好きなキャラの短編集 作:チーズと唐揚げ、そしてハンバーグ
旧劇場版『Air/まごころを、君に』から分岐する、アスカ視点の短編です。碇シンジへの転生設定があり、戦いを生き延びた二人の結婚と子育てを描きます。
白い翼が、空を覆っていた。
弐号機の内蔵電源は、もう残り少ない。
倒したはずの機体が起き上がる。潰したはずの身体が、またこちらへ向き直る。
その光景を、アスカは今でも覚えている。
操縦桿を握りしめた手も、荒くなった呼吸も。ようやく弐号機の中に感じ取れた母の存在を、必死につかんでいたことも。
まだ戦えた。
まだ、終わるつもりなんてなかった。
けれど、空から迫る刃が形を変えた瞬間、背筋を冷たいものが走った。
槍。
こちらへ一直線に伸びてくる、その切っ先。
避けようとしても、機体が思うように動かなかった。
そのとき、横から衝撃が来た。
弐号機の身体が大きく傾く。
視界を紫色の装甲が横切り、次の瞬間、初号機の肩が砕けた。槍は弐号機の頭部があった場所を突き抜け、その向こうの地面へ深く突き立った。
通信が開く。
『アスカ!』
声がした。
聞き慣れているはずなのに、信じられなかった。
初号機が、動けなくなりかけた弐号機を支えていた。
白い機体の群れへ背を向けず、こちらを庇う位置に立っている。
「……シンジ?」
『聞こえるな。機体を起こせるか』
何か言い返そうとした。
来るならもっと早く来なさいよ、と。
何を今さら、と。
いくらでも言いたいことはあったのに、喉がうまく動かなかった。
「電源が……もう」
『わかった。俺につかまれ』
「こいつら、倒したのに──」
『知ってる。まだ終わってない』
彼は、起き上がる量産機を見ても驚かなかった。
初号機が弐号機を引き寄せる。迫ってきた白い機体を押し返し、二体の間にわずかな距離を作った。
その動きは、余裕なんてなかった。
初号機も傷ついていた。通信越しの声は息が上がっていて、ときどき歯を食いしばる音が混じった。
それでも、彼は弐号機から手を離さなかった。
『生きて帰るぞ。二人で』
アスカは操縦桿を握り直した。
動くほうの腕を、初号機へ伸ばす。
「……勝手に、置いてくんじゃないわよ」
『置いてくわけねぇだろ!』
初号機が、弐号機を支えて立ち上がった。
その向こうには、まだ敵がいた。
空も、地面も、ひどい有様だった。
けれどアスカは、そこで初めて、自分が今日を生き延びるかもしれないと思った。
量産機との戦いにも、人類補完を巡る争いにも、その後、決着がついた。
彼と綾波たちが選び取った先には、人々がそれぞれの身体で生きる世界が残った。
壊れた街があった。
戻らないものもあった。
それでも、朝になれば陽が昇った。生き残った人々は食べ物を分け、住む場所を探し、瓦礫を片づけ始めた。
アスカも生きていた。
ただ、生き延びたからといって、すぐに笑えるようになったわけではない。
病室で目を覚ましたとき、最初に感じたのは身体の痛みだった。
その次に、腹が立った。
誰に腹を立てているのか、自分でもよくわからなかった。
死にたくなかった。
助かったことは嬉しいはずだった。
なのに、何もできずベッドに寝かされ、誰かに世話をされている自分が、ひどく惨めに思えることがあった。
彼が面会に来ても、優しく礼を言ったりはできなかった。
「今日は、話したくない」
そう言った日がある。
彼は持ってきた荷物を棚へ置き、少しだけこちらを見た。
「おう、また来るよ」
あっさり立ち上がった背中を見て、胸の奥が冷えた。
自分で帰れと言ったくせに。
扉に手をかけたところで、声が出た。
「……明日は?」
彼が振り返る。
「明日も来る。用事があるから、三時くらいになるけど」
「遅れないでよ」
「わかった」
次の日、彼は三時になる少し前に来た。
その次の日も。
来られない日は、先にそう伝えた。
アスカの機嫌が悪くても、無理に笑わせようとはしなかった。けれど、ひどい言い方をすれば、傷ついた顔をしたし、それは嫌だとも言った。
何をしても許してくれるわけではなかった。
だからこそ、後から謝ったときの「うん」が、ちゃんと届いた。
身体を治すことにも、眠れる夜を増やすことにも、時間がかかった。
通院を続け、必要なときには人の手を借りた。調子のいい日も悪い日もあった。
一度できるようになったことが、翌日にはうまくできなくて、腹が立つこともあった。
そんな日、彼が言った。
「焦んなくていい。今日は調子が悪いんだろ」
アスカは睨んだ。
「簡単に言わないで」
「簡単だとは思ってないよ」
彼は少し考え、それから隣の椅子を引いた。
「でも、できる日だけ会いに来てるわけじゃないから」
すぐには信じられなかった。
本当にそうなのか、何度も疑った。
そのたび、翌日が来た。
できなかったことがあっても、彼は昨日の続きを話した。夕飯の相談をした。腹が立てば言い合いになり、翌朝には、またどちらかが相手へ声をかけた。
そういう時間を、何年も重ねた。
彼から、別の世界の記憶について聞かされたのは、二人とも以前より少し、自分のことを話せるようになってからだった。
碇シンジとして生まれる前の記憶があること。
この世界に起こるかもしれない出来事を、知っていたこと。
あの日、アスカに何が迫っていたのかも。
最初は、何を言っているのかわからなかった。
冗談なら悪趣味だったし、真剣な話なら、すぐに飲み込めるようなものではなかった。
何度も聞いた。
怒ったこともある。
「じゃあ、あたしが何考えてるかも、わかるってわけ?」
彼は首を振った。
「わからない」
「知ってたんでしょ」
「だとしても、今のアスカとは同じじゃない」
彼はアスカを見た。
「今日、何が嫌だったのかも、これから何をしたいのかも、アスカに聞かなきゃわからねぇ」
アスカはしばらく黙っていた。
全部を理解できたわけではない。
それでも、目の前にいる男について、自分が知っていることはあった。
約束の時間に来ること。
怒ると少し口数が減ること。
無理をしているくせに、隠し方が下手なこと。
人のことはよく見ているのに、自分の疲れには気づくのが遅いこと。
別の世界から来たという話を聞く前から、何年もかけて知ってきた彼がいた。
「だったら、これからもちゃんと聞きなさいよ」
「ああ」
「わかったつもりになったら、怒るから」
「それは、もう知ってる」
思わず、彼の腕を叩いた。
彼が笑った。
アスカも、少しだけ笑った。
その後も二人は、知っているはずの相手について、新しいことを覚えながら暮らした。
働くようになり、自分たちで住む場所を選んだ。
生活費の話をして、家具の配置で揉めた。休日に何もしないで過ごすことにも、少しずつ慣れた。
結婚を決めたのは、二十代になってからだった。
彼が珍しく慎重に言葉を選んでいるのを見て、アスカは先に口を開いた。
「あの日のことなら、ちゃんと感謝してるわよ」
彼がこちらを見る。
「でも、あたしが一緒にいたいのは、今のあんた」
そう言って、自分から手を伸ばした。
「何年一緒にいると思ってんの。そろそろ、そのくらい信じなさいよ」
握り返された手は、もう十四歳の少年のものではなかった。
アスカの手も同じだった。
指輪をはめるとき、彼の指が少し震えていた。
それを見てからかうつもりだったのに、自分もうまく笑えなくなった。
嬉しくて、困った。
そんなふうに困る日が来るなんて、昔は思ってもいなかった。
最初の子を授かったとき、喜びと一緒に、怖さも来た。
母親。
その言葉には、今でもいくつもの記憶が重なった。
自分を見てほしかった幼い頃のこと。
呼んでも届かなかった声。
そして、弐号機の中で、確かに感じた温もり。
母に愛されていたことを知っても、幼い自分の寂しさまで一度に消えるわけではなかった。
この子を、ちゃんと見ていられるだろうか。
うまくできないとき、苛立って、怖がらせたりしないだろうか。
彼にそう話した夜、アスカはずっと自分の手を見ていた。
彼は安易に「絶対大丈夫」とは言わなかった。
「俺も、わからないことばっかりだと思う」
「……頼りないわね」
「だから、一緒に覚えよう」
隣に座る彼を、アスカは見た。
「一人で全部できる母親にならなくていいよ。俺も、この子の父親なんだから」
実際、生まれてからは、二人とも何度も途方に暮れた。
泣いている理由がわからない。
ようやく眠ったと思ったら、また起きる。
自分たちの食事が、いつの間にか冷めている。
アスカが疲れ果てて黙り込んだ日もあれば、彼が娘を抱いたまま、立っているのか眠っているのかわからない顔になっていた日もあった。
交代した。
人にも頼った。
言いすぎたら、後で謝った。
娘が大きくなるにつれ、アスカも覚えていった。
急がせるより、少し待ったほうができることがある。
泣いているときには、理由を聞く前に抱いてほしいことがある。
自分の機嫌が悪いときの声は、思っているより怖く聞こえる。
そういうことを、子どもの顔を見ながら、一つずつ。
息子が生まれたときも、初めて知ることはたくさんあった。
二人目だから簡単、なんてことはなかった。
けれど、頼っていい相手がいることは、もう知っていた。
「ママ!」
呼ばれて、アスカは顔を上げた。
畳みかけていた、小さなシャツが膝の上にある。
居間の窓から、午後の光が差し込んでいた。向こうの部屋では娘が絵を描いていて、台所には夫がいる。
その間の床に、息子が立っていた。
足元に、割れたカップ。
アスカは反射的に立ち上がった。
「動かないで!」
息子の肩が跳ねた。
その顔を見て、アスカは一度、息をついた。
声を落とす。
「足、切っちゃうから。そこで待ってて」
近づいて抱き上げ、安全な場所へ下ろす。小さな足と手を確かめた。
「どこか痛い?」
「……いたくない」
「そう。よかった」
息子はうつむいたままだった。
「ママの、こわれた」
アスカが気に入っていたカップだった。
夫と出かけたとき、自分で選んだものだ。確かに、割れたのは残念だった。
けれど、目の前の子が顔を上げられずにいるほうが、今はずっと気になった。
アスカはしゃがんだ。
「何しようとしてたの?」
「ママに、おちゃ」
洗濯物を畳んでいる自分へ、持ってきたかったらしい。
両手で一生懸命運んで、途中で落としたのだろう。
「……そっか」
小さな背中へ手を回す。
「持ってきてくれようとしたのね」
「ごめんなさい」
「うん。ちゃんと言えたわね」
息子が、少しだけ顔を上げた。
アスカはその目を見た。
「びっくりしたでしょ。あたしもびっくりした」
「ママ、おこった?」
「大きな声、出しちゃったわね。ごめん」
息子の唇が震えた。
それからようやく、泣き声が出た。
アスカは抱き寄せた。
慌てて泣き止ませようとはしなかった。
背中をゆっくり撫でていると、台所から来た夫が床の様子を確かめ、片づけを始めた。
「アスカ、そっちは任せていいか」
「ええ。お願い」
娘も近づいてきて、弟の背中へそっと手を置く。
「けが、してない?」
「してないわ。大丈夫」
娘がほっとした顔をした。
息子はアスカの肩に顔を押しつけ、しばらく泣いた。
その重さを支えながら、アスカはふと、自分の腕を見た。
迷わず、この子を抱いていた。
失敗したからといって、離したくはならなかった。
泣いている声がうるさいとも、早くしっかりしてほしいとも、今は思わなかった。
怖かったのだ。
だから、落ち着くまでここにいればいい。
そう思えている自分に、胸の奥が静かに熱くなった。
片づけが終わるころには、息子も落ち着いていた。
娘が隣で絵を見せ始めると、ようやくアスカの肩から顔を離した。
「あれ、なに」
「おうち。こっちがお庭」
二人の会話が始まる。
アスカは息子をソファへ座らせ、その隣へ腰を下ろした。
夫が、別のカップで飲み物を持ってくる。
「はい」
「ありがと」
受け取った指が触れた。
アスカは、その手を少しだけつかんだ。
夫がこちらを見る。
「どうした?」
「……何でもない」
言ってから、やめた。
何でもなくはなかった。
昔なら、そこで口を閉じていたと思う。
けれど今は、この人には話してもいい。
「さっき、昔のこと考えてたの」
「あの頃?」
「ええ」
量産機の翼。
砕けた初号機の肩。
約束の時間に開いた、病室の扉。
結婚した日の、少し震えていた指。
何年分ものことが、ひと続きになって胸に浮かんだ。
「……あたし、母親やってるのよね」
夫は子どもたちを見た。
二人とも絵に夢中だった。
息子の手だけが、まだアスカの服をつかんでいる。
夫がそこへ目を落とし、笑った。
「やってるよ」
「ちゃんと?」
「怖かったとき、真っ先にお前を呼んだだろ」
アスカも、小さな手を見た。
「安心するんだよ。お前のところに来ると」
喉の奥が、少し詰まった。
昔の自分は、誰かにそうしてほしかった。
見ていてほしかった。
できない日にも、泣いているときにも、そこにいていいと言ってほしかった。
今、自分のそばで、子どもが安心している。
そのことが、信じられないくらい嬉しかった。
「……そう」
短く答えると、夫が隣へ座った。
肩が触れる。
「いい母親だよ、アスカ」
今度は、すぐに言い返せなかった。
毎日うまくやれているわけではない。
いまだに言いすぎるし、慌てるし、後から一人で反省することもある。
それでも、この子たちの顔を見て、またやり直せる。
助けてほしいときには、隣の人に手を伸ばせる。
アスカは夫の手を握った。
「……あんたもね」
「母親?」
「父親よ。バカ」
夫が笑った。
その顔を見て、アスカもようやく笑えた。
夕方、窓の光が少しずつ柔らかくなった。
娘は絵を描き続けている。
息子はアスカに寄りかかり、さっきまでの騒ぎが嘘のように眠そうな顔をしていた。
夫がその髪を撫でる。
アスカは子どもの重さを感じながら、遠い記憶の中の母を思った。
ママ。
声には出さなかった。
──あたし、今日も、この子をちゃんと抱きしめられたわ。
弐号機の中で感じた温もりを、今でも覚えている。
あの日、自分を守っていたもの。
そこへ手を伸ばして、命をつないでくれた人。
生き延びた先で、自分から選んだ暮らし。
その全部があって、今、この腕の中に子どもがいる。
「アスカ?」
夫が小さく呼んだ。
こちらの顔を見て、少しだけ目を細める。
「泣いてる?」
「……少しね」
否定しなかった。
夫も、からかわなかった。
ただ肩へ腕を回してくれた。
「悲しい?」
「違うわよ」
アスカは息子の背中を撫でた。
娘が色鉛筆を取り替える音がする。
台所には、四人分の夕飯の支度が待っている。
明日になれば、子どもを起こして、仕事へ行って、また誰かが何かを忘れるだろう。
この人とそうやって暮らし、子どもたちが大きくなるのを見て、いつか二人だけの家になっても、きっとまた些細なことで言い合いをする。
その先まで、今は考えられた。
「……嬉しいのよ」
夫の肩へ、少しだけ頭を預ける。
「ここまで生きてきて、よかったなって」
夫が、握っていた手に力を込めた。
「俺も」
あの日、初号機の中から聞こえた声と、同じ声だった。
少し低くなって、ずっと穏やかになった、大好きな声。
「ママ、見て!」
娘が絵を持ち上げた。
四人の人間が、家の前に並んでいる。
アスカらしい赤い髪の人は、両手を大きく広げていた。その隣には夫。間には、小さな二人。
「これ、あたし?」
「うん。ママ、いつもこうしてくれるから」
娘が、抱きしめるように腕を広げた。
アスカは絵を見た。
それから娘を見て、息子を起こさないように片腕を開いた。
「おいで」
娘が駆け寄ってくる。
小さな身体を抱き寄せると、息子まで目を覚まし、自分も、と腕の中へ入り直した。
「ちょっと。二人いっぺんは重いんだから」
そう言いながら、アスカは離さなかった。
夫が横から支えてくれる。
娘が笑い、息子も笑った。
アスカはその顔を、一人ずつ見た。
もう一度、しっかり抱きしめた。
「見てるわよ」
胸いっぱいの愛おしさに、少し声が震えた。
「ちゃんと、二人とも」
子どもたちは、当然だという顔で笑っていた。