好きなキャラの短編集 作:チーズと唐揚げ、そしてハンバーグ
八雲紫と、オリジナルの男性妖怪の恋愛短編です。
幼いころの出会いから、数千年を経た再会、夫婦と家族の日々までを描いています。
紫の過去や幻想郷での将来、家族関係などに独自設定を含みます。
おれの女房は、わざわざ戸を叩くときがいちばん怖い。
八雲紫に戸は要らない。たとえば寝床で蜜柑が食いたくなれば、枕元に白い手を差し入れて、炬燵の上の籠からひとつ失敬できる。ついでにこちらで剝いた皮をおれの膝に捨てることだってできる。できるからといって、やっていいわけではない。
そんな女が、ある秋の日、おれの戸を三度叩いた。
その日まで、おれは自分の初恋はとっくに終わったものと思っていた。
生まれて初めて腹いっぱい食べたのは、焼き栗だった。
数千年も昔、川の氾濫で道が途切れたところに、いつの間にかおれはいた。生まれて間もない妖怪なんてものは、狐の仔と大差ない。岸辺の苔を食って腹を壊し、水の上に映った月を拾おうとしては溺れた。
紫に拾われた晩も、おれは焚き火から引っぱり出した栗を、殻ごと口に入れて泣いていた。
「それは痛いでしょうよ。貸してごらんなさい」
紫はおれの口から栗を取ると、二つに割り、実をほぐして、ふうふうと吹いた。そうしてやっと食べられるようになった栗を、ひと口目は自分で食った。
「なんで!」
「あら。知らない女が拾って食べさせるものよ。毒見くらいさせなさいな」
もっともらしいことを言いながら、二口目も食べようとした。おれが慌てて膝によじ登ると、ようやく笑って、一番おいしい真ん中のところをくれた。
その晩だけの気まぐれだった、と紫は言う。ところが翌朝、おれが寝ぼけて彼女の髪まで握り込んでいたので、解くのが面倒になって、もうひと晩。一人で魚も捕れないうちに放り出して死なれては寝覚めが悪いから、もうひと冬。そうやって期限を延ばしていくうちに、おれは彼女の手から栗を奪って逃げきれるほどになった。
幼いおれの目には、紫は世界でいちばん綺麗なお姉さんだった。夕日を背にして髪を梳けば、櫛の歯から金色の火の粉がこぼれた。人をからかうところは少し困ったが、おれが熱を出した夜には、濡れた髪が乾くまで、冷たい膝を貸してくれた。
「紫お姉ちゃん、大好き。おれ、お姉ちゃんと結婚する」
初めて言ったとき、紫は縫いかけのおれの袖に針を刺し損ねた。指に浮いた血の玉を舐め、こちらを見もせずに言った。
「私はね、自分で着物が縫える殿方が好きなの」
だから縫えるようになった。次に聞くと、今度は魚を骨だけ残して食べる殿方がお好みだという。こちらもどうにかした。三度目には月を取ってこいと言い出したので、水を張った桶をそろそろ運んで枕元に置いた。目を覚ました寝ぼけ頭の紫が足を突っ込んだ。
たいへん叱られた。
ただ、いつも妙だったのは、おれが朝から一度も求婚しなかった日だ。そういう日には決まって、紫がやけに優しく髪を結い直してくれた。
「今日はほかに、私にお話しすることはなくて?」
「あっ。紫お姉ちゃん、大好き。結婚する」
「まあた始まった」
それはそれは機嫌のいい声だった。子供だったおれにも、自分に聞こえるように溜息をついたあと、鼻歌までは隠せていないことくらい、わかった。
別れたのは、おれが彼女を迎えに行けるようになった春だ。
紫が途切れた橋の向こうから手を振った。おれは向こう岸に行きたい、と思った。次の一歩が土を踏んだときには、もう紫の隣にいた。彼女のほうが驚いた顔をしたのは、あれが初めてだった。
「なるほどねえ。あなたなら、お月様を映した桶なんか持ってこなくとも、そのうち本物を踏みに行けるわ」
そのときは嬉しかった。それが先生からの最後の褒め言葉だとは、まだ知らなかったから。
旅支度を整えた紫は、おれのほどけかけた帯に一度手を伸ばし、その手を引っ込めた。おれは自分で結び直した。
「お姉ちゃん。おれ、あんたのことが好きだよ。一人でも生きていけるけど、一緒に暮らしたい。お嫁に来てくれないか」
「いいえ。行ってらっしゃい」
いつもの注文をつけてくれたら、まだ望みはあると思えた。けれど、その日は「いいえ」だった。
「……そっか。今までありがとう、紫お姉ちゃん」
最後くらい困らせずに行こうと、おれは笑った。紫も笑って送り出した。おれたちはお互いに、相手を安心させるのが少しばかりうますぎた。
おれの力には、のちに「行きたいところに着く程度の能力」という、子供の言いつけみたいな名がついた。
海を渡る船賃も、地獄の関所の通行手形も要らない。転んだ拍子に月の裏まで落っこちたこともある。そのくせ初恋の相手のところへ行けるかどうかだけは、一度も試そうと思わなかった。どんな戸でも越せる奴が、振られた女のところへ押しかける。そんなのは色男のすることじゃあるまい。
もっとも、よそでの行いまで褒められたものかというと、少々あやしい。
いい年になったおれの手を初めて寝床へ引いたのは、人間の染め物師だった。藍に染まった指先でおれの頬を挟み、「ねえ、あんたって自分で思ってるほど手慣れてないね」と笑った。朝になると先に起きて、干し竿に布をかけていた。朝飯を食っていけというのかと思ったら、「背の高いのがいるうちに、そっちの端を頼むよ」だった。
ひと仕事ぶん、あのひとの暮らしに混ぜてもらった。あれはいい朝だった。
雪国では雪女に一冬つかまり、春先、そろそろ暑苦しいと追い出された。舟に棲む妖怪とはひと夏を過ごした。互いに名前を教えないまま別れた女もいる。おれは女好きで、向こうが笑って袖を引いてくれると、たいていはそのまま居残った。
そうやって方々をうろつくうちに、国の名が変わった。昔の海に畑ができた。昨日会ったつもりの子供の曾孫に墓の場所を教わった。たいしたことをしなくても、長く生きていれば大妖怪などと呼ばれるようになる。旅先で紫を思い出すとき、おれにはいつも、火にかざした栗の、あの甘い匂いがした。
染め物師の家で迎えた最初の朝を、紫も見ていた。
物干し竿の端と端で、二人が何か言って笑っている。白かった男の襟に、青い親指の跡がひとつあった。それを見たとたん、紫は自分でも思いがけないことに、昨晩から今朝までのわずかな時を、あの女とそっくり取り替わってしまいたくなった。夜だけでよければ、まだ言い訳も利いたのに。彼の隣で朝の野良着を着て、ずぶ濡れの布を、端からいっしょに干してやりたかった。
『お姉ちゃん』が一度も口に上らない暮らしをちゃんと手に入れた。そこまで育てた自分を、昨日までの紫はずいぶん気に入っていた。
紫はスキマを閉じた。自分からいいえと言った舌の根も乾かないうちに、ほかの女には触るなと言いに行けるほど、まだ面の皮は厚くなかった。次にあの子が訪ねてきたら、そのときは、ええ、と答えてあげましょう。
それで何もかもうまくいくはずだった。
夏が百遍来ても迎えはなかった。さらに何百年か経つと、「次に訪ねてきたら」のところだけ、紫は考えないようになった。代わりに、ええ、と言うときの声ばかりが、いつまでも若い娘のように弾んで困った。
さて。おれの戸が三度鳴った、あの秋の日だ。
ふらりと戻った山の荒屋に、朝から雨が降っていた。戸を開けたら、紅を引いた紫がいた。傘には雨粒ひとつ載っていないのに、裾にだけ萩の花がひとつ付いていた。道の最後の少しを、自分の足で歩いてきたらしい。
「まあ。立派になったこと」
何千年ぶりかで聞くその声に、おれが答えられたのは、
「……上がってくか。今、栗が焼ける」
という、色気も何もない言葉だった。正直、それどころじゃなかった。昔は抱き上げてもらわないと頬に触れなかった金色の髪が、今は目の高さにある。手を伸ばしたくなった。そんなことを考えてしまって、栗をひとつ、囲炉裏の灰の中に取り落とした。
紫は、幻想郷という土地を仲間たちと作り上げたと言った。人に忘れられて消えかけるものたちが、明日も化け物のまま暮らしていける土地だという。彼女が広げた絵図には川があり、山があり、里があった。おれは見知らぬ土地を歩くのが大好きで、紫はそれをよく知っている。
「あなたもいらっしゃいな。住まいのことでしたら、私が面倒を見てさしあげますわ」
絵図の片隅に、母屋よりずいぶん立派な厩が描いてあった。紫は馬なんて飼っていたのか。そう言いかけて、これはおれが幼いころに欲しがった、雨の中でも盛大に焚き火のできる屋根つきの土間だと気がついた。
嬉しかった。嬉しくて、肝心なところに気が回らなかった。
「ありがとう、紫。ぜひ遊びに行くよ。外にも気に入りの土地がずいぶんあるから、住みつくのはよしておく。おれなら結界に穴も開けないしな。好きなときに行ける」
「……ええ」
紫は、あまりに甘い声でそう答えた。言ってしまってから、自分の声の甘さに自分で腹を立てたようだった。
「それだけ?」
「え? ああ。栗、焼けたぞ」
「まあ、ご馳走様。幼いころには栗をひとつ剝いて差し上げるあいだに、二度はお嫁においでと言われたものですけれど。山ほどもいただくと、もうそれに見合うものが私にはございませんわね」
扇子が開いた。目だけがおれを見ていた。綺麗な目だ。蛇に睨まれた蛙にも相手の顔を愛でる余裕があるのだとしたら、こういう眺めに違いなかった。
「しかし、うれしいこと。道に迷って来られないのかしら、なんて、もう庇ってさしあげなくていいのね。あなたは道がおわかりで、お暇もおありで、よそのお嬢さんに誘われれば雪解けまでお泊まりになる。なるほど。私にはたった一晩のご都合もつかなかっただけ」
「いや、だって、最後に断ったのは──」
「私ですわ。そこを覚えていらしたのは感心ね。雪国のお嬢さんから暑苦しいと追い出された翌年には、平気なお顔でまたあの辺りをお歩きでしたのに。数ある女の言いつけのうち、どうして私の『いいえ』ばかり、それはもう後生大事に、抱いてお休みになれたのかしら」
そりゃあんまりだと思った。好きだったからこそ、嫌がることはしたくなかったのだ。そう言い返しかけて、おれは口を閉じた。
紫の膝の上で、焼き栗が一個、冷めていた。この人は昔から、おれの栗を剝くと一番うまいところをひと口盗った。今は殻をきれいに開いて、どこにも口をつけず、おれのほうに中身を向けている。
「好きなときにいらっしゃるのは結構よ。して、それはいつ? 来年の秋? 次にこの山が海になるころ? 私のほうがあなたに会いたくなった日は、そのご立派な旅程のどこに書き入れたらよろしいの?」
最後の一言は笑いながらだった。笑っていなければ声が震えて、紫はきっと、もっと恥ずかしい思いをした。
おれは目を丸くした。あの紫が。迎えが遅いと腹を立てて、わざわざ萩を裾につけて、おれのところへ。
「それとも八雲の家では、ほかの女のように、私の方からあなたの袖を──」
「紫。おれと夫婦になってくれ」
扇子がぴしゃりと閉じた。彼女がしようとしていた次の嫌味は、とうとう聞かずじまいになった。
「……人が喋っているでしょう」
「うん。でも、そこから先はおれに言わせてくれ。今朝まで、あんたは昔好きだった人だった。あんたの顔を見た途端、あれだけほかの女には回った舌で、栗が焼けるとしか言えなかった。参ったよ。今でも、おれはあんたが好きだ」
おれは膝を寄せた。今度は西も東もわからない子供の身でなく、山ほどほかの景色を見てきた男として、彼女と同じ高さでその目を見た。
「お嫁においで、八雲紫」
唇の端がきゅっと曲がった。彼女は少し困ったように、剝いたままの栗を自分の口へ放り込んだ。
「……困ったわ。『ええ』は、さっき使ってしまったの」
「じゃあ、違う返事を」
紫はおれの襟に指をかけた。二人の口のあいだに残っていた、ほんの指一本の幅を、どちらの力も使わずに詰めてくれた。
栗の味がした。
八雲の家に越した初日、藍という九尾の狐から、紫にお仕えするうえでの心得を三十二箇条ほど聞かされた。
「最後に。外でどのような大妖と呼ばれていようと、このお屋敷では紫様がすべてに優先する。心得たか」
「ああ。おれもそこはお前と一緒だな」
紫の式神は、腹立たしそうに三十三箇条目を考え始めた。
横で聞いていた橙は、「ほんとにどこにでも行けるの?」と聞いた。そうだと答えると目を輝かせ、おれにこっそり耳打ちした。
「じゃあ、すぐそこの屋根に来て。ひとりだと、つまんないから」
月の都でも竜宮でもなく、すぐそこの屋根。おれはこの子が一発で好きになった。二人で瓦に寝転んでみると、庭からは見えなかった夕日が、山の端にまだ半分残っていた。
紫と一緒になったからといって、旅をやめるつもりはなかった。ただ、以前なら面白い景色に会えば気の済むまで見ていたのが、今ではもう一つ、面白いことができた。
冬の海で、波打ち際に青い火が点るのを見た。手を入れると指の間から星がこぼれるようだった。おれはいったん家に帰った。紫は布団の中で目を閉じたまま「寒いのは嫌よ」と言ったが、おれが一人で戻ろうとすると、掛け布団ごと背中にくっついてきた。
二人で砂浜にしゃがみ、布団の裾をびしょびしょにした。帰って藍に見つかったとき、紫は「私が連れていけと申しましたの」と庇ってくれた。布団を干す段になると、「私、そういうことは言っておりませんわ」と一人で寝直した。
女房のそういうところを、おれは大変かわいいと思う。藍には当分言えなかった。
藍の態度が変わったのは、おれが何か大手柄を立てた日ではなかった。おれの知らないうちに、ちょっとずつだった。
初めのうち、旅から戻るとまず「いつまで滞在なさるおつもりか」と訊いた。それが何十年かすると「何日ぶん米を研げばいい」。さらに幾度も米蔵を建て直したあとには、おれの出立の朝、銭差しと買い物の紙が渡されるようになった。
ある日、紙の最後に「櫛、歯の粗いもの」と書いてあった。紫にはもう持たせてあるし、橙は目の細かいのを好む。頼んだ当人は、おれと目が合うと、九本の尾の先を揃えて体の後ろに隠した。
「色は?」
「……できれば、赤で」
あれは嬉しかった。初めて自分のためのものを頼んでくれたのだ。いい色のが二本あってさんざん迷ったことは、きっと藍には一生わかるまい。
その藍とおれが居間の敷居に並んで座り、揃ってなんの役にも立たなかった夜がある。
紫に産気がついた夜だ。
生まれるひと月ほど前から、まだ誰もいないはずの部屋で、時々赤ん坊がくしゃみをした。そのたび橙は走って見に行った。廊下が明日へつながったり、昨日干したはずの衣服が今から降る雨に濡れたりした。母親と子供がまだ半分つながっているせいで、家ごと少々都合の悪いことになっていた。
ところが本番になると、廊下はぴたりと普通の廊下に戻った。紫はおれと藍に向かって「あなたたちの顔を見ていると、こちらまで心細くなるわ。お湯を」と言った。二人で立ち、二人で同じ手桶をつかみ、二人で敷居を踏み外した。
結局、湯を運んだのは橙だった。
明け方、すっかり汗ばんだ紫の脇に、小さな娘がいた。抱き上げると、手のひらに背骨の粒が触れた。山も海も指一本で越えてきたのに、この細さのものを腕に載せて、敷居を一つまたぐ自信がない。
「ねえ。私にも顔を見せてちょうだい」
おれは娘の頭を左の腕に預けたまま、紫の枕元に膝をついた。紫がそっと小指を差し出すと、娘は右手でその指を握った。紫はしばらく黙って、その小さな手を眺めていた。
「おれにも片方、貸してくれないか」
「もう藍が取ったわ」
見れば、娘は左手で藍の小指をしっかり握っていた。出遅れた橙は少し考え、小さな足の裏におでこをくっつけた。寝ぼけた娘に額を蹴られて、声を殺して笑った。
仕方がないので、空いていた右手を紫の左手に重ねた。紫は娘を見つめたまま、おれの手をぎゅっと握り返してくれた。
娘が自分の足であちこち歩き回るようになったころ、四人して一枚の布を染めた。正しく言えば、藍が染め、おれと橙と娘が染液を飛ばし、見物していた紫の鼻の頭にまで小さな青い点がついた。
干し竿に手が届かなくて背伸びをする娘を肩に乗せ、おれは長い布の向こう端を取った。
「懐かしいな。昔はこれを、えらい美人に手伝わされた」
「まあ。それはそれは」
「紫。その言い方、知ってるやつだろ」
「干す前に、そこの皺を伸ばしてさしあげたら?」
布の陰で、紫はそっと目を細めた。
──ええ、知っていますとも。あの人間の指が、爪の際まで青かったことも。あれが私の喰べた最初のひと。雪の女も、舟の女も、名前も聞かずに別れた女たちも、あなたが旅立ったあとで、ひとり残らず私が喰べた。人の娘と妖怪とではずいぶん違うものだったけれど。……ああ、懐かしい。あの朝、布のそちらを持ちたかったのよ、私は。
布が風をはらんだ。おれの肩で娘がきゃあきゃあ笑った。反対側で紫が端を持ってくれたので、五人がかりの洗濯物は、ようやく秋の日にきちんと広がった。
その布はやがて小さな道中着になった。初めて袖を通した日、娘は橙に連れられて例の屋根に登り、藍は下で両腕を広げて待った。仮に落っこちたところで、うちの子は、藍の腕に着きたいと思えばそこへ着く。理屈のうえではそうである。藍がそれで腕を下ろすかというと、まあ、そんなわけはないのだ。
日は山の向こうに落ちた。橙があくびをし、娘がその口に小さな手を突っ込んで怒られた。おれと紫は二人並んで、屋根から長く垂れた猫の尻尾と、小さな青い袖を眺めていた。
「次はどこへ行くの?」
紫が肩に頬を寄せた。
「北へ。昔なじみの山が噴いてな。冷える前に見ておきたい。今度は少し長くなるかもな」
「そう。なら、戸のあるところへお泊まりなさいね」
「どうして」
「会いたくなったら、叩けるでしょう」
ずいぶん率直に言うようになったものだ。嬉しくて横顔を覗き込んだら、紫は「私がそう言えるようになるのに、あなたが何年かけたと思っているの」と、これまたごもっともなことを言った。
その旅の七日目、おれは噴いた山の麓の湯治宿にいた。夕刻、戸が三度鳴った。
「どなたです」
「たいへん綺麗で、面倒見のいいお姉さん」
思わず吹き出した。戸を開けると、あの日と同じように紅を引いた紫が、一人で立っていた。
「三日ほど夫を貸してくださらない? 娘は今夜から橙とマヨヒガにお泊まりなの。藍も枕を三つ抱えてついていったわ。あの子ったら、初めてのお泊まりで泣いて迎えを呼ぶかと思えば、『お母さまもたまには好きなところへ行っていいのよ』ですって」
「それで、おれのところに?」
「そうよ。悪い?」
ずいぶん昔にも、このひとは、おれに会いに来るために紅を引いてくれた。あのときは栗のひとつもまともに剝いてやれなかった。今度はちゃんと間に合った。おれは女房を抱き寄せて、化粧を少し駄目にした。
「紫お姉ちゃん、大好き。おれと結婚する?」
耳元で、昔のように囁いてみた。
紫はおれの頬を両手で挟んだ。遠くの山から硫黄の匂いがして、宿の裏では、風に揺れる柿の枝が板塀をこつこつ打っていた。彼女はほんの少し首を傾げた。長い年月をかけて言い方を決めた、とっておきのひと言だったのかもしれない。
「ええ、喜んで」
それから三日、おれたちは戸を閉めた。