好きなキャラの短編集 作:チーズと唐揚げ、そしてハンバーグ
『コロッケ屋さんの、その先』から分岐した未来IFです。優子の幼馴染が、優子・桃・ミカン・リリスの四人と結婚し、五人の子どもと暮らしています。
結婚十周年の日、仕事から帰ると、玄関に「おとうさんもうらぐちへ」と貼り紙があった。
裏口へ回ると、今度は「おきゃくさまはおもてへ」と書いてある。
しばらく二枚の貼り紙を見比べていたら、窓から優子が顔を出した。
「あなた。コロッケ屋さんから一生出られないすごろくを作った才能、しっかり子どもに遺伝してますよ」
「俺のせいか、これ」
「ええ。玄関を書いたのがうちの長女で、裏口を書いたのが桃の息子です。お母さんが違う以上、犯人はかなり絞れます」
笑いながら窓を閉めようとした優子を、俺は呼び止めた。
「ただいま、優子」
「あ。……おかえりなさい、あなた」
十年経ったうちの妻は、こういうときに、まだちょっと照れる。窓の向こうで、しっぽの先だけが機嫌よく一往復した。
結局、店長だという長女の判断で、俺は表から入れてもらえた。
居間の戸には、子どもたちが描いた看板が掛かっていた。
『よるだけレストラン きょうは おかあさんたちと おとうさんの けっこんきねんび』
多魔の商店街から一本入った、少し古い二階家。ここに、俺と四人の妻と、五人の子どもが暮らしている。
優子との娘が九歳。桃との息子が七歳。ミカンとの双子が五歳で、リリスとの末娘は三歳になったばかりだ。
今夜だけは、その五人が店員で、俺たち五人の方が客らしい。
「お父さん、コート、おあずかりします」
桃の息子に渡すと、袖が床を擦った。後ろにいた桃が黙って裾を持ち上げ、息子に気づかれないよう一緒にハンガーまで運んでやる。真面目な顔がそっくりな親子だった。
双子の片方が俺を席へ案内し、もう片方が耳元で「きょうのひみつはカレーだよ」と教えてくれた。開店からわずか一分、料理に関する秘密がなくなった。
最後に末娘が椅子を叩いた。
「ちちうえ、すわるがよい!」
「ありがたき幸せ」
「うむ!」
隣でリリスが満足そうに頷いた。
「日に日に威厳が出てくる。やはり余の娘だな」
「きのう保育園の先生にも『座るがよい』って言った件、明日はあなたが説明に行くのよ」
ミカンに言われ、古代のまぞくの始祖は、急にお冷やに興味を示した。
そうして五人で並んでみると、少し落ち着かなかった。普段の食事は、誰かの口を拭き、おかわりをよそい、椅子の下へ転がったスプーンを拾っているうちに終わる。リリスが隣に座って、俺の膝の上に自分の手を重ねたのも、妙にくすぐったかった。
「珍しいな。甘えてんのか?」
「今のうちだ。あのちっちゃいのが戻ってくると、そなたの膝は余の手どころか、余の座る場所すらなくなる」
「最初からあなたが座る計画だったんですか、ごせんぞ」
優子の声に、リリスは悪びれもせず笑った。
その手は温かかった。指先に小さな絆創膏がある。今朝、娘たちのためにリンゴの皮をウサギの耳にしようとして、ちょっと失敗したのだ。
この人の手に、リンゴをむき損ねた傷ができる。
昔の俺たちが聞いたら、きっとそれだけで祝いの席を設けたと思う。
リリスが今の依代を得たのは、優子たちが成人して数年経ったころだった。
邪神像の次は、桃がこねた小さな粘土の人形だった。等身大の依代ができても、最初は七日で土に戻るはずだった。多魔川の蛟が龍玉を埋め込んでくれたおかげで、その体を使い続けられるようになった。代わりに、リリスは毎日、川のゴミを拾うことになった。
しおんはその龍玉の働きを調べ、何年もかけて、リリス自身の魔力で形を保てる体を組み上げた。指先に触れたものの温度までわかるようにするのに、そこからまた時間がかかったそうだ。
小倉しおんから連絡を受け、四人で彼女の仕事場に行った。工具と呪符と飲みかけのお茶が同じ机に載っていて、どれが研究に必要なものなのか、尋ねるのはやめておいた。
部屋の真ん中に、一足の靴があった。
茶色い革の、歩きやすそうな紐靴だった。
「どうして靴が先に出てるの?」と桃が聞いた。
「最初からあった方がいいでしょう。あの人、きっとすぐ外に出たがるから」
珍しく、しおんの予測は半分しか当たらなかった。
衝立の向こうから、自分でそれを押して、リリスが現れた。
艶のある長い髪。見慣れた形の角。俺たちと同じ高さで、こちらを見る目。彼女は日の当たる床に素足で立っていた。
もう、優子の体を借りる必要も、誰かに方角を変えてもらう必要もない。手を開くと五本の指が別々に動いた。彼女は親指で人差し指の腹を押して、その感触が面白いらしく、何度か同じことをした。
俺はいつもの癖で手を出しかけた。
「待て。そこにおれ」
言われた通りにした。
リリスは机の端をつかみ、足を一歩出した。そこで初めて、二歩目を踏み出すには机から手を離さなければならないことに気づいたらしい。ちょっとむっとした顔で床を見た。
「……地面というのは、もう少し協力的なものだと思っておった」
「ごせんぞ。地面はだいぶ頑張って支えてくれてますよ」
「承知しておるわ、優子。今のは余の緊張をほぐすための軽口だ!」
言い返した拍子に手が離れた。
二歩。三歩。
最後の一歩は歩くというより、俺の胸に飛び込む形になった。受け止めると、リリスの両腕が背中に回った。思っていたよりずっと強くて、服の布地を握る指までわかった。
「……ほう」
胸に耳を当てたまま、彼女が言った。
「そなたの心臓、ずいぶん騒がしいのだな」
「誰のせいだと思ってる」
「余のせいか?」
「お前のせいだよ、リリス」
腕に少し力がこもった。
「そうか。では、もう少し聞いておこう」
その日、彼女が新しい体で最初にしたかったのは、外へ出ることではなかった。
ずっと、自分から誰かを抱きしめてみたかったのだという。
俺の次に優子を抱いた。優子は「ごせんぞ、背中に手が届きます」と、当たり前みたいなことを言って泣いた。桃の番では力加減の協議があり、ミカンのところまで来るころには、とうとうリリスの方が泣いていた。
しおんだけはその間、作業台に向かって何かを書いていた。
後で記録をのぞいたら、最初の一行は測定値でも、魔力がどうとかいう数字でもなかった。
『みんなを抱きしめられた。腕はこの長さでよし』
あいつの仕事で、俺はあの一行がいちばん好きだ。
「お母さんたち。できました!」
長女の声で、昔のことを考えていた俺は顔を上げた。
運ばれてきたカレーには、星やらハートやら、輪郭の怪しいにんじんが浮いていた。火を使うところは昼のうちに清子さんと良が手伝ってくれたらしい。二人は夕方には帰り、盛りつけと接客を子どもたちに譲った。末娘も申し訳程度にスプーンを一本持って歩き、俺ではなく自分の席に置いた。あの子は客も兼ねるらしい。
店長が得意そうに献立を読み上げる。
「きょうのお料理は、『いっしょのおうちではじめて食べた、けっこんカレー』です!」
四人の妻と俺は、そろって手を止めた。
「……良、どこまで話しましたかね」と優子。
「まだ五人前しか出てきてない。たぶん話してない」と桃。
「待って。じゃあお鍋、ほかに隠れてないわよね?」
「ミカンよ。子らの学習能力を我らと同程度と見積もるのは失礼ではないか?」
そう。うちは新婚初日、五人前のカレーが五鍋出た家なのだ。
「なんで!?」
大喜びしたのは子どもたちで、九歳の店長などは鉛筆まで持ち出した。きっと学校の作文にする気だ。うちの家の歴史は、概してこうやって多魔の町へ漏れていく。
「一緒に住み始めた日の話だよ。まだお前たちは一人もいなくて、大人だけ五人。新しい家に荷物を運び込んでな」
「お父さん、そこからだとお鍋の話だけで終わっちゃうわ。そもそもどうして五人で住むことになったか、あの子たち、ちゃんと聞いたことないでしょう?」
ミカンにそう言われ、俺はスプーンを置いた。
隣にいるのが幼馴染の優子一人だったころ、俺は桃に告白されて、一度断っている。あのときの答えは本当だった。卒業式の日に優子と手をつないで、次の日も迎えに行って、いずれこの人と結婚したいと思った気持ちも、ずっと変わらなかった。
変わったのは、一緒に帰りたい相手が、優子だけじゃなくなったことだ。
二十代になってから、桃と二人で映画を見に行くようになった。
最初は優子に用事が入って、余った券を使っただけ。次は桃が券を取った。その次は、俺が彼女を誘った。二人で見ると、笑うところが妙に合う。映画そのものより、街灯の下で桃がぽつぽつ感想を喋る帰り道が楽しみになった。
三度目の帰り、駅の改札で桃が足を止めた。
「ねえ。今日は券、余ってなかったよね」
「……ああ。お前と行きたくて二枚買った」
「よかった。私ばっかりデートだと思って、服を選んでたら嫌だったから」
電車が来る音がしたのに、桃は行かなかった。俺も、次の電車でいいと思った。
ミカンとは、ある冬の夜、彼女が風邪をひいたときのことがよく記憶に残っている。見舞いに行ったら、お粥の味を少しも褒めてくれなかった。
「正直に言っていい? お米がちょっと硬いわ」
「わかった。次はもう少し煮る」
「……次も、来てくれるの?」
そう聞く声が、普段よりほんの少し弱かった。
それまで俺は、ミカンは人の面倒を見るのが好きなんだとばかり思っていた。あの晩、流しで鍋を洗っていたら、寝室から顔を出して言われた。
「鍋、明日でいいから。せっかく来てくれたんだし、私のそばに座っててよ」
嬉しかった。俺はその人に、もっとそういうことを言ってほしかった。
元気になった翌週も、それから先も会いに行った。しばらくして、二人でおいしいお粥を作れるようになったころには、帰り際に名残惜しそうな顔をするのは、むしろ俺の方だった。
リリスとは、新しい靴で町を歩いた。
右側の歩幅だけ少し広い。道の端の草を踏むのが好き。急いで渡った信号の向こうで、手を離すのが惜しくなると、何でもない店先でいちいち足を止める。
「リリス。別にこのままつないでていいんだぞ」
「そうか。ではこの荒物屋に用はない」
店の親父さんが聞きつけて、中で盛大に笑っていた。
そうして知っていった三人を、俺はそれぞれ、違うところから好きになった。
最初にその話をした相手は、もちろん優子だった。
二人して黙り込んで、話がその晩で済むようなことでもなかった。今でも忘れないのは、何日か経った夕方の、優子の言葉だ。
「私、あなたと二人きりでいたい夜もあるんです」
「うん」
「でも昨日、桃が帰るとき、もう遅いから泊まっていけばって言いかけました。そこで、ああ、私はこの先ずっとこの人たちに、夜になるたびに靴を履いてほしいわけじゃないんだって気がついたんです」
優子は、自分の膝に収まらないしっぽを巻き直した。
「私がいちばん困るのは、あなたが私に遠慮して、桃たちにはっきりしない顔をすることです。私はもう、あなたの気持ちを聞きました。三人には、あなたからちゃんと聞いてきてください」
「……お前は、それでいいのか」
「私も一緒に考えたいです。だから勝手にいいことにしないで、帰ってきて話してください」
俺は頷いた。
一晩で済まなかったのは、ほかの三人との話も同じだった。
桃は俺と二人になる日が欲しいと、まっすぐ言った。ミカンは、自分がいちばん気の利く人だからといって、いつも誰かに譲る役を任せないでと言った。リリスは真剣な顔で、「そなたに名を呼ばれるたび、余がどんな思いでおったか、ここで一度よく考えてみよ」と言った。
言われて考えた。足りなくて、もう一度聞いた。
そのうちに四人は、俺抜きでも勝手に集まるようになった。俺が一番緊張していた晩、台所から楽しそうな声が聞こえたので、話がまとまったのかと思ったら、新しく買う炊飯器について話していた。
「お前ら、ずいぶん先のこと話してんだな」
そう言った俺に、桃が首をかしげた。
「だって、一緒に暮らしたら、最初の日からごはんは要るよ」
それで俺は、ようやく肩の力が抜けた。
四人に結婚を申し込んだのは、それから間もなくのことだ。
店を畳んだ祖母から譲られた、小さな丸椅子がある。その椅子一脚しかまだ家具のない新居で、四人に集まってもらった。格好よく膝をつくつもりが、全員をちゃんと見ようとすると、どうにも落ち着かない。
結局、五人で床に座った。
「優子。桃。ミカン。リリス。俺は四人とも好きだ。俺と結婚してくれ」
しん、とした。
最初に動いたのは、優子のしっぽだった。俺の手首にするっと巻きついた。
「……はい。私、あなたのお嫁さんになります」
桃は俺の隣まで膝で寄ってきた。
「私も。前に一度欲しかった返事、今日もらっていい?」
「桃。俺も、お前が好きだよ」
「うん。じゃあ、長く待った分、今日はそっちから抱きしめて」
そうした。耳まで真っ赤になった桃が、俺の肩口で小さく笑った。
ミカンはその横で泣いていた。驚いた俺が顔をのぞくと、片手で涙を拭きながら怒られた。
「なぁに、その顔。私が一番涼しい顔で返事すると思ってたでしょう」
「ちょっと思ってた。悪い」
「私だって、あなたのお嫁さんになりたかったのよ。……はい。こちらこそ、よろしくね」
最後に残ったリリスが腕を組んでいた。
「余も返事はとうに決めておる。が、一点、聞いておきたい」
「何だ?」
「余に格好をつけさせよ。今日はそなたに言われるばかりで、まだ余が何もきめておらん」
一体何をするかと思ったら、立ち上がり、例の丸椅子に腰かけた。そして俺に向けて、両腕を広げた。
「さあ、来るがよい。今度は余がそなたを迎えてやる」
あの日、研究室で、こちらへ歩いてきた人だった。
俺がその胸に顔を預けると、彼女は後ろ頭を撫でた。
「好いておるぞ、そなた。これから幾年でも、余の夫でおれ」
「……おう」
そこで少し洟をすすってしまい、四人に聞かれた。
あの日のことで俺が唯一やり直したいのは、ハンカチを持っていかなかったことだ。
「それで、どうしてカレーが五つになったの?」
うちの九歳は、親たちが十年越しの照れと戦っている話より、お鍋の経緯の方が気になるらしい。
「みんなそれぞれ、いい格好をしたかったのよ」
ミカンが指を折って数えた。
まず優子は、一家の食費を考え、大袋のじゃがいもと玉ねぎを特売で買った。引っ越しの日は忙しくて料理ができないと思い、前日のうちに実家でカレーを作って鍋ごと運んだ。
俺は俺で、優子が忙しいだろうと考え、祖母に教わったカレーを五人分作った。
桃は新居の台所で説明書どおりに作った。分量どおりが身上の彼女の鍋だけは、本当にきっちり五皿分だった。
「当時はまだ、箱に『八皿分』と書いてあるルウを、五皿に合わせて定規で測ってましたからね、桃は」
「量を間違えるとシャミ子が濃いって言うから」
「定規を台所用品の引き出しに入れることについては、今も賛否があります」
ミカンは、誰か一人くらい白いごはんを炊いておくだろうと考え、具だくさんのチキンカレーを作ってきた。
リリスは何も知らせず、しおんの台所を借りた。新しい手で初めて、玉ねぎを炒めるところから一人でやってみたかったのだ。香りを確かめて、ゆっくり鍋底を混ぜていたら、嬉しくて少し焦がした。
床にじかに並べた五つの鍋。ふたを開けるたびにまたカレーが出てきた。三つ目でミカンが吹き出し、四つ目を前にリリスが自分の鍋を背中へ隠し、五つ目まできたところで、優子が肝心なことに気がついた。
「……ごはんは?」
五人とも、昼間あれほど相談した炊飯器を見た。
まだ箱に入っていた。
「おとうさん。おとなが五人いたのに?」
「そうだ。しかも、そのうち二人は町を守れるくらい強いし、一人は何千年も生きてる」
「お米は、町よりむずかしいの?」
俺は桃を見た。桃はまじめに考えた。
「町を守るときも、誰かがやってくれると思うのはよくないね」
「桃。その教訓はだいぶ大きいです」
結局五人で夜の町へ出て、開いていたパン屋で残りの食パンを全部買った。
まだカーテンも掛けていない部屋に座って、五つのカレーに少しずつパンを浸した。初めての夫婦の食卓は、テーブルも白いごはんもなく、みんなで床に座ったせいで翌朝は腰が痛かった。
それが、妙においしかった。
「私、あの日のごせんぞの鍋が、いちばん好きでした」
優子が言った。
「えっ、余のか? 底の方、けっこう苦かったぞ」
「知ってます。一番おいしいかどうかは別問題です」
「おい、子孫」
「ごせんぞが、自分のお皿においしそうなところを先に取って、そのあと、はっとして私のお皿に移したの、覚えてます?」
「……忘れた」
「私は覚えてますよ。昔、私がごせんぞにごはんをお供えしてたでしょう。あの日初めて、ごせんぞに、ごはんをよそってもらったんです」
リリスはスプーンを止めた。
「だから、好きだったんです。あのお鍋」
しばらく黙っていたリリスが、不意に椅子から身を乗り出し、テーブル越しに優子の頭を撫でた。
あんなに小さかった依代では、逆立ちしても届かなかった距離だ。
「よし。次は一番うまいやつを食わせてやる」
「はい。楽しみにしてます、ごせんぞ」
その後のレストランは大盛況だった。
接客する方が先にお腹をすかせたので、途中から俺たちが給仕に回った。桃が一番下の娘の口を拭き、ミカンが桃の息子におかわりをよそい、リリスの膝の上では双子が一つの絵本を逆向きに読んでいた。優子の娘は俺の隣で売上を計算し、「ぜんぶむりょうだった」と重大な経営上の問題に気づいた。
風呂に入れて歯を磨かせ、寝室からの「もう一杯おみず」に三度ほど応じて、ようやく家が静かになった。
居間に戻ると、優子がお茶を五つ並べていた。桃はソファの片端を空けて、黙ってそこを二度叩いた。俺が座ると肩に頭を預けてくる。ミカンが俺の反対側へ腰を下ろし、今日、子どもたちが内緒でどれほど味見をしたか、声を潜めて教えてくれた。
リリスはといえば、昼の宣言どおり、俺の膝を確保していた。
「ごせんぞ。大人の女性が本当にそこに座ると、あなた、夫のお茶までずいぶん遠くなりますよ」
「優子よ、案ずるな。余が飲ませてやる」
「自分で飲めるからちょっと通してくれ」
そんなことを言いながら、優子も俺の足元のラグに腰を下ろし、膝に頬をもたせた。すぐ横に誰かの体温があって、お茶は遠くて、俺はこの窮屈さが結構好きだった。
「ねえ。みんな、一緒に暮らす前に、これは想像してなかったってこと、ある?」
ミカンに聞かれ、桃が少し考えた。
「子どもが夜中に熱を出したとき、五人とも起きてくること。水と体温計で足りるのに、枕元がすごく混む」
「ミカンさんは?」
「私はね、腹を立てたまま寝ても、朝ごはんはちゃんと食べられること」
ミカンがお茶を両手で包んだ。
「昔は、誰かと気まずくなったら、私から笑って元に戻さなきゃって思ってたの。でもこないだ、この人と喧嘩した朝ね。まだ口も利きたくないのに、私の目玉焼きだけ両面焼いてあったのよ。……そしたら、朝ごはんの間は怒ってていいし、そのあとゆっくり仲直りしてもいいんだなって」
「ちなみに、あの喧嘩は何が原因だったの?」
桃に聞かれ、俺とミカンは顔を見合わせた。
どちらも覚えていなかった。
「卵の焼き方だけ残ったんですね」
優子が笑って、俺の膝に頬をすり寄せた。
「私は、雨の音を聞くのが好きになるとは思いませんでした。小さいときは、雨の日、お見舞いに来てもらえないかもしれないって心配だったから。今は逆です。雨だとみんな早く帰ってくるので、ちょっと得した気持ちになります」
「シャミ子。家族が増えた分、洗濯物も増えたけどね」
「そこなんですよ。幸せと物干し場の広さが釣り合ってません」
「余はあるぞ。こんなに名前を呼ばれる暮らしになるとは思わなんだ」
リリスがぽつりと言った。
「昔は一日、誰とも喋らぬことなんぞ珍しくもなかった。今は朝から余の名が聞こえる。妻として呼ばれ、母として呼ばれ、そこの子孫は今もごせんぞと呼ぶ。……夜、全員眠って、やれ静かになったと思うであろう?」
「うん」
「そうすると、明日の朝いちばんに誰が余を呼ぶか、もう楽しみにしておるのだ。余もずいぶん、騒がしいものが好きになった」
その言葉が少し沁みて、俺は膝の上の妻の手を握った。
彼女が最初に抱きしめに来てくれた日のこと。優子のいた病室。桃と逃した電車。ミカンに米が硬いと言われた鍋。昔の俺たちには、もうこれ以上うまくいく道なんてないと思った夜が、それぞれにあった。
「あなたは?」
優子が見上げてきた。
「俺は……そうだな。結婚したら、昔の失敗はそのうち格好のいい思い出になるもんだと思ってた」
「あ、そういうことなら、一つすごく格好よくなった思い出があるわよ」
ミカンが急に嬉しそうな顔をした。嫌な予感がした。
「プロポーズの日、『四人とも好きだ。俺と結婚してくれ』って、今日子どもたちに話してたじゃない?」
「ああ」
「あなた、一回目に言った台詞、そこじゃないわ」
桃が俺の肩で震え始めた。優子が口元を押さえた。リリスに至っては俺の膝から下り、少し離れてこちらを向いた。人の顔を正面から眺めて笑うためだ。立派な依代の大変有意義な使い方をしやがる。
「……俺、何て言ったっけ」
優子が背筋を伸ばし、当時の俺のつもりらしい低い声を作った。
「『今から大事なこと言うから、ちょっと全員、横一列に並んでくれ』」
桃が続けた。
「それで私たち、本当に横一列に並んだ」
「そしたらこの人、端っこの余と目が合わんと言いだしてな。半円に並び直させたのだ」
「最後には俺も床に座るから、やっぱお前ら好きなとこ座れって。もう、あのとき私、笑わないようにするの大変だったのよ」
思い出した。
そうだ。俺は人生で一番格好をつけたかったあの数分間のうち、半分くらいを四人の座席調整に費やしたのだった。
「……お前ら、そこは忘れてくれてもいいだろ」
「やです」
優子が、あっさり言った。
「あなた、私たち一人一人の顔がちゃんと見たかったんでしょう。私はあそこ、かなり好きですよ」
「私も。いざとなると仕切りが下手なの、かわいかった」
「桃まで言うか……」
「安心せよ。十年経った今、そなたはずいぶん成長した」
リリスは俺の頬に手を添え、もったいをつけて微笑んだ。
「今朝など、玄関と裏口にそれぞれ一枚紙を貼られただけで、五分も家に入れなんだ」
最初に噴き出したのは俺だった。そんなところまで見られていたのかと顔を覆ったら、桃がとうとう俺の肩で声を上げた。ミカンは笑いすぎてお茶を置き、優子は「子どもが起きます」と叱りながら、自分がいちばん大きな声で笑った。
案の定、寝室の戸が細く開いた。
寝癖のついた末娘が顔を出した。きょろきょろと五人を見渡して、俺たちが笑っているのを確かめると、一言だけ告げた。
「わらうなら、よもよべ」
リリスにそっくりだった。
俺たちは顔を見合わせた。今度こそ声をひそめようとした。それが五人とも同時だったものだから、余計におかしくなった。
結局、その晩のレストランは小さなお客をもう一人迎えて、閉店が少しだけ遅くなった。