ハムレットと鉄鎚   作:淀川阿求

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後編

 私は小遣いに満足していた。

 高校に進学すると同級生たちが一斉にバイトを始め出す。すると私が土曜日と日曜日のたったの二日間、ぼんやりと部品の点検や配膳をするだけで貰う額の半分くらいの額をやっとの思いで稼いでいるのを知ると、凋落したとは言え生家の財力を思い知らされた。

 

 最もそのお陰で、私は工場の二階で寝転んだまま、弁当と書物との道楽に憂き身を窶し得る有難い身分にあるわけであるが、同時にその道楽の結果として、自分の頭脳と肉体とが日に日に頽廃していく有様をジッと見詰めていなければならなくなったのには、少々悲観させられた。本は刺激のある探偵小説やSF小説でなければ楽しめなくなった。思想書なぞ以ての外で、屢々活字を逐うのにも眼が辷って、西洋画家の画集なんかを眺めるだけで一日を終えることもあった。大抵この手の書物は五千円からするのが相場であったが、それでも余るに足りる小遣いが私の手元には未だ残っていた。

 

 しかし遂にはそんな書物を買いに行くことすら大儀になった。もくもく肥えて丸みを帯びてきた四肢を投げ出しながら、四囲に立ち塞がった壁を恰も芸術作品みたように飽かず飽かず眺めまわしつつ、あらん限りの空想や妄想を逞しくする時間が増えてきた。

 あの押し入れの錠前は何かしら……。

 何かを隠しているのかしら……。

 ともすればお父様に纏わる重大なものかしら……。

 なぞと悶々としながらも、自分の肥った太腿や、蓬々と伸びた毛髪なんかを弄りながらごろごろと寝返りを打った。今日もここに泊まっていこうか……と思い思い、私は自分の肉体と精神の弾力が日に日にだらけて消え失せていくのを感じた。終いには絶えず聞いていたお父様のケタタマシイ反響が、徐々に小さくなっていくような気分がしたので、私の神経はいよいよ弱ってきた。……私は近いうちに死ぬかもしれない。お父様に顔向けができなくなって、自殺するかして……というような仄暗い不安感に襲われるようになったのは、この頃からであった。叔父はこうして私を衰弱させるために高い小遣いを与えているのかもしれない。もしそうならば、構うことはない。その時は叔父も一緒に道連れにしてやるだけだ……なぞと真剣に考えたりした。

 

 そのうちに叔父は五十歳になった。私は十九歳になった。

 私はこの頃から突然母が老けだしたように感じてきた。お父様を殺した仇とは言い条、諸説紛々母親に相違ない認識を持っていて久しいが、その偉大な母の権威性が、立ちどころにあんまりにも曲がない老人みたように思えてしまって仕様がなかった。一体この時の気持ちの頼りなさ……。張り合いのなさ……。以来母を見つければ縁側で一人つくねんとしているか、叔父に女中のように扱われているかの二者択一で、どうにも遣る方無い思いが胸を横溢させた。私はこの老人に復讐をするのか……と実感すると、途方もない気後れがした。

 

 私はこの事に最前まで気付かないほど、左様に実世間から離れた人間であった。箕作家には私以外の子供がいないのだし、叔父も母も財産を私に相続させる方針で一致した。したがって高校を卒業して適当な大学に進学しながらも、私の生活は凡そ変化がなく、終日工場の二階で転がっていた。私は私の神経が、実世間の如何なる問題に触れても、すぐに縮みこむほどに鋭いものであることを理解していた。私は現実世界にある太陽や、草木や、海原なぞが空想世界のそれと較べて随分単調で、荒々しいものであることを知っていたし、同様に金とか、女とかいうものも、実際に手に取ってみると存外下らない、飽き飽きしたものである上に、そんなものに対する欲望を持続するために懸かる馬鹿馬鹿しいほどの努力や、夥しい数の苦心というものに対して手もなく辟易としていた。私は現実世界との一切の通交を断ち切り、空想世界の中で復讐の奸策を巡らしている方が自分に相当している生活であるということを信じて止まなかった。

 

 然るに……忘れもしない、その翌る年の九月の初めの、珍しく冷涼な昼下がりであった。工場に腰弁を決め込んで、昼食を済ましてからソファに転がって、何度読んだかも知れない画集を開いて眺めていると、後ろの方から突然扉の開いた音がした。私は滅多にない音にびっくりして振り返ると、そこには叔父が就かぬ様子で佇立していたので、思わず顔に覆い掛かった毛髪を撫で上げた。私は本能的に並ならぬ予感を察知して、全神経を集中して叔父の言葉を待った。

 

「今日は大学に行かないのか?」

「エエ……まあ……」

「そうか……」

「……あの、何か用向きでしょうか」

「暇なら買い物に付き合え」

 

 扉の閉まる音がした。

 私は思わず立ち上がったが、そのまま叔父が階段を降りていくのを見詰めてぼんやりと突っ立っていた。今まで類例を見ない出来事に面食らわされてしまったまま……。

 ……叔父は何かを企んでいる……その企みはひょっとしたら私が先達て企て続けている復讐よりも深刻、痛烈を極めた奸計である……そうしてその最初の段階を遂行しようと私を呼び出したらしい……。

 という予感だけがキリキリと私の脳髄の中心に堆く立ち上ったかのように思った。私は画集を閉じて窓を閉めると、階段を下って、叔父の待つワゴン車の元へ急いだ。これより待つ惨憺な前途に緊張しいしい、不可抗的な引力を感じつつ、私は唯々として下を向いていた。

 

 叔父は私を、一気に空想の世界から現実の世界へ引っ張り出してしまった。私はそれから後、殆ど叔父の命令のままに身仕舞いをさせられた。身体の線を拾う滑らかなシルクのシャツや、腰回りの肥えた丸みを強調するピッタリとしたパンツを着させられた。他にも叔父の言いつけ通りの服を夥しい数買ってもらった。美容室では叔父のオーダー通り、蓬々とした長い毛髪を整えて後ろ手に結い、仕上げには甘ったるい香油を振りかけたりした。脱毛の契約なぞもさせられた。高い靴や時計、ジャケットなんかを初めて買ったのもこの時であった。叔父は私を所謂マトモな社会人に仕立て上げようとしているのだ……そう気付くと間をおかず叔父のこういった試みは之繞を掛けてくる。その日以来、屢々叔父に連れられて所謂社会勉強みたような事をするようになった。

 

 やがて休日に工場で給仕めいたことをするのは稀になってきた。休みさえ合えば叔父は市内外問わず到る所にある上等な交際場裡へ引っ張り込んで私を驚かせた。中華料理屋だの、ゴルフ場だの、ダンスホールだの、叔父は私に酒を注ぐタイミングや、座敷での膝の折り方、叔父の一歩後ろを歩く際の佇まいばかりを細かく注意した。その中でも特に舌を巻いたのは、予てより愛読している作家先生の家に招かれた時であった。その時に叔父は今までにない私の動揺を察知したらしく、依然傲然とした態度で振る舞いつつ、黄色い歯を剥き出しにして誇らしげに笑ったのであったが、そうした叔父の様子を横目に見ているうちに、私はふと、名状し難いヒンヤリとした気持ちに陥った。

 

 ……叔父はこうした思い切った遊戯の果に、私の復讐心を頽廃させて、尋常一様の普通人として叔父特有の箕作家の名跡を継がせようとしている。そうして私のこういった内幕すら既に見透かしていて、日に日に頽廃に倦んでいきつつも措くことを知らない私の様子を見て愉悦を感じているのである。

 ……ともすれば私の復讐心を醸成したのも、最初から父ではなく叔父ではなかったのではないかしら。そうして私の弱点をあらゆる方向から刺激しつつ、その去勢された生き血を最後の一滴までも吸い尽くすのを唯一の使命とし、無上の誇りとし、最高の愉楽と心得て仕組まれた罠だったのではないかしら。

 ……というような実感が、みるみるハッキリしてきたので、私は面白いナ……と思った。まるで探偵小説の悪役かなんぞのように益々その威光を揮い出した叔父の存在感に駆り立てられながら、私は長歎久しゅうした。来るなら来い……と思って、私は道連れの覚悟を決めて久方ぶりに父の幽霊を垣間見たのである。

 

 けれども、私のこうした予感が物の見事に裏切られたのは、それから一ヶ月と経たない時分であった。

 

 

*

 

 

 それは十月の中頃の、割合い温かい日であった。私と叔父は平生通りに社会勉強の一環で市外の温泉に行くことになったのであるが、その温泉が効能こそよくわからないが色々な贅沢な設備やホテルなんかが併設して接待にうってつだと叔父が言うので、そこで第一等のホテルの玄関について、客室付属の浴場に案内された時は流石に眼を丸くした。

 

 高い天井まで抜いた大窓の高遠に山々の青いのを存分に望み、濛々と立ち昇る湯気は檜の香気を室中に充満させている。窓からの太陽光線が青ずんだ湯の底を透かして、天井までその反射をキラキラと溢れ出して、煙と景色とが綜合して幻想的な偉観を作り出していた。

 

 私はその湯の中にふんわりと身体を浮かして良い心地に身を預けた。その間に出し抜けに叔父が浴場に入ってきたので、私はぎょっとして振り返ったが、叔父は今更めかしく私の顔を一瞥してから、肥った身体を私の隣に沈めた。それから突然にこんなことを言い出したのである。

 

「お前には全てを教えた……今すぐにでも俺の財産を譲ってやってもいい……」

「エッ……」

 

 と私は少々面食らったように頓狂な声を漏らした。危うく私の予てからの奸策が叶ってしまいそうになったので……。

 

「そんな……恐縮です……」

「ウン……マア、まだ少し早いがな。俺もそんな歳じゃあない。しかし、直にな……」

「ウゥン……直にとは、いつ頃の予定で……」

「……まだ頭の固まらない裡に余計な財産を持てば欲がさすだろう。そのうちな……マア、お前の様子を見ていれば杞憂だとは思うが。……しかしいつまでも温室で腐らすのもいけない。少しずつは自覚を持ち始めろ。俺が支えてやる……」

 

 と言うと叔父は私の肩を抱いた。叔父の赤黒い大きな手が、私の青白い丸い肩を全体覆ってしまって、私は不可抗的に叔父の方へと抱き寄せられてしまった。私は何かヒイヤリとした実感が、早鐘を撞くように鼓動を高めるのを感じて……。

 

「ア……あの……」

「今夜は工場へ来い」

 

 何の躊躇する処なく言下に被せた叔父の言葉に、私は思わず聞き返してしまった。

 

「工場へ来い。まだ教えなければならんことがあるから……そうだな、零時がいい」

「エッ……それはどうして……」

「教えなければならん……」

 

 と叔父はそう呟いて私の肩を抱くのを一層強くした。私は反射的にそれを避けようとしてドブリと湯の中へ落ち込んだが、その拍子に鼻の中に湯が入って激しく噎せながら流し場に上がった。見ると叔父は所在ないように全然黙殺しきった態度で景色を眺めていたが、やがて湯の中にあおのき倒れて目を瞑ってしまった。

 

 私は忽ち気味が悪くなったような気分がして、足早に浴場を後にした。忙しくなく毛髪や身体を拭いてから着替えて、髪を結っていると、不意に脱衣所の鏡のところに自分の姿が映っているのを発見した。思いがけない、一面の巨大な鏡であった。

 私は思わず目を剥いて息を凝らした。……その中に映っている私自身の格好が、あんまり自分の姿と重ならないのに驚いたのであった。

 一瞬間にこの人物が誰であるか判然としないままに、鏡越しに唖然と口を開けて色を失っている相貌がこちらをジッと凝視していて、瞳と瞳とが恰も暗示作用を引っ掛けるようにぴったりと重なり合うと、漸くこれは私だ……と直覚した。

 

 自分でもゾッとするほど触れ難い玲瓏たる白い肌が、繊細な青白い反射を燐光のように発して、湯上がりの熱に仄かに頬に紅を滲ましている。その表情には憂いを知らない乳飲み子みたような印象を覚えて仕方がなかった。叔父に誂えられた身体を強調するピッタリとした服に身仕舞いを整えると、その短く薄い胴体の最底部から、もう十分に肥えて丸みを帯びた臀の隆起が溢れんばかりの流線型を描く太腿を繋いでいて、まるで男に見えないばかりか、女の格好にしか見えない。……そればかりかその格好は生娘みたような観があって、私はこの姿を以前何処かで見たことがある気がしてならなかった。

 

 私はまた、同時にこの鏡の中の生娘が持つ尋常一様ならぬ蠱惑が一度に反転するような心地になって目眩がした。その一瞬間にこの生娘の全てが電光のように頭の中に閃き込んできたのでぎょっとしない訳にいかなかった。……その肌や肉付きは、言うまでもなく、毛髪の一本一本から鴇色の爪に到るまで麗々しくしなをつくっていて、淑やかな裡に仄かな媚を湛えた……処女然とした……アア……と、私は出し抜けに外へ駆け出した。

 

 私はホテルを飛び出して後、何処をどう歩き回ったのか記憶しない。或る目に見えない偉大な力が、私の首元を捕まえて自由自在に振り回していたとしか思えないほどに不思議な復路であった。故に私がどのようにして工場に帰ってきたものか全くわからない。

 

 ……四囲から絶叫してくる自動車の警笛を聞いた。眼の前を喧騒の衆が波打っているのを見た。自転車のケタタマシイブレーキ音が耳の穴の中を暴れまわった。叱咤する人の声や子どもの鳴き声を聞いた。図形みたような荒々しい太陽や、下品な山々の緑や、不愉快な土の香りを感じた。車内らしい処に迷い込んだ。私が何かを言うと何処かへ案内された。電柱や木々が一気呵成に視界の端へ吸い込まれるのを見た。広い畔を眺めた。街の灯火のきらきら光るのが、得も言えぬ郷愁となって飛来した……。

 ……叔父は私を苦しめたいのではなかった。私を都合の良い形に作り変えて支配したいのであった。しかも、それは当初私が予想していた叔父の奸策よりもずっと恐ろしい、悍ましい事実に相違なかった……。

 ……叔父は私に対して、跡取りだけでなく、甥も、息子も、妻も、妾も、女中も、愛人も、全てを投影して作り変えて、その総決算があのイマイマシイ鏡の中の生娘の姿なのだ……。

 ……餌付けされるままに生活が頽廃し、主体的意思の一切を去勢され、男か女かすらもわからない姿に変貌させられたのが今の私の姿なのだ……。

 ……そうして私が叔父無しでは生活が出来なくなった頃合いを見計らって、左様に打ち明けて見せたのだ……。

 ……そんなことも知らずに叔父の腕の中で愉悦に舌を巻いていた自分の惨めさ……愚かさ……。

 ……けれども……。

 ……けれども……。

 ……身代を左前にしようという当初の計画には、依然何一つの支障が生じていないのではないかしら……。このまま唯々として叔父を信用させていれば、叔父への復讐は叶うのではないかしら……。

 

 そんなことを繰り返し考えていくうちに私はとうとう何も判らなくなってしまった。何のために歩いているのか、何処へ向かっているのか、考えようともしないようになった。時々見えたり聞こえたりするものを微睡みの裡の幻想のように感じたが、始終チラチラとして浮かんでは消えてゆくその幻想の裡に、一向に父の幽霊が見えないので私は茫然と不思議な気分になった。それ以外の全てが見えているのに、父の姿だけを見失ってしまったように感じて……。そして終いにはその微睡みすらも感じ得ぬまま恍惚として蹌踉めいて工場に辿り着いていた……ように思う。

 

 叔父は先んじて工場の二階で待っていた。ソファに深く腰を掛けて、脚を組んで新聞を広げて読んでいた。私は休憩室に入るなり叔父の姿を眺めながらぼんやりと突っ立ってしまったが、やがて叔父が私の方へ一瞥をくれると、やおら立ち上がって私の腕を引っ張った。そして投げ出されるようにソファに座らされたので、私はぼぅっとした気分のまま叔父の顔を見上げた。

 

 叔父は赤黒い顔に無表情を湛えて、禿げた頭から汗をにじませつつ、私の顔をジロジロと見下した。それから鼻先で特有の憎々しい冷笑を刻んで、ポケットから取り出した鍵で押し入れの錠前を開け始めた。私はぎょっとしてその様子を睥睨するように凝視していたが、押し入れの中に三つの小さな黒い小瓶の裡に『三酸化二ヒ素』の文字を発見すると、ガンとした頭を鉄鎚で殴られたような衝撃が迸った。しかし不思議なことに、その衝撃はじんわりと脳髄の中に浸透するように忽ち消え失せてしまって、事も無げに煎餅布団を取り出している叔父の背中ばかりを見詰めていると、容易く首肯できてくるような、尋常一様の納得めいた実感が蔓延ってくるのである。私は屢々当惑してしまって、困ったように微笑を浮かべていたように思う。

 

 叔父は敷いた布団の上に腰を掛けて私を見上げた。私はその微笑のまま叔父を見つめ返した。恰も愛おしく思うように自分の視線が思わず叔父に釣り込まれているのであった。やはりこの人がお父様を殺したのだ……そういった実感が嵩じてくるのと同時に、もはやその事実を私に隠す必要すら認めないほどに高をくくっているのだ……という名状し難い緊張と蠱惑とが胸を横溢させたので……。鼓動が高まっていくのを実感するままに、おずおずとした足取りで叔父の元へ拝跪し、私は、抱きすくめる叔父の胸に顔を埋め、その太い腕の中で蕩けるような心地で叫んだ。

 

「アアッ……お父様ッ……」

 

 今は、父の声が全く聞こえない。

 

 

(終わり)

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