好きなキャラの短編集 作:チーズと唐揚げ、そしてハンバーグ
ルーラーシップと、オリ主トレーナーの恋愛短編です。
出会いと現役時代の回想から、卒業・引退後の交際、結婚、家族の日常までを描いています。
将来の生活や家族について、独自設定を含みます。
ルーラーシップの顔を初めて見た日、俺たちはもう、だいぶ気心の知れた仲だった。
なにしろ俺は、それまでに彼女に四十六回負けている。
中央のトレーナー試験を受けていたころ、毎週木曜の夜に、オンラインでリバーシを指す相手がいた。勝っても負けても挨拶ひとつで消えていく人が多いなか、その人だけは、俺が「あの一手の続きを見せてくれ」と頼むと付き合ってくれた。
四十七局目にして初めて俺が勝った晩など、俺にとってどれほど下手な一手が結果的に勝ちを呼び込んだのか、深夜一時までかけて懇切丁寧に教えてくれたものだ。
翌朝が試験だった。
受かったからよかったようなものの、落ちていたら半分くらいあいつのせいにしたと思う。
その春、赴任したてのトレセン学園で急な雷雨に降られた。避難先の空き教室に、俺より先に雨宿りしているウマ娘がいた。机の上に折り畳み式のリバーシ盤を広げ、一人で両方の石を置いている。
「そこ、白は右上を取らない方が嫌だな」
うっかり口を挟むと、伏せていた顔が上がった。
「へえ。角をくれる相手に、そんなこと言われたのは二度目だ」
「俺も前に一人だけ、くれてやったことがあるよ。そしたら俺が勝ったのに、一時間半も説教された」
彼女の耳が、ぴんと立った。
「……あれを説教と受け取ったのか? 君が続きも見たいって言ったんだろ」
「まさか。木曜の?」
目の前のウマ娘は、なぜかちょっと腹立たしそうに椅子を引いた。
「ルーラーシップだ。いいところに来たな、トレーナー。あの晩の続き、盤があった方が早いと思ってたんだ」
もう対局を逃がさない人の顔だった。初めて見た顔なのに、そうとわかった。
俺たちは鞄を挟んで向かい合い、雷が去ってもまだ遊んでいた。
彼女が走るところを見たのは、それから三日後だった。
春の選抜レース。ルーラーは最後のコーナーで前が開くと読んで、内に踏み込んだ。ところが、ひとつ前を走るウマ娘には、彼女が見積もったより半歩ぶん余力があった。抜け出す場所を塞がれて、仕掛けが遅れた。
四着だった。
俺が感想を伝えに行ったころには、もう姿がなかった。夕方になってようやく、ボードゲームの箱を積み上げた部室の奥から声がした。
「帰ってくれ。今日の俺には、床の木目を数える大事な仕事がある」
「何本だった?」
「……途中でどこまで数えたかわからなくなった。もう何をやっても駄目だ」
あんなに自信満々で石を並べていた人と同一人物なのが、にわかには信じがたかった。
俺は廊下に腰を下ろした。
「一個だけ聞かせてくれよ。抜ける場所を塞がれたあと、すぐさま外へ出るんじゃなくて、一歩だけ待ったろ。あれ、何を見てた?」
返事はなかった。帰ろうと膝を伸ばしたところで、扉が三センチほど開いた。
「前の子の右耳」
隙間から片方の目がのぞいた。
「外から上がってくる足音を気にしてた。あそこで俺まで外に並べば、あの子は張ってくる。だから先に行かせた。一歩待てば、その子の後ろを通れる」
「やっぱり、ただ詰まってたんじゃなかったか」
「……最初に詰まったのは俺の読み違いだよ。見てただろ、あの格好悪いところ」
「見てた。だから、そっから二人抜いたところをもう一回見たいんだ。俺が知りたいのは、負けた日の続きの方だよ」
扉が、もう少し開いた。
「君、ほんとに木曜のやつだな」
その日は契約書なんて持っていなかった。だから翌朝、ちゃんと用意して迎えに行った。ルーラーは昨日のうちにサインの練習をしたらしく、机の端に自分の名前を十回くらい書いた紙があった。
俺の視線に気づくと、すごい速さで裏返した。
「……名前の書き味を確認してたんだ」
「自分のか?」
「そうだ。文句あるか」
俺はこの人のトレーナーになりたいと、あらためて思った。
ルーラーと過ごした現役時代のことは、今でも雨の匂いと一緒に思い出す。
ゲートで立ち遅れてしまえば、いくら前夜にきれいな展開図を描いても、そのとおりには走れない。最初のうち、俺たちは念入りに策を増やした。普通に出た場合、半歩遅れた場合、集団がばらけた場合。二人して練習室に籠もり、気づけば机に乗りきらないほど紙が増えていた。
それなのに、一枚も用意していない展開がきちんと次の週末にやってきた。ルーラーは負けて、また扉を閉めた。
その扉に背を預けて、俺は一緒に作った紙の束をめくった。
「ルーラー。俺たち、ちょっと相性が良すぎたな」
「……負けた日に惚気に来たのか、君は」
「いや。俺もお前と同じくらい、机の上で勝つのが好きだった。これ、走ってるときに何枚思い出せる?」
しばらくの間があって、「一枚」と答えが来た。
次のレースから、彼女に渡す紙を一枚にした。決めておくのは最初の位置取りと、勝負どころで残したい脚だけ。その間の道は、走っている彼女が見つける。俺が受け持ったのは、彼女が選べる道を増やす方だった。後方から上げるときも、焦って最初の百メートルにつぎ込まないこと。雨の芝で滑ったら一歩で取り返そうとせず、次に力をかけられる足場を探すこと。
雨の京都で走った金鯱賞。開いたゲートに彼女が一人取り残されたとき、スタンドに低いどよめきが走った。
俺は手すりを握った。あの出遅れを、待ってましたと思えるほど肝は据わっていない。
けれど、向こう正面に差しかかった彼女を双眼鏡で捉えると、肩はもう下りていた。前の集団が内に固まっている。ルーラーは一人ずつその外へ並び、一人ずつ抜いた。泥を跳ね上げながら上がっていく勝負服は、遠回りをさせられているようでいて、足が滑る場所をほとんど踏んでいなかった。
最後の直線。逃げる背中まではまだ遠い。
その距離が、一歩ごとに目に見えて縮んだ。
彼女が先頭で線を踏んだ瞬間、嬉しすぎて声が出なかった。やっと声が出たのは、戻ってきた彼女が俺の胸に額をぶつけたときだ。
「……泥、つくぞ」
「一着の泥だ。ありがたくもらえ」
格好をつけた声のあとで、ルーラーは俺のジャケットを両手でぎゅっとつかんだ。
「なあ。一番後ろからでも、俺のこと、ちゃんと見えたか?」
「ああ。お前、一度も俺の視界から消えてねえよ」
「……なら、いい」
あとでクリーニングに出したら、ジャケットは驚くほどきれいになった。少しだけ惜しかった。
香港で初めて大きな栄冠を手にした夜、祝勝会を抜け出した彼女に、自販機の前で缶を一本渡された。みんなに乾杯してもらったばかりなのに、俺と二人でやり直したかったのだという。
逆に、最後の有馬記念を三着で終えた夜には、彼女の方から俺を捜しに来た。
「さすがに今日は床の木目かと思った」
「数えに来てもいいぞ。君の分、半分残してやる」
笑いながら、彼女は俺の隣に腰を下ろした。人が引いたあとも、スタンドの階段を下りていく足音だけがしばらく残っていた。
「トレーナー。俺が走らなくなっても、木曜の夜は空いてるか?」
「空けるよ」
「ずいぶん簡単に言うな」
「木曜が駄目なら金曜にする。俺だって、お前に会いたいからな」
彼女は膝の上に置いた両手を見つめた。寒さのせいばかりであんな色にはならないだろうと思うほど、耳の内側が赤かった。
学生だったルーラーに、それ以上のことを俺は言わなかった。彼女も聞かなかった。
ただ、その日の帰り道、電車の窓に映った俺たちはそろってにやけていた。両片想いというのは本人同士だけがうまく隠しているつもりで、車窓にさえ見破られるものらしい。
卒業して競技を引退し、担当契約も終わった。ルーラーはボードゲームの制作に携わるようになり、俺は中央に残った。
それでも木曜の夜になると、彼女は折り畳みの盤を持ってきた。
ある木曜、彼女が二人ぶんの小さな紙を切った。
「今夜は勝った方が、日曜の行き先を決める。お互い、先に希望を書いて伏せておこう」
「俺たち、会うの確定なんだな」
「……他に予定があったのか?」
ものすごく不安そうな顔になったので、慌てて首を振った。彼女は咳払いを一つして、ずいぶん長く何かを書いた。
昔に比べれば、俺も強くなった。中盤まで互角だったし、彼女が空けてみせた角にも飛びつかなかった。だが終盤、どう打っても一度パスさせられる形に追い込まれた。黒三十四、白三十。俺の負けだった。
ルーラーは勝者の紙を開いた。
『海へ行く。デートとして』
あれだけ長く書いていたにしては短い。よく見れば「デートとして」の下だけ、三度ほど消しゴムをかけた跡があった。
「……意味は、わかってるよな?」
俺は返事の代わりに自分の紙も開いた。
『ルーラーをデートに誘う。海。雨なら水族館』
彼女は二枚をぴたりと並べ、しばらく眺めていた。
「俺としたことが」
「何だ?」
「雨天の代案で負けた。……あと、君がこっちを開けたら、何を言うかまで考えてなかった」
照れると素直になる人だった。俺はそのところが、高校生の彼女を見送っていたころから、どうにも好きだった。
「だったら俺に言わせてくれ。ルーラー、好きだ。俺と付き合ってくれ」
彼女は一度、ひとさし指で俺の紙の「デート」の文字をなぞった。
「うん。俺も、君が好きだ。もう担当でもないのに、君の木曜をずっと俺のものにしたかった」
「木曜だけでいいのか?」
「日曜も取った。今、正々堂々と」
引き寄せると、彼女は俺の肩に鼻先を押しつけて笑った。その晩、初めてキスをした。別れる前にもう一度と俺が言い、彼女が「先手を二回も譲る理由はない」と言って、俺より先にしてくれた。
日曜は、雨だった。
水族館のクラゲの水槽の前で手をつなぎ、俺が「初めてのデートだし、もう少しゆっくり見たいな」と言うと、彼女はさっさと順路を二歩戻った。
「この水槽、四周目だぞ」
「君の手が温かい。五周目も行ける」
「……俺も行ける」
結局二人とも、あの水槽にいたクラゲの名前を覚えていない。
同棲を始めたのは、そこから一年ほど経ったころだ。
朝、出勤前に玄関で抱きしめると、ルーラーは俺の背中に手を回して、壁の時計を見た。
「駅まで七分。いつもの君なら六分。まだ一分ある」
俺はその一分を使った。翌日からは、抱きしめる時間の分だけ二人で早起きした。
中央の同僚にこの話をしたら、無糖のコーヒーをがぶ飲みしていた。
「どうした?」
「もう甘いんだよ、口の中が」
もっとも、一緒に住んで発見したのは、お互いのかわいいところだけではない。
ルーラーには、考え事の途中で盤を放置する癖があった。翌朝その続きがやりたいらしい。俺の方は、食事が来る前に机をきれいに空けたい人間だった。ある夜、彼女が風呂に入っている間に、食卓に広がっていた試作品の駒を、色別にきれいに箱へ戻した。
上がってきたルーラーは、空っぽの机を見て固まった。
「……俺、あの配置を見つけるのに三日かかったんだけど」
「先に言ってくれよ。飯食うとこだろ、ここ」
「夕飯にカレーを作るのにだって三時間かかるだろ。俺が勝手に片づけて、鍋だから片づけたって言ったら、君、納得するか?」
俺は言い返しかけた。そこで、彼女の髪の先から水がぽたぽた落ちているのに気づいた。悔しすぎてタオルを使うことさえ忘れていたらしい。
その晩のカレーはちょっと冷めた。二人で覚えている限り、駒を戻したからだ。最後の二個の置き場所は、どうしても思い出せなかった。
一方、俺がいちばん彼女に腹を立てたのは、楽しみにしていた温泉行きを当日の朝に取りやめられたときだった。新作の試遊会で辛辣なことを言われ、昨晩から布団をかぶっていたのは知っていた。知っていたけど、俺だって、ようやく取れた二日続きの休みだった。
「行けないならせめて昨日言えよ。俺、二人分の荷物を作りながら、お前も楽しみだとばっかり思ってた」
布団の山が動いた。
「……今さら言っても、もう怒ってるだろ」
「怒ってるよ。今はな。でも俺が怒るとこまでお前の頭ん中で済ませて、俺を抜きに話を終わらせんなよ」
少しして、布団の端から彼女の手が出てきた。
「君にまで、がっかりした顔をされたくなかった」
「うん」
「昨日の俺は今よりも格好悪かったから、見られたくなかった。……ごめん。旅行、楽しみにしてくれてたのに」
俺は荷物を一つずつほどいた。温泉には、また別の休みに行った。天気のいい日に行けたのはよかったけれど、一度目の予約金がいくらか返らなかったことは、ちゃんと二人で悔しがった。
うちには今も食卓の下に、薄い板が一枚差してある。そこに盤を載せれば、途中の形を崩さずに食卓を空けられる。ルーラーは沈んだ日、「今日ちょっと駄目。明日のことは一緒に決めて」と、まず一言よこすようになった。
一緒に暮らすのがうまくなるというのは、好きになるばかりのころよりも地味で、その分、嬉しいことだった。
中央で、俺についた不名誉かつ、正直に言えば幾分名誉でもあったあだ名がある。
初恋キラー。
最初に言い出した奴とは一度じっくり話をしたい。できれば、どのあたりでそう判断したのか、具体例つきで。
昔の俺は、負けた教え子にすぐ次の課題を渡すトレーナーだった。ルーラーと長くいるうちに、今すぐ走り直したい子と、シューズの紐をほどくまでそっとしておいてほしい子の違いが、少しだけわかるようになった。意気消沈した相手を無理やり明るくさせる必要もなくなった。黙っていても機嫌が悪いわけではないのだと、家でたっぷり教わったからだ。
服の趣味もよくなった。俺が試着室から出るたび、「それは肩が合ってない」「そっちは好きだ。俺が」と、率直な意見をくれる人がいた。
結果、昔より少し見栄えがよくて、話を最後まで聞いてくれる男ができあがった。
ある教え子が卒業の日に、「トレーナーさんが私の初恋でした」と教えてくれた。俺はありがとうと答えて、彼女が走ったレースでいちばん好きだった一戦の話をした。彼女は泣いて、笑って、友達に肩を抱かれて門を出ていった。
そのこと自体は、大事な思い出だ。
問題はその後、同僚たちに「また一人か」「罪な男だねえ」と冷やかされたときの俺だった。否定する口元が緩んだ。帰りにショーウィンドウへ映った自分を見て、ちょっと襟を直した。
俺はモテるのが、まんざらでもなかったのである。
しかも、そのまんざらでもない気持ちを、家庭に持ち帰ってはいないつもりだった。
そんなもの、四十六連勝した相手を前に、いつまで隠し通せると思っていたのか。
学園の一般公開があった日のことだ。ルーラーも、自分の制作したゲームを体験できる小さな卓を出していた。片づけの途中、俺は同僚のトレーナーから声をかけられた。
「お前んとこの新人、またお前のこと、王子様みたいだって言ってたぞ。奥さんに怒られないのか?」
「あはは。いや、俺、まだ独身ですから」
事実ではあった。新人の子に思わせぶりなことを言った覚えもない。けれど「いい人がいる」とも、すぐそこにいるのがその人だとも言わなかった。
ちやほやされているいい気分を、わざわざ自分で終わらせたくなかったのだ。
少し離れたところで、ルーラーが畳みかけのゲーム盤を抱えたまま、俺を見ていた。
その晩、帰宅すると、食卓には好物のシチューがあった。俺のために残してくれていたらしい。疲れて腹も減っていた俺は、彼女の渾身の仏頂面にも気づかず、実にのんきなことを言った。
「いやあ。俺はいい嫁さんをもらったなあ」
スプーンが皿に当たって、かちん、と鳴った。
「もらってない」
「え?」
「君は俺を、嫁にもらってない」
ルーラーは立ち上がった。俺のシチューを取り上げるのかと思ったら、律儀にパンまで添えてくれた。そこまでやって本格的に腹が立ったらしく、自分の椅子を持って、居間の隅へ行った。
壁に向かって椅子を置き、毛布をかぶり、そのまま座った。
「……ルーラー。こっち向いてくれないか」
「嫌だ。独身を満喫している男性を直視すると、今の俺は品のないことを言う」
「悪かった。今日の話、聞こえてたんだな」
「見えてもいた。あの顔をリプレーで君に二十回くらい見せたい」
毛布の下から、しっぽだけが出ていた。床を叩く音がする。レースに負けて籠もったときとは全然違った。あのときは放っておいてほしくて閉じた扉だ。今は俺にそこを開けさせたくて、目の前に置いていた。
「少し、嬉しかった。格好いいって言われたり、初恋だって言われたりするの」
「知ってる! 君がああいう日に限って帰りの電車の窓で髪を直すの、俺はもう何年も知ってる!」
ずいぶん前から見破られていた。
「でも俺は、あの子たちに腹を立ててるんじゃない。君を好きになる気持ちなら、俺が一番わかるよ。最初にまともに負けた日に隣に座ってくれた人間を、好きになったっておかしくない。なったよ、俺だって!」
椅子が勢いよくこちらを向いた。毛布はまだかぶっていた。
「腹が立つのは、君だ。家では俺のことを嫁だの奥さんだの嬉しそうに呼ぶくせに、よそでモテてるときだけ、ずいぶん正確に独身を名乗るじゃないか!」
ぐうの音も出なかった。
「……ごめん、ルーラー。軽く言った。お前が聞いたらどう思うかも考えなかった」
「じゃあもう嫁って呼ばない、とか、そういう方向に考えてるだろ」
一瞬、考えていた。
彼女は椅子から立ち上がった。顔が真っ赤だった。毛布が片耳に引っかかって、ものすごく怒っているのに身体の半分だけ暖かそうだった。
「逆だ、ばか! 呼ぶのをやめてほしいんじゃない! ほんとにしてほしいんだよ!」
「……ほんとに?」
「俺と結婚してくれって言ってるんだ!」
声が裏返った。
本人はそれにも腹が立ったらしく、テーブルを回って俺のところまでやって来た。俺の顔を両手で挟んで、よそを向きようもないところで、今度はもっと大きな声で言った。
「花もない! 指輪もない! もうすぐシチューに膜が張る! こんなタイミングで言うつもり、全然なかった! でも俺、君の彼女のまま、いつ結婚するんだろうって考えて寝るの、もう飽きた! 君と結婚したい。俺を君のお嫁さんにしてください!」
あれほど何手も先を考えて生きてきた人が、この日ばかりは次に何を言うかもわからずに、思いついた言葉を全部くれたのだ。
俺は、その両手ごと彼女を抱き寄せた。
「うん。しよう、結婚。俺はルーラーの旦那になりたい」
彼女の腕の力が抜けた。ぱさりと毛布が落ちた。
「……するのか?」
「するよ。俺だって、お前とじいさんばあさんになるまで一緒にいたい。そう思ってることくらい、わかってくれてるって甘えてた。悪かった」
「……俺、今、相当みっともなかったぞ」
「うん。惚れ直した」
「そこは否定してくれ!」
泣きながら怒るから、俺は笑って、それから俺も少し泣いた。鼻の頭にキスをしたら「そこじゃない」と顎をつかまれた。さすが、欲しいものをはっきり言うと決めた日のルーラーシップは強かった。
シチューには本当に膜が張った。温め直して、二人で食べた。
結婚式には、俺たちが想像していたよりずっと多くの人が来てくれた。
ヴィクトワールピサとローズキングダムが受付のあたりで手を振り、エイシンフラッシュは式が始まる前から、巻き込まれた本人にしかわからない正確さで、ずれた席札を直していた。キセキはカメラを片手に、花嫁が入ってくる前から泣きそうになっていた。
エアグルーヴは、支度を終えたルーラーを見るなり近くに来た。ヴェールの下に窮屈そうに折れていた片耳を、そっと逃がしてくれた。
「大丈夫です、エアグルーヴサン。今の俺は驚くほど落ち着いて──」
「ルーラー。私はまだ何も聞いていないぞ」
「…………」
「きれいだ。よく似合っている」
ルーラーは瞬きを二度した。そのままエアグルーヴの肩に額を預け、せっかく仕上げた目元を少し直すことになった。
アドマイヤグルーヴは俺たちをしばらく見ていたが、花嫁の手がなかなか俺の袖を離さないのに気づくと、静かに笑った。
「写真のために、わざわざ離すこともないでしょう。そのまま撮ってもらえば?」
その一言のおかげで、うちには今も、俺の袖に少し皺の寄った、とてもいい集合写真がある。
みんなに祝われて外へ出たとき、ルーラーはつないだ俺の手を軽く揺すった。
「なあ、トレーナー。さっきから俺、変な顔してないか?」
「ずっと笑ってる」
「戻し方がわからない」
「奇遇だな。俺もだ」
彼女はそれを聞いて、いっそう幸せそうな顔になった。
あれからずいぶん経った。
三人の子どもに恵まれ、ルーラーは俺が時々見惚れるくらい、落ち着いた母親になった。
いちばん上の娘がゲームに負けて盤ごとひっくり返しそうになった日には、手をそっと押さえて、「悔しいときは、先に悔しいと言ってみろ。盤はそのあとでもひっくり返せる」と教えた。後半は教えなくてもいいだろうと思ったが、娘は悔しいと言っただけで少し気が済んだらしく、二人で散らさずに駒をしまった。
真ん中の息子は、夕飯のおかずを何から食べるか毎晩真剣に相談する。彼女はそれにも付き合った。「最後に取っておくなら、冷めてもおいしい方だな」「じゃあおいも」「いい判断だ」。
そして一番下の娘が、ようやく「おかえり」を覚えた。出かけるときにも言ってくれるので、俺は日に二度ずつ帰ってきた気持ちになる。
件の質問が出たのは、そんな末娘が、棚に飾ってある結婚式の写真を指さした日だった。
「まま。きれー」
ルーラーはたちまち相好を崩した。
「そうか。ありがとう。今のお母さんは?」
「きれー」
「いい子だ。今日のおやつは──」
「ルーラー。賄賂」
咳払いをして、彼女は戸棚から手を戻した。
写真を見に来た上の娘が、小首を傾げる。
「ねえ。お父さんとお母さんって、どっちが結婚してくださいって言ったの?」
「お母さんだぞ」
「へえ! どんなふうに? レストランとかで?」
俺はにやにやした。どうしても、した。
妻と二人きりの思い出をどこまで子どもに明かしていいものか。実に重大な判断を迫られた一児の父、もとい三児の父として、俺はあの日の名台詞を、まず一つだけ厳選した。
「ええとだな。お母さんが、椅子ごとこっちを振り向いて──」
「君。その先は、よく考えて喋れよ」
落ち着いた三児の母が、台所からものすごい速さで戻ってきた。
「椅子に座ってたの? なんで?」
「その前にお母さん、壁の方を向いてたんだ。実は毛布も──」
「言ったな!? 俺の人生で一番格好悪いところから教える気だな、君は!」
さっきまであれほど優しく娘に諭していた人が、俺の口を両手で塞ぎに来た。膝にいた末娘が声を上げて笑い、息子が背後から加勢し、いつの間にか俺一人に対してウマ娘二人と人間の息子一人がぶら下がる、とんでもない勝負になった。
ようやく自由になった俺は、床に座り込んでいる妻の、少し乱れた髪を直した。
「格好よかったとこも言わせてくれよ」
「……何だ」
「お母さんはな、ほんとは恥ずかしくて隠れたかったのに、ちゃんと自分から俺のところに来てくれたんだ。お父さんは、この人のそういうところが、昔から大好きなんだよ」
娘が「ふうん」と笑った。思っていたよりもずっと大人びた、優しい顔だった。
「お母さんは、お父さんのどこが好きだったの?」
ルーラーは少し考えた。俺の肩に頭を預けてきたので、耳の付け根を撫でた。昔から、こうすると彼女は俺にだけ聞こえるくらい小さく息を吐く。
「負けて悔しいとき、俺がそのあとに何をしたかまで見ててくれるところ。あと、リバーシで四十六回負けても、俺と遊ぶのをやめないところ」
「それで結婚したの?」
「うん。……お母さん、次の木曜まで待つのが嫌になったんだ」
娘はその答えに満足したらしく、例の折り畳み盤を持ってきた。誰が白を使うかで上の二人が揉め、末っ子は早くも自分が参加できそうな仕事を見つけて、空の箱を開けたり閉じたりしている。
「なあ、ルーラー」
「何だ、元・初恋キラー」
「その肩書き、いつになったら消えるんだよ」
「一生消さない。俺の初恋だって、君が持ってったんだから」
まさかそんなところから甘い球が来ると思わなかった。俺が思わず黙ると、彼女はしてやったりという顔で、俺の頬にキスをした。
すると膝の上の末娘が、覚えたばかりの得意な言葉を披露した。
「おかえり!」
「……うん。ただいま」
律儀にそう返した妻の顔を見て、今度は俺の方からキスをした。
俺たちの間に盤が一つ、周りに椅子が五つ。あの雨の日、彼女が俺のために引いてくれたたった一脚の椅子から、うちはずいぶん賑やかになった。