしょっぱかった。それでも二人で平らげた。それからお互いに働くようになり、休みを合わせるのに苦労して、喧嘩もして、同じ家に帰りたいという話をするようになった。

 

 娘を授かったとき、夫は私のお腹に向かって、近所の八百屋で見た変な大根の話をした。病室に妙な形の石の話をしに来た男の子は、お父さんになっても、やっぱりこの人だった。

 

「……おいしいです」

 

 そう答えてから、私はもう一つ、言いたくなった。

 

「ねえ。昔の私に、一度だけ会いに行けたら、何て言います?」

 

 夫は少し考えた。

 

「今日もおもしろい話持ってきたぞ、かな」

 

「未来のこと、教えてあげないんですか?」

 

「楽しみにしてる話のオチを先に言うと怒るだろ」

 

 私は思わず笑った。

 

 そうだ。あの子は案外、負けず嫌いで食いしん坊で、誰かの話を聞くのも、自分の足で続きを確かめるのも好きな子だった。

 

 笑っていたはずなのに、頬に、熱いものが伝った。

 

 夫が火を桃に任せ、私のそばに来た。

 

「優子?」

 

「……あのころ、悔しかったです」

 

 小さな声でそう言った。

 

「遠足に行けないのも、お母さんが疲れてるのに何もできないのも。お父さんに聞きたいことを、いつ聞けるかわからないのも。あなたのおばあちゃんのお店が閉まったときも……もう一回、あの椅子で食べたかった」

 

 今の暮らしがどんなに幸せでも、それで昔の私が寂しくなかったことにはならない。あの子とこの町で過ごした時間を、かわいそうの一言で片づけるのだって、何だかひどくもったいない。

 

「でもね、あのすごろく、私、本当に好きだったんですよ」

 

「……おう」

 

「私、ちゃんと楽しかったです。小さいころも。高校のときも。あなたに会える日が、ずっと嬉しかった」

 

 これだけは今日、どうしても聞いておいてほしかった。

 

 夫は一度、鼻をすすった。

 

「俺もだよ、優子。お前が俺を待ってたのと同じくらい、俺も、早く優子に会いてぇなと思って来てた」

 

 台所の真ん中で、額を軽くくっつけた。油の音と雨の音がして、昔と同じコロッケの匂いがした。

 

 そこで居間から、息子の切羽詰まった声が飛んできた。

 

「おかあさーん! ごせんぞが、おみせ、かった!」

 

「買収!?」

 

 見れば、すごろくのコロッケ屋の上にごせんぞが鎮座している。息子は紙で作ったお金を握り、娘はまじめな顔で新しい看板を書いていた。

 

「聞け、優子! 余はこの店を、買った者が温かいうちに座って食べられる、椅子のある立派な店舗に──」

 

「もともと椅子はありましたし、ごせんぞは買った側でしょう! あと千円札のお顔が全部ごせんぞです!」

 

「余の信用で流通している通貨だからな」

 

 桃が少し考えた。

 

「待って。私、そこの永住権持ってるんだけど。経営が変わったらどうなるの」

 

「桃、子どものままごとに現実的な懸念を持ち込まないでください!」

 

「とりあえずお昼にしましょ。揚げたてが冷めちゃうわよ」

 

 ミカンさんが笑ってお皿を並べ、夫が大きな山盛りを運んだ。娘がお箸を配り、息子はごせんぞのお店の前にも、ちゃんと小さな紙の椅子を置いた。

 

 目の下にまだ涙が残っていたけれど、私はもう笑っていた。

 

「お母さん。すごろく、なおしていい?」

 

 娘がクレヨンを持ってきた。

 

「どう直すんです?」

 

「コロッケ屋さんの横に、もう一本道つくるの。ここ曲がったら、うち」

 

 言うなり、娘は古いチラシの端に新しい白い紙を貼った。息子が赤い屋根を描き、夫が玄関を描き足した。桃の描いたテーブルは少々たくましく、ミカンさんの描いたお皿には早くもレモンが添えてある。ごせんぞは自分の座る椅子に王冠を描けと要求していた。

 

 最後に娘が、たどたどしい平仮名で、新しいマスに書き込んだ。

 

『うちで みんなで たべる』

 

「これで出られるね、お母さん」

 

 その得意げな顔が、昔、病室の椅子に座って「ほら、今日のぶん」と新しい道を広げた男の子に、びっくりするくらい似ていた。

 

 私は夫の手を握った。彼も同じことを思っていたらしく、娘を見たまま握り返してくれた。

 

「うん。ありがとう。いい道ができました」

 

 外はまだ雨だった。家じゅうに揚げたての匂いがして、私の椅子の両側を、二人の子どもが少しずつ詰めてくる。

 

 今度は、私が半分に割ってあげる番だった。

 

「はい。熱いから、端っこからですよ」

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
点
一言
0文字 一言(任意:500文字まで)
※評価値0,10は一言の入力が必須です。参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。