都会に擦れて実家に居候してたら、闇深JKと同居生活することになった。 作:てぃずなう
夏は、毎年きちんとやってくる。こちらの都合など、まるで意に介さずに。
田舎の朝は煩い。まだ七時にもならないうちから、蝉は鳴き始めていた。一匹や二匹ではない。庭の百日紅にも、塀の向こうの築地松にも、どこから湧いたのかわからない数の声が重なり合って、ひとつの大きな音の塊になっている。
その塊が、網戸の細かな目をくぐり抜けて、二階の六畳間まで流れ込んでくる。
カーテンの隙間から、白い光が一本、畳の上に伸びていた。光はもうずいぶん高いところから落ちてきていて、枕元のあたりをじりじりと温めている。
網戸越しの風はかろうじて夜の涼しさを残していたが、それも昼前には熱を帯びるのだろう。軒先の風鈴が、思い出したように一度だけ鳴った。
その音に混じって、階下から声が聞こえた。
最初はラジオかと思った。母さんは朝、ラジオをつけっぱなしにする人だから。けれど違う。声が二つある。
ひとつは聞き慣れた母さんの声で、もうひとつは、聞き覚えのない、細くて落ち着いた声だった。
「いらっしゃーい!暑かったでしょ、ほら上がって上がって」
母さんの声は、いつもより半音ばかり高かった。笑い声が弾ける。つられるように、相手のくすぐったそうな笑いが小さく続く。
この家で母さんがあんなふうに笑うのを聞いたのは、いつ以来だろう。
少なくとも、俺が帰ってきてからは一度もなかった気がする。
薄い掛け布団を頭まで引き上げて、寝返りを打った。壁のほうを向く。誰か来ている、それだけはわかる。
けれど、それが誰であろうと、俺には関係のないことだ。起きて顔を出す理由が、どこにも見当たらない。
枕元のスマホは、三日前に充電が切れたまま黒い板になっている。充電器に繋ぐ気にもならなかった。繋いだところで、見たいものも、見たくないものも、同じ顔をして並んでいるだけだ。
東京にいた頃は、朝が来るのがあんなにも憂鬱だった。目覚ましが鳴る前に目が覚めて、天井を睨んで、それでも結局は起き上がっていた。起き上がるしかなかったからだ。
今は誰も俺を起こさないし、起きなくても誰も困らない。憂鬱がなくなった代わりに、朝そのものが意味をなくした。
右手を目の前にかざしてみる。掌の皮が、近ごろ少しずつ柔らかくなってきた。
……我ながら、立派な堕落ぶりだ。
口の端だけで笑ってみたが、笑いにはならなかった。
階下では、まだ話し声が続いていた。母さんが何か説明している。
少女の声が、短く、丁寧に相槌を打つ。話の切れ目に、蝉が一段と大きく鳴いた。
「
自分の名前が、はっきりと耳に届いた。
反射的に、布団の中で身を固くする。聞こえなかったことにしたい。だが、続けて母さんが笑い、少女の控えめな笑い声がそれに重なったのが、妙に引っかかった。
笑われたのは、たぶん俺だ。
「翔生ー!ちょっと降りてきてー!」
階段の下から、母さんの声がまっすぐ上がってくる。放っておけば、あと三回は続く。四回目には階段を上がってくる。そういう人だ。
長く息を吐いて、体を起こした。頭をかきながら立ち上がると、畳が軋んだ。
階段は、一段ごとに音を立てる。古い家だ。降りるにつれて、蝉の声が少し遠のき、代わりに味噌汁と畳と、冷たい麦茶の匂いが混じった家の空気が濃くなっていく。
廊下の先で、玄関の引き戸が開け放たれていた。外の光が三和土まで白く流れ込んでいて、その中に母さんの後ろ姿がある。
そして、母さんの向こうに、もうひとり。
見知らぬ少女が立っていた。
逆光の縁取りの中で、長い黒髪が、まっすぐに肩から胸へ落ちている。前髪は眉の少し上で切り揃えられていた。足元に、旅行鞄がひとつ。年は、俺よりずっと下だろう。十代の半ばか、それより少し上か。そして何よりも、整った顔立ちをしていた。
目が合った。
ほんの一瞬、彼女はまばたきを忘れたように見えた。
指先が、提げた鞄の持ち手を握り直す。それだけだった。次の瞬間には、頬がやわらかくほどけて、穏やかな微笑みがそこに浮かんでいた。控えめで、行儀がよくて、少しだけ眉尻の下がった笑い方だった。
小さく会釈をされる。長い髪が、遅れて肩から滑った。
背中のほうで、蝉の声が途切れなく鳴り続けている。
「あ、やっと起きた。ほら、翔生——」
母さんが振り返る。
俺は階段の最後の一段で足を止めたまま、少女から目を離さずに言った。
「……誰?そいつ?」
「こらっ」
母さんの声が、玄関の三和土に跳ねた。振り返った母さんは、笑っているくせに眉だけを吊り上げている。
「もう、第一声がそれ?初対面の女の子に失礼でしょ」
「いや、だって」
「だってじゃない。もう、ごめんねえ。うちの愚息が」
少女は小さく首を振った。「いえ」と、唇だけが動いた。
「この子はね、
「こうたり……?」
『神足』
その名字を、頭のなかで二、三度転がしてみる。思い出すまでに、少し間が要った。盆や正月になると、母さんが電話口で声を一段上げて「久しぶりー」と笑っていた相手がいる。母さんの従姉妹にあたる人で、確か、ずっと東京のほうで暮らしている。
顔は浮かばない。最後に会ったのは、俺がまだ小学生の頃だったはずだ。
娘がいるとは、言われてみれば聞いた気もする。
「でね」と、母さんが言った。
天気の話でもするような、軽い調子だった。
「今日からしばらく、うちで預かることになったから。一ヶ月くらいかな」
「……は?」
慌てて最後の一段を降りようとして、スリッパが片方、脱げた。かかとが空を切り、俺は咄嗟に壁に手をついて体を支える。古い柱が、ぎしりと鳴いた。
「一ヶ月?は、何それ。聞いてないんだけど」
「あれ、言ってなかったっけ」
「とぼけるなよ。一言も言ってないだろ」
「前から話は出てたのよ。まさか、このタイミングになるとは思わなかったけど」
「あ、ちなみに」
母さんは、醤油の場所でも教えるような調子で付け足した。
「朱璃ちゃんには、あんたの部屋を使ってもらうからね」
一拍、間があった。
「……俺の、部屋?」
「そう」
「そうじゃなくて。じゃあ、俺はどこで寝るの」
「そこはほら、なんとかなるでしょ。若いんだし」
「若いとか関係ないだろ」
「空いてる部屋は物置になっちゃってるの。片付けるの大変じゃない。あんたの部屋が一番広いし、日当たりもいいし」
日当たりがいいのは知っている。
毎朝、あの光に寝起きの顔を焼かれているのは俺だ。
母さんはあくまで、あっけらかんとしている。
聞きたいことが一度に喉まで上がってきて、どれから口にしていいのかわからなくなった。いつ決まったのか。なぜ、うちなのか。なぜ、よりによって俺の部屋なのか。そもそも、なぜ俺の知らないところで。
質問が渋滞して、開いた口から出たのは、意味をなさない息だけだった。
「はいはい、あとで、あとで。お客さんの前で騒がないの。向こうの事情で、ちょっとね。ちゃんと前から決まってた話なの」
前から決まっていた。
つまり、決まっていなかったのは俺の頭の中だけらしい。
片方だけスリッパを履いた足で、俺は廊下の板を踏んだまま、何か言い返す言葉を探した。探して、見つからなかった。
昼まで寝ている無職の居候に、家の客を断る権利などあるはずもない。
そのことを、自分でも驚くほどあっさりと理解してしまった。
「……わかった」
「うんうん、物分かりがいい」
母さんは満足そうに頷いた。
腹立たしいほど屈託のない顔だった。
俺は脱げたスリッパを足でたぐり寄せ、咳払いをひとつしてから、あらためて少女のほうを向いた。
彼女はさっきと同じ場所に、同じように立っていた。提げた鞄の持ち手を、両手で揃えて。
「……おはよう」
言ってから、朝の挨拶としては少し遅い時間かもしれない、とどうでもいいことを思った。
「おはようございます」
少女は、小さく会釈をして答えた。
声は思っていたより落ち着いていて、よく澄んでいた。
顔を上げたとき、そこにある微笑みは、さっきと寸分違わない場所に収まっている気がした。
◇
「…………はぁ」
たった今。
俺は、自分の部屋のはずなのに、壁際の隅で膝を抱えている。
着替えを取りに戻ってきただけだった。それなのに、先に荷解きを始めていた少女と鉢合わせて、出ていくきっかけを失った。
かといって、今さら「ちょっとごめん」と箪笥を漁る気にもなれず、そのまま畳に腰を下ろして、今に至る。
視線の先で、少女は黙々と鞄の中身を取り出している。
シャツ、ワンピース、タオル。
ひとつ取り出しては広げ、きれいに畳み直して、押し入れの上の段へ収めていく。手つきに迷いがなく、無駄な音も立てない。
窓から入る風が長い髪を揺らすたびに、彼女は片手で耳の後ろへ流した。
不満なら、いくらでもあった。俺の部屋だ。俺のプライベートだ。
母さんは一言の相談もなく、俺の寝床を「なんとかなるでしょ」で片付けやがった。
そもそも、十代半ばの女の子を、年の離れた男の部屋に放り込むことに、母さんは何も疑問を持たなかったのか。
そう、不満はある。あるのに。
横顔を、つい見てしまう。前髪の下で、睫毛が伏せられている。
ひとつ畳み終えるたびに、小さく息をつくのが見て取れた。
整った顔立ちというのは、こういう何でもない動作が、いちばんよくわかる。
(可愛いな……)
思ってから、慌てて視線を窓の外へ逃がした。
年の離れた親戚の子相手に、何を考えているんだ、俺は。目が拾っただけの感想だ。それ以上でも、それ以下でもない。
そう言い聞かせても、居心地の悪さは変わらなかった。
沈黙は、長引くほど重い。蝉の声と、衣擦れの音と、風鈴がたまに鳴る音。
それだけがある部屋で、俺は勝手に気まずくなって、とうとう口を開いた。
「……荷物、それだけ?」
「はい。着替えと、少しだけです」
手を止めて振り向き、少女は微笑んだ。玄関で見たのと同じ、控えめな笑い方だった。
「そっか」
会話は、そこで終わった。我ながら、下手くそだ。
しばらくして、もう一度——
「ここまで、一人で来たの?駅からだと結構歩いただろ」
「駅からバスで。そんなに遠くなかったです」
言葉の端が、この辺りの人間のものではなかった。
東京のほうの話し方だ。
「………へぇ」
俺は、二つ目の質問も無事に使い果たしたことを悟った。それでも、黙っているよりはましだと思って、立ち上がった。
「押し入れ、上の段だけで足りるか?足りないなら、下も——」
押し入れのほうへ、二歩。距離にして、二メートルもない。
「だい」
声が、そこで途切れた。
少女は、畳みかけたシャツを手にしたまま、動きを止めていた。笑みは、そこに残っている。ただ、その笑みの下で、何かが変わった。
頬の色が、すっと薄くなる。額の生え際に、小さな汗の粒が浮いた。夏の部屋だ。汗くらいは当たり前だ。
けれど、血の気が引いていくのは、暑さのせいではないように見えた。シャツを握る指の関節が、白い。肩が、息をしていないみたいに、動かない。
「……大丈夫、です」
一拍遅れて、続きが出た。声は、少し掠れていた。
「ありがとうございます。上の段だけで、足ります」
笑顔は崩れなかった。崩れないことが、かえって不気味だった。
シャツの端が、細かく揺れている。揺れているのは布ではなく、彼女の手だ。窓からの風は、そこまで届いていない。
旅の疲れか、暑さにやられたか。理由なら、いくらでも探せた。探せるのに、どれもしっくりこない。
ただ、ひとつだけ、はっきりしていた。
今この部屋で、俺は「いないほうがいいもの」だ。
理由は知らない。知らないが、身体のほうが先に、そう判断していた。
「……あ、そうだ」
我ながら、白々しい声が出た。
「俺、ちょっと用事あったんだった。夕飯まで戻らないから、ゆっくりやってて」
「……はい」
少女は頷いた。
「いってらっしゃい」
襖のところで、振り返りかけて、やめた。
階段の一段目に足をかけたとき、背後で、止めていた息を吐くような、かすかな音がした気がした。気がしただけだ。
家を出ると、陽射しが真上から叩きつけてきた。
「あっつ……」
庭の隅に、古いインプレッサが停めてある。キーは、靴箱の上に置きっぱなしだった。
ドアを開けた途端、車内にこもっていた熱が顔に押し寄せてくる。シートは尻が焼けそうなほど熱く、ハンドルは、触れた指がすぐに離れた。
エンジンをかけて、エアコンを最大にする。吹き出し口から出てくるのは、しばらくのあいだ、生ぬるい風ばかりだった。
窓を閉め切ると、蝉の声が分厚い膜の向こうへ遠のいた。聞こえるのは、エアコンの唸りと、自分の呼吸だけになる。
フロントガラスの向こうでは、百日紅が白い光の中で揺れていた。
……行き先は決めていない。用事など、ない。
嘘をつくのは、昔から下手だった。
それでも、あの場で本当のことを言えるわけもない。本当のこと、と言っても、俺自身、何ひとつ知らないのだけれど。
ハンドルに額を預けて、思い返す。あの子の笑顔。
玄関で会ったときから、ずっと同じ形をしていた。口角の上がり方も、目の細め方も、さっきと寸分違わない。
上手な笑い方だ、と思う。上手すぎる。人の顔は、あんなふうには動かない。
笑っているときでも、緩むし、ぶれるし、疲れる。あの子の笑顔だけが、貼り付けたみたいに、一度も崩れなかった。
そして、その下で震えていた指。
ああいう顔を、俺は知っている気がした。何かを必死に押さえつけている人間の顔を。
いつ、どこで見たのかを思い出しかけて、頭の奥のほうが、鈍く痛んだ。
風が、ようやく冷たくなってきた。
ふと見上げたルームミラーに、家の二階の窓が小さく映っている。カーテンは、ぴくりとも動いていなかった。
「しゃあなし……」
深くは考えないことにして、ミラーから目を逸らす。ギアをドライブに入れた。
夕飯まで戻らない、と言ったのは嘘のはずだった。
気づけば俺は、その嘘を本当にしようと、アクセルを踏み込んでいた。
◇
「…………はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
庭に愛車を停めてエンジンを切った瞬間、肺の中身が全部出ていった。人生でこれほど長いため息をついたのは、たぶん初めてだ。
今この場で肺活量を測ったら、ギネスも狙える気がする。
西の空が赤い。蝉の声はいつの間にかヒグラシに入れ替わっていて、庭には、焦げた土の匂いと、台所から流れてくる煮物の匂いが漂っていた。夕飯の時間だ。
俺はハンドルに突っ伏したまま、今日という一日を振り返る——九時間。九時間にも及ぶ、孤独なドライブだった。
最初の三十分は、まだ余裕があった。窓の外の景色を眺めて、ラジオを流して、たまにはこういうのも悪くないな、なんて思っていた。
バカだった。
一時間も走ると、はっきりわかってくる。行き先のないドライブは、ただガソリンを燃やして移動する虚無だ。
気がつけば、出雲大社の前を通っていた。縁結びの神様の前を、縁に恵まれない無職の男が、仏頂面で時速二十キロで通過していく。
観光バスに前後を挟まれて、駐車場待ちの列に巻き込まれて、脱出するのに四十分かかった。神様にまで時間を取られた。
昼飯は、コンビニのおにぎりを一個、車の中で一人で食べた。具は梅だった。酸っぱかった。
Uターンは、途中から数えるのをやめた。
行き止まりの農道で脱輪しかけて、軽く死を覚悟した。
スピーカーからは、失恋ソングばかりが流れてきた。
帰り道は、真正面から西日が差し込んで、サンバイザーなど何の役にも立たなかった。
そして、極め付けが、メーターの警告灯だった。慌てて飛び込んだガソリンスタンドで、勢いのまま「満タンで」と言ってしまった。給油が終わって、店員が告げた金額——
6800円。
無職の財布に、6800円はでかすぎる。
「なんなんだよこの無駄な出費は……」
誰もいない車内に、俺の声だけが虚しく響いた。
ふつふつと、腹が立ってきた。腹が立つ相手を探して、脳が勝手にさまよい始める。
先ず、母さんだ。事前に一言、言っておけばよかったのに。
いや、それよりも——あの子だ。
「はい。いってらっしゃい」って、あの爽やかな笑顔で見送りやがって。
こっちが6800円を燃やしてるあいだ、あの子はあの部屋で、のんびり荷解きをしていたんだろう。
……いや、嘘をついて出ていったのは俺だ。ネカフェで過ごすこともせずに自らが勝手に撒いた種、そんなことは、わかっている。わかっているが、それはそれとして、腹は立つ。理不尽なのは百も承知だ。八つ当たりだ。
「…………くそが」
俺はもう一度、短くため息をついて、車を降りた。ドアを閉めると、ヒグラシの声が、急に近くなった。
玄関の引き戸の前で、いったん立ち止まる。深呼吸をひとつ。別に、何も悪いことはしていない。ただ家に帰るだけだ。
そう自分に言い聞かせて、戸に手をかけて、がらりと開けた。
味噌汁の匂いが、顔にぶつかってきた。三和土には、俺の履き古したスニーカーの隣に、小さな靴が一足、踵をきちんと揃えて置かれている。
「あ、おかえりー!遅い!もうご飯できてるよー!」
奥から、母さんの弾むような声が飛んできた。
「……ただいま」
自分でも驚くほど、小さな声だった。
◇
晩飯は、いつもより賑やかだったらしい。らしい、というのは、俺がほとんど何も覚えていないからだ。煮物の味と、母さんが一人で喋り続けていたこと。
それから、少女が卓のいちばん端、俺からいちばん遠い席で、箸の先だけを使って行儀よく食べていたこと。覚えているのは、それくらいだ。
食器を流しに下げて、二階の自室に上がった。もう半分、他人の部屋になった自室に。壁際には、彼女の旅行鞄がぴたりと寄せて置かれている。
それだけで、見慣れた六畳間が、よその家の客間みたいに見えた。
畳に寝転がって、天井の染みを数えた。十一個まで数えたところで、喉が渇いていることに気づいて、麦茶でも飲むかと体を起こした。
階段を降りると、リビングの明かりがついていて、カリカリとシャーペンの音がしていた。
廊下から覗く。
テーブルに数学の問題集とノートを広げて、少女がうつむいていた。シャーペンを持つ手が、動いては止まり、止まっては動く。
ページの端には、消しゴムのカスがこんもりと溜まっている。
前髪の下の眉間に、うっすらと皺が寄っていた。同じ行を、睫毛が何度も往復している。
見事に、手こずっていた。
昼間の、貼り付けたような笑顔とは、まるで別物だった。年相応の、普通に困っている顔だ。
そっと台所へ回って麦茶だけ取って引き返すつもりだったのに、廊下の板が軋んで、彼女が顔を上げた。シャーペンの先が、一瞬、紙の上で止まる。
それから、ふわりと微笑んだ。
「こんばんは」
「……こんばんは〜」
間の抜けた返事しか出なかった。
「翔生、こっちこっち」
台所から、洗い物の手をエプロンで拭きながら、母が出てきた。手招きをしている。俺が近づくと、母は少女のほうをちらりと見て、声を落とした。
「見てよ、あれ。数学で詰まってるのよ。お母さん、数学って全然ダメじゃない?分数の引き算でもう無理」
「それ算数だよ」
いきなり、母さんの口元が、にんまりと持ち上がった。
……息子が言うのもなんだが、母さんは普通に美人の部類に入ると思う。四十手前とは思えない童顔で、笑うと目尻がきゅっと下がって、年齢不詳の女の子みたいになる。
「………なんだよ」
その顔が、今、何かを企んでいる。経験則だ。この顔をしているときの母さんは、だいたいろくなことを考えていない。
期待に満ちた目が、俺と少女を、交互に見比べていた。
算数すらまともに解けない母が、わざわざ俺を呼んで、小声で言う。
少女は、数学で詰まっている。
ここまで材料が揃えば、馬鹿でも察しがつく。
「勉強のお手伝いをしろ、と?」
「ザッツライト!」
母さんは、人差し指を俺にびしっと突きつけた。
ザッツライト、じゃない。
こちとら今日一日で、朝は叩き起こされ、部屋は奪われ、九時間走って、6800円を失っているのだ。しかも原因をたどっていくと、その大半は少女に行き着く。
いや、違う。半分は母さんのせいだ。いや、嘘をついて出ていったのは俺だ。誰のせいなのかもわからなくなってきて、とにかく俺は、あらゆるものに腹を立てていた。
腹が立ちすぎると、人間はどこかで振り切れるらしい。
「……やってやるよ」
思ったより、声が出た。
「どうせ数Ⅰだろ。楽勝だよやってやる。全部まとめて、まとめて面倒見てやるよ!」
拳まで握っていた。意気揚々と、と言ってもいい。自分でも何を張り切っているのか、よくわからなかった。
テーブルのほうで、少女が目を丸くして、ぱちぱちと瞬きをした。
「あら、頼もしい」と、母さんが満面の笑みで頷く。
「声は大きいけどね。じゃあ、お願いね。あ!いけない」
母さんはわざとらしく手を打った。
「お隣に回覧板、持っていかなきゃ。ついでにちょっとだけ、おしゃべりしてくるから。二人でじっくりやってなさいね!」
言い終わる前に、エプロンを外していた。スリッパの音が、驚くほどの速さで廊下を遠ざかる。玄関の戸ががらりと開いて、ぴしゃりと閉まった。
シンクには、まだ半分、洗い物が残っている。
(逃げたな……)
リビングには、冷蔵庫の低い唸りと、窓の外の虫の声と、止まったままのシャーペンだけが残った。
「……よろしく、お願いします」
少女が、小さく頭を下げた。顔を上げたとき、そこにある微笑みは、昼と同じ場所に収まっていた。
「よろしく。……あっ」
しまった。麦茶を取るのを、完全に忘れていた。
「まあ、いいか……」
「……?」
テーブルの向かい側の椅子を引いて、腰を下ろす。四人掛けの、ありふれたテーブルだ。幅は一メートルちょっと。
彼女のノートは、当然のように彼女の側を向いていて、つまり俺からは逆さまだった。
「えっと、どこで詰まってる?」
「ここです。場合の数の、順列のところで」
「……順列?」
少女が、ノートをこちらへ滑らせてくれる。ノートは俺の手前でぴたりと止まった。
ぎりぎり俺の指が届く位置を狙ったような、精密な止まり方だった。
覗き込むと、式が目に入った。
『₇P₃ = ?』
下にも、同じような順列の計算問題がずらりと並んでいる。
「はえー……もう数Aやってんだ」
母さんが分数などと言っていたから、勝手に簡単な範囲を想像していた。
どうやら都会の高校生は、俺の思うよりも賢いらしい。
「えーっと。例えばこれなら、7から始めて、一個ずつ減らしながら、三つ掛けていけばいい」
少女は、ノートに向き直る前に、ほんの少しだけ首を傾げた。
「……あ、そっか」
ペンが走る。さらさらと、正しい式ができあがっていく。次の問題は、俺が説明を始める前に、自分で解いてしまった。
「……できてるじゃん」
「いえ。教えていただいたので」
……何が、数学が苦手だ。母さん、相変わらず見る目がなさすぎる。
一回で通じる。説明した分だけ、きれいに頭に入っていく。教える側からすれば、こんなに楽な相手もいない。
ただ。問題は、そこじゃなかった。
逆さまのノートは、やっぱり読みにくい。ノートを俺のほうへ引き寄せて、見て、また彼女のほうへ滑らせる。
その往復を三回やったところで、これはさすがに非効率だと気づいた。
「ちょっと、そっち寄るわ」
椅子を斜めに引きずって、彼女の側へ回り込もうとした。
俺が一歩ぶん寄ると、彼女の椅子が、すっと一歩ぶん、遠ざかった。
畳を擦る、かすかな音。偶然だろう。そう思って、もう一歩寄る。すっ。もう一歩。すっ。
気づけば、テーブルの角を挟んで、俺は前のめりに、彼女は後ろ寄りに、奇妙な姿勢で向かい合っていた。端から見たら、面接か、取り調べだ。
彼女は笑っている。ずっと、丁寧に笑っている。声も落ち着いている。
ただ、腕を伸ばしたら届くか届かないかの間合いだけは、何があっても譲らなかった。
年の離れた男が相手だから、警戒しているのか。人見知りなのか。理由は知らない。
知らないが、こっちはこっちで、昼間にだいぶ譲歩しているのだ。6800円費やしてまで車で逃げたのに、また同じ部屋の空気を吸わせられて、あまつさえ今夜の寝床さえ決まっていない。
「ここ、途中の式が、一個飛んでる」
「はい」
「だから、こっちから順番に、一個ずつ追っていけば」
「はい、わかりました」
返事も、妙に早かった。
気になって、もう一度説明する。
「はい」
次の問題へ。
「はい」
その「はい」の速さが、段々と、わかっているときのそれではなく、早くこの時間が終わってほしいときのそれに聞こえてきた。
「……今の、絶対わかってないだろ」
「わかりました」
「じゃあ、言ってみろ。今の、どこが違ってた?」
少女は、答えなかった。笑顔の形は崩さないまま、視線だけが、ノートの上を滑っていた。俺の指のほうは、一度も見ていない。
俺の中で、何かがぷつんと切れた。
今日一日、こっちは振り回されっぱなしなのだ。
せっかく引き受けたのに、これか。
「見ろって。ここ。ここが、こうなるから——」
俺は、立ち上がった。
ノートに覆いかぶさるようにして、ペン先で式をトントンと叩く。肩が触れるか触れないかの距離。「ちゃんと聞いてんのか」と、続けようとした。
——続けられなかった。
少女の体が、ぴしりと固まるのがわかった。
肩が、跳ねるように持ち上がる。
シャーペンが、指から離れて、ノートの上を転がった。
彼女の左手が、顔の左半分を覆っていた。
片目を隠すようにして、手のひらが目元に押し当てられている。
隠れていないほうの目が、俺ではなく、俺の肩のあたりの何もない空間を見ていた。
焦点が、合っていない。
唇の色が、さっきまでと違って薄い。
笑顔は、そこになかった。
玄関で会ってから、貼りついたみたいに一度も崩れなかった笑顔が、跡形もなく消えている。
代わりにあったのは、年相応の、いや、それよりずっと幼い、怯えた顔だった。
「近い、です……」
消え入りそうな声だった。
俺は、ペンを握ったまま、動けなくなった。
窓の外で、夜の虫が鳴いている。やけに、大きく聞こえた。
沈黙が、五秒か、十秒か続いた。
先に動いたのは、彼女のほうだった。唇が、かすかに動く。
「……すみま、せん」
蚊の鳴くような声だった。
左手は、まだ目元を覆ったまま。
笑顔は、戻ってこなかった。
「……謝んなよ」
自分でも驚くほど、低い声が出た。
「謝られたら、こっちが悪くなるだろ」
少女の肩が、びくりと跳ねる。それを見た瞬間、頭の片隅で、大人気ない、という言葉がちらりと点滅した。点滅しただけだった。
口のほうは、もう止まらなかった。
「なあ、何なんだよさっきの。『近いです』って。ノートを見るのに、他にどうやって見ろってんだよ。こっちは朝から叩き起こされて、部屋は取られて、寝る場所もなくて、九時間——いや、それはいいわ。とにかく、頼まれたから教えてんだよ。親切でやってんだよ、こっちは」
ペンをテーブルに叩きつけたい衝動を、かろうじて押さえた。
「それが何だ。人のこと、犯罪者みたいな目で見やがって。俺がやましい気持ちで近づいてるとでも思ってんの?」
言った自分の声が、リビングの壁に跳ね返って戻ってくる。冷蔵庫の唸りが、一段、大きくなった気がした。
彼女は、答えなかった。うつむいた前髪の下で、見えているほうの目が、固く閉じられている。
「どいつもこいつも、特に都会の奴らはみんなそうだ。勝手に決めつけて、勝手に距離とって、勝手に——」
そこで、言葉が詰まった。喉の奥に、何かが引っかかる。
いつかの、どこかの、誰かの顔が浮かびかけて、すぐに消えた。
「……いい。とにかくな」
息をひとつ吐く。
「……でも」
声がした。
掠れた、小さな声だった。固く閉じられていた目が、うっすらと開いて、初めて、まっすぐに俺を見た。怯えたままの目だった。それでも、逸らさなかった。
「男の人は、みんな、そう言いました」
一拍遅れて、何を言われたのかを理解した。理解した途端、怒りより先に、呆れのほうが、一段飛び越えてやってきた。
ただ、その呆れの底に、ちくりと刺さるものがあった。
(……そこまで警戒されるような人間に、俺は見えるのか)
ほんの一瞬、そんなことを思って、すぐに馬鹿らしくなった。
「妄想がひどいな。作家になったほうがいいよ。今からでも小説書いたら?」
笑ってやるつもりだったのに、笑いにならなかった。口の端が、引きつっただけだった。
少女は、動かなかった。目元を覆った手の、指先だけが、小さく震えている。
それが、また腹立たしかった。震えているのは彼女で、被害者みたいな顔をしているのも彼女で、でも、いま彼女を追い詰めているのは、どう見ても俺だ。わかっている。わかっていて、止まれなかった。
今日一日、溜め込んできたものが、せきを切ったように溢れてくる。
「だいたいな、勘違いすんなよ。少なくとも俺からしたら——」
テーブルの上を転がったままのシャーペンを、睨みつけた。
最後に、いちばん吐き捨てたい言葉が、すとんと喉から落ちてきた。
「お前に、そんな価値ないから」
少女は、何も言わなかった。
いや、言えなかったのだろう。彼女は、口を半分開けたまま、俺を見ていた。傷ついた顔、とは違うような気がした。もっと、何を言われたのかわからないでいる子供のような、ひどく無防備な顔だった。
目元を覆っていた左手が、いつのまにか膝の上に落ちている。
睫毛が、一度だけ、ゆっくりと瞬いた。目尻が、わずかに赤い。泣くのか、と身構えたが、涙は落ちなかった。
代わりに、強張っていた肩から、ふっと力が抜けていくのが見えた。
ずっと息を止めていた人間が、ようやく空気を吸い込んだときみたいに。
その反応が、傷ついているのか、呆れているのか、俺にはさっぱりだった。
「………」
暫くして、リビングがやけに静かなことに気づいた。冷蔵庫の唸りと、窓の外の虫の声。それしかない。
沈黙のなかで、じわじわと、血の気が引いていった。
「…………悪い」
十六だ。たぶん。十六の女の子に、俺は何を、全力で説教しているんだ。二十四にもなって。母さんが回覧板に出かけた隙に、無職の居候が、親戚の子相手に。
しかも、相手は泣きそうな顔をしていた。
「いや、流石に言い過ぎた……みっともなかったと思う。ごめん」
短くそれだけ言って、ごまかすように、テーブルの上のノートへ目を落とした。
「あー、えっと……さっきの範囲な。お前の能力なら、落ち着いてやれば、絶対解ける。わかんなくなっても、教科書の例題でも見ながら、ゆっくりやれば……大丈夫」
早口でまくし立てながら、椅子を引いて立ち上がろうとした。麦茶を取りに行く、という体でもいい。
とにかく、この空気から、一刻も早く脱出したかった。
「じゃあ——」
背を向けかけた、その背中に。
「あの……っ!」
声がかかった。
振り返ると、少女は、ノートを両手で持って、腕をいっぱいに伸ばして、テーブルの上に差し出していた。距離は、さっきと同じままだ。
一歩も、近づいてこない。それでも、その腕は、震えながら、まっすぐに俺のほうへ伸びていた。
「教えて、くれませんか……?」
……耳を疑った。
つい今しがた、俺は、この子を泣かせかけた。説教して、傷つけて、逃げようとした。
その相手が、震える腕を伸ばして、教えてほしいと言っている。
「え。あ、いや」
舌が、うまく回らなかった。耳の後ろが、じわりと熱い。何か気の利いたことを言おうとして、何ひとつ浮かばず、結局、口から出たのは、間の抜けた息だった。
「……そりゃあ。いい、けど」
「はい。お願い、します」
少女の腕が、ほんの少しだけ、下がった。それでも、ノートは差し出したままだ。俺は、テーブルの端をつまむようにして、それを受け取った。指と指は、一ミリも触れなかった。
開かれたページには、さっきの続きの問題が、ずらりと並んでいる。
「……このページ、全問自分で解いてみて。間違ってても、いいから」
「はい」
ノートを彼女のほうへ滑らせて返す。それから、さっきまで座っていた椅子には戻らず、テーブルの対角にあたる席へ、静かに腰を下ろした。
大げさなくらいの距離だった。それでも、彼女の肩が、ほんの少し下がったのが見えたので、たぶん、これで正解だった。
シャーペンが、走り始めた。
さらさら、さらさらと、迷いのない音が続く。さっきまで手こずっていたのは何だったのかと思うほど、ペン先は、止まらない。途中式を省かず、掛ける数を一個ずつ書き並べて、一行ずつ、きれいに積み上がっていく。
横顔は、笑っていなかった。貼り付けた笑顔でも、怯えた顔でもない。
ただ、真剣な顔だった。目元の赤みも、いつのまにか引いている。ノートの上を走る指の震えは、書き始めてしばらくすると、止まっていた。
俺は、手持ち無沙汰に、テーブルの木目を数えた。壁の時計の秒針が、コチコチと鳴っている。
母はまだ、帰ってこない。回覧板に、どれだけ時間をかけているんだ。
沈黙は、さっきまでの、凍りついたそれとは、少しだけ、質が違った。違うと思いたかっただけかもしれない。
何を話すのか、自分でも決めていなかった。決めていないのに、口が、勝手に動いていた。
「話しかけていい?」
シャーペンの音は、止まらなかった。
彼女は、視線をノートのインクに残したまま、小さく、頷いた。
……さて、何から話そう。
聞きたいことなら、山ほどある。さっき、手で目を覆ったのはなぜなのか。俺が近づいただけで血の気が引いていく、あの顔は何なのか。それから、なぜ一ヶ月も、よりによってこの家に預けられることになったのか。
他にも、数え出したらきりがない。
けれど、そのどれも、今、聞くべきことではない気がした。
とにかく、一番話さないといけないことは、そういうことじゃない。
ノートに向かう彼女の横顔を見たまま、できるだけ静かな声で、言った。
「お前……」
言いかけて、止まった。
お前、は、さっき散々使った。人を突き放すために、投げつけた呼び方だ。同じ口で、同じ呼び方で、優しいことを言おうなんて、さすがに気持ちが悪い。
かといって、「朱璃」と呼べるほどの距離でもない。「神足」も、どこか他人行儀だ。
「君……」
少し考えて、言い直した。意識して、一語ずつ、置くように。
「多分だけど、君。今まで色々と大変だったんだろ」
「……え?」
シャーペンの音が、止まった。
少女が、ゆっくりと、顔だけをこちらに向けた。体は、ノートのほうを向いたままだ。長い前髪の下で、目が、俺をとらえる。
目が合った。
さっきまでの怯えは、そこにはなかった。かといって、あの貼り付けたような笑顔でもない。大きく見開かれた目が、驚いたように、何かを確かめるように、じっと俺を見ている。瞬きの音まで聞こえそうな静けさだった。
俺は、逸らさなかった。
逸らしたら、今言ったことが、嘘になる気がした。
「さっき、『男の人は、みんな』って言ってたから。それでなんとなく、そう思っただけ」
淡々と言って、少し間を置く。
「とにかく、ここにいる一ヶ月、ずっと気を張ってほしくないからさ……俺にも母さんにも、変に気を遣って笑わなくていいし、飯のとき、端っこの席のほうが楽なら、そこにいてくれていいし。俺とか母さんが、もし嫌なことをしたんだとしたら、そん時にすぐ伝えてほしい」
「…………」
「それと、ここまで踏み込んでいいのか、正直わからないけど」
息を、ひとつ吸う。
「いつか、話せるようになったら。そのときは、正直に話してくれると、嬉しい。俺、人と喋るのは結構好きだからさ」
彼女は、何も言わなかった。丸くした目のまま、唇がほんの少しだけ開いて、閉じる。何かを言いかけて、飲み込んだように見えた。
沈黙の中で、先に気恥ずかしくなったのは、俺のほうだった。
「うん……まあ、それだけ」
言い終えると、リビングは、ひどく静かになった。
冷蔵庫の唸りと、壁の時計の秒針の音だけがある。
ペン先は、止まったままだった。
彼女の口元が、ふっと緩んだ。貼り付けたものとは違う、力の抜けた、ほんの一瞬の笑みだった。目尻が、少しだけ下がる。見間違いかと思うくらい早く、それは消えた。
——初めて、自然に笑ったのだと思う。
それから、彼女は視線をゆっくりと、ノートのインクに戻した。
「翔生、さんって……いい人、ですか」
「え?」
……名前で呼ばれた。しかも、さん付けで。ついさっき、怒鳴り散らして、泣かせかけた相手にだ。まさか、そんな子が、わざわざ名前を呼んでくれるとは思わなかった。
(……いい人、か)
考えたこともない。少なくとも、自分についてそんな問いを立てたことは、一度もない。
リビングは静かだった。冷蔵庫が、低く唸っている。壁の時計の秒針が、答えを急かすみたいに、コチ、コチ、と進む。
窓の外では、夜の虫が鳴いていた。昼間の蝉とは違う、細くて、どこか寂しい音だった。
「……いい人、かぁ」
声に出してみても、その言葉は、うまく手のひらに乗ってくれなかった。
「あんましピンとこないな」
俺は、いい人なんだろうか。
朝、起きる理由すら見つけられなかった男が。無職の身で実家に転がり込んで、母さんの尻に敷かれている男が。
いい人かどうかを問う前に、まず、人としてどうなんだ、という話ではないのだろうか。
それに、さっきの言葉——
『お前に、そんな価値ないから』
泥を吐いた舌の根は、まだ乾いていない。
喉の奥に、苦いものが引っかかっている。
「……少なくとも、二十四にもなって働きもせず実家に居候して、挙げ句の果て、親戚の子に説教超えて暴言まで吐き出す……わるい人だと思うぜ」
笑ったつもりだったが、乾いた息が漏れただけだった。自分で言って、自分で刺さった。患部は、思っていたより重症だった。
少女は、すぐには答えなかった。
ただ、瞬きを二回した。ぱち、ぱち、と。それから、ほんの少しだけ首を傾げた。何を言われたのか、頭の中で一度、噛みしめているみたいに。
そして、ふっ、と息が漏れた。
「…………ふふっ」
彼女は慌てて、シャーペンを持った右手の甲で、口元を押さえた。肩が、小さく揺れている。笑いをこらえようとして、こらえきれていない。目尻が下がって、三日月の形になる。耳のあたりが、ほんのり赤い。
あの、貼り付けたような笑顔とは、まるで違った。計算も、取り繕いも、そこにはない。ただ、おかしかったから笑った、という顔だった。
そういう顔が、驚くほど自然に似合う子なのだと、俺はそのとき初めて気づいた。
「……すみません。笑うところじゃ、なかったですよね」
「いや、笑ってくれ。わるい上に惨めな人が誕生するところだった」
「……私も、居候なので」
口元を押さえた手の下から、くぐもった声がした。
「お揃い、ですね」
不意打ちだった。返す言葉が見つからなかった。
(……なんなんだ。この子)
胸のあたりも、変にくすぐっく感じる。
彼女は、まだ少し笑いの余韻を残したまま、ペンを握り直した。前髪のひとふさを、指で耳にかけて、ノートに向き直る。
シャーペンが、また走り出した。その音を聞きながら、俺は黙って、喉が渇いていることだけを、もう一度思い出した。
やがて、ペンの音が止まった。彼女が、ノートを両手で持って、さっきと同じように、腕をいっぱいに伸ばして差し出してくる。
俺も、同じようにテーブルの端をつまんで受け取った。
全問、正解だった。
ケアレスミスすら、ない。さっき教えたことが、ひとつ残らず、ちゃんと使われている。
俺の出番は、最初の一問だけだったのではないか。そんな気さえした。
「……満点」
「ありがとうございます。教えていただいたおかげです」
「いや、俺、ほとんど何もしてないんだけど」
本音だった。少女は、困ったように、少しだけ眉を下げた。
そこで、会話が途切れた。
壁の時計の秒針が、やけに大きく響く。彼女は、開いたままのノートの端を、指先でそっと撫でていた。何か言うべきか、このまま黙っているべきか、俺には判断がつかなかった。
不意に、玄関の外で話し声がした。
母さんの声と、もう一人。お隣の奥さんの、よく通る笑い声だ。声はなかなか遠ざからず、同じ場所を行ったり来たりしていた。
五分。十分。ようやく、がらり、と玄関の戸が開いた。
「ただいまー!ごめんごめん、遅くなっちゃった。お隣の奥さんに捕まっちゃってさあ」
廊下を、スリッパの音がぱたぱたと近づいてくる。それだけで、リビングの空気が、ふっとほどけた。
時計を見た。回覧板一枚で、一時間半。
(……わざとらし)
母さんは、手ぶらでリビングに入ってきて、テーブルの上を見渡した。
向かい合ってもいない二人と、ノートと、シャーペン。
「あら、ちゃんとやってたのね。どう、捗った?」
「はい。とても、わかりやすかったです」
少女が、ノートから顔を上げて、控えめに微笑んだ。昼間と同じ笑顔だった。ただ、それがさっき一瞬だけ見せた笑みとは違うものだということが、今の俺には、なんとなくわかった。
「でしょー?うちの子、こう見えて頼りになるのよ」
「………あざす」
「わ、めずらし。……あ!お風呂沸いてるから、朱璃ちゃんから先に入ってね!翔生は、そのあと」
少女が、小さく頭を下げて、ノートと筆箱を胸に抱えて立ち上がる。すれ違うとき、彼女は、俺から腕二本ぶんほど距離をとって通った。
俺は、壁際に体を寄せて、道を空けた。
「……はぁ」
少しでも心を開いてくれたと思ったのは、俺だけだったらしい。思ったよりも深く、肩のあたりが、すうっと落ちていく。
廊下の奥で、風呂場の戸が閉まる音がした。
「あらあら」
台所の入口に、母さんがもたれかかっていた。にやにやしている。いつからいたんだ。
「腕二本ぶんって感じだったわねえ。年頃の女の子だもの、警戒されて当然よ」
「……お前さ。それ知りながら、俺に勉強教えさせたの?」
「ん?おまえ?」
いきなり、母さんの笑顔が、ぴたりと固まった。口元は笑っているのに、目だけが、笑っていない。
「……お姉さん」
母さんは満足したのか、にんまりと笑った。……あぶないあぶない。息子ともあろう者が、母親の機嫌一つとれないところだった。
「あ、そうだ、翔生。あんたの寝床だけどね」
母さんが、思い出したように喋る。
「今夜は、リビングに布団敷くから」
「リビング」
「ほら。なんとかなったでしょ?」
「……ああ。なんとかなったな」
反論する気力は、もう残っていなかった。それに、気づいてしまったのだ。俺がリビングで寝れば、あの部屋は、彼女ひとりのものになる。
さっき、彼女の肩がほんの少し下がったのが見えた。あれがもし、一人きりで眠れる夜のことを考えた肩だとしたら。
リビングの床くらい、安いものだ。
夜は、静かに更けた。
リビングの隅に、母さんが敷いてくれた布団。天井の電灯を消すと、冷蔵庫の唸りが、昼間より大きく聞こえた。
天井の向こうで、畳が、きしり、と一度だけ鳴った。二階、元俺の部屋。それきり、何も聞こえなくなった。
寝返りを打つ。朝、起きる理由が見つからなかったのは、今朝の話。
何だか、ずいぶん昔のことのように思えた。