好きなキャラの短編集   作:チーズと唐揚げ、そしてハンバーグ

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オリ主が加わり、香取隊が五人編成になっているIF短編です。香取葉子の視点で、幼馴染と組んだボーダー時代から、夫婦になって娘と過ごす休日までを描きます。



あんたの隣は、アタシの場所(ワールドトリガー、香取葉子)

 

 

「……何、この顔」

 

 収納棚の前に座り込んだ葉子が、写真を一枚つまみ上げた。

 

 休日の午後だった。

 

 娘が使わなくなった玩具を片づけていたら、棚の奥から、ボーダー時代の資料を詰めた箱が出てきた。古い戦闘記録のメモや、隊のみんなで出かけたときの半券。その間に、何枚かの写真が挟まっていた。

 

 夫が横から覗き込む。

 

「お前だろ」

 

「それはわかる。なんでこんな写真残してんのよ」

 

「よく撮れてるじゃねぇか。目つき悪いところまで」

 

「もっとマシなのあったでしょ」

 

 写真の中では、香取隊の五人が並んでいた。

 

 華はいつもどおりの顔で、雄太は控えめに笑っている。麓郎は少し肩に力が入り、幼馴染の彼は、隣の葉子を気にしているようだった。

 

 そして、その葉子は。

 

 カメラを睨みつけていた。

 

 勝利を収めた日の記念写真とは、とても思えない顔だった。

 

「ママ?」

 

 四歳の娘が寄ってきた。

 

 葉子の膝へ当然のように座り、写真を覗き込む。

 

「これ、ママなの?」

 

「そうよ。今よりずっと前」

 

「おこってる?」

 

 夫が笑った。

 

「怒ってるなあ」

 

「ちょっと」

 

「しかも、勝った後なんだぜ」

 

 娘が不思議そうに首を傾げる。

 

 葉子は写真を伏せようとしたが、夫の指に止められた。

 

「懐かしいな。この日」

 

 その言い方で、嫌な予感がした。

 

 覚えている。

 

 彼も、覚えているのだ。

 

 試合の内容より、得点より、もっと葉子にとって都合の悪いことを。

 

「……あんた、余計なこと言わないでよ」

 

「何のことだ?」

 

 知らないふりをする顔が、昔とまったく変わっていなかった。

 

*

 

 ボーダー時代、香取葉子の評判は、決してよくなかった。

 

 機嫌が悪いとすぐに顔へ出る。

 

 不満を言う。

 

 気に入らない助言には噛みつく。

 

 実力はあるが、一緒にやるとなると大変そうだ──そんな言われ方を、本人も何度か耳にしていた。

 

 腹は立った。

 

 大半が、身に覚えのあることだったから、余計に。

 

 けれど彼だけは、昔から、葉子といることを大変そうにはしなかった。

 

 幼い頃から家が近く、学校でも帰り道でも顔を合わせてきた、同い年の幼馴染。

 

 葉子が怒っていれば理由を聞くし、理不尽なことを言えば言い返してくる。

 

 それなのに、気づけば隣にいた。

 

 遊ぶときにも、帰るときにも。

 

 ボーダーへ入って、同じ隊に加わってからも。

 

*

 

『葉子、待って。麓郎の射線がまだ通ってない』

 

 華の声が耳に入った。

 

 市街地の路地。

 

 角の向こうには敵の攻撃手と銃手がいる。前へ出た攻撃手を、後方の銃手が支える配置だった。

 

 葉子は拳銃を握り直した。

 

 今なら入れる。

 

 そう思って足を踏み出しかけたところで、隣の彼が短く言った。

 

「あと二秒」

 

「見えてるんだけど」

 

「なら、俺のほうも見ろ」

 

 視線を向ける。

 

 彼はすでに弧月を構え、路地の幅と敵の位置を確かめていた。

 

 何をする気かは、わかった。

 

 葉子は舌打ちを一つ飲み込んで待った。

 

 次の瞬間、別の角度から若村の射撃が通る。

 

 後方の銃手がシールドを張り、こちらへの射撃が途切れた。

 

「行くぞ」

 

「遅れないでよ」

 

 葉子が飛び出す。

 

 前衛へ撃ち込みながら間合いを詰めると、相手はシールドで弾を防ぎ、刀を構えた。

 

 その右側へ、彼が踏み込む。

 

 敵の視線が動いた。

 

 葉子はその瞬間に拳銃をしまい、グラスホッパーを蹴った。

 

 正面から、上へ。

 

 相手の防御を越える高さまで跳び、空中でスコーピオンを伸ばす。

 

 敵が振り返るより先に、刃が背を捉えた。

 

 緊急脱出の光が上がる。

 

 後方の銃手が、着地する葉子へ銃口を向けた。

 

 そこへ、彼のシールドが差し込まれる。

 

 葉子は足を止めなかった。

 

 守られる場所を確かめる必要もなかった。

 

 彼なら、ここへ出す。

 

 そうわかっていたから、着地と同時に横へ抜けた。

 

 彼の弧月が正面から迫り、銃手がそちらへ防御を向ける。その外側から、葉子が撃った。

 

 二人目の緊急脱出が上がった。

 

『西から来る相手は、雄太が止めてる。二人とも合流して』

 

 華の声に、彼がすぐ動いた。

 

 葉子も隣へ並ぶ。

 

「今の、アタシのほうが早かったでしょ」

 

「はいはい。帰ってから聞く」

 

「ちゃんと見てた?」

 

「見てなきゃ、お前の着地にシールド出せねぇだろ」

 

 それを聞いて、葉子は少しだけ口元を緩めた。

 

 そんな顔をしていることには、自分では気づかなかった。

 

 二人の連携は、A級隊員との二対二の合同訓練でも引けを取らなかった。

 

 葉子が無理に速度を落とさなくても、彼はそこへ間に合う。彼が攻め込むときには、葉子が相手の逃げ先へ回る。

 

 その二人を軸に、華が全体を見て、若村と三浦が射線と退路を支える。

 

 香取隊は、B級上位の常連になっていた。

 

 もっと上を狙うための課題は、いくらでもあった。

 

 だから反省会では相変わらず言い合いになったし、葉子が不機嫌になる日もあった。

 

 けれど彼が「次、どう勝つか考えようぜ」と隣へ座ると、葉子は結局、記録へ目を戻した。

 

 同じ場面を指さし、ああでもない、こうでもないと言い合う。

 

 そういう時間は、昔から好きだった。

 

*

 

 問題は、その幼馴染が、よくモテたことだった。

 

 背が高く、顔もよく、試合では頼りになる。

 

 普段は気軽に話せるくせに、大事なところでは妙にはっきりしている。

 

 学校でも、ボーダーでも、声をかけてくる女子は珍しくなかった。

 

 葉子にとって腹立たしいのは、その理由がわかってしまうことだった。

 

 そんなの、ずっと前から知っている。

 

 彼がどんな顔で笑うのかも、困っている人にどう手を貸すのかも。

 

 今日の試合で格好よかったところなど、誰より近くで見ていた。

 

 それなのに。

 

「今度、二人で練習に付き合ってもらってもいい?」

 

 作戦室へ戻る途中、そんな声が聞こえてきた。

 

 同年代の女子隊員が、彼を呼び止めている。

 

 葉子は足を止めた。

 

 彼が何か答え、相手が嬉しそうに笑う。

 

 それを見た途端、胸の奥がざらついた。

 

 隣にいた華が、ちらりとこちらを見る。

 

「葉子、先に戻る?」

 

「……別に」

 

「待つ?」

 

「だから、別にって言ってるでしょ」

 

 華はしばらく黙っていた。

 

 それから、いつもの調子で言った。

 

「一緒に帰りたいなら、そう言えばいいと思うけど」

 

 葉子は睨んだ。

 

 華は睨み返さなかった。

 

 その向こうで、彼が女子隊員へ軽く手を上げ、話を終えていた。

 

 こちらへ歩いてくる。

 

 葉子の顔を見ると、少しだけ眉を上げた。

 

「どうした?」

 

「何でもない」

 

「何でもなくない顔してるぞ」

 

「うっさい」

 

 その後に撮った記念写真が、あの一枚だった。

 

 葉子は、カメラに笑う気分ではなかった。

 

*

 

 帰り道、葉子は彼の半歩前を歩いていた。

 

 街灯がつき始めた道を、いつもより少し速く進む。

 

 それでも彼は、急ぐ様子もなくついてきた。

 

 しばらく黙ってから、葉子は口を開いた。

 

「さっきの子」

 

「ん?」

 

「練習、付き合うの?」

 

「日程聞かれたけど、まだ決めてねぇよ」

 

「昨日、ロビーで話してた子とは違うわよね」

 

 彼がこちらを見た。

 

「昨日のも見てたのか」

 

「見えるところで話してたでしょ」

 

「まあ、そうだけど」

 

 葉子は歩くのをやめた。

 

 彼も少し先で止まり、振り返る。

 

「その子、最近よく来てるじゃん。あんたがいる時間に」

 

「……よく見てるな」

 

「あんたのことだもん」

 

 言ってから、しまったと思った。

 

 けれど、もう引っ込められなかった。

 

 彼が黙ってこちらを見ている。

 

 葉子は、バッグの紐を握りしめた。

 

「誰にでも愛想よくしてさ。ああやって笑って。向こうがその気になったらどうすんのよ」

 

「葉子」

 

「あんた、そういうの鈍いわけじゃないでしょ」

 

「まず、こっち見ろ」

 

 低い声だった。

 

 怒ってはいなかった。

 

 ただ、いつものように、葉子が話を逸らすところを見逃さなかった。

 

 顔を上げる。

 

 彼が少し近づいた。

 

「お前は、俺にどうしてほしい?」

 

 答えなど、わかっているくせに。

 

 そう思った。

 

 わかっているなら、何も聞かずにこちらへ来ればいい。

 

 ずっとそうしてきたのだから。

 

 けれど、その「ずっと」が、これからも続くとは限らないのだと、その日、初めてはっきり思った。

 

 幼馴染。

 

 同じ隊。

 

 相性のいい相棒。

 

 そのどれであっても、彼が誰かの恋人になることを止められない。

 

 葉子は唇を噛んだ。

 

「……嫌なの」

 

 彼は、黙って待っていた。

 

「あんたが、他の子と付き合うのが嫌」

 

 声に出すと、思っていたよりも苦しかった。

 

「昔から一緒にいるの、アタシじゃん。学校も、帰り道も、ボーダーも。隣にいるのが当たり前になってたのに……そこだけ、急に他の女に変わるとか、無理」

 

 最後のほうは、少し声が震えた。

 

 悔しかった。

 

 試合なら、こんなところで怯んだりしない。

 

 欲しい場所があれば、自分から取りに行けるのに。

 

 葉子は彼を見た。

 

「好きなの」

 

 はっきり言った。

 

「あんたが好き。だから、アタシと付き合って」

 

 彼の目が、わずかに見開かれた。

 

 その反応に、不安が入り込む。

 

 葉子は言葉を足した。

 

「……他の子のところ、行かないでよ」

 

 静かな声になった。

 

 さっきまでの棘も、不機嫌も、もう役に立たなかった。

 

 彼が、葉子の手へ触れた。

 

 バッグの紐を握りしめていた指を、そっとほどく。

 

「行かねぇよ」

 

 葉子は息を止めた。

 

 彼が手を握った。

 

「俺も、お前が好きだから」

 

「……ほんとに?」

 

「お前と帰りたくて、練習終わるの待ってた日が何回あると思ってんだ」

 

 そんなこと、知らなかった。

 

 いや、待っていたことは知っている。

 

 自分が遅れても、彼はいつもそこにいた。

 

 ただ、その理由を、ちゃんと考えたことがなかった。

 

「相性がいいから、一緒にいるだけかと思ってた」

 

「それだけで、毎回お前の機嫌まで見てられるかよ」

 

「……何よ、それ」

 

「好きだって言ってんの」

 

 葉子は俯いた。

 

 顔が熱かった。

 

 彼の手を、強く握り返す。

 

「じゃあ、ちゃんとアタシの彼氏になりなさいよ」

 

「おう。よろしくな、葉子」

 

 あまりにも嬉しそうに笑うので、余計に顔を見ていられなくなった。

 

*

 

 恋人になったからといって、葉子の独占欲が急に落ち着いたわけではなかった。

 

 むしろ、言ってもいい立場になったぶん、遠慮が減った。

 

「誰かに告白されたら、教えて」

 

「わかった」

 

「二人で出かけようとか誘われたときも」

 

「わかったって」

 

「適当に返事してない?」

 

 彼はつないだ手を少し引き、葉子を近づけた。

 

「彼女がいるって、俺から断る。それでいいだろ」

 

 葉子は、しばらく彼の顔を見ていた。

 

「……誰が彼女なのかも言って」

 

「香取葉子って?」

 

「そう」

 

「自慢していいんだな」

 

 その言い方は、ずるかった。

 

 真面目に念を押していたはずなのに、口元が緩みそうになる。

 

 葉子は顔を背けた。

 

「……好きにすれば」

 

「じゃあ、好きにする」

 

 こういうところだった。

 

 彼は葉子に甘かった。

 

 嫉妬を面倒だと切り捨てることも、重いと笑うこともなかった。

 

 けれど、葉子が勝手に不安を膨らませて刺々しくなり始めると、必ずこちらへ向き直らせた。

 

「他のやつに怖い顔する前に、俺に言えよ」

 

「言ったら?」

 

「聞く。お前に構いたいのは俺も同じだからな」

 

 そんなふうに返されると、もう、怒り続けるのが難しかった。

 

 ある日、彼のスマートフォンを指さしたこともある。

 

「待ち受け、アタシとの写真にしなさいよ」

 

「何で」

 

「誰が見てもわかるように」

 

 彼は一度笑ってから、端末を構えた。

 

「じゃあ撮るぞ」

 

「今?」

 

「今のお前のほうが、さっきの写真よりいい顔してる」

 

 肩を引き寄せられた。

 

 文句を言いかけたところで、撮影の音が鳴る。

 

 画面を見せられると、自分が思っていたよりずっと嬉しそうな顔をしていた。

 

「……もう一回」

 

「これでいいだろ」

 

「アタシにも選ばせて」

 

「はいはい」

 

 結局、彼は最初の一枚を待ち受けにした。

 

 葉子も、同じ写真にした。

 

*

 

 若村に、彼が尋ねられているのを聞いたことがある。

 

「お前、よくあいつとやれるな」

 

 作戦室の扉を開けようとして、葉子は手を止めた。

 

 中から、彼の声が返ってくる。

 

「惚れた弱みってやつだろ」

 

「いや、それにしてもさ……」

 

「まあ、可愛いしな」

 

 葉子は、そこで扉を開けた。

 

 若村が露骨に目を逸らす。

 

 彼だけが、いつもの顔でこちらを見た。

 

「帰るぞ、葉子」

 

「……今、何話してたの」

 

「お前の話」

 

「聞こえてたけど」

 

「じゃあ聞くなよ」

 

 手を差し出される。

 

 葉子はその手を見て、彼の顔を見た。

 

 まだ何か言ってやりたかった。

 

 なのに、指が先に伸びた。

 

 握ると、彼が少し笑った。

 

 その横で華が、何も言わずに端末へ視線を戻す。

 

 葉子は気づいていた。

 

 彼にだけは、機嫌の悪さで押し切れない。

 

 それなのに、そのことが嫌ではない。

 

 自分が何を欲しがっているのか、彼は昔からよく知っていた。

 

 そして、差し出してくれる手を、結局いつも取ってしまう。

 

*

 

 それから、何年も一緒にいた。

 

 高校を卒業し、成人して、それぞれの進路や仕事を決めた。

 

 会える時間が減った時期には喧嘩もしたし、「わかるでしょ」と言って伝えずにいたことが、まったく伝わっていなかった日もある。

 

 それでも、離れる話にはならなかった。

 

 帰りが遅くなるなら連絡する。

 

 会いたいなら、忙しいかどうかを一人で決めつけずに聞く。

 

 どちらかが疲れているときには、もう片方が少し多く動く。

 

 当たり前のことを、何度もやり直して覚えた。

 

 葉子が仕事で落ち込んだ日は、彼が話を聞いた。

 

 彼が熱を出した日は、葉子が冷蔵庫を確かめ、飲み物を置き、布団へ押し戻した。

 

「いいから寝なさい。今日はアタシの言うこと聞いて」

 

「はいはい」

 

「返事だけいいんだから」

 

 そう文句を言いながら、眠るまでそばにいた。

 

 二十代になって結婚の話をしたときも、葉子は、結局まっすぐ言った。

 

「アタシ、あんたと結婚したいんだけど」

 

 彼は少し驚いてから、笑った。

 

「俺もだよ」

 

「……即答?」

 

「何年お前と一緒にいると思ってんだ」

 

 あの日の告白から変わらず、この男は、大事な返事をためらわなかった。

 

 葉子はその肩へ額を寄せた。

 

「じゃあ、これからも一緒ね」

 

「ああ」

 

「ちゃんと、ずっとよ」

 

「わかってる」

 

 結婚式では、華が写真を撮ってくれた。

 

「葉子、もう少しこっち向いて」

 

「向いてるでしょ」

 

「今、彼のほう見てた」

 

 指摘されて、葉子は言い返せなくなった。

 

 隣で彼が笑ったので、腕を軽くつついてやった。

 

 その顔まで、写真に残った。

 

 やがて娘が生まれた。

 

 初めて腕に抱いたとき、葉子はその小ささに驚き、何度も顔を覗き込んだ。

 

「……ねえ、すごく小さい」

 

「ああ」

 

「指、ちゃんと五本ある」

 

「そりゃあるだろ」

 

「わかってるわよ。見たくなっただけ」

 

 小さな手に触れると、指が握られた。

 

 葉子は黙った。

 

 隣で彼も黙った。

 

 しばらくして顔を見合わせると、二人とも同じような顔をしていて、思わず笑った。

 

*

 

「ママ、これなに?」

 

 娘の声で、葉子は写真から顔を上げた。

 

 膝の上の娘が、昔の隊服を指さしている。

 

「ボーダーにいたときの服よ」

 

「パパとおそろい?」

 

「隊のみんなでね」

 

 夫が別の写真をめくっていた。

 

「お前、この頃ほんと尖ってたよな」

 

「まだ言う?」

 

「華に注意されて、麓郎と言い合って、雄太が間に入って」

 

「はいはい。悪かったわね」

 

「俺には『遅い』『見てた?』『待ってなさいよ』」

 

「それは、あんたも悪かったことあるでしょ」

 

「あるな」

 

 素直に認められると、続けて怒る気がなくなる。

 

 そこも昔と同じだった。

 

 娘が葉子の顔を見上げた。

 

「ママ、パパにおこってたの?」

 

 夫が口を開きかける。

 

 葉子は先に、その膝を軽く叩いた。

 

「ちょっと待って」

 

 それから娘へ顔を向け、声を柔らかくした。

 

「パパともっと一緒にいたかったのよ。上手に言えなかっただけ」

 

 娘は、少し考えていた。

 

 やがて納得したようにうなずく。

 

「じゃあ、だいすきだったんだね」

 

 夫が、こらえきれずに笑った。

 

 葉子は彼を睨んだ。

 

 けれど娘には、うなずいて答えた。

 

「……そうよ」

 

 その返事を聞いて、夫の笑い方が少し変わった。

 

 からかう顔から、ただ嬉しそうな顔になる。

 

 葉子は、そちらのほうがずっと困った。

 

*

 

 娘がテーブルのコップへ手を伸ばした。

 

 写真を持ったままだったので、指先が横へ引っかかる。

 

 コップが傾いた。

 

 葉子がすぐに受け止める。

 

 少しだけこぼれた飲み物が広がる前に、夫が写真を持ち上げ、近くにあった布巾を差し込んだ。

 

 どちらも、声をかけるより先に動いていた。

 

 娘が手を止める。

 

「……こぼしちゃった」

 

 葉子はコップを置き直し、小さな指を拭いた。

 

「うん。大丈夫。次は写真を置いてから持とうね」

 

「ごめんなさい」

 

「ちゃんと言えたじゃん。はい、手見せて」

 

 両手を確かめ、濡れていないほうの袖を直してやる。

 

 娘が安心してまた膝へ寄りかかると、葉子はその髪を撫でた。

 

 夫がこちらを見ていた。

 

「何よ」

 

「いや。昔の麓郎に見せてやりてぇなと思って」

 

「アタシを何だと思ってたわけ」

 

「すぐ怒る隊長」

 

「……否定はできないけど」

 

 言いながら、葉子も少し笑った。

 

 毎日、穏やかでいられるわけではない。

 

 急いでいる朝には声が強くなるし、片づけたそばから散らかされれば、ため息も出る。

 

 けれど、目の前の子が困っていれば、どうしたのか聞きたくなる。

 

 失敗を見たら、次はどうすればいいか、一緒にやってみたくなる。

 

 そうしているうちに、自分でも驚くほど、待てることが増えていた。

 

 夫が布巾を片づけながら言った。

 

「さっきの連携、まだいけるな」

 

「当たり前でしょ。何年組んでると思ってんの」

 

「俺が写真どかすって、見てたか?」

 

「見なくてもわかるわよ」

 

 答えると、彼が笑った。

 

 葉子もつられて笑った。

 

 昔は、それで敵を倒していた。

 

 今は、娘と写真を濡らさずに済んだ。

 

 どちらも、自分にとっては十分に大事なことだった。

 

*

 

「……あ」

 

 箱の中からもう一枚取り出した葉子は、そこで手を止めた。

 

 同じ日に撮った写真だった。

 

 さっきの一枚と、ほんの少しだけ構図が違う。

 

 華と雄太と麓郎はカメラを見ている。

 

 葉子は、何か文句を言いかけた顔をしていた。

 

 その隣で、彼だけが、カメラを見ていなかった。

 

 葉子を見ていた。

 

 少し口元を緩めて、目つきの悪い幼馴染を、ずいぶん優しい顔で眺めている。

 

 葉子は写真を夫へ向けた。

 

「……あんたこそ、何よ。この顔」

 

 彼が覗き込む。

 

 今度は、葉子のほうが笑う番だった。

 

「みんなカメラ見てるのに。どこ見てんの?」

 

 娘にも写真を見せた。

 

「パパ、誰見てる?」

 

「ママ!」

 

「そうよねえ」

 

 夫が、少しだけ口元を押さえた。

 

 葉子は満足した。

 

 さっきから、散々からかわれたのだ。

 

 一つくらい、やり返したっていい。

 

「このとき、まだ付き合ってなかったわよね?」

 

「ああ」

 

「そんなに好きだったんだ」

 

 言ってみると、夫は写真から顔を上げた。

 

「好きだったよ」

 

 葉子が止まる。

 

 彼は、そのまま続けた。

 

「今も好きだけど」

 

「……今、それ言う?」

 

「お前が聞いたんだろ」

 

 また、こうなる。

 

 こっちが優位に立ったと思うと、少しも照れずに本当のことを言ってくる。

 

 葉子は写真を膝へ下ろした。

 

 娘を抱いていなければ、彼の肩へ顔を埋めていたと思う。

 

「ほんと、あんたって……」

 

「何だよ」

 

「昔から、アタシの扱いが上手いわよね」

 

 夫が笑った。

 

「惚れた弱みだって、言ったろ」

 

 葉子は、その手を取った。

 

「それ、弱みって言うの?」

 

「言うんじゃねぇの。お前に頼まれると、結局嬉しくなるし」

 

 彼の指へ、自分の指を絡めた。

 

 娘が二人の手を見て、その上へ小さな手を乗せてくる。

 

 三人で顔を見合わせ、笑った。

 

*

 

 片づけは、予定よりずっと長引いた。

 

 昔の写真をめくっているうちに、娘が今の写真も撮りたいと言い出したからだ。

 

 夫がスマートフォンを立てかけ、撮影の準備をする。

 

 葉子は娘の髪を直し、自分の前髪につけていたクリップを外した。

 

「そこまで気にしなくても、可愛いぞ」

 

「気にするの。昔の写真みたいに、後からずっと言われたくないから」

 

「今のお前、あの顔できねぇだろ」

 

「できるわよ」

 

 睨んでみせると、娘が笑った。

 

「ママ、ぜんぜんこわくない!」

 

 夫も笑う。

 

 葉子は、とうとう自分でも笑ってしまった。

 

 三人で並んで座る。

 

 娘を真ん中に入れ、夫が肩へ腕を回してきた。

 

 画面の数字が減り始める。

 

 その間に葉子は、娘の背中の後ろで、そっと夫の服をつかんだ。

 

 彼がこちらを見る。

 

 葉子は少しだけ顔を寄せた。

 

「……あんたの隣、やっぱりアタシの場所ね」

 

「今さら確認すんなよ」

 

 小さく返され、肩を抱く腕に力がこもる。

 

「ずっと、そうだろ」

 

 撮影の音が鳴った。

 

 確認した写真では、娘がカメラへ満面の笑顔を向けていた。

 

 葉子は、夫を見ていた。

 

 彼も、葉子を見ていた。

 

 昔のように睨んでいる顔は、一つもなかった。

 

「……もう一回撮る?」

 

 夫が聞いた。

 

 葉子は画面を眺め、それから首を振った。

 

「いい。これがいい」

 

 そして、彼の肩へ当たり前のように寄りかかった。

 

「待ち受け、これに変えてよ」

 

「誰が見てもわかるように?」

 

 昔の言葉を返される。

 

 葉子は少し目を細め、それでも、ごまかさなかった。

 

「そう」

 

 娘を抱き寄せながら、夫の腕にも自分の腕を絡める。

 

「アタシの旦那だって、ちゃんとわかるように」

 

 夫は笑って、すぐに画面を操作した。

 

 変わった待ち受けを見せられると、葉子は満足してうなずいた。

 

 その頬へ、夫が短く口づける。

 

「これでいいか、隊長」

 

 葉子は一瞬だけ昔のように睨みかけて、それから、嬉しそうに笑った。

 

「……合格」

 

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