好きなキャラの短編集 作:チーズと唐揚げ、そしてハンバーグ
『Fate/Grand Order』のリリスが、独自設定の亜種聖杯戦争にバーサーカーとして召喚される短編です。転生したオリ主との再会から、戦いを終えて家族になるまでを描きます。
召喚陣の向こうで、風が渦を巻いた。
地下工房の蝋燭が一斉に消える。割れた天窓から入っていた月明かりまで薄れ、白く輝く魔法陣だけが床に残った。
その中心に、人影が立っていた。
見覚えのあるフード。
少し気だるげな立ち方。
顔を上げたときの、相手を試すような目。
俺は、詠唱を終えた口を閉じることも忘れていた。
「……リリス?」
人影が動きを止めた。
それから、こちらを見る目が変わった。
「え」
たった一音だった。
軽い挨拶も、召喚に応じたという名乗りもなかった。
彼女は俺を見つめたまま、ゆっくりと一歩踏み出した。
「……アンタ、なの?」
俺はうなずいた。
何を答えればいいのかわからなかった。
顔は違う。
声だって、前世とは同じではない。
この世界で魔術師の家に生まれ、二十四年を生きてきた俺を、彼女が知っているはずはなかった。
それなのに、リリスが次に口にしたのは、この世界では一度も使ったことのない名前だった。
前世で、ゲームの中の自分につけていた名前。
俺の喉から、変な息が漏れた。
「覚えて……」
「覚えてるよ」
リリスは、まだ少し驚いた顔をしていた。
けれど、口元だけはいつものように笑おうとしていた。
「アテシにあれだけ聖杯つぎ込んだ人、そう簡単に忘れないって」
目の奥が熱くなった。
毎日見ていた。
素材を集め、少しずつ強くして、難しい戦いにも連れていった。
ただの画面だったはずの、その向こうにいた相手。
もう二度と会えないと思っていた彼女が、今、俺の名前を呼んでいる。
手を伸ばすと、リリスも手を伸ばした。
指先が触れた。
そのまま握った。
「……本当に、お前なんだな」
「そういうアンタこそ」
彼女の指に力が入った。
「急にいなくなっといて、別の世界から呼ぶとかさ。びっくりするじゃん、普通」
「悪い」
「ほんとだよ」
それでも、彼女は手を離さなかった。
俺が引き寄せるより先に、リリスのほうから一歩近づいてきた。
肩へ額が触れる。
俺は、その背中へ腕を回した。
「会いたかった」
ようやく、それだけ言えた。
しばらくして、服をつかむ指が強くなった。
「……うん」
耳元の声は、いつもより小さかった。
「アテシも」
その直後、工房の外壁が吹き飛んだ。
幸福な再会に浸っていられたのは、一分にも満たなかった。
飛来した矢が、頭のあった場所を貫く。
リリスに引き倒されなければ、俺はそこで二度目の人生を終えていた。
「伏せて!」
風が走った。
崩れ落ちてきた石材が軌道を変え、工房の床へ叩きつけられる。リリスは俺を背後へ押しやり、天窓の向こうを見上げた。
さっきまでの再会を喜ぶ顔は、もうそこになかった。
「……なるほど。歓迎会にしては殺意が高いね」
俺は立ち上がり、壁際の術式へ手をついた。
地下通路の封印を解く。
「悪い。最悪なところに呼んだ」
「説明、走りながら聞く」
リリスがこちらを振り返った。
「今度はちゃんと、一緒に来てよね」
巻き込まれたのは、まともな聖杯戦争ではなかった。
令呪が現れたときには、すでに都市の霊脈へ組み込まれていた。勝手に戦域を離れれば、魔術回路を焼かれる。儀式から降りる道も、主催者は用意していなかった。
参加者を材料の一部として扱う、悪趣味な亜種儀式だった。
俺の家は、魔術師として抜きん出た名門ではない。
それでも工房と土地と、代々蓄えてきた魔術資産くらいは持っていた。平穏に研究を続け、必要な仕事を引き受けていれば、それなりに暮らしていけるはずだった。
そこへ突然、殺し合いの順番が回ってきた。
触媒を選ぶ余裕すらなかった。
工房を囲む気配に気づき、家に残っていた召喚の記録を使い、何でもいいから応えてくれと願った。
そうして来たのが、彼女だった。
最初の夜、俺たちは逃げた。
リリスが敵の射線を逸らしている間に地下通路へ入り、途中の結界を閉じる。その奥から、一画目の令呪で彼女を呼び戻した。
赤い光が手の甲から消え、目の前にリリスが現れたとき、俺はようやく息を吐いた。
彼女も壁にもたれ、長く息をつく。
「あー……初日から飛ばしすぎ」
「俺もそう思う」
「もうちょっとさ、感動の再会の続きとか、やることあったでしょ」
「生き残ったら、いくらでも付き合う」
リリスがこちらを見た。
薄暗い通路の中で、その目だけが妙にはっきりしていた。
「……言ったね?」
「ああ」
「じゃ、それ。ちゃんと覚えとく」
前世の知識が、そのまま勝利をくれるわけではなかった。
敵の真名がわからなければ、知っている英雄の弱点を並べても意味がない。
相手は決まった順番で攻撃してくれないし、こちらが考え終わるまで待ってもくれない。
リリスの力も、ボタンを押せば都合よく取り出せるものではなかった。
魔力が要る。
距離が要る。
敵の注意を引きつけ、彼女が力を通せる瞬間を作らなければならない。
何より、目の前にいる彼女は、自分で考え、判断し、傷つく一人の存在だった。
「右から行けるか?」
俺が聞くと、リリスは夜の通りへ目を向けた。
そのときは、フードを外した第二再臨の姿だった。
「行ける。でも、向こうもそれ待ってる」
「じゃあ、左か」
「上」
彼女が口元を上げた。
「アンタがあの灯りを落として。暗くなった瞬間に、アテシが動く」
俺は向かいの建物を見た。
電灯の位置。
屋根の高さ。
路地へ落ちる影。
彼女の指示で、景色の見え方が変わった。
「わかった」
「いい返事」
その夜、俺たちは初めて敵を退けた。
俺が結界と使い魔で相手の目を逸らし、リリスが風を受けて屋根を渡る。
敵がこちらを見失った短い間に距離を詰め、闇を差し込む。
勝負が決まるまでに必要だったのは数秒だったが、その数秒を作るために、半日を使った。
それからは、二人で考えるようになった。
俺は街の魔力の流れを調べ、退路を作り、家に伝わる蓄積用の宝石を切り崩した。
リリスは相手の癖を見抜き、偽りの気配を見分け、俺が見落とした危険を指さした。
必要に応じて、彼女は自分で再臨の姿を変えた。
第三再臨の、落ち着いた女性の姿で術式を見つめていたかと思えば、隠れ家へ戻る頃には、第一再臨のフードをかぶっている。
「……何だよ」
見ていると、彼女が笑った。
「こっちのほうが、アンタの気ぃ抜ける顔が見られるかなって」
「どの姿でも、お前が無事なら気は抜けるよ」
リリスは、一瞬だけ黙った。
それから俺の肩を軽く小突いた。
「そういうの、さらっと言うじゃん」
どの姿でも、彼女だった。
声の調子が変わっても、俺の疲れを見つける目は同じだった。
隠れ家の台所には、二つのマグカップがあった。
近くの店で買った、何の変哲もないものだった。
夜を越えて戻ってくると、俺は湯を沸かした。
リリスが地図を広げ、その隣へカップを置く。飲み物が冷める頃まで、次の手を話し合った。
ときどき、戦争以外の話もした。
俺がこの世界でどんなふうに育ったのか。
彼女のいなかった年月に、何をしていたのか。
前世で育成素材が足りず、何度も同じ場所へ連れていったことまで蒸し返された。
「よく付き合ってくれたよな」
「ほんとだよ。あれ、アンタのほうが先に飽きるかと思った」
「お前を強くしたかったからな」
「……知ってる」
その返事だけ、少し静かだった。
ある朝、俺は帰りに買ったアップルパイを皿へ乗せた。
リリスはそれを見て、少しだけ目を輝かせた。
「お。いいもの持ってる」
「今日はこれで勘弁してくれ。勝ったら、もっとちゃんとした店のを食おう」
彼女は一口食べ、考えるように首を傾けた。
「カスタード、もっと欲しい」
「覚えとく」
「ちゃんと覚えて。こういう約束、大事だから」
俺は笑った。
その頃には、戦争の後にやりたいことが、少しずつ増えていた。
パイを食べる。
明るい道を、敵の気配を探さずに歩く。
買い物をする。
同じ家へ帰る。
ただ、それを言葉にするたび、胸のどこかで引っかかるものがあった。
この戦争が終わったら、彼女はどうなる。
勝っても、また別れなければならないのか。
俺はまだ、その答えを彼女へ話せずにいた。
二画目の令呪を使ったのは、戦いの中盤だった。
仕掛けられた結界へ踏み込み、俺たちは分断された。
何とか術式を破って合流したとき、リリスは立っていた。
立っていたが、傷を隠せていなかった。
俺を見るなり笑おうとした、その口元が途中で止まる。
「……マスター。ちょっと、まずいかも」
俺は迷わず、令呪を魔力へ変えて彼女へ流し込んだ。
手の甲が焼ける。
身体の奥から力を引き抜かれる感覚に、膝が落ちそうになった。
リリスの手が、俺の腕をつかんだ。
「もういい。アンタまで倒れる」
「まだ足りねぇだろ」
「足りるように使う」
彼女は、強く言った。
「だから、ここからはアテシに任せて」
俺は歯を食いしばり、うなずいた。
その夜も、二人で帰った。
隠れ家の床に座り込んだまま、しばらくどちらも動けなかった。
やがてリリスが、俺の手を取った。
残った令呪は、一画だけだった。
「……もったいない使い方」
「お前を帰らせるために使ったんだ。上出来だろ」
「切り札、減ったよ」
「お前がいなきゃ、切る相手もいねぇよ」
リリスは黙った。
握られた手に、少しずつ力がこもる。
そのまま、肩へ頭が寄ってきた。
俺は空いている腕を回した。
どちらも、しばらく何も言わなかった。
台所には、洗っていない二つのカップが残っていた。
それを見ながら、俺は決めた。
聖杯に何を願うか。
もう、迷う余地はなかった。
最後に残ったのは、セイバーの陣営だった。
正面からは、届かなかった。
鋭い剣と、強固な守り。
リリスが呪いを差し込もうとしても、相手を包む加護に弾かれる。こちらが力を使うたび、俺の魔術回路は熱を持ち、息が浅くなった。
だから、最後の戦いにも準備が必要だった。
敵が利用している魔力の供給路を調べ、儀式場の外周へ細い術式を潜り込ませた。
一度しか使えない。
起動すれば、相手にも気づかれる。
俺がそれを切り替え、敵の守りがわずかに乱れる間に、リリスが決める。
二人で立てた作戦は、それだけだった。
決戦の夜、リリスは第三再臨の姿を選んだ。
大きな翼が、闇の中へ広がる。
彼女は俺の前へ立ち、静かに振り返った。
「準備は?」
「できてる」
「無理をしすぎないこと。倒れられると、帰り道で困ります」
「お前もな」
「承知しています」
彼女は微笑んだ。
その余裕が、本物だけでできていないことを、俺はもう知っていた。
だから手を伸ばし、一度だけ、その指を握った。
「一緒に帰るぞ」
リリスは、握り返した。
「ええ。二人で」
戦いは、長くなかった。
長くはなかったが、一瞬ごとに、もう駄目かもしれないと思った。
セイバーの剣が石床を裂く。
リリスが風を巻き、刃を逸らす。
俺は瓦礫の陰を移りながら、潜ませていた術式をつないだ。
相手のマスターもこちらの狙いに気づき、魔術を飛ばしてくる。
肩を焼かれた。
手にしていた宝石が一つ砕けた。
それでも、最後の線はつながった。
「リリス!」
彼女が、こちらを見ずにうなずいた。
俺は術式を起動した。
儀式場へ流れていた魔力が、一拍だけ乱れる。
セイバーが踏み込もうとした。
リリスは退かなかった。
「最後の令呪を。今です」
俺は手を伸ばした。
残っていた赤い紋様が、強く輝いた。
「撃ち抜け、リリス!」
彼女の足元に、闇が広がった。
風が止まる。
一瞬だけ、世界から音が抜けた。
「──『虚妄は闇の娘』」
黒い奔流が、騎士の守りを呑み込んだ。
俺はその先を、最後まで見ていられなかった。
力が抜けて膝をつき、倒れかけた身体を、片手で支える。
耳鳴りがした。
口の中に血の味があった。
やがて、足音が近づいた。
「……マスター」
顔を上げる。
リリスが立っていた。
傷ついていた。
ひどく疲れた顔をしていた。
それでも、立っていた。
「勝ちましたよ」
その言葉を聞いて、俺はしばらく動けなかった。
やっと伸ばした手を、彼女が取る。
「立てますか?」
「……今は、ちょっと無理」
「そうですか」
リリスは俺の隣へ座り込んだ。
「奇遇ですね。私も、これ以上は格好をつけられません」
思わず笑った。
笑うと傷が痛んだ。
彼女も、少しだけ笑っていた。
現れた聖杯は、静かだった。
膨大な魔力が、形を持ってそこにあった。
この亜種儀式では、最後まで残った一組に願望機が開かれる。
俺たちを縛っていた呪いは解け、都市の霊脈も落ち着き始めていた。
勝ったのだ。
本当に。
リリスが、俺の隣へ立った。
「それで?」
彼女は聖杯を見つめたまま言った。
「何を願うのですか、マスター」
俺は彼女を見た。
「お前の受肉」
リリスが動きを止めた。
こちらへ顔を向けるまでに、少し時間がかかった。
「……私の?」
「ああ」
「ほかにも、叶えられることはありますよ」
「考えた」
俺はうなずいた。
「そのうえで、お前に、ここにいてほしい」
リリスは、じっと俺を見ていた。
その目から、いつもの余裕が少しずつ消えていく。
「サーヴァントとしてなら、私は十分、あなたの役に立ちました」
「知ってる」
「けれど、戦いが終わった後まで……」
「戦いが終わった後が欲しいんだよ」
俺は彼女の手を取った。
もう令呪のない手だった。
「お前と飯を食いたい。買い物もしたい。眠い朝に、どっちが先に起きるかで揉めたりもしたい」
言葉にすると、どれも驚くほど小さな願いだった。
それなのに、俺には、何より欲しいものだった。
「一緒に暮らしたいんだ、リリス」
彼女の指が動いた。
俺の手を、確かめるように握る。
「……それは、随分と長い話になりますね」
「ああ。長くしたい」
「私が、どんなものか知っていて?」
「知ってる。知らないところは、これから教えてくれ」
リリスは目を伏せた。
長い沈黙ではなかった。
けれど俺は、返事が来るまで、何も言わずに待った。
やがて、彼女が顔を上げた。
「私も」
声が、わずかに揺れていた。
「あなたの隣で、生きていたい」
握った手に、力がこもった。
「次の戦いのためではなく、明日もここにいるために」
俺は息を吐いた。
ずっと詰めていたものが、ようやくほどけた気がした。
「じゃあ、帰ろう」
「ええ」
リリスは、少しだけ笑った。
「……今度は、本当に」
俺は聖杯へ向き直った。
願った。
目の前にいる、このリリスが。
彼女自身の心も、記憶も、選んだ意思も、そのままに。
召喚契約が終わっても生きていける、確かな身体を得ることを。
光が収まった後、リリスはまだ、そこにいた。
受肉に選んだのは、第三再臨の、成熟した女性としての姿だった。
俺と彼女を結んでいた魔力の経路が、静かにほどけていく。
供給が止まった。
それでも、彼女の輪郭は薄れなかった。
リリスは自分の手を見つめ、それから、ゆっくりと指を曲げた。
俺の手を握る。
触れる温かさは、さっきまでと同じだった。
けれど、もう、この戦争の終わりを理由に失われるものではなかった。
「……ここに、いますね」
彼女が言った。
「ああ」
「終わったのに」
「ああ」
俺は、その手を両手で包んだ。
リリスが、顔を上げる。
初めて見るほど、無防備な表情だった。
「あなたと、帰っていいのですね」
「当たり前だろ」
引き寄せると、彼女も腕を回した。
戦いの間、何度も支え合った身体だった。
その重みを、今度はゆっくり受け止められた。
「……ありがとう」
肩のそばで、声がした。
俺は首を振った。
「俺の願いを叶えてもらったんだよ」
リリスが少し身体を離した。
頬に手が触れる。
それから、彼女のほうから口づけてきた。
離れた後も、額は近いままだった。
「でしたら」
彼女は、涙の残る目で笑った。
「叶えたことを、ずっと喜んでもらいましょう」
戦後の後始末を終えて、俺たちは郊外の家へ移った。
家の資産は、すべてを戦争で失ったわけではなかった。
傷ついた工房は直す必要があったが、暮らす家も、当面の蓄えも残っていた。
門を開け、庭を抜けて玄関へ向かうと、リリスが建物を見上げた。
「……マスター」
「何だ?」
「隠れ家の、あの狭い部屋は何だったのです?」
「場所が知られてる家に、のんびり帰れなかったんだよ」
「なるほど。私、あの台所が標準なのかと思っていました」
彼女は振り返り、少し楽しそうに笑った。
「では、カップを置く場所には困りませんね」
荷物の中には、あの二つのマグカップがあった。
捨てる理由が、どちらにもなかった。
俺たちは結婚した。
大きな式にはしなかった。
互いの意思を確かめ、指輪を交換し、その日の夕食を一緒に食べた。
リリスは何度も、自分の指を見ていた。
「気になるか」
「ええ」
彼女は隠さず答えた。
「戦いに必要のないものを、あなたからもらうのが、こんなに嬉しいとは思いませんでした」
俺はその手を取った。
指輪のある指へ、そっと触れる。
「これから増えるぞ」
「楽しみにしています」
そう言って、彼女は俺の肩へ頭を預けた。
暮らしは、少しずつできていった。
俺は工房で研究を続け、魔術に関わる鑑定や修復の依頼を引き受けた。家に入る収益と合わせれば、家族で困らずに暮らすには十分だった。
リリスは、この街で好きな店を見つけた。
散歩に向いた道を覚え、庭に植えるものを選び、買ってきた菓子の感想を、妙に真剣な顔で語った。
意見が合わない日もあった。
食卓で互いに黙って、結局どちらかが先に話しかけることもあった。
それでも、翌日にも同じ家にいた。
そのことが、何度でも嬉しかった。
結婚して数年後、娘が生まれた。
リリスが初めて抱いたとき、俺はすぐ隣にいた。
彼女は小さな顔を、長い間見つめていた。
いつもの、相手の内側まで見通そうとする目ではなかった。
少し困って、少し驚いて、どうしようもなく離れがたそうな目だった。
「……私の指を、離しません」
「気に入ったんだろ」
「まだ、会ったばかりなのに」
「わかるんじゃねぇの。母親だって」
リリスが俺を見た。
それから、もう一度娘を見る。
小さな手に握られている指を、そっと動かした。
「そうですか」
声が柔らかくなった。
「では、しばらくこのままで」
彼女の肩へ腕を回すと、リリスは少しだけこちらへ寄りかかった。
数年後には、息子も生まれた。
静かだった家に、走る足音が増えた。
二人分だったカップの隣へ、小さな持ち手のついたものが二つ並んだ。
俺の書斎には、魔術書に混じって子どもの描いた絵が置かれるようになった。
リリスの膝には、しばしば誰かが座っていた。
そして彼女は、子どもたちが眠る前になると、その日の話を聞いた。
何ができたのか。
何が悔しかったのか。
明日は、何をしたいのか。
夜の魔女と呼ばれた彼女が、暗くした子ども部屋で、眠くなるまで話に付き合っている。
その声を廊下で聞くたび、俺は足を止めた。
聖杯に願ったときには、まだ知らなかった声だった。
休日の午後、台所から甘い匂いが流れてきた。
娘が椅子の上で背筋を伸ばし、息子が待ちきれずにテーブルの縁をつかんでいる。
リリスは焼き上がったパイを置き、二人を見た。
「先に言っておきますが、まだ熱いですよ」
「ちょっとだけ」
息子が言う。
「その『ちょっと』で毎回慌てるのは、誰でしょうね」
「……ぼく」
「よく覚えていました」
俺が笑うと、リリスがこちらへ目を向けた。
「あなたも、です」
「俺までか」
「前回、同じことをしていました」
否定できなかった。
皿を並べ、パイを切り分ける。
娘の口元に、いつの間にかカスタードがついていた。
リリスはそれを見つけ、目を細めた。
「味見、しましたね?」
娘が黙る。
息子が姉を見る。
俺は何も言わず、布巾を差し出した。
リリスは受け取り、娘の口元を拭いた。
「おいしかった?」
娘が小さくうなずく。
それを見て、リリスも笑った。
「なら、みんなで食べるときにも、教えてください」
娘の顔が明るくなった。
俺は隣の椅子を引き、リリスが座るのを待った。
彼女は腰を下ろしてから、テーブルの上をゆっくり見た。
四枚の皿。
四つのカップ。
さっきから途切れずに話している子どもたち。
そして、俺。
「……何だ?」
見つめられて、聞いた。
リリスはすぐには答えなかった。
指輪をした手が、テーブルの下で俺の手に触れる。
「約束を、思い出していました」
「パイの?」
「ええ。勝ったら、一緒に食べようと」
「あったな」
「私、あのときは、二人分しか想像していませんでした」
俺は子どもたちを見た。
娘が、自分の皿の大きさと弟の皿を比べている。
息子はそれに気づかず、ようやく食べられた一口に夢中だった。
「増えたな」
「随分と」
リリスの声に笑みが混じった。
俺は、触れていた手を握った。
「聖杯に願ったときも、ここまではわからなかったよ」
「後悔は?」
彼女が、ほんの少しだけ悪戯っぽい顔をした。
俺は答える前に、その手を引き寄せた。
指先へ口づける。
「するわけねぇだろ」
リリスの目が、柔らかく細まった。
「よろしい」
その言い方が可笑しくて、俺は笑った。
彼女も笑った。
しばらくして、子どもたちが庭へ出ていった。
窓の向こうで、娘が弟を呼んでいる。
リリスは俺の隣へ椅子を寄せ、肩へ頭を預けた。
「ねえ、マスター」
「まだその呼び方するのか」
「慣れていますので」
「まあ、いいけど」
「……それに」
彼女が少し顔を上げた。
「あなたをそう呼んだところから、ここまで来たでしょう?」
俺は、言葉を失った。
地下工房の召喚陣。
伸ばした手。
夜を越えて戻った、狭い台所。
最後の令呪が消えた手で、彼女の手を取ったこと。
その全部の先に、今、この家があった。
リリスが俺の頬へ触れた。
「呼んでくれて、ありがとう」
声は静かだった。
「そして、帰る場所まで、一緒に作ってくれて」
俺は彼女を抱き寄せた。
「来てくれて、ありがとう」
リリスの腕が、背中へ回る。
その温もりを感じながら、窓の外へ目を向けた。
娘がこちらに気づき、手を振った。
息子も真似をして、大きく腕を上げる。
「お母さん! お父さんも来て!」
リリスが顔を上げた。
「呼ばれましたね」
「ああ」
俺たちは立ち上がった。
リリスは歩き出す前に、俺の手を取った。
あの日、召喚陣の向こうから伸びてきた手。
今は、指輪が光っていた。
「行きましょうか」
俺は握り返した。
「おう」
庭の扉を開けると、明るい風が入ってきた。
子どもたちが駆け寄ってくる。
リリスは俺の手を一度だけ強く握ってから、二人を迎えるために腕を広げた。