帝王のおしごと!   作:コバハト

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第9話 師匠の資格

4月中旬。

 

大阪・関西将棋会館。

 

春の日差しが差し込む廊下を、猿飛角晴は軽い足取りで歩いていた。

 

「おはようございます!」

 

「おはようございます、猿飛三冠」

 

すれ違う職員に挨拶を返しながら、角晴は階段を上がっていく。

 

今日は公式戦があるわけではない。

 

午前中に他の棋士との研究会があり、それが終われば特に予定も入っていなかった。

 

そのため、午後は自宅で新しい戦型の研究でもしようと考えていたのだが。

 

「あ、猿飛三冠!」

 

背後から声をかけられ、角晴は足を止めた。

 

振り返ると、そこには男鹿ささりの姿があった。

 

「おはようございます、男鹿さん!」

 

「おはようございます。ちょうどよかったです」

 

「どうかしました?」

 

「会長がお呼びです。お時間がありましたら、会長室までお越しいただけますか?」

 

「会長が?」

 

角晴は少し首を傾げた。

 

月光聖市。

 

日本将棋連盟の会長であり、永世名人の資格を持つ大棋士。

 

角晴とは以前から交流があり、時折将棋の話をすることもある。

 

しかし、わざわざ男鹿を通して呼び出すのは珍しかった。

 

「分かりました! 研究会が終わったら行きますね!」

 

「ありがとうございます。会長にもお伝えしておきます」

 

男鹿は丁寧に頭を下げた。

 

角晴も軽く頭を下げ、再び歩き始める。

 

(……何の話だろ?)

 

最近、月光と話したことといえば。

 

夜叉神天衣の研修会入会について。

 

そして、その試験の結果だった。

 

(……天衣ちゃんのことかな)

 

角晴は、先日の研修会試験を思い出した。

 

雛鶴あいとの初対局。

 

互いの才能がぶつかり合った、見応えのある将棋だった。

 

天衣は勝利したものの、終盤ではあいに詰みを見逃してもらっている。

 

それでも、最後まで諦めずに勝ち切ったことは立派だった。

 

(……あの子、これからもっと強くなるだろうな)

 

角晴は、自然と笑みを浮かべた。

 

そして、研究会の行われる部屋へ向かった。

 

───

 

午後1時過ぎ。

 

関西将棋会館・会長室。

 

コンコン。

 

「失礼します!」

 

角晴が扉を開けると、月光の穏やかな声が返ってきた。

 

「やあ、猿飛君。忙しいところすまないね」

 

「いえいえ! ちょうど研究会が終わったところなので!」

 

角晴は笑顔で答えた。

 

部屋には月光と男鹿がいた。

 

「どうぞ、こちらへ」

 

男鹿に案内され、角晴は月光の向かい側に腰を下ろした。

 

「それで会長、何かありました?」

 

「うん。少し、君に相談したいことがあってね」

 

「相談ですか?」

 

「夜叉神天衣さんのことだよ」

 

予想していた名前が出てきた。

 

角晴は頷く。

 

「天衣ちゃんですか」

 

「研修会に無事入会できたそうだね」

 

「はい! すごくいい将棋を指してましたよ!」

 

角晴は楽しそうに答えた。

 

「特に、雛鶴あいちゃんとの対局は面白かったです。あの2人、これからいいライバルになると思います!」

 

「それは何よりだ」

 

月光は穏やかに笑った。

 

「彼女の将棋は、君が指導するようになって随分変わったらしいね」

 

「そうですか?」

 

「男鹿さんからも報告を受けているよ」

 

角晴は少し照れたように笑った。

 

「ははっ。でも、天衣ちゃん自身が頑張ってるからですよ」

 

「それでも、君の指導がいい影響を与えたのは確かだろう」

 

「そう言ってもらえると嬉しいです!」

 

角晴は素直に喜んだ。

 

しかし、月光はそこで少し声の調子を変えた。

 

「ところで猿飛君」

 

「はい?」

 

「君は、夜叉神さんの今後についてどう考えているかな?」

 

「今後、ですか?」

 

「そう。研修会にも入会した。これからは、より本格的に将棋を学ぶことになるだろう」

 

角晴は頷いた。

 

「そうですね。俺も、できる限り教えてあげたいと思ってます」

 

「うん。そこで、ひとつ問題がある」

 

「問題?」

 

月光は、静かに続けた。

 

「彼女には、まだ正式な師匠がいないんだ」

 

「…………」

 

角晴は、少しだけ目を丸くした。

 

言われてみれば、その通りだった。

 

現在の角晴は、あくまで天衣に将棋を教えているだけ。

 

正式な師匠と弟子の関係ではない。

 

「……確かに、そうですね」

 

「君も知っている通り、彼女は非常に優れた才能を持っている」

 

「はい」

 

「だからこそ、今後の将棋人生を支えてくれる存在が必要だと私は思っている」

 

月光は穏やかに言った。

 

「そこでね。私が彼女の師匠になるという方法もある」

 

「……会長が?」

 

角晴は驚いた。

 

月光聖市。

 

永世名人。

 

将棋界でも指折りの実力者であり、長年にわたって多くの棋士を見てきた人物だ。

 

そんな人物が師匠になってくれるなら、天衣にとって悪い話ではない。

 

むしろ、非常に恵まれた環境だろう。

 

「……それは、すごくいい話ですね」

 

角晴は素直に答えた。

 

「会長なら、天衣ちゃんももっと強くなれそうですし!」

 

その言葉に、月光は少しだけ笑った。

 

「そう思うかい?」

 

「はい!」

 

「……なるほど」

 

月光は静かに頷いた。

 

しかし、そこで話を終えなかった。

 

「では、猿飛君」

 

「はい?」

 

「君自身は、それで構わないのかな?」

 

「……え?」

 

角晴は首を傾げた。

 

月光は、穏やかな声で続ける。

 

「君は彼女の才能を見つけ、将棋を教え、研修会へ導いた」

 

「はい」

 

「その彼女が、今後は私の弟子として将棋を学んでいく」

 

「…………」

 

「君は、それをどう思う?」

 

角晴は、すぐには答えられなかった。

 

月光の言葉を、頭の中で繰り返す。

 

天衣が、月光の弟子になる。

 

それは、きっと悪いことではない。

 

むしろ、いいことのはずだ。

 

なのに。

 

(……あれ?)

 

胸の奥に、妙な引っかかりがあった。

 

天衣が自分の隣で将棋盤を覗き込む姿。

 

4枚落ちで負け、悔しそうに唇を噛んでいた姿。

 

新世界の道場で、パンサーに何度負けても挑み続けた姿。

 

自分の教えたことを理解し、嬉しそうに駒を進めた姿。

 

そして。

 

『今日はちゃんと私の将棋を見てなさいよ』

 

研修会試験の日。

 

そう言って自分を見上げてきた、あの少女の顔。

 

次々と浮かんできた。

 

(……そっか)

 

角晴は、ようやく気付いた。

 

自分は、天衣が強くなる姿をもっと近くで見ていたいのだ。

 

ただ将棋を教えるだけではない。

 

あの負けず嫌いな少女が、これからどこまで強くなるのか。

 

どんな棋士になっていくのか。

 

その成長を、自分の手で支えたい。

 

そう思っていた。

 

「……会長」

 

角晴が口を開いた。

 

「うん?」

 

「俺、やっぱり……」

 

一度、言葉を止める。

 

そして、まっすぐに月光へ顔を向けた。

 

「天衣ちゃんの師匠になりたいです」

 

月光は、静かに微笑んだ。

 

「……そうか」

 

「はい」

 

角晴は、少し照れたように笑った。

 

「今まで、正式な弟子を取ることなんて考えたことなかったんですけど」

 

「うん」

 

「でも、天衣ちゃんを他の人に任せるって考えたら、何か違うなって」

 

角晴は続ける。

 

「あの子、すごく負けず嫌いなんですよ」

 

「そうらしいね」

 

「口も悪いし、素直じゃないし」

 

月光が小さく笑う。

 

「ははは」

 

「でも、将棋には本当に真剣なんです」

 

角晴の声が、少しだけ強くなった。

 

「負けたら悔しがって、何度でも挑戦してくる。分からないことがあれば、自分が納得するまで考える」

 

そして。

 

「……俺、そういう天衣ちゃんのこと、結構好きなんですよね」

 

もちろん、それは将棋を教える立場としての言葉だった。

 

天衣の才能。

 

将棋への姿勢。

 

そして、そのまっすぐな負けず嫌いの性格。

 

角晴は、それらを心から気に入っていた。

 

「だから、できれば俺が教えてあげたいです」

 

月光は、しばらく黙っていた。

 

そして、静かに口を開く。

 

「……猿飛君」

 

「はい」

 

「その気持ちは、とても大切だ」

 

月光は続ける。

 

「だが、弟子を取るというのは、ただ将棋を教えることとは違う」

 

「……はい」

 

「相手の将来に、責任を持つということでもある」

 

角晴は、真剣な表情で頷いた。

 

「もちろん、彼女自身の意思が第一だ。お祖父様の了承も必要になる」

 

「はい」

 

「そのうえで、君に覚悟があるのかを聞きたい」

 

角晴は少し考えた。

 

まだ15歳。

 

棋士としては三冠を持っているものの、人生経験が豊富なわけではない。

 

自分自身、まだまだ強くなりたいと思っている。

 

それでも。

 

「……あります」

 

角晴は、はっきりと答えた。

 

「俺もまだまだ未熟ですけど、天衣ちゃんが本気で将棋を続けるなら、ちゃんと支えてあげたいです」

 

月光は、ゆっくりと頷いた。

 

「……なるほど」

 

その声には、どこか満足そうな響きがあった。

 

そして。

 

「では、猿飛君」

 

「はい?」

 

「一局、指してみないかい?」

 

「…………え?」

 

角晴は目を丸くした。

 

───

 

「……将棋、ですか?」

 

「うん」

 

月光は穏やかに頷いた。

 

「君とは、以前からまた指してみたいと思っていたんだ」

 

「……会長と?」

 

「そうだよ」

 

角晴は、少しだけ驚いた。

 

そして。

 

「……いいんですか?」

 

声が、わずかに弾んだ。

 

月光は小さく笑う。

 

「もちろん」

 

「本当に!?」

 

「ははは。そんなに嬉しいかい?」

 

「そりゃ嬉しいですよ!」

 

角晴は、思わず身を乗り出した。

 

「俺も会長とは、また指したいと思ってたので!」

 

その反応に、男鹿は小さく苦笑した。

 

(……本当に将棋がお好きなんですね)

 

先ほどまで真剣に弟子入りの話をしていた少年が、対局の提案ひとつで目を輝かせている。

 

しかし、月光はその変化を微笑ましく受け止めていた。

 

「では、少し付き合ってもらおうかな」

 

「はい!」

 

角晴は、嬉しそうに頷いた。

 

月光は続ける。

 

「ただし、ひとつ約束してほしい」

 

「約束ですか?」

 

「遠慮はしないこと」

 

「…………」

 

「君の今の実力を、私に見せてほしい」

 

その言葉に、角晴の表情が変わった。

 

先ほどまでの無邪気な笑顔が、少しだけ落ち着く。

 

そして。

 

「……分かりました」

 

角晴は、ゆっくりと笑った。

 

「俺も、本気で指します」

 

月光も、静かに微笑んだ。

 

「楽しみにしているよ」

 

───

 

午後2時。

 

関西将棋会館・特別対局室。

 

盤の前には、猿飛角晴と月光聖市。

 

そして、月光の隣には男鹿ささりが座っていた。

 

今回の対局では、月光が口頭で告げた指し手を男鹿が盤上に反映する。

 

角晴も指し手を声に出しながら、自分で駒を動かすことになっていた。

 

月光は視力を失っている。

 

そのため、盤面を見ることはできない。

 

しかし、盤上の駒の配置は、すべて頭の中で把握している。

 

どの駒がどこにあり、どの筋に利きが通っているのか。

 

そのすべてを、頭の中で組み立てながら指していくのだ。

 

「では、よろしくお願いします」

 

角晴が頭を下げた。

 

「こちらこそ。よろしく頼むよ」

 

月光も静かに頭を下げる。

 

男鹿が時計を確認する。

 

「それでは、対局を開始してください」

 

角晴は、盤面へ視線を落とした。

 

先手は角晴。

 

後手は月光。

 

初手。

 

「7六歩」

 

パチンッ。

 

角晴が角道を開けた。

 

「3四歩」

 

月光が応じる。

 

男鹿が歩を進めた。

 

パチンッ。

 

ごく自然な出だし。

 

しかし、次の一手で。

 

「6六歩」

 

角晴は、角道を閉じた。

 

月光が少しだけ眉を上げた。

 

「……ほう」

 

角晴は、楽しそうに笑う。

 

「どうしました?」

 

「いや。君なら、もっと早く飛車先を伸ばしてくるかと思っていたのでね」

 

「ははっ! 今日はちょっと違う感じでいこうかなって!」

 

月光は静かに笑った。

 

「なるほど」

 

そして。

 

「8四歩」

 

男鹿が駒を進める。

 

角晴は、迷わず次の手を指した。

 

「6八飛」

 

パチンッ。

 

飛車が、左へ移動する。

 

四間飛車。

 

その一手を聞いた月光は、今度こそ驚いたように声を漏らした。

 

「……四間飛車か」

 

「はい!」

 

角晴は笑った。

 

「久しぶりに会長と指せるので、ちょっと違う将棋をやってみたくなって」

 

「君の相掛かりを楽しみにしていたんだがね」

 

「それはまた今度ということで!」

 

「ははは。そうか」

 

月光は穏やかに笑った。

 

しかし、その声には僅かな高揚が混じっていた。

 

猿飛角晴。

 

居飛車も振り飛車も自在に指しこなす、将棋界の帝王。

 

相掛かりを得意とする一方で、振り飛車の研究も怠っていないことは知られている。

 

それでも、月光との対局で四間飛車を選ぶとは予想していなかった。

 

(……面白い)

 

月光は、頭の中で盤面を組み立て直した。

 

そして。

 

「8五歩」

 

男鹿が飛車先の歩を進める。

 

「7七角」

 

角晴が角を上げる。

 

「6二銀」

 

「4八玉」

 

「4二玉」

 

互いに、落ち着いて駒組みを進めていく。

 

「3八玉」

 

「3二玉」

 

「2八玉」

 

角晴の玉が、飛車を移動させた跡へと向かう。

 

「5四歩」

 

「3八銀」

 

「5二金右」

 

月光の陣形も、徐々に整い始めていた。

 

序盤は、互いに無理な仕掛けを見せない。

 

しかし、その静かな駒組みの裏では、既に激しい読み合いが始まっていた。

 

───

 

四間飛車。

 

飛車を6筋へ振り、自玉を囲いながら戦う振り飛車の代表的な戦法。

 

角晴は、飛車を左へ移動させた後、玉を右側へ運んでいた。

 

一方の月光は、居飛車のまま陣形を整える。

 

「……猿飛君」

 

「はい?」

 

「君は、随分と楽しそうだね」

 

角晴は、少し笑った。

 

「そりゃ楽しいですよ!」

 

「ほう」

 

「会長と指すの、久しぶりですから!」

 

「……そうか」

 

月光も微笑んだ。

 

そして、静かに続ける。

 

「では、少し厳しくいかせてもらおうかな」

 

角晴の目が、わずかに細くなった。

 

「……いいですね」

 

その声には、期待が滲んでいた。

 

───

 

中盤。

 

先に仕掛けたのは、月光だった。

 

「……7四歩」

 

男鹿が歩を進める。

 

さらに数手後。

 

桂馬が跳ね、銀が前進する。

 

月光の駒が、徐々に角晴の陣形へ圧力をかけ始めた。

 

(……来た)

 

角晴は、盤面を見つめた。

 

月光流。

 

永世名人・月光聖市が得意とする、鋭い攻撃的な将棋。

 

一見すると穏やかな人物だが、盤上ではまったく違う顔を見せる。

 

相手の隙を見つければ、一気に踏み込む。

 

守りを固める暇も与えず、連続した攻めで主導権を握る。

 

そして、一度掴んだ流れを簡単には手放さない。

 

「……なるほど」

 

角晴が、小さく呟いた。

 

(……やっぱり、すごいな)

 

月光の攻めは、鋭かった。

 

こちらが受ければ、別の場所から攻めてくる。

 

反撃しようとすれば、その瞬間に生まれる隙を突いてくる。

 

(……だったら)

 

角晴は、静かに駒を進めた。

 

パチンッ。

 

自分の飛車を活用し、反撃の形を整えていく。

 

しかし、月光はその狙いも読んでいた。

 

「……なるほど。そこから反撃するつもりだね」

 

「はい!」

 

「では、これはどうかな」

 

月光が指し手を告げる。

 

男鹿が銀を進めた。

 

パチンッ。

 

角晴の表情が変わった。

 

(……へぇ)

 

その一手は、単純な攻めではなかった。

 

こちらの飛車の働きを制限しながら、角の利きを通す。

 

さらに、次の桂馬の跳躍まで狙っている。

 

(……面白い)

 

角晴の口元が、ゆっくりと緩んだ。

 

「……さすがですね、会長」

 

「ありがとう」

 

「結構、厳しいです」

 

「そうかい?」

 

「はい」

 

角晴は、盤面を見つめたまま笑った。

 

「……でも」

 

その笑みが、少しだけ深くなる。

 

「こういう将棋、大好きなんですよね」

 

───

 

対局が進むにつれ、形勢は少しずつ月光へ傾き始めていた。

 

角晴の四間飛車は、決して悪い形ではない。

 

しかし、月光の攻めがあまりに正確だった。

 

角晴が反撃の形を作るよりも早く、月光は急所へ駒を進めていく。

 

銀が迫る。

 

桂馬が跳ねる。

 

歩がぶつかり、駒の交換が始まる。

 

そして。

 

「……6五歩」

 

男鹿が、月光の指し手を盤上に反映した。

 

パチンッ。

 

角晴は、その一手を見つめた。

 

(……そこまで踏み込むんだ)

 

月光の攻めは止まらない。

 

受ければ、次の攻めが来る。

 

反撃すれば、こちらの玉が薄くなる。

 

一手でも間違えれば、そのまま崩されかねない。

 

「…………」

 

角晴は、しばらく盤面を見つめていた。

 

そして。

 

「……ははっ」

 

小さく笑った。

 

その声に、男鹿が僅かに顔を上げる。

 

角晴の口元には、先ほどよりも深い笑みが浮かんでいた。

 

しかし、それは普段の明るい笑顔とは違っていた。

 

まるで。

 

強い獲物を前にした獣のような。

 

どこか、危うさを感じさせる笑みだった。

 

(……猿飛三冠?)

 

男鹿は、思わず息を呑んだ。

 

角晴は、そんな彼女の反応に気付いていない。

 

盤上の将棋に、完全に意識を集中させていた。

 

「……いいですね」

 

角晴が呟く。

 

「……すごく、いい」

 

その声は、楽しそうだった。

 

苦しい局面。

 

厳しい攻め。

 

簡単には見つからない反撃。

 

普通なら、焦りや苛立ちを感じる場面。

 

しかし、角晴は違った。

 

追い詰められれば追い詰められるほど、楽しそうになる。

 

難しい局面になればなるほど、笑みが深くなる。

 

それが、猿飛角晴という棋士だった。

 

───

 

月光は、静かに耳を傾けていた。

 

角晴の声。

 

駒を置く音。

 

呼吸の変化。

 

そして、僅かな笑い声。

 

それらから、今の角晴がどんな状態にあるのかを感じ取っていた。

 

(……なるほど)

 

月光は、小さく微笑んだ。

 

「……猿飛君」

 

「はい?」

 

「相変わらずだね、君は」

 

角晴が笑う。

 

「何がですか?」

 

「苦しくなればなるほど、楽しそうになる」

 

「……ははっ」

 

角晴は、少しだけ笑った。

 

「やっぱり分かります?」

 

「もちろん」

 

月光は穏やかに答えた。

 

「君の声を聞いていればね」

 

そして、静かに続ける。

 

「……だが」

 

その声が、少しだけ鋭くなった。

 

「楽しむだけでは、勝てないよ」

 

月光が次の一手を告げる。

 

男鹿が駒を進める。

 

パチンッ。

 

その瞬間。

 

角晴の目が、大きく見開かれた。

 

(……っ!)

 

鋭い一手。

 

先ほどまで読んでいた手順を、根本から変えるような指し手だった。

 

(……そんなところに!)

 

角晴は、盤面へ身を乗り出した。

 

何度も、何度も読みを進める。

 

受ければ、さらに厳しい攻めが続く。

 

反撃しようとすれば、玉が危険になる。

 

(……ああ)

 

角晴は、静かに息を吐いた。

 

そして。

 

「……あはっ」

 

笑った。

 

その笑みは、先ほどまでとは比べものにならないほど深かった。

 

(……最高だ)

 

目の前にいるのは、永世名人。

 

何十年も将棋を指し続け、頂点に立ったことのある大棋士。

 

その実力が、今、自分へ襲いかかっている。

 

これほど楽しいことがあるだろうか。

 

「……すごいですね、会長」

 

角晴の声が、僅かに弾んだ。

 

「……こんな手、全然考えてませんでした」

 

月光は静かに微笑んだ。

 

「そうかい」

 

「はい」

 

角晴は、盤面を見つめたまま続けた。

 

「……でも」

 

一度、言葉を止める。

 

そして。

 

「……まだ、終わってないですよね?」

 

月光の口元に、笑みが浮かんだ。

 

「……もちろんだよ」

 

───

 

対局開始から、既に数時間が経過していた。

 

角晴は長考に入っていた。

 

盤面には、激しい攻防の跡が残っている。

 

互いの駒が敵陣へ入り込み、玉の周囲にも隙が生まれていた。

 

しかし、形勢は依然として月光が優勢。

 

角晴は、決して楽な状況ではなかった。

 

(……どうする)

 

角晴は、頭の中で何度も手順を進めた。

 

受ける。

 

反撃する。

 

駒を切る。

 

玉を逃がす。

 

いくつもの変化が浮かんでは消える。

 

しかし、そのほとんどが月光の攻めに押し切られてしまう。

 

(……駄目だな)

 

角晴は、静かに息を吐いた。

 

それでも。

 

笑みは消えなかった。

 

(……もっと)

 

もっと、難しい局面が見たい。

 

もっと、強い手をぶつけてほしい。

 

そのためには。

 

(……まず、ここを突破しないと)

 

角晴は、再び読みを進めた。

 

そして。

 

(……あ)

 

ある一手が、頭の中に浮かんだ。

 

普通なら、選びにくい手だった。

 

一見すると、相手に駒を渡してしまう。

 

しかも、自玉の守りがさらに薄くなる。

 

しかし。

 

(……これなら)

 

その先に、僅かな可能性があった。

 

角晴の笑みが、ゆっくりと深くなる。

 

(……面白い)

 

そして。

 

「……よし」

 

角晴は、駒を手に取った。

 

「……5五飛」

 

パチンッ。

 

飛車が、盤上を滑るように進んだ。

 

男鹿が、僅かに目を見開いた。

 

(……飛車を?)

 

その手は、一見すると危険だった。

 

飛車が相手の攻撃にさらされる。

 

しかし、その裏には複雑な狙いが隠されていた。

 

「……ほう」

 

月光が、小さく声を漏らした。

 

「5五飛か」

 

「はい」

 

角晴は笑った。

 

「ちょっと、面白いと思いません?」

 

月光は、頭の中で盤面を組み立て直した。

 

飛車の位置。

 

銀の働き。

 

角の利き。

 

そして、玉の逃げ道。

 

(……なるほど)

 

数秒後。

 

月光の表情が、僅かに変わった。

 

(……そういうことか)

 

角晴は、飛車を動かすことで別の攻め筋を作っていた。

 

しかも、こちらが飛車を取れば、その瞬間に角と銀の利きが変化する。

 

受け方を間違えれば、逆転されかねない。

 

「……面白い手だね」

 

月光が言った。

 

角晴は、嬉しそうに笑う。

 

「ありがとうございます!」

 

「だが……」

 

月光は、少しだけ声を落とした。

 

「それでも、こちらがいいと思うよ」

 

そして、次の一手を告げた。

 

男鹿が駒を動かす。

 

パチンッ。

 

角晴は、その手を見つめた。

 

(……やっぱり、そっちか)

 

読んでいた手だった。

 

しかし、最も厳しい応手でもあった。

 

「……ははっ」

 

角晴は、楽しそうに笑った。

 

「……さすがです」

 

そして、迷わず次の一手を指した。

 

───

 

終盤。

 

盤上は、完全な乱戦となっていた。

 

角晴の飛車が敵陣へ迫り、月光の攻め駒も角晴の玉へ殺到する。

 

互いに一手の緩みも許されない。

 

月光は、相変わらず落ち着いていた。

 

しかし、その頭の中では、膨大な手順が組み立てられていた。

 

(……なるほど)

 

角晴の勝負手。

 

その狙いは、既に把握している。

 

だが、想像以上に厄介だった。

 

(……この少年は)

 

月光は、僅かに笑った。

 

(本当に、恐ろしい棋士だ)

 

15歳。

 

三冠。

 

将棋界の帝王。

 

その実力は、年齢からは想像できないほど完成されている。

 

しかし、月光が最も驚かされるのは、技術だけではなかった。

 

追い詰められるほど楽しそうになる。

 

難しい局面に飛び込み、そこから勝機を探す。

 

そして、相手が予想もしない一手を放ってくる。

 

まるで、勝負そのものを心から楽しんでいるかのようだった。

 

(……いや)

 

月光は、静かに考えた。

 

(実際に、楽しんでいるのだろうね)

 

そのとき。

 

「……会長」

 

角晴が口を開いた。

 

「うん?」

 

「……すごく楽しいです」

 

その声は、心から嬉しそうだった。

 

月光は小さく笑う。

 

「それは何よりだ」

 

「……でも」

 

角晴は、少しだけ声を落とした。

 

「そろそろ、こっちも勝ちにいきますよ」

 

月光の口元に、笑みが浮かんだ。

 

「……望むところだ」

 

───

 

角晴は、盤面を見つめた。

 

残り時間は、決して多くない。

 

しかし、頭の中には既にいくつもの変化が浮かんでいた。

 

(……ここで)

 

駒を取る。

 

(……こうして)

 

相手に受けさせる。

 

(……それから)

 

角の利きを通す。

 

そして。

 

(……いける)

 

角晴は、静かに駒を手に取った。

 

「……4三銀」

 

パチンッ。

 

銀が、敵陣へ打ち込まれた。

 

月光は、僅かに眉を動かした。

 

「……ほう」

 

角晴の声が、楽しそうに響く。

 

「……どうですか?」

 

月光は、頭の中で読みを進める。

 

(……4三銀)

 

その一手は、単純な攻めではなかった。

 

相手の守備駒を引きつけながら、別の場所に決定的な攻め筋を作る。

 

しかも、放置すれば玉への直接的な脅威になる。

 

(……なるほど)

 

月光は、小さく息を吐いた。

 

「……厳しい手だね」

 

角晴は、嬉しそうに笑った。

 

「ありがとうございます!」

 

「だが、まだ終わらないよ」

 

月光が応じる。

 

男鹿が駒を進めた。

 

パチンッ。

 

角晴は、すぐに次の一手を指した。

 

そして、月光も応じる。

 

一手。

 

また一手。

 

互いの玉が、少しずつ危険な位置へ追い込まれていく。

 

しかし、角晴は笑っていた。

 

(……いい)

 

月光の指し手は、最後まで厳しかった。

 

一手でも間違えれば、こちらが負ける。

 

その緊張感が、たまらなく楽しい。

 

(……やっぱり)

 

角晴は、静かに息を吸った。

 

(……将棋って、最高だ)

 

───

 

そして。

 

対局は、最終盤へ突入した。

 

月光は、静かに考えていた。

 

頭の中の盤面を、何度も確認する。

 

角晴の玉。

 

自分の玉。

 

残っている駒。

 

そして、互いの持ち駒。

 

(……なるほど)

 

月光は、ゆっくりと息を吐いた。

 

(……ここまでか)

 

角晴の攻めは、既に止まらない形になっていた。

 

もちろん、まだ指せる手はある。

 

しかし、どの変化を選んでも、最後には角晴の攻めが届いてしまう。

 

(……見事だ)

 

月光は、静かに微笑んだ。

 

そして。

 

「……負けました」

 

その言葉が、対局室に響いた。

 

角晴は、ゆっくりと顔を上げた。

 

「……ありがとうございました」

 

深く頭を下げる。

 

月光も、静かに頭を下げた。

 

「ありがとうございました」

 

猿飛角晴。

 

月光聖市。

 

激闘の末。

 

勝者、猿飛角晴。

 

───

 

「……ふぅ」

 

角晴は、ゆっくりと息を吐いた。

 

そして。

 

「……いやぁ!」

 

先ほどまでの不気味な笑みが消え、いつもの明るい表情に戻った。

 

「めちゃくちゃ楽しかったです!」

 

月光が小さく笑う。

 

「それはよかった」

 

「途中、本当に負けるかと思いました!」

 

「私も、かなり勝ちに近付いたと思っていたよ」

 

「ですよね!」

 

角晴は、嬉しそうに笑った。

 

「特にあの銀の使い方、すごかったです!」

 

「ありがとう」

 

「いやー、勉強になりました!」

 

その様子を見ていた男鹿は、少しだけ安心したように息を吐いた。

 

(……元に戻られましたね)

 

対局中の角晴。

 

あの、追い詰められるほど深くなる笑み。

 

そして、勝負に没頭する姿。

 

普段の明るく穏やかな少年とは、まるで別人のようだった。

 

(……これが、将棋界の帝王)

 

男鹿は、改めて角晴という棋士の恐ろしさを感じていた。

 

───

 

対局後。

 

角晴と月光は、しばらく感想戦を続けていた。

 

「あの局面、別の手も考えてたんですよ」

 

「ほう。どんな手だい?」

 

角晴は、盤面の一部を並べ直した。

 

「ここで、銀を引く手です」

 

「……なるほど」

 

月光は、角晴の説明を聞きながら頭の中で局面を再現する。

 

「しかし、それではこちらの攻めが続くのではないかな?」

 

「そうなんですよね!」

 

角晴は笑った。

 

「だから結局、飛車を動かす方を選びました」

 

「……あの5五飛か」

 

「はい!」

 

月光は、少しだけ笑った。

 

「大胆な手だったね」

 

「ははっ! 俺も、ちょっと怖かったです!」

 

「……そうは聞こえなかったけれどね」

 

角晴は、一瞬きょとんとした。

 

そして。

 

「あはは! そうですか?」

 

「うん。随分と楽しそうだったよ」

 

「……まあ、楽しかったですから!」

 

角晴は、あっさり答えた。

 

月光は、静かに笑った。

 

「……本当に、君らしいね」

 

そして、少し声の調子を改めた。

 

「さて、猿飛君」

 

「はい?」

 

「本題に戻ろうか」

 

「……あ」

 

角晴は、ようやく思い出した。

 

今日、この対局が始まった理由。

 

夜叉神天衣。

 

彼女の師匠になるかどうかという話だった。

 

「……そうでしたね」

 

角晴は、少し照れたように笑った。

 

月光は穏やかに続ける。

 

「君の将棋は、十分に見せてもらった」

 

「はい」

 

「そして、君の覚悟も聞かせてもらった」

 

角晴は、真剣な表情になる。

 

「……はい」

 

月光は、静かに頷いた。

 

「私は、君が夜叉神さんの師匠になることに異論はない」

 

「……!」

 

角晴の表情が明るくなった。

 

「本当ですか!?」

 

「もちろん」

 

月光は笑った。

 

「ただし、最終的に決めるのは彼女自身だ」

 

「はい!」

 

「そして、お祖父様の了承も必要だね」

 

「もちろんです!」

 

角晴は、力強く頷いた。

 

月光は、少しだけ微笑んだ。

 

「……猿飛君」

 

「はい?」

 

「君は、まだ15歳だ」

 

「……はい」

 

「弟子を取るには、少し若すぎると思う人もいるかもしれない」

 

角晴は、黙って聞いていた。

 

「だが、年齢だけで師匠の資格が決まるわけではない」

 

月光は続ける。

 

「大切なのは、その子の将来を本気で考えられるかどうかだ」

 

「…………」

 

「君には、その覚悟があると私は思っている」

 

角晴は、少しだけ目を見開いた。

 

そして。

 

「……ありがとうございます」

 

深く頭を下げた。

 

月光は、小さく笑った。

 

「どういたしまして」

 

───

 

翌日。

 

兵庫県神戸市。

 

夜叉神家。

 

「こんにちは!」

 

角晴が玄関へ入ると、池田晶が出迎えた。

 

「お待ちしておりました、猿飛三冠」

 

「こんにちは、池田さん!」

 

「本日は、旦那様もお待ちです」

 

「ありがとうございます!」

 

角晴は笑顔で頷いた。

 

しかし、その胸の内には、普段とは少し違う緊張があった。

 

今日は、いつもの将棋の指導だけではない。

 

天衣と弘天に、大切な話をするつもりだった。

 

───

 

客間。

 

「おお、猿飛三冠。よう来てくれたな」

 

弘天が笑顔で迎える。

 

「こんにちは!」

 

角晴は頭を下げた。

 

その隣には、天衣が座っていた。

 

「……何よ。今日は随分と早いじゃない」

 

「そう?」

 

「そうよ」

 

天衣は腕を組む。

 

「いつもより張り切ってるみたいだし」

 

角晴は少し笑った。

 

「まあ、今日はちょっと話があるからね」

 

「……話?」

 

天衣が眉を寄せた。

 

角晴は、弘天へ顔を向ける。

 

「実は、今日はお2人に相談したいことがあるんです」

 

弘天は、少しだけ表情を改めた。

 

「……ほう」

 

「天衣ちゃんのことなんですけど」

 

その言葉に、天衣の身体が僅かに強張った。

 

(……私のこと?)

 

角晴は、静かに続ける。

 

「天衣ちゃん、研修会にも入会できましたし、これからもっと本格的に将棋を勉強することになりますよね」

 

「……そうやな」

 

弘天が頷く。

 

「そこで、俺からお願いがあるんです」

 

角晴は、一度言葉を止めた。

 

そして。

 

「……俺に、天衣ちゃんの師匠をやらせてもらえませんか?」

 

「…………」

 

客間に、静寂が落ちた。

 

弘天が、少しだけ目を見開く。

 

晶も、驚いたように角晴を見た。

 

そして。

 

「…………え?」

 

天衣が、小さく声を漏らした。

 

角晴は、そんな天衣へ顔を向ける。

 

そして、柔らかく笑った。

 

「天衣ちゃん」

 

「……な、何よ」

 

「俺の弟子にならない?」

 

「…………」

 

天衣は、完全に固まっていた。

 

(……え?)

 

今、何と言った?

 

弟子。

 

自分が。

 

角晴の。

 

(……うそ)

 

何度も、何度も頭の中で言葉を繰り返す。

 

しかし、聞き間違いではない。

 

角晴は、まっすぐ自分を見ていた。

 

「……俺、天衣ちゃんの将棋が好きなんだ」

 

「……!」

 

「負けず嫌いなところも、何度でも挑戦してくるところも」

 

角晴は、少し笑った。

 

「それに、これからもっと強くなると思う」

 

天衣は、何も言えなかった。

 

「だから、できれば俺が教えてあげたいんだ」

 

そして。

 

「……どうかな?」

 

その言葉に、天衣の胸が大きく高鳴った。

 

(……やっと)

 

ずっと、待っていた。

 

角晴に認めてもらいたかった。

 

自分の実力を見せつけて、向こうから弟子に誘ってほしかった。

 

そのために、研修会の試験でも頑張った。

 

雛鶴あいにも勝った。

 

それでも、まだ足りないと思っていた。

 

もっと強くならなければならない。

 

もっと結果を出さなければならない。

 

そう思っていたのに。

 

(……認めてくれた)

 

角晴が。

 

自分を。

 

弟子にしたいと、言ってくれた。

 

その嬉しさが、胸いっぱいに広がった。

 

しかし。

 

「……そ、そう」

 

天衣は、必死に平静を装った。

 

「……ふぅん」

 

角晴は、少し首を傾げる。

 

「……嫌だった?」

 

「……っ!」

 

天衣が、勢いよく顔を上げた。

 

「嫌なわけないでしょ!」

 

「……おっ」

 

角晴が少し驚く。

 

天衣は、はっとした。

 

(……しまった!)

 

思わず、本音が出てしまった。

 

慌てて顔を背ける。

 

「……べ、別に!」

 

「……?」

 

「そこまで言うなら、なってあげてもいいわよ!」

 

角晴は、一瞬きょとんとした。

 

そして。

 

「……本当!?」

 

「……何よ」

 

「いや、嬉しいなって!」

 

角晴は、満面の笑みを浮かべた。

 

「じゃあ、これからよろしくね! 天衣ちゃんいや天衣!」

 

その笑顔を見て、天衣の胸が再び高鳴った。

 

「……ふん」

 

天衣は、少しだけ顔を赤くしながら答えた。

 

「……仕方ないわね」

 

しかし、その口元には。

 

隠しきれない笑みが浮かんでいた。

 

───

 

弘天は、そんな2人のやり取りを静かに見守っていた。

 

そして。

 

「……はははっ!」

 

豪快に笑った。

 

「こりゃあ、ええ!」

 

角晴が顔を向ける。

 

「お祖父さん?」

 

弘天は、嬉しそうに頷いた。

 

「猿飛三冠。こちらこそ、よろしく頼むわ!」

 

「……いいんですか?」

 

「もちろんや!」

 

弘天は笑った。

 

「天衣が、あんたのことをどれだけ気に入っとるか、よう分かっとるからな!」

 

「……お、お祖父様!?」

 

天衣が、慌てて声を上げた。

 

「何言ってるのよ!」

 

「ははは! 隠さんでもええやろ!」

 

「隠してないわよ!」

 

角晴は、少し首を傾げた。

 

「……天衣って俺のこと気に入ってくれてたんだ?」

 

「……っ!」

 

天衣の顔が、さらに赤くなる。

 

「ち、違うわよ!」

 

「え?」

 

「将棋が強いから、認めてるだけなんだから!」

 

角晴は、少し笑った。

 

「ははっ! そっか!」

 

「……もう!」

 

天衣は、恥ずかしそうに顔を背けた。

 

その様子を見て、晶も小さく微笑んだ。

 

(……お嬢様、本当によかったですね)

 

天衣が、これほど嬉しそうにしている姿を見るのは久しぶりだった。

 

───

 

しばらくして。

 

角晴と弘天は、正式な師弟関係について話を進めていた。

 

「……それで、今後の指導なんですけど」

 

角晴が口を開く。

 

「基本的には、今まで通り神戸に来たり、将棋会館で教えたりする形になると思います」

 

「うむ」

 

「ただ、天衣も研修会に入ったので、実戦の機会は増えると思います」

 

「そうやな」

 

「俺自身も公式戦やタイトル戦がありますから、毎日教えることはできないですけど……」

 

角晴は、少し考えた。

 

「でも、できる限り時間は作りたいと思ってます」

 

弘天は、静かに頷いた。

 

「……十分や」

 

「ありがとうございます!」

 

「こちらこそ、感謝しとる」

 

弘天は、少しだけ表情を改めた。

 

「天衣は、両親を亡くしてから、なかなか人に心を開かんようになってな」

 

「…………」

 

角晴は、静かに聞いていた。

 

「将棋だけは、ずっと好きでいてくれたんや」

 

弘天は続ける。

 

「けど、その将棋でも、なかなか心から信頼できる相手がおらんかった」

 

「……そうだったんですね」

 

「そんな天衣が、あんたには随分懐いとる」

 

角晴は、少し驚いた。

 

「……そうですか?」

 

「ははは。本人は認めんやろうけどな」

 

弘天は笑った。

 

「だから、あんたに頼みたい」

 

そして。

 

「……天衣のこと、よろしく頼む」

 

角晴は、真剣な表情で頷いた。

 

「……はい」

 

そして、深く頭を下げた。

 

「責任を持って、指導させてもらいます」

 

弘天は、満足そうに頷いた。

 

───

 

夕方。

 

夜叉神家の庭。

 

角晴と天衣は、並んで歩いていた。

 

「……ねえ」

 

天衣が口を開く。

 

「ん?」

 

「……本当に、いいの?」

 

角晴が顔を向ける。

 

「何が?」

 

「……私を弟子にすることよ」

 

角晴は、少しだけ目を丸くした。

 

そして。

 

「もちろん!」

 

迷わず答えた。

 

「……本当に?」

 

「うん!」

 

角晴は笑った。

 

「俺からお願いしたんだしね!」

 

天衣は、少しだけ黙った。

 

「……そっか」

 

そして、ぽつりと呟く。

 

「……じゃあ」

 

「ん?」

 

「……もっと、強くしてよね」

 

角晴は、少しだけ笑った。

 

「もちろん!」

 

そして、天衣の頭に軽く手を置いた。

 

「一緒に頑張ろうね!」

 

「……っ!」

 

天衣は、一瞬固まった。

 

そして、慌てて顔を背ける。

 

「……子供扱いしないでよ!」

 

角晴は笑った。

 

「あはは! ごめんごめん!」

 

「……もう」

 

天衣は、小さくため息をついた。

 

しかし。

 

その表情は、どこか嬉しそうだった。

 

───

 

帰り際。

 

玄関で、角晴が振り返った。

 

「じゃあ、また来るね!」

 

「……ええ」

 

天衣は、小さく頷いた。

 

「次までに、ちゃんと勉強しておくのよ!」

 

角晴は、思わず笑った。

 

「それ、俺の台詞じゃない?」

 

「……うるさい!」

 

「あはは! じゃあね!」

 

角晴は、笑顔で手を振った。

 

天衣も、小さく手を振り返す。

 

そして、角晴の姿が見えなくなるまで。

 

その場に立っていた。

 

───

 

その日の夜。

 

大阪。

 

猿飛角晴のマンション。

 

「……ふぅ」

 

帰宅した角晴は、ソファへ腰を下ろした。

 

今日は、色々なことがあった。

 

月光会長との対局。

 

そして。

 

夜叉神天衣を、正式な弟子に迎えたこと。

 

(……弟子、か)

 

角晴は、少しだけ笑った。

 

15歳。

 

三冠棋士。

 

将棋界の帝王。

 

そんな自分に、初めての弟子ができた。

 

(……不思議な感じだな)

 

これまでは、自分が将棋を教わる側だった。

 

清滝鋼介。

 

月光聖市。

 

そして、多くの先輩棋士たち。

 

そんな人たちに支えられながら、自分は強くなってきた。

 

今度は、自分が誰かを支える番なのかもしれない。

 

(……天衣)

 

角晴は、少しだけ笑った。

 

あの負けず嫌いな少女が、これからどこまで強くなるのか。

 

考えるだけで、楽しみだった。

 

「……よし!」

 

角晴は立ち上がった。

 

そして、研究室へ向かう。

 

机の上には、今日の月光との対局を記録した棋譜が置かれていた。

 

角晴は、盤の前に腰を下ろす。

 

「……さて」

 

駒を並べる。

 

パチンッ。

 

「……あそこ、もう少しいい手があったかな」

 

角晴は、楽しそうに笑った。

 

将棋は、まだまだ奥が深い。

 

強くなりたい。

 

もっと、もっと。

 

そして。

 

(……天衣にも、もっと強くなってほしいな)

 

角晴は、静かに駒を進めた。

 

───

 

一方。

 

神戸。

 

夜叉神家。

 

天衣は、自室の将棋盤に向かっていた。

 

しかし。

 

今日は、なかなか集中できなかった。

 

(……弟子)

 

何度も、頭の中でその言葉を繰り返す。

 

(……あいつの、弟子)

 

猿飛角晴。

 

将棋界の帝王。

 

自分が、ずっと認めてもらいたかった相手。

 

その人物が。

 

自分を、正式な弟子に迎えてくれた。

 

(……ふふっ)

 

天衣は、思わず笑みを浮かべた。

 

しかし、すぐに顔を引き締める。

 

(……駄目よ)

 

ここで満足してはいけない。

 

弟子になれたからといって、強くなったわけではない。

 

むしろ、ここからが本番だ。

 

(……絶対に)

 

天衣は、静かに駒を握った。

 

(……あいつに、後悔なんてさせないんだから)

 

自分を弟子にしたこと。

 

その選択が正しかったと、証明してみせる。

 

そして、いつか。

 

角晴と、平手で将棋を指して勝つ。

 

その日が来るまで。

 

「……見てなさいよ」

 

天衣は、小さく呟いた。

 

「……絶対に、強くなってやるんだから」

 

その瞳には、強い決意が宿っていた。

 

───

 

猿飛角晴。

 

15歳。

 

九段。

 

帝位・叡王・棋帝。

 

将棋界の帝王。

 

そんな彼に、初めての弟子ができた。

 

夜叉神天衣。

 

9歳。

 

将棋の才能に恵まれた、負けず嫌いな少女。

 

まだまだ未熟。

 

しかし、その可能性は計り知れない。

 

師匠と弟子。

 

新しい関係が、今。

 

静かに始まった。

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