4月中旬。
大阪・関西将棋会館。
春の日差しが差し込む廊下を、猿飛角晴は軽い足取りで歩いていた。
「おはようございます!」
「おはようございます、猿飛三冠」
すれ違う職員に挨拶を返しながら、角晴は階段を上がっていく。
今日は公式戦があるわけではない。
午前中に他の棋士との研究会があり、それが終われば特に予定も入っていなかった。
そのため、午後は自宅で新しい戦型の研究でもしようと考えていたのだが。
「あ、猿飛三冠!」
背後から声をかけられ、角晴は足を止めた。
振り返ると、そこには男鹿ささりの姿があった。
「おはようございます、男鹿さん!」
「おはようございます。ちょうどよかったです」
「どうかしました?」
「会長がお呼びです。お時間がありましたら、会長室までお越しいただけますか?」
「会長が?」
角晴は少し首を傾げた。
月光聖市。
日本将棋連盟の会長であり、永世名人の資格を持つ大棋士。
角晴とは以前から交流があり、時折将棋の話をすることもある。
しかし、わざわざ男鹿を通して呼び出すのは珍しかった。
「分かりました! 研究会が終わったら行きますね!」
「ありがとうございます。会長にもお伝えしておきます」
男鹿は丁寧に頭を下げた。
角晴も軽く頭を下げ、再び歩き始める。
(……何の話だろ?)
最近、月光と話したことといえば。
夜叉神天衣の研修会入会について。
そして、その試験の結果だった。
(……天衣ちゃんのことかな)
角晴は、先日の研修会試験を思い出した。
雛鶴あいとの初対局。
互いの才能がぶつかり合った、見応えのある将棋だった。
天衣は勝利したものの、終盤ではあいに詰みを見逃してもらっている。
それでも、最後まで諦めずに勝ち切ったことは立派だった。
(……あの子、これからもっと強くなるだろうな)
角晴は、自然と笑みを浮かべた。
そして、研究会の行われる部屋へ向かった。
───
午後1時過ぎ。
関西将棋会館・会長室。
コンコン。
「失礼します!」
角晴が扉を開けると、月光の穏やかな声が返ってきた。
「やあ、猿飛君。忙しいところすまないね」
「いえいえ! ちょうど研究会が終わったところなので!」
角晴は笑顔で答えた。
部屋には月光と男鹿がいた。
「どうぞ、こちらへ」
男鹿に案内され、角晴は月光の向かい側に腰を下ろした。
「それで会長、何かありました?」
「うん。少し、君に相談したいことがあってね」
「相談ですか?」
「夜叉神天衣さんのことだよ」
予想していた名前が出てきた。
角晴は頷く。
「天衣ちゃんですか」
「研修会に無事入会できたそうだね」
「はい! すごくいい将棋を指してましたよ!」
角晴は楽しそうに答えた。
「特に、雛鶴あいちゃんとの対局は面白かったです。あの2人、これからいいライバルになると思います!」
「それは何よりだ」
月光は穏やかに笑った。
「彼女の将棋は、君が指導するようになって随分変わったらしいね」
「そうですか?」
「男鹿さんからも報告を受けているよ」
角晴は少し照れたように笑った。
「ははっ。でも、天衣ちゃん自身が頑張ってるからですよ」
「それでも、君の指導がいい影響を与えたのは確かだろう」
「そう言ってもらえると嬉しいです!」
角晴は素直に喜んだ。
しかし、月光はそこで少し声の調子を変えた。
「ところで猿飛君」
「はい?」
「君は、夜叉神さんの今後についてどう考えているかな?」
「今後、ですか?」
「そう。研修会にも入会した。これからは、より本格的に将棋を学ぶことになるだろう」
角晴は頷いた。
「そうですね。俺も、できる限り教えてあげたいと思ってます」
「うん。そこで、ひとつ問題がある」
「問題?」
月光は、静かに続けた。
「彼女には、まだ正式な師匠がいないんだ」
「…………」
角晴は、少しだけ目を丸くした。
言われてみれば、その通りだった。
現在の角晴は、あくまで天衣に将棋を教えているだけ。
正式な師匠と弟子の関係ではない。
「……確かに、そうですね」
「君も知っている通り、彼女は非常に優れた才能を持っている」
「はい」
「だからこそ、今後の将棋人生を支えてくれる存在が必要だと私は思っている」
月光は穏やかに言った。
「そこでね。私が彼女の師匠になるという方法もある」
「……会長が?」
角晴は驚いた。
月光聖市。
永世名人。
将棋界でも指折りの実力者であり、長年にわたって多くの棋士を見てきた人物だ。
そんな人物が師匠になってくれるなら、天衣にとって悪い話ではない。
むしろ、非常に恵まれた環境だろう。
「……それは、すごくいい話ですね」
角晴は素直に答えた。
「会長なら、天衣ちゃんももっと強くなれそうですし!」
その言葉に、月光は少しだけ笑った。
「そう思うかい?」
「はい!」
「……なるほど」
月光は静かに頷いた。
しかし、そこで話を終えなかった。
「では、猿飛君」
「はい?」
「君自身は、それで構わないのかな?」
「……え?」
角晴は首を傾げた。
月光は、穏やかな声で続ける。
「君は彼女の才能を見つけ、将棋を教え、研修会へ導いた」
「はい」
「その彼女が、今後は私の弟子として将棋を学んでいく」
「…………」
「君は、それをどう思う?」
角晴は、すぐには答えられなかった。
月光の言葉を、頭の中で繰り返す。
天衣が、月光の弟子になる。
それは、きっと悪いことではない。
むしろ、いいことのはずだ。
なのに。
(……あれ?)
胸の奥に、妙な引っかかりがあった。
天衣が自分の隣で将棋盤を覗き込む姿。
4枚落ちで負け、悔しそうに唇を噛んでいた姿。
新世界の道場で、パンサーに何度負けても挑み続けた姿。
自分の教えたことを理解し、嬉しそうに駒を進めた姿。
そして。
『今日はちゃんと私の将棋を見てなさいよ』
研修会試験の日。
そう言って自分を見上げてきた、あの少女の顔。
次々と浮かんできた。
(……そっか)
角晴は、ようやく気付いた。
自分は、天衣が強くなる姿をもっと近くで見ていたいのだ。
ただ将棋を教えるだけではない。
あの負けず嫌いな少女が、これからどこまで強くなるのか。
どんな棋士になっていくのか。
その成長を、自分の手で支えたい。
そう思っていた。
「……会長」
角晴が口を開いた。
「うん?」
「俺、やっぱり……」
一度、言葉を止める。
そして、まっすぐに月光へ顔を向けた。
「天衣ちゃんの師匠になりたいです」
月光は、静かに微笑んだ。
「……そうか」
「はい」
角晴は、少し照れたように笑った。
「今まで、正式な弟子を取ることなんて考えたことなかったんですけど」
「うん」
「でも、天衣ちゃんを他の人に任せるって考えたら、何か違うなって」
角晴は続ける。
「あの子、すごく負けず嫌いなんですよ」
「そうらしいね」
「口も悪いし、素直じゃないし」
月光が小さく笑う。
「ははは」
「でも、将棋には本当に真剣なんです」
角晴の声が、少しだけ強くなった。
「負けたら悔しがって、何度でも挑戦してくる。分からないことがあれば、自分が納得するまで考える」
そして。
「……俺、そういう天衣ちゃんのこと、結構好きなんですよね」
もちろん、それは将棋を教える立場としての言葉だった。
天衣の才能。
将棋への姿勢。
そして、そのまっすぐな負けず嫌いの性格。
角晴は、それらを心から気に入っていた。
「だから、できれば俺が教えてあげたいです」
月光は、しばらく黙っていた。
そして、静かに口を開く。
「……猿飛君」
「はい」
「その気持ちは、とても大切だ」
月光は続ける。
「だが、弟子を取るというのは、ただ将棋を教えることとは違う」
「……はい」
「相手の将来に、責任を持つということでもある」
角晴は、真剣な表情で頷いた。
「もちろん、彼女自身の意思が第一だ。お祖父様の了承も必要になる」
「はい」
「そのうえで、君に覚悟があるのかを聞きたい」
角晴は少し考えた。
まだ15歳。
棋士としては三冠を持っているものの、人生経験が豊富なわけではない。
自分自身、まだまだ強くなりたいと思っている。
それでも。
「……あります」
角晴は、はっきりと答えた。
「俺もまだまだ未熟ですけど、天衣ちゃんが本気で将棋を続けるなら、ちゃんと支えてあげたいです」
月光は、ゆっくりと頷いた。
「……なるほど」
その声には、どこか満足そうな響きがあった。
そして。
「では、猿飛君」
「はい?」
「一局、指してみないかい?」
「…………え?」
角晴は目を丸くした。
───
「……将棋、ですか?」
「うん」
月光は穏やかに頷いた。
「君とは、以前からまた指してみたいと思っていたんだ」
「……会長と?」
「そうだよ」
角晴は、少しだけ驚いた。
そして。
「……いいんですか?」
声が、わずかに弾んだ。
月光は小さく笑う。
「もちろん」
「本当に!?」
「ははは。そんなに嬉しいかい?」
「そりゃ嬉しいですよ!」
角晴は、思わず身を乗り出した。
「俺も会長とは、また指したいと思ってたので!」
その反応に、男鹿は小さく苦笑した。
(……本当に将棋がお好きなんですね)
先ほどまで真剣に弟子入りの話をしていた少年が、対局の提案ひとつで目を輝かせている。
しかし、月光はその変化を微笑ましく受け止めていた。
「では、少し付き合ってもらおうかな」
「はい!」
角晴は、嬉しそうに頷いた。
月光は続ける。
「ただし、ひとつ約束してほしい」
「約束ですか?」
「遠慮はしないこと」
「…………」
「君の今の実力を、私に見せてほしい」
その言葉に、角晴の表情が変わった。
先ほどまでの無邪気な笑顔が、少しだけ落ち着く。
そして。
「……分かりました」
角晴は、ゆっくりと笑った。
「俺も、本気で指します」
月光も、静かに微笑んだ。
「楽しみにしているよ」
───
午後2時。
関西将棋会館・特別対局室。
盤の前には、猿飛角晴と月光聖市。
そして、月光の隣には男鹿ささりが座っていた。
今回の対局では、月光が口頭で告げた指し手を男鹿が盤上に反映する。
角晴も指し手を声に出しながら、自分で駒を動かすことになっていた。
月光は視力を失っている。
そのため、盤面を見ることはできない。
しかし、盤上の駒の配置は、すべて頭の中で把握している。
どの駒がどこにあり、どの筋に利きが通っているのか。
そのすべてを、頭の中で組み立てながら指していくのだ。
「では、よろしくお願いします」
角晴が頭を下げた。
「こちらこそ。よろしく頼むよ」
月光も静かに頭を下げる。
男鹿が時計を確認する。
「それでは、対局を開始してください」
角晴は、盤面へ視線を落とした。
先手は角晴。
後手は月光。
初手。
「7六歩」
パチンッ。
角晴が角道を開けた。
「3四歩」
月光が応じる。
男鹿が歩を進めた。
パチンッ。
ごく自然な出だし。
しかし、次の一手で。
「6六歩」
角晴は、角道を閉じた。
月光が少しだけ眉を上げた。
「……ほう」
角晴は、楽しそうに笑う。
「どうしました?」
「いや。君なら、もっと早く飛車先を伸ばしてくるかと思っていたのでね」
「ははっ! 今日はちょっと違う感じでいこうかなって!」
月光は静かに笑った。
「なるほど」
そして。
「8四歩」
男鹿が駒を進める。
角晴は、迷わず次の手を指した。
「6八飛」
パチンッ。
飛車が、左へ移動する。
四間飛車。
その一手を聞いた月光は、今度こそ驚いたように声を漏らした。
「……四間飛車か」
「はい!」
角晴は笑った。
「久しぶりに会長と指せるので、ちょっと違う将棋をやってみたくなって」
「君の相掛かりを楽しみにしていたんだがね」
「それはまた今度ということで!」
「ははは。そうか」
月光は穏やかに笑った。
しかし、その声には僅かな高揚が混じっていた。
猿飛角晴。
居飛車も振り飛車も自在に指しこなす、将棋界の帝王。
相掛かりを得意とする一方で、振り飛車の研究も怠っていないことは知られている。
それでも、月光との対局で四間飛車を選ぶとは予想していなかった。
(……面白い)
月光は、頭の中で盤面を組み立て直した。
そして。
「8五歩」
男鹿が飛車先の歩を進める。
「7七角」
角晴が角を上げる。
「6二銀」
「4八玉」
「4二玉」
互いに、落ち着いて駒組みを進めていく。
「3八玉」
「3二玉」
「2八玉」
角晴の玉が、飛車を移動させた跡へと向かう。
「5四歩」
「3八銀」
「5二金右」
月光の陣形も、徐々に整い始めていた。
序盤は、互いに無理な仕掛けを見せない。
しかし、その静かな駒組みの裏では、既に激しい読み合いが始まっていた。
───
四間飛車。
飛車を6筋へ振り、自玉を囲いながら戦う振り飛車の代表的な戦法。
角晴は、飛車を左へ移動させた後、玉を右側へ運んでいた。
一方の月光は、居飛車のまま陣形を整える。
「……猿飛君」
「はい?」
「君は、随分と楽しそうだね」
角晴は、少し笑った。
「そりゃ楽しいですよ!」
「ほう」
「会長と指すの、久しぶりですから!」
「……そうか」
月光も微笑んだ。
そして、静かに続ける。
「では、少し厳しくいかせてもらおうかな」
角晴の目が、わずかに細くなった。
「……いいですね」
その声には、期待が滲んでいた。
───
中盤。
先に仕掛けたのは、月光だった。
「……7四歩」
男鹿が歩を進める。
さらに数手後。
桂馬が跳ね、銀が前進する。
月光の駒が、徐々に角晴の陣形へ圧力をかけ始めた。
(……来た)
角晴は、盤面を見つめた。
月光流。
永世名人・月光聖市が得意とする、鋭い攻撃的な将棋。
一見すると穏やかな人物だが、盤上ではまったく違う顔を見せる。
相手の隙を見つければ、一気に踏み込む。
守りを固める暇も与えず、連続した攻めで主導権を握る。
そして、一度掴んだ流れを簡単には手放さない。
「……なるほど」
角晴が、小さく呟いた。
(……やっぱり、すごいな)
月光の攻めは、鋭かった。
こちらが受ければ、別の場所から攻めてくる。
反撃しようとすれば、その瞬間に生まれる隙を突いてくる。
(……だったら)
角晴は、静かに駒を進めた。
パチンッ。
自分の飛車を活用し、反撃の形を整えていく。
しかし、月光はその狙いも読んでいた。
「……なるほど。そこから反撃するつもりだね」
「はい!」
「では、これはどうかな」
月光が指し手を告げる。
男鹿が銀を進めた。
パチンッ。
角晴の表情が変わった。
(……へぇ)
その一手は、単純な攻めではなかった。
こちらの飛車の働きを制限しながら、角の利きを通す。
さらに、次の桂馬の跳躍まで狙っている。
(……面白い)
角晴の口元が、ゆっくりと緩んだ。
「……さすがですね、会長」
「ありがとう」
「結構、厳しいです」
「そうかい?」
「はい」
角晴は、盤面を見つめたまま笑った。
「……でも」
その笑みが、少しだけ深くなる。
「こういう将棋、大好きなんですよね」
───
対局が進むにつれ、形勢は少しずつ月光へ傾き始めていた。
角晴の四間飛車は、決して悪い形ではない。
しかし、月光の攻めがあまりに正確だった。
角晴が反撃の形を作るよりも早く、月光は急所へ駒を進めていく。
銀が迫る。
桂馬が跳ねる。
歩がぶつかり、駒の交換が始まる。
そして。
「……6五歩」
男鹿が、月光の指し手を盤上に反映した。
パチンッ。
角晴は、その一手を見つめた。
(……そこまで踏み込むんだ)
月光の攻めは止まらない。
受ければ、次の攻めが来る。
反撃すれば、こちらの玉が薄くなる。
一手でも間違えれば、そのまま崩されかねない。
「…………」
角晴は、しばらく盤面を見つめていた。
そして。
「……ははっ」
小さく笑った。
その声に、男鹿が僅かに顔を上げる。
角晴の口元には、先ほどよりも深い笑みが浮かんでいた。
しかし、それは普段の明るい笑顔とは違っていた。
まるで。
強い獲物を前にした獣のような。
どこか、危うさを感じさせる笑みだった。
(……猿飛三冠?)
男鹿は、思わず息を呑んだ。
角晴は、そんな彼女の反応に気付いていない。
盤上の将棋に、完全に意識を集中させていた。
「……いいですね」
角晴が呟く。
「……すごく、いい」
その声は、楽しそうだった。
苦しい局面。
厳しい攻め。
簡単には見つからない反撃。
普通なら、焦りや苛立ちを感じる場面。
しかし、角晴は違った。
追い詰められれば追い詰められるほど、楽しそうになる。
難しい局面になればなるほど、笑みが深くなる。
それが、猿飛角晴という棋士だった。
───
月光は、静かに耳を傾けていた。
角晴の声。
駒を置く音。
呼吸の変化。
そして、僅かな笑い声。
それらから、今の角晴がどんな状態にあるのかを感じ取っていた。
(……なるほど)
月光は、小さく微笑んだ。
「……猿飛君」
「はい?」
「相変わらずだね、君は」
角晴が笑う。
「何がですか?」
「苦しくなればなるほど、楽しそうになる」
「……ははっ」
角晴は、少しだけ笑った。
「やっぱり分かります?」
「もちろん」
月光は穏やかに答えた。
「君の声を聞いていればね」
そして、静かに続ける。
「……だが」
その声が、少しだけ鋭くなった。
「楽しむだけでは、勝てないよ」
月光が次の一手を告げる。
男鹿が駒を進める。
パチンッ。
その瞬間。
角晴の目が、大きく見開かれた。
(……っ!)
鋭い一手。
先ほどまで読んでいた手順を、根本から変えるような指し手だった。
(……そんなところに!)
角晴は、盤面へ身を乗り出した。
何度も、何度も読みを進める。
受ければ、さらに厳しい攻めが続く。
反撃しようとすれば、玉が危険になる。
(……ああ)
角晴は、静かに息を吐いた。
そして。
「……あはっ」
笑った。
その笑みは、先ほどまでとは比べものにならないほど深かった。
(……最高だ)
目の前にいるのは、永世名人。
何十年も将棋を指し続け、頂点に立ったことのある大棋士。
その実力が、今、自分へ襲いかかっている。
これほど楽しいことがあるだろうか。
「……すごいですね、会長」
角晴の声が、僅かに弾んだ。
「……こんな手、全然考えてませんでした」
月光は静かに微笑んだ。
「そうかい」
「はい」
角晴は、盤面を見つめたまま続けた。
「……でも」
一度、言葉を止める。
そして。
「……まだ、終わってないですよね?」
月光の口元に、笑みが浮かんだ。
「……もちろんだよ」
───
対局開始から、既に数時間が経過していた。
角晴は長考に入っていた。
盤面には、激しい攻防の跡が残っている。
互いの駒が敵陣へ入り込み、玉の周囲にも隙が生まれていた。
しかし、形勢は依然として月光が優勢。
角晴は、決して楽な状況ではなかった。
(……どうする)
角晴は、頭の中で何度も手順を進めた。
受ける。
反撃する。
駒を切る。
玉を逃がす。
いくつもの変化が浮かんでは消える。
しかし、そのほとんどが月光の攻めに押し切られてしまう。
(……駄目だな)
角晴は、静かに息を吐いた。
それでも。
笑みは消えなかった。
(……もっと)
もっと、難しい局面が見たい。
もっと、強い手をぶつけてほしい。
そのためには。
(……まず、ここを突破しないと)
角晴は、再び読みを進めた。
そして。
(……あ)
ある一手が、頭の中に浮かんだ。
普通なら、選びにくい手だった。
一見すると、相手に駒を渡してしまう。
しかも、自玉の守りがさらに薄くなる。
しかし。
(……これなら)
その先に、僅かな可能性があった。
角晴の笑みが、ゆっくりと深くなる。
(……面白い)
そして。
「……よし」
角晴は、駒を手に取った。
「……5五飛」
パチンッ。
飛車が、盤上を滑るように進んだ。
男鹿が、僅かに目を見開いた。
(……飛車を?)
その手は、一見すると危険だった。
飛車が相手の攻撃にさらされる。
しかし、その裏には複雑な狙いが隠されていた。
「……ほう」
月光が、小さく声を漏らした。
「5五飛か」
「はい」
角晴は笑った。
「ちょっと、面白いと思いません?」
月光は、頭の中で盤面を組み立て直した。
飛車の位置。
銀の働き。
角の利き。
そして、玉の逃げ道。
(……なるほど)
数秒後。
月光の表情が、僅かに変わった。
(……そういうことか)
角晴は、飛車を動かすことで別の攻め筋を作っていた。
しかも、こちらが飛車を取れば、その瞬間に角と銀の利きが変化する。
受け方を間違えれば、逆転されかねない。
「……面白い手だね」
月光が言った。
角晴は、嬉しそうに笑う。
「ありがとうございます!」
「だが……」
月光は、少しだけ声を落とした。
「それでも、こちらがいいと思うよ」
そして、次の一手を告げた。
男鹿が駒を動かす。
パチンッ。
角晴は、その手を見つめた。
(……やっぱり、そっちか)
読んでいた手だった。
しかし、最も厳しい応手でもあった。
「……ははっ」
角晴は、楽しそうに笑った。
「……さすがです」
そして、迷わず次の一手を指した。
───
終盤。
盤上は、完全な乱戦となっていた。
角晴の飛車が敵陣へ迫り、月光の攻め駒も角晴の玉へ殺到する。
互いに一手の緩みも許されない。
月光は、相変わらず落ち着いていた。
しかし、その頭の中では、膨大な手順が組み立てられていた。
(……なるほど)
角晴の勝負手。
その狙いは、既に把握している。
だが、想像以上に厄介だった。
(……この少年は)
月光は、僅かに笑った。
(本当に、恐ろしい棋士だ)
15歳。
三冠。
将棋界の帝王。
その実力は、年齢からは想像できないほど完成されている。
しかし、月光が最も驚かされるのは、技術だけではなかった。
追い詰められるほど楽しそうになる。
難しい局面に飛び込み、そこから勝機を探す。
そして、相手が予想もしない一手を放ってくる。
まるで、勝負そのものを心から楽しんでいるかのようだった。
(……いや)
月光は、静かに考えた。
(実際に、楽しんでいるのだろうね)
そのとき。
「……会長」
角晴が口を開いた。
「うん?」
「……すごく楽しいです」
その声は、心から嬉しそうだった。
月光は小さく笑う。
「それは何よりだ」
「……でも」
角晴は、少しだけ声を落とした。
「そろそろ、こっちも勝ちにいきますよ」
月光の口元に、笑みが浮かんだ。
「……望むところだ」
───
角晴は、盤面を見つめた。
残り時間は、決して多くない。
しかし、頭の中には既にいくつもの変化が浮かんでいた。
(……ここで)
駒を取る。
(……こうして)
相手に受けさせる。
(……それから)
角の利きを通す。
そして。
(……いける)
角晴は、静かに駒を手に取った。
「……4三銀」
パチンッ。
銀が、敵陣へ打ち込まれた。
月光は、僅かに眉を動かした。
「……ほう」
角晴の声が、楽しそうに響く。
「……どうですか?」
月光は、頭の中で読みを進める。
(……4三銀)
その一手は、単純な攻めではなかった。
相手の守備駒を引きつけながら、別の場所に決定的な攻め筋を作る。
しかも、放置すれば玉への直接的な脅威になる。
(……なるほど)
月光は、小さく息を吐いた。
「……厳しい手だね」
角晴は、嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます!」
「だが、まだ終わらないよ」
月光が応じる。
男鹿が駒を進めた。
パチンッ。
角晴は、すぐに次の一手を指した。
そして、月光も応じる。
一手。
また一手。
互いの玉が、少しずつ危険な位置へ追い込まれていく。
しかし、角晴は笑っていた。
(……いい)
月光の指し手は、最後まで厳しかった。
一手でも間違えれば、こちらが負ける。
その緊張感が、たまらなく楽しい。
(……やっぱり)
角晴は、静かに息を吸った。
(……将棋って、最高だ)
───
そして。
対局は、最終盤へ突入した。
月光は、静かに考えていた。
頭の中の盤面を、何度も確認する。
角晴の玉。
自分の玉。
残っている駒。
そして、互いの持ち駒。
(……なるほど)
月光は、ゆっくりと息を吐いた。
(……ここまでか)
角晴の攻めは、既に止まらない形になっていた。
もちろん、まだ指せる手はある。
しかし、どの変化を選んでも、最後には角晴の攻めが届いてしまう。
(……見事だ)
月光は、静かに微笑んだ。
そして。
「……負けました」
その言葉が、対局室に響いた。
角晴は、ゆっくりと顔を上げた。
「……ありがとうございました」
深く頭を下げる。
月光も、静かに頭を下げた。
「ありがとうございました」
猿飛角晴。
月光聖市。
激闘の末。
勝者、猿飛角晴。
───
「……ふぅ」
角晴は、ゆっくりと息を吐いた。
そして。
「……いやぁ!」
先ほどまでの不気味な笑みが消え、いつもの明るい表情に戻った。
「めちゃくちゃ楽しかったです!」
月光が小さく笑う。
「それはよかった」
「途中、本当に負けるかと思いました!」
「私も、かなり勝ちに近付いたと思っていたよ」
「ですよね!」
角晴は、嬉しそうに笑った。
「特にあの銀の使い方、すごかったです!」
「ありがとう」
「いやー、勉強になりました!」
その様子を見ていた男鹿は、少しだけ安心したように息を吐いた。
(……元に戻られましたね)
対局中の角晴。
あの、追い詰められるほど深くなる笑み。
そして、勝負に没頭する姿。
普段の明るく穏やかな少年とは、まるで別人のようだった。
(……これが、将棋界の帝王)
男鹿は、改めて角晴という棋士の恐ろしさを感じていた。
───
対局後。
角晴と月光は、しばらく感想戦を続けていた。
「あの局面、別の手も考えてたんですよ」
「ほう。どんな手だい?」
角晴は、盤面の一部を並べ直した。
「ここで、銀を引く手です」
「……なるほど」
月光は、角晴の説明を聞きながら頭の中で局面を再現する。
「しかし、それではこちらの攻めが続くのではないかな?」
「そうなんですよね!」
角晴は笑った。
「だから結局、飛車を動かす方を選びました」
「……あの5五飛か」
「はい!」
月光は、少しだけ笑った。
「大胆な手だったね」
「ははっ! 俺も、ちょっと怖かったです!」
「……そうは聞こえなかったけれどね」
角晴は、一瞬きょとんとした。
そして。
「あはは! そうですか?」
「うん。随分と楽しそうだったよ」
「……まあ、楽しかったですから!」
角晴は、あっさり答えた。
月光は、静かに笑った。
「……本当に、君らしいね」
そして、少し声の調子を改めた。
「さて、猿飛君」
「はい?」
「本題に戻ろうか」
「……あ」
角晴は、ようやく思い出した。
今日、この対局が始まった理由。
夜叉神天衣。
彼女の師匠になるかどうかという話だった。
「……そうでしたね」
角晴は、少し照れたように笑った。
月光は穏やかに続ける。
「君の将棋は、十分に見せてもらった」
「はい」
「そして、君の覚悟も聞かせてもらった」
角晴は、真剣な表情になる。
「……はい」
月光は、静かに頷いた。
「私は、君が夜叉神さんの師匠になることに異論はない」
「……!」
角晴の表情が明るくなった。
「本当ですか!?」
「もちろん」
月光は笑った。
「ただし、最終的に決めるのは彼女自身だ」
「はい!」
「そして、お祖父様の了承も必要だね」
「もちろんです!」
角晴は、力強く頷いた。
月光は、少しだけ微笑んだ。
「……猿飛君」
「はい?」
「君は、まだ15歳だ」
「……はい」
「弟子を取るには、少し若すぎると思う人もいるかもしれない」
角晴は、黙って聞いていた。
「だが、年齢だけで師匠の資格が決まるわけではない」
月光は続ける。
「大切なのは、その子の将来を本気で考えられるかどうかだ」
「…………」
「君には、その覚悟があると私は思っている」
角晴は、少しだけ目を見開いた。
そして。
「……ありがとうございます」
深く頭を下げた。
月光は、小さく笑った。
「どういたしまして」
───
翌日。
兵庫県神戸市。
夜叉神家。
「こんにちは!」
角晴が玄関へ入ると、池田晶が出迎えた。
「お待ちしておりました、猿飛三冠」
「こんにちは、池田さん!」
「本日は、旦那様もお待ちです」
「ありがとうございます!」
角晴は笑顔で頷いた。
しかし、その胸の内には、普段とは少し違う緊張があった。
今日は、いつもの将棋の指導だけではない。
天衣と弘天に、大切な話をするつもりだった。
───
客間。
「おお、猿飛三冠。よう来てくれたな」
弘天が笑顔で迎える。
「こんにちは!」
角晴は頭を下げた。
その隣には、天衣が座っていた。
「……何よ。今日は随分と早いじゃない」
「そう?」
「そうよ」
天衣は腕を組む。
「いつもより張り切ってるみたいだし」
角晴は少し笑った。
「まあ、今日はちょっと話があるからね」
「……話?」
天衣が眉を寄せた。
角晴は、弘天へ顔を向ける。
「実は、今日はお2人に相談したいことがあるんです」
弘天は、少しだけ表情を改めた。
「……ほう」
「天衣ちゃんのことなんですけど」
その言葉に、天衣の身体が僅かに強張った。
(……私のこと?)
角晴は、静かに続ける。
「天衣ちゃん、研修会にも入会できましたし、これからもっと本格的に将棋を勉強することになりますよね」
「……そうやな」
弘天が頷く。
「そこで、俺からお願いがあるんです」
角晴は、一度言葉を止めた。
そして。
「……俺に、天衣ちゃんの師匠をやらせてもらえませんか?」
「…………」
客間に、静寂が落ちた。
弘天が、少しだけ目を見開く。
晶も、驚いたように角晴を見た。
そして。
「…………え?」
天衣が、小さく声を漏らした。
角晴は、そんな天衣へ顔を向ける。
そして、柔らかく笑った。
「天衣ちゃん」
「……な、何よ」
「俺の弟子にならない?」
「…………」
天衣は、完全に固まっていた。
(……え?)
今、何と言った?
弟子。
自分が。
角晴の。
(……うそ)
何度も、何度も頭の中で言葉を繰り返す。
しかし、聞き間違いではない。
角晴は、まっすぐ自分を見ていた。
「……俺、天衣ちゃんの将棋が好きなんだ」
「……!」
「負けず嫌いなところも、何度でも挑戦してくるところも」
角晴は、少し笑った。
「それに、これからもっと強くなると思う」
天衣は、何も言えなかった。
「だから、できれば俺が教えてあげたいんだ」
そして。
「……どうかな?」
その言葉に、天衣の胸が大きく高鳴った。
(……やっと)
ずっと、待っていた。
角晴に認めてもらいたかった。
自分の実力を見せつけて、向こうから弟子に誘ってほしかった。
そのために、研修会の試験でも頑張った。
雛鶴あいにも勝った。
それでも、まだ足りないと思っていた。
もっと強くならなければならない。
もっと結果を出さなければならない。
そう思っていたのに。
(……認めてくれた)
角晴が。
自分を。
弟子にしたいと、言ってくれた。
その嬉しさが、胸いっぱいに広がった。
しかし。
「……そ、そう」
天衣は、必死に平静を装った。
「……ふぅん」
角晴は、少し首を傾げる。
「……嫌だった?」
「……っ!」
天衣が、勢いよく顔を上げた。
「嫌なわけないでしょ!」
「……おっ」
角晴が少し驚く。
天衣は、はっとした。
(……しまった!)
思わず、本音が出てしまった。
慌てて顔を背ける。
「……べ、別に!」
「……?」
「そこまで言うなら、なってあげてもいいわよ!」
角晴は、一瞬きょとんとした。
そして。
「……本当!?」
「……何よ」
「いや、嬉しいなって!」
角晴は、満面の笑みを浮かべた。
「じゃあ、これからよろしくね! 天衣ちゃんいや天衣!」
その笑顔を見て、天衣の胸が再び高鳴った。
「……ふん」
天衣は、少しだけ顔を赤くしながら答えた。
「……仕方ないわね」
しかし、その口元には。
隠しきれない笑みが浮かんでいた。
───
弘天は、そんな2人のやり取りを静かに見守っていた。
そして。
「……はははっ!」
豪快に笑った。
「こりゃあ、ええ!」
角晴が顔を向ける。
「お祖父さん?」
弘天は、嬉しそうに頷いた。
「猿飛三冠。こちらこそ、よろしく頼むわ!」
「……いいんですか?」
「もちろんや!」
弘天は笑った。
「天衣が、あんたのことをどれだけ気に入っとるか、よう分かっとるからな!」
「……お、お祖父様!?」
天衣が、慌てて声を上げた。
「何言ってるのよ!」
「ははは! 隠さんでもええやろ!」
「隠してないわよ!」
角晴は、少し首を傾げた。
「……天衣って俺のこと気に入ってくれてたんだ?」
「……っ!」
天衣の顔が、さらに赤くなる。
「ち、違うわよ!」
「え?」
「将棋が強いから、認めてるだけなんだから!」
角晴は、少し笑った。
「ははっ! そっか!」
「……もう!」
天衣は、恥ずかしそうに顔を背けた。
その様子を見て、晶も小さく微笑んだ。
(……お嬢様、本当によかったですね)
天衣が、これほど嬉しそうにしている姿を見るのは久しぶりだった。
───
しばらくして。
角晴と弘天は、正式な師弟関係について話を進めていた。
「……それで、今後の指導なんですけど」
角晴が口を開く。
「基本的には、今まで通り神戸に来たり、将棋会館で教えたりする形になると思います」
「うむ」
「ただ、天衣も研修会に入ったので、実戦の機会は増えると思います」
「そうやな」
「俺自身も公式戦やタイトル戦がありますから、毎日教えることはできないですけど……」
角晴は、少し考えた。
「でも、できる限り時間は作りたいと思ってます」
弘天は、静かに頷いた。
「……十分や」
「ありがとうございます!」
「こちらこそ、感謝しとる」
弘天は、少しだけ表情を改めた。
「天衣は、両親を亡くしてから、なかなか人に心を開かんようになってな」
「…………」
角晴は、静かに聞いていた。
「将棋だけは、ずっと好きでいてくれたんや」
弘天は続ける。
「けど、その将棋でも、なかなか心から信頼できる相手がおらんかった」
「……そうだったんですね」
「そんな天衣が、あんたには随分懐いとる」
角晴は、少し驚いた。
「……そうですか?」
「ははは。本人は認めんやろうけどな」
弘天は笑った。
「だから、あんたに頼みたい」
そして。
「……天衣のこと、よろしく頼む」
角晴は、真剣な表情で頷いた。
「……はい」
そして、深く頭を下げた。
「責任を持って、指導させてもらいます」
弘天は、満足そうに頷いた。
───
夕方。
夜叉神家の庭。
角晴と天衣は、並んで歩いていた。
「……ねえ」
天衣が口を開く。
「ん?」
「……本当に、いいの?」
角晴が顔を向ける。
「何が?」
「……私を弟子にすることよ」
角晴は、少しだけ目を丸くした。
そして。
「もちろん!」
迷わず答えた。
「……本当に?」
「うん!」
角晴は笑った。
「俺からお願いしたんだしね!」
天衣は、少しだけ黙った。
「……そっか」
そして、ぽつりと呟く。
「……じゃあ」
「ん?」
「……もっと、強くしてよね」
角晴は、少しだけ笑った。
「もちろん!」
そして、天衣の頭に軽く手を置いた。
「一緒に頑張ろうね!」
「……っ!」
天衣は、一瞬固まった。
そして、慌てて顔を背ける。
「……子供扱いしないでよ!」
角晴は笑った。
「あはは! ごめんごめん!」
「……もう」
天衣は、小さくため息をついた。
しかし。
その表情は、どこか嬉しそうだった。
───
帰り際。
玄関で、角晴が振り返った。
「じゃあ、また来るね!」
「……ええ」
天衣は、小さく頷いた。
「次までに、ちゃんと勉強しておくのよ!」
角晴は、思わず笑った。
「それ、俺の台詞じゃない?」
「……うるさい!」
「あはは! じゃあね!」
角晴は、笑顔で手を振った。
天衣も、小さく手を振り返す。
そして、角晴の姿が見えなくなるまで。
その場に立っていた。
───
その日の夜。
大阪。
猿飛角晴のマンション。
「……ふぅ」
帰宅した角晴は、ソファへ腰を下ろした。
今日は、色々なことがあった。
月光会長との対局。
そして。
夜叉神天衣を、正式な弟子に迎えたこと。
(……弟子、か)
角晴は、少しだけ笑った。
15歳。
三冠棋士。
将棋界の帝王。
そんな自分に、初めての弟子ができた。
(……不思議な感じだな)
これまでは、自分が将棋を教わる側だった。
清滝鋼介。
月光聖市。
そして、多くの先輩棋士たち。
そんな人たちに支えられながら、自分は強くなってきた。
今度は、自分が誰かを支える番なのかもしれない。
(……天衣)
角晴は、少しだけ笑った。
あの負けず嫌いな少女が、これからどこまで強くなるのか。
考えるだけで、楽しみだった。
「……よし!」
角晴は立ち上がった。
そして、研究室へ向かう。
机の上には、今日の月光との対局を記録した棋譜が置かれていた。
角晴は、盤の前に腰を下ろす。
「……さて」
駒を並べる。
パチンッ。
「……あそこ、もう少しいい手があったかな」
角晴は、楽しそうに笑った。
将棋は、まだまだ奥が深い。
強くなりたい。
もっと、もっと。
そして。
(……天衣にも、もっと強くなってほしいな)
角晴は、静かに駒を進めた。
───
一方。
神戸。
夜叉神家。
天衣は、自室の将棋盤に向かっていた。
しかし。
今日は、なかなか集中できなかった。
(……弟子)
何度も、頭の中でその言葉を繰り返す。
(……あいつの、弟子)
猿飛角晴。
将棋界の帝王。
自分が、ずっと認めてもらいたかった相手。
その人物が。
自分を、正式な弟子に迎えてくれた。
(……ふふっ)
天衣は、思わず笑みを浮かべた。
しかし、すぐに顔を引き締める。
(……駄目よ)
ここで満足してはいけない。
弟子になれたからといって、強くなったわけではない。
むしろ、ここからが本番だ。
(……絶対に)
天衣は、静かに駒を握った。
(……あいつに、後悔なんてさせないんだから)
自分を弟子にしたこと。
その選択が正しかったと、証明してみせる。
そして、いつか。
角晴と、平手で将棋を指して勝つ。
その日が来るまで。
「……見てなさいよ」
天衣は、小さく呟いた。
「……絶対に、強くなってやるんだから」
その瞳には、強い決意が宿っていた。
───
猿飛角晴。
15歳。
九段。
帝位・叡王・棋帝。
将棋界の帝王。
そんな彼に、初めての弟子ができた。
夜叉神天衣。
9歳。
将棋の才能に恵まれた、負けず嫌いな少女。
まだまだ未熟。
しかし、その可能性は計り知れない。
師匠と弟子。
新しい関係が、今。
静かに始まった。