翌朝。東京国立博物館、館長室。
館長の机の上に、また一枚のカードが置かれていた。
鍵のかかった部屋。何も映っていない防犯カメラ。一週間前と、まったく同じだった。ただ、そこに記された文面だけが違っていた。
今宵、天下五剣・三日月宗近を、お返しに参上いたします。
ルパン三世
「……返しに、ですか」
証拠品袋の中のカードを見て、例の若い警官が首をかしげた。
「盗んだ泥棒が、わざわざ予告して、返しに来る……?」
「怪しい!」
銭形が、机を拳で叩いた。目の下にくまを作り、鼻の頭にまだ煤の跡を残している。昨夜のモーテルから、一睡もしていないらしかった。
「返しに来るとは、何を企んでいる、ルパン! どうせ偽物とすり替えて、本物はまたどこかへ持ち去る気に違いない!」
「は、はあ……」
「警備を倍にしろ! いや三倍だ! 今度こそ、奴を逃がしはせん!」
銭形は窓の外を睨んだ。
けれど、その目の奥に、ほんのかすかに、別の色が混じっていたのを、若い警官は気づかなかった。
昨夜、ずぶ濡れのモーテルで、刀を抱えて走り去っていったルパンの背中。そして、白い手袋越しに一瞬だけ見た、あの穏やかな「ただのじじい」の顔。
(……あの男が、返すと言うなら)
銭形は、その考えを振り払うように、首を振った。
◇
同じ頃。海の見える、どこかの古い灯台。
ルパン一味の、最後の隠れ家だった。
雨は上がり、窓の外には、穏やかな海が広がっていた。夕日が水平線に沈みかけ、空を橙と藍に染め分けている。
灯台の一番上の部屋で、ルパンは小さなテーブルに向かっていた。
テーブルの上には、太刀。その茎を、そっと握っている。そして向かいには、藍色の狩衣の青年が、行儀よく座っていた。
二人のあいだに、盃が二つ。片方にだけ、酒が満たされている。
「すまんな。俺は飲めんのだ」
「知ってるよ。これは、形だけ」
ルパンはもう一つの盃にも酒を注ぎ、青年の前に置いた。青年は、目を細めてその盃を眺めた。
「……よい香りだな」
「いい酒だからね。とっておきだ」
「お前のとっておきは、どうも物騒なものが多い気がするが」
「首都高のは忘れて」
青年は、はっはっは、と笑った。
しばらく、二人は黙って夕日を眺めていた。
階下からは、次元がラジオで演歌を流しているのが、かすかに聞こえてくる。五ェ門は灯台の外の岩場で座禅を組み、不二子は「盗んだものを返すなんて信じられない」とぼやきながらも、なぜかまだここにいた。
「……なあ、じいさん」
ルパンが、盃を傾けながら言った。
「うん?」
「結局さ。お宝なんて、最初からなかったんだよな」
「うむ。なかったな」
「三日月の刃に、秘宝の道なんて刻まれてない」
「刻まれておらんな」
「……俺、とんだ骨折り損だったってわけだ」
ルパンは、盃の中の酒をじっと見つめた。
それから、テーブルの上の太刀に目を移した。
夕日の光を受けて、細い刀身が静かに輝いている。その上に、三日月の模様が、いくつも、いくつも、浮かんでいる。千年前に鍛えられたとき、自然に浮かんだ模様。誰かが刻んだのではない。誰かが仕込んだのでもない。ただ、そこにある。
千年間、ずっと。
焼けた城から運び出され、武士の手から天下人の手へ渡り、それでも折れずに、失われずに、今ここにある。
「……そっか」
ルパンは、ぽつりと言った。
「この刀の価値ってのは、千年、そこにあり続けたこと。それ自体ってわけか」
青年は、少しだけ目を見開いた。
それから、困ったように、照れくさそうに笑った。
「……ふふ。じじいには、ちと照れる話だな」
「照れてる顔、初めて見た」
「見るでない」
青年は、袖で顔を隠した。ルパンは笑って、盃の酒を飲み干した。
「……さて、と」
ルパンは立ち上がり、窓の外を見た。夕日は、もう半分ほど海に沈んでいる。
「お返しの時間だ。あんたのお仲間に、ちゃんと連絡しとかないとね」
「仲間の居場所なら、教えてやろうか」
「知ってる知ってる」
ルパンは、懐から一枚のカードを取り出してひらひらと振った。もう一枚の予告状。宛先は、トーハクではなかった。
「泥棒ってのはね、相手の居場所くらい、ちゃーんと調べとくもんなの」
◇
上野駅近くの雑居ビル。政府の用意した拠点の一室で、刀剣男士たちは、テーブルの上の一枚のカードを囲んでいた。
夕方、誰も出入りしていないはずの部屋の真ん中に、いつの間にか置かれていたものだ。
今宵、三日月宗近をお返しに参上。
お迎えは、トーハク裏の木立にて。
ルパン三世
「……札を持つ俺たちの拠点に、どうやって入った」
長谷部が、低く唸った。
「さあね。あいつ、札がほとんど効いてなかったもんなあ」
鶴丸は、カードを指でつまんで裏返し、心底楽しそうに笑った。
「いやあ、やっぱりあの男は面白い。こっちの居場所まで、とっくに掴まれてたってわけだ」
「笑いごとか」
「笑いごとさ。だって、返しに来るって言ってるんだぜ?」
長谷部は、黙ってカードを見下ろした。
昨夜、モーテルから消える直前、ルパンが一瞬だけこちらを振り返ったときの目を思い出す。何かを約束するような、あの目。
「……信じるのか、長谷部」
大包平が、腕を組んで尋ねた。
長谷部は、しばらく考えていた。それから、短く答えた。
「三日月が、あの男の車から手を振っていた」
「……それが理由か?」
「十分な理由だ」
◇
夜。トーハク裏の木立。
満月を過ぎて少し欠けた月が、上野の森を照らしていた。表の正門には警察車両がずらりと並び、サーチライトが夜空を切り裂いている。銭形の号令が、ここまで聞こえてくる。
その喧騒から少し離れた、暗い木立の中で。
「よっ」
木の陰から、赤いジャケットがひょっこりと顔を出した。
ルパンだった。その後ろに次元、五ェ門、不二子。そして、ルパンの手には、布にくるまれた細長い包み。
「お待たせ、付喪神ご一行」
六振りと、四人。
昨夜まで、互いを敵だと思い込んで追いかけ合っていた者たちが、月明かりの下で向かい合った。
しばらく、誰も口を開かなかった。
最初に動いたのは、長谷部だった。
一歩前に出て、ルパンの前に立つ。真顔。首都高で見た、あの顔だ。ルパンが思わず半歩下がる。
長谷部は、深々と頭を下げた。
「……遡行軍の協力者と決めつけたこと、詫びる。すまなかった」
ルパンは、ぽかんとした。
それから、頭をかいて笑った。
「いやいや、こっちこそ。泥棒一座だのコスプレだのって、好き放題言っちゃって。それに、盗んだのは本当に俺だしね」
「……それは、そうだな」
「そこは否定してくんないの?」
ルパンは、包みを差し出した。
「はい。お返しします」
長谷部が、両手で恭しく受け取る。
刀が、ルパンの手から離れた。――その瞬間、ルパンの目の前から、藍色の狩衣の青年の姿が、ふっと消えた。
ルパンは、少しだけ、さみしそうな顔をした。
けれど刀剣男士たちの目には、その姿は、まだうっすらと見えていた。長谷部の腕の中の刀の傍らに、三日月が立って、皆を見渡している。
「うむ。皆、迎えに来てくれてありがとう」
「みかづき!」
今剣が、真っ先に飛びついた。その体をすり抜けて、危うく転びそうになる。
「わわっ」
「はっはっは。すまんな、今剣。ここにいる俺には、お前たちのような体がないのだ」
「もう! しんぱいしたんですよ!」
今剣の目が、うっすらと潤んでいた。
その隣で、五ェ門が今剣に小さく頭を下げた。今剣も、ぺこりと頭を下げ返す。屋根の上で刃を交えた二人に、言葉はいらなかった。
不二子と加州は、互いの爪を見せ合っていた。次元と大包平は、並んで木にもたれ、黙って煙草の煙と夜風を眺めていた。
「――で」
厚が、ルパンの前に進み出た。キャップのつばを上げ、まっすぐにルパンを見上げる。
「ちゃんと戻すんだろ。展示ケースに」
「もっちろん。それが筋ってもんでしょ」
「なら、俺が案内する」
厚は、親指で背後の本館を示した。
「戻すならここだ。搬入口から機械室を抜けて、お前が床に開けた穴の下まで行ける。警察はみんな正面と展示室の上に張りついてて、床下のことなんか誰も気にしちゃいねえ。カメラの死角も、全部教えてやる」
ルパンは、目を丸くして厚を見下ろした。
「……いいの? 俺、あんたの家で好き勝手した泥棒だよ?」
「だからだよ」
厚は、にっと笑った。
「俺の家に、一番いいかたちで、三日月を帰してやりたいんだ。泥棒の腕なら、お前が一番だろ」
ルパンは、しばらく厚の顔を見つめていた。
それから、帽子もないのに、帽子を取るような仕草をして、深々とお辞儀をしてみせた。
「――承りました、ご主人。トーハク一の案内人に、ルパン三世がお供いたしましょう」
「ただし、ひとつだけ」
ルパンは顔を上げて、にやりと笑った。
「カメラの死角は、いらない」
「は?」
「最後の最後は、ちゃーんと映りたいのよ、俺」
◇
長谷部は、腕の中の包みを、しばらく見下ろしていた。
それから、それをもう一度、ルパンへ差し出した。
「……お前が戻せ」
「え?」
「盗んだ者が、返す。それが筋なのだろう」
ルパンは、目を瞬いた。それから、にっと笑って、包みを受け取った。茎に触れた瞬間、目の前に、藍色の狩衣が戻ってくる。
「おかえり、じいさん」
「うむ。もう少しだけ、世話になるぞ」
◇
午前零時。特別展会場。
展示室は、警官で埋め尽くされていた。
回廊のいちばん奥、三日月宗近のケースがあった場所には、いまも四角い穴が開いたままだ。その穴を、十人以上の警官がぐるりと取り囲んでいる。天井には、修理されたばかりの防犯カメラ。その赤いランプが、穴をじっと見下ろしている。
銭形は、穴の真正面に仁王立ちしていた。
「いいか、ルパンは必ずここに来る! どこから来るか分からん、全員、目を離すな!」
「はっ!」
警官たちが、天井を、壁を、入口を睨む。
誰も、足元を見ていなかった。
ごとん、と。
一週間前と同じ音が、建物の腹の底から響いた。
「……下だ!」
銭形が叫んだ、その瞬間。
穴の奥から、何かがせり上がってきた。
台座だった。一週間前、床下へ消えていった、三日月宗近の展示台座。その上には、元通りに組み直された硝子のケース。そして、そのケースの中には――
細身の太刀が、静かに横たわっていた。
照明を受けて、刃の上に、三日月の模様がいくつも浮かび上がる。
そして、そのケースの横に。
台座の縁に片足をかけ、ポーズを決めた赤いジャケットの男が、一緒にせり上がってきていた。
「――お待たせいたしました、皆さん」
ルパン三世は、台座が床の高さで止まると、優雅にひょいと飛び降りた。修理されたばかりの防犯カメラに、まっすぐ顔を向ける。
それから、胸に手を当て、深々とお辞儀をした。
「天下五剣・三日月宗近。ルパン三世、確かにお返しいたしました」
カメラの赤いランプが、その姿をはっきりと捉えていた。
展示室の誰もが、凍りついた。
――その一瞬前。
台座がせり上がる途中、まだ床下の暗がりにいたとき。ルパンの手は、ケースに収める直前の太刀の茎を、もう一度だけ握っていた。
暗がりの中で、藍色の狩衣の青年が、穏やかに微笑んでいた。
「世話になったな、ルパン」
「こっちこそ。……いい酒の相手だったよ、じいさん」
「ふふ。また、会いに来るがいい。今度は、硝子越しにな」
「入館料払って?」
「無論だ」
ルパンは笑って、手を離した。青年の姿が、ふっと消えた。それから太刀をケースに収め、蓋を閉じた。
――そして、今。
「ル……ルパーーーン!!」
銭形の絶叫が、展示室を震わせた。
「確保だ! 確保しろォ!」
「おっと、そうはいかないのよ、とっつぁん!」
ルパンは警官たちの頭上をひらりと跳び越え、展示室の入口へ駆け出した。警官たちがいっせいに追いかけ、銭形が先頭で手錠を振り回す。
「待てぇ、ルパーン!」
「待たな〜い!」
いつもの、追いかけっこだった。
◇
回廊の暗がりで、六振りは、それを見送っていた。
認識阻害の札のおかげで、警官たちは誰ひとり、彼らに気づかない。すぐ横を駆け抜けていく足音の中で、刀剣男士たちだけが、静かに立っていた。
「……本当に、映りに行ったな」
大包平が、呆れたように呟いた。
「あいつらしいよ」
加州が笑う。
ルパンを追う警官の列の最後尾で、銭形が、ふと足を止めた。
振り返る。回廊の暗がりに、目を凝らす。焦点が合ったり外れたりしながら、その目が、六つの人影の上で止まった。
銭形は、しばらく彼らを見つめていた。
それから、帽子のつばを、ほんの少しだけ持ち上げた。
「……あんたらが何者だろうと、わしには関係ない」
低い声だった。
「わしが追うのは、ルパンだけだ」
そう言い残して、銭形はコートの裾を翻し、再び走り出した。
「ルパーン! 待てぇーっ!」
長谷部は、その背中を見送り、小さく息をついた。
「……あの男も、大概だな」
「いいなあ、ああいうの」
鶴丸が、心底楽しそうに笑った。それから、遠ざかっていくルパンの背中に向かって、両手を口に当てて叫んだ。
「おーい、ルパン! 次は俺が驚かせてやるからな!」
回廊の向こうから、声だけが返ってきた。
「楽しみにしてるぜ、白いの〜!」
声は、外へ、上野の森の夜へと、遠ざかっていった。黄色い車のエンジン音と、銭形の怒鳴り声と一緒に。
◇
本丸に戻ったのは、明け方だった。
時代を越える門をくぐると、山の端から、ちょうど朝日が昇るところだった。庭の松に露が光り、厨からは味噌汁の匂いが漂ってくる。出陣した日の朝と、何ひとつ変わらない、のどかな朝だった。
執務室で、長谷部は審神者の前に膝をついた。
「――以上をもちまして、任務完了のご報告とさせていただきます」
「お疲れさま、長谷部。みんなも」
審神者の労いに、長谷部の背筋が、ほんの少しだけ誇らしげに伸びた。
審神者の足元で、管狐のこんのすけが、ぴょこんと尾を揺らした。
「政府より報告です。三日月宗近の現存記録、揺らぎなく安定いたしました。歴史は正しく保たれております」
「……ルパン三世が、防犯カメラにばっちり映っていたが」
長谷部が眉をひそめると、こんのすけは、こくりとうなずいた。
「はい。そちらも、政府のほうで後始末をいたしました。この数日の騒ぎは、少しずつ、人々の記憶からも、記録からも薄れていきます。予告状も、防犯カメラの映像も、いずれは誰も思い出せなくなるでしょう」
「……そうか」
長谷部は、少しだけ黙った。
あの男が、最後の最後に、わざわざカメラの前で頭を下げたこと。それも、なかったことになる。
「ただ」
こんのすけが、尾をくるりと巻いた。
「あの方々は、札が効きませんでしたので。ルパン三世とその一味だけは、きっと、すべて覚えていらっしゃるでしょうね」
長谷部は、窓の外を見た。
朝日の中を、鳥が一羽、高く飛んでいく。
「……そうか」
さっきと同じ言葉だった。けれど、さっきより、少しだけやわらかい声だった。
◇
縁側では、三日月宗近が、のんびりと茶をすすっていた。
本丸に顕現している、いつもの三日月だ。出陣した日の朝と同じように、同じ場所で、同じ湯呑みで。
「おお、皆。戻ったか」
帰ってきた六振りを見上げて、三日月は、ふわりと笑った。
「おかえり」
「ただいま、みかづき!」
今剣が、真っ先に駆け寄って、三日月の隣にちょこんと座った。今度は、すり抜けなかった。
「……三日月」
長谷部が、腕を組んで三日月を見下ろした。
「つかぬことを聞くが。この数日、何か変わったことはなかったか」
「ふむ」
三日月は、湯呑みを置いて、少し考えるそぶりを見せた。
「そうだな。夢を、見ておったような気がする」
「夢?」
「うむ。少しばかり、遠くへ出かけておった夢だ。賑やかな盗人たちと、星を地に撒いたような夜景を眺め、にんにくとべえこんの匂いを嗅ぎ、刑事と名乗る男に『ただのじじいさ』と言うてやった」
三日月は、目を細めて笑った。
「……楽しい夢であったぞ」
長谷部は、しばらく三日月を見つめていた。
それから、深々とため息をついた。
「……人の気も知らずに、まったく」
「はっはっは」
鶴丸が吹き出し、加州が笑い、厚が肩をすくめ、大包平が「次はこの大包平が盗まれてやる!」と意味の分からない宣言をして、全員に「やめて」と止められた。
縁側に、朝の光が差し込んでいた。
◇
エピローグ
数日後。東京国立博物館。
特別展「天下五剣」は、何事もなかったかのように、再び幕を開けていた。
あの夜の騒ぎを覚えている者は、もうほとんどいない。ニュースにもならず、記録にも残らず、警備員たちは首をかしげながら、いつも通りの巡回を続けている。床の穴は、いつの間にか、元通りに塞がっていた。
平日の昼下がり。会場は、今日も来館者でにぎわっていた。
照明を落とした長い回廊。硝子ケースの中で、刀たちが静かに光を返している。来館者たちは列をなして、ケースからケースへ、ゆっくりと歩いていく。
その列の中に、派手なアロハシャツに丸眼鏡の男がいた。
隣には、帽子を目深にかぶった、首からカメラを提げた男。後ろには、白い着物の、やけに背の高い男。そして、大ぶりのサングラスをかけた、目を引く美女。
アロハシャツの男の手には、ちゃんと半券が握られていた。
回廊のいちばん奥。三日月宗近のケースの前で、四人は足を止めた。
細身の刀身。深く、たおやかな反り。照明を受けた刃の上に、淡い三日月の模様が、いくつも、いくつも浮かんでいる。
千年前と同じように。
そして、これから先も、ずっと。
「……よっ、じいさん」
アロハシャツの男が、硝子越しに、小さく手を振った。
「約束通り、入館料払って会いに来たぜ」
刀は、答えない。
ただ照明の下で、静かに光っているだけだった。
男は、少しだけ笑って、ケースの前を離れようとした。
――そのときだった。
硝子に映った自分の顔の、すぐ隣に。
ほんの一瞬だけ、誰かの影が映った。
藍色の狩衣。三日月を宿した瞳。楽しげに目を細めて、こちらを見ている。
その唇が、確かに、こう動いた。
――楽しかったぞ。
男が振り返ったときには、もう、何もなかった。硝子の中には、ただ一振りの太刀が横たわっているだけだった。
「……ルパン? どうした」
帽子の男が、怪訝そうに声をかける。
「ん? いや、なんでもない」
ルパン三世は、丸眼鏡を押し上げて、にやりと笑った。
「――いいお宝だったな、と思ってさ」
四人の背中が、人の波に紛れて、回廊の向こうへ消えていく。
硝子の向こうで、三日月宗近は、今日も静かに光っていた。
完
最後まで読んで頂きありがとうございました!
車で逃げるルパン一味を走って追いかける刀剣男士達、が浮かんだのが始まりでした。どんなトラップにも負けずに真顔で走ってくる長谷部がお気に入りです。あと、アイススケートネタを入れるためにオイルで滑らせてみました。楽しんで頂けましたら幸いです。
重ねて、ありがとうございました!