都会に擦れて実家に居候してたら、闇深JKと同居生活することになった。   作:てぃずなう

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誰?そいつ?

 夏は、毎年きちんとやってくる。こちらの都合など、まるで意に介さずに。

 

 田舎の朝は煩い。まだ七時にもならないうちから、蝉は鳴き始めていた。一匹や二匹ではない。庭の百日紅にも、塀の向こうの築地松にも、どこから湧いたのかわからない数の声が重なり合って、ひとつの大きな音の塊になっている。

 その塊が、網戸の細かな目をくぐり抜けて、二階の六畳間まで流れ込んでくる。

 

 カーテンの隙間から、白い光が一本、畳の上に伸びていた。光はもうずいぶん高いところから落ちてきていて、枕元のあたりをじりじりと温めている。

 網戸越しの風はかろうじて夜の涼しさを残していたが、それも昼前には熱を帯びるのだろう。軒先の風鈴が、思い出したように一度だけ鳴った。

 

 その音に混じって、階下から声が聞こえた。

 

 最初はラジオかと思った。母さんは朝、ラジオをつけっぱなしにする人だから。けれど違う。声が二つある。

 ひとつは聞き慣れた母さんの声で、もうひとつは、聞き覚えのない、細くて落ち着いた声だった。

 

「いらっしゃーい!暑かったでしょ、ほら上がって上がって」

 

 母さんの声は、いつもより半音ばかり高かった。笑い声が弾ける。つられるように、相手のくすぐったそうな笑いが小さく続く。

 

 この家で母さんがあんなふうに笑うのを聞いたのは、いつ以来だろう。

 少なくとも、俺が帰ってきてからは一度もなかった気がする。

 

 薄い掛け布団を頭まで引き上げて、寝返りを打った。壁のほうを向く。誰か来ている、それだけはわかる。

 けれど、それが誰であろうと、俺には関係のないことだ。起きて顔を出す理由が、どこにも見当たらない。

 

 枕元のスマホは、三日前に充電が切れたまま黒い板になっている。充電器に繋ぐ気にもならなかった。繋いだところで、見たいものも、見たくないものも、同じ顔をして並んでいるだけだ。

 

 東京にいた頃は、朝が来るのがあんなにも憂鬱だった。目覚ましが鳴る前に目が覚めて、天井を睨んで、それでも結局は起き上がっていた。起き上がるしかなかったからだ。

 今は誰も俺を起こさないし、起きなくても誰も困らない。憂鬱がなくなった代わりに、朝そのものが意味をなくした。

 

 右手を目の前にかざしてみる。掌の皮が、近ごろ少しずつ柔らかくなってきた。

 

 ……我ながら、立派な堕落ぶりだ。

 

 口の端だけで笑ってみたが、笑いにはならなかった。

 

 階下では、まだ話し声が続いていた。母さんが何か説明している。

 少女の声が、短く、丁寧に相槌を打つ。話の切れ目に、蝉が一段と大きく鳴いた。

 

「翔生(しょう)ならまだ寝てるの。もう、いい歳して」

 

 自分の名前が、はっきりと耳に届いた。

 

 反射的に、布団の中で身を固くする。聞こえなかったことにしたい。だが、続けて母さんが笑い、少女の控えめな笑い声がそれに重なったのが、妙に引っかかった。

 

 笑われたのは、たぶん俺だ。

 

「翔生ー!ちょっと降りてきてー!」

 

 階段の下から、母さんの声がまっすぐ上がってくる。放っておけば、あと三回は続く。四回目には階段を上がってくる。そういう人だ。

 

 長く息を吐いて、体を起こした。頭をかきながら立ち上がると、畳が軋んだ。

 

 階段は、一段ごとに音を立てる。古い家だ。降りるにつれて、蝉の声が少し遠のき、代わりに味噌汁と畳と、冷たい麦茶の匂いが混じった家の空気が濃くなっていく。

 

 廊下の先で、玄関の引き戸が開け放たれていた。外の光が三和土まで白く流れ込んでいて、その中に母さんの後ろ姿がある。

 

 そして、母さんの向こうに、もうひとり。

 

 見知らぬ少女が立っていた。

 

 逆光の縁取りの中で、長い黒髪が、まっすぐに肩から胸へ落ちている。前髪は眉の少し上で切り揃えられていた。足元に、旅行鞄がひとつ。年は、俺よりずっと下だろう。十代の半ばか、それより少し上か。そして何よりも、整った顔立ちをしていた。

 

 目が合った。

 

 ほんの一瞬、彼女はまばたきを忘れたように見えた。

 指先が、提げた鞄の持ち手を握り直す。それだけだった。次の瞬間には、頬がやわらかくほどけて、穏やかな微笑みがそこに浮かんでいた。控えめで、行儀がよくて、少しだけ眉尻の下がった笑い方だった。

 

 小さく会釈をされる。長い髪が、遅れて肩から滑った。

 背中のほうで、蝉の声が途切れなく鳴り続けている。

 

「あ、やっと起きた。ほら、翔生——」

 

 母さんが振り返る。

 俺は階段の最後の一段で足を止めたまま、少女から目を離さずに言った。

 

「……誰?そいつ?」

「こらっ」

 

 母さんの声が、玄関の三和土に跳ねた。振り返った母さんは、笑っているくせに眉だけを吊り上げている。

 

「もう、第一声がそれ?初対面の女の子に失礼でしょ」

「いや、だって」

「だってじゃない。もう、ごめんねえ。うちの愚息が」

 

 少女は小さく首を振った。「いえ」と、唇だけが動いた。

 

「この子はね、神足(こうたり)朱璃(あかり)ちゃん。うちの親戚の子。ほら、神足さんとこの」

「こうたり……?」

 

『神足』

 

 その名字を、頭のなかで二、三度転がしてみる。思い出すまでに、少し間が要った。盆や正月になると、母さんが電話口で声を一段上げて「久しぶりー」と笑っていた相手がいる。母さんの従姉妹にあたる人で、確か、ずっと東京のほうで暮らしている。

 顔は浮かばない。最後に会ったのは、俺がまだ小学生の頃だったはずだ。

 娘がいるとは、言われてみれば聞いた気もする。 

 

 「でね」と、母さんが言った。

 天気の話でもするような、軽い調子だった。

 

「今日からしばらく、うちで預かることになったから。一ヶ月くらいかな」

「……は?」

 

 慌てて最後の一段を降りようとして、スリッパが片方、脱げた。かかとが空を切り、俺は咄嗟に壁に手をついて体を支える。古い柱が、ぎしりと鳴いた。

 

「一ヶ月?は、何それ。聞いてないんだけど」

「あれ、言ってなかったっけ」

「とぼけるなよ。一言も言ってないだろ」

「前から話は出てたのよ。まさか、このタイミングになるとは思わなかったけど」

 

「あ、ちなみに」

 

 母さんは、醤油の場所でも教えるような調子で付け足した。

 

「朱璃ちゃんには、あんたの部屋を使ってもらうからね」

 

 一拍、間があった。

 

「……俺の、部屋?」

「そう」

「そうじゃなくて。じゃあ、俺はどこで寝るの」

「そこはほら、なんとかなるでしょ。若いんだし」

「若いとか関係ないだろ」

「空いてる部屋は物置になっちゃってるの。片付けるの大変じゃない。あんたの部屋が一番広いし、日当たりもいいし」

 

 日当たりがいいのは知っている。

 毎朝、あの光に寝起きの顔を焼かれているのは俺だ。

 

 母さんはあくまで、あっけらかんとしている。

 聞きたいことが一度に喉まで上がってきて、どれから口にしていいのかわからなくなった。いつ決まったのか。なぜ、うちなのか。なぜ、よりによって俺の部屋なのか。そもそも、なぜ俺の知らないところで。

 質問が渋滞して、開いた口から出たのは、意味をなさない息だけだった。

 

「はいはい、あとで、あとで。お客さんの前で騒がないの。向こうの事情で、ちょっとね。ちゃんと前から決まってた話なの」

 

 前から決まっていた。

 つまり、決まっていなかったのは俺の頭の中だけらしい。

 

 片方だけスリッパを履いた足で、俺は廊下の板を踏んだまま、何か言い返す言葉を探した。探して、見つからなかった。

 昼まで寝ている無職の居候に、家の客を断る権利などあるはずもない。

 そのことを、自分でも驚くほどあっさりと理解してしまった。

 

「……わかった」

「うんうん、物分かりがいい」

 

 母さんは満足そうに頷いた。

 腹立たしいほど屈託のない顔だった。

 

 俺は脱げたスリッパを足でたぐり寄せ、咳払いをひとつしてから、あらためて少女のほうを向いた。

 彼女はさっきと同じ場所に、同じように立っていた。提げた鞄の持ち手を、両手で揃えて。

 

「……おはよう」

 

 言ってから、朝の挨拶としては少し遅い時間かもしれない、とどうでもいいことを思った。

 

「おはようございます」

 

 少女は、小さく会釈をして答えた。

 声は思っていたより落ち着いていて、よく澄んでいた。

 顔を上げたとき、そこにある微笑みは、さっきと寸分違わない場所に収まっている気がした。

 

◇

 

「…………はぁ」

 

 たった今。

 俺は、自分の部屋のはずなのに、壁際の隅で膝を抱えている。

 

 着替えを取りに戻ってきただけだった。それなのに、先に荷解きを始めていた少女と鉢合わせて、出ていくきっかけを失った。

 かといって、今さら「ちょっとごめん」と箪笥を漁る気にもなれず、そのまま畳に腰を下ろして、今に至る。

 

 視線の先で、少女は黙々と鞄の中身を取り出している。

 シャツ、ワンピース、タオル。

 ひとつ取り出しては広げ、きれいに畳み直して、押し入れの上の段へ収めていく。手つきに迷いがなく、無駄な音も立てない。

 窓から入る風が長い髪を揺らすたびに、彼女は片手で耳の後ろへ流した。

 

 不満なら、いくらでもあった。俺の部屋だ。俺のプライベートだ。

 母さんは一言の相談もなく、俺の寝床を「なんとかなるでしょ」で片付けやがった。

 

 そもそも、十代半ばの女の子を、年の離れた男の部屋に放り込むことに、母さんは何も疑問を持たなかったのか。

 

 そう、不満はある。あるのに。

 

 横顔を、つい見てしまう。前髪の下で、睫毛が伏せられている。

 ひとつ畳み終えるたびに、小さく息をつくのが見て取れた。

 整った顔立ちというのは、こういう何でもない動作が、いちばんよくわかる。

 

(可愛いな……)

 

 思ってから、慌てて視線を窓の外へ逃がした。

 年の離れた親戚の子相手に、何を考えているんだ、俺は。目が拾っただけの感想だ。それ以上でも、それ以下でもない。

 そう言い聞かせても、居心地の悪さは変わらなかった。

 

 沈黙は、長引くほど重い。蝉の声と、衣擦れの音と、風鈴がたまに鳴る音。

 それだけがある部屋で、俺は勝手に気まずくなって、とうとう口を開いた。

 

「……荷物、それだけ?」

「はい。着替えと、少しだけです」

 

 手を止めて振り向き、少女は微笑んだ。玄関で見たのと同じ、控えめな笑い方だった。

 

「そっか」

 

 会話は、そこで終わった。我ながら、下手くそだ。

 

 しばらくして、もう一度——

 

「ここまで、一人で来たの?駅からだと結構歩いただろ」

「駅からバスで。そんなに遠くなかったです」

 

 言葉の端が、この辺りの人間のものではなかった。

 東京のほうの話し方だ。

 

「………へぇ」

 

 俺は、二つ目の質問も無事に使い果たしたことを悟った。それでも、黙っているよりはましだと思って、立ち上がった。

 

「押し入れ、上の段だけで足りるか?足りないなら、下も——」

 

 押し入れのほうへ、二歩。距離にして、二メートルもない。

 

「だい」

 

 声が、そこで途切れた。

 

 少女は、畳みかけたシャツを手にしたまま、動きを止めていた。笑みは、そこに残っている。ただ、その笑みの下で、何かが変わった。

 頬の色が、すっと薄くなる。額の生え際に、小さな汗の粒が浮いた。夏の部屋だ。汗くらいは当たり前だ。

 けれど、血の気が引いていくのは、暑さのせいではないように見えた。シャツを握る指の関節が、白い。肩が、息をしていないみたいに、動かない。

 

「……大丈夫、です」

 

 一拍遅れて、続きが出た。声は、少し掠れていた。

 

「ありがとうございます。上の段だけで、足ります」

 

 笑顔は崩れなかった。崩れないことが、かえって不気味だった。

 

 シャツの端が、細かく揺れている。揺れているのは布ではなく、彼女の手だ。窓からの風は、そこまで届いていない。

 

 旅の疲れか、暑さにやられたか。理由なら、いくらでも探せた。探せるのに、どれもしっくりこない。

 

 ただ、ひとつだけ、はっきりしていた。

 

 今この部屋で、俺は「いないほうがいいもの」だ。

 理由は知らない。知らないが、身体のほうが先に、そう判断していた。

 

「……あ、そうだ」

 

 我ながら、白々しい声が出た。

 

「俺、ちょっと用事あったんだった。夕飯まで戻らないから、ゆっくりやってて」

「……はい」

 

 少女は頷いた。

 

「いってらっしゃい」

 

 襖のところで、振り返りかけて、やめた。

 階段の一段目に足をかけたとき、背後で、止めていた息を吐くような、かすかな音がした気がした。気がしただけだ。

 

 家を出ると、陽射しが真上から叩きつけてきた。

 

「あっつ……」

 

 庭の隅に、古いインプレッサが停めてある。キーは、靴箱の上に置きっぱなしだった。

 ドアを開けた途端、車内にこもっていた熱が顔に押し寄せてくる。シートは尻が焼けそうなほど熱く、ハンドルは、触れた指がすぐに離れた。

 エンジンをかけて、エアコンを最大にする。吹き出し口から出てくるのは、しばらくのあいだ、生ぬるい風ばかりだった。

 

 窓を閉め切ると、蝉の声が分厚い膜の向こうへ遠のいた。聞こえるのは、エアコンの唸りと、自分の呼吸だけになる。

 フロントガラスの向こうでは、百日紅が白い光の中で揺れていた。

 

 ……行き先は決めていない。用事など、ない。

 嘘をつくのは、昔から下手だった。

 それでも、あの場で本当のことを言えるわけもない。本当のこと、と言っても、俺自身、何ひとつ知らないのだけれど。

 

 ハンドルに額を預けて、思い返す。あの子の笑顔。

 玄関で会ったときから、ずっと同じ形をしていた。口角の上がり方も、目の細め方も、さっきと寸分違わない。

 上手な笑い方だ、と思う。上手すぎる。人の顔は、あんなふうには動かない。

 笑っているときでも、緩むし、ぶれるし、疲れる。あの子の笑顔だけが、貼り付けたみたいに、一度も崩れなかった。

 

 そして、その下で震えていた指。

 

 ああいう顔を、俺は知っている気がした。何かを必死に押さえつけている人間の顔を。

 いつ、どこで見たのかを思い出しかけて、頭の奥のほうが、鈍く痛んだ。

 

 風が、ようやく冷たくなってきた。

 ふと見上げたルームミラーに、家の二階の窓が小さく映っている。カーテンは、ぴくりとも動いていなかった。

 

「しゃあなし……」

 

 深くは考えないことにして、ミラーから目を逸らす。ギアをドライブに入れた。

 

 夕飯まで戻らない、と言ったのは嘘のはずだった。

 気づけば俺は、その嘘を本当にしようと、アクセルを踏み込んでいた。

 

◇

 

「…………はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」

 

 庭に愛車を停めてエンジンを切った瞬間、肺の中身が全部出ていった。人生でこれほど長いため息をついたのは、たぶん初めてだ。

 今この場で肺活量を測ったら、ギネスも狙える気がする。

 

 西の空が赤い。蝉の声はいつの間にかヒグラシに入れ替わっていて、庭には、焦げた土の匂いと、台所から流れてくる煮物の匂いが漂っていた。夕飯の時間だ。

 俺はハンドルに突っ伏したまま、今日という一日を振り返る——九時間。九時間にも及ぶ、孤独なドライブだった。

 

 最初の三十分は、まだ余裕があった。窓の外の景色を眺めて、ラジオを流して、たまにはこういうのも悪くないな、なんて思っていた。

 

 バカだった。

 

 一時間も走ると、はっきりわかってくる。行き先のないドライブは、ただガソリンを燃やして移動する虚無だ。

 気がつけば、出雲大社の前を通っていた。縁結びの神様の前を、縁に恵まれない無職の男が、仏頂面で時速二十キロで通過していく。

 観光バスに前後を挟まれて、駐車場待ちの列に巻き込まれて、脱出するのに四十分かかった。神様にまで時間を取られた。

 

 宍道湖(しんじこ)まで行ってみた。湖面が穏やかで、一瞬、うっかり感傷的な気分になりかけた。が、隣のベンチでカップルがソフトクリームを食べさせ合っていて、全部台無しになった。

 

 昼飯は、コンビニのおにぎりを一個、車の中で一人で食べた。具は梅だった。酸っぱかった。

 Uターンは、途中から数えるのをやめた。

 行き止まりの農道で脱輪しかけて、軽く死を覚悟した。

 スピーカーからは、失恋ソングばかりが流れてきた。

 帰り道は、真正面から西日が差し込んで、サンバイザーなど何の役にも立たなかった。

 

 そして、極め付けが、メーターの警告灯だった。慌てて飛び込んだガソリンスタンドで、勢いのまま「満タンで」と言ってしまった。給油が終わって、店員が告げた金額——

 

 6800円。

 

 無職の財布に、6800円はでかすぎる。

 

「なんなんだよこの無駄な出費は……」

 

 誰もいない車内に、俺の声だけが虚しく響いた。

 ふつふつと、腹が立ってきた。腹が立つ相手を探して、脳が勝手にさまよい始める。

 

 先ず、母さんだ。事前に一言、言っておけばよかったのに。

 

 いや、それよりも——あの子だ。

 

「はい。いってらっしゃい」って、あの爽やかな笑顔で見送りやがって。

 こっちが6800円を燃やしてるあいだ、あの子はあの部屋で、のんびり荷解きをしていたんだろう。

 

 ……いや、嘘をついて出ていったのは俺だ。ネカフェで過ごすこともせずに自らが勝手に撒いた種、そんなことは、わかっている。わかっているが、それはそれとして、腹は立つ。理不尽なのは百も承知だ。八つ当たりだ。

 

「…………くそが」

 

 俺はもう一度、短くため息をついて、車を降りた。ドアを閉めると、ヒグラシの声が、急に近くなった。

 

 玄関の引き戸の前で、いったん立ち止まる。深呼吸をひとつ。別に、何も悪いことはしていない。ただ家に帰るだけだ。

 そう自分に言い聞かせて、戸に手をかけて、がらりと開けた。

 

 味噌汁の匂いが、顔にぶつかってきた。三和土には、俺の履き古したスニーカーの隣に、小さな靴が一足、踵をきちんと揃えて置かれている。

 

「あ、おかえりー!遅い!もうご飯できてるよー!」

 

 奥から、母さんの弾むような声が飛んできた。

 

「……ただいま」

 

 自分でも驚くほど、小さな声だった。

 

◇

 

 晩飯は、いつもより賑やかだったらしい。らしい、というのは、俺がほとんど何も覚えていないからだ。煮物の味と、母さんが一人で喋り続けていたこと。

 それから、少女が卓のいちばん端、俺からいちばん遠い席で、箸の先だけを使って行儀よく食べていたこと。覚えているのは、それくらいだ。

 

 食器を流しに下げて、二階の自室に上がった。もう半分、他人の部屋になった自室に。壁際には、彼女の旅行鞄がぴたりと寄せて置かれている。

 それだけで、見慣れた六畳間が、よその家の客間みたいに見えた。

 

 畳に寝転がって、天井の染みを数えた。十一個まで数えたところで、喉が渇いていることに気づいて、麦茶でも飲むかと体を起こした。

 

 階段を降りると、リビングの明かりがついていて、カリカリとシャーペンの音がしていた。

 

 廊下から覗く。

 テーブルに数学の問題集とノートを広げて、少女がうつむいていた。シャーペンを持つ手が、動いては止まり、止まっては動く。

 ページの端には、消しゴムのカスがこんもりと溜まっている。

 前髪の下の眉間に、うっすらと皺が寄っていた。同じ行を、睫毛が何度も往復している。

 

 見事に、手こずっていた。

 

 昼間の、貼り付けたような笑顔とは、まるで別物だった。年相応の、普通に困っている顔だ。

 

 そっと台所へ回って麦茶だけ取って引き返すつもりだったのに、廊下の板が軋んで、彼女が顔を上げた。シャーペンの先が、一瞬、紙の上で止まる。

 それから、ふわりと微笑んだ。

 

「こんばんは」

「……こんばんは〜」

 

 間の抜けた返事しか出なかった。

 

「翔生、こっちこっち」

 

 台所から、洗い物の手をエプロンで拭きながら、母が出てきた。手招きをしている。俺が近づくと、母は少女のほうをちらりと見て、声を落とした。

 

「見てよ、あれ。数学で詰まってるのよ。お母さん、数学って全然ダメじゃない?分数の引き算でもう無理」

「それ算数だよ」

 

 いきなり、母さんの口元が、にんまりと持ち上がった。

 

 ……息子が言うのもなんだが、母さんは普通に美人の部類に入ると思う。四十手前とは思えない童顔で、笑うと目尻がきゅっと下がって、年齢不詳の女の子みたいになる。

 

「………なんだよ」

 

 その顔が、今、何かを企んでいる。経験則だ。この顔をしているときの母さんは、だいたいろくなことを考えていない。

 期待に満ちた目が、俺と少女を、交互に見比べていた。

 

 算数すらまともに解けない母が、わざわざ俺を呼んで、小声で言う。

 少女は、数学で詰まっている。

 

 ここまで材料が揃えば、馬鹿でも察しがつく。

 

「勉強のお手伝いをしろ、と?」

「ザッツライト!」

 

 母さんは、人差し指を俺にびしっと突きつけた。

 

 ザッツライト、じゃない。

 

 こちとら今日一日で、朝は叩き起こされ、部屋は奪われ、九時間走って、6800円を失っているのだ。しかも原因をたどっていくと、その大半は少女に行き着く。

 いや、違う。半分は母さんのせいだ。いや、嘘をついて出ていったのは俺だ。誰のせいなのかもわからなくなってきて、とにかく俺は、あらゆるものに腹を立てていた。

 

 腹が立ちすぎると、人間はどこかで振り切れるらしい。

 

「……やってやるよ」

 

 思ったより、声が出た。

 

「どうせ数Ⅰだろ。楽勝だよやってやる。全部まとめて、まとめて面倒見てやるよ!」

 

 拳まで握っていた。意気揚々と、と言ってもいい。自分でも何を張り切っているのか、よくわからなかった。

 テーブルのほうで、少女が目を丸くして、ぱちぱちと瞬きをした。

 

 「あら、頼もしい」と、母さんが満面の笑みで頷く。

 

「声は大きいけどね。じゃあ、お願いね。あ!いけない」

 

 母さんはわざとらしく手を打った。

 

「お隣に回覧板、持っていかなきゃ。ついでにちょっとだけ、おしゃべりしてくるから。二人でじっくりやってなさいね!」

 

 言い終わる前に、エプロンを外していた。スリッパの音が、驚くほどの速さで廊下を遠ざかる。玄関の戸ががらりと開いて、ぴしゃりと閉まった。

 

 シンクには、まだ半分、洗い物が残っている。

 

(逃げたな……)

 

 リビングには、冷蔵庫の低い唸りと、窓の外の虫の声と、止まったままのシャーペンだけが残った。

 

「……よろしく、お願いします」

 

 少女が、小さく頭を下げた。顔を上げたとき、そこにある微笑みは、昼と同じ場所に収まっていた。

 

「よろしく。……あっ」

 

 しまった。麦茶を取るのを、完全に忘れていた。

 

「まあ、いいか……」

「……?」

 

 テーブルの向かい側の椅子を引いて、腰を下ろす。四人掛けの、ありふれたテーブルだ。幅は一メートルちょっと。

 彼女のノートは、当然のように彼女の側を向いていて、つまり俺からは逆さまだった。

 

「えっと、どこで詰まってる?」

「ここです。場合の数の、順列のところで」

「……順列?」

 

 少女が、ノートをこちらへ滑らせてくれる。ノートは俺の手前でぴたりと止まった。

 ぎりぎり俺の指が届く位置を狙ったような、精密な止まり方だった。

 

 覗き込むと、式が目に入った。

 

『₇P₃ = ?』

 

 下にも、同じような順列の計算問題がずらりと並んでいる。

 

「はえー……もう数Aやってんだ」

 

 母さんが分数などと言っていたから、勝手に簡単な範囲を想像していた。

 どうやら都会の高校生は、俺の思うよりも賢いらしい。

 

「えーっと。例えばこれなら、7から始めて、一個ずつ減らしながら、三つ掛けていけばいい」

 

 少女は、ノートに向き直る前に、ほんの少しだけ首を傾げた。

 

「……あ、そっか」

 

 ペンが走る。さらさらと、正しい式ができあがっていく。次の問題は、俺が説明を始める前に、自分で解いてしまった。

 

「……できてるじゃん」

「いえ。教えていただいたので」

 

 ……何が、数学が苦手だ。母さん、相変わらず見る目がなさすぎる。

 一回で通じる。説明した分だけ、きれいに頭に入っていく。教える側からすれば、こんなに楽な相手もいない。

 

 ただ。問題は、そこじゃなかった。

 

 逆さまのノートは、やっぱり読みにくい。ノートを俺のほうへ引き寄せて、見て、また彼女のほうへ滑らせる。

 その往復を三回やったところで、これはさすがに非効率だと気づいた。

 

「ちょっと、そっち寄るわ」

 

 椅子を斜めに引きずって、彼女の側へ回り込もうとした。

 

 俺が一歩ぶん寄ると、彼女の椅子が、すっと一歩ぶん、遠ざかった。

 

 畳を擦る、かすかな音。偶然だろう。そう思って、もう一歩寄る。すっ。もう一歩。すっ。

 

 気づけば、テーブルの角を挟んで、俺は前のめりに、彼女は後ろ寄りに、奇妙な姿勢で向かい合っていた。端から見たら、面接か、取り調べだ。

 

 彼女は笑っている。ずっと、丁寧に笑っている。声も落ち着いている。

 ただ、腕を伸ばしたら届くか届かないかの間合いだけは、何があっても譲らなかった。

 

 年の離れた男が相手だから、警戒しているのか。人見知りなのか。理由は知らない。

 知らないが、こっちはこっちで、昼間にだいぶ譲歩しているのだ。6800円費やしてまで車で逃げたのに、また同じ部屋の空気を吸わせられて、あまつさえ今夜の寝床さえ決まっていない。

 

「ここ、途中の式が、一個飛んでる」

「はい」

「だから、こっちから順番に、一個ずつ追っていけば」

「はい、わかりました」

 

 返事も、妙に早かった。

 

 気になって、もう一度説明する。

 

「はい」

 

 次の問題へ。

 

「はい」

 

 その「はい」の速さが、段々と、わかっているときのそれではなく、早くこの時間が終わってほしいときのそれに聞こえてきた。

 

「……今の、絶対わかってないだろ」

「わかりました」

「じゃあ、言ってみろ。今の、どこが違ってた?」

 

 少女は、答えなかった。笑顔の形は崩さないまま、視線だけが、ノートの上を滑っていた。俺の指のほうは、一度も見ていない。

 

 俺の中で、何かがぷつんと切れた。

 今日一日、こっちは振り回されっぱなしなのだ。

 せっかく引き受けたのに、これか。

 

「見ろって。ここ。ここが、こうなるから——」

 

 俺は、立ち上がった。

 

 ノートに覆いかぶさるようにして、ペン先で式をトントンと叩く。肩が触れるか触れないかの距離。「ちゃんと聞いてんのか」と、続けようとした。

 

 ——続けられなかった。

 

 少女の体が、ぴしりと固まるのがわかった。

 肩が、跳ねるように持ち上がる。

 シャーペンが、指から離れて、ノートの上を転がった。

 

 彼女の左手が、顔の左半分を覆っていた。

 

 片目を隠すようにして、手のひらが目元に押し当てられている。

 隠れていないほうの目が、俺ではなく、俺の肩のあたりの何もない空間を見ていた。

 焦点が、合っていない。

 唇の色が、さっきまでと違って薄い。

 

 笑顔は、そこになかった。

 

 玄関で会ってから、貼りついたみたいに一度も崩れなかった笑顔が、跡形もなく消えている。

 代わりにあったのは、年相応の、いや、それよりずっと幼い、怯えた顔だった。

 

「近い、です……」

 

 消え入りそうな声だった。

 

 俺は、ペンを握ったまま、動けなくなった。

 窓の外で、夜の虫が鳴いている。やけに、大きく聞こえた。

 

 沈黙が、五秒か、十秒か続いた。

 

 先に動いたのは、彼女のほうだった。唇が、かすかに動く。

 

「……すみま、せん」

 

 蚊の鳴くような声だった。

 左手は、まだ目元を覆ったまま。

 笑顔は、戻ってこなかった。

 

「……謝んなよ」

 

 自分でも驚くほど、低い声が出た。

 

「謝られたら、こっちが悪くなるだろ」

 

 少女の肩が、びくりと跳ねる。それを見た瞬間、頭の片隅で、大人気ない、という言葉がちらりと点滅した。点滅しただけだった。

 口のほうは、もう止まらなかった。

 

「なあ、何なんだよさっきの。『近いです』って。ノートを見るのに、他にどうやって見ろってんだよ。こっちは朝から叩き起こされて、部屋は取られて、寝る場所もなくて、九時間——いや、それはいいわ。とにかく、頼まれたから教えてんだよ。親切でやってんだよ、こっちは」

 

 ペンをテーブルに叩きつけたい衝動を、かろうじて押さえた。

 

「それが何だ。人のこと、犯罪者みたいな目で見やがって。俺がやましい気持ちで近づいてるとでも思ってんの?」

 

 言った自分の声が、リビングの壁に跳ね返って戻ってくる。冷蔵庫の唸りが、一段、大きくなった気がした。

 彼女は、答えなかった。うつむいた前髪の下で、見えているほうの目が、固く閉じられている。

 

「どいつもこいつも、特に都会の奴らはみんなそうだ。勝手に決めつけて、勝手に距離とって、勝手に——」

 

 そこで、言葉が詰まった。喉の奥に、何かが引っかかる。

 いつかの、どこかの、誰かの顔が浮かびかけて、すぐに消えた。

 

「……いい。とにかくな」

 

 息をひとつ吐く。

 

「……でも」

 

 声がした。

 

 掠れた、小さな声だった。固く閉じられていた目が、うっすらと開いて、初めて、まっすぐに俺を見た。怯えたままの目だった。それでも、逸らさなかった。

 

「男の人は、みんな、そう言いました」

 

 一拍遅れて、何を言われたのかを理解した。理解した途端、怒りより先に、呆れのほうが、一段飛び越えてやってきた。

 ただ、その呆れの底に、ちくりと刺さるものがあった。

 

(……そこまで警戒されるような人間に、俺は見えるのか)

 

 ほんの一瞬、そんなことを思って、すぐに馬鹿らしくなった。

 

「妄想がひどいな。作家になったほうがいいよ。今からでも小説書いたら?」

 

 笑ってやるつもりだったのに、笑いにならなかった。口の端が、引きつっただけだった。

 

 少女は、動かなかった。目元を覆った手の、指先だけが、小さく震えている。

 

 それが、また腹立たしかった。震えているのは彼女で、被害者みたいな顔をしているのも彼女で、でも、いま彼女を追い詰めているのは、どう見ても俺だ。わかっている。わかっていて、止まれなかった。

 今日一日、溜め込んできたものが、せきを切ったように溢れてくる。

 

「だいたいな、勘違いすんなよ。少なくとも俺からしたら——」

 

 テーブルの上を転がったままのシャーペンを、睨みつけた。

 

 最後に、いちばん吐き捨てたい言葉が、すとんと喉から落ちてきた。

 

「お前に、そんな価値ないから」

 

 少女は、何も言わなかった。

 

 いや、言えなかったのだろう。彼女は、口を半分開けたまま、俺を見ていた。傷ついた顔、とは違うような気がした。もっと、何を言われたのかわからないでいる子供のような、ひどく無防備な顔だった。

 目元を覆っていた左手が、いつのまにか膝の上に落ちている。

 

 睫毛が、一度だけ、ゆっくりと瞬いた。目尻が、わずかに赤い。泣くのか、と身構えたが、涙は落ちなかった。

 代わりに、強張っていた肩から、ふっと力が抜けていくのが見えた。

 ずっと息を止めていた人間が、ようやく空気を吸い込んだときみたいに。

 

 その反応が、傷ついているのか、呆れているのか、俺にはさっぱりだった。

 

「………」

 

 暫くして、リビングがやけに静かなことに気づいた。冷蔵庫の唸りと、窓の外の虫の声。それしかない。

 沈黙のなかで、じわじわと、血の気が引いていった。

 

「…………悪い」

 

 十六だ。たぶん。十六の女の子に、俺は何を、全力で説教しているんだ。二十四にもなって。母さんが回覧板に出かけた隙に、無職の居候が、親戚の子相手に。

 しかも、相手は泣きそうな顔をしていた。

 

「いや、流石に言い過ぎた……みっともなかったと思う。ごめん」

 

 短くそれだけ言って、ごまかすように、テーブルの上のノートへ目を落とした。

 

「あー、えっと……さっきの範囲な。お前の能力なら、落ち着いてやれば、絶対解ける。わかんなくなっても、教科書の例題でも見ながら、ゆっくりやれば……大丈夫」

 

 早口でまくし立てながら、椅子を引いて立ち上がろうとした。麦茶を取りに行く、という体でもいい。

 とにかく、この空気から、一刻も早く脱出したかった。

 

「じゃあ——」

 

 背を向けかけた、その背中に。

 

「あの……っ!」

 

 声がかかった。

 

 振り返ると、少女は、ノートを両手で持って、腕をいっぱいに伸ばして、テーブルの上に差し出していた。距離は、さっきと同じままだ。

 一歩も、近づいてこない。それでも、その腕は、震えながら、まっすぐに俺のほうへ伸びていた。

 

「教えて、くれませんか……?」

 

 ……耳を疑った。

 

 つい今しがた、俺は、この子を泣かせかけた。説教して、傷つけて、逃げようとした。

 その相手が、震える腕を伸ばして、教えてほしいと言っている。

 

「え。あ、いや」

 

 舌が、うまく回らなかった。耳の後ろが、じわりと熱い。何か気の利いたことを言おうとして、何ひとつ浮かばず、結局、口から出たのは、間の抜けた息だった。

 

「……そりゃあ。いい、けど」

「はい。お願い、します」

 

 少女の腕が、ほんの少しだけ、下がった。それでも、ノートは差し出したままだ。俺は、テーブルの端をつまむようにして、それを受け取った。指と指は、一ミリも触れなかった。

 

 開かれたページには、さっきの続きの問題が、ずらりと並んでいる。

 

「……このページ、全問自分で解いてみて。間違ってても、いいから」

「はい」

 

 ノートを彼女のほうへ滑らせて返す。それから、さっきまで座っていた椅子には戻らず、テーブルの対角にあたる席へ、静かに腰を下ろした。

 大げさなくらいの距離だった。それでも、彼女の肩が、ほんの少し下がったのが見えたので、たぶん、これで正解だった。

 

 シャーペンが、走り始めた。

 

 さらさら、さらさらと、迷いのない音が続く。さっきまで手こずっていたのは何だったのかと思うほど、ペン先は、止まらない。途中式を省かず、掛ける数を一個ずつ書き並べて、一行ずつ、きれいに積み上がっていく。

 

 横顔は、笑っていなかった。貼り付けた笑顔でも、怯えた顔でもない。

 ただ、真剣な顔だった。目元の赤みも、いつのまにか引いている。ノートの上を走る指の震えは、書き始めてしばらくすると、止まっていた。

 

 俺は、手持ち無沙汰に、テーブルの木目を数えた。壁の時計の秒針が、コチコチと鳴っている。

 母はまだ、帰ってこない。回覧板に、どれだけ時間をかけているんだ。

 

 沈黙は、さっきまでの、凍りついたそれとは、少しだけ、質が違った。違うと思いたかっただけかもしれない。

 

 何を話すのか、自分でも決めていなかった。決めていないのに、口が、勝手に動いていた。

 

「話しかけていい?」

 

 シャーペンの音は、止まらなかった。

 彼女は、視線をノートのインクに残したまま、小さく、頷いた。

 

 ……さて、何から話そう。

 

 聞きたいことなら、山ほどある。さっき、手で目を覆ったのはなぜなのか。俺が近づいただけで血の気が引いていく、あの顔は何なのか。それから、なぜ一ヶ月も、よりによってこの家に預けられることになったのか。

 他にも、数え出したらきりがない。

 

 けれど、そのどれも、今、聞くべきことではない気がした。

 

 とにかく、一番話さないといけないことは、そういうことじゃない。

 

 ノートに向かう彼女の横顔を見たまま、できるだけ静かな声で、言った。

 

「お前……」

 

 言いかけて、止まった。

 

 お前、は、さっき散々使った。人を突き放すために、投げつけた呼び方だ。同じ口で、同じ呼び方で、優しいことを言おうなんて、さすがに気持ちが悪い。

 かといって、「朱璃」と呼べるほどの距離でもない。「神足」も、どこか他人行儀だ。

 

「君……」

 

 少し考えて、言い直した。意識して、一語ずつ、置くように。

 

「多分だけど、君。今まで色々と大変だったんだろ」

「……え?」

 

 シャーペンの音が、止まった。

 

 少女が、ゆっくりと、顔だけをこちらに向けた。体は、ノートのほうを向いたままだ。長い前髪の下で、目が、俺をとらえる。

 

 目が合った。

 

 さっきまでの怯えは、そこにはなかった。かといって、あの貼り付けたような笑顔でもない。大きく見開かれた目が、驚いたように、何かを確かめるように、じっと俺を見ている。瞬きの音まで聞こえそうな静けさだった。

 俺は、逸らさなかった。

 逸らしたら、今言ったことが、嘘になる気がした。

 

「さっき、『男の人は、みんな』って言ってたから。それでなんとなく、そう思っただけ」

 

 淡々と言って、少し間を置く。

 

「とにかく、ここにいる一ヶ月、ずっと気を張ってほしくないからさ……俺にも母さんにも、変に気を遣って笑わなくていいし、飯のとき、端っこの席のほうが楽なら、そこにいてくれていいし。俺とか母さんが、もし嫌なことをしたんだとしたら、そん時にすぐ伝えてほしい」

 

「…………」

 

「それと、ここまで踏み込んでいいのか、正直わからないけど」

 

 息を、ひとつ吸う。

 

「いつか、話せるようになったら。そのときは、正直に話してくれると、嬉しい。俺、人と喋るのは結構好きだからさ」

 

 彼女は、何も言わなかった。丸くした目のまま、唇がほんの少しだけ開いて、閉じる。何かを言いかけて、飲み込んだように見えた。

 

 沈黙の中で、先に気恥ずかしくなったのは、俺のほうだった。

 

「うん……まあ、それだけ」

 

 言い終えると、リビングは、ひどく静かになった。

 冷蔵庫の唸りと、壁の時計の秒針の音だけがある。

 

 ペン先は、止まったままだった。

 

 彼女の口元が、ふっと緩んだ。貼り付けたものとは違う、力の抜けた、ほんの一瞬の笑みだった。目尻が、少しだけ下がる。見間違いかと思うくらい早く、それは消えた。

 

 ——初めて、自然に笑ったのだと思う。

 

 それから、彼女は視線をゆっくりと、ノートのインクに戻した。

 

「翔生、さんって……いい人、ですか」

「え?」

 

 ……名前で呼ばれた。しかも、さん付けで。ついさっき、怒鳴り散らして、泣かせかけた相手にだ。まさか、そんな子が、わざわざ名前を呼んでくれるとは思わなかった。

 

(……いい人、か)

 

 考えたこともない。少なくとも、自分についてそんな問いを立てたことは、一度もない。

 

 リビングは静かだった。冷蔵庫が、低く唸っている。壁の時計の秒針が、答えを急かすみたいに、コチ、コチ、と進む。

 窓の外では、夜の虫が鳴いていた。昼間の蝉とは違う、細くて、どこか寂しい音だった。

 

「……いい人、かぁ」

 

 声に出してみても、その言葉は、うまく手のひらに乗ってくれなかった。

 

「あんましピンとこないな」

 

 俺は、いい人なんだろうか。

 

 朝、起きる理由すら見つけられなかった男が。無職の身で実家に転がり込んで、母さんの尻に敷かれている男が。

 いい人かどうかを問う前に、まず、人としてどうなんだ、という話ではないのだろうか。

 

 それに、さっきの言葉——

 

『お前に、そんな価値ないから』

 

 泥を吐いた舌の根は、まだ乾いていない。

 喉の奥に、苦いものが引っかかっている。

 

「……少なくとも、二十四にもなって働きもせず実家に居候して、挙げ句の果て、親戚の子に説教超えて暴言まで吐き出す……わるい人だと思うぜ」

 

 笑ったつもりだったが、乾いた息が漏れただけだった。自分で言って、自分で刺さった。患部は、思っていたより重症だった。

 

 少女は、すぐには答えなかった。

 

 ただ、瞬きを二回した。ぱち、ぱち、と。それから、ほんの少しだけ首を傾げた。何を言われたのか、頭の中で一度、噛みしめているみたいに。

 

 そして、ふっ、と息が漏れた。

 

「…………ふふっ」

 

 彼女は慌てて、シャーペンを持った右手の甲で、口元を押さえた。肩が、小さく揺れている。笑いをこらえようとして、こらえきれていない。目尻が下がって、三日月の形になる。耳のあたりが、ほんのり赤い。

 

 あの、貼り付けたような笑顔とは、まるで違った。計算も、取り繕いも、そこにはない。ただ、おかしかったから笑った、という顔だった。

 そういう顔が、驚くほど自然に似合う子なのだと、俺はそのとき初めて気づいた。

 

「……すみません。笑うところじゃ、なかったですよね」

「いや、笑ってくれ。わるい上に惨めな人が誕生するところだった」

 

「……私も、居候なので」

 

 口元を押さえた手の下から、くぐもった声がした。

 

「お揃い、ですね」

 

 不意打ちだった。返す言葉が見つからなかった。

 

(……なんなんだ。この子)

 

 胸のあたりも、変にくすぐっく感じる。

 

 彼女は、まだ少し笑いの余韻を残したまま、ペンを握り直した。前髪のひとふさを、指で耳にかけて、ノートに向き直る。

 

 シャーペンが、また走り出した。その音を聞きながら、俺は黙って、喉が渇いていることだけを、もう一度思い出した。

 

 やがて、ペンの音が止まった。彼女が、ノートを両手で持って、さっきと同じように、腕をいっぱいに伸ばして差し出してくる。

 俺も、同じようにテーブルの端をつまんで受け取った。

 

 全問、正解だった。

 

 ケアレスミスすら、ない。さっき教えたことが、ひとつ残らず、ちゃんと使われている。

 俺の出番は、最初の一問だけだったのではないか。そんな気さえした。

 

「……満点」

「ありがとうございます。教えていただいたおかげです」

「いや、俺、ほとんど何もしてないんだけど」

 

 本音だった。少女は、困ったように、少しだけ眉を下げた。

 

 そこで、会話が途切れた。

 

 壁の時計の秒針が、やけに大きく響く。彼女は、開いたままのノートの端を、指先でそっと撫でていた。何か言うべきか、このまま黙っているべきか、俺には判断がつかなかった。

 

 不意に、玄関の外で話し声がした。

 

 母さんの声と、もう一人。お隣の奥さんの、よく通る笑い声だ。声はなかなか遠ざからず、同じ場所を行ったり来たりしていた。

 

 五分。十分。ようやく、がらり、と玄関の戸が開いた。

 

「ただいまー!ごめんごめん、遅くなっちゃった。お隣の奥さんに捕まっちゃってさあ」

 

 廊下を、スリッパの音がぱたぱたと近づいてくる。それだけで、リビングの空気が、ふっとほどけた。

 

 時計を見た。回覧板一枚で、一時間半。

 

(……わざとらし)

 

 母さんは、手ぶらでリビングに入ってきて、テーブルの上を見渡した。

 向かい合ってもいない二人と、ノートと、シャーペン。

 

「あら、ちゃんとやってたのね。どう、捗った?」

「はい。とても、わかりやすかったです」

 

 少女が、ノートから顔を上げて、控えめに微笑んだ。昼間と同じ笑顔だった。ただ、それがさっき一瞬だけ見せた笑みとは違うものだということが、今の俺には、なんとなくわかった。

 

「でしょー?うちの子、こう見えて頼りになるのよ」

「………あざす」

「わ、めずらし。……あ!お風呂沸いてるから、朱璃ちゃんから先に入ってね!翔生は、そのあと」

 

 少女が、小さく頭を下げて、ノートと筆箱を胸に抱えて立ち上がる。すれ違うとき、彼女は、俺から腕二本ぶんほど距離をとって通った。

 俺は、壁際に体を寄せて、道を空けた。

 

「……はぁ」

 

 少しでも心を開いてくれたと思ったのは、俺だけだったらしい。思ったよりも深く、肩のあたりが、すうっと落ちていく。

 

 廊下の奥で、風呂場の戸が閉まる音がした。

 

「あらあら」

 

 台所の入口に、母さんがもたれかかっていた。にやにやしている。いつからいたんだ。

 

「腕二本ぶんって感じだったわねえ。年頃の女の子だもの、警戒されて当然よ」

「……お前さ。それ知りながら、俺に勉強教えさせたの?」

 

「ん?おまえ?」

 

 いきなり、母さんの笑顔が、ぴたりと固まった。口元は笑っているのに、目だけが、笑っていない。

 

「……お姉さん」

 

 母さんは満足したのか、にんまりと笑った。……あぶないあぶない。息子ともあろう者が、母親の機嫌一つとれないところだった。

 

「あ、そうだ、翔生。あんたの寝床だけどね」

 

 母さんが、思い出したように喋る。

 

「今夜は、リビングに布団敷くから」

「リビング」

「ほら。なんとかなったでしょ?」

「……ああ。なんとかなったな」

 

 反論する気力は、もう残っていなかった。それに、気づいてしまったのだ。俺がリビングで寝れば、あの部屋は、彼女ひとりのものになる。

 さっき、彼女の肩がほんの少し下がったのが見えた。あれがもし、一人きりで眠れる夜のことを考えた肩だとしたら。

 

 リビングの床くらい、安いものだ。

 

 夜は、静かに更けた。

 

 リビングの隅に、母さんが敷いてくれた布団。天井の電灯を消すと、冷蔵庫の唸りが、昼間より大きく聞こえた。

 

 天井の向こうで、畳が、きしり、と一度だけ鳴った。二階、元俺の部屋。それきり、何も聞こえなくなった。

 

 寝返りを打つ。朝、起きる理由が見つからなかったのは、今朝の話。

 何だか、ずいぶん昔のことのように思えた。

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