好きなキャラの短編集   作:チーズと唐揚げ、そしてハンバーグ

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『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語』の結末から分岐するIF短編です。前世が男性だった主人公が鹿目まどかに転生しています。劇場版の結末に触れながら、暁美ほむらとの対立と、その先で二人が選ぶ生き方を描きます。


十秒あれば、隣まで(魔法少女まどか☆マギカ、暁美ほむら)

 

 

 

「ほむらちゃん、写真お願いしていい?」

 

 俺がスマホを差し出すと、ほむらは嬉しそうに受け取った。

 

 あとで何度も思い返したのは、そのときの顔だ。自分も誘われているとは少しも思わずに、俺の頼みを聞けたことを喜んだ顔。

 

 けれど、鹿目家の母はそういう遠慮を見逃さない。

 

「何やってんの、まどか。あんたが誘った子でしょ。一緒に写んな」

 

 ママはほむらからスマホを取り上げると、公園のベンチに立てかけた。パパが背もたれとの間に畳んだハンカチを挟んで、傾きを直す。

 

「はい、十秒!」

 

 ママが駆け戻ってきたところで、たっくんがほむらの髪を引っ張った。ほむらが振り向き、俺が笑った。まともに正面を見ていたのはパパ一人だった。

 

「撮り直す?」とパパが聞いたけれど、ほむらは首を横に振った。

 

 十枚はまともな写真が撮れそうな秋晴れの日に、彼女が欲しがったのは、その一枚だけだった。

 

 その夜、俺は布団の中で写真を見返した。

 

 画面の中のほむらは、たっくんに髪を引かれて、ほんの少し口を開けている。こんな間の抜けた顔をする子だっただろうか。そう考えた途端、頭の中で別の明かりがついた。

 

 映画館の照明だった。

 

 見知らぬ男が一人、エンドロールの終わった席に座っていた。膝の間に挟んだ紙コップの中で、溶け残った氷が鳴る。その男が何を考えていたのか、俺にはわかった。

 

 ──俺、あの終わり方、嫌いだ。

 

 思い出した。

 

 あの席に座っていたのは、鹿目まどかとして生まれる前の俺だ。

 

 そして今日、俺の隣で写真に写ったのは、この世界を一度終わらせてまで、俺を家族のもとに返した悪魔だった。

 

*

 

 前の人生のことは、幼いころからおぼろげに覚えていた。

 

 だから、最初から諦めていたわけじゃない。暁美ほむらが転校してくる前に、巴マミという先輩を捜した。さやかちゃんに隠し事をするかで、ほむらちゃんと喧嘩もした。一度なんか、夜中に二人でマミさんの部屋へ謝りに行って、お説教が終わるころには始発電車が走っていた。

 

 物語を知っているだけで何もかもうまく運べるほど、俺は賢くなかった。それでも、あの夜に三人で食べた、少しのびたカップ麺はおいしかった。前の人生で見たどの場面にもなかった思い出だ。

 

 そうやって十四年も生きれば、心の中で自分を「俺」と呼ぶのも、ママに「ただいま」と抱きつくのも、どちらも自分にとっては自然なことになった。俺は正真正銘、鹿目まどかだった。

 

 だから、最後の願いも自分で決めた。

 

 ワルプルギスの夜を前にして、泥に膝をついたほむらちゃんを見た。何度もここまで来た子だった。俺一人を助けるために、助けられなかった俺の顔を一つも忘れず、もう一度初めからやり直してくれた子だった。

 

 俺にはそのとき、彼女の向こうに、ほかの女の子たちまで見えた。

 

 病室で妹の回復を願った子。焼け落ちる村で雨を願った子。祈ったときには確かに誰かを愛していたのに、自分の願いを呪うところまで追い詰められた子たち。

 

 彼女たちのたどり着く先を知っていて、俺の家族だけが無事に朝を迎えられればいいとは、どうしても願えなかった。

 

 すべての時代の魔法少女が、魔女になるその前に、自分の手で迎えに行く。

 

 そう願った。誰に台詞を言わされたわけでもない。

 

 その日から俺は、人間一人として地上に暮らすことをやめた。どこかで一つのソウルジェムが最後の光を失うたび、その子のもとにいた。人は、俺の選んだ生き方を、円環の理と呼んだ。

 

 やがて、ほむらちゃんを迎えに行く日が来た。

 

 インキュベーターが仕掛けた隔離を破り、やっと彼女のところまでたどり着いた。もう一人で戦わせなくていい。そう思って、俺は手を伸ばした。

 

 彼女は俺の手首をつかんだ。

 

 俺がそれまで迎えた誰も、あんなふうにはつかまなかった。溺れている人が岸に上がるための手ではなかった。岸にいる俺を、水へ引きずり込む手だった。

 

 そして俺は、ほんの一瞬、抵抗するのをためらった。

 

 彼女に、もう一度触れてほしかったからだ。

 

 その一瞬で、ほむらちゃんは円環の理から、人として生きた鹿目まどかの記録をもぎ取った。俺の記憶から別れの日を消し、家族の暮らすこの街へ帰して、自分は世界を書き換えられる悪魔になった。

 

 そうして俺は今日、パパの焼いたパンを食べた。さやかちゃんと宿題を写し合った。紅葉のきれいな公園で、弟と笑った。

 

 床に下りてリビングへ行くと、明日の朝に使う弁当箱が、二つ並べて伏せてあった。ママの分と、俺の分だ。

 

 指で一つを起こした。底の隅に、小学校のころ自分でつけた傷があった。

 

 俺は台所の床に座り込んで泣いた。

 

 ほむらちゃんのしてくれたことが、嬉しかった。

 

 嬉しかったからこそ、今度ばかりは、彼女と戦わなくちゃいけないと思った。

 

*

 

 次の日、放課後の屋上に彼女を呼んだ。

 

「写真、ありがとう。大事にするわ」

 

 ほむらちゃんは珍しく、自分からそう言った。スマホの待ち受けにしたのだと、少し恥ずかしそうに見せてくれた。

 

 その顔を見ると、用意してきた言葉はほとんど役に立たなかった。

 

「ほむらちゃん。昨日のわたし、幸せそうだった?」

 

「ええ」

 

「うん。幸せだったよ。本当にありがとう」

 

 そこで、彼女の指が止まった。

 

「……どこまで思い出したの」

 

「あなたが、わたしの手を離さなかったところまで」

 

 風が止まった。校庭から聞こえていた運動部の掛け声も途切れた。フェンスを通り抜けかけた枯れ葉が、金網の穴に半分刺さったまま空中に浮いた。

 

「だったら、わかるでしょう。あなたは家に帰りたかった。家族と別れるのは寂しいって、私に言ったわ」

 

「うん。あれは本当」

 

「私は、あなたが自分に許してあげられなかったものを返しただけよ」

 

「ほむらちゃんは?」

 

「何?」

 

「わたしがみんなとお昼を食べてたとき、あなたはどこにいたの?」

 

 彼女は答えなかった。

 

 記憶の戻った俺には、もうわかっていた。あの公園でご飯を食べる前、俺たちから少し離れていた十分ほどの間に、彼女は世界の裏へ行っていた。円環の理から俺を引き離した継ぎ目にほころびが出るたび、ほむらちゃんはそこを、自分の手で縫い直していた。

 

 写真を撮ったとき、彼女の左の親指には黒い糸が食い込んでいた。たっくんの頭を撫でたのは右手だった。

 

「痛かったでしょ」

 

「あなたが気にすることじゃないわ」

 

 その返事を聞いて、俺はとうとう腹が立った。

 

「勝手に決めんなよ」

 

 ほむらちゃんが目を見開いた。

 

「……その言い方、久しぶりね」

 

「俺はさ、前の人生で、ここから先を知らないんだ。お前が一人で残ったところで、映画が終わったから」

 

 自分が何者だったのかは、ワルプルギスの夜が来る前、二人だけで話したことがあった。彼女はそのときも、少しも笑わずに聞いてくれた。

 

「昔は、見てるだけだった。だから席に座ったまま、こんなの嫌だと思ってた。今はここにいる。お前の指が痛いのもわかる。だったら、黙って弁当食ってられるわけねぇだろ」

 

 ほむらちゃんはしばらく俺を見ていた。

 

 やがて、ひどく優しい手つきで俺の前髪を整えた。

 

「私はね、まどか。あなたが世界中の子を愛せることを、立派だと思っているの」

 

 その指先が額に触れた。

 

「でも私は、あの台所の弁当箱を、また一つに減らすのが嫌なのよ」

 

 気がつくと、俺は教室で帰り支度をしていた。

 

 窓から校庭を見下ろすと、さっき止まった枯れ葉が地面に落ちた。

 

 ほむらちゃんはもういなかった。

 

 何の用事で屋上へ行ったのか、俺には思い出せなかった。ただ、ノートの余白に、無意識のうちに紙コップの絵を描いていた。底に残った、小さな氷を二つ。

 

 それが、最初の負けだった。

 

*

 

 ほむらちゃんに一つだけ、やりにくい仕事があった。

 

 鹿目まどかとしてこの宇宙に生まれてからの記憶は、彼女の手の届くところにある。けれど前の人生の映画館は、この宇宙のどこを探しても存在しない。あの席で男が覚えたやりきれなさを、ほむらちゃんは直接消せなかった。

 

 ほんのわずかな綻びだ。屋上の会話を丸ごと思い出せるわけでも、時間の止まった中を自由に動けるわけでもない。

 

 ただ俺は、何度記憶を閉じられても、もう一度、同じ疑問を持つことができた。

 

 どうして、あの子だけいつも一人なんだろう。

 

 そこから先は、地味で面倒な仕事だった。

 

 円環の理へ戻ろうとしても、その気配をほむらちゃんに悟られれば終わりだった。一度は弓を手にするところまでいったが、弦を引くより彼女の手の方が速かった。

 

 そこで順番を変えた。まず、自分が向こうへ行くのをやめた。

 

 代わりに、ごく小さなものを一つだけ送る練習をした。窓際で消しゴムのかすを見つめ続けて、さやかちゃんに本気で疲れを心配された。小さな白いかけらが初めて机の上から消えた日は、思わず教室でガッツポーズをした。

 

 次に、円環の側から、それを呼び戻した。

 

 掌に消しゴムのかすが落ちてきた。たったそれだけのことが、泣きたいほど嬉しかった。

 

 ほむらちゃんが人としての俺を取り分けても、円環の理は働き続けている。今の俺と、遠い昔の少女を迎えている俺は、同じ願いから生まれた一人だ。ほむらちゃんの作った境目を越えても、受け取ってくれる相手が、確かに向こうにいた。

 

 それから何度も見つかった。やり直すたび、向こうへ送っておいた短い手紙を、自分の掌に取り戻した。

 

『写真を見て。左手』

 

『屋上では時間を止められる』

 

『弓は大きすぎる。矢を一本ずつ』

 

 字が震えている日もあった。結びに『今日の数学、小テスト』と書いた日は、過去の俺に心から感謝した。

 

 一人で全部やったわけでもない。

 

 ある昼休み、屋上へ上がる階段で、さやかちゃんに腕をつかまれた。

 

「あたし、詳しい事情はわかんないけどさ。まどか、あいつをぎゃふんと言わせたいの? それとも仲直りしたいの?」

 

「……両方」

 

「なら、勝ったあとに何て言うか、先に考えときなよ。あんた、そこで泣いて何も言えなくなるタイプじゃん」

 

 そう言って背中を叩いたさやかちゃんは、たぶん、円環の使者だったときのことを思い出してはいなかった。ただ、友達として、どうしても俺に言っておきたかったのだと思う。

 

 その晩、俺は初めて、戦い方ではなく、勝ったあとにしたいことを紙に書いた。

 

 書いてみると、たった一行だった。

 

 その紙だけは向こうへ送らず、制服の胸ポケットにしまった。

 

*

 

 決着の日に選んだのは、見滝原を流れる川の上だった。

 

 誰も巻き込みたくなかった。円環と現世の境を川面に重ねると、鏡の中に潜るように、街の明かりだけを映した無人の見滝原へ出られた。

 

 そこまで来ると、ほむらちゃんはもう、俺の記憶に手を出そうとはしなかった。

 

 黒い羽が水面いっぱいに広がった。

 

「ずいぶん上手になったのね。私に隠れて、そんなことまでできるようになるなんて」

 

「先生がしつこかったから」

 

「そう。なら、最後の授業にしましょうか」

 

 彼女が指を下ろすと、見滝原中の時計が一斉に止まった。

 

 俺の頬のすぐ脇で、銃弾が一つ回っていた。目を動かせるようになったときには、もう二発目が弓を砕いていた。続いて黒い翼が胸を打った。川面を何度も跳ね、橋脚に背中をぶつけて、しばらく息が吸えなかった。

 

 ほむらちゃんは本気だった。

 

 俺が人の姿で生き続けられるなら、俺に一生嫌われたって構わない。そういう覚悟のできる子なのを、俺は誰よりよく知っていた。

 

「帰りなさい、まどか。まだ間に合うわ」

 

 橋の上から告げる声に、息を整えて答えた。

 

「そっちこそ、今なら降参していいよ」

 

「……誰に似たのかしら、その負けず嫌い」

 

「たぶん、ママ」

 

 新しい弓を引いた。

 

 一射目は黒い羽に呑まれた。二射目を放った瞬間には、俺はまた橋脚の下に戻されていた。こちらが有利になりかけるたびに、ほむらちゃんはこの場所の時間を書き直せる。

 

 けれど書き直すときだけ、彼女は左手を開く必要があった。

 

 何度も負けて、やっと覚えた癖だった。

 

 掌には、世界と彼女をつなぐ黒い糸が束になっている。あれを断たない限り、一万回いい矢を撃っても、当たらなかったことにされる。

 

 俺は水を蹴り、ほむらちゃんへ正面から飛び込んだ。

 

「無茶よ。あなたが私より速かったことなんて、一度もないでしょう」

 

「うん。だから、先に撃っといた」

 

 俺の手には矢がなかった。

 

 その代わり、この幾日もの間に一本ずつ円環へ送り届けた矢が、いっせいに俺のもとへ帰ってきた。

 

 雨のような光が見えたのは、ほんの一瞬だ。

 

 ほむらちゃんは翼をひるがえし、前からの矢を払った。後ろから来た数本は、時間を止めてかわした。彼女の髪をかすめた矢が橋を貫き、欄干が水に落ちる。

 

 だが、現世の時間をいくら書き直しても、時間の外から届く矢までは戻らない。彼女が止めた一秒のすぐ次に、また一本が帰ってくる。

 

 彼女の顔から初めて余裕が消えた。

 

 黒い翼が大きく開いた。一本ずつかわすのをやめ、戦いが始まる前までこの場所ごと戻そうとしたのだ。

 

 左手が開いた。

 

 そのときのために、最後の一本だけは、まっすぐ俺の掌に戻るようにしてあった。

 

 一歩の距離で、その矢をつかんだ。

 

「それだけは、もうさせない」

 

 弓につがえる時間はなかった。俺は矢を握ったまま、彼女の掌に絡む黒い糸を真横から薙いだ。

 

 耳の底で、ぶつん、と鈍い音がした。

 

 止まっていた時計が動き出す。

 

 ほむらちゃんはなおも右手で俺の手首をつかんだ。俺を円環から引きずり下ろしたときと、まったく同じ力だった。

 

 今度は、ためらわなかった。

 

 俺はその腕を外し、地面へ降りる勢いのまま彼女を組み伏せた。広げかけた両翼を光の矢で水面に縫い留め、最後に、俺たちの頭上に残っていた世界改変の黒い紋を撃ち抜いた。

 

 見滝原を覆っていた夜空が割れた。

 

 ほむらちゃんは左手を握り、もう一度時間を戻そうとした。何も起きなかった。

 

 もう一度。やはり、何も。

 

 ようやく力の抜けた彼女の腕が、水面に落ちた。

 

「……私の負けね」

 

 そう言った顔は、思っていたよりも悔しそうだった。

 

 俺も、勝ったらもっと気の利いた顔ができると思っていた。実際は肩が痛くて、膝は震えて、洟まで出ていた。

 

 さやかちゃんの言うとおりだった。考えておかなかったら、肝心の言葉は、きっと出てこなかった。

 

*

 

「これで、あなたの望む世界に戻せるわね」

 

 ほむらちゃんは夜空を見たまま言った。

 

「私を連れていきなさい、まどか。あなたには、その権利があるわ」

 

 俺は彼女を押さえていた矢を消した。ほどけた翼の根元に手を差し入れて、二人で橋の下に座り込んだ。

 

「連れていく権利なんて、勝っても貰えなかったよ」

 

「……なら、どうするの」

 

 胸ポケットから紙を出した。川に落ちたせいで濡れていて、広げるのに手間取った。ほむらちゃんが黙って端を押さえてくれた。

 

『ほむらちゃんと、二人で世界を見ていたい』

 

 声に出して読むと、十四歳の字で書いた十四歳のお願いだった。

 

「俺は円環に戻る。俺に会いたいと願ってくれる子がいるから。そこは変えられない。でも、前にほむらちゃんを置いていったのは、間違えたと思ってる」

 

「……私は、迎えを待っていたわけじゃないわ」

 

「うん。俺も、迎えに来たんじゃない。頼みに来た」

 

 彼女の横顔を見た。

 

「俺と同じところに立ってほしい。俺が見てる景色を一緒に見て、俺がまた、自分一人くらいいなくなってもいいって考え始めたら、隣で怒ってほしい」

 

「永遠によ?」

 

「うん」

 

「家族を見送るのよ。あなたの弟が、あなたよりずっと年を取るところも」

 

「……そこが一番、怖い」

 

 正直に言うと、彼女がこちらを向いた。

 

「たっくんが俺の背を追い越す日を見たい。でも、あの小さい手を、いつかもう握れなくなるのは怖い。前は、そういうことを言わなかった。いいことをする人は、寂しくても笑ってなくちゃいけない気がしてた」

 

「あなたは、いつもそう」

 

「だから今は言ってる。ほむらちゃん。俺は、あなたにいてほしい」

 

 彼女は紙に目を戻した。

 

 黒い翼は、もう世界を覆えるほどには大きくなかった。それでも、円環の理から一人の少女を見つけ出し、切り離せた力は、彼女自身のものとしてまだ残っていた。誰かの人生を書き換えるために使わなくても、ほむらちゃんは、世界の境目に立てる。

 

 俺には祈りを見つけることができる。彼女には、どれほど大きな力に包まれた中からでも、一人を一人として見分けることができる。

 

 なら、その両方を、この先の世界の理にできる。

 

「でも、今日じゃなくていいよ。家に帰って、学校に行って、違う生き方を選んでもいい。そのときは、お前が選んだ人生を、俺が最後まで見届ける」

 

「……あなた、私を倒すためにあれだけ用意しておいて、肝心なところは私任せなのね」

 

「そこを俺が決めたら、また喧嘩だろ」

 

 ほむらちゃんはふいに吹き出した。

 

 あんまり自然な笑い方だったから、俺までつられた。ぼろぼろになった二人で、橋の下で、しばらく笑っていた。

 

 やがて彼女は濡れた紙を丁寧に折り、俺に返した。

 

「明日、学校の帰りにあなたの家に行っていい?」

 

「うん。もちろん」

 

「鹿目さんのご両親に、私からも話をしたいわ」

 

「……それって」

 

「勘違いしないで。あなたと行くかは、そのあとで答える」

 

 そう言って立ち上がると、ほむらちゃんは俺に右手を差し出した。

 

 俺はその手を取った。

 

 今度は二人とも、自分の足で立った。

 

*

 

 家族に話をするのは、悪魔に勝つよりずっと難しかった。

 

 パパは紅茶を淹れ直した。誰も、最初の一杯を半分も飲んでいなかった。

 

 ママは俺の話を途中で一度だけ遮った。

 

「まどか。それ、あんたが行きたいって話? 行かなくちゃって話?」

 

 どっちだろう、と俺は考えた。

 

 テーブルの下で、ほむらちゃんが俺の手を握った。代わりに答えてはくれなかった。

 

「……行きたい。会いたい子がいるの。でも、うちにいたいのも、本当だよ」

 

 ママは唇を噛んだ。

 

「そっか。あーあ。両方本当だって言われちゃ、怒りにくいじゃない」

 

 そうぼやいて、結局ママは泣いた。パパも泣いた。俺も、もう取り繕わなかった。

 

 その晩はほむらちゃんも泊まった。夜中に喉が渇いて階下へ行くと、台所でママとほむらちゃんが、二人だけで何かを話していた。

 

「だからね、暁美さん。あの子が無茶をしたら止めてなんて、私は頼まないよ」

 

「……なぜですか」

 

「あんただって無茶する方でしょ。うちに来たときくらい、二人とも怒られる側にいな」

 

 しばらく返事がなかった。

 

 やがて、鼻をすする音がした。俺は水を飲むのを諦めて、そっと階段を上った。

 

 ほむらちゃんが答えをくれたのは、その翌朝だった。

 

 家の前で、ランドセルを背負う年にもなっていないたっくんが、自分も一緒に学校へ行くと駄々をこねた。パパが抱き上げて家へ戻るまで、二人で手を振った。

 

 弟の姿が見えなくなると、ほむらちゃんは言った。

 

「私、あの子が大きくなるところ、見たいわ」

 

「……うん」

 

「そのときあなたがどんな顔をするかも見たい。あなたが救った子が何を願って、それで誰が笑えたのかも、少し知りたい」

 

 それから一度目を伏せて、言葉を選び直した。

 

「違うわね。いちばん大事なことを、また後回しにするところだった」

 

 まっすぐ、俺を見た。

 

「私はあなたといたいの、まどか。あなたを守る用事が、一つもない日にも」

 

 ずっと聞きたかった言葉だった。

 

 世界が滅びるからでも、俺の身に危険が迫っているからでもない。ただ、一緒にいるために一緒にいたいと、ようやく彼女は言ってくれた。

 

「私も、あなたと同じように理になる。ただし、あなたの一部になるつもりはないわ」

 

「うん。ほむらちゃんは、何をする?」

 

「円環にたどり着いた子が、最後まで自分の願いを自分のものにできるようにする。インキュベーターにも、ほかの誰にも、その記憶や望みを勝手に取り上げさせない」

 

 彼女は俺の手を取った。かつて俺を引き裂いた、あの手で。

 

「私がもう一度、あなたのためだと言ってあなたの望みを奪おうとしたら、そのときは私自身をも拒む。私は、そういう盾になるわ」

 

 俺はその指を握り返した。

 

「じゃあ、俺がまた何も言わずに自分を置き去りにしたら?」

 

「止めるに決まっているでしょう。腕力で敵わなくなったくらいで、私が諦めると思うの?」

 

「……思わない。全然」

 

 おかしくて笑うと、ほむらちゃんも笑った。

 

 その日、俺たちは学校へ行った。授業を受け、昼休みにはさやかちゃんたちと机をくっつけた。帰りのホームルームが終わるまで、どちらも世界をどうにかしようとはしなかった。

 

 そして夕方、みんなにさよならを言って、二人で同じ空へ歩いていった。

 

*

 

 二つの理が初めて一緒に迎えたのは、海沿いの町を守って力を使い果たした、そばかすの女の子だった。

 

 俺の差し出した手を見て、彼女はためらった。

 

『あの、少しだけ待ってもらえますか』

 

 防波堤の向こうを、避難していく人たちの背中が遠ざかっていた。その中に彼女の弟がいた。振り返らずに走れと言ったのは自分なのに、最後に一度だけ、顔が見たくなったのだという。

 

 ほむらちゃんが彼女のそばに膝をついた。広げた黒い翼が、少女のソウルジェムを夜明け前の風から包む。残されたわずかな時間を、絶望にも、誰の都合にも奪わせなかった。

 

 やがて坂を上り切った少年が振り向いた。遠くから、大きく両手を振った。

 

 少女が笑って手を振り返した。

 

 それから、自分で俺の手を取った。

 

 送り届けたあと、ほむらちゃんはしばらく、少年の消えた坂を見ていた。

 

「……あなたは、こういう顔を見ていたのね」

 

「いつも見られたわけじゃないよ。今日は、ほむらちゃんが一緒だったから」

 

 彼女は俺の肩に、そっと自分の肩を寄せた。

 

 それが俺たちの、長い長い暮らしの始まりだった。

 

 たっくんは本当に、俺の背を追い越した。

 

 卒業式には寝癖をつけたまま写真に写った。やがて自分の子に自転車の乗り方を教える父親になり、ずっと先には、縁側で昼寝のうまいおじいちゃんになった。

 

 見送った日は、俺の方が先に泣いた。

 

 ほむらちゃんは何も言わずに隣にいた。夕方になると「私も寂しいわ」と言った。あの子が三つのとき、公園で引っ張った髪が思いのほか痛かったことを、まだ覚えているのだという。

 

 それを聞いて、泣きながら二人で笑った。

 

 星座の形が変わるほどの年月が過ぎても、そんな日をいくつも覚えていた。

 

 ある星では、魔法少女の祈りが一粒の種を守り、百年後に、花の季節になると街じゅうが窓を開けた。別の星では、最後まで誰にも本当の名前を教えなかった子がいた。俺たちにも言わなかった。ほむらちゃんは「それでいいのよ」と答えて、彼女が自分で選んだ名を呼んだ。

 

 何も起きない日には、二人だけで腰かける場所を作った。いつの間にかそれは、見滝原の公園にあった、背もたれの少し傾いたベンチになった。

 

 そこで見るものが、いつも同じとは限らない。俺が遠くの町の灯を眺めている間に、ほむらちゃんは足元の惑星で、初めて雨が降るのを見つけたりする。

 

 そういうとき、ほむらちゃんは俺の袖を引く。

 

「まどか。こっちも見て」

 

 昔は、俺が幸せそうな顔をしているかばかり気にしていた人だった。今は、自分がきれいだと思ったものを、俺にも見せたがる。

 

 俺はそれが、たまらなく好きだ。

 

 いつだったか、新しい星に火が灯るのを見届けようと、二人でベンチに座っていた。まだ光を持たない星のまわりに、薄い金色の輪ができていた。

 

 ほむらちゃんが掌の上に、小さなカメラを作った。

 

「あれ。今日は撮る方?」

 

「ええ。あなた、そこで座っていて」

 

 そう言って彼女はカメラを少し離れた場所に置き、下に畳んだハンカチを挟んだ。

 

 懐かしい手つきだった。

 

 赤いランプが点滅を始める。

 

「ほむらちゃん。時間、止めなくて大丈夫?」

 

「十秒もあるのよ、まどか」

 

 彼女は笑った。

 

「あなたの隣まで歩くくらい、十分だわ」

 

 ほむらちゃんが腰を下ろした。俺たちの指が触れた。そのとき、目の前で新しい星が初めて光った。

 

 思わず二人ともそちらを向いてしまったから、写ったのは、仲良くよそ見をした横顔だった。

 

 撮り直そうかと聞いたら、ほむらちゃんは首を横に振った。

 

 俺も、その一枚がよかった。

 

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