好きなキャラの短編集   作:チーズと唐揚げ、そしてハンバーグ

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『Fate/Grand Order』のリリスが、独自設定の亜種聖杯戦争にバーサーカーとして召喚される短編です。転生したオリ主との再会から、戦いを終えて家族になるまでを描きます。


願いの、その後(Fate/Grand Order、リリス)

 

 

 召喚陣の向こうで、風が渦を巻いた。

 

 地下工房の蝋燭が一斉に消える。割れた天窓から入っていた月明かりまで薄れ、白く輝く魔法陣だけが床に残った。

 

 その中心に、人影が立っていた。

 

 見覚えのあるフード。

 

 少し気だるげな立ち方。

 

 顔を上げたときの、相手を試すような目。

 

 俺は、詠唱を終えた口を閉じることも忘れていた。

 

「……リリス?」

 

 人影が動きを止めた。

 

 それから、こちらを見る目が変わった。

 

「え」

 

 たった一音だった。

 

 軽い挨拶も、召喚に応じたという名乗りもなかった。

 

 彼女は俺を見つめたまま、ゆっくりと一歩踏み出した。

 

「……アンタ、なの?」

 

 俺はうなずいた。

 

 何を答えればいいのかわからなかった。

 

 顔は違う。

 

 声だって、前世とは同じではない。

 

 この世界で魔術師の家に生まれ、二十四年を生きてきた俺を、彼女が知っているはずはなかった。

 

 それなのに、リリスが次に口にしたのは、この世界では一度も使ったことのない名前だった。

 

 前世で、ゲームの中の自分につけていた名前。

 

 俺の喉から、変な息が漏れた。

 

「覚えて……」

 

「覚えてるよ」

 

 リリスは、まだ少し驚いた顔をしていた。

 

 けれど、口元だけはいつものように笑おうとしていた。

 

「アテシにあれだけ聖杯つぎ込んだ人、そう簡単に忘れないって」

 

 目の奥が熱くなった。

 

 毎日見ていた。

 

 素材を集め、少しずつ強くして、難しい戦いにも連れていった。

 

 ただの画面だったはずの、その向こうにいた相手。

 

 もう二度と会えないと思っていた彼女が、今、俺の名前を呼んでいる。

 

 手を伸ばすと、リリスも手を伸ばした。

 

 指先が触れた。

 

 そのまま握った。

 

「……本当に、お前なんだな」

 

「そういうアンタこそ」

 

 彼女の指に力が入った。

 

「急にいなくなっといて、別の世界から呼ぶとかさ。びっくりするじゃん、普通」

 

「悪い」

 

「ほんとだよ」

 

 それでも、彼女は手を離さなかった。

 

 俺が引き寄せるより先に、リリスのほうから一歩近づいてきた。

 

 肩へ額が触れる。

 

 俺は、その背中へ腕を回した。

 

「会いたかった」

 

 ようやく、それだけ言えた。

 

 しばらくして、服をつかむ指が強くなった。

 

「……うん」

 

 耳元の声は、いつもより小さかった。

 

「アテシも」

 

 その直後、工房の外壁が吹き飛んだ。

 

*

 

 幸福な再会に浸っていられたのは、一分にも満たなかった。

 

 飛来した矢が、頭のあった場所を貫く。

 

 リリスに引き倒されなければ、俺はそこで二度目の人生を終えていた。

 

「伏せて!」

 

 風が走った。

 

 崩れ落ちてきた石材が軌道を変え、工房の床へ叩きつけられる。リリスは俺を背後へ押しやり、天窓の向こうを見上げた。

 

 さっきまでの再会を喜ぶ顔は、もうそこになかった。

 

「……なるほど。歓迎会にしては殺意が高いね」

 

 俺は立ち上がり、壁際の術式へ手をついた。

 

 地下通路の封印を解く。

 

「悪い。最悪なところに呼んだ」

 

「説明、走りながら聞く」

 

 リリスがこちらを振り返った。

 

「今度はちゃんと、一緒に来てよね」

 

*

 

 巻き込まれたのは、まともな聖杯戦争ではなかった。

 

 令呪が現れたときには、すでに都市の霊脈へ組み込まれていた。勝手に戦域を離れれば、魔術回路を焼かれる。儀式から降りる道も、主催者は用意していなかった。

 

 参加者を材料の一部として扱う、悪趣味な亜種儀式だった。

 

 俺の家は、魔術師として抜きん出た名門ではない。

 

 それでも工房と土地と、代々蓄えてきた魔術資産くらいは持っていた。平穏に研究を続け、必要な仕事を引き受けていれば、それなりに暮らしていけるはずだった。

 

 そこへ突然、殺し合いの順番が回ってきた。

 

 触媒を選ぶ余裕すらなかった。

 

 工房を囲む気配に気づき、家に残っていた召喚の記録を使い、何でもいいから応えてくれと願った。

 

 そうして来たのが、彼女だった。

 

 最初の夜、俺たちは逃げた。

 

 リリスが敵の射線を逸らしている間に地下通路へ入り、途中の結界を閉じる。その奥から、一画目の令呪で彼女を呼び戻した。

 

 赤い光が手の甲から消え、目の前にリリスが現れたとき、俺はようやく息を吐いた。

 

 彼女も壁にもたれ、長く息をつく。

 

「あー……初日から飛ばしすぎ」

 

「俺もそう思う」

 

「もうちょっとさ、感動の再会の続きとか、やることあったでしょ」

 

「生き残ったら、いくらでも付き合う」

 

 リリスがこちらを見た。

 

 薄暗い通路の中で、その目だけが妙にはっきりしていた。

 

「……言ったね?」

 

「ああ」

 

「じゃ、それ。ちゃんと覚えとく」

 

*

 

 前世の知識が、そのまま勝利をくれるわけではなかった。

 

 敵の真名がわからなければ、知っている英雄の弱点を並べても意味がない。

 

 相手は決まった順番で攻撃してくれないし、こちらが考え終わるまで待ってもくれない。

 

 リリスの力も、ボタンを押せば都合よく取り出せるものではなかった。

 

 魔力が要る。

 

 距離が要る。

 

 敵の注意を引きつけ、彼女が力を通せる瞬間を作らなければならない。

 

 何より、目の前にいる彼女は、自分で考え、判断し、傷つく一人の存在だった。

 

「右から行けるか?」

 

 俺が聞くと、リリスは夜の通りへ目を向けた。

 

 そのときは、フードを外した第二再臨の姿だった。

 

「行ける。でも、向こうもそれ待ってる」

 

「じゃあ、左か」

 

「上」

 

 彼女が口元を上げた。

 

「アンタがあの灯りを落として。暗くなった瞬間に、アテシが動く」

 

 俺は向かいの建物を見た。

 

 電灯の位置。

 

 屋根の高さ。

 

 路地へ落ちる影。

 

 彼女の指示で、景色の見え方が変わった。

 

「わかった」

 

「いい返事」

 

 その夜、俺たちは初めて敵を退けた。

 

 俺が結界と使い魔で相手の目を逸らし、リリスが風を受けて屋根を渡る。

 

 敵がこちらを見失った短い間に距離を詰め、闇を差し込む。

 

 勝負が決まるまでに必要だったのは数秒だったが、その数秒を作るために、半日を使った。

 

 それからは、二人で考えるようになった。

 

 俺は街の魔力の流れを調べ、退路を作り、家に伝わる蓄積用の宝石を切り崩した。

 

 リリスは相手の癖を見抜き、偽りの気配を見分け、俺が見落とした危険を指さした。

 

 必要に応じて、彼女は自分で再臨の姿を変えた。

 

 第三再臨の、落ち着いた女性の姿で術式を見つめていたかと思えば、隠れ家へ戻る頃には、第一再臨のフードをかぶっている。

 

「……何だよ」

 

 見ていると、彼女が笑った。

 

「こっちのほうが、アンタの気ぃ抜ける顔が見られるかなって」

 

「どの姿でも、お前が無事なら気は抜けるよ」

 

 リリスは、一瞬だけ黙った。

 

 それから俺の肩を軽く小突いた。

 

「そういうの、さらっと言うじゃん」

 

 どの姿でも、彼女だった。

 

 声の調子が変わっても、俺の疲れを見つける目は同じだった。

 

*

 

 隠れ家の台所には、二つのマグカップがあった。

 

 近くの店で買った、何の変哲もないものだった。

 

 夜を越えて戻ってくると、俺は湯を沸かした。

 

 リリスが地図を広げ、その隣へカップを置く。飲み物が冷める頃まで、次の手を話し合った。

 

 ときどき、戦争以外の話もした。

 

 俺がこの世界でどんなふうに育ったのか。

 

 彼女のいなかった年月に、何をしていたのか。

 

 前世で育成素材が足りず、何度も同じ場所へ連れていったことまで蒸し返された。

 

「よく付き合ってくれたよな」

 

「ほんとだよ。あれ、アンタのほうが先に飽きるかと思った」

 

「お前を強くしたかったからな」

 

「……知ってる」

 

 その返事だけ、少し静かだった。

 

 ある朝、俺は帰りに買ったアップルパイを皿へ乗せた。

 

 リリスはそれを見て、少しだけ目を輝かせた。

 

「お。いいもの持ってる」

 

「今日はこれで勘弁してくれ。勝ったら、もっとちゃんとした店のを食おう」

 

 彼女は一口食べ、考えるように首を傾けた。

 

「カスタード、もっと欲しい」

 

「覚えとく」

 

「ちゃんと覚えて。こういう約束、大事だから」

 

 俺は笑った。

 

 その頃には、戦争の後にやりたいことが、少しずつ増えていた。

 

 パイを食べる。

 

 明るい道を、敵の気配を探さずに歩く。

 

 買い物をする。

 

 同じ家へ帰る。

 

 ただ、それを言葉にするたび、胸のどこかで引っかかるものがあった。

 

 この戦争が終わったら、彼女はどうなる。

 

 勝っても、また別れなければならないのか。

 

 俺はまだ、その答えを彼女へ話せずにいた。

 

*

 

 二画目の令呪を使ったのは、戦いの中盤だった。

 

 仕掛けられた結界へ踏み込み、俺たちは分断された。

 

 何とか術式を破って合流したとき、リリスは立っていた。

 

 立っていたが、傷を隠せていなかった。

 

 俺を見るなり笑おうとした、その口元が途中で止まる。

 

「……マスター。ちょっと、まずいかも」

 

 俺は迷わず、令呪を魔力へ変えて彼女へ流し込んだ。

 

 手の甲が焼ける。

 

 身体の奥から力を引き抜かれる感覚に、膝が落ちそうになった。

 

 リリスの手が、俺の腕をつかんだ。

 

「もういい。アンタまで倒れる」

 

「まだ足りねぇだろ」

 

「足りるように使う」

 

 彼女は、強く言った。

 

「だから、ここからはアテシに任せて」

 

 俺は歯を食いしばり、うなずいた。

 

 その夜も、二人で帰った。

 

 隠れ家の床に座り込んだまま、しばらくどちらも動けなかった。

 

 やがてリリスが、俺の手を取った。

 

 残った令呪は、一画だけだった。

 

「……もったいない使い方」

 

「お前を帰らせるために使ったんだ。上出来だろ」

 

「切り札、減ったよ」

 

「お前がいなきゃ、切る相手もいねぇよ」

 

 リリスは黙った。

 

 握られた手に、少しずつ力がこもる。

 

 そのまま、肩へ頭が寄ってきた。

 

 俺は空いている腕を回した。

 

 どちらも、しばらく何も言わなかった。

 

 台所には、洗っていない二つのカップが残っていた。

 

 それを見ながら、俺は決めた。

 

 聖杯に何を願うか。

 

 もう、迷う余地はなかった。

 

*

 

 最後に残ったのは、セイバーの陣営だった。

 

 正面からは、届かなかった。

 

 鋭い剣と、強固な守り。

 

 リリスが呪いを差し込もうとしても、相手を包む加護に弾かれる。こちらが力を使うたび、俺の魔術回路は熱を持ち、息が浅くなった。

 

 だから、最後の戦いにも準備が必要だった。

 

 敵が利用している魔力の供給路を調べ、儀式場の外周へ細い術式を潜り込ませた。

 

 一度しか使えない。

 

 起動すれば、相手にも気づかれる。

 

 俺がそれを切り替え、敵の守りがわずかに乱れる間に、リリスが決める。

 

 二人で立てた作戦は、それだけだった。

 

 決戦の夜、リリスは第三再臨の姿を選んだ。

 

 大きな翼が、闇の中へ広がる。

 

 彼女は俺の前へ立ち、静かに振り返った。

 

「準備は?」

 

「できてる」

 

「無理をしすぎないこと。倒れられると、帰り道で困ります」

 

「お前もな」

 

「承知しています」

 

 彼女は微笑んだ。

 

 その余裕が、本物だけでできていないことを、俺はもう知っていた。

 

 だから手を伸ばし、一度だけ、その指を握った。

 

「一緒に帰るぞ」

 

 リリスは、握り返した。

 

「ええ。二人で」

 

 戦いは、長くなかった。

 

 長くはなかったが、一瞬ごとに、もう駄目かもしれないと思った。

 

 セイバーの剣が石床を裂く。

 

 リリスが風を巻き、刃を逸らす。

 

 俺は瓦礫の陰を移りながら、潜ませていた術式をつないだ。

 

 相手のマスターもこちらの狙いに気づき、魔術を飛ばしてくる。

 

 肩を焼かれた。

 

 手にしていた宝石が一つ砕けた。

 

 それでも、最後の線はつながった。

 

「リリス!」

 

 彼女が、こちらを見ずにうなずいた。

 

 俺は術式を起動した。

 

 儀式場へ流れていた魔力が、一拍だけ乱れる。

 

 セイバーが踏み込もうとした。

 

 リリスは退かなかった。

 

「最後の令呪を。今です」

 

 俺は手を伸ばした。

 

 残っていた赤い紋様が、強く輝いた。

 

「撃ち抜け、リリス!」

 

 彼女の足元に、闇が広がった。

 

 風が止まる。

 

 一瞬だけ、世界から音が抜けた。

 

「──『虚妄は闇の娘』」

 

 黒い奔流が、騎士の守りを呑み込んだ。

 

 俺はその先を、最後まで見ていられなかった。

 

 力が抜けて膝をつき、倒れかけた身体を、片手で支える。

 

 耳鳴りがした。

 

 口の中に血の味があった。

 

 やがて、足音が近づいた。

 

「……マスター」

 

 顔を上げる。

 

 リリスが立っていた。

 

 傷ついていた。

 

 ひどく疲れた顔をしていた。

 

 それでも、立っていた。

 

「勝ちましたよ」

 

 その言葉を聞いて、俺はしばらく動けなかった。

 

 やっと伸ばした手を、彼女が取る。

 

「立てますか?」

 

「……今は、ちょっと無理」

 

「そうですか」

 

 リリスは俺の隣へ座り込んだ。

 

「奇遇ですね。私も、これ以上は格好をつけられません」

 

 思わず笑った。

 

 笑うと傷が痛んだ。

 

 彼女も、少しだけ笑っていた。

 

*

 

 現れた聖杯は、静かだった。

 

 膨大な魔力が、形を持ってそこにあった。

 

 この亜種儀式では、最後まで残った一組に願望機が開かれる。

 

 俺たちを縛っていた呪いは解け、都市の霊脈も落ち着き始めていた。

 

 勝ったのだ。

 

 本当に。

 

 リリスが、俺の隣へ立った。

 

「それで?」

 

 彼女は聖杯を見つめたまま言った。

 

「何を願うのですか、マスター」

 

 俺は彼女を見た。

 

「お前の受肉」

 

 リリスが動きを止めた。

 

 こちらへ顔を向けるまでに、少し時間がかかった。

 

「……私の?」

 

「ああ」

 

「ほかにも、叶えられることはありますよ」

 

「考えた」

 

 俺はうなずいた。

 

「そのうえで、お前に、ここにいてほしい」

 

 リリスは、じっと俺を見ていた。

 

 その目から、いつもの余裕が少しずつ消えていく。

 

「サーヴァントとしてなら、私は十分、あなたの役に立ちました」

 

「知ってる」

 

「けれど、戦いが終わった後まで……」

 

「戦いが終わった後が欲しいんだよ」

 

 俺は彼女の手を取った。

 

 もう令呪のない手だった。

 

「お前と飯を食いたい。買い物もしたい。眠い朝に、どっちが先に起きるかで揉めたりもしたい」

 

 言葉にすると、どれも驚くほど小さな願いだった。

 

 それなのに、俺には、何より欲しいものだった。

 

「一緒に暮らしたいんだ、リリス」

 

 彼女の指が動いた。

 

 俺の手を、確かめるように握る。

 

「……それは、随分と長い話になりますね」

 

「ああ。長くしたい」

 

「私が、どんなものか知っていて?」

 

「知ってる。知らないところは、これから教えてくれ」

 

 リリスは目を伏せた。

 

 長い沈黙ではなかった。

 

 けれど俺は、返事が来るまで、何も言わずに待った。

 

 やがて、彼女が顔を上げた。

 

「私も」

 

 声が、わずかに揺れていた。

 

「あなたの隣で、生きていたい」

 

 握った手に、力がこもった。

 

「次の戦いのためではなく、明日もここにいるために」

 

 俺は息を吐いた。

 

 ずっと詰めていたものが、ようやくほどけた気がした。

 

「じゃあ、帰ろう」

 

「ええ」

 

 リリスは、少しだけ笑った。

 

「……今度は、本当に」

 

 俺は聖杯へ向き直った。

 

 願った。

 

 目の前にいる、このリリスが。

 

 彼女自身の心も、記憶も、選んだ意思も、そのままに。

 

 召喚契約が終わっても生きていける、確かな身体を得ることを。

 

*

 

 光が収まった後、リリスはまだ、そこにいた。

 

 受肉に選んだのは、第三再臨の、成熟した女性としての姿だった。

 

 俺と彼女を結んでいた魔力の経路が、静かにほどけていく。

 

 供給が止まった。

 

 それでも、彼女の輪郭は薄れなかった。

 

 リリスは自分の手を見つめ、それから、ゆっくりと指を曲げた。

 

 俺の手を握る。

 

 触れる温かさは、さっきまでと同じだった。

 

 けれど、もう、この戦争の終わりを理由に失われるものではなかった。

 

「……ここに、いますね」

 

 彼女が言った。

 

「ああ」

 

「終わったのに」

 

「ああ」

 

 俺は、その手を両手で包んだ。

 

 リリスが、顔を上げる。

 

 初めて見るほど、無防備な表情だった。

 

「あなたと、帰っていいのですね」

 

「当たり前だろ」

 

 引き寄せると、彼女も腕を回した。

 

 戦いの間、何度も支え合った身体だった。

 

 その重みを、今度はゆっくり受け止められた。

 

「……ありがとう」

 

 肩のそばで、声がした。

 

 俺は首を振った。

 

「俺の願いを叶えてもらったんだよ」

 

 リリスが少し身体を離した。

 

 頬に手が触れる。

 

 それから、彼女のほうから口づけてきた。

 

 離れた後も、額は近いままだった。

 

「でしたら」

 

 彼女は、涙の残る目で笑った。

 

「叶えたことを、ずっと喜んでもらいましょう」

 

*

 

 戦後の後始末を終えて、俺たちは郊外の家へ移った。

 

 家の資産は、すべてを戦争で失ったわけではなかった。

 

 傷ついた工房は直す必要があったが、暮らす家も、当面の蓄えも残っていた。

 

 門を開け、庭を抜けて玄関へ向かうと、リリスが建物を見上げた。

 

「……マスター」

 

「何だ?」

 

「隠れ家の、あの狭い部屋は何だったのです?」

 

「場所が知られてる家に、のんびり帰れなかったんだよ」

 

「なるほど。私、あの台所が標準なのかと思っていました」

 

 彼女は振り返り、少し楽しそうに笑った。

 

「では、カップを置く場所には困りませんね」

 

 荷物の中には、あの二つのマグカップがあった。

 

 捨てる理由が、どちらにもなかった。

 

 俺たちは結婚した。

 

 大きな式にはしなかった。

 

 互いの意思を確かめ、指輪を交換し、その日の夕食を一緒に食べた。

 

 リリスは何度も、自分の指を見ていた。

 

「気になるか」

 

「ええ」

 

 彼女は隠さず答えた。

 

「戦いに必要のないものを、あなたからもらうのが、こんなに嬉しいとは思いませんでした」

 

 俺はその手を取った。

 

 指輪のある指へ、そっと触れる。

 

「これから増えるぞ」

 

「楽しみにしています」

 

 そう言って、彼女は俺の肩へ頭を預けた。

 

 暮らしは、少しずつできていった。

 

 俺は工房で研究を続け、魔術に関わる鑑定や修復の依頼を引き受けた。家に入る収益と合わせれば、家族で困らずに暮らすには十分だった。

 

 リリスは、この街で好きな店を見つけた。

 

 散歩に向いた道を覚え、庭に植えるものを選び、買ってきた菓子の感想を、妙に真剣な顔で語った。

 

 意見が合わない日もあった。

 

 食卓で互いに黙って、結局どちらかが先に話しかけることもあった。

 

 それでも、翌日にも同じ家にいた。

 

 そのことが、何度でも嬉しかった。

 

*

 

 結婚して数年後、娘が生まれた。

 

 リリスが初めて抱いたとき、俺はすぐ隣にいた。

 

 彼女は小さな顔を、長い間見つめていた。

 

 いつもの、相手の内側まで見通そうとする目ではなかった。

 

 少し困って、少し驚いて、どうしようもなく離れがたそうな目だった。

 

「……私の指を、離しません」

 

「気に入ったんだろ」

 

「まだ、会ったばかりなのに」

 

「わかるんじゃねぇの。母親だって」

 

 リリスが俺を見た。

 

 それから、もう一度娘を見る。

 

 小さな手に握られている指を、そっと動かした。

 

「そうですか」

 

 声が柔らかくなった。

 

「では、しばらくこのままで」

 

 彼女の肩へ腕を回すと、リリスは少しだけこちらへ寄りかかった。

 

 数年後には、息子も生まれた。

 

 静かだった家に、走る足音が増えた。

 

 二人分だったカップの隣へ、小さな持ち手のついたものが二つ並んだ。

 

 俺の書斎には、魔術書に混じって子どもの描いた絵が置かれるようになった。

 

 リリスの膝には、しばしば誰かが座っていた。

 

 そして彼女は、子どもたちが眠る前になると、その日の話を聞いた。

 

 何ができたのか。

 

 何が悔しかったのか。

 

 明日は、何をしたいのか。

 

 夜の魔女と呼ばれた彼女が、暗くした子ども部屋で、眠くなるまで話に付き合っている。

 

 その声を廊下で聞くたび、俺は足を止めた。

 

 聖杯に願ったときには、まだ知らなかった声だった。

 

*

 

 休日の午後、台所から甘い匂いが流れてきた。

 

 娘が椅子の上で背筋を伸ばし、息子が待ちきれずにテーブルの縁をつかんでいる。

 

 リリスは焼き上がったパイを置き、二人を見た。

 

「先に言っておきますが、まだ熱いですよ」

 

「ちょっとだけ」

 

 息子が言う。

 

「その『ちょっと』で毎回慌てるのは、誰でしょうね」

 

「……ぼく」

 

「よく覚えていました」

 

 俺が笑うと、リリスがこちらへ目を向けた。

 

「あなたも、です」

 

「俺までか」

 

「前回、同じことをしていました」

 

 否定できなかった。

 

 皿を並べ、パイを切り分ける。

 

 娘の口元に、いつの間にかカスタードがついていた。

 

 リリスはそれを見つけ、目を細めた。

 

「味見、しましたね?」

 

 娘が黙る。

 

 息子が姉を見る。

 

 俺は何も言わず、布巾を差し出した。

 

 リリスは受け取り、娘の口元を拭いた。

 

「おいしかった?」

 

 娘が小さくうなずく。

 

 それを見て、リリスも笑った。

 

「なら、みんなで食べるときにも、教えてください」

 

 娘の顔が明るくなった。

 

 俺は隣の椅子を引き、リリスが座るのを待った。

 

 彼女は腰を下ろしてから、テーブルの上をゆっくり見た。

 

 四枚の皿。

 

 四つのカップ。

 

 さっきから途切れずに話している子どもたち。

 

 そして、俺。

 

「……何だ?」

 

 見つめられて、聞いた。

 

 リリスはすぐには答えなかった。

 

 指輪をした手が、テーブルの下で俺の手に触れる。

 

「約束を、思い出していました」

 

「パイの?」

 

「ええ。勝ったら、一緒に食べようと」

 

「あったな」

 

「私、あのときは、二人分しか想像していませんでした」

 

 俺は子どもたちを見た。

 

 娘が、自分の皿の大きさと弟の皿を比べている。

 

 息子はそれに気づかず、ようやく食べられた一口に夢中だった。

 

「増えたな」

 

「随分と」

 

 リリスの声に笑みが混じった。

 

 俺は、触れていた手を握った。

 

「聖杯に願ったときも、ここまではわからなかったよ」

 

「後悔は?」

 

 彼女が、ほんの少しだけ悪戯っぽい顔をした。

 

 俺は答える前に、その手を引き寄せた。

 

 指先へ口づける。

 

「するわけねぇだろ」

 

 リリスの目が、柔らかく細まった。

 

「よろしい」

 

 その言い方が可笑しくて、俺は笑った。

 

 彼女も笑った。

 

 しばらくして、子どもたちが庭へ出ていった。

 

 窓の向こうで、娘が弟を呼んでいる。

 

 リリスは俺の隣へ椅子を寄せ、肩へ頭を預けた。

 

「ねえ、マスター」

 

「まだその呼び方するのか」

 

「慣れていますので」

 

「まあ、いいけど」

 

「……それに」

 

 彼女が少し顔を上げた。

 

「あなたをそう呼んだところから、ここまで来たでしょう?」

 

 俺は、言葉を失った。

 

 地下工房の召喚陣。

 

 伸ばした手。

 

 夜を越えて戻った、狭い台所。

 

 最後の令呪が消えた手で、彼女の手を取ったこと。

 

 その全部の先に、今、この家があった。

 

 リリスが俺の頬へ触れた。

 

「呼んでくれて、ありがとう」

 

 声は静かだった。

 

「そして、帰る場所まで、一緒に作ってくれて」

 

 俺は彼女を抱き寄せた。

 

「来てくれて、ありがとう」

 

 リリスの腕が、背中へ回る。

 

 その温もりを感じながら、窓の外へ目を向けた。

 

 娘がこちらに気づき、手を振った。

 

 息子も真似をして、大きく腕を上げる。

 

「お母さん! お父さんも来て!」

 

 リリスが顔を上げた。

 

「呼ばれましたね」

 

「ああ」

 

 俺たちは立ち上がった。

 

 リリスは歩き出す前に、俺の手を取った。

 

 あの日、召喚陣の向こうから伸びてきた手。

 

 今は、指輪が光っていた。

 

「行きましょうか」

 

 俺は握り返した。

 

「おう」

 

 庭の扉を開けると、明るい風が入ってきた。

 

 子どもたちが駆け寄ってくる。

 

 リリスは俺の手を一度だけ強く握ってから、二人を迎えるために腕を広げた。

 

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