人の気配がほとんど失われた、古びた荘。
その一室に、一通の封筒が届いた。
二十代の青年、井上蓮太郎は、それを受け取ると同時に、じっと見つめたまま動けなくなる。手のひらには、じっとりと嫌な汗がにじんでいた。
「頼む……頼むぞぉ……」
誰に聞かせるでもなく呟き、胸の前で封筒を握りしめながら、ただひたすら祈る。しばらくして、覚悟を決めたように、ゆっくりと封を切った。
中から取り出した書類に目を落とした瞬間、青年の顔が歪む。
「…クソ…」
吐き捨てるように呟き、肩を落とした。
そこには、見慣れすぎた一文が、並んでいた。
「残念ながら、今回の採用を見送らせていただきます」
これで、十二回目だった。
いつもと同じように、その封筒をゴミ箱へ放り投げた、その直後だった。
不意に電話の着信音が響く。
「あっ……燈? 急にどうしたの?」
受話器の向こうにいるのは、住田燈。彼にとって、唯一の心の拠り所だった。
「レンくん。最近、お金に困ってるって聞いたけど…大丈夫?」
「い、いや!? 全然!!」
反射的に声が裏返る。
「予定通り、来週一緒に難波行けるからさ。いろいろご馳走するよ」
「ありがとう。でも、無理はしないでね」
「無理なんかしてないって。じゃ、切るよ」
プツン、と通話が途切れる。
受話器を置いた蓮太郎は、ぼそりと呟く。
「どうやって稼ごうか…」
悩むよりも早く、体が動いていた。上着を羽織り、ハローワークへ向かう。
掲示板に貼られた求人票を一枚、また一枚と眺めていく。
「…やっぱり、ここも大卒以上か…」
ため息をつきかけた、そのとき。
数ある求人の中で、ひときわ異質な文字列が、彼の目を引いた。
「…なんだ、これ…?」
そこには、にわかには信じがたい募集内容が書かれていた。
クマのアルバイト。
蓮太郎は、その求人票を手に取り、改めて内容に目を走らせた。バイトの仕事内容は「採用時にお伝えする」と書かれてあった。しかし、それよりも…
「えーっと…誰でもOKで…日給、五万円か」
一瞬、意味を理解できず、首をかしげる。
そのまま別のアルバイトを探そうと視線を移したその瞬間、脳裏にさっきの数字が、遅れて突き刺さる。
「……日給、五万円!?」
掲示板の前で立ち尽くしたまま、心臓がどくんと大きく鳴った。
アカリとの約束、そして目の前の現実が、一気につながる。あまりにも高すぎる日給、仕事内容が書かれていないことに不信感を持ったがそれでも…
「…やるしか、ないだろ…」
蓮太郎は、反射的に応募用紙を手に取った。
数時間後。
蓮太郎の携帯電話が、静かな部屋に着信音を響かせた。画面を見ずに、彼は当然のように思う。
また、燈だろう。
だが、通話ボタンを押して耳に当てた瞬間、その予想は外れた。
「あなたが、蓮太郎さんですか?」
おじさんのような低い声。
蓮太郎は一瞬だけ言葉に詰まり、すぐに答える。
「はい。そうです」
「この度は、応募していただきありがとうございます」
事務的で、妙に淡々とした口調だった。「きっと、クマのアルバイトの面接官だろう」と彼は思った。
「面接やその他の説明は、私の家で行います。今からお伝えする指定の場所に、明日来てください」
一瞬、胸の奥に小さな引っかかりを覚える。
「(面接って、会社とか店でやらないのか?)」
「……分かりました」
そう答えると同時に、蓮太郎は慌ててペンを手に取った。聞き逃すまいと、相手の言葉を一つひとつ、紙に書き留めていく。
翌日。
蓮太郎はタクシーを使い、「面接をする場所」へと向かった。
「…ここで?」
目的地に到着した瞬間、言葉を失い、ただ唖然と立ち尽くす。
目の前に広がっていたのは、雲に届きそうなほど背の高い木々が生い茂る、巨大な森だった。
わずかな気だるさを覚えながらも、蓮太郎はポケットから紙切れを取り出す。電話口で書き留めたメモを頼りに、森の中へ足を踏み入れた。
森の中は、驚くほど静かだった。人の気配は一切なく、聞こえるのは川のせせらぎ、草を踏む動物の足音、鳴き声だけ。
蓮太郎は不思議なことに、日々、アルバイトの面接で落とされ続けてきたストレスが、自然と消えていく。
そのときだった。
「おーい…おーい…」
静まり返った森の中に、聞き覚えのある声が響く。蓮太郎は、足を止め、声のする方向へと振り返った。
そこに立っていたのは、蓮太郎よりも小柄なお爺さんだった。白髪混じりの頭に、深いしわ。そして、杖をついている。
蓮太郎は直感的に「おそらく、この人がバイトの面接官だろう。」と思った。
近づくと、お爺さんは短く言った。
「こっちに来てくれ」
そうして案内された先に、一軒の家があった。それが面接を行う場所らしかった。
中へ入った瞬間、蓮太郎はわずかに目を見開く。
室内はオレンジ色のLEDライトに照らされ、どこか懐かしい一九〇〇年代の洋楽が流れていた。
その空間は、蓮太郎に緊張どころか、不思議な落ち着きさを与えている。
「では、こちらに座ってくれ」
促されるまま席につくと、すぐに面接が始まった。初めに志望理由を聞かれると、蓮太郎は、用意していた言葉を並べて、正直に答えた。
話し終えた、その直後だった。
「面接は以上だ」
あまりにもあっさりした一言だった。
「…え?」
蓮太郎は思わず声を漏らす。
あまりの速さに、頭が追いつかない。
「まさか、志望理由だけで、もう落とされたのか」
焦りと不安が、一気に胸を締めつける。
すると、お爺さんは何も言わず、部屋の奥にある物置のような所へ向かった。
しばらくして、両手で抱えるほど大きな“何か”を引きずり出し、床に置く。
ドサッ。
低く、重い音が家の中に響く。
蓮太郎が見たものは大きな、クマの死体。
…違う。
それは、本物と見紛うほど精巧に作られた、クマの着ぐるみだった。
毛並み、目の光沢、そして鼻を突く獣臭までもが、異様なほどリアルだった。
蓮太郎は、意味が理解できず、ただ唖然と立ち尽くす。
その様子を見下ろしながら、お爺さんは彼に告げた。
「今から、適性検査に入る。これを着なさい」
「適性検査」という言葉を聞き、蓮太郎は安堵の息を吐いた。
まだ、落ちたわけじゃない。
そう思えたのも束の間だった。
仕事内容はいまだに見えず、これから何をさせられるのかも分からない。その不安が、じわりと汗となって滲み出る。
蓮太郎は恐る恐るクマの着ぐるみに手を伸ばした。
だが、その瞬間。
「服は着るな!全裸で着なさい!」
突然の怒声に、身体が強張る。
拒む間もなく、言われるがまま準備を整えるしかなかった。恥ずかしさで思考が追いつかない。
スッ。
着ぐるみを身にまとった瞬間、内部にこもった強烈な獣臭が鼻を突く。吐きそうなくらいに猛烈に臭かったが、必死にこらえた。
「…うっ…」
「四つん這いになって、動いてみろ」
指示に従い、蓮太郎は床に手をついた。
着ぐるみは想像以上に重く、思うように身体が動かない。
それでも歯を食いしばり、無理やり前へ進む。ふと、昔飼っていた犬の動きを思い出し、それを真似るように身体を揺らした。
その様子を見つめながら、お爺さんは小さく頷く。
「…ほう」
意味深に首を傾げたあと、短く告げる。
「では、外に出るぞ」
こうして、クマの着ぐるみに身を包んだ蓮太郎と、お爺さんは家を出た。
向かった先は、すぐ近くを流れる川だった。
川辺に到着すると、お爺さんは無言で地面に一匹の鮭を置いた。
その鮭が、かすかに跳ねる。
「あの…これは?」
戸惑う蓮太郎に、お爺さんは淡々と告げる。
「その魚を、手を使わずに食べてみろ」
一瞬、耳を疑った。
普通のアルバイトなら、この時点で帰っていただろう。
だが…日給五万円。
そして、燈の顔が脳裏をよぎる。
「……っ」
蓮太郎は覚悟を決め、鮭に顔を近づけた。
クマの着ぐるみの口元には、食べ物を通すための小さな開口部が設けられていた。蓮太郎が口を閉じれば、それに合わせてクマの口も閉じる。内部の動きと外見が完全に連動するその構造のおかげで、着ぐるみの中にいながらも、食事に不自由を感じることはなかった。
そして、鮭を飲み込んだ瞬間、口の中に生の魚特有の匂いと感触がいっぱい広がる。
何も加工されていない肉の感触と、着ぐるみの内部にこもった異臭が混ざり合い、思考が白くなる。
それでも、彼は止まらなかった。
獣の真似をするように、必死に喰らいつく。
やがて、すべてを食べ終えた頃には、口の中に嫌な感覚だけが残っていた。
次の瞬間。
グギュルルル。
生の鮭を食べたせいか、蓮太郎に激しい腹痛が襲いかかる。
「…す、すみません…少し…トイレに」
訴えるように声を上げると、お爺さんはなぜか、満足そうな笑みを浮かべた。
「丁度いい」
そう言って、静かに続ける。
「ここで済ませなさい。ちゃんと“そういう造り”になっているから安心せい」
何を言われているのか、理解する余裕はなかった。
腹部の痛みは限界に近づいている。
蓮太郎は、歯を食いしばり、涙を流しながら――
ブリブリッ。
ただ、指示に従うしかなかった。
数分後――。
蓮太郎は、ようやく着ぐるみを脱いでもいいという許可をもらい、その場にへたり込むようにして深く息を吸った。
「蓮太郎くん…君、意外と根性があるな」
お爺さんは、満足そうに目を細めて言った。
「しかも、初めて着ぐるみを着た割には、かなり“クマ”ぽかったぞ」
レンタロウは、喉が乾いたような感覚のまま、か細い声で答える。
「…ありがとうございます…」
その様子を見て、お爺さんは一つ頷き、あっさりと言った。
「うむ。もう、合格だ」
「…えっ!?」
思わず声が裏返る。
その一言を聞いた瞬間、これまで感じていた恥ずかしさも疲労も、一気に吹き飛んだ。
「…よしっ」
無意識に、ガッツポーズをして、小さくそう呟いていた。
合格したことは、もちろん嬉しかった。だが、それ以上にどうしても確認しなければならないことがあった。
「本当にありがとうございます…あの、これから、このバイトでは何をするんでしょうか?それと……まだ、お名前も伺っていなくて……」
お爺さんは穏やかな口調で話す。
「それはな……家で話そうか」
二人は再び家へ戻った。
蓮太郎は急いで服を着直し、促席につく。
すると、お爺さんは湯気の立つカップを一つ、レンタロウの前に置いた。
自家製らしいコーヒーだった。
「私の名前は、高田清志。元・高田自動車会社の社長だった者だ」
その名を聞いた瞬間、蓮太郎は思わず息をのんだ。
高田自動車会社は日本を代表する有名な自動車メーカー。そのトップに立っていた人物が、今、目の前にいる。
驚きと同時に、別の疑問が胸に浮かぶ。
「(そんな大人物が、なぜこんな森の奥で、こんなことを?)」
その表情を読み取ったのか、高田は静かに語り始めた。
「私はな…もう、社会で生きることに疲れてしまったんだ」
「社長を辞め、誰もいない静かな場所で、のんびり暮らそうと思った。だがな…」
高田は、わずかに眉をひそめた。
「私の財産を狙う、愚かな若者が後を絶たんでな。何とか隠れてやり過ごしてきたが…正直、そろそろ疲れてきた」
そして、ふっと口角を上げる。
「そこでだ。誰かが“クマになりきって”、森に近づく若者どもを追い払ってくれたら、と思ったんじゃ」
蓮太郎は、一瞬言葉を失ったあと、恐る恐る尋ねる。
「なるほど…。でも、普通は警備員とかを雇うんじゃ…?」
すると、高田は首を横に振った。
「言っただろう。“一人で暮らしたい”と」
そう言って、きっぱりと言い切る。
「それに、人間の警備なんぞよりもな。クマのような大きな動物のほうが、よほどヤツらはビビるに決まっている」
「…なるほど…」
蓮太郎は相槌を打ちながら、心の中でそっと付け加えた。
(…かなり独特な価値観の人だな)
「話を戻そう」
高田はカップを置き、改めて淡々と告げた。
「アルバイトの内容は簡単だ。朝九時から夜八時までクマの着ぐるみに着替え、家の中、もしくはその周辺で待機するだけでいい。あの着ぐるみには換気や防寒の仕様も備わっておるから、体調面の心配はいらん。そして、もし“奴ら”が現れたら、突進するなり、叫ぶなりして追い払えばそれでいい。」
思っていたより、ずっと単純な内容だった。
「(あの臭い着ぐるみをずっと着ないといけないのか。キツイな…けど、金額のこと考えたらあれくらい耐えてみるか…)」
そう思いかけたものの、すぐに別の不安が頭によぎる。
「(だが着ぐるみを着ただけで、本当に追い払えるのか?)」
半信半疑のまま、蓮太郎は目の前に置かれていたコーヒーカップを手に取った。
そして、今日初めて口をつける。
「…おぉ…」
思わず声が漏れる。
それは、蓮太郎がいつも飲んでいるコーヒーとは、まるで別物だった。ほのかな苦味の奥に、深いコクがあり、香ばしい香りが口いっぱいに広がる。一口飲んだだけで、身体の奥まで染み渡るような感覚があった。
蓮太郎の表情を見て、高田はわずかに口角を上げた。
「一般市民には、なかなか口にできん代物だからな。今日はもう帰って、ゆっくり寝ろ」
「分かりました。ありがとうございます」
蓮太郎は深く頭を下げ、家の外へ出た。
そのとき。
「……ん?何だ?」
森の奥、木々の隙間に、光が現れた。
よく見ると、それは懐中電灯だった。しかも、一つや二つではない。複数人の人影が、こちらに向かって進んできている。
蓮太郎は嫌な予感がすると、再び家の中へ戻った。
「高田さん…外に、人が何人も来てますけど…」
その言葉を聞いた瞬間、高田の表情が凍りついた。
「…来たか」
一拍置いて、低く、しかしはっきりと言う。
「蓮太郎、すぐ“アレ”に着替えろ」
その一言で、すべてを理解した。
森に集まってきているのは、高田が忌み嫌っていた財産目当ての若者たち。
「…分かりました」
そう答えると、蓮太郎は迷うことなく、“アレ”に着替える。今度は恥ずかしさも戸惑いもなく。
♢
「なあ兄貴…いつもこんな小さな家を狙って、本当に大丈夫なんですか?今回も、結局は住人を見つけられないんじゃ…」
「チッ…弱音ばっか吐きやがって」
先頭を歩く男が、苛立ちを隠そうともせず吐き捨てる。
「今日こそ見つけてやるさ。金庫の場所さえ分かれば、たっぷりいただける」
草を踏み分ける音が、闇の森に響く。
ガサッ…ガサッ…
「…ん?」
不意に、草むらから聞こえた音に、全員が足を止めた。
「もしかして…この家、他にも誰か住んでるんですか?」
「いや…人間の足音じゃない」
次の瞬間だった。
ザザァァァ――!!
茂みを割って現れた“それ”に、懐中電灯の光が一斉に集まる。
そこに立っていたのは、自分たちと同じくらいの背丈を持つ、巨大なクマだった。
「…え?ウワァァァァ!!」
クマ(蓮太郎)は、野生そのものの声を上げ、森を震わせるような咆哮が響く。
その迫力に、若者たちは理性を失い…
「に、逃げろーーー!!」
悲鳴を上げながら、彼らは麓へ一目散に向かって走り出した。
逃げ去っていく若者たちの背中を見届けたあと、蓮太郎は家へ戻り、静かにクマの着ぐるみを脱いだ。
張りつめていた身体から、一気に力が抜ける。
「蓮太郎!よくやった!」
高田は珍しく声を弾ませていた。
「やはり、お前はこの仕事に向いている。見込み通りだ」
「あっ…ありがとうございます…」
まだ息が整わないまま、蓮太郎はそう答える。
「ほれ、合格祝いと今日の報酬だ。受け取れ」
差し出された封筒の中を確認し、蓮太郎は目を見開いた。
「……二十万円!?こ、こんなにもらっていいんですか?」
「ああ。この調子で、どんどん頑張れ」
高額の報酬に、胸の奥が熱くなる。
「…はい!」
蓮太郎は深く頭を下げ、そのまま家を出ようとした。
そのとき。
「おっと、待て」
背後から、高田の声がかかる。
「ボーナスの話を、し忘れておった」
「……ボーナス、ですか?」
「ああ。朝九時から夜八時まで待機しろとは言ったがな」
高田は淡々と続ける。
「もし、夜八時以降も、できるだけ長くクマの着ぐるみを着てくれるなら…その分、さらに金を出そう」
「奴らが深夜に現れる可能性もあるからな。一時間につき、五千円だ」
思わず、蓮太郎は息を呑む。
「……分かりました。一応、頭に入れておきます」
それから時は流れ、蓮太郎は徐々にアルバイトに慣れていった。
「若者が近づいてきた追い払うだけで高い給料を貰える。こんなに良い仕事はない」と思うようになり、楽しい日々を過ごしていった。
そして…ついに、その日が訪れる。
「燈ー!お待たせ!」
「レンくん。久しぶり!」
二人は大阪・難波の街を歩き回った。
たこ焼きを頬張り、話題の店に並び、映画を観て笑い合う。時間が溶けていくような、久しぶりの楽しい一日だった。
夜六時。
道頓堀のネオンを眺めながら、二人は屋台で買ったエビの串焼きを食べていた。
「レンくん、今日は本当にありがとう。しかも、全部奢りなんて」
「いやいや、全然。最近、良いバイト見つけてさ」
蓮太郎は照れくさそうに笑う。
「これからも、どんどん良いところに連れていってやるよ。次は…ハワイとかどう?」
「いいね。でも、無理はしないでね」
燈は少し心配そうに続けた。
「きっと重労働なんでしょ?ちょっと、体が臭うよ…」
「…」
その言葉に、蓮太郎の胸が少し痛んだ。
何も言い返せないまま、彼はエビの串焼きにかぶりつく。
バリッ、バリバリッ…
「…レンくん?」
燈が、怪訝そうな声を出す。
「そんなにエビ好きなの?頭も殻も、そのまま食べてるけど……」
「…!?あ、あー…」
蓮太郎は慌てて笑顔を作る。
「そうそう、俺、昔から海鮮好きなんだよな〜。ははは」
軽く流したつもりだった。
だが、燈は串を持つ手を止めたまま、少し距離を取るような目で蓮太郎を見つめていた。
後日、蓮太郎は再び“クマのアルバイト”に出ていた。
その日は、いつになく静かだった。今日は、来ないかもしれない。そう思いかけた、夜七時頃。
「……また来たか」
森の奥に、見慣れた光が現れる。
懐中電灯を持った集団が、迷いなく家へ向かってきていた。
(さっさと追い払って、今日は早く帰ろう)
そう考えながら、蓮太郎は慣れた手つきでクマの着ぐるみに身を包み、裏口から外へ出る。
そして、いつも通り雄叫びを上げながら、若者たちの前へ躍り出た。
…だが、様子が違う。
「兄貴、見つけました!あのクマです!」
「他にいないな。よし、“殺るぞ”」
次の瞬間、若者たちは懐中電灯をしまい、狩猟刀やスタンガンを取り出した。
それを見た瞬間、蓮太郎は理解した。
「こいつら、俺を“人間”だと思っていない。クマとして殺し、高田さんの財産を奪うつもりだ。」
背筋が凍る。
(…やばい)
理性よりも早く、身体が逃げようとした。
だが、重たい着ぐるみは思うように動かない。斜面に足を取られ、距離は一気に詰められる。
「殺せば臓器とか毛皮とか色々売れるだろうな」
武器を構えた集団が、ゆっくりと近づいてくる。
(…やめろ…)
声を出したい。
だが、出せば終わりだ。“中身が人間だ”と気づかれた瞬間、何をされるか分からない。クビになるかもしれない。
(…やめてくれ…)
スタンガンが唸りを上げる。
ビリビリビリ。
青白い光が、目の前まで迫った、その瞬間。
「やめてくれ――!!」
蓮太郎は、最後の抵抗として、無我夢中で腕を振り払った。
ザクッ。
ポタポタポタ…
一瞬の静寂。
次いで、悲鳴が森に響いた。
「う、うわああああ!!」
若者たちは、今まで感じたことのない恐怖に駆られ、一斉に逃げ出していく。
地面には、一人の男が倒れていた。
スタンガンを手から放し、首に深い傷跡を負い、動かない。
蓮太郎は、荒い呼吸のまま、自分の手を見る。
クマの着ぐるみの爪に、濃く、赤い血が付着していた。
「(…俺が…俺が…殺した…?どうしよう…)」
着ぐるみの中で、蓮太郎の呼吸は乱れていく。息が浅く、速くなる。視界がぐらつき、頭の中が真っ白になるが、それでも必死に思考を巡らせる。
「(俺がこの死体を隠したら、人間の仕業だと思われて真っ先に俺が疑われる…。高田さんに正直に話したら絶対クビになる…。)」
「(どうすれば良い…俺は…俺は…)」
「(俺は…)」
「(クマだった)」
蓮太郎は、着ぐるみを脱ぐことなく、ゆっくりと倒れている男に近づく。
「(証拠隠滅はこれしかない…)」
クマの大きな手が動く。
次の瞬間、
ザクッ。
ドバァァァ…
男の腹を引き裂く。辺りに広がる、耐えがたい異臭。
グチャァ…ネチャ…ネチャ…
蓮太郎は目を閉じ、思考を止めるように、ただ食い続けた。
何をしているのか、なぜしているのか。
もう考えなかった。
ただ「クマの行動」として彼は振る舞っていた。
ミチッ…ミチミチミチ。
着ぐるみの内側で、蓮太郎は奇妙な錯覚に囚われる。まるで自分自身が、肉厚な何かに包まれていくような感覚。
翌日。
警察による捜索は行われたが、行方不明となった男の足取りは、掴めなかった。
山に住む1人の高齢者からも、「知り合いが同時期に姿を消している」という証言が相次ぐ。
事件性は否定できない。
そう報じられはしたものの、決定的な証拠は見つからず、捜査は難航した。
ちなみに、
今この瞬間、蓮太郎がクマの着ぐるみを脱ぐと、受け取れる“ボーナス支給額”は、
38,520,000円
終