窓ガラスが、内側に向かって砕け散った。
雨と一緒に、黒いものが部屋になだれ込んでくる。
それは、人の形をしていなかった。骨の浮いた痩せた体に、ぼろぼろの甲冑。眼窩の奥で、青白い炎が揺れている。手にした刀は錆びつき、刃こぼれだらけだった。けれど、そこから立ちのぼる殺気だけは、ぞっとするほど本物だった。
「な、なんだこいつら!?」
ルパンは椅子ごと後ろへ飛びのいた。その手は、太刀の茎を握ったまま離さない。
「下がれ、ルパン!」
次元のマグナムが火を噴いた。轟音。一体の異形の胸に、穴が開く。――けれど、異形は止まらなかった。ぐらりと揺れただけで、また一歩、こちらへ踏み出してくる。
「効かねえのか!?」
二発、三発。撃っても撃っても、異形はひるむだけで倒れない。
五ェ門が前に出た。斬鉄剣が閃き、一体の刀を根元から断ち切る。けれど刀を失った異形は、骨ばった腕で五ェ門につかみかかってきた。
「くっ……!」
窓から、ドアから、壁の亀裂から。異形は次から次へと湧いてくる。その青白い目は、ルパンでも次元でも五ェ門でもなく、ただ一点――ルパンの手の中の、太刀だけを見ていた。
「こいつら、刀を狙ってやがる……!」
ルパンの隣で、青年が静かに立っていた。もう笑っていない。
「……時間遡行軍だ」
「じかん、何?」
「歴史を変えようとする者たちだ。奴らの狙いは、俺を折ること。千年在り続けた刀を、ここで終わらせることだ」
「折る? 冗談じゃない、こいつは俺が――」
異形の一体が、太刀めがけて刃を振り下ろした。
ルパンはとっさに刀を抱えて床を転がった。錆びた刃が、さっきまでルパンの頭があった場所の床板を叩き割る。
次の一撃は、かわせない。
ルパンが目をつむりかけた、その瞬間。
「――させるか」
黒い装束が、ルパンと異形のあいだに割って入った。
金属のぶつかる甲高い音。振り下ろされた錆びた刃を、一振りの打刀が真正面から受け止めていた。
灰がかった髪。藤色の瞳。首都高で、真顔のまま追いかけてきた、あの男だった。
「……あんた」
ルパンが呆然と見上げる先で、男は異形の刃を弾き返し、返す刀で一閃した。異形の体が、黒い靄になって崩れていく。
次元のマグナムでも倒れなかった化け物が、たった一太刀で。
「全員、かかれ! 人の子には指一本触れさせるな!」
男の号令が、雨の夜に響いた。
壊れたドアから、窓から、屋根から。白い衣、赤い装束、甲冑、陣羽織。あの「コスプレ一座」が、次々と部屋に飛び込んでくる。
白い衣の男が天井から舞い降り、ルパンの背後に迫っていた異形を斬り伏せる。小さな少年が床すれすれに滑り込み、次元の足元に這い寄った一体を短刀で突き上げる。大柄な男が、壁を突き破って入ってきた異形を、体ごと外へ押し返す。
刀剣男士たちが、ルパン一味を背にして、遡行軍の前に立ちはだかっていた。
「……おい、ルパン」
次元が、銃を構えたまま呆然と呟いた。
「あいつら、俺たちを守ってねえか?」
「……なんで?」
ルパンには、わけが分からなかった。
ライバルの泥棒一座なら、今が刀を奪う絶好の機会のはずだ。なのに、あの連中は刀には目もくれず、化け物から自分たちを庇っている。
分からない。分からないが、とにかく、ここにいたら危ない。
「次元、五ェ門、ずらかるぞ! 今のうちに――」
ルパンが刀を抱えて裏口へ駆け出そうとした、そのとき。
「待て!」
長谷部の手が、ルパンの襟首をがしりとつかんだ。
「どこへ行く。外にも奴らはいる。死にたいのか」
「離せってば! お前らこそ、刀を横取りする気だろ!」
「横取りだと?」
長谷部の眉が、ぴくりと跳ねた。
◇
「ふざけるな。その刀を盗み出したのは貴様らだろう」
長谷部は、ルパンの襟首をつかんだまま、背後から迫った異形を片手で斬り捨てた。
「遡行軍と手を組み、天下五剣を持ち出した。その片棒を担いでおいて、何を言う」
「はあ? 手を組むって、こいつらと?」
ルパンは、部屋中で暴れている骨だらけの化け物を指さした。
「こいつら、お前らの仲間じゃねえのか!?」
「貴様ら、遡行軍と組んでいたのではないのか!?」
二人の声が、同時に響いた。
一瞬、部屋の時間が止まったようだった。
ルパンと長谷部は、互いの顔を見た。ぽかんと口を開けた猿顔と、眉間にしわを寄せた真顔。どちらも、相手が何を言っているのか分からないという顔をしていた。
長谷部の眉間のしわが、ふと、わずかに緩んだ。
(……待て)
頭の中で、何かが引っかかる。
遡行軍の協力者であれば、なぜ遡行軍に襲われている。三日月を盗ませたのが遡行軍なら、盗んだ者は味方のはずだ。なのに奴らは、刀ごと、この男を斬り殺そうとしていた。
協力者なら、襲われるはずがない。
「……貴様、まさか」
長谷部が言いかけた、その隙に。
「離せってのー!」
ルパンが、するりとジャケットを脱ぎ捨てた。長谷部の手に、赤いジャケットだけが残る。中身のルパンは、刀を抱えて床を転がり、部屋の隅へ逃げた。
「待て!」
「待たない!」
ルパンは壁を背にして、太刀を抱き直した。茎を、しっかりと握り直す。
その瞬間、ルパンの目の前に、青年が現れた。
ルパンと長谷部のちょうどあいだに、ふわりと立っている。両腕を軽く広げ、まるで子どもの喧嘩を仲裁する年寄りのように。
「まあ、待て」
穏やかな声だった。
けれど、その声は、雨音も異形の唸り声も、すべてを押しのけて、部屋の隅々にまで届いた。
長谷部が、目を見開いた。
刀を握っていない長谷部の目にも、その姿は見えていた。輪郭は少し淡く、向こう側の壁がうっすらと透けている。けれど、見間違えるはずがない。
「三日月……!」
「うむ。息災そうで何よりだ、へし切長谷部」
「何を呑気な……!」
「まあ待て、と言うておる」
三日月は、ルパンと長谷部を交互に見て、困ったように笑った。
「どちらも、同じ敵に化かされておるのだ」
「……何?」
「この者たちは、遡行軍の撒いた偽りの伝説を信じて、俺を盗んだ。三日月の刃に秘宝の在処が刻まれている、とな。だが、遡行軍の仲間ではない。ただの――そうだな、少々欲の深い、愉快な盗人たちだ」
「愉快って」ルパンが呟く。
「そしてルパンよ。この者たちは、泥棒ではない」
三日月は、刀剣男士たちのほうへ手を差し伸べた。
「刀剣男士。刀に宿った付喪神だ。俺の仲間だ。歴史を守るために、俺を迎えに来てくれたのだ」
「つくもがみ……」
ルパンは、ぽかんと長谷部を見上げた。
時代劇のような装束。車に追いつく足。次元の銃が効かない化け物を、一太刀で斬り伏せる腕。
「……泥棒一座じゃなくて、刀の付喪神ご一行ってわけか」
「……遡行軍の協力者では、なかったのか」
長谷部も、呆然と呟いた。
それから、手の中に残っていた赤いジャケットを見下ろし、ものすごく複雑な顔をした。
「……で、あんたは?」
ルパンが、三日月を見上げた。
「あの人たちと同じ付喪神なのに、なんであんただけ幽霊みたいなのよ。物には触れない、飯も食えない、刀握ったやつにしか見えない」
「ふむ」
三日月は、ちらりと長谷部のほうを見た。長谷部が、無言で小さく首を横に振る。
「それはな……少々、込み入った事情があるのだ。いずれ先の世の話ゆえ、あまり口外はできん」
「えー、そこまで言っといて?」
「はっはっは。あの者たちには、あの者たちの事情で体がある。俺には、今はない。それだけのことよ」
三日月は、自分の透けた手のひらを眺めて、穏やかに笑った。
「だから何にも触れられぬし、俺を見られる人の子も、ごく限られる。まあ、刀を握る者くらいのものだな」
◇
――遡行軍の撒いた、偽りの伝説。
ルパンの頭の中で、ばらばらだった欠片が、一気に繋がっていく。
顔の思い出せない出品者。平板な、人の声を真似たような声。話がうますぎると、次元は最初から言っていた。そして、この幽霊――いや、付喪神は、古文書を一目見て、こう言った。
筆跡は平安風を装っているが、言い回しは、ずっと後の世のものだ。
ルパンは、ジャケットの内ポケットに入れっぱなしだった古文書の写しを思い出した。……ジャケットは長谷部の手の中だった。仕方なく、記憶をたどる。
『三日月の刃に、秘宝の道を刻む』。
刻む。そう、刻むと書いてあった。
「……あ」
ルパンの顔が、引きつった。
「三日月の文様ってのは、打ちのけ。鍛えたときに刃に自然と浮かぶ模様だ。誰かが後から彫ったもんじゃねえ。鍛冶が狙って、暗号の形に浮かばせられるもんでもねえ」
それを、刻む、と書いた。
刀を知る者なら、平安の鍛冶なら、決してそんな書き方はしない。打ちのけが何なのかを知らない、ずっと後の世の誰かが、刀の見た目だけで考えた文句だ。
「この時代にこの暗号は、ありえねえ」
ルパンは、ぺちりと自分の額を叩いた。
「……俺としたことが、まんまと乗せられたぜ」
「だから話がうますぎると言っただろうが!」
部屋の反対側で異形と撃ち合っていた次元が、怒鳴り返した。
◇
「――話はついたか、隊長殿!」
天井の梁の上から、鶴丸の声が降ってきた。
「ついたなら、そろそろ手を貸してもらえると助かるんだがな! こいつら、斬っても斬っても湧いてくるぞ!」
長谷部は、手の中の赤いジャケットをルパンに投げ返した。
「……誤解は、あとで詫びる」
「こっちもね」
ルパンはジャケットをひょいと羽織り、にやりと笑った。
「で、どうすりゃいい?」
「刀を守れ。それだけでいい。あとは俺たちがやる」
「冗談。泥棒が守られっぱなしじゃ、格好つかないでしょ」
長谷部は一瞬ルパンを見て、それから、ほんのわずかに口の端を上げた。
「……好きにしろ」
◇
部屋の隅で、次元のマグナムが弾切れの音を立てた。
「ちっ」
弾を込め直す暇はない。目の前に、錆びた刀を振りかぶった異形が迫る。
その懐に、小さな影が飛び込んだ。
厚だった。次元の銃口のすぐ脇、早撃ちの名手が最も得意とする距離の、さらに内側へ。一瞬で潜り込み、短刀を異形の胸板の隙間へ突き立てる。分厚い甲冑ごと、刃が深々と貫いた。
「鎧通しを、なめんなよ」
異形が黒い靄になって崩れる。厚は振り返り、次元を見上げてにっと笑った。
「……へっ。ガキだと思って、油断したぜ」
次元は帽子のつばを指で押し上げた。それから素早く弾を込め直し、厚の背中に、自分の背中を合わせた。
「背中は任せたぞ、坊主」
「おう。そっちもな、おっさん」
「おっさんは余計だ」
銃声と剣戟が、背中合わせに鳴り響く。
◇
モーテルの屋根の上では、雨の中、二つの影が並んでいた。
「また、あいましたね!」
今剣が、五ェ門の隣でにこにこと笑った。
「……今朝は、敵同士だったがな」
「いまは、みかたです!」
屋根の両側から、異形が這い上がってくる。今剣と五ェ門は、一瞬だけ視線を交わした。
言葉はいらなかった。今朝、屋根の上で何十合と刃を交えた相手だ。どちらがどう動くかは、もう分かっている。
今剣が跳んだ。五ェ門が踏み込んだ。
宙から舞い降りる短刀と、地を這うように走る斬鉄剣。上と下からの挟み撃ちに、異形たちは為す術もなく崩れ落ちていく。
「すごいです、ごえもん!」
「……お前もな」
五ェ門は、雨に濡れた前髪の下で、かすかに笑った。
◇
部屋の中央では、鶴丸とルパンが並んで天井を見上げていた。
「なあ、あんた」
鶴丸が、楽しそうに言った。
「トーハクで、俺の網をずいぶん上手に使ってくれたよな」
「あ、あれね。いい仕掛けだったぜ、白いの」
「お褒めにあずかり光栄だ。……で、だ」
鶴丸は、袖からするすると細い綱を引き出した。
「あの仕掛け、俺なりにちょいと改良してみたんだ。今度は、お前さんに使われないようにな」
鶴丸が綱を引く。
天井の梁から、ばさりと網が落ちた。部屋の真ん中に集まっていた異形たちが、まとめて網の中に絡め取られる。それだけではない。網が絞られる反動で、梁に仕掛けられた重りが跳ね上がり、別の網が、壁際の異形たちを次々に巻き込んでいく。網が網を呼び、罠が罠を連れてくる。
部屋中の遡行軍が、あっという間に一網打尽になった。
――ついでに、その真ん中に立っていたルパンも、危うく網に巻き込まれかけた。
「うおわっ!?」
ルパンは寸前で床を転がり、網の端からすっ飛んで逃げた。尻餅をついて見上げると、梁の上で、鶴丸がにやにやと笑っていた。
「驚いたか?」
ルパンは、しばらくぽかんと鶴丸を見上げていた。
それから、にやりと笑い返した。
「……やるじゃねえの」
「お前さんもな。今度、驚かせ合いの勝負でもしようぜ」
「乗った」
◇
裏口の外で、甘い声がした。
「あら、ずいぶん楽しそうね」
加州が振り向くと、雨の中に、黒いドレスの女が立っていた。手には、小ぶりの拳銃。
「お姉さん! なんでここに」
「ルパンの車の発信機を追ってきたのよ。私のお宝、まだ諦めてないんだから」
不二子の背後の闇から、異形が二体、ぬっと姿を現した。
「後ろ!」
加州が叫ぶより早く、不二子が身を翻した。二発の銃声。異形の目の炎が揺らぐ。倒れはしないが、一瞬、動きが止まる。
その一瞬で、十分だった。
加州の打刀が、二体の異形を鮮やかに斬り払った。
「……やるじゃん、お姉さん」
「あなたもね、坊や」
不二子は銃口の煙をふっと吹き、それからちらりと加州の爪を見た。
「そういえば、約束してたわね。リップのブランド」
「えっ、今それ言う?」
「今会ったんだから、今でしょ。約束は守る主義なの。……泥棒にしては、ね」
不二子は加州の耳元に顔を寄せ、ひとつの名前を囁いた。加州の目が、ぱっと輝く。
「やっぱり! あそこの新色だと思った!」
「ふふ。ついでに、その赤いネイルのサロンも教えなさいよ」
二人は顔を見合わせ、同時に小さく吹き出した。
「退路、確保しとくね。この裏口から駐車場まで、俺とお姉さんで守っとくから」
「仕切らないでちょうだい」
そう言いながら、不二子は加州の隣に並んで、新しい弾倉を装填していた。
◇
壁を突き破って、ひときわ大きな異形が現れた。
他の異形の倍はある巨体。手には、身の丈を超える大太刀。その刃が、壁際で弾を込め直していた次元と、その後ろの部屋の隅へ向けて、横薙ぎに振るわれる。
金属の轟音が、建物を揺らした。
大太刀は、止まっていた。
大包平が、真正面からそれを受け止めていた。両手で構えた太刀が、巨大な刃をがっちりと噛んでいる。甲冑の足が床板を踏み抜き、それでも、一歩も退いていない。
「……人の子は、俺の後ろにいろ」
大包平の声は、いつもの怒号ではなかった。低く、静かで、揺るがない声だった。
次元は、目の前の大きな背中を見上げた。
「……あんた、首都高で吠えてた旦那か」
「いかにも」
大包平は、大太刀を押し返しながら、肩越しに次元を振り返った。
「この大包平の背中だ。遠慮なく隠れていろ」
そして、渾身の力で巨体を弾き飛ばした。
◇
すべての戦いの真ん中に、長谷部がいた。
「鶴丸、網の外の三体を! 厚、右の窓だ! 大包平、そのまま押し込め! 加州、裏口を離れるな!」
刀を振るいながら、次々と指示を飛ばす。誰よりも前に立ち、誰よりも多く斬り、それでいて、部屋の隅々にまで目を配っている。
その背中を見て、ルパンは、ふと思った。
(……なるほどね)
首都高で、あの男が真顔で追いかけてきた理由が、今なら分かる気がした。
あれは、怒っていたのではない。必死だったのだ。仲間を取り戻すために。
◇
異形の数が、目に見えて減っていった。
網に絡め取られたもの。屋根から斬り落とされたもの。背中合わせの銃と短刀に仕留められたもの。部屋の床に、黒い靄の名残が、雨水と一緒に溜まっていく。
「よっしゃ、もう一息!」
ルパンが、刀を抱えたまま拳を握った。
――そのとき、空気が変わった。
ずしん、と。建物全体が、下から突き上げられたように揺れた。
モーテルの床板が、内側から弾け飛ぶ。床下の闇から、何かがせり上がってきた。
それは、これまでの異形とは、格が違った。
黒い甲冑に、黒い面頬。背には、ぼろぼろの旗指物。全身から立ちのぼる瘴気が、部屋の灯りを、ひとつ、またひとつと消していく。手にした太刀は、他の異形のような錆びた鉄ではない。青黒く、ぬらりと光る、禍々しい刃だった。
面頬の奥の目が、まっすぐにルパンを――ルパンの腕の中の太刀を、捉えた。
「……大将格か!」
長谷部が叫び、斬りかかる。大将の太刀が、それを無造作に払いのけた。長谷部の体が、壁まで吹き飛ばされる。
「長谷部!」
厚が駆け寄ろうとし、大包平が前に出ようとし、鶴丸が抜刀して駆け出す。けれど、大将の一振りが起こした瘴気の風が、刀剣男士たちの足を一瞬、縫い止めた。
その一瞬で、大将はルパンの目の前にいた。
「っ――」
逃げられない。
青黒い太刀が、振りかぶられる。狙いはルパンではない。ルパンが抱えた、三日月宗近の刀身そのもの。千年在り続けた刃を、ここで叩き折るための一撃。
ルパンは、刀を抱きしめた。
泥棒の性分だ、と自分でも思った。盗んだお宝は、手放さない。たとえ、それが自分の命より重くても。
――その、ルパンの腕の中で。
ふっと、空気が凍った。
ルパンの目の前に、青年が立っていた。
いつもと同じ、藍色の狩衣。いつもと同じ、三日月を宿した瞳。けれど、そこにいたのは、もう、のんびりと茶をすする年寄りでも、夜景にはしゃぐ子どもでもなかった。
背筋が、まっすぐに伸びていた。袖から覗く白い手が、ルパンの抱えた太刀の柄に、そっと重ねられていた。何にも触れられないはずのその手が、なぜか、確かな重さを持っているように見えた。
「――すまんな、ルパン」
静かな声だった。
「少しだけ、借りるぞ」
ルパンの腕の中で、刀が、ひとりでに動いた。
いや、違う。ルパンの手ごと、青年が刀を振るったのだ。
音が、消えた。
雨音も、異形の唸りも、誰かの叫び声も、すべてが消えた。世界から、刃のひと振り以外のすべてが抜け落ちたようだった。
青い弧が、闇を裂いた。
夜空に、三日月が昇ったように見えた。
――次に音が戻ってきたとき、大将の青黒い太刀は、根元から断ち切られて床に転がっていた。黒い甲冑の胴に、斜めに一筋、細い光の線が走っている。
大将の体が、ゆっくりと傾いだ。そのまま、線に沿って二つに分かれ、黒い靄となって崩れ落ちる。
部屋に残っていた異形たちが、それを見て、いっせいに動きを止めた。それから、霧が晴れるように、ひとつ残らず消えていった。
静寂。
雨の音だけが、戻ってきた。
ルパンは、刀を握ったまま、動けなかった。次元も、五ェ門も、不二子も、刀剣男士たちでさえ、言葉を失っていた。
今のが、天下五剣。
千年の間、時の権力者たちが手放そうとしなかった刀の、本当の姿。
部屋の真ん中で、青年が、ゆっくりと息を吐いた。
それから、ふにゃりと肩の力を抜いて、いつもの顔に戻った。
「……やれやれ。年寄りに、無理をさせるでない」
とん、と腰を叩く仕草をする。
「腰が痛くなりそうだ。はっはっは」
「……あんた」
ルパンが、ようやく声を絞り出した。
「とんでもねえ、じいさんだな」
「ふふ。褒め言葉として受け取っておこう」
◇
「――ルパン、逮捕だぁーっ!!」
壊れたドアから、怒声とともにトレンチコートが飛び込んできた。
ずぶ濡れの銭形だった。帽子から雨水を滴らせ、片手に手錠を振りかざしている。その後ろから、制服の警官たちが、どやどやとなだれ込んでくる。
「峰不二子を追ってきたら、案の定だ! 今度こそ観念しろ、ルパン!」
「げっ、とっつぁん! 今いいとこなのに!」
銭形は部屋を見渡し、それから、ぎょっとしたように目を剥いた。
割れた窓。抜けた床。網だらけの天井。そして、刀を差した時代劇のような連中が、部屋のあちこちに立っている。
銭形の目の焦点が、合ったり外れたりした。見えているような、見えていないような。それでも、目の前に立ちはだかる大柄な甲冑の男だけは、なぜかはっきりと見えたらしかった。
「……そこをどけ。わしはルパンに用がある」
「断る」
大包平が、腕を組んで銭形を見下ろした。
「ルパンには、まだ俺たちの用が残っている」
「なんだと! 貴様、ルパンの仲間か!」
「仲間ではない!」
「ならばどけ!」
「どかん!」
二人の声が、ぶつかり合った。建物が、また少し揺れた気がした。
にらみ合う。どちらも一歩も引かない。どちらも、声がでかい。
しばらくして、銭形が、ふっと口元を緩めた。
「……いい気迫だ。あんた、警察に来ないか」
「む?」
「その声と度胸があれば、立派な刑事になれる。わしが推薦してやる」
「……悪くない誘いだが、俺には仕えるべき主がいる」
「そうか。惜しいな」
銭形は本気で残念そうだった。後ろの警官たちが、銭形が誰もいない空間に向かって熱心に話しかけているのを見て、不安そうに顔を見合わせていた。
「警部……誰と話してるんですか?」
「誰って、この――」
銭形が振り返り、それからもう一度、前を向き直った。
大包平は、まだそこにいた。けれど、その向こう。
部屋の隅に、ルパンの姿がない。
次元も、五ェ門も、不二子も。
そして、ルパンが抱えていたはずの、三日月宗近の太刀も。
「……あっ」
厚が、真っ先に気づいた。
「あいつら、刀ごといねえ!」
割れた窓の外。雨の降りしきる駐車場から、聞き慣れたエンジン音が遠ざかっていく。
「ル、ルパーン!!」
銭形の絶叫が、雨の夜にこだました。
長谷部は、壁にもたれたまま、窓の外を見つめていた。今度は、追わなかった。
ルパンが消える直前、刀を抱えたまま、一瞬だけこちらを振り返ったのを、長谷部は見ていた。いつもの軽薄な笑顔ではなかった。何かを約束するような、そんな目だった。
それに、窓の外へ消えていく黄色い車の窓から、半透明の手が、ひらひらと振られていた。
「……まったく、三日月の奴は」
長谷部は、深くため息をついた。
けれど、その口元は、ほんの少しだけ、笑っていた。