好きなキャラの短編集 作:チーズと唐揚げ、そしてハンバーグ
千年血戦篇後のIF短編です。市丸ギンと交流のあった死神と松本乱菊が結ばれ、長い夫婦生活の末に息子を迎えます。金木犀の香る秋の日から、二人が重ねてきた年月を乱菊視点で振り返ります。
「……ねえ。あたしのことも、たまにはその顔で見なさいよ」
縁側に腰を下ろした乱菊が言うと、夫は腕の中から顔を上げた。
生まれて半年になる息子が、彼の指を握っている。小さな手が開くたび、夫はわざと逃げるように指を動かし、また捕まえられていた。
庭の金木犀が香っていた。
結婚した年に植えたものだ。最初は頼りなかった枝も、今では毎年、窓のそばまで甘い匂いを運んでくる。
「どんな顔だよ」
「今、この子にしてた顔。もう可愛くて仕方ありません、って顔」
「お前にもしてるだろ」
「あら、そう?」
乱菊は肩を寄せ、わざと下から覗き込んだ。
夫が苦笑する。
その顔を見た途端、乱菊も笑ってしまった。
「……そうね。してくれてるわ」
息子の柔らかな髪を撫で、そのまま夫の頬へ手を伸ばす。指先で軽く触れると、彼は顔を逃がさず、こちらへ少し傾けた。
長く一緒に暮らしてきた。
触れたいと思えば触れられることも、隣へ座れば少し身体を寄せてくれることも、今ではすっかり当たり前になっている。
それでも、ふと信じられなくなる日があった。
あの頃の自分が、この男と夫婦になって。
二人だけの時間を幾年も重ねた末に、こんな小さな命を抱いている。
「笑ったぞ」
夫の声に、乱菊は息子を見た。
こちらを見上げる顔が、くしゃりとほころんでいる。
「ほんと。あんたに似てきたわね」
「そうか?」
「嬉しいと、すぐ顔に出るところ」
そう言うと、夫は息子とよく似た顔で笑った。
乱菊は、その横顔をしばらく眺めていた。
胸の奥に浮かんだのは、この家へ来るよりもずっと前の、雨の降っていた夜だった。
千年血戦が終わり、瀞霊廷に人の声が戻り始めた頃。
乱菊は、普段どおりに見えていた。
仕事をすれば日番谷に小言を言われ、顔を合わせた仲間を飲みに誘い、新しく開いた店の話をする。若い隊士が思い詰めた顔をしていれば、隣に座って、話し出すまで付き合った。
そういう時間は、嘘ではなかった。
笑えることはあったし、仲間が無事に戻ったことは心から嬉しかった。
けれど一人になると、ふいに、もう戻らない男のことを思い出した。
ギン。
呼んでも返事のない名前に、以前よりは慣れていた。
それでも、慣れたことと寂しくないことは、同じではなかった。
何でもない話をしていたはずなのに、帰り道で声を思い出す。店先で見つけた品を見て、あいつなら何と言っただろうと考える。
そのたびに、伝えられない言葉が一つ増えた。
今の夫は、そんな頃からそばにいた。
もともと、長い付き合いの死神だった。
ギンとも交流があり、ときどき三番隊の隊舎へ顔を出しては、仕事の話をするより長く、くだらないやり取りをしていたらしい。
一度、その場に出くわしたことがある。
廊下に面した縁側で、二人が茶を飲んでいた。
「今度こそ、あんたが払えよ」
「せやなあ。今度はボクが出したる」
「それ、前も聞いたぞ」
「よう覚えてるねえ」
「毎回俺が払ってりゃ覚えるだろ」
彼は呆れ、ギンはいつものように笑っていた。
乱菊が声をかけると、ギンが顔を上げた。
彼のほうは空になった菓子皿を見せ、「こいつ、一人で半分以上食ったぞ」と告げ口してきた。
それを聞いて、三人で少し笑った。
そんな日もあった。
誰が何を隠しているのかも、この先どうなるのかも知らず、ただ茶が冷めていくのを気にしていた日が。
戦後、彼と話していると、そういう思い出が自然に口に出た。
「あいつ、本当に一回も奢らなかったの?」
「一回くらいあったかと思って考えたけど、なかったな」
「ふふ。ひどい男」
「だろ」
彼は笑ってから、少しだけ黙った。
「……文句言いてぇこと、まだあるんだけどな」
その言葉を聞いたとき、乱菊は彼の顔を見た。
自分の話を聞いてくれているだけだと思っていた。
けれど、この男にも、この男の知るギンがいた。
言いそびれたことがあり、思い出す声があり、もう一度会いたいと思う瞬間がある。
乱菊は、湯呑みを両手で包んだ。
「……あたしもよ」
彼はうなずいた。
その日は、二人でずいぶん昔の話をした。
彼と会うことが、楽しみになっていった。
復旧の仕事が早く終われば、今から誘えるだろうかと考える。新しい酒が手に入れば一緒に飲みたくなったし、くだらない出来事があれば、どう話せば笑わせられるかと思った。
彼の姿を見つけると、知らず知らず歩くのが速くなる。
隣を歩く手が近いことに、落ち着かなくなる。
乱菊は、自分の気持ちに気づいていた。
気づいていたからこそ、簡単に先へ進めなかった。
楽しい時間の後ほど、胸が痛くなることがあった。
昨日は彼に会いたくてたまらなかったのに、今日はギンの夢を見て泣いている。
こんな自分が、この男の手を取っていいのだろうか。
ある雨の夜、彼に気持ちを告げられた。
一緒に飲んだ帰りだった。
軒先で雨を避けていると、彼はしばらく通りを眺め、それから乱菊のほうを向いた。
「乱菊」
いつもの声だった。
けれど、こちらを見る目に、冗談を挟める余地はなかった。
「俺は、お前が好きだ」
乱菊は、持っていた傘の柄を握った。
嬉しかった。
それが、いちばん困った。
「……知ってたわ」
「だろうな」
「わかりやすいんだもの」
笑おうとすると、彼は少しだけ笑って、それでも目を逸らさなかった。
乱菊も、もう誤魔化せなかった。
「でも、あたし……まだギンのこと、好きなのよ」
雨が軒を打っていた。
口にした名前が、二人の間へ落ちる。
「今でも会いたくなるし、夢に見ることもある。言えなかったことだって、いっぱいあるの」
彼は黙って聞いていた。
「それなのに、あんたに会うのも嬉しくて……自分でも、どうしたらいいのかわかんないのよ」
傘を握る手に、力が入った。
「そんなあたしじゃ、あんたに悪いでしょ」
「乱菊」
彼の手が伸びた。
傘を持つ手の上から、そっと包まれる。
「ギンを想ってるお前ごと、俺は愛する」
乱菊は顔を上げた。
彼は、言葉を探していなかった。
考え抜いた末に、ここへ立っている顔だった。
「あいつの話で笑うお前も、思い出して泣くお前も、俺が好きになった乱菊だ」
「……簡単に言わないでよ」
「ああ。簡単じゃねぇだろうな」
その返事が、意外だった。
彼は乱菊の手を握ったまま、続けた。
「妬くことだってあると思う。お前のことが好きだからな」
胸が、きゅっと痛んだ。
けれど、彼は手を離さなかった。
「それでも、お前が大事にしてきた時間まで捨ててほしいとは思わねぇ。俺だって、あいつと話したことを忘れたくない」
雨の向こうで、店の灯りが一つ消えた。
彼が、少しだけ距離を詰めた。
「だから、お前が俺を好きだと思ってくれたなら、その気持ちまで引っ込めんな」
乱菊の唇が震えた。
隠していた場所を、まっすぐ見つけられた気がした。
「あたし……」
「ああ」
「あんたが来てくれると、嬉しいの」
声に出すと、その続きを止められなくなった。
「寂しいときだけじゃないわ。楽しいことがあったときも、あんたに話したくなる。顔を見たくなるし……触ってほしいとも思う」
彼の指が、わずかに動いた。
乱菊は、その手を握り返した。
「あたし、あんたのことが好き」
言えた途端、涙が落ちた。
彼が一歩近づいて、抱き寄せる。
乱菊も、その背中へ腕を回した。
温かかった。
泣きながら、こんなにも誰かに触れたかったのだと知った。
「……面倒な女よ、あたし」
「今さらだな」
「そこは否定しなさいよ」
彼が笑った。
その胸に額を押しつけると、背中を抱く腕が強くなった。
乱菊は、しばらくその温もりに身を任せた。
やがて顔を上げ、自分から彼の頬へ触れた。
「ねえ」
「何だ」
「明日も会いたい」
言うと、彼は目を細めた。
「俺もだ」
雨が上がるまで、まだ少しかかりそうだった。
乱菊は傘を閉じたまま、もう一度、彼に近づいた。
恋人になってから、彼の知らなかったところをいくつも見つけた。
寝起きは少し機嫌が悪い。
頼まれると引き受けすぎる。
人に無理をするなと言うくせに、自分が疲れているときは平気な顔をしたがる。
乱菊も、彼の前でいつも機嫌よくいられるわけではなかった。
言いすぎて喧嘩になったこともある。謝ろうと訪ねたら、向こうもこちらへ来る途中で、道の真ん中で顔を見合わせたこともあった。
「……何よ」
「いや。行こうと思ってた」
「あたしも」
そのまま二人で食事に行き、結局、仲直りの言葉より先に腹が鳴って笑った。
そういう日を重ねた。
二人が結婚したとき、乱菊はよく笑っていた。
支度を整えた姿を見た彼が、珍しく言葉に詰まったからだ。
「どう? 惚れ直した?」
「ああ」
あまりにも素直に返されて、からかうつもりだった乱菊のほうが困った。
「……そこ、もうちょっと照れてくれてもいいのよ」
「綺麗なんだから、しょうがねぇだろ」
乱菊は、彼の腕を軽く叩いた。
それから、自分から抱きついた。
その日の嬉しさを、今もよく覚えている。
これから一緒に暮らす家がある。
同じところへ帰り、朝になれば顔を合わせる。
そのことが、どうしようもなく楽しみだった。
夫婦の時間は、穏やかな日ばかりではなかった。
仕事が重なり、ようやく二人で食卓についたのに、どちらも眠くてろくに話せなかった夜もある。
休みの予定が合わず、不機嫌になった日もあった。
けれど翌朝、夫が台所にいると、乱菊はその背中へ抱きついた。
「……昨日、ちょっと言いすぎた」
「俺も悪かった」
「そうね」
「あっさり認めるなよ」
「だって、あんたも悪かったんでしょ?」
二人で笑った。
湯が沸くまで、乱菊は背中から離れなかった。
ギンを思い出して、黙り込む日もあった。
そんな日は、黙ったまま隣に座っていることもあれば、何が浮かんだのかを話すこともあった。
夫は聞いた。
自分の覚えている話を返すこともあった。
花を手向けに行くとき、一緒に歩く年もあれば、乱菊だけで行く年もあった。
ある年、二人で訪ねた帰りに、夫がぽつりと言った。
「一回くらい、奢ってほしかったな」
乱菊は、思わず笑った。
「まだ言ってる」
「まだ言うぞ。こっちは覚えてるんだからな」
「じゃあ今日は、あたしが奢ってあげるわ」
「珍しいな」
「気が変わらないうちに、お店決めなさい」
帰り道で、彼の手を取った。
懐かしい話をした後で、今夜食べたいものの話をした。
そんなふうに一日を終えられたことが、その頃はまだ、少し不思議だった。
結婚して何度目かの冬、今度は夫が、疲れた顔をして帰ってきた。
大丈夫だと言ったけれど、乱菊にはわかった。
いつもなら気づくような話しかけ方にも、返事が少し遅い。食事の箸も止まりがちだった。
片づけを終えると、乱菊は彼の手を引いた。
「こっち来なさい」
「何だよ」
「今日は、あたしが甘やかす番」
座らせ、その頭を自分の肩へ引き寄せる。
最初は少し抵抗していた彼も、乱菊が髪を撫でているうちに、長く息を吐いた。
「……疲れた」
「うん」
「思ったより、きてたな」
「知ってる」
乱菊は、その頬へ口づけた。
「あたしの旦那なんだから、そういうときくらい頼りなさいよ」
彼の腕が腰へ回った。
身体の重さを預けられると、愛おしさが胸いっぱいに広がった。
この人を休ませてやりたい。
自分のそばで、安心していてほしい。
そう思う気持ちを、もうためらわずに渡せた。
十年目の結婚記念日には、二人で少し遠くへ出かけた。
川沿いの桜が綺麗な場所だった。
乱菊は帰る前、もう一度だけ花の下を歩きたいと言った。
「来年も来ましょ」
「ああ」
「今度は、もう少し長く休みを取って。あっちの店にも行きたいし」
「じゃあ、早めに予定決めとくか」
その言葉に、乱菊は足を止めた。
来年。
自然に、そんな先の約束をしていた。
夫が振り返る。
「どうした?」
「……何でもないわ」
そう答えてから、彼の腕に自分の腕を絡めた。
「楽しみだなって思っただけ」
帰りの道中も、二人は次の旅の話をした。
結婚して十五年が過ぎた頃、乱菊は子どもを授かった。
その日、帰ってきた夫を座らせると、彼は少し身構えた。
「何かあったのか」
「ええ。大事な話」
乱菊が真面目な顔をしたので、いよいよ彼の背筋が伸びる。
その様子がおかしくて、とうとう笑ってしまった。
「そんな怖い顔しなくていいのよ」
「お前が大事な話とか言うからだろ」
「大事よ。すごく」
彼の手を取り、自分のお腹へ重ねた。
まだ、見ただけでは何もわからなかった。
それでも彼は、その仕草だけで動かなくなった。
乱菊は、そんな夫を見つめた。
「家族、増えるわよ」
彼の目が、自分の手と乱菊の顔を何度か往復した。
それから、ようやく声が出た。
「……本当か」
「ええ」
「そっか」
彼はそう言って、もう一度、小さくうなずいた。
「そっか……」
乱菊は、少し目元が熱くなった。
一緒に暮らして十五年。
もう十分すぎるほど、この男のいろいろな顔を見たと思っていた。
それなのに、まだ初めて見る顔がある。
そっと抱き寄せられたとき、乱菊も腕を回した。
「嬉しい?」
「すげぇ嬉しい」
「ふふ。あたしも」
彼の肩へ頬を寄せた。
二人で暮らす時間を、ずっと大切にしてきた。
これからは、そこへもう一人加わる。
その子のための寝具を選び、着るものの小ささに驚き、どちらに似るのかと何度も同じ話をした。
そして生まれた息子を初めて抱いた日、夫はひどく慎重な手つきになった。
乱菊は、疲れた身体を横たえたまま、その姿を見ていた。
「そんなに固まらなくても大丈夫よ」
「だって、小せぇんだよ」
「赤ちゃんだもの」
「……そうなんだけどな」
可笑しくて、愛おしかった。
やがて夫がこちらを向いた。
嬉しさを隠す余裕もない顔で、乱菊の名を呼んだ。
その声を聞いた瞬間、彼女も泣いてしまった。
「乱菊」
呼ばれて、現在へ戻った。
庭で金木犀が揺れている。
夫の腕の中では、さっきまで笑っていた息子が、いつの間にか眠そうに目を細めていた。
「そろそろ寝かせるか」
「そうね」
二人で部屋へ入り、小さな布団へそっと下ろす。
夫が手を抜く途中で息子が身じろぎし、二人とも同時に動きを止めた。
しばらく待つ。
小さな寝息が戻ると、乱菊と夫は顔を見合わせ、声を出さずに笑った。
こういう息の合い方まで覚えていくのだと思うと、胸が温かくなった。
縁側へ戻り、今度は二人で並んで座る。
乱菊は、夫の手を取った。
「ねえ」
「ん?」
「あたしが、まだギンのこと好きだって言った夜。覚えてる?」
彼がこちらを見る。
「ああ。雨の日だろ」
「よく覚えてるわね」
「忘れるかよ」
乱菊は、つないだ手へ目を落とした。
あの夜より、指輪には細かい傷が増えていた。
家のものを運び、仕事をし、食事を作り、今では小さな子を抱いている手だった。
「……あたし、あのときね。自分の気持ち、どこかちゃんと片づけなきゃって思ってたの」
夫は黙って聞いていた。
「そうしないと、あんたを好きだって言っちゃいけない気がしてた」
言葉にすると、当時の苦しさが、少しだけ蘇った。
けれど今は、その隣に、はっきりと覚えている温もりがあった。
「でも、あんたが手を伸ばしてくれたから……あたしも、好きだって言えた」
夫の指に、自分の指を絡める。
「それからね、明日になったらあんたに会えるって、楽しみにするようになったの。これを話したら笑うかなとか、今度はどこへ行こうかなとか」
乱菊は庭を見た。
この木を植えた日のことも覚えている。
夫は土で手を汚し、自分は横で、もう少し右ではないかと口を出していた。
その後、二人で冷たい茶を飲んだ。
何でもない日だった。
そんな日が、いくつも浮かんだ。
「気づいたら、先のことを考えてた。あんたとする約束が、いっぱい増えてた」
彼のほうへ向き直る。
今は、ちゃんと顔を見て伝えたかった。
「あたしを前に向かせてくれて、ありがとう」
夫が少しだけ目を細めた。
乱菊は、その頬へ手を伸ばした。
「ギンのことを大切にしてる自分も、あんたを好きになった自分も……どっちも大事にしていいんだって、少しずつ思えるようになったの」
風が髪を揺らした。
彼が、頬にかかった一房を耳へかけてくれる。
乱菊はその手に触れ、微笑んだ。
「結婚してよかったって、何度も思ったわ。今日だけじゃないのよ」
帰ってきた顔を見たとき。
くだらないことで笑ったとき。
喧嘩の後、気まずそうに隣へ座ってきたとき。
疲れた身体を預けてくれたとき。
一緒に来年の話をしたとき。
「この子が生まれる前から、ずっと……あんたといるのが幸せだった」
言い終えると、夫の喉が小さく動いた。
乱菊は、少しだけ得意になった。
いつもこちらの心をまっすぐ揺らしてくる男が、今は何と返すか迷っている。
その顔まで、好きだった。
「今もね。何か嬉しいことがあると、あんたの顔が浮かぶの」
もう少し近くへ寄る。
「一緒に喜んでほしいし、あんたを笑わせたい。疲れてるなら抱きしめたいし……ただ、顔を見てたい日もあるわ」
「……乱菊」
「まだ。ちゃんと言わせて」
彼の頬を包み、目を見た。
「愛してる」
静かに、けれどはっきりと伝えた。
「あたしの旦那様」
夫が息を吐いた。
そのまま肩を抱かれ、近くへ引き寄せられる。
「お前、今日ずるいだろ」
「そう?」
「ああ。どうしたらいいかわかんなくなる」
乱菊は笑った。
昔、気持ちを伝えられた自分も、そんな顔をしていただろうか。
「簡単よ」
鼻先が触れるほど近づく。
「あたしのこと、抱きしめて。あんたも同じ気持ちだって、教えてちょうだい」
夫は、言われたとおりにしてくれた。
背中へ回った腕が、しっかりと身体を包む。
「愛してるよ、乱菊」
その声が、耳のすぐそばに落ちた。
「お前と一緒になれて、よかった」
乱菊は目を閉じた。
返事の代わりに、少しだけ強く抱き返した。
長い時間を一緒に暮らしても、この言葉を聞くと、やはり胸がいっぱいになる。
顔を上げて口づけると、夫の手がそっと髪を撫でた。
離れてからも、乱菊は額を寄せたままでいた。
「これからも、あたしと幸せになってね」
「頼まれなくても、そのつもりだ」
「ふふ。じゃあ、よろしく」
二人で笑ったところへ、部屋の奥から小さな声がした。
息子が一度だけぐずり、また静かになる。
乱菊が様子を窺うと、夫も同じ方向を見ていた。
肩を寄せたまま、しばらく二人で耳を澄ませる。
やがて穏やかな寝息が聞こえてきて、乱菊はほっと笑った。
「ねえ。春になったら、またあの桜を見に行かない?」
「今度は三人だな」
「ええ。あの子にも見せてあげたい」
「休み、合わせないとな」
夫がそう言う。
乱菊は、つないだ手を握り直した。
ギンを思い出す日には、きっとこれからも、その名を呼ぶだろう。
懐かしさも寂しさも、長い時間を生きた自分の中にある。
そして今、その自分が、愛する夫と次の春の話をしている。
「あたし、もう楽しみ」
そう言うと、夫が笑った。
乱菊はその肩へ頬を寄せ、庭の向こうを眺めた。
まだ秋になったばかりだった。
それでも、花の下を三人で歩く日のことが、こんなにも待ち遠しかった。