都会に擦れて実家に居候してたら、闇深JKと同居生活することになった。 作:てぃずなう
「レモンティーでいい?」
「いいよ」
台所から飛んできた母の問いに、俺は、テーブルに頬杖をついたまま、短く返した。
朝の九時前。カーテン越しの光は、もう白く強い。蝉は、とっくに全力で鳴いていた。
昨夜、リビングの隅に敷かれた布団で眠った体は、あちこちが固まっていて、首を回すと、ごり、と鈍い音がした。
台所では、母さんが冷蔵庫を開けて、ガラスのポットを取り出している。昨夜のうちに作っておいたらしい、琥珀色の紅茶だ。
エプロンの紐を後ろ手に結び直しながら、まな板の上でレモンを薄く輪切りにしていく。とん、とん、と軽い音。
何かの歌を鼻でなぞっているが、音程は、お世辞にも合っていない。朝から、やけに機嫌がいい。
俺は、その背中をじっと見ていた。
昨夜から溜めに溜めた質問が、頭の中で行列を作っている。いつ決まったのか。なぜ、俺に言わなかったのか。向こうの事情とは、何なのか。
今日は、一問ずつ、きっちりと詰める。今から始まるのは、会話ではなく、尋問だ。
母さんは、そんな息子の気配に気づいているのか、いないのか。ご機嫌なまま、氷をグラスに入れた。カラン、と涼しい音がした。
天井を見上げる。二階は、静かだった。ただ、眠っているわけではない。さっき聞いた話だが、彼女は今、リモートで授業を受けているらしい。
直感でしかないが、かなり偏差値の高い高校に通っている気がする。
とにもかくにも、これは好機だ。
「はい、おまたせ」
コトン、コトン、とグラスが二つ、テーブルに置かれた。琥珀色の中で、レモンの輪切りがゆらりと浮かんで、沈んだ。
母さんは、エプロンの裾を軽く払って、向かいの椅子を引いてから、ゆっくりと腰を下ろした。
「何?そんな改まっちゃって」
「朱璃ちゃんのことで、ちょっと聞きたい」
「うん。……朱璃ちゃんって呼んでるんだ?」
母さんの目が、きらりと光った。
「本人いないんだからいいだろ、別に」
「かわいいもんね」
なんだこいつ。二十四の息子に対するカマの掛け方じゃないだろ、それ。
「……最初の質問。いつから決まってた話なんだ、今回のこと」
母さんは、すぐには答えず、ストローに口をつけた。
ともかく、今はこっちだ。気を抜いたら、また話が脱線してしまう。
母さんは、ストローから口を離して、指を折った。
「えーと……半年くらい前、かな」
折った指を戻し、グラスの水滴を親指でなぞっていた。
「じゃあ、次。なんで預かることになったんだ。経緯は」
「経緯?」
「だから、向こうの家の事情だよ。昨日、はぐらかしただろ」
母さんはグラスを両手で包んで、ほんの少しだけ、声の調子を落とした。
「朱璃ちゃんのお母さんね、昔から身体が弱いの。特に最近は、調子が悪いことが多くなって、それで、もし入院することになったら、朱璃ちゃんを預かってもらえないかって、電話で頼まれたのよ。他に頼れる人も、あんまりいないみたいで」
「……それが、半年前?」
「そう」
筋は、通っていた。通っているのだが、その瞬間、新しい疑問が頭に浮かんだ。
昨日の、あの子の姿だ。目元を覆った手。血の気の引いた頬。あまりにも徹底されたパーソナルスペース。素人の俺が見たって、あれは、ただの人見知りじゃない。
『男の人は、みんな、そう言いました』
あの言葉が、妙に耳に残っている。
何があったのかは知らない。どれほどのことを経験してきたのかも、俺には想像することしかできない。
それでも、彼女が他人を恐れる理由は、きっと俺が思っているよりずっと深い。
——なのに、なぜ。
娘がそうだとわかっているはずの母親が、なぜ、わざわざ、男のいるこの家に預けようと思ったのか。
母さんは、たぶん、あの子の異常性に気づいていない。だからといって、俺が勝手に話していいような内容でもない。遠回りに聞くしかなかった。
「……向こうの母親から、他に何か聞かれなかったか?たとえば、俺の近況とか」
「近況……?ああ、聞かれたわよ」
母さんは、あっさり頷いた。
「翔生はどうしてるの、って。だから、『東京のほうで頑張ってるわよ』って答えたの」
「…………とう、きょう」
……そう、だった。
あの頃の俺は、まだ東京にいたのか。
指を折って数えてみて、意外に思った。この家で寝転がっている日々が、もう一年も二年も続いているような気がしていた。
……色々と、ありすぎた。ありすぎたせいで、東京を出てからの時間の感覚が、どこかおかしくなっていたのかもしれない。
ともあれ、それなら合点がいく。
向こうの母親は、俺が東京にいると思っていた。だから、この家に、男はいない。そう信じて、娘を預けようとした。そこへ、間の悪いことに、俺が帰ってきてしまった。
大方、こんないきさつだろう。
……なんだ。誰も、誰もわるくないじゃないか。
「あ、それと……ごめんね、翔生」
「……何が?」
「勝手に部屋、使っちゃって。帰ってきたばかりなのに、ちゃんと相談もしないで」
「いいよ。どうせ寝るだけだったし」
「でも、翔生の部屋だったのにね。ごめん」
母さんは、困ったように笑った。
「…………っ」
窓の外が、ふっと暗くなった。
さっきまで白く焼けていた庭の光が、嘘みたいに消えて、百日紅の影が、灰色に溶けた。蝉の声が、一つ、また一つ、途切れていく。
ぽつり、と窓ガラスが鳴った。
一粒。間を置いて、もう一粒。
そして、堰を切ったように、雨が来た。
屋根を叩く音が、一気に家中を満たした。空の底が抜けたような、容赦のない大雨だった。庭の土が跳ね返って、濃い匂いが、網戸の隙間から流れ込んでくる。朝の光に透けていた蝉時雨は、雨音の向こうへあっという間に呑まれて、聞こえなくなった。
窓ガラスを、水の筋が、何本も、何本も流れていく。重なって、ほどけて、下へ落ちていく。
誰も、何も言わなかった。
雨の音だけが、台所の隅々まで、静かに満ちていた。
(…………誰もわるくない、か)
重たい何かが、みぞおちのあたりに、ゆっくりと沈んでいく。さっきまで涼しかったグラスの結露が、今はやけに生ぬるい。
二階では、あの子が、画面の向こうで授業を受けている。男が駄目なのだ。それも、相当に。目元を覆わなければ立っていられないほどの、確かなハンデを抱えている。それなのに、彼女は逃げなかった。見知らぬ男のいる家に来て、笑顔を貼り付けて挨拶して、俺に怒鳴られて、それでも今朝は、ちゃんと画面に向かっている。自分の戦場から、目を逸らさずに。
朱璃の母親だって、そうだ。身体が弱くて、自分のことすら思い通りにならないはずなのに、娘が一人になる日のことを考えて、電話をかけた。頭を下げて、頼れる人を探した。娘を守るために、できることをした。
母さんも。何も知らないまま、笑って、あの子を迎え入れた。慣れない数学の相手を探して、お茶を淹れて、この家を明るく回している。知らないなりに、自分の役目を果たそうとしている。
三人とも、逃げ出さずに、己の役目を果たそうとしている。
じゃあ、俺は。
俺は、何なんだろう。
朝、起きる理由すら見つけられなくて、スマホは三日前から黒い板のままで、母さんが朝飯を用意してくれるのを待つだけの、二十四歳。
掌の皮が柔らかくなっていくのを、堕落の証拠みたいに眺めているだけの、居候。
あの子の怯えを、八つ当たりの的にして、「お前にそんな価値ない」とまで言って、誰かを守るどころか、既に傷を負っている少女を痛めつけるだけの、無職。
守る側にも、守られる側にも、なれていない。ただそこにいるだけで、場所と空気を食っている。
息を吸う。吸っても、胸の底まで届かない。昨日のあの子も、こんなふうだったのだろうか。いや、一緒にするな。あの子のは、本物だ。俺のは、ただの甘えだ。
「……母さんってさ。何でこんな俺にも優しいの?」
気づいたら、声が出ていた。
母さんは、きょとんとして、グラスから顔を上げた。
「え?何、急に」
それから、ふふっと笑った。ストローをくるりと回して、天気の話でもするみたいに。
「したいから、してるだけよ。私の息子なんだから、当たり前でしょ。それにね、お母さん、嬉しいの。翔生が帰ってきてくれて……朝起きたら、家に息子がいる。それだけで、毎日ちょっと得した気分になるの」
穏やかな声だった。からかいも、慰めの匂いもない、ただ本当にそう思っているだけの声だった。
「…………ありがと」
けれど、その言葉は、胸の底まで届かなかった。
俺は、何を甘えているんだ。母さんなら、そう言ってくれるに決まっている。そう言ってもらえると、どこかで期待して、聞いたのだ。この期に及んで、まだ。
言葉なんて、何の意味もない。あの環境で、嫌というほど叩き込まれた理屈だ。
本心は、行動で伝えなければ意味がない。誠意は、結果で示されなければ、何の価値もない。現場では、口でどれだけ「頑張ります」と言っても、結果が出なければ、ただの嘘と同じだった。
『よって、言葉を巧みに使う者は、プロではなく詐欺師と呼ばれる——』
「……ッ!!」
ガタン、と大きな音がした。
椅子が床を擦る音。手のひらに伝わる硬い感触。からからと、氷がグラスの中で跳ねている。
気づけば、俺は立ち上がっていた。
「し、翔生……?どうしたの、急に」
母さんが、目を丸くして、ストローを咥えたまま固まっていた。童顔のせいで、驚いた顔が、本当に女の子みたいだった。
「いや……ごめん。何でもない」
言いながら、もう椅子を元に戻している。自分でも、何をしているのかわからない。
「レモンティー、ありがと。美味かった。話も、聞けてよかった。……ごちそうさま」
「ちょっと、まだ半分以上残ってるじゃない」
「あとで飲む。ありがとう、母さん」
早口で言い切って、返事も待たずに、リビングを出た。
廊下を、大股で歩く。足が勝手に、速くなる。
さっきまで、床に沈み込みそうなほど重たかったくせに、今度は、じっとしていられない。胸の中で、何かがざわざわと暴れている。ほんの数分前の俺と、今の俺が、別人みたいだ。
(ほんと……躁鬱はタチが悪い…………)
どこへ行くのかも、何をしたいのかも、わからなかった。ただ、ここにいてはいけない気がした。外の空気を吸わなきゃ、と体のほうが先に決めていた。
玄関で、靴に足をねじ込む。傘立てには、目もくれなかった。
意味もわからないまま、戸に手をかけた——
「翔生さん」
背後から、声がした。
ハッとして、振り返る。
廊下の奥、リビングの戸の前に、少女が立っていた。階段を降りてくる足音は、しなかった。長い髪が、少しだけ乱れている。片手は、胸の前で、きつく握りしめられていた。
その後ろ、リビングの戸の陰から、母さんが顔を半分だけ覗かせていた。口を両手で押さえながら。
呆気に取られて、動けなかった。
少女のほうが、先に動いた。
一歩。もう一歩。ゆっくりと、こちらへ歩いてくる。そして、昨日までの腕二本ぶんより、半歩だけ短い距離で、足を止めた。
「あの、私……」
小さな足が、床の上で、ほんの少し震えている。それでも、彼女は、逃げなかった。顔を上げて、俺の目を、まっすぐに見た。
「一度……翔生さんと、話してみたいです」
小声だった。雨音に負けてしまいそうなほど、小さな声で——
「お喋り、好きなんですよね……?」
「…………っ」
あぁ、どうして。
どうして、みんな、逃げないんだろう。
次は朱璃パート