その競売場には、窓がなかった。
湾岸に並ぶ倉庫のひとつ、その地下二階。表向きは輸入家具の保管庫だという話だが、今夜ここに集まった客の誰ひとり、家具など買いに来てはいない。仮面をつけた紳士、宝石を首から下げた婦人、名乗りもしない代理人。薄暗い照明の下で、彼らの視線はただ一点、壇上の硝子ケースに注がれていた。
「――続きまして、本日最後の出品となります」
競売人の声が低く響く。
「平安期の古文書。題して『宗近秘譚』。かの天下五剣、三日月宗近にまつわる秘伝の書でございます」
ざわ、と会場が揺れた。
ケースの中に収められているのは、黄ばんだ和紙の巻物だった。ところどころ虫に食われ、墨はかすれ、端は焦げたように黒ずんでいる。いかにも千年を経てきたという顔つきの代物だ。
客席の後方、杖をついた白髪の老紳士が、片眼鏡の奥で目を細めた。
(へえ、こいつはまた……)
ふさふさの白い眉。上品な口ひげ。仕立てのいい三つ揃い。どこからどう見ても、道楽で古美術を集めている資産家の隠居である。――その中身が、世界を股にかける大泥棒だと気づく者は、この会場に一人もいない。
「伝えによれば」と競売人は続けた。「三日月宗近の刀身に浮かぶ三日月の文様。あれはただの刃文にあらず。平安の世に隠された秘宝の在処を示す、暗号であると」
老紳士の口ひげが、ほんのわずかに持ち上がった。
「一千万から参ります」
札が上がる。二千、三千。値は瞬く間に吊り上がっていく。老紳士は杖に両手を重ねたまま、しばらく黙って眺めていた。五千を超えたあたりで競り合う声がまばらになり、六千で最後の一人が首を振る。
「六千。六千万。ほかにございませんか」
「――一億」
しわがれた、のんびりした声だった。会場中の顔が、いっせいに後方へ振り向く。老紳士は涼しい顔で札を掲げ、にこにこと笑っていた。
「一億。……一億で、落札でございます」
木槌が鳴る。
引き渡しは、別室で行われた。
狭い応接間に、出品者だという男が待っていた。黒い外套に、黒い帽子。部屋の照明はついているのに、なぜか男の顔だけが影になってよく見えない。
「お買い上げ、ありがとうございます」
男の声は妙に平板だった。抑揚がないというより、人の声を真似ている何か、といった響きだ。
「いやいや、いい買い物をさせてもらいましたよ」老紳士はアタッシュケースを差し出した。「ところで、これほどの品をどちらで?」
「さる旧家の蔵から。……それ以上は、どうかご容赦を」
「ほっほっほ。ま、野暮は申しません」
巻物を受け取り、老紳士は部屋を出た。
廊下の角を曲がったところで、老紳士の背筋がしゃんと伸びた。杖をくるりと回し、白い眉をべりっと剥がす。
「さぁて、と」
アタッシュケースの中身が、一番上の一束を除いてすべて新聞紙だったことに出品者が気づくのは、これより三十分ほど後のことになる。
◇
「――で、そいつが一億の巻物ってわけか」
隠れ家のソファで、次元大介は帽子のつばの下から胡散臭そうな目を向けた。
「一億払ったとは言ってないぜ?」
ルパン三世はテーブルに巻物を広げ、上機嫌で虫眼鏡をのぞき込んでいた。変装を解いた顔は、いつもの猿顔である。
「見ろよ次元、ここだ。『三日月の刃に、秘宝の道を刻む』。宗近が打った刀に、平安貴族のお宝の隠し場所が仕込まれてるってわけよ」
「話がうますぎる」
「うまい話を疑ってたら、泥棒なんかやってらんないの」
次元は煙草に火をつけ、ふうと煙を吐いた。
「お前のその台詞を聞いて、うまくいった試しがあったかね」
「あったあった。山ほどあった」
部屋の隅で、石川五ェ門が静かに目を開けた。壁にもたれ、愛刀を抱えて座っている。
「ルパン。つまりその宝を得るには、三日月宗近を盗まねばならぬということか」
「そういうこと」
「……気が進まぬ」
五ェ門は眉間にしわを寄せた。
「天下五剣は、刀の道を行く者にとって仰ぐべき名刀。千年の時を経て受け継がれてきたものを、己の欲のために持ち出すなど」
「借りるだけだって。暗号を読んだら、ちゃーんと返すからさ」
「その言葉、忘れるな」
「忘れない忘れない」
ルパンはひらひらと手を振り、また虫眼鏡をのぞき込んだ。その目はもう、千年前の秘宝の輝きに釘付けになっている。
◇
「あら、楽しそうなお話ね」
甘い声と一緒に、香水の匂いがふわりと部屋に流れ込んだ。
いつの間にか、ドアのところに峰不二子が立っていた。体の線がくっきり出るドレスに、大ぶりのサングラス。鍵をかけておいたはずのドアを、まるで自分の家のように開けて入ってくる。
「ふ〜じこちゃ〜ん!」
ルパンが巻物を放り出して飛びつき、ひらりとかわされて床に顔から突っ込んだ。
「天下五剣に隠された平安のお宝、でしょ? 裏の世界じゃもう噂になってるわよ」
「どっから嗅ぎつけてきやがった」次元がうんざりと言う。
「女には女の情報網があるの」不二子はソファの肘掛けに腰かけ、床に転がったルパンを見下ろしてにっこり笑った。「ねえルパン。もちろん、山分けよね?」
「もっちろん! 不二子ちゃんとなら半分こ、いや全部あげちゃう!」
「ルパン」五ェ門が低く唸った。「その女、また裏切るぞ」
「やだ、人聞きの悪い」
不二子は唇に指を当てて笑う。その目が少しも笑っていないことに、床のルパン以外の全員が気づいていた。
◇
三日後。上野。
平日の昼下がりだというのに、東京国立博物館の前庭には長い行列ができていた。入口の横断幕には、毛筆の大きな文字が躍っている。
特別展「天下五剣」。
「すげえ人だな」
行列の中ほどで、次元が帽子のつばを指で押し上げた。今日は観光客らしくカメラを首から下げている。……似合っていない。
「刀がブームなんだとさ。若い姉ちゃんもいっぱいいるじゃないの」
隣のルパンは、派手なアロハシャツに丸眼鏡。どこから見ても浮かれた観光客である。
館内に入ると、空気がひやりと変わった。
照明を落とした展示室。硝子ケースの中で、刀たちが静かに光を返している。そして天井の隅、壁の継ぎ目、通路の曲がり角。そこかしこに、小さな黒いレンズが並んでいた。
「顔認証カメラが展示室ごとに四台。動きを解析するAI監視。床には感圧センサー、ケースの周りは赤外線の網」
ルパンが丸眼鏡の奥で目だけを動かし、小声で数え上げる。
「警備員の巡回は十五分おき。ケースのガラスは防弾、開けりゃ三秒で警報が鳴る。おまけに展示室の扉は、緊急時には全部自動で閉まる仕組み」
「……おい」次元が渋い顔をした。「昭和の泥棒にゃ、ちと荷が重いんじゃねえか」
「だから面白いんじゃないの」
ルパンはにやりと笑った。
「最新の機械ってのはな、次元。人間が考えた通りにしか動かねえ。考えてない手を使われたら、からっきしなのよ」
展示室のいちばん奥。人だかりの向こうに、それはあった。
太刀、銘三条。名物、三日月宗近。
思っていたより、ずっと細い刀だった。反りは深く、たおやかに弧を描いている。ケースの照明を受けて、刃の上にいくつもの淡い模様が浮かび上がっていた。三日月の形をした、打ちのけ。
ざわついていた見物客たちが、その前に来ると不思議と口をつぐむ。
「……きれいなもんだな」
次元が、珍しく素直な声を出した。
「ああ」
ルパンもしばらく黙ってケースをのぞき込んでいた。刃に散る三日月を、ひとつ、またひとつと目でなぞる。
それから、ぱっといつもの顔に戻った。
「よーし、この三日月のどれかがお宝の地図ってわけだ。待ってなよ、お月さん」
ルパンは硝子越しの刀に、ちょいと指を振ってみせた。
刀は答えない。ただ照明の下で、千年前と同じように静かに光っているだけだった。
◇
翌朝。東京国立博物館、館長室。
館長の机の上に、一枚のカードが置かれていた。朝一番に出勤した職員が、鍵のかかった館長室の机の上で見つけたものだ。誰がいつ、どうやって置いたのか。防犯カメラには、何ひとつ映っていなかった。
カードには、流れるような筆記体でこう記されている。
来たる満月の夜
天下五剣・三日月宗近を頂戴に参上いたします。
ルパン三世
通報を受けて駆けつけた若い警官が、証拠品袋に入ったカードをしげしげと眺めた。
「今どき、メールでもSNSでもなく、紙の予告状……?」
「ルパンはそういう奴だ!」
背後から、腹の底に響く怒声が飛んできた。
トレンチコートの裾を翻し、ずかずかと館長室に入ってきた男がいる。くたびれたソフト帽、四角い顎、獲物を追う猟犬の目。ICPO所属、銭形幸一警部。
「け、警部!」
「奴は昔からこうだ。わざわざ予告して、わざわざ正面から来て、わざわざ盗んでいく。そういう男なんだ、ルパンという奴は」
銭形はカードを引ったくるように受け取り、穴が開くほど睨みつけた。
「満月の夜……五日後か。おい、館内の警備計画を全部出せ。顔認証だのAIだの、最新の機械は全部動かせ。それから人だ。人を出せるだけ出せ」
「機械だけでも十分では……」
「機械なんぞ、奴にかかれば玩具だ!」
銭形はコートのポケットに手を突っ込み、窓の外を見やった。上野の森の向こう、高い空に、昼の白い月がうっすらと浮かんでいる。
「今度こそ逃がさんぞ……ルパン」
◇
満月の前の晩。
隠れ家の窓から、ほとんど丸くなった月が見えていた。
テーブルの上には、トーハクの見取り図と、配線図と、ルパンが描き散らした落書きのような計画書が広がっている。その真ん中に、例の巻物。
「いよいよ明日だな」
ルパンは椅子の背にもたれて巻物を眺め、にやりと笑った。
「天下五剣の秘宝、いただきだぜ」
「……まだ言ってやがる」
次元はソファに寝転んだまま、帽子を顔に乗せていた。
「話がうますぎるって言ってんだ、俺は。出どころの知れねえ古文書に、どこの誰とも分からねえ出品者。お前、あの男の顔を覚えてるか」
「顔?」
ルパンは首をかしげた。
覚えていない。確かに向かい合って話したはずなのに、思い出そうとすると、黒い帽子と外套しか浮かんでこない。
「……ま、地味な顔だったんだろ」
「そういうとこだぞ、ルパン」
壁際で座禅を組んでいた五ェ門が、目を閉じたまま口を開いた。
「拙者も、どうも胸騒ぎがする」
「お前らなあ。盗む前から縁起でもないこと言うなよ」
ルパンは笑って、巻物をくるくると巻き取った。
窓の外で、雲が月にかかる。部屋の灯りが、ほんの一瞬、揺れたような気がした。
◇
同じ夜。湾岸の倉庫街。
人気のない埠頭に、黒い外套の男が立っていた。
男は海を見ていた。いや、海の向こうの、東京の灯りを見ていた。その中のどこかに、上野の森がある。森の中に博物館がある。博物館の中に、一振りの太刀がある。
「……盗め、盗め」
平板な声が、夜風に溶けた。
「千年在り続けたものを、外へ。そうすれば、あとは折るだけだ」
風が吹く。
男の輪郭が、ぐにゃりと歪んだ。帽子の下から、外套の裾から、黒い靄のようなものが滲み出していく。人の形をしていたものが、骨の浮いた異形の影へと崩れ、そして夜の闇にほどけるように消えた。
埠頭には、誰もいない。
ただ、満月になりきれない月だけが、黙ってそれを見下ろしていた。