満月が、上野の森の上に昇っていた。
閉館後のトーハクは、昼間とはまるで別の建物だった。来館者のざわめきが消え、長い廊下には非常灯の緑だけがぼんやりと灯っている。けれど静かなのは見かけだけで、本館の周りには警察車両がずらりと並び、館内のあちこちで無線ががなり立てていた。
厚藤四郎は、特別展会場の天井裏で腹ばいになっていた。
点検口の隙間から、真下の展示室が見える。回廊のいちばん奥、三日月宗近のケースの周りには、制服の警官が十人以上も張りついていた。
(すげえ数だな)
厚は小さく息を吐いた。
今夜の刀剣男士たちは、もう現代の服を着ていない。いつ遡行軍が現れてもいいように、それぞれ戦装束に身を包んでいる。闇に紛れるには少し目立つが、背に腹は代えられない。
耳元の通信機から、長谷部の低い声が聞こえた。
『各自、配置についたか』
『鶴丸、ついたぜ。いや、展示室の真上ってのは見晴らしがいいなあ』
『南の非常口、加州。こっち異常なし』
『いまのつるぎ、やねのうえです! つきがきれいですよ!』
『大包平、地下搬入口だ。……ここは少し寒いな』
厚は通信機を指で押さえた。
「天井裏、厚。展示室は丸見えだ」
『よし』
この五日間、厚は館内をくまなく歩き回った。侵入されるとしたらどこからか。警備の穴はどこか。昼も夜も、自分の家の隅から隅までを、泥棒の目で見て回った。
そうして出した答えは、三つだった。
ひとつ、地下の搬入口。美術品を運び込むための大きな扉で、トラックごと入れる。ふたつ、屋上の換気口。ダクトを伝えば、展示室の天井まで抜けられる。みっつ、南の非常口。警報はあるが、配線が古い。
その三か所すべてに、仲間を配した。展示室の真上には鶴丸と自分。指揮を執る長谷部は、すぐに動ける回廊の暗がりに潜んでいる。
(来るなら来いよ、ルパン)
ここは俺の家だ。好き勝手はさせねえ。
◇
午前零時を、少し過ぎた頃だった。
「警部、お疲れさまです!」
展示室の入口で、警官たちがいっせいに背筋を伸ばした。
トレンチコートに、くたびれたソフト帽。四角い顎。銭形警部が、大股で展示室に入ってきたところだった。
「ご苦労。異常はないな」
「はっ、ありません!」
「よし。わしは少しケースを確認する。お前たちは持ち場を離れるな」
銭形はケースの前まで歩み寄り、腰をかがめて中をのぞき込んだ。厚は天井裏からその背中を見下ろして、眉をひそめた。
(……ん?)
何かが引っかかった。けれど、それが何なのか分からない。
そのとき、展示室の入口で、もうひとつ足音がした。
「おい、交代の時間だ! 異常はないか!」
トレンチコート。ソフト帽。四角い顎。
銭形警部が、もう一人、入ってきた。
展示室の空気が、凍りついた。
警官たちが、入口の銭形とケースの前の銭形を、首を振り子のように行ったり来たりさせて見比べている。入口の銭形も、ケースの前の銭形に気づいて、ぴたりと足を止めた。
二人の銭形が、睨み合う。
「……貴様」
「……お前」
同時に、指を突きつけた。
「「偽物はお前だ!」」
そこからは、もう滅茶苦茶だった。
「捕まえろ! そいつがルパンだ!」
「何を言うか、ルパンはそっちだ!」
「わしが本物だ! 見ろ、この顎を!」
「顎ならわしのほうが四角い!」
警官たちはどちらに飛びかかればいいのか分からず、右往左往している。一人が入口の銭形に組みつき、もう一人がケースの前の銭形の腕をつかみ、その二人がぶつかって転んだ。
『……なんだ、あれは』
通信機の向こうで、長谷部が呆れた声を出した。
『おいおい、変装か! 同じ顔が二つ並ぶとは、こいつは驚きだ』鶴丸の声が、明らかに弾んでいる。
「笑ってる場合かよ!」
厚は点検口から身を乗り出した。どっちが本物だ。どっちがルパンだ。目を凝らす。動き、声、癖。
ケースの前の銭形の口元が、ほんの一瞬、にやりと吊り上がった。
(あっちだ!)
「長谷部、ケースの前のほうが――」
言いかけた、そのときだった。
ごとん、と。
足元のずっと下、建物の腹の底で、何かが外れる重い音がした。
三日月宗近のケースが、沈んだ。
台座ごと、床の下へ。まるでエレベーターのように、すうっと、音もなく。ケースのあった場所には四角い穴がぽっかりと口を開け、その縁に赤外線の光がむなしく交差している。
警報が鳴ったのは、ケースが完全に床下へ消えた、そのあとだった。
「なっ……!」
厚は息を呑んだ。
床下。搬入口でも換気口でも非常口でもない。真下だ。
(いつの間に、こんな仕掛けを)
頭の中で、この五日間の記憶がめまぐるしく巻き戻る。三日前。展示室の床の感圧センサーが不調だとかで、点検の業者が入っていた。作業着に帽子、腰に工具をぶら下げた男たち。警備員と一緒に、確かに自分も見ていた。センサーの点検なら仕方ないと、気にも留めなかった。
――あれだ。
あの業者が、ルパンだったのだ。センサーを直すふりをして、ケースの真下の床を、そっくり落とし戸に作り替えていた。
「……っ、くそ!」
厚は天井裏の板を拳で叩いた。
「俺の家で、好き勝手しやがって!」
読みは、外れてはいなかった。搬入口も、換気口も、非常口も、ルパンが入ってこられる穴だった。ただ、ルパンは最初から入ってくる気などなかったのだ。刀のほうを、外へ落とす。そのための穴を、五日も前に、自分たちの目の前で開けていた。
『落ち着け、厚!』
長谷部の声が飛んだ。
『床下はどこに通じている』
「地下の機械室だ! その先は――搬入口に抜けられる!」
『大包平!』
『任せろ!』
通信機の向こうで、大包平が駆け出す足音が聞こえた。
展示室では、ケースの前にいた銭形が、ひらりと身を翻して穴に飛び込んだところだった。トレンチコートが脱ぎ捨てられ、その下から真っ赤なジャケットがのぞく。
「ルパーン! やはり貴様かぁ!」
本物の銭形が、警官を振りほどいて穴に突進する。
「とっつぁ〜ん、お先にぃ〜!」
床下から、ひどく楽しそうな声が反響してきた。
◇
厚が天井裏から飛び降りるのと、展示室に白い煙が噴き出すのは、ほとんど同時だった。
視界が、一瞬で真っ白になる。警官たちの咳き込む声。誰かが転ぶ音。非常ベルが鳴りやまない。
「ははっ、待ってたぜ!」
煙の上から、鶴丸の声が降ってきた。
厚には見えた。天井の梁から梁へ、白い影が音もなく渡っていく。鶴丸は、最初からこれを狙っていた。床下の機械室から搬入口へ抜けるには、ルパンは必ず一度、展示室の裏の資材通路を通らなければならない。そこに、鶴丸はあらかじめ網を張っていた。
「驚いたか?」
資材通路の扉が開いた瞬間、天井から仕掛け網がばさりと落ちる。
網の下で、赤いジャケットがもがいた。
「よっしゃ!」厚は拳を握った。
――次の瞬間。
網の中の赤いジャケットが、ぺしゃんと潰れた。
中身が、なかった。風船のように膨らませたジャケットと、帽子をかぶせたマネキンの頭が、網の下でころりと転がる。
「……は?」
鶴丸が、梁の上で固まった。
「おっと、ありがとさん」
声は、真上からだった。
鶴丸がとっさに見上げると、さらに上の梁に、ルパンが逆さまにぶら下がっていた。ワイヤー一本で天井からつり下がり、片手を軽く振っている。
「あんたがそこに網張るのは、昼間のうちに見えてたんでね。せっかくだから使わせてもらったぜ」
ルパンが指を鳴らした。
鶴丸の足元の梁に結ばれていた網の綱が、ぷつりと切れる。仕掛けの重りが外れ、反動で網の綱が跳ね上がった。綱は天井の滑車を通って、ルパンの腰のワイヤーへ。重りが落ちる勢いで、ルパンの体がぐんと引き上げられ、天井の点検口へと吸い込まれていった。
鶴丸の仕掛けた罠が、そっくりそのまま、ルパンの昇降機になっていた。
「あばよ、白いの!」
声だけを残して、赤いジャケットは闇に消えた。
鶴丸は梁の上で、しばらく黙って点検口を見上げていた。
「…………」
それから、肩を震わせて笑い出した。
「はっはっは! いや、参った。俺より驚かせてくるじゃないか」
「笑ってる場合かよ、鶴丸!」
厚は思わず叫んでいた。今夜、同じ台詞を言うのは二度目だった。
◇
煙が、少しずつ晴れていく。
展示室の真ん中にぽっかり開いた穴。むなしく光る赤外線。床に転がるマネキンの頭。咳き込みながら立ち上がる警官たち。
そして、その真ん中に。
戦装束の刀剣男士が、立っていた。
天井から降りてきた鶴丸。飛び降りたばかりの厚。回廊の暗がりから駆けつけた長谷部。白い衣に、甲冑に、陣羽織。腰にはそれぞれの刀。
警官たちの視線が、彼らの上を素通りしていった。
「……今、そこに誰かいなかったか?」
一人の警官が首をかしげたが、隣の同僚に「煙のせいだろ」と言われて、すぐに目をそらした。
札は、ちゃんと効いている。長谷部が小さく息をついた。
そこへ、床の穴から、煤だらけの銭形が這い上がってきた。トレンチコートは破れ、帽子はひしゃげ、鼻の頭が真っ黒になっている。
「くそっ、地下の機械室はもぬけの殻だ! ケースは空っぽ、刀も――」
銭形は顔を上げ、そこで刀剣男士たちに気づいた。
時代劇から抜け出てきたような男たちが、腰に刀を差して、展示室の真ん中に立っている。警官たちには見えていないはずのその姿を、銭形の目は、確かに捉えていた。
銭形の目が、獲物を見つけた猟犬の目になった。
「……そいつらもだ」
「は?」
「コスプレ集団も確保しろ! ルパンの仲間だ!」
「……警部、どこにですか?」
警官たちが、きょろきょろと辺りを見回す。
「そこだ! そこにおるだろうが! 刀を差した、時代劇みたいな連中が!」
『……あの男、俺たちが見えているのか』
通信機越しに、鶴丸の声がわずかに強張った。札が効いていないわけではない。銭形の目は、焦点が合ったり外れたりするように、時折ふっと彼らを見失っている。それでも、ルパンを追い続けてきた男の執念が、見えないはずのものを半分だけ見せているらしかった。
銭形が、まっすぐこちらに向かって突進してくる。つられて警官たちも、わけも分からないまま同じ方向へなだれ込んできた。
『全員、撤退だ!』
長谷部の号令とともに、六振りは散り散りに駆け出した。
◇
南の非常口へ続く廊下を、加州清光は全力で走っていた。
「もー、最悪! 髪ぼさぼさじゃん!」
後ろから警官の足音が追ってくる。角を曲がり、階段を駆け下り、職員用の更衣室の前を通り過ぎようとして――加州は、ぴたりと足を止めた。
更衣室の前に、女が一人立っていた。
紺の制服に、職員証。博物館の女性職員だ。騒ぎに怯えたように胸の前で手を組み、潤んだ目で加州を見上げている。
「た、助けてください……! 何が起きてるんですか?」
震える声。華奢な肩。誰が見ても、守ってあげたくなるような姿だった。
加州は、その女をじっと見た。……札をつけているのに、まっすぐ目が合っている。
頭のてっぺんから、爪の先まで。
「……ねえ、お姉さん」
「は、はい?」
「その爪、ジェルでしょ。しかもサロンでやってるやつ。この色、今季の新作だよね」
女の目が、ほんのわずかに揺れた。
「それに、その香水。博物館の職員さんって、美術品に匂いが移るからって香水つけちゃいけないんじゃなかったっけ。俺、昼間ちゃんと聞いたよ」
「…………」
「あとアイライン。泣いてるふりしてるのに、ちっとも滲んでない。ウォータープルーフの、いいやつ使ってるね」
加州は腕を組んで、にっこり笑った。
「お姉さん、職員さんじゃないでしょ」
女の顔から、怯えた表情がすっと消えた。
代わりに浮かんだのは、ぞっとするほど艶やかな笑みだった。
「……あら。見る目があるのね、坊や」
女が一歩、加州に近づく。白い指が、加州の頬にそっと伸びた。甘い香りが、ふわりと鼻をくすぐる。
「ねえ、あなたも刀を狙ってるんでしょ? だったら、手を組まない? 私、可愛い子は嫌いじゃないの」
大抵の男なら、ここで骨抜きになっているところだ。
加州は、頬に伸びてきた指をひょいと避けた。
「無理。俺、主以外に可愛いって言われてもあんまり嬉しくないんだよね」
「……え?」
「それよりお姉さん、そのネイルどこでやってもらったの? 爪の形すっごいきれい。俺、最近ちょっと甘皮の処理に悩んでてさあ」
「は?」
「あと、そのリップの色。オフィスっぽく見せて、実は発色すごいやつでしょ。どこの?」
女――峰不二子は、一瞬、本気で面食らった顔をした。
この私の色仕掛けが、まるで効いていない。それどころか、化粧品の話を振られている。
「……あなた、面白いわね」
「よく言われる」
化粧品の話をしながら、加州の目は、少しも笑っていなかった。
頭のてっぺんから爪の先まで、もう一度、女を見る。ぴったりとした制服。華奢な腕。――太刀を隠せる場所など、どこにもない。この女は、刀を持っていない。
代わりに、制服の胸ポケットから、一枚のカードの端がのぞいていた。職員証ではない。美術品輸送会社の、搬入許可証。今夜の日付と、地下搬入口の通行印が押されている。
(……そういうことか)
加州は、通信機を指で押さえた。
「大包平、聞こえる? 刀はたぶん、輸送会社のトラックで運び出される。地下の搬入口、今夜出入りする美術品輸送車。それが本命」
『何!? 分かった、すぐ向かう!』
不二子の目が、すっと細くなった。
「……あなた、本当に面白いわね。今のおしゃべり、時間稼ぎのつもりだったのに」
「お互いさまでしょ。お姉さんがここにいるのは、警察を南に引きつけておくため。違う?」
「さあ、どうかしら」
不二子はくすりと笑った。否定はしなかった。
廊下の向こうから、警官たちの足音が迫ってくる。不二子は、ちらりとそちらを見て、それから加州に向き直った。
「それで? 私を捕まえる? 刀の在処、もっと詳しく吐かせてみる?」
「ううん」
加州は、あっさりと首を振った。
「お姉さん、刀は持ってないし。俺の仕事は、お姉さんじゃなくて刀を取り戻すことだから。ここで追いかけっこしてる暇、ないんだよね」
それに、と加州は心の中で付け足した。刀を持たない人間を、刀で追い回す理由もない。
「……振られちゃった」
不二子は肩をすくめ、それから艶やかに微笑んだ。
「またね、坊や。今度会ったら、リップのブランド、教えてあげる」
「約束だからね」
甘い香りを残して、不二子は非常口の向こうへ消えた。加州はもう、その背中を見ていなかった。踵を返し、地下へ続く階段へと全力で駆け出していた。
◇
夜明け前。上野の森の外れ、人気のない公園の木立の中に、六振りはようやく集まった。
誰も、すぐには口を開かなかった。
「……地下の搬入口から、美術品輸送のトラックが一台出ていった」
大包平が、苦い顔で言った。
「俺が着いたときには、もうテールランプしか見えなかった。警察も、予定されていた輸送車だと思って通したらしい。運転席に、帽子を目深にかぶった男が見えた」
「そっちが本命だったか」鶴丸が頭をかいた。「天井のルパンは、囮。刀は最初から、床下経由でトラックに積まれてたってわけだ」
「俺も、もう少し早く気づけてればなあ」加州が唇を噛む。「あのお姉さん、最初から囮だったんだ。刀は持ってなかったけど、輸送車の許可証を持ってた」
「お前の知らせがなければ、どの車かも分からなかった」大包平が言った。「あのトラックだと分かったからこそ、運転席の男まで見えたのだ。……間に合わなかったのは、俺の足だ」
「……俺の読みが甘かった」
厚が、地面を見つめたまま言った。
「三日前に、あの業者を見てたのに。気づけなかった」
「厚」
長谷部が、厚の頭に手を置いた。
「お前の読みがなければ、今夜は手も足も出なかった。三つの侵入路を塞いだからこそ、奴は床下という手を使わざるを得なかったのだ。……次は、俺たちが上を行く」
「……おう」
厚は顔を上げた。その目に、もう悔しさだけではない光が宿っていた。
そのとき。
「……あ」
木の上で見張りをしていた今剣が、小さく声を漏らした。
「みかづきのけはいが、とおくなっていきます」
今剣は、白みはじめた東の空を見つめていた。
「でも……へんです。こわがってるけはいじゃ、ないんです。なんだか……」
今剣は首をかしげた。
「……たのしそう?」
◇
同じ頃。首都高を走る、一台の古びた黄色い車。
「いやぁ、大成功、大成功!」
助手席でルパンが上機嫌に笑い、運転席の次元が煙草をくわえたまま、ふんと鼻を鳴らした。輸送トラックは途中で乗り捨て、愛車に乗り換えたばかりだ。
「あのコスプレ一座、なんだったんだ」
「さあな。同業者だろ。天下五剣を狙ってる泥棒なんて、ほかにもいるってこった」
後部座席には、布にくるまれた細長い包みが、ひとつ横たわっている。
ルパンも、次元も、気づいていなかった。
その包みの上に、いつの間にか、ふわりと誰かが腰かけていたことに。
藍色の狩衣。月を宿したような瞳。窓の外を流れていく令和の夜景を、その人影は、さも珍しそうに眺めていた。
「……ふむ。これが、今の世か」
誰にも聞こえない声で、人影はつぶやいた。
「よきかな」