好きなキャラの短編集   作:チーズと唐揚げ、そしてハンバーグ

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千年血戦篇後のIF短編です。市丸ギンと交流のあった死神と松本乱菊が結ばれ、長い夫婦生活の末に息子を迎えます。金木犀の香る秋の日から、二人が重ねてきた年月を乱菊視点で振り返ります。


明日の話を、あんたと(BLEACH、松本乱菊)

 

 

 

「……ねえ。あたしのことも、たまにはその顔で見なさいよ」

 

 縁側に腰を下ろした乱菊が言うと、夫は腕の中から顔を上げた。

 

 生まれて半年になる息子が、彼の指を握っている。小さな手が開くたび、夫はわざと逃げるように指を動かし、また捕まえられていた。

 

 庭の金木犀が香っていた。

 

 結婚した年に植えたものだ。最初は頼りなかった枝も、今では毎年、窓のそばまで甘い匂いを運んでくる。

 

「どんな顔だよ」

 

「今、この子にしてた顔。もう可愛くて仕方ありません、って顔」

 

「お前にもしてるだろ」

 

「あら、そう?」

 

 乱菊は肩を寄せ、わざと下から覗き込んだ。

 

 夫が苦笑する。

 

 その顔を見た途端、乱菊も笑ってしまった。

 

「……そうね。してくれてるわ」

 

 息子の柔らかな髪を撫で、そのまま夫の頬へ手を伸ばす。指先で軽く触れると、彼は顔を逃がさず、こちらへ少し傾けた。

 

 長く一緒に暮らしてきた。

 

 触れたいと思えば触れられることも、隣へ座れば少し身体を寄せてくれることも、今ではすっかり当たり前になっている。

 

 それでも、ふと信じられなくなる日があった。

 

 あの頃の自分が、この男と夫婦になって。

 

 二人だけの時間を幾年も重ねた末に、こんな小さな命を抱いている。

 

「笑ったぞ」

 

 夫の声に、乱菊は息子を見た。

 

 こちらを見上げる顔が、くしゃりとほころんでいる。

 

「ほんと。あんたに似てきたわね」

 

「そうか?」

 

「嬉しいと、すぐ顔に出るところ」

 

 そう言うと、夫は息子とよく似た顔で笑った。

 

 乱菊は、その横顔をしばらく眺めていた。

 

 胸の奥に浮かんだのは、この家へ来るよりもずっと前の、雨の降っていた夜だった。

 

*

 

 千年血戦が終わり、瀞霊廷に人の声が戻り始めた頃。

 

 乱菊は、普段どおりに見えていた。

 

 仕事をすれば日番谷に小言を言われ、顔を合わせた仲間を飲みに誘い、新しく開いた店の話をする。若い隊士が思い詰めた顔をしていれば、隣に座って、話し出すまで付き合った。

 

 そういう時間は、嘘ではなかった。

 

 笑えることはあったし、仲間が無事に戻ったことは心から嬉しかった。

 

 けれど一人になると、ふいに、もう戻らない男のことを思い出した。

 

 ギン。

 

 呼んでも返事のない名前に、以前よりは慣れていた。

 

 それでも、慣れたことと寂しくないことは、同じではなかった。

 

 何でもない話をしていたはずなのに、帰り道で声を思い出す。店先で見つけた品を見て、あいつなら何と言っただろうと考える。

 

 そのたびに、伝えられない言葉が一つ増えた。

 

 今の夫は、そんな頃からそばにいた。

 

 もともと、長い付き合いの死神だった。

 

 ギンとも交流があり、ときどき三番隊の隊舎へ顔を出しては、仕事の話をするより長く、くだらないやり取りをしていたらしい。

 

 一度、その場に出くわしたことがある。

 

 廊下に面した縁側で、二人が茶を飲んでいた。

 

「今度こそ、あんたが払えよ」

 

「せやなあ。今度はボクが出したる」

 

「それ、前も聞いたぞ」

 

「よう覚えてるねえ」

 

「毎回俺が払ってりゃ覚えるだろ」

 

 彼は呆れ、ギンはいつものように笑っていた。

 

 乱菊が声をかけると、ギンが顔を上げた。

 

 彼のほうは空になった菓子皿を見せ、「こいつ、一人で半分以上食ったぞ」と告げ口してきた。

 

 それを聞いて、三人で少し笑った。

 

 そんな日もあった。

 

 誰が何を隠しているのかも、この先どうなるのかも知らず、ただ茶が冷めていくのを気にしていた日が。

 

 戦後、彼と話していると、そういう思い出が自然に口に出た。

 

「あいつ、本当に一回も奢らなかったの?」

 

「一回くらいあったかと思って考えたけど、なかったな」

 

「ふふ。ひどい男」

 

「だろ」

 

 彼は笑ってから、少しだけ黙った。

 

「……文句言いてぇこと、まだあるんだけどな」

 

 その言葉を聞いたとき、乱菊は彼の顔を見た。

 

 自分の話を聞いてくれているだけだと思っていた。

 

 けれど、この男にも、この男の知るギンがいた。

 

 言いそびれたことがあり、思い出す声があり、もう一度会いたいと思う瞬間がある。

 

 乱菊は、湯呑みを両手で包んだ。

 

「……あたしもよ」

 

 彼はうなずいた。

 

 その日は、二人でずいぶん昔の話をした。

 

*

 

 彼と会うことが、楽しみになっていった。

 

 復旧の仕事が早く終われば、今から誘えるだろうかと考える。新しい酒が手に入れば一緒に飲みたくなったし、くだらない出来事があれば、どう話せば笑わせられるかと思った。

 

 彼の姿を見つけると、知らず知らず歩くのが速くなる。

 

 隣を歩く手が近いことに、落ち着かなくなる。

 

 乱菊は、自分の気持ちに気づいていた。

 

 気づいていたからこそ、簡単に先へ進めなかった。

 

 楽しい時間の後ほど、胸が痛くなることがあった。

 

 昨日は彼に会いたくてたまらなかったのに、今日はギンの夢を見て泣いている。

 

 こんな自分が、この男の手を取っていいのだろうか。

 

 ある雨の夜、彼に気持ちを告げられた。

 

 一緒に飲んだ帰りだった。

 

 軒先で雨を避けていると、彼はしばらく通りを眺め、それから乱菊のほうを向いた。

 

「乱菊」

 

 いつもの声だった。

 

 けれど、こちらを見る目に、冗談を挟める余地はなかった。

 

「俺は、お前が好きだ」

 

 乱菊は、持っていた傘の柄を握った。

 

 嬉しかった。

 

 それが、いちばん困った。

 

「……知ってたわ」

 

「だろうな」

 

「わかりやすいんだもの」

 

 笑おうとすると、彼は少しだけ笑って、それでも目を逸らさなかった。

 

 乱菊も、もう誤魔化せなかった。

 

「でも、あたし……まだギンのこと、好きなのよ」

 

 雨が軒を打っていた。

 

 口にした名前が、二人の間へ落ちる。

 

「今でも会いたくなるし、夢に見ることもある。言えなかったことだって、いっぱいあるの」

 

 彼は黙って聞いていた。

 

「それなのに、あんたに会うのも嬉しくて……自分でも、どうしたらいいのかわかんないのよ」

 

 傘を握る手に、力が入った。

 

「そんなあたしじゃ、あんたに悪いでしょ」

 

「乱菊」

 

 彼の手が伸びた。

 

 傘を持つ手の上から、そっと包まれる。

 

「ギンを想ってるお前ごと、俺は愛する」

 

 乱菊は顔を上げた。

 

 彼は、言葉を探していなかった。

 

 考え抜いた末に、ここへ立っている顔だった。

 

「あいつの話で笑うお前も、思い出して泣くお前も、俺が好きになった乱菊だ」

 

「……簡単に言わないでよ」

 

「ああ。簡単じゃねぇだろうな」

 

 その返事が、意外だった。

 

 彼は乱菊の手を握ったまま、続けた。

 

「妬くことだってあると思う。お前のことが好きだからな」

 

 胸が、きゅっと痛んだ。

 

 けれど、彼は手を離さなかった。

 

「それでも、お前が大事にしてきた時間まで捨ててほしいとは思わねぇ。俺だって、あいつと話したことを忘れたくない」

 

 雨の向こうで、店の灯りが一つ消えた。

 

 彼が、少しだけ距離を詰めた。

 

「だから、お前が俺を好きだと思ってくれたなら、その気持ちまで引っ込めんな」

 

 乱菊の唇が震えた。

 

 隠していた場所を、まっすぐ見つけられた気がした。

 

「あたし……」

 

「ああ」

 

「あんたが来てくれると、嬉しいの」

 

 声に出すと、その続きを止められなくなった。

 

「寂しいときだけじゃないわ。楽しいことがあったときも、あんたに話したくなる。顔を見たくなるし……触ってほしいとも思う」

 

 彼の指が、わずかに動いた。

 

 乱菊は、その手を握り返した。

 

「あたし、あんたのことが好き」

 

 言えた途端、涙が落ちた。

 

 彼が一歩近づいて、抱き寄せる。

 

 乱菊も、その背中へ腕を回した。

 

 温かかった。

 

 泣きながら、こんなにも誰かに触れたかったのだと知った。

 

「……面倒な女よ、あたし」

 

「今さらだな」

 

「そこは否定しなさいよ」

 

 彼が笑った。

 

 その胸に額を押しつけると、背中を抱く腕が強くなった。

 

 乱菊は、しばらくその温もりに身を任せた。

 

 やがて顔を上げ、自分から彼の頬へ触れた。

 

「ねえ」

 

「何だ」

 

「明日も会いたい」

 

 言うと、彼は目を細めた。

 

「俺もだ」

 

 雨が上がるまで、まだ少しかかりそうだった。

 

 乱菊は傘を閉じたまま、もう一度、彼に近づいた。

 

*

 

 恋人になってから、彼の知らなかったところをいくつも見つけた。

 

 寝起きは少し機嫌が悪い。

 

 頼まれると引き受けすぎる。

 

 人に無理をするなと言うくせに、自分が疲れているときは平気な顔をしたがる。

 

 乱菊も、彼の前でいつも機嫌よくいられるわけではなかった。

 

 言いすぎて喧嘩になったこともある。謝ろうと訪ねたら、向こうもこちらへ来る途中で、道の真ん中で顔を見合わせたこともあった。

 

「……何よ」

 

「いや。行こうと思ってた」

 

「あたしも」

 

 そのまま二人で食事に行き、結局、仲直りの言葉より先に腹が鳴って笑った。

 

 そういう日を重ねた。

 

 二人が結婚したとき、乱菊はよく笑っていた。

 

 支度を整えた姿を見た彼が、珍しく言葉に詰まったからだ。

 

「どう? 惚れ直した?」

 

「ああ」

 

 あまりにも素直に返されて、からかうつもりだった乱菊のほうが困った。

 

「……そこ、もうちょっと照れてくれてもいいのよ」

 

「綺麗なんだから、しょうがねぇだろ」

 

 乱菊は、彼の腕を軽く叩いた。

 

 それから、自分から抱きついた。

 

 その日の嬉しさを、今もよく覚えている。

 

 これから一緒に暮らす家がある。

 

 同じところへ帰り、朝になれば顔を合わせる。

 

 そのことが、どうしようもなく楽しみだった。

 

*

 

 夫婦の時間は、穏やかな日ばかりではなかった。

 

 仕事が重なり、ようやく二人で食卓についたのに、どちらも眠くてろくに話せなかった夜もある。

 

 休みの予定が合わず、不機嫌になった日もあった。

 

 けれど翌朝、夫が台所にいると、乱菊はその背中へ抱きついた。

 

「……昨日、ちょっと言いすぎた」

 

「俺も悪かった」

 

「そうね」

 

「あっさり認めるなよ」

 

「だって、あんたも悪かったんでしょ?」

 

 二人で笑った。

 

 湯が沸くまで、乱菊は背中から離れなかった。

 

 ギンを思い出して、黙り込む日もあった。

 

 そんな日は、黙ったまま隣に座っていることもあれば、何が浮かんだのかを話すこともあった。

 

 夫は聞いた。

 

 自分の覚えている話を返すこともあった。

 

 花を手向けに行くとき、一緒に歩く年もあれば、乱菊だけで行く年もあった。

 

 ある年、二人で訪ねた帰りに、夫がぽつりと言った。

 

「一回くらい、奢ってほしかったな」

 

 乱菊は、思わず笑った。

 

「まだ言ってる」

 

「まだ言うぞ。こっちは覚えてるんだからな」

 

「じゃあ今日は、あたしが奢ってあげるわ」

 

「珍しいな」

 

「気が変わらないうちに、お店決めなさい」

 

 帰り道で、彼の手を取った。

 

 懐かしい話をした後で、今夜食べたいものの話をした。

 

 そんなふうに一日を終えられたことが、その頃はまだ、少し不思議だった。

 

 結婚して何度目かの冬、今度は夫が、疲れた顔をして帰ってきた。

 

 大丈夫だと言ったけれど、乱菊にはわかった。

 

 いつもなら気づくような話しかけ方にも、返事が少し遅い。食事の箸も止まりがちだった。

 

 片づけを終えると、乱菊は彼の手を引いた。

 

「こっち来なさい」

 

「何だよ」

 

「今日は、あたしが甘やかす番」

 

 座らせ、その頭を自分の肩へ引き寄せる。

 

 最初は少し抵抗していた彼も、乱菊が髪を撫でているうちに、長く息を吐いた。

 

「……疲れた」

 

「うん」

 

「思ったより、きてたな」

 

「知ってる」

 

 乱菊は、その頬へ口づけた。

 

「あたしの旦那なんだから、そういうときくらい頼りなさいよ」

 

 彼の腕が腰へ回った。

 

 身体の重さを預けられると、愛おしさが胸いっぱいに広がった。

 

 この人を休ませてやりたい。

 

 自分のそばで、安心していてほしい。

 

 そう思う気持ちを、もうためらわずに渡せた。

 

 十年目の結婚記念日には、二人で少し遠くへ出かけた。

 

 川沿いの桜が綺麗な場所だった。

 

 乱菊は帰る前、もう一度だけ花の下を歩きたいと言った。

 

「来年も来ましょ」

 

「ああ」

 

「今度は、もう少し長く休みを取って。あっちの店にも行きたいし」

 

「じゃあ、早めに予定決めとくか」

 

 その言葉に、乱菊は足を止めた。

 

 来年。

 

 自然に、そんな先の約束をしていた。

 

 夫が振り返る。

 

「どうした?」

 

「……何でもないわ」

 

 そう答えてから、彼の腕に自分の腕を絡めた。

 

「楽しみだなって思っただけ」

 

 帰りの道中も、二人は次の旅の話をした。

 

*

 

 結婚して十五年が過ぎた頃、乱菊は子どもを授かった。

 

 その日、帰ってきた夫を座らせると、彼は少し身構えた。

 

「何かあったのか」

 

「ええ。大事な話」

 

 乱菊が真面目な顔をしたので、いよいよ彼の背筋が伸びる。

 

 その様子がおかしくて、とうとう笑ってしまった。

 

「そんな怖い顔しなくていいのよ」

 

「お前が大事な話とか言うからだろ」

 

「大事よ。すごく」

 

 彼の手を取り、自分のお腹へ重ねた。

 

 まだ、見ただけでは何もわからなかった。

 

 それでも彼は、その仕草だけで動かなくなった。

 

 乱菊は、そんな夫を見つめた。

 

「家族、増えるわよ」

 

 彼の目が、自分の手と乱菊の顔を何度か往復した。

 

 それから、ようやく声が出た。

 

「……本当か」

 

「ええ」

 

「そっか」

 

 彼はそう言って、もう一度、小さくうなずいた。

 

「そっか……」

 

 乱菊は、少し目元が熱くなった。

 

 一緒に暮らして十五年。

 

 もう十分すぎるほど、この男のいろいろな顔を見たと思っていた。

 

 それなのに、まだ初めて見る顔がある。

 

 そっと抱き寄せられたとき、乱菊も腕を回した。

 

「嬉しい?」

 

「すげぇ嬉しい」

 

「ふふ。あたしも」

 

 彼の肩へ頬を寄せた。

 

 二人で暮らす時間を、ずっと大切にしてきた。

 

 これからは、そこへもう一人加わる。

 

 その子のための寝具を選び、着るものの小ささに驚き、どちらに似るのかと何度も同じ話をした。

 

 そして生まれた息子を初めて抱いた日、夫はひどく慎重な手つきになった。

 

 乱菊は、疲れた身体を横たえたまま、その姿を見ていた。

 

「そんなに固まらなくても大丈夫よ」

 

「だって、小せぇんだよ」

 

「赤ちゃんだもの」

 

「……そうなんだけどな」

 

 可笑しくて、愛おしかった。

 

 やがて夫がこちらを向いた。

 

 嬉しさを隠す余裕もない顔で、乱菊の名を呼んだ。

 

 その声を聞いた瞬間、彼女も泣いてしまった。

 

*

 

「乱菊」

 

 呼ばれて、現在へ戻った。

 

 庭で金木犀が揺れている。

 

 夫の腕の中では、さっきまで笑っていた息子が、いつの間にか眠そうに目を細めていた。

 

「そろそろ寝かせるか」

 

「そうね」

 

 二人で部屋へ入り、小さな布団へそっと下ろす。

 

 夫が手を抜く途中で息子が身じろぎし、二人とも同時に動きを止めた。

 

 しばらく待つ。

 

 小さな寝息が戻ると、乱菊と夫は顔を見合わせ、声を出さずに笑った。

 

 こういう息の合い方まで覚えていくのだと思うと、胸が温かくなった。

 

 縁側へ戻り、今度は二人で並んで座る。

 

 乱菊は、夫の手を取った。

 

「ねえ」

 

「ん?」

 

「あたしが、まだギンのこと好きだって言った夜。覚えてる?」

 

 彼がこちらを見る。

 

「ああ。雨の日だろ」

 

「よく覚えてるわね」

 

「忘れるかよ」

 

 乱菊は、つないだ手へ目を落とした。

 

 あの夜より、指輪には細かい傷が増えていた。

 

 家のものを運び、仕事をし、食事を作り、今では小さな子を抱いている手だった。

 

「……あたし、あのときね。自分の気持ち、どこかちゃんと片づけなきゃって思ってたの」

 

 夫は黙って聞いていた。

 

「そうしないと、あんたを好きだって言っちゃいけない気がしてた」

 

 言葉にすると、当時の苦しさが、少しだけ蘇った。

 

 けれど今は、その隣に、はっきりと覚えている温もりがあった。

 

「でも、あんたが手を伸ばしてくれたから……あたしも、好きだって言えた」

 

 夫の指に、自分の指を絡める。

 

「それからね、明日になったらあんたに会えるって、楽しみにするようになったの。これを話したら笑うかなとか、今度はどこへ行こうかなとか」

 

 乱菊は庭を見た。

 

 この木を植えた日のことも覚えている。

 

 夫は土で手を汚し、自分は横で、もう少し右ではないかと口を出していた。

 

 その後、二人で冷たい茶を飲んだ。

 

 何でもない日だった。

 

 そんな日が、いくつも浮かんだ。

 

「気づいたら、先のことを考えてた。あんたとする約束が、いっぱい増えてた」

 

 彼のほうへ向き直る。

 

 今は、ちゃんと顔を見て伝えたかった。

 

「あたしを前に向かせてくれて、ありがとう」

 

 夫が少しだけ目を細めた。

 

 乱菊は、その頬へ手を伸ばした。

 

「ギンのことを大切にしてる自分も、あんたを好きになった自分も……どっちも大事にしていいんだって、少しずつ思えるようになったの」

 

 風が髪を揺らした。

 

 彼が、頬にかかった一房を耳へかけてくれる。

 

 乱菊はその手に触れ、微笑んだ。

 

「結婚してよかったって、何度も思ったわ。今日だけじゃないのよ」

 

 帰ってきた顔を見たとき。

 

 くだらないことで笑ったとき。

 

 喧嘩の後、気まずそうに隣へ座ってきたとき。

 

 疲れた身体を預けてくれたとき。

 

 一緒に来年の話をしたとき。

 

「この子が生まれる前から、ずっと……あんたといるのが幸せだった」

 

 言い終えると、夫の喉が小さく動いた。

 

 乱菊は、少しだけ得意になった。

 

 いつもこちらの心をまっすぐ揺らしてくる男が、今は何と返すか迷っている。

 

 その顔まで、好きだった。

 

「今もね。何か嬉しいことがあると、あんたの顔が浮かぶの」

 

 もう少し近くへ寄る。

 

「一緒に喜んでほしいし、あんたを笑わせたい。疲れてるなら抱きしめたいし……ただ、顔を見てたい日もあるわ」

 

「……乱菊」

 

「まだ。ちゃんと言わせて」

 

 彼の頬を包み、目を見た。

 

「愛してる」

 

 静かに、けれどはっきりと伝えた。

 

「あたしの旦那様」

 

 夫が息を吐いた。

 

 そのまま肩を抱かれ、近くへ引き寄せられる。

 

「お前、今日ずるいだろ」

 

「そう?」

 

「ああ。どうしたらいいかわかんなくなる」

 

 乱菊は笑った。

 

 昔、気持ちを伝えられた自分も、そんな顔をしていただろうか。

 

「簡単よ」

 

 鼻先が触れるほど近づく。

 

「あたしのこと、抱きしめて。あんたも同じ気持ちだって、教えてちょうだい」

 

 夫は、言われたとおりにしてくれた。

 

 背中へ回った腕が、しっかりと身体を包む。

 

「愛してるよ、乱菊」

 

 その声が、耳のすぐそばに落ちた。

 

「お前と一緒になれて、よかった」

 

 乱菊は目を閉じた。

 

 返事の代わりに、少しだけ強く抱き返した。

 

 長い時間を一緒に暮らしても、この言葉を聞くと、やはり胸がいっぱいになる。

 

 顔を上げて口づけると、夫の手がそっと髪を撫でた。

 

 離れてからも、乱菊は額を寄せたままでいた。

 

「これからも、あたしと幸せになってね」

 

「頼まれなくても、そのつもりだ」

 

「ふふ。じゃあ、よろしく」

 

 二人で笑ったところへ、部屋の奥から小さな声がした。

 

 息子が一度だけぐずり、また静かになる。

 

 乱菊が様子を窺うと、夫も同じ方向を見ていた。

 

 肩を寄せたまま、しばらく二人で耳を澄ませる。

 

 やがて穏やかな寝息が聞こえてきて、乱菊はほっと笑った。

 

「ねえ。春になったら、またあの桜を見に行かない?」

 

「今度は三人だな」

 

「ええ。あの子にも見せてあげたい」

 

「休み、合わせないとな」

 

 夫がそう言う。

 

 乱菊は、つないだ手を握り直した。

 

 ギンを思い出す日には、きっとこれからも、その名を呼ぶだろう。

 

 懐かしさも寂しさも、長い時間を生きた自分の中にある。

 

 そして今、その自分が、愛する夫と次の春の話をしている。

 

「あたし、もう楽しみ」

 

 そう言うと、夫が笑った。

 

 乱菊はその肩へ頬を寄せ、庭の向こうを眺めた。

 

 まだ秋になったばかりだった。

 

 それでも、花の下を三人で歩く日のことが、こんなにも待ち遠しかった。

 

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