郊外の廃工場を改装したアジトに、ポンと景気のいい音が響いた。
「かんぱーい!」
ルパンがシャンパンの瓶を高々と掲げ、泡があふれるグラスを三つ並べる。次元は黙ってバーボンのグラスを取り、五ェ門は湯呑みの茶を少しだけ持ち上げた。
「顔認証にAI監視に赤外線網、ぜーんぶ素通り。いやぁ、我ながら惚れ惚れする仕事だったねえ」
「お前は天井でぶら下がってただけだろうが」次元がグラスを傾ける。「刀を運んだのは俺だ」
「その段取りを考えたのは俺でしょ?」
「拙者は、まだ気が進まぬ」
五ェ門が湯呑みを置き、テーブルの上の包みに目をやった。布にくるまれた、細長い包み。今夜盗み出してきた、天下五剣の一振りだ。
「ちゃんと返すって言ったろ? 暗号を読んだら、それでおしまい。さ、ご対面といこうじゃないの」
ルパンはグラスを置き、包みの紐を、ひとつずつ丁寧にほどいていく。
布がはらりと落ちた。
鞘から抜かれた太刀が、作業灯の白い光を受けて、静かに輝いた。博物館の硝子越しに見たときよりも、ずっと近い。ずっと生々しい。細い刀身の上に、三日月の模様がいくつも、いくつも散っている。
「……やっぱ、きれいなもんだな」
次元が、ぽつりと言った。
「ああ」
ルパンは虫眼鏡を取り出し、古文書の写しを横に広げた。
「『三日月の刃に、秘宝の道を刻む』……さて、どの月がお宝への道しるべかな、っと」
細かいところを確かめようと、ルパンが素手のまま刀に手を伸ばした、そのときだった。
「ルパン!」
鋭い声が飛んだ。五ェ門が湯呑みを置き、身を乗り出している。
「素手で触れるな。人の手の脂は錆のもとだ。千年守られてきた刃を、貴様の指で曇らせる気か」
「……茎ならいいかと思ったんだけどなぁ」
「茎とて同じだ」
五ェ門の剣幕に、ルパンは肩をすくめ、差し出された手袋をしぶしぶはめた。それから改めて、刀の茎――柄に隠れる根元の部分を、そっと握った。
その瞬間だった。
ふわり、と。
テーブルの向こう側に、誰かが座っていた。
藍色の狩衣。袖からのぞく白い手。濡れたように艶のある黒髪に、金の飾り。そして、こちらを見つめる瞳の奥に、三日月がひとつ、浮かんでいる。
平安絵巻から抜け出てきたような美しい青年が、頬杖をついて、にこにことルパンを眺めていた。
「うむ。ようやく顔が見えたな」
ルパンの手から、虫眼鏡が落ちた。
ゆっくりと、ルパンの顔から血の気が引いていく。
「……で」
「で?」
「で、で、で、出たぁぁぁーーーっ!!」
ルパンは太刀を放り出した。
刀がテーブルの上にがしゃんと落ちる。同時に、青年の姿は、まるで最初から何もなかったかのように、ふっと消えた。
「なんだ、どうした!」
次元が腰のマグナムに手をかけて立ち上がる。ルパンは椅子ごとひっくり返り、床の上で尻餅をついていた。
「い、いま、そこに! そこに誰かいた!」
「誰もいねえぞ」
「いたんだって! 平安のお公家さんみたいなのが、そこに座ってにこにこしてたの!」
次元と五ェ門は、テーブルの向こうの空っぽの椅子を見た。それから、顔を見合わせた。
「……飲みすぎだ」
「まだ一杯目だよ!」
ルパンは床から這い上がり、テーブルの上の刀を睨んだ。
気のせいだ。そうに決まっている。泥棒が幽霊なんか怖がってどうする。
恐る恐る、手を伸ばす。指先が、茎に触れる。
「――ふむ。投げるとは、ひどいではないか」
「ひぃっ!」
また、いた。今度はテーブルの真横に立って、少し困ったように眉を下げている。
ルパンは刀から手を離した。青年が消えた。
握った。出た。
離した。消えた。
握った。
「……それは、楽しいのか?」
「楽しくないわっ!」
ルパンは半泣きで叫んだ。
◇
「じ、次元! ちょっとこれ持ってみて!」
「あ?」
有無を言わさず、ルパンは太刀を次元の手に押しつけた。
「なんだってんだ。ただの刀じゃねえか――」
次元が茎を握った、その瞬間。
ソファの、次元のすぐ隣。肩が触れそうな距離に、藍色の狩衣の青年が、行儀よく膝を揃えて座っていた。
「おお。今度はお前か。よろしく頼むぞ」
青年が、にこりと微笑む。
次元は、無言だった。
ゆっくりと、青年の顔を見た。青年も、次元の顔を見た。しばらく、二人は見つめ合った。
それから次元は、空いているほうの手で、帽子のつばをぐいと引き下げた。顔の半分が、すっぽりと帽子の陰に隠れる。
「…………」
「次元? 次元ちゃん? 見えた? 見えたよね?」
「……俺は何も見てねえ」
「見えてるじゃん! 今、帽子で目ぇ隠したじゃん!」
「見てねえって言ってんだろ」
次元の声が、ほんのわずかに裏返っていた。
「ほう、照れておるのか」青年は楽しげに首をかしげる。「なかなか愛らしいところがあるではないか」
「誰が愛らしいだ!」
次元が叫んで刀を放した。青年が消えた。
部屋に、沈黙が落ちた。
その沈黙の中で、ひとり、すっと立ち上がった男がいた。
五ェ門だった。
刀には触れていない。手を伸ばしもしない。ただ、静かに斬鉄剣の柄に手をかけ、鯉口を切った。その切っ先が、ゆっくりと、何もないはずの空間に向けられる。
刀を手放したばかりの次元の、すぐ隣。さっきまで、青年が座っていた場所。
「……何か、いる」
五ェ門が、低く呟いた。
「お、お前も見えるのか、五ェ門?」
「見えん。だが、分かる。この部屋に入ったときから、ずっと気配がしていた。ただの物の怪ではない。……刃の気配だ」
五ェ門の額に、うっすらと汗が浮いていた。
「……隙がない。これほどの相手、そうはいない」
ルパンはごくりと唾を飲み、テーブルに置かれた太刀を見下ろした。
これは、もう、気のせいでは済まない。
◇
結局、もう一度刀を握る羽目になったのは、ルパンだった。
テーブルの向こうに、青年が戻ってくる。今度は向かいの椅子に浅く腰かけ、膝の上で袖を揃えて、興味深そうにルパンを眺めていた。
「あ、あのさ」
ルパンは刀を握ったまま、精一杯の愛想笑いを浮かべた。
「あんた、いったい何者?」
「ふむ」
青年は顎に手を当て、少し考えるそぶりを見せた。その目が、いたずらっぽく細められる。
「何者、と問われれば……そうだな。お前たちの言葉で言うところの、幽霊、とでもしておくか」
「ゆ、幽霊……」
「うらめしや、とでも言えばよいか?」
青年は両手を胸の前でだらりと垂らしてみせた。どこで覚えたのか、いかにも芝居がかった幽霊の格好だ。
「うらめしや〜。……はっはっは。いや、これは存外楽しいな」
楽しんでいる。完全に楽しんでいる。
けれど、ルパンの頭の中では、まったく別の歯車がかちりと噛み合っていた。
天下五剣。平安の秘宝。三日月の暗号。そして、刀に取り憑いた平安装束の幽霊。
「……そういうことか」
ルパンの目が、ぎらりと光った。
「あんた、秘宝の番人だな? 宝を守るために、千年もこの刀に取り憑いてる怨霊ってわけだ」
「うん?」
「こりゃ本物だぜ、次元! 幽霊が出るってことは、お宝の伝説も本物ってことだ!」
「なんでそうなる」次元が帽子の下から呻いた。
「なんでもこうなるの!」
青年は、きょとんと目を瞬いた。
「いや、待て。暗号だの秘宝だのと言っておるが、俺はそんなものは知らんぞ」
「またまたぁ」
「本当だ。この刀身に何かを刻んだ覚えなど、とんとない。俺を打った宗近も、そのような細工をする男ではなかった」
「はいはい、分かってる分かってる」
ルパンは、まったく分かっていない顔で、うんうんと頷いた。
「幽霊ってのはな、宝を隠したがるもんなのよ。素直に教えてくれるわけないもんな。大丈夫、自分で見つけるから」
「……話を聞かぬ男だな」
青年は、怒るでもなく、むしろ面白そうに笑った。
「まあよい。好きにするがいい。じじいは気長だからな」
「じじい? その顔で?」
「はっはっは。これでも千年は生きておる」
◇
それから、奇妙な夜が更けていった。
刀は、テーブルの真ん中に置かれていた。誰も握っていないから、青年の姿は見えない。けれど、そこに誰かがいることだけは、部屋にいる全員がなんとなく感じていた。
ふと視線を感じて振り向くと、誰もいない。誰もいないはずの椅子が、少しだけ引かれている。空気が、ほのかに花の匂いをまとっている。
「……落ち着かねえ」
次元がバーボンをあおった。
「なあルパン、やっぱりあの刀、どっかにしまっとけよ」
「しまったら暗号が読めないでしょ」
ルパンは古文書の写しと虫眼鏡を手に、テーブルにかじりついていた。片手で刀を握り、もう片方の手で写しをめくる。握っている間は、当然、青年がいる。
「ほう、それが古文書か。どれ、見せてみよ」
青年が、ルパンの肩越しに写しをのぞき込んだ。
「……ふむ。筆跡は平安風を装っておるが、この言い回しは、ずっと後の世のものだな」
「幽霊が口出ししないの」
「しかしな」
「はい、気が散るから離れてて」
「やれやれ」
青年は肩をすくめ、ふわりと部屋の中を漂いはじめた。
ルパンが疲れて刀を置くと、今度は次元が仕方なく握る羽目になった。ルパンが「目を離した隙に逃げられたら困るでしょ」と言い張ったからだ。
次元が握ると、青年は次元のラジオの前にしゃがみこんでいた。
「これは何だ? 人の声がするが、中に誰か入っておるのか?」
「……ラジオだ。遠くの声を拾う機械だ」
「ほう。からくりか。最近のからくりは面白いな」
青年がつまみに手を伸ばす。指は、つまみをすり抜けた。青年は少し残念そうに自分の手を眺め、それから「まあ、そういうものか」と笑った。
「……触れねえのか」
「うむ。俺には、触れるための体がないのでな」
次元は、しばらく黙っていた。それから、ラジオのつまみを自分で回してやった。古い演歌が流れ出す。
「おお」青年が目を輝かせた。「よい声だな」
「……そうかよ」
次元は帽子のつばを下げた。その口元が、ほんの少しだけ緩んでいたのを、青年は見逃さなかった。
◇
夜半過ぎ。ルパンが台所で夜食を作りはじめた。
フライパンの上で、にんにくとベーコンがじゅうじゅうと音を立てる。茹で上がったパスタを放り込み、手早く絡める。香ばしい匂いが、部屋いっぱいに広がった。
テーブルの上の刀を、今は五ェ門が握っていた。
刀を握れば姿が見えると聞いて、五ェ門は長いこと迷っていた。それから意を決したように、正座したまま、懐紙を挟んだ両手で、恭しく茎を握ったのだ。
目の前に、青年がいた。五ェ門の正面に、同じように正座していた。
二人は、しばらく無言で向かい合っていた。
「……拙者、石川五ェ門と申す」
「うむ。丁寧な挨拶、痛み入る」
青年も、背筋を伸ばして頭を下げた。
「先ほどは刃を向けた。非礼を詫びる」
「よいよい。良い構えだった。久しぶりに、まっすぐな剣気を浴びた」
五ェ門の頬が、かすかに赤くなった。
「おーい、できたぞー!」
台所から、ルパンが山盛りの皿を運んでくる。
「おお、よい匂いだ」
青年が皿をのぞき込み、目を細めた。
「食えるのか、あんた」
「いや、食えぬ。だが、匂いは分かる。……うむ、よきかな。このような匂いを嗅ぐのは、千年生きてきて初めてだ」
「そりゃ、にんにくとベーコンだからな」
「にんにく、べえこん」
青年は、珍しい呪文でも唱えるように繰り返した。
幽霊のくせに、と。ルパンは思った。なんだってこんなに、楽しそうなんだか。
◇
明け方。窓の外が、うっすらと白みはじめた頃だった。
テーブルで突っ伏して眠っていたルパンの手の中で、刀が握られたままになっていた。寝ぼけまなこで顔を上げると、青年が窓辺に立って、外を眺めていた。
さっきまでの楽しげな顔とは、少し違う。何かを待っていたような、懐かしむような、静かな横顔だった。
「……どしたの」
「ふむ」
青年は、ルパンを振り返って、穏やかに微笑んだ。
「迎えが来たようだな」
「迎え?」
ルパンは窓に駆け寄った。
廃工場を囲む錆びたフェンスの向こう。朝靄の中に、いくつもの人影が立っていた。白い衣。甲冑。陣羽織。それぞれの腰に、刀。
先頭に立つ男が、まっすぐにこちらを見ていた。灰がかった髪に、藤色の瞳。微塵も揺るがない、射抜くような眼差し。
昨夜、博物館の展示室にいた、あの連中だ。
「……げぇっ」
ルパンの顔が引きつった。
「あのコスプレ一座、もう嗅ぎつけやがった!」
「なんだ、どうした」
次元がソファから跳ね起きる。五ェ門は、とうに斬鉄剣を手に立ち上がっていた。
「ずらかるぞ! 次元、車!」
ルパンは太刀を布でくるむのももどかしく、小脇に抱えて駆け出した。
抱えられた刀の上で、青年が――三日月宗近が、のんびりと笑っていた。
「はっはっは。さて、今度はどこへ連れて行ってくれるのだ?」