好きなキャラの短編集   作:チーズと唐揚げ、そしてハンバーグ

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 別の世界から死神に転生したオリ主と、ティア・ハリベルの短編です。破面篇での出会いから、千年血戦篇を経て家族となった二人の暮らしまでを、ハリベル視点で描きます。


この孔に、ただいま(BLEACH、ティア・ハリベル)

 

 

 

「……まだ、ここにいろ」

 

 立ち上がろうとした夫の袖を、ハリベルがつかんだ。

 

 虚圏の夜は、相変わらず白かった。窓の向こうには月明かりを受けた砂丘が続いている。けれど、かつて風の音しか届かなかった場所に、今は食器の触れ合う音と、幼い笑い声があった。

 

 娘は床に座り、アパッチたちと積み木を並べている。台所では、先ほど夫が火にかけた鍋が、小さく音を立て始めていた。

 

「鍋、見てくるだけだぞ」

 

「わかっている」

 

 そう答えても、ハリベルの指は離れなかった。

 

 夫がこちらを見る。その顔に、もう一度だけ、と言いかけて、やめた。代わりに隣へ座り直させ、肩に額を預ける。

 

「……少しでいい」

 

 彼の腕が背中へ回った。

 

 それだけで、身体から余計な力が抜けていく。虚圏のことで話し合っている間には気づかなかった疲れまで、ゆっくりほどけていった。

 

「今日は甘えたがりだな」

 

「今日だけか?」

 

 ハリベルが顔を上げると、夫は声を立てずに笑った。

 

「いや。最近ずっとだな」

 

 否定する理由はなかった。

 

 この男が帰ってくると、そばへ行きたくなる。隣に座れば触れたくなるし、触れていると、もう少しだけそのままでいたくなる。

 

 以前は、そんな自分を少し持て余していた。

 

 今はもう、夫の腕の中へ収まることに慣れてしまった。

 

「あの、ハリベル様」

 

 床のほうからアパッチが声をかけた。

 

「そいつ、鍋見に行けなくなってますけど」

 

 ミラ・ローズが肩を揺らし、スンスンは袖で口元を隠している。

 

 ハリベルは夫を抱いたまま、静かに答えた。

 

「知っている」

 

「知ってんのかよ……」

 

 そのやり取りを聞いて、娘が笑った。

 

「ママ、パパのこと、だいすきだもんね」

 

「ああ」

 

 ためらいなく答えると、夫の腕に少し力がこもった。

 

 ハリベルは、その温もりに目を閉じた。

 

 こんなふうに、好きな相手のそばにいたいという理由だけで、人を引き留める日が来るとは思わなかった。

 

 まして、それを子どもに見られ、昔からの仲間にからかわれながら、幸せだと感じるなど。

 

 ──あの頃の自分が見たら、何と言うだろう。

 

*

 

 最初に会ったとき、彼は敵だった。

 

 黒い死覇装。腰の斬魄刀。虚圏に踏み込んできた、護廷十三隊の死神。

 

 それなのに、妙な男だった。

 

 初めて刃を交えた日、彼は撤退する仲間を先に逃がし、最後までその場に残っていた。ハリベルもまた、傷を負った従属官を下がらせているところだった。

 

 互いに、追えば守れなくなるものがあった。

 

 剣を向けたまま、しばらく睨み合ったことを覚えている。

 

 先に切っ先を下げたのは、彼だった。

 

「今日はここまでだな」

 

「私が追わないと思っているのか」

 

「追ってきたら相手になる。だが、お前もあいつらを放っては来ねぇだろ」

 

 背後の三人を、顎で示した。

 

 腹立たしいほど、こちらを見ている男だと思った。

 

 その後も、何度か戦場で顔を合わせた。

 

 彼はハリベルを侮らなかった。破面だからと、言葉が通じない相手のようにも扱わなかった。刃を向けるときには向け、それでも必要のない追撃はしなかった。

 

 そしてある日、退き際に、とんでもないことを言った。

 

「俺、お前に惚れた」

 

 ハリベルは、ほんの一瞬だけ言葉を失った。

 

 後ろでアパッチが何か怒鳴ったが、それさえ遠く聞こえた。

 

「……正気か」

 

「冗談でこんなこと言うかよ」

 

 彼は傷のある頬を拭った。

 

「仲間を退がらせるときのお前、いつも最後までそこにいるんだよな」

 

「それが何だ」

 

「そういうところを、いいと思った」

 

 軽い声ではなかった。

 

 だからこそ、余計に理解できなかった。

 

「私は、お前の敵だ」

 

「ああ。今はな」

 

 彼は斬魄刀を納めた。

 

「だから、まずは生きてまた会おうぜ。話はそれからでもできる」

 

 勝手な男だと思った。

 

 敵同士であることも、互いに背負ったものも、そんな一言で変わるはずがない。

 

 それでも、その言葉は記憶に残った。

 

 次に会うことを、戦い以外の意味で口にした死神。

 

 彼が、最初だった。

 

*

 

 藍染との戦いが終わった後も、男は生きていた。

 

 ハリベルも、三人の従属官も、井上織姫の治療を受けて生き延びた。

 

 信じていた者の刃に倒れ、それでも再び立ち上がり、虚圏へ帰る。

 

 その道の途中で、彼と会った。

 

「生きててよかった」

 

 彼は、それだけ言った。

 

 慰めるでもなく、敗れたことを語るでもなく、ただ本当に安堵した顔をしていた。

 

 ハリベルは、何と返せばいいのかわからなかった。

 

 その後、虚圏との連絡役を引き受けた彼は、たびたびこちらへ来るようになった。

 

 もちろん、用事が先だった。

 

 伝達事項を確認し、必要な話を済ませる。ハリベルが忙しければ長居せず、三人の従属官に追い立てられれば、苦笑しながら帰っていく。

 

 けれど、帰る前には、ほとんど必ずこちらを見るのだった。

 

「また来る」

 

「用があればな」

 

「なくても会いてぇんだけど」

 

「……お前は」

 

 ハリベルが眉を寄せると、彼は笑った。

 

 その笑顔を、少しずつ覚えた。

 

 仕事を終えた後に茶を出すようになった。彼が来る日は、話し合いを長引かせないようになった。

 

 彼のほうも、こちらの言葉を覚えていた。

 

 虚圏をどうしたいのか。何を守り、何を変えていきたいのか。

 

 夢物語だと笑うこともなく、簡単にできると請け合うこともなく、聞いたうえで、自分にできることを考えた。

 

 別の世界で生きた記憶がある、と打ち明けられたのも、その頃だった。

 

 この世界に生まれ、死神になるよりも前の記憶。

 

 ハリベルには、到底、確かめようのない話だった。

 

 ただ、その話をする彼が、いつものようにまっすぐこちらを見ていたことは覚えている。

 

「昔知ってたことだけで、どうにかできるほど甘くねぇよ。何度も思い知らされた」

 

 彼はそう言って、自分の手を見た。

 

「それでも、ここに生まれたのは悪くなかった」

 

「なぜだ」

 

「お前に会えたからな」

 

 あまりにも迷いのない返事だった。

 

 ハリベルは顔を背け、冷めかけた茶を飲んだ。

 

 その日からしばらく、彼の顔を長く見ていられなかった。

 

 それでも、求められるたび、答えは同じだった。

 

「お前の気持ちには、応えられん」

 

 虚圏には、まだ守らなければならないものが多すぎた。

 

 自分の望みを取り出して、そのために誰かをそばへ置くことが怖かった。

 

 大切になれば、失うことを恐れる。

 

 失いたくなければ、また何かを差し出さなくてはならない。

 

 彼まで、その中へ入れたくなかった。

 

「そうか」

 

 断った日、彼は静かにうなずいた。

 

 無理に触れることも、理由を問い詰めることもなかった。

 

 ただ、帰り際に一つだけ尋ねた。

 

「次も、会いに来ていいか」

 

 ハリベルは、答えるまで少し時間を使った。

 

「……来るなら、五日後だ」

 

 五日後。

 

 彼の霊圧を感じ取った瞬間、自分が顔を上げたことを、ハリベルは誰にも言わなかった。

 

*

 

 やがて、また戦争が来た。

 

 滅却師たちの侵攻。

 

 守り切れなかった虚圏。

 

 拘束され、暗い場所で過ごした時間の長さを、今でも正確には思い出せない。

 

 三人は生きているだろうか。

 

 残された者たちは、逃げられただろうか。

 

 考えるのは、いつもそのことだった。

 

 けれど、眠れない時間の底で、もう一人の顔が浮かんだ。

 

 あの男は、今、どこにいる。

 

 死神たちも戦っているはずだった。いつものように、誰かを退がらせるために最後まで残っているのではないか。

 

 生きていてほしかった。

 

 あれほど何度も、次に会うことを当たり前のように口にしていたくせに。

 

 こんなところで、その約束を途切れさせるなと思った。

 

 そして、自分がどれだけ彼に会いたがっているかを、ようやく認めた。

 

 伝えたことのない言葉が、いくつもあった。

 

 来るのが遅いと、言ってやりたかった。

 

 来てくれて嬉しいとも、一度くらい言えばよかった。

 

 あのとき、差し出された手を取っていれば。

 

 そこまで考えて、目を閉じた。

 

 後悔をしている。

 

 あの男と、共にいる時間を欲しがっている。

 

 それが、苦しかった。

 

 救出に来たネリエルたちの声を聞いたときも、最初はうまく顔を上げられなかった。

 

 足音が近づく。

 

 その中に、覚えのある霊圧があった。

 

「ハリベル」

 

 呼ばれて、息が止まった。

 

 彼がいた。

 

 死覇装は汚れ、腕には包帯が巻かれていた。それでも、こちらを見つけた目だけは、少しも変わっていなかった。

 

「……お前」

 

「待たせたな」

 

 彼が膝をつき、拘束を確かめた。

 

 その手が、ほんの少し震えているのを見た。

 

「なぜ、ここまで」

 

 言いかけると、彼は顔を上げた。

 

「会いてぇ女を迎えに来た。それ以外に何がいる」

 

 喉の奥が詰まった。

 

 ネリエルたちが脱出の準備を進めている。まだ、何も終わっていない。ここで立ち止まっている余裕などなかった。

 

 それでも、ハリベルは自由になった手を伸ばした。

 

 彼の頬に触れる。

 

 温かかった。

 

 生きていた。

 

「……馬鹿な男だ」

 

「ああ。何度も言われた」

 

「傷を、増やして」

 

「その説教は帰ってから聞く。立てるか」

 

 ハリベルは、差し出された手を握った。

 

 今度は、離さなかった。

 

*

 

 最後の戦いが終わっても、すぐに世界が穏やかになったわけではない。

 

 壊れたものを片づけ、帰らない者を悼み、生き残った者たちが明日を暮らせるようにする。

 

 ハリベルにも、彼にも、するべきことがあった。

 

 それでも、以前と違うことが一つあった。

 

 別れるとき、彼が振り向くより先に、ハリベルが次の予定を尋ねるようになった。

 

「いつ来る」

 

 その言葉を聞くたびに、男が嬉しそうな顔をする。

 

 それを、もっと見たいと思うようになった。

 

 そして、ある日の帰り際。

 

 いつものように「またな」と言った彼を、ハリベルは呼び止めた。

 

「待て」

 

 彼が振り返る。

 

「今度は、私の話を聞け」

 

 その声が、自分でも思っていたより硬かった。

 

 戦場なら迷わず踏み込める距離が、ひどく遠い。

 

 ハリベルは一歩近づき、彼の手を取った。

 

「お前が来る日を、数えていた」

 

 彼は黙っていた。

 

「帰った後で、まだ話せたことがあったと思った。捕らわれていた間も……お前の声を思い出していた」

 

 一度言い始めると、もう隠しておけなかった。

 

「守るべきものは、今もある。これからも、私はここを離れられん」

 

「ああ」

 

「それでも、お前にいてほしい」

 

 握った手に力を込めた。

 

「私が、そうしてほしい」

 

 彼の目が、わずかに見開かれた。

 

 ハリベルは、その顔を見つめた。

 

 長い間、自分に向けられていた気持ち。

 

 ようやく、同じものを返せる。

 

「愛している」

 

 言った途端、胸の奥が熱くなった。

 

「遅くなったが……これが、私の答えだ」

 

 次の瞬間、強く抱き寄せられた。

 

 驚くほど、腕に力が入っていた。

 

「遅ぇよ」

 

 耳元の声が、少しだけかすれていた。

 

「わかっている」

 

「でも、待っててよかった」

 

 ハリベルも腕を回した。

 

 彼の背中を、しっかり抱いた。

 

 こんなふうに触れたかったのだと、そのときになってわかった。

 

 傷の有無を確かめるためでも、倒れた身体を支えるためでもなく、ただ好きだから抱きしめる。

 

 それを、自分も欲しがっていた。

 

「……私と、家族になってくれ」

 

 口にすると、彼が少し身体を離した。

 

 こちらを見る顔は、笑っているのに、泣きそうでもあった。

 

「おう」

 

 額が触れた。

 

「なるに決まってんだろ」

 

 ハリベルは、目を閉じた。

 

 初めて自分から重ねた口づけは、思っていたよりもずっと、離れがたいものだった。

 

*

 

 暮らしを共にするようになってから、男は何度も驚いた。

 

 ハリベルは、好意を受け入れた後まで、それを隠しておくつもりがなかった。

 

 出かける前には自分から手を取った。

 

 帰ってくれば、顔を見に行った。

 

 夜、隣にいる彼がまだ書類を読んでいると、肩へ額を寄せて、そのまま待った。

 

「眠いなら先に寝てていいぞ」

 

「お前と寝たい」

 

 そう答えると、彼はたいてい、少し困ったように笑って書類を置いた。

 

 ハリベルは、その顔も好きだった。

 

 彼のために茶を淹れるのも好きになった。

 

 こちらが淹れたものを飲み、ほっと息をつく。その何でもない仕草が嬉しくて、好む温度も、疲れているときに手が伸びる菓子も、いつの間にか覚えていた。

 

 自分が休みたい日には、隣に来てほしいと言えるようになった。

 

 抱きしめられている途中で腕が緩むと、もう少し、と頼むことも覚えた。

 

「こんなに甘えてくれるとは思わなかったな」

 

 一度、夫が言った。

 

 ハリベルは彼の胸に頬をつけたまま、答えた。

 

「嫌か」

 

「んなわけねぇだろ」

 

「なら、慣れろ」

 

 そう言うと、彼は笑いながら抱き直した。

 

 その腕の中で、ハリベルも小さく笑った。

 

 家に娘を迎えてからは、二人で覚えることが増えた。

 

 夜中に起きる小さな声。着替えの途中で逃げ出す足。何を言いたいのかわからず、二人で顔を見合わせる時間。

 

 娘が初めてハリベルを母と呼んだ日、彼は自分のことのように喜んだ。

 

 ハリベルは何度も、娘の顔を見た。

 

 この小さな命が、自分を呼んでいる。

 

 怖いときにも、嬉しいときにも、眠いときにも、こちらへ手を伸ばしてくる。

 

 抱き上げると安心して、全身を預けてくる。

 

 その重さを受け止めながら、母という言葉が、少しずつ自分のものになっていった。

 

 三人の従属官も、当たり前のように家へ来た。

 

 娘が歩けるようになれば三人で追いかけ、言葉を覚えれば誰を最初に呼んだかで揉めた。

 

 ハリベルはそれを見て、ときどき笑った。

 

 守りたかった者たちが、ここにいる。

 

 そして、自分の隣には夫がいた。

 

*

 

「よし、できたぞ」

 

 夫の声で、ハリベルは顔を上げた。

 

 結局、鍋を確かめに行った彼が、食卓へ料理を運んでいる。

 

 娘はアパッチに手を引かれ、椅子へ座ろうとしていた。ミラ・ローズが器を並べ、スンスンが、その一つを小さな手の届く場所へ動かす。

 

 六人分の席。

 

 六人分の食事。

 

 ハリベルの席も、夫の隣に用意されていた。

 

「ママ、ここ!」

 

 娘が椅子を叩いた。

 

 ハリベルが近づくと、夫が背もたれに手をかけ、座りやすいように少し引いた。

 

 ごく自然な仕草だった。

 

 そこにいる全員が、ハリベルがここへ座ることを疑っていなかった。

 

 誰かを送り出した後、最後まで残る場所ではない。

 

 皆が揃うために、自分の帰りも待たれている場所だった。

 

 席につくと、娘が小さな匙をこちらへ差し出した。

 

「これ、ママの」

 

「ありがとう」

 

「パパのは、こっち」

 

 夫が受け取り、大げさに頭を下げる。

 

 娘が得意そうに笑った。

 

 その顔を見ながら、夫も笑う。

 

 ハリベルは、彼を見た。

 

 かつて、黒い死覇装で自分の前に立っていた男。

 

 敵だと言っても、好きだと告げた男。

 

 断られてもこちらを恨まず、会いに来る日には本当に来た男。

 

 暗い場所まで迎えに来て、生きている手を差し出した男。

 

 今、その手が、小さな娘の口元を拭っていた。

 

「慌てなくていい。まだ熱いぞ」

 

 娘へそう言ってから、こちらを見る。

 

 目が合うと、笑った。

 

 ハリベルの内側で、何かが静かにほどけた。

 

 前触れは、ほとんどなかった。

 

 ただ、頬を温かいものが伝った。

 

「……ハリベル?」

 

 夫の顔から、笑みが消える。

 

 彼が手を伸ばしたとき、ハリベルはようやく、自分が泣いているのだと気づいた。

 

 慌てて拭おうとした。

 

 けれど、一度こぼれたものは止まらなかった。

 

「どうした。どこか痛むか」

 

 首を振った。

 

「違う」

 

 声が、うまく整わなかった。

 

 昔の自分が浮かんだ。

 

 白い砂の中で立ち、次に誰を失うのかと身構えていた自分。

 

 大切な者を守るため、強くなろうとしていた自分。

 

 愛する相手と食卓を囲み、子どもに呼ばれ、今日の疲れを話す未来など、一度も思い描かなかった自分。

 

 その自分が、今、ここに座っている。

 

 夫の手が頬に触れた。

 

 ハリベルは、その手に自分の手を重ねた。

 

「……いいのだろうか」

 

 小さく、声がこぼれた。

 

「私が、こんなに幸せで」

 

 夫はしばらく、こちらを見ていた。

 

 それから椅子を寄せ、ハリベルの肩を抱いた。

 

「いいに決まってんだろ」

 

 迷いのない声だった。

 

 あの日、戦場で好きだと言ったときと同じ。

 

「俺の大好きな女が、俺の隣で幸せにしてるんだ。これ以上嬉しいこと、ねぇよ」

 

 また、涙が落ちた。

 

 ハリベルは彼の服をつかんだ。

 

「お前と、この子と……あの三人がいて」

 

 息を整えようとしても、胸がいっぱいだった。

 

「私はここに座っているだけで、嬉しい。明日も、お前の顔を見たいと思う。食事をして、話をして……それだけのことを、何度でもしたい」

 

「しようぜ」

 

 彼が言った。

 

「明日も。その先も」

 

 ハリベルは、彼の胸へ顔を寄せた。

 

 守りたかった者は、昔からいた。

 

 差し出せるものがあるなら差し出すことも、恐れなかった。

 

 それでも、自分の中には、いつまでも冷たい風の通る場所があった。

 

 誰かを守った後で。

 

 刃を下ろした後で。

 

 一人になったとき、そこへ戻ってくる温もりを、彼女は知らなかった。

 

 この男は、そこに住みついてしまった。

 

 帰ってきて、名を呼んだ。

 

 手を取り、隣で眠り、次の日にも目を覚ました。

 

 そうしていつの間にか、その空白を、今日の話や明日の約束で満たしていた。

 

「……お前は」

 

 ハリベルは顔を上げた。

 

 涙で揺れる視界の中に、大好きな顔があった。

 

「私の中に、こんなにも多くのものを残していく」

 

 夫が、そっと涙を拭った。

 

「まだまだ増えるぞ」

 

 その言い方があまりにも彼らしくて、ハリベルは泣いたまま笑った。

 

「そうだろうな」

 

 彼の手を取り、頬へ押し当てる。

 

「……愛している」

 

 今度は、はっきり言えた。

 

「何度伝えても、足りなくなる」

 

 夫の表情が柔らかくなる。

 

 ハリベルは、その顔をもっと近くで見たくて、自分から口づけた。

 

 短く触れるだけのつもりだった。

 

 それでも離れた後、もう一度額を寄せずにはいられなかった。

 

「お前が好きだ」

 

「うん」

 

「これからも、そばにいてほしい」

 

「いるよ」

 

 彼が背中を撫でた。

 

「お前を置いて、どこ行くってんだ」

 

 その言葉に、ハリベルは目を閉じた。

 

*

 

 この孔に

 お前が、ただいまと言う。

 

 空白だった場所に

 ふたつ、寝息が灯る。

 

 私は、欠けたまま

 満ちてゆく。

 

 こぼれた幸福だけが

 涙のかたちを知っている。

 

*

 

「ママ」

 

 小さな声に、ハリベルは目を開けた。

 

 娘が椅子を降り、膝のそばに来ていた。

 

「かなしい?」

 

 ハリベルは首を振った。

 

 抱き上げると、娘の手が頬へ伸びた。小さな指が、夫の真似をするように涙を拭う。

 

「嬉しいんだ」

 

「うれしいのに、ないちゃった?」

 

「ああ」

 

 ハリベルは娘を見つめた。

 

「お前がいて、父さんがいて……とても、嬉しくなった」

 

 娘は少し考えた後、ぱっと笑った。

 

「じゃあ、もっとぎゅってする」

 

 小さな腕が首に回った。

 

 その身体を抱きしめると、夫も横から二人を包んだ。

 

 ハリベルは目を閉じ、二つの温もりを抱いた。

 

 向かい側で、アパッチが鼻をすすった気配がする。

 

「……飯、冷めちまうぞ」

 

「お前まで泣いてんじゃねぇか」

 

「泣いてねえ!」

 

 ミラ・ローズの声に、いつもの言い合いが始まった。

 

 スンスンが何か囁き、またアパッチが声を上げる。

 

 娘が笑った。

 

 夫も笑った。

 

 ハリベルも、涙の残った顔で笑った。

 

 やがて食事が再開し、娘が隣の椅子へ戻ってからも、ハリベルは卓の下で夫の手を握っていた。

 

 指を絡めると、すぐに握り返される。

 

 彼が少し顔を寄せた。

 

「落ち着いたか」

 

「ああ」

 

「なら、食おう。お前の好きな味になってるはずだ」

 

 ハリベルは器を見た。

 

 それから夫を見て、微笑んだ。

 

「後で、少し時間をくれ」

 

「何するんだ?」

 

「お前に触れていたい」

 

 夫が目を瞬かせる。

 

 ハリベルは、つないだ手を離さなかった。

 

「今は、この子の話を聞く。あの三人とも話したい」

 

 食卓の向こうで、娘が今日作った積み木の城について説明している。

 

 大切な声だった。

 

 どれも、ずっと聞いていたい声だった。

 

 それでも。

 

「皆が帰って、この子が眠ったら……その後は、私を甘やかしてくれ」

 

 彼は、たまらないという顔で笑った。

 

「任せとけ」

 

 ハリベルはその返事を聞いて、ようやく匙を取った。

 

 温かな食事。

 

 にぎやかな声。

 

 隣にいる、愛する男。

 

 かつては埋まるはずがないと思っていた場所に、そのすべてが、静かに積もっていた。

 

 夫の肩へ、ほんの少し寄りかかる。

 

 彼もまた、当たり前のように受け止めた。

 

「……ありがとう」

 

 それは、食事への礼だけではなかった。

 

 迎えに来てくれたこと。

 

 諦めずに想いを伝えてくれたこと。

 

 家族になって、今日もここにいてくれること。

 

 ハリベルは彼を見上げた。

 

「お前に恋をして、よかった」

 

 今度は、泣かずに言えた。

 

 幸せな顔で笑うことが、できた。

 

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