好きなキャラの短編集 作:チーズと唐揚げ、そしてハンバーグ
初代ゲームの主人公に転生したオリ主とアリサの一話完結です。初代の出来事を振り返りながら、『GOD EATER 3』後の復興を独自に描いた世界で、二人が結ばれ、娘を迎えるまでを描きます。
俺は一生に一度の返事を、二度言わされた。
一度目はマウスピースが邪魔をした。二度目は、俺の上に馬乗りになっていたアリサが「今度はちゃんと顔を見て」と言ったからだ。
場所はフェンリル極東支部の訓練場。口の中は切れていたし、左の脇腹には、その後一週間ほど笑うたびに彼女を思い出せる立派な痣があった。
のちに娘から「お父さんとお母さん、どんなところで結婚しようって言ったの?」と聞かれたとき、俺は正直に「床」と答えた。
妻から、もう少し説明の努力をしてください、と叱られた。
確かに、そこに至るまでに、俺たちはずいぶん遠回りをした。
前の人生で『ゴッドイーター』を遊んでいた俺が、新型神機の使い手として極東支部の第一部隊に入ったのは、二〇七一年のことだった。
入隊して最初のうち、俺は自分が物語の先を知っていることを、ずいぶん頼もしく思っていた。その自信は初陣でだいたい剝がれた。画面の向こうでは何十体も倒したオウガテイルに正面から飛びかかられて、神機を握ったまま尻もちをついたのだ。助け起こしてくれたリンドウさんには、足元の瓦礫に躓いたことにした。たぶん、ばれていた。
アリサ・イリーニチナ・アミエーラという子のことも、知っていたのは横顔くらいだった。
ロシア支部から来た彼女は、自分が優秀であることをよく知っていたし、実際に優秀だった。神機を剣から銃に変えて最初の一発を撃つまでが、俺より明らかに速い。負けたのが悔しくて、訓練のあと、格納庫まで追いかけた。
「どうやってんだ、あれ」
「何をですか?」
「変形したころにはもう狙いがついてるだろ。俺は肩に当ててから照準を直す分、遅れる。ちょっと見せてくれよ」
彼女は俺の顔をしげしげと見た。
「悔しくないんですか?」
「悔しいから聞きに来たんだろ」
すると彼女が笑った。極東へ来てから初めて見る、年相応の顔だった。
「じゃあ、あなたも教えてください。後ろにいるのが私だと、どうして一度も振り返らずにわかったんです?」
「瓦礫を踏むとき、お前、必ず爪先で一回つつくだろ。あれやるの、うちじゃお前だけだよ」
「……そんなことで?」
「そんなことを知っとくと、向いてる方の敵に集中できる」
翌日の訓練で、後ろからわざとらしく、こつ、こつ、と二度音がした。
振り向かなかった。頭のすぐ左を模擬弾が抜けて、俺が狙っていた標的の、隣の的をきれいに落とした。
俺たちはまず、お互いの腕が好きになった。
だからこそ、あの作戦でリンドウさんが帰らず、アリサがもう一度銃を構えることさえ怖くなったとき、俺は何を言えばいいのかわからなかった。
訓練場に二人で立っても、彼女の指は引き金にかかったまま動かなかった。一度だけ、励ますつもりで「俺が代わる」と言ったことがある。
「……あなたが撃てることは知ってます」
絞り出すような声だった。彼女が腹を立てたのは俺にじゃない。自分の手でやりたいことを、誰かの手で済まされてしまうことにだ。
翌日から、俺は自分の分の弾だけ撃った。隣ではアリサが構えて、下ろして、また構えた。そうやって訓練時間を丸々使った日も、帰りには二人で空薬莢を拾った。
彼女が久しぶりに一発撃った日、俺は外した弾の跡を見て、本当に余計なことを言った。
「左に逸れたな」
「ええ。あなたはさっきから、ずっと右ですけど」
一本取られた。久しぶりに二人で笑えた。
やがて実戦でも、彼女の弾が俺の頬の横を抜けるようになった。仲間が生きて戻った日はみんなと騒いで、帰ってこない人がいた日には、格納庫の隅に並んで腰を下ろした。
シオが空へ行ったあと、俺たちは緑に色を変えた月を見た。
後世の記録では、あの戦いを越えた俺は英雄ということになっている。
俺の記憶では、あの晩にしたことの中でいちばんましだったのは、泣くまいとしていたアリサのために、誰も来ない側へ黙って半歩ずれたことだ。
彼女の指が俺の上着の裾をつかんだ。離れるまで、月を見ていた。
あのころからたぶん、俺はこの人に惚れていた。
惚れていたことと、その人を大事にできたことが同じなら、俺の人生にはだいぶ見栄えのいい記録が残っていたと思う。
名が売れると、難しい仕事が来た。
外部居住区への補給路を三日だけ通してほしい。消息の途絶えた部隊を捜してほしい。手に負えない大型種がいる。現地へ行って、一度見てくれないか。
行った。一緒に帰せた奴もいたし、間に合わなかったこともあった。夜明けにようやく輸送車の列が門をくぐり、荷台から眠った子どもが次々に抱き下ろされるのを見たときは、ここまで来てよかったと腹の底から思った。
その晩、食堂で「英雄さん、一杯どう?」と声をかけられるのも、大いに好きだった。
そこは格好をつけてもしょうがない。
互いに大人になってからの話だ。酒も飲んだし、口説きもした。向こうから誘われて、朝まで同じ部屋で過ごしたことも、一度や二度じゃない。
狙撃の腕が俺よりいい護衛隊員とは、どっちが多く的を落とすかで夕飯を賭けた。俺が負けたので奢って、彼女の部屋に泊まった。別の拠点では、輸送車の運転手に「あなた、女の人に人気でしょう」と笑われ、「今晩はあんたに好かれりゃ十分だ」と答えた。
当時の俺は、そういうことなら息をするのと同じくらい簡単に言えたのだ。
極東にだって噂は届いた。俺しか着られない寸法の上着を別の拠点の女性から預かって、返しに来たのが、よりによってアリサだったこともある。
「預かり物です。左のポケットに、手紙が入っているそうです」
「……悪いな」
「上着を運んだくらいで、そんな顔をしないでください」
彼女は丁寧に畳んだ上着を渡して、それから言った。
「夕飯、もう食べました?」
俺は食べていた。途中まで送ってくれた、手紙の差出人と。
そう答えると、彼女は「そうですか」と笑った。机の上には紙に包んだサンドイッチが二つあった。俺が見ているのに気づくと、二つとも鞄にしまった。
俺たちは付き合っていなかった。好きだとも、待っていてくれとも言っていない。だから何も悪いことはしていない、と考えるのは簡単だった。
それならどうして俺は、極東に戻るたび、真っ先にこの人の姿を捜していたんだろうな。
その答えを知ってるくせに、次の任務へも、俺は何食わぬ顔で出かけた。
アリサも、ただ同じ場所に立っていたわけじゃない。クレイドルの仕事で集落を回り、住民と一緒になって拠点を作り、ときには俺より何か月も長く帰らなかった。再会するたび、彼女の地図には俺の知らない人の名前が増えていた。水脈を探せる老人。石積みのうまい姉妹。壊れた靴下を直す代わりに、子どもに絵を教えてもらっている整備士。
任務先の話をする彼女が好きだった。困った人の話をしていたはずが、途中から、その人の好きなところを話し始めている。アリサには、そういう癖があった。
一度、出発前に彼女に聞いた。
「お前、どうして毎回ここまで来てくれるんだ?」
格納庫の朝は寒かった。彼女は赤いベレー帽を押さえて、風で裏返りかけた俺の襟を直した。
「最後には私のところに帰ってくるって、思ってますから」
小さく笑って、彼女は襟から手を離した。
「途中のことまで想像してたら、腹が立って、いい顔で送り出せません。だから今は、それでいいことにしてるんです」
その顔のどこが「いい顔」だったのか。今だって、あの目を思い出すと胸の奥が痛む。
「行ってらっしゃい、隊長。怪我をしたときは、帰ってから報告じゃ遅いですからね」
「ああ。行ってくる」
もう少しうまいことを言えたはずだ。ほかの女にはいくらでも言えたのに、その日も俺は、それで搭乗口をくぐった。
灰域が広がって、行き先を地図に書いておくだけでは、誰もどこへもたどり着けない時代が来た。
海の向こうでは、俺たちより若い世代が灰域踏破船に乗り、自分たちの道を切り拓いた。古参の英雄の名が通じない場所はたくさんあった。俺の体では長く活動できない濃度の灰域もあった。できることを、できる奴がやった。俺は通れる道の先でアラガミを引き受け、アリサは船がたどり着いた先で、人がもう一晩、もう一年と暮らせる場所を増やしていった。
そうして長い時間をかけて、大きな戦いに決着がついた。
ある年の秋、ずっと俺が護衛についていた輸送便を、地元の隊が初めて単独で往復した。連中は俺より若く、俺が初めてそこへ来たときより、はるかにうまく仕事をした。
帰還便の席を取って、身の回りのものを鞄に詰めた。次の赴任先を書かなくていい移動届は、これが初めてだった。
極東で扉が開くと、アリサがいた。
昔より少し髪が長かった。片手に仕事の書類、もう片方の手には、飲みかけの紙コップ。俺の顔を見るなり、ひどく困った顔をした。
「どうした?」
「両手が塞がってます」
あのアリサが、何を差し置いても先に抱きつきたいと思ってくれたのだと、さすがの俺にもわかった。
俺は床に鞄を置き、彼女の手から書類と紙コップを取って、そばの台へ載せた。
「ただいま、アリサ」
「……おかえりなさい」
抱きしめた体から紙とコーヒーの匂いがした。背中に回った腕は、若かったころより強かった。
「今度は、いつまで?」
耳のそばで聞かれた。
「次の便は取ってねぇよ。帰ってきたんだ」
彼女の指が、上着に皺が寄るくらい強くなった。
あそこで言えばよかったのだ、好きだと。お前と一緒に暮らしたいと。
ところが、背中を抱かれた瞬間に思い出したのは、何年も前、二つのサンドイッチを鞄にしまった彼女の手だった。
今さらどの面で、お前だけだなんて言うんだ。
俺は彼女の背をもう一度抱き直しただけで、とうとう何も言えなかった。
一週間が過ぎた。
二人で夕飯を食べた。新しくできた市場に行った。彼女の部屋の棚を直した。帰り際、玄関でアリサが俺の目を見て待っているのに、俺は「それじゃ、おやすみ」と言った。
二週間目、彼女が正面から聞いてきた。
「隊長。私に何か言うこと、ありませんか?」
「……ある。ちゃんとしたときに言わせてくれ」
「わかりました」
三週間目の朝、俺の端末に、訓練場の予約票が届いた。
参加者、二名。開始、十九時。
備考欄には、彼女の端正な字で一言。
『ちゃんとした時間を用意しました』
十九時ちょうど。訓練場の床には、俺のサイズの防具と、新品のマウスピースが置かれていた。
アリサはもう装備をつけていた。刃のない訓練用の可変武器を肩に担いで、長い髪を結び上げている。
「……言いたいことを言うだけなら、椅子二脚でよくないか?」
「椅子を二脚並べて、何回あなたと夕飯を食べたと思ってるんですか」
返す言葉がなかった。
「三本やりましょう。昔どおり、武器を落とすか、背中が床についたら一本。私に怪我をさせるのが怖いなんて言ったら、四本に増やします」
「いいのか? 俺はまだ現役だぞ」
「知ってますよ。私もです」
一本目、俺は開始直後に武器を持っていかれた。
得意の、銃身から刀身へ変える際を狙った踏み込みだった。わかっていた動きなのに、予想より半足深いところから柄を叩かれた。落ちた俺の武器がゴム張りの床を跳ねた。
「ほかの人を口説くときは、ずいぶん判断が速かったそうですね」
「誰から聞いた」
「一人ずつ名前を言いましょうか?」
「……結構です」
二本目は俺が取った。
外から回り込んできたアリサを装甲で受け、足を入れ替えた瞬間に体ごと運んで床へ落とした。受け身を取った彼女へ手を出すと、つかまれるどころか、ぴしゃりと払われた。
「そうやって、ちゃんと向かってこられるじゃないですか」
「試合ならな。お前だって、勝ったって負けたって、明日もここに来るだろ」
そこまで言って、自分で気づいた。アリサも気づいた。立ち上がった彼女は、三本目の開始線へはすぐに戻らなかった。
「私があなたを断ったら、明日は来ないと思ってるんですか?」
「……怖いんだよ。お前には」
「私にだけですか」
「ああ。好きだからだよ、ちくしょう」
実に長いことかかって、やっと出た。
胸につかえていたものが取れて息が楽になるのかと思った。まるで逆だった。目の前の相手が黙っているだけで、とんでもなく苦しい。俺は長いこと、彼女にそれをさせていた。
「お前がどんな顔で送り出してたか、知らなかったわけじゃねぇ。俺はいい気になって遊んだ。なのに帰ってくる場所だけは、ずっとお前のところに取ってあるつもりでいた。……悪かった、アリサ」
彼女は武器の柄にもたせていた額を上げた。
「謝ってほしかったこと、あります。帰投できるのに、もう一晩遊ぶために連絡をよこさなかった、あの冬とか」
「覚えてる」
「でもね。私、あなたがいい人になるのを待ってたわけじゃありません」
目の縁が赤かった。それでも声は、訓練場の反対の壁まで通った。
「食堂で知り合ったばかりの女性には、朝まで一緒にいたいって言えたんでしょう? 私は何年あなたを好きだったと思ってるんですか。どうして私にだけ、夕飯のお礼と棚の修理で済ませようとするんです!」
「済ませようとしてねぇよ!」
「じゃあ、何ですか!」
「棚がぐらぐらしてたんだよ! 危ねぇだろうが!」
アリサが一瞬ぽかんとした。俺だって、こんな大事な場面で棚の安全性を力説した自分に腹が立った。
「……あの棚は、とても助かってます」
「おう」
「それはそれとして、構えてください。まだ全然、腹の虫が治まってません」
今度は俺から仕掛けた。
模擬弾を二発、装甲に当てて外へ向かせ、その隙に内側へ入った。長い遠征の間に覚えたやり方だ。一度は入れた。肩がぶつかる。ところが押し切る前に彼女が腰を引き、俺の力を逃がした。脇腹へ一発。息が詰まる。
距離が開いた。立て直せると思ったところで、彼女の銃口は俺ではなく、一歩下がれば俺の右足がつく場所を向いていた。
着色弾が弾けた。反射で左へ避ける。
その左側を、アリサが走っていた。
とっくに銃形態は解いている。俺が避けてから追ったんじゃない。避ける方を自分で決めて、先にそこへ入っていた。
こんなにうまくなってたのかよ、と半ば本気で嬉しくなった瞬間、装甲の縁で右腕を跳ね上げられ、胴に二発もらった。
「いってぇ! お前、それどこで覚えた!」
「あなたがいなかった間も、私はちゃんと働いてましたから!」
まったくそのとおりである。
それでも俺は武器を離さなかった。踏みとどまって正面を捉え直すと、彼女の爪先が床を、こつ、こつ、と二度つついた。
昔の合図だった。後ろは私です。振り返らなくていい。
体の方が先に、彼女が左を抜ける空間を作った。
アリサはそこへ遠慮なく足を掛けた。
視界がきれいに半回転した。背中から床へ落ち、武器が手を離れる。跳ね起きようとした俺の胸当てに膝を載せ、彼女は両腕ごと俺を押さえ込んだ。
何度も命を預けた戦友に、本気でぼこぼこにされて、俺は天井を見た。
三番灯の蛍光管が、一本切れていた。
「……参った。最後のはずるくねぇか」
「あなたにだけ通じる手を、あなた相手に使って、何が悪いんですか」
「何も。お見事」
勝負がついた途端、アリサは心配そうに俺の目をのぞき込んだ。いつもの癖で「指、何本に見えます?」と二本立てたので、俺も律儀に二本と答えた。
それから彼女は自分のマウスピースを外し、きちんと俺の名前を呼んだ。
隊長、ではなかった。
「私と結婚してください」
俺はしばらく、彼女を見上げていた。
頬に俺がつけた青い塗料が飛んでいる。髪もほどけかけていた。その向こうで目だけがまっすぐだった。
「私は、あなたが好きです。いいところも、悪いところも、今さら数え直さなくたって知ってます。これから先、仕事に行く朝には私と同じ玄関から出て、帰ってきたら、私にただいまって言ってほしい」
そこでようやく声が揺れた。
「待てるからって、いつまでも待たせないでください。私だって、あなたのお嫁さんになりたい」
返事は決まっていた。勢いよく言ったつもりだった。
けれど俺のマウスピースは、まだ口の中にあった。
「……隊長。返事が聞こえません」
左手を解放してもらい、そいつを外した。
「はい。俺もお前と結婚したい。アリサ、俺の妻になってくれ」
彼女は目を閉じた。額を俺の胸当てに当てて、大きく一度息を吐いた。
「……はい」
「お前、降りられるか。ほんとはこういうこと、俺からちゃんと立って──」
「今日はそこにいてください。立ったらまた、格好いい言い方を考え始めるでしょう」
ばれていた。
床に転がされたまま、俺は彼女の頬についた塗料を親指で拭った。アリサが笑って顔を近づけてきた。
翌日、訓練場の整備票には、三番灯の交換依頼が出た。
俺たちの結婚が決まった日について公に残ったのは、たぶん、あの一行が最初だ。
式の日には、二人ともちゃんと立っていた。
コウタが俺の無傷の顔を見て「よかったな、写真に間に合って」と言い、サクヤさんに肘で小突かれた。アリサがブーケで口元を隠して笑ったので、あの模擬戦の詳細を誰が漏らしたかは、今も不明である。
それから何年か経った。
俺たちの家には今、玄関に靴が三人分ある。いちばん小さい一足は黄色い長靴だ。五歳の娘が自分で選び、店員さんに「みぎも、ひだりも、わたしのです」と念を押して買ってきた。
この家で俺が尻に敷かれているという評判については、異存はない。
よその拠点へ臨時教官に行ってほしいと頼まれたとき、昔の癖で引き受けかけると、妻は食卓で静かに手帳を開いた。
「その二日目、何の日ですか?」
「……娘の遠足。弁当は俺の担当」
「それで、どうします?」
「初日だけ行く。二日目は、俺が教えた奴に任せる」
「はい。では、卵焼きの練習をしてください。去年のは私の知っている卵焼きより、だいぶ装甲が厚かったです」
あのときも、行くなとは言われなかった。
俺は自分で遠足の朝を選んだ。早起きして卵を焼いて、端っこをつまみ食いした娘が「今日はやわらかい」と言った。それがあんまり嬉しくて、午後、仕事から帰ったアリサに二度も報告した。
妻の方は今も、居住区の外へ仕事に出る。出発の日には俺と娘が門に立つ。
初めて立場が逆になった日、手を振って小さくなっていく彼女を見ながら、俺は思った。見送った人間にも、そのあとにちゃんと一日があるのだ。無事に着いたと一報あるまで、何をしていても心のどこかが門の方を向いているような、ずいぶん長い一日が。
その晩届いた連絡の末尾には、『今日は早く終われました。明日の夕方には帰ります。私も会いたいです』とあった。
俺はまだ、会いたいとは送っていなかったのに。
まったく、かなわない。
その年の春、娘が居間の窓に張りついて、朝から唸っていた。
「お母さん。雨、まだ?」
「昨日も同じことを聞いてましたね。雲に相談してみましたか?」
「した。まだだって」
「そう。ちゃんと返事の来るおうちでよかった」
買ってから十日、ずっと晴れていた。娘の黄色い長靴は毎晩きちんと揃えて置かれ、毎朝、残念そうにいつもの靴と入れ替えられた。
ようやく雨音で目を覚ましたのは、休日の明け方だった。
隣の布団が空いていた。台所をのぞくと、窓辺にアリサが立っていた。カーテンを指一本分だけ開けて、路面に水がたまるのを見ている。
「起こさないのか?」
「もう少し。あの角のところ、あと十分くらい降ったら、ちょうどいい深さになります」
「……お前、娘より楽しみにしてたろ」
「そうみたいです」
笑った妻の後ろに立ち、二人で濡れていく道を見た。部屋はまだ少し薄暗く、子どもの寝息がよく聞こえた。
「昔ね、赤い雨を警戒していたころ。空から一粒落ちただけで、大人がみんな、近くの子を屋根の下に引っ張ってたでしょう」
「ああ」
「私、昨日、あの子に『明日は降るといいですね』って言えたんですよ」
彼女は自分でそう言って、小さく息を吸った。
「あのころの私に、いつか雨を楽しみにしてる子のお母さんになりますよって教えたら、どこから驚いていいかわからないでしょうね」
「まず相手の男を聞くんじゃねぇか?」
「名前を聞いたら、やめておいた方がいいですって忠告するかもしれません」
「おい」
「でも、今のあなたを一日見せてあげたら、意見は変わります」
アリサの手が、俺の手に重なった。
「私が帰ってくる日に、あの子と二人で門の前にいてくれるでしょう。私、遠くから二人を見つけるの、すごく好きなんです」
俺は隣の妻を見た。
昔は、戻ってきてアリサの顔を見ることがご褒美だった。今は、疲れて帰ったその人を、先に風呂へ追いやってやれることまで嬉しい。人を好きでいる面白さのずいぶん大きなところを、俺は若いころ、知らずにいた。
「俺、あの試合で負けてよかったよ」
「私は勝ててよかったです」
「もし俺が勝ってたら、どうしたんだ?」
「四本目をお願いしました」
しばらく顔を見合わせた。
「……俺に勝ち目あったか?」
「勝敗はあなた次第でしたよ。結婚の返事も」
そこで少し声を落とした。
「でも、返事を聞く前に帰してあげる気は、あんまりなかったです」
俺は笑って、彼女のこめかみに口づけた。アリサがこちらへ顔を向けたので、今度は唇にした。
「俺と結婚してくれて、ありがとな」
「こちらこそ。……ねえ、あなた。私、今の暮らしが本当に好きです。娘がいて、あなたがいて。お休みの日に、雨が降ってくれるのを三人で待つくらい、ほかに急ぎの用事がないんですよ」
彼女は目を閉じて、しばらく俺の肩に頬を預けた。
「こういうの、もっと欲張っていいですね?」
「いいに決まってんだろ。俺の方こそ、まだ足りねぇくらいだよ」
寝室から、ぱたぱたと足音がした。
「おかあさん! おとうさん! おそと、あめ!」
俺たちは同時に振り向いた。
娘はパジャマのまま、どういうわけかもう長靴だけ履いていた。アリサがしゃがみ、おかしそうに左右を直してやる。その間にも小さな体は玄関の方へ傾いていた。
「はい、まず着替え。お父さんはタオルを三人分お願いします」
「三人分? 俺も入るのか、水たまり」
「当然でしょう。昔はあんなに景気よく危ないところへ飛び込んでたのに、今さら水深三センチで怖じ気づくんですか?」
「……お前、その理屈で一生俺を動かせると思ってるだろ」
妻は娘と同じ顔で笑った。
「ええ。頼りにしてます、あなた」
五分後、黄色い長靴が朝いちばんの水たまりを踏んだ。いちばん大きな飛沫を上げたのはアリサだった。俺は頼まれたタオルを三枚とも抱えていたせいで、二人から盛大に水を浴びた。
両手の塞がった俺のところへ、妻と娘が笑いながら駆け戻ってくる。
今度は、どうしたらいいか知っていた。
俺はタオルを肩に放り上げて、二人とも抱き留めた。