本丸の朝は、静かだ。
山の端から日が昇り、庭の松に露が光る。厨からは味噌汁の匂いが漂い、どこかの部屋で短刀たちが寝坊した兄弟を起こす声がしている。いつもと変わらない、のどかな朝だった。
――その静けさを、執務室の端末が鳴らした警告音が破るまでは。
「歴史の揺らぎ、だと?」
へし切長谷部は、審神者の背後から画面をのぞき込んだ。
政府からの緊急通達だった。赤い文字で、短くこう記されている。
――国宝『太刀 銘三条(名物 三日月宗近)』の現存記録に揺らぎを確認。時間遡行軍の介入の可能性あり。至急、対処されたし。
「場所は令和の東京。東京国立博物館だ」
審神者が画面を指で示した。添付された資料には、博物館の外観と、現在開催中の特別展の案内が映っている。特別展「天下五剣」。
「三日月の本体が、狙われてる」
長谷部の眉がぴくりと動いた。
刀剣男士は、刀の付喪神だ。本丸に顕現した姿は、言わば本体から分かたれた写し身のようなもの。けれど本体そのものが失われれば、その刀が千年を生きてきた歴史ごと、ねじ曲がってしまう。
「それで、どなたを出陣させますか」
「隊長は長谷部。頼めるか」
一拍の間もなかった。
「主命とあらば」
長谷部はその場に片膝をつき、深々と頭を下げた。背筋はぴんと伸び、声は平静そのもの。けれど、廊下でたまたま様子を見ていた加州清光は、長谷部の口の端がほんのわずかに上がったのを見逃さなかった。
(うわ、めっちゃ嬉しそう)
◇
昼前には、広間に部隊の面々が揃っていた。
「――以上が、今回の任務だ」
長谷部が状況を説明し終えると、真っ先に声を上げたのは大包平だった。
「トーハクだと!? 俺の家ではないか!」
「うん、だから呼ばれたんだと思うよ」加州が髪の毛先をいじりながら言う。
「当然だ。あそこの間取りなら、この大包平が誰よりもよく知っている!」
「いや、俺のほうが詳しいと思うぜ?」
大包平の隣で、厚藤四郎が胸を張った。
「俺は昭和の初めからずっとトーハク暮らしだからな。職員通用口も、警備の回り方も、どこにカメラの死角があるかも、だいたい頭に入ってる」
「む……」大包平が言葉に詰まった。「……ならば、案内はお前に任せる。だが、天下五剣の展示については俺が語る」
「語らなくていいよ」と加州。
「みかづきがさらわれるかもしれないんですって!?」
今剣が、広間の真ん中でぴょんと跳ねた。小さな体に、天狗のような身軽さが詰まっている。
「ぼくがぜったい、つれもどしてみせますよ! みかづきは、ぼくたちさんじょうのかぞくですから!」
「頼もしいね」
広間の隅の柱にもたれて、鶴丸国永が笑った。白い衣が、陽の光にまぶしい。
「しかし博物館から天下五剣を盗もうなんて、ずいぶん大胆な遡行軍もいたもんだ。どんな手で来るか、ちょっと楽しみになってきたぜ」
「鶴丸。遊びではない」
「分かってるさ、隊長殿」
鶴丸はひらひらと手を振った。長谷部は小さくため息をつき、それから一同を見渡した。
「へし切長谷部、鶴丸国永、今剣、厚藤四郎、大包平、加州清光。以上六振りで出陣する。目的は、三日月宗近の本体の守護。……各自、準備にかかれ」
◇
時代を越える門をくぐると、そこは令和の東京だった。
政府の用意した拠点は、上野駅からほど近い雑居ビルの一室だ。そこで一行は、現代の服に着替えることになった。人の世に紛れ込むには、それが一番手っ取り早い。
出発の前に、政府から一振りに一枚ずつ、札が配られていた。認識阻害の札。身につけていれば、人の目には「なんとなく誰かいた気がする」程度にしか映らず、その記憶もすぐに薄れていく。歴史を守る者は、歴史に名を残してはならないのだ。
ただし、札は人の目をごまかせても、機械の目には効きが甘い。防犯カメラに映れば、ぼやけた影くらいは残ってしまう。
「どう? 主に選んでもらったんだよね、これ」
真っ先に着替えを終えた加州が、くるりと回ってみせた。黒のジャケットに細身のパンツ、首元には赤いストール。爪には艶やかな紅。駅前を歩いていても誰ひとり振り返らないくらい、令和の街に馴染んでいる。
「おお、似合ってるじゃないか」鶴丸は白いシャツに白いコート。結局ほとんど白い。
「ぼくのは、ふーでぃーっていうんですよ!」今剣は大きなパーカーのフードを被ってご機嫌だ。厚はスタジャンにキャップで、どこから見ても元気な男子中学生である。
「俺はこれでいい」大包平は堂々としていた。仕立てのいいジャケットを羽織っただけで、妙な威厳が出ている。どこかの若社長に見えなくもない。
そして。
「……準備はできたか」
最後に部屋から出てきた長谷部を見て、全員が一瞬、黙った。
ダークグレーのスーツ。白いシャツ。紺のネクタイを、喉元まで隙間なくきっちり締めている。髪は一筋の乱れもなく撫でつけられ、背筋は定規を入れたようにまっすぐ。手には、なぜか黒い革の鞄。
「……長谷部さあ」
加州が、恐る恐る口を開いた。
「なんか、営業の人みたい」
「営業?」
「保険とか売りに来そう」
「主が選んだ服だ。文句があるのか」
「ないない。似合ってる似合ってる」
鶴丸が、口元を押さえて肩を震わせていた。
◇
上野の森は、秋の色に染まりかけていた。
噴水広場を抜けると、正面に東京国立博物館の本館が見えてくる。瓦屋根を載せた、どっしりとした石造りの建物。入口の前には、特別展を目当てにした人の列が長く伸びていた。
「なんか、変な感じだな」
厚がキャップのつばを少し上げ、建物を見上げた。
「いつもは中から見てる景色だからさ。外から入るのって、初めてかもしれねえ」
「懐かしいか?」長谷部が問う。
「懐かしいっていうか……ただいま、って感じだな」
厚は照れくさそうに笑った。その隣で、大包平が腕を組んでうなずいている。
「うむ。分かるぞ、その気持ち」
「大包平もここだもんね」加州が言った。
「そうだ。俺はここで、日々多くの人間に見られている。見る者みな、俺の美しさに言葉を失うのだ」
「はいはい」
表の行列には並ばず、一行は厚の先導で建物の裏手へ回った。木立の陰に、目立たない鉄の扉がある。
「職員通用口だ。この時間は搬入の業者が出入りするから、警備も慣れっこで、いちいち顔なんか見てねえ」
厚の言う通りだった。ちょうど美術品輸送のトラックが着いたところで、作業着の人々が慌ただしく行き来している。その流れにまぎれて、六振りはするりと中に入った。
「止まれ」
廊下の角の手前で、厚が片手を上げた。
「ここから先、天井にカメラ。首振りで、十二秒かけて右から左に回る。左を向いた瞬間に、壁沿いに抜ければ映らねえ」
厚は角の向こうを見もせずに、指で小さく数えた。
「……今だ」
一行は音もなく廊下を駆け抜けた。最後の加州が角を曲がった瞬間、背後でカメラのモーターがかすかな音を立てて向きを変える。
「次の扉は電子錠だけど、この時間は清掃のために開けっぱなしになってる。その先の階段は、監視の死角」
次々と、迷いのない指示が飛ぶ。廊下の分かれ道、警備員の詰め所、非常扉の位置。厚の頭の中には、この建物の隅から隅までが地図のように入っているらしかった。
「……頼りになるな、厚」
階段を上りながら、長谷部がぽつりと言った。
「へへっ、だろ?」
厚が振り返って、得意げに鼻をこする。
「伊達に長いこと、ここで暮らしてねえよ。何十年も見てりゃ、警備の兄ちゃんたちのクセまで覚えちまう。あそこの詰め所のおっちゃん、昼過ぎになると必ず居眠りするんだぜ」
「なんと」
「驚いたな。博物館の中ってのは、こんなに入り組んでるもんか」鶴丸が楽しそうに辺りを見回す。「いや、これは迷子になりそうだ」
「つるまる、はぐれないでくださいね!」今剣が鶴丸の袖を引っ張った。
階段を上りきると、厚は一枚の扉の前で立ち止まった。
「この先が、特別展の会場だ」
扉の向こうから、来館者たちのざわめきが聞こえてくる。厚は一度だけ振り返り、真剣な顔で言った。
「三日月は、この奥にいる」
◇
特別展の会場は、照明を落とした長い回廊だった。
壁際に硝子ケースが等間隔に並び、その一つ一つに、名だたる刀が静かに横たわっている。来館者たちは列をなして、ケースからケースへとゆっくり歩いていく。誰もが声をひそめ、まるで寺の本堂にいるような空気だった。
その空気の中で、刀剣男士たちは少しだけ、口数が減った。
ここに並ぶ刀の中には、本丸で共に暮らす仲間の本体もある。顕現した姿とは違う、千年を黙って生きてきた、鋼そのものの姿。それを人の目線の高さから眺めるのは、不思議な心地がした。
「……あ」
今剣が、小さく声を漏らした。
回廊のいちばん奥。人だかりがひときわ厚くなっているケースの中に、一振りの太刀があった。
細身の刀身。深く、たおやかな反り。照明を受けた刃の上に、淡い三日月の模様が、いくつも、いくつも浮かんでいる。
三日月宗近。
誰も、すぐには言葉を発しなかった。今剣が硝子に両手をつき、じっと刀身を見つめる。長谷部は無言で背筋を正した。鶴丸でさえ、いつもの軽口を忘れたように黙っている。
本丸で茶をすすっている、あののんびりした老人と同じものとは、にわかに信じがたかった。それほどまでに、ケースの中の太刀は美しく、そして遠かった。
「……これが、天下五剣か」
低く呟いたのは、大包平だった。
その目に、何か複雑な色が浮かんでいる。悔しさのような、憧れのような。
「天下五剣。日本刀の最高峰と呼ばれる五振り。三日月宗近、童子切安綱、大典太光世、数珠丸恒次、鬼丸国綱……」
大包平の声が、少しずつ熱を帯びていく。
「その名に恥じぬ美しさだ。認めよう。だが! 古刀の横綱と謳われたこの俺も、決して劣るものではない! なぜ俺がこの列に並んでいない! 俺こそが――」
「声、声」
加州が、大包平の袖をくいくいと引いた。
前にいた来館者が二人、きょろきょろと辺りを見回している。声の主の姿は、彼らの目には映っていないらしい。大包平ははっとして口を閉じ、こほんと咳払いをした。
「……すまん。つい」
「気持ちは分かるけどさ」加州が小声で笑う。「大包平の展示室、あっちの常設のほうでしょ。あとで見に行ってあげるから」
「……うむ」
大包平は、少しだけ機嫌を直したようだった。
◇
異変は、その直後に起きた。
回廊の向こうから、慌ただしい足音が近づいてくる。紺の制服の警備員が数人、それに私服の男たちが、来館者をかき分けるようにしてやってきた。
「申し訳ありません、本日の展示はここまでとさせていただきます! 出口へお進みください!」
ざわめきが広がる。何かあったのか、事件か、と囁き交わす声。その中に、ひときわ大きな怒鳴り声が混じった。
「ぐずぐずするな! 館内の警備計画は全部見直しだ、ケースの周りに人を張りつけろ!」
トレンチコートの男が、展示室の入口で仁王立ちになっていた。くたびれたソフト帽に、四角い顎。周りの警官たちが、その男を「警部」と呼んでいる。
「なんだ、あの騒ぎ」厚が眉をひそめた。
鶴丸が、すれ違った警官の会話をさりげなく拾ってくる。
「予告状だとさ。『満月の夜、三日月宗近を頂戴に参上』。差出人はルパン三世」
「るぱん?」今剣が首をかしげる。
「この時代の、名の知れた盗人らしい。世界中で盗みを働いてるって話だ」
一行の視線が、自然と長谷部に集まった。
長谷部は、硝子ケースの中の太刀を見つめていた。その横顔は、いつになく険しい。
「……正しい歴史に、この盗みは存在しない」
静かな、けれど確信に満ちた声だった。
「三日月宗近は、この先も博物館に在り続ける。ルパン三世という盗人が、これを盗み出したという記録はどこにもない。それが起きようとしているのなら」
「裏に、遡行軍がいる」
厚が言葉を継いだ。長谷部はうなずく。
「そのルパンとやらが、遡行軍と手を組んでいるのだろう。歴史を変える片棒を担ぐ者なら、人であろうと容赦はせん」
「穏やかじゃないねえ」
鶴丸が肩をすくめた。けれどその目は、珍しく笑っていなかった。
「満月まで、あと五日」長谷部は一同を振り返った。「それまでに館内を調べ上げ、備えを固める。ルパン三世が何者であろうと、この刀には指一本触れさせん」
六振りは、うなずいた。
出口へと流れていく人の波に紛れながら、今剣は最後にもう一度だけ、回廊の奥を振り返った。
硝子の向こうで、三日月宗近が静かに光っている。
――その時だった。
ケースの照明が、ふっと揺らいだ。刃に浮かぶ三日月の模様の上に、ほんの一瞬、誰かの影が重なったように見えた。藍色の狩衣。袖の陰から覗く、白い手。
その手が、ひらひらと、こちらに向かって振られた気がした。
「……みかづき?」
今剣が目をこすった時には、もう何もなかった。ケースの中には、ただ一振りの太刀が横たわっているだけだった。
「今剣、どうした」
「……なんでもないです!」
今剣は首を振り、仲間たちの背中を追いかけた。
だから、誰も見ていなかった。
誰もいなくなった展示室で、硝子に映った影が、楽しげに目を細めて笑ったのを。