4月中旬。
大阪府内某所。
午前6時45分。
春の柔らかな日差しが、マンションの窓から差し込んでいた。
時計の針は、まもなく7時を指そうとしている。
街では既に通勤や通学のために動き始めた人々が行き交い、少しずつ朝の賑わいが生まれていた。
しかし。
そのマンションの一室だけは、まだ夜が明けていないかのように静まり返っていた。
「…………すぅ」
寝室のベッド。
そこには、布団を頭まで被った少年の姿があった。
猿飛角晴。
15歳。
中学3年生。
そして、史上最年少クラスの若さで三冠を保持するプロ棋士。
『将棋界の帝王』。
そんな大層な異名を持つ少年は現在、布団の中で気持ちよさそうに眠っていた。
「……あと、5分……」
誰に言うでもなく、寝言を漏らす。
当然、返事はない。
目覚まし時計は既に3度鳴っていた。
しかし、角晴の睡眠を妨げるには至っていない。
むしろ、無意識のうちに時計を止める技術だけが上達していた。
将棋盤の上では何十手も先を読み、難解な局面でも冷静に判断を下す天才棋士。
けれど、朝の目覚まし時計には勝てない。
それが、猿飛角晴という少年だった。
───
午前6時55分。
カチャリ。
玄関の鍵が開く音がした。
「……お邪魔します」
小さな声とともに、1人の少女が部屋へ入ってきた。
空銀子。
14歳。
中学2年生。
『浪速の白雪姫』の異名を持つ、女流棋界の女王。
白く透き通るような肌と整った顔立ち。
普段は感情を表に出すことが少なく、将棋界では冷たい印象を持たれることもある。
しかし、今の彼女は少しだけ不機嫌そうだった。
「……また起きてない」
リビングを見渡す。
カーテンは閉まったまま。
テーブルには昨夜使ったらしいマグカップが置かれ、キッチンには洗って乾かした食器が並んでいる。
銀子は小さくため息をついた。
「……ほんと、朝だけは駄目なんだから」
角晴のマンションには、銀子が自由に出入りできるよう合鍵が渡されていた。
幼い頃から一緒に育ってきた2人にとって、それは特別なことではない。
角晴が中学2年生で一人暮らしを始めたときも、朝が苦手なことを心配した銀子が起こしに来るようになった。
それが今では、学校がある日の習慣になっている。
銀子は鞄をソファへ置くと、寝室へ向かった。
コンコン。
「角晴」
返事はない。
「……起きて」
やはり返事はない。
銀子は扉を開けた。
そして、予想通りの光景を目にする。
ベッドの上で、角晴が布団にくるまっていた。
「…………」
銀子の眉が僅かに動く。
「……角晴」
「…………」
「起きて」
「……ん……」
反応があった。
しかし、起きる気配はない。
銀子はベッドへ近付いた。
「もう7時になる」
「……あと……」
「駄目」
「……5分……」
「昨日も同じこと言ってた」
銀子は容赦なく布団を引っ張った。
すると、角晴の顔が現れた。
濃紺の髪は寝癖で少し跳ね、普段の整った顔立ちも眠気で完全に緩んでいる。
「……寒い……」
「寒くない」
「……銀子……?」
「そう。銀子」
「……おはよ……」
「おはよう。起きて」
角晴は薄く目を開けた。
しかし、すぐに閉じる。
「……もうちょっと……」
「……駄目だってば」
銀子が肩を揺らす。
そのときだった。
角晴の手が、ゆっくりと伸びてきた。
「……ん?」
銀子が反応するより早く、角晴は彼女の手首を掴んだ。
「……っ!?」
そして。
ぐいっ。
「ちょっ……!」
突然引っ張られ、銀子の身体がベッドへ倒れ込んだ。
そのまま、角晴の腕が彼女の背中へ回る。
「……あったかい……」
「…………っ!!」
銀子の顔が、一瞬で真っ赤になった。
角晴は、完全に寝ぼけている。
抱き枕でも抱えているつもりなのか、銀子を引き寄せたまま再び眠ろうとしていた。
「……角晴!」
「……んー……」
「離して!」
「……あと……5分……」
「だから駄目だって……!」
銀子は身じろぎした。
しかし、角晴の腕は意外としっかり回されている。
無理に振りほどこうと思えばできる。
できるのだが。
「…………」
銀子の抵抗が、少しだけ弱まった。
目の前には、角晴の寝顔。
普段は学校でも将棋界でも注目される少年が、今は無防備な表情で眠っている。
自分だけが知っている、昔から変わらない姿。
「……ほんと、馬鹿」
銀子は小さく呟いた。
心臓がうるさい。
頬も熱い。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
むしろ。
(……こういうところが、ずるいのよ)
角晴は何も考えていない。
それなのに、自分ばかり意識してしまう。
数秒後。
銀子は深く息を吐いた。
「……角晴」
「……ん……」
「……学校、遅刻するよ」
「…………」
「……角晴?」
「…………がっこう?」
角晴の眉が僅かに動いた。
そして。
「…………あ」
ぱちり。
目が開いた。
「……え?」
角晴は、自分の腕の中にいる銀子を見た。
銀子も、真っ赤な顔で角晴を睨んでいた。
「…………」
数秒の沈黙。
「……銀子?」
「……そうだけど」
「……何でここに?」
「……あんたが引っ張ったんでしょ!!」
「えっ!?」
銀子の声に、角晴は完全に目を覚ました。
慌てて腕を離す。
「ご、ごめん!」
「……もう!」
銀子は勢いよくベッドから起き上がった。
そして、乱れた髪を整える。
「……早く着替えて」
「う、うん!」
角晴は時計を確認した。
午前7時5分。
「……あれ、まだ結構時間あるじゃん」
「……誰のせいで早く来てると思ってるの」
「……俺のせいです」
「分かってるなら、起きて」
角晴は苦笑した。
「あはは……ごめんって」
銀子は、まだ少し赤い顔を背ける。
「……朝ご飯、ちゃんと食べてよね」
「もちろん!」
角晴は、ようやくベッドから立ち上がった。
銀子は寝室を出る。
そして扉を閉めた瞬間。
「…………はぁ」
壁に背中を預けた。
(……もう、本当に……)
胸元を押さえる。
まだ心臓が速く動いていた。
(……何回やれば気が済むのよ)
そんな文句を心の中で呟きながらも。
銀子の口元には、小さな笑みが浮かんでいた。
───
午前7時35分。
リビング。
「いただきます!」
角晴は、テーブルに用意した朝食へ手を伸ばした。
今日はトーストと目玉焼き、サラダにヨーグルト。
昨夜のうちに下ごしらえしていたため、準備にはほとんど時間がかかっていない。
料理は得意でも、朝起きることは苦手。
そんな角晴にとって、前日の準備は欠かせなかった。
「……ちゃんと食べてるみたいね」
銀子が言う。
「そりゃ食べるよ。朝ご飯抜いたらお腹空くし」
「……起きなきゃ食べられないけどね」
「それは言わないでよ!」
角晴は苦笑した。
銀子は向かい側の椅子に座り、持ってきた参考書を開いていた。
既に自宅で朝食を済ませているため、ここでは角晴の準備を待っているだけだ。
「そういえばさ、銀子」
「……何?」
「昨日、天衣のところ行ってきたんだけど」
銀子の指が止まった。
「……夜叉神天衣?」
「うん!」
角晴は笑った。
「実はさ、俺、正式に弟子を取ったんだ!」
「…………」
銀子は顔を上げた。
「……は?」
「天衣が、俺の弟子になったんだよね」
「…………」
銀子は、しばらく何も言わなかった。
角晴は気付かず、楽しそうに話し続ける。
「月光会長にも相談して、天衣のお祖父さんにも許可もらってさ」
「……そう」
「いやー、俺も弟子を取るなんて思ってなかったから、ちょっと不思議な感じ!」
「…………」
「でも、天衣って将棋がすごく好きなんだよ。負けず嫌いで、教えたこともちゃんと吸収するし」
角晴は、嬉しそうに笑う。
「これからどこまで強くなるのか楽しみなんだよね!」
「……ふーん」
銀子は、参考書へ視線を戻した。
しかし、文字が頭に入ってこない。
(……弟子)
角晴に弟子ができた。
それも、9歳の女の子。
別に、女の子だからどうこうという話ではない。
天衣のことは、以前から聞いていた。
角晴が才能を認め、何度も神戸まで指導に通っていたことも知っている。
だから、いつか正式な弟子になる可能性は考えていた。
それでも。
(……本当になったんだ)
少しだけ、胸がざわついた。
幼い頃から、角晴とはずっと一緒だった。
清滝家で将棋を覚え、何度も指し、何度も負けた。
角晴がプロになったときも。
初めてタイトルを取ったときも。
三冠になったときも。
銀子は、いつも近くにいた。
それなのに。
角晴は今、別の少女の将棋人生を支えようとしている。
これから神戸へ通う時間も増えるだろう。
公式戦や研究に加え、弟子の指導まで始まる。
(……忙しくなるんだろうな)
銀子は、そっと角晴を見た。
目の前の少年は、いつも通り朝食を食べている。
何も変わっていないように見える。
けれど。
少しずつ、何かが変わっている気がした。
「……銀子?」
「……何」
「どうしたの? さっきから静かだけど」
「……別に」
銀子は素っ気なく答えた。
そして。
「……その子のこと、随分気に入ってるのね」
角晴は、少しだけ目を丸くした。
「天衣?」
「……他に誰がいるの」
「あはは、そっか」
角晴は笑った。
「うん! すごく気に入ってるよ」
「…………」
銀子の胸が、ちくりと痛んだ。
しかし、角晴は続ける。
「だって、あの子の将棋って面白いんだよね。俺とは考え方が全然違うし!」
「……そう」
「それに、俺が教えたことを使って勝ってくれると嬉しいんだ」
角晴は、少し照れたように笑った。
「師匠って、こんな気持ちなんだなって思ったよ」
その言葉に、銀子は少しだけ目を見開いた。
(……師匠)
そうだ。
角晴は、天衣の師匠になった。
将棋を教える立場として、彼女の成長を喜んでいる。
それは分かっている。
分かっているのに。
(……何で、こんなに……)
銀子は、小さく息を吐いた。
「……ちゃんと面倒見なさいよ」
角晴が顔を上げる。
「ん?」
「……弟子を取ったんでしょ。中途半端なことしたら駄目だから」
角晴は、少しだけ真剣な表情になった。
そして。
「もちろん!」
力強く頷いた。
「天衣のこと、ちゃんと強くしてあげたいと思ってるよ」
銀子は、そんな角晴を見つめた。
そして、少しだけ口元を緩めた。
「……なら、いい」
角晴は笑った。
「ありがと、銀子!」
「……別に」
銀子は再び参考書へ視線を落とした。
けれど、胸の中のざわつきが完全に消えることはなかった。
───
午前8時10分。
通学路。
角晴と銀子は、並んで学校へ向かっていた。
朝の風はまだ少し冷たい。
けれど、日差しには春らしい暖かさがあった。
「いやー、今日はちゃんと間に合いそう!」
角晴が笑う。
「……私が起こさなかったら遅刻してたでしょ」
「それはそう!」
「……自信満々に言わないで」
銀子は呆れたようにため息をついた。
角晴は、楽しそうに笑う。
「でも、銀子が来てくれるから安心して寝られるんだよね」
「……それ、褒めてないから」
「えー?」
「……自分でも起きられるようになりなさい」
「頑張りまーす」
「……絶対思ってない」
2人は、いつものように言い合いながら歩いていく。
その姿は、周囲の生徒たちにもよく知られていた。
「あ、猿飛先輩だ」
「隣、空先輩じゃない?」
「今日も一緒なんだ……」
そんな小さな声が、時折聞こえてくる。
角晴は中学3年生。
銀子は中学2年生。
2人とも、学校では有名な存在だった。
角晴は15歳にして三冠を保持する天才棋士。
容姿も整っており、普段は誰にでも明るく接する。
成績もよく、運動も得意。
そんな少年が注目されないはずがない。
一方の銀子も、14歳にして女王のタイトルを持つ少女だ。
『浪速の白雪姫』という異名に相応しい容姿と、どこか近寄りがたい雰囲気。
男子だけでなく、女子からも憧れられていた。
そして、そんな2人が毎朝一緒に登校している。
当然、噂にならないわけがなかった。
「……あの2人って、付き合ってるのかな?」
「でも、幼馴染なんでしょ?」
「それにしても距離近いよね……」
そんな声が聞こえてきても、角晴はまったく気にしない。
銀子は聞こえていないふりをしていたが、耳が少しだけ赤くなっていた。
「……銀子?」
「……何」
「顔赤くない? 暑い?」
「……別に!」
「そっか?」
角晴は首を傾げた。
銀子は、少しだけ歩く速度を上げる。
「……早く行くよ」
「えっ、ちょっと待って!」
角晴は慌てて追いかけた。
───
午前8時10分。
中学校。
「じゃあ、また後でね!」
昇降口で、角晴が銀子へ手を振った。
「……うん」
銀子も小さく頷く。
「授業中、寝ないでよ」
「寝ないって!」
「……昨日も言ってた」
「あはは……」
角晴が苦笑する。
銀子は、少しだけ笑った。
「……じゃあね」
「うん!」
2人は、それぞれの教室へ向かった。
───
中学3年生の教室。
「おっ、角晴!」
教室へ入った瞬間、男子生徒が声をかけてきた。
「おはよ、翔太!」
角晴も笑顔で返す。
相手は、佐伯翔太。
角晴と同じクラスの男子生徒で、小学生の頃からの友人だった。
明るく、人懐っこい性格。
運動部に所属しており、角晴とはよくくだらないことで笑い合っている。
「お前、今日も銀子ちゃんと登校?」
「うん。朝起こしてもらった!」
「……お前さぁ」
翔太は、呆れたように頭を抱えた。
「何?」
「いや、もういいわ」
「えー、何それ!」
すると、隣から別の男子生徒が口を開いた。
「翔太、角晴に言っても無駄だよ」
「……だよな」
眼鏡をかけた落ち着いた雰囲気の少年。
高瀬悠人。
角晴とは中学に入ってから親しくなった友人で、成績優秀な常識人だった。
「おはよう、悠人!」
「おはよう。今日も無事に起きられたんだね」
「銀子のおかげでね!」
「……堂々と言うことじゃないと思うけど」
悠人が苦笑する。
そこへ、2人の女子生徒がやってきた。
「おはよー!」
元気よく声をかけたのは、藤沢美咲。
明るく社交的な性格で、クラスでも中心的な存在だ。
その隣には、柔らかな雰囲気の少女がいた。
桜井結衣。
少し控えめな性格だが、親しい友人の前ではよく笑う。
「おはよう、美咲! 結衣も!」
角晴が笑顔で挨拶する。
「お、おはよう、角晴くん」
結衣は、少しだけ頬を赤くした。
しかし、角晴は気付かない。
「そういえばさ、昨日の宿題って何ページまでだったっけ?」
「……あんた、また忘れたの?」
美咲が呆れたように言う。
「いや、やったんだけど確認したくて!」
「本当に?」
「本当だって!」
翔太が笑った。
「お前、将棋の研究なら何時間でもやるのに、宿題は忘れるよな!」
「忘れてないから!」
角晴が反論する。
そんなやり取りに、教室の空気が少し明るくなった。
角晴が三冠棋士であることは、誰もが知っている。
しかし、この4人にとっては関係なかった。
角晴は角晴。
昔からの友人であり、同じ教室で学ぶ中学生だ。
だからこそ、遠慮なく冗談を言い合える。
角晴にとっても、それは居心地のいい関係だった。
───
昼休み。
給食を食べ終えた教室では、生徒たちが思い思いに過ごしていた。
角晴は翔太たちと机を囲み、雑談をしていた。
「そういえば角晴」
美咲が口を開く。
「ん?」
「この前、ニュースで見たんだけどさ」
「ニュース?」
「弟子を取ったって、本当?」
角晴は、少し驚いた。
「えっ、もう知ってるの?」
「ネットでちょっと話題になってたよ」
翔太がスマートフォンの画面を見せる。
そこには、角晴が夜叉神天衣を正式な弟子に迎えたという将棋関連の記事が表示されていた。
「うわ、本当だ!」
角晴は、少し笑った。
「うん! この前、正式に弟子になったんだよ」
「すげーな!」
翔太が目を丸くする。
「15歳で弟子持ちって、どういうことだよ!」
「ははっ! 俺も不思議な感じ!」
悠人が興味深そうに尋ねた。
「弟子って、何歳なの?」
「9歳だよ」
「小学生!?」
美咲が驚いた。
「えっ、角晴が小学生に将棋教えてるの!?」
「うん! すごく才能のある子なんだよ」
角晴は嬉しそうに答えた。
「負けず嫌いでさ、何回負けても挑戦してくるんだ」
「へぇ……」
結衣も興味深そうに聞いていた。
「……角晴くん、楽しそうだね」
「うん! 教えるのって結構楽しいんだよね」
「……そっか」
結衣は、少しだけ笑った。
美咲は、そんな結衣をちらりと見た。
そして、意味ありげに口元を緩める。
「……ねえ、結衣」
「……何?」
「別にー?」
「……美咲?」
結衣は、小さく眉を寄せた。
しかし、角晴はまったく気付いていない。
「そういえばさ、翔太!」
「ん?」
「今度の体育、何やるんだっけ?」
「バスケ!」
「おっ、いいじゃん!」
話題は、あっという間に別の方向へ移っていった。
結衣は、そんな角晴を見つめながら小さく笑った。
(……本当に、いつも通りだなぁ)
全国的に有名な三冠棋士。
学校中の女子から注目される存在。
それでも、角晴は誰に対しても変わらない。
優しくて、明るくて。
そして、少しだけ鈍感。
(……そういうところが、好きなんだけど)
結衣は、その気持ちを胸の中にしまった。
───
放課後。
校門前。
「角晴!」
聞き慣れた声に、角晴が振り返った。
そこには銀子が立っていた。
「おっ、銀子!」
角晴は笑顔で手を振った。
「待っててくれたの?」
「……別に。ちょうど終わっただけ」
「そっか!」
角晴は笑う。
その後ろから、翔太たちが歩いてきた。
「あ、銀子ちゃんじゃん!」
翔太が声をかける。
「……こんにちは」
銀子は小さく頭を下げた。
「相変わらず美人だなぁ」
翔太が何気なく呟く。
すると、角晴が笑った。
「でしょ? 銀子って昔から可愛いんだよ!」
「…………っ!」
銀子の顔が、一瞬で赤くなった。
「……な、何言ってるのよ!」
「え?」
角晴は首を傾げた。
「いや、本当のことじゃん」
「……っ!」
銀子は、思わず顔を背けた。
翔太は、そんな2人を見て苦笑する。
「……お前、ほんとすげーよな」
「何が?」
「……いや、何でもない」
悠人も小さくため息をついた。
美咲は、楽しそうに笑っていた。
一方。
結衣は、角晴と銀子を見比べていた。
(……やっぱり、仲いいなぁ)
角晴の隣に立つ銀子。
2人の距離は、自然と近い。
長年一緒に過ごしてきたからこその、遠慮のない関係。
結衣には、少しだけ羨ましく思えた。
「じゃあ、俺たち先帰るわ!」
翔太が手を振る。
「また明日!」
角晴も笑顔で返した。
「うん! またね!」
美咲と結衣も手を振り、友人たちは帰っていった。
残された角晴と銀子は、並んで歩き始めた。
「……角晴」
「ん?」
「……さっきの」
「さっき?」
「……可愛いとか、そういうの」
角晴は、少し考えた。
「ああ、銀子のこと?」
「……そう」
「本当のことじゃん」
「…………」
銀子は、少しだけ俯いた。
角晴は笑った。
「昔から可愛いと思ってるよ」
「……っ!」
銀子は、思わず足を止めた。
角晴も振り返る。
「……銀子?」
「……何でもない!」
「えっ?」
銀子は、少しだけ歩く速度を上げた。
角晴は、慌てて追いかける。
「ちょっと、待ってって!」
銀子は、顔を背けたまま小さく呟いた。
「……ほんと、馬鹿」
しかし。
その口元には、僅かな笑みが浮かんでいた。
───
数日後。
関西将棋会館。
午前9時。
この日、角晴には公式戦が予定されていた。
竜王戦の予選。
勝ち進めば、竜王への挑戦につながる重要な棋戦だ。
現在の竜王は、角晴の弟弟子である九頭竜八一。
普段は兄弟弟子として仲がいい2人だが、盤を挟めば話は別だった。
角晴は、いつか八一とタイトル戦で戦うことを楽しみにしている。
そのためにも、今日の対局は落とせない。
「おはようございます!」
角晴が対局室へ入ると、対局相手の棋士が顔を上げた。
「おはようございます、猿飛三冠」
相手は、三枝宗一郎七段。
30代半ばの実力派棋士であり、堅実な序盤と鋭い終盤力を持つことで知られていた。
「今日はよろしくお願いします!」
角晴が頭を下げる。
「こちらこそ。よろしくお願いします」
三枝も丁寧に頭を下げた。
対局室には、既に記録係が待機していた。
角晴は座布団に腰を下ろし、静かに駒を並べ始める。
普段は明るく、人懐っこい少年。
しかし、将棋盤の前に座ると、その空気は少しずつ変わっていく。
「……よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
対局開始。
角晴の公式戦が、始まった。
───
先手、猿飛角晴。
後手、三枝宗一郎。
「7六歩」
パチンッ。
角晴が角道を開ける。
「8四歩」
三枝が飛車先の歩を進めた。
「2六歩」
「8五歩」
「7七角」
「3四歩」
「8八銀」
「7七角成」
三枝の角が、角晴の角を取った。
「同銀」
角晴は銀で取り返す。
「2二銀」
角換わり。
互いの角を持ち駒にし、相手の陣形へ打ち込む機会を探りながら戦う戦型だ。
角晴は、盤面を見つめながら静かに考えていた。
(……角換わりか)
以前から研究を重ねている戦型の1つ。
しかし、相手も当然研究している。
プロ同士の対局では、少しの知識の差が大きな形勢の差につながることもある。
「……2五歩」
角晴は、飛車先の歩を進めた。
「3三銀」
三枝が銀を上げる。
「4八銀」
角晴も右銀を活用する準備を進める。
互いに、落ち着いた駒組みが続いた。
───
序盤。
三枝は、慎重に陣形を整えていた。
相手は猿飛角晴。
15歳にして三冠を持つ天才棋士。
しかし、若いからといって侮ることはできない。
むしろ、若さに似合わないほど多彩な戦型を指しこなす、非常に厄介な相手だった。
(……さて)
三枝は、角晴の指し手を観察する。
角晴は、角換わりの定跡に沿いながらも、僅かに工夫を加えていた。
銀の進出を急がず、玉の位置を整える。
相手の仕掛けを警戒しながら、自分の攻め筋も残している。
(……やはり、隙がない)
三枝は、静かに駒を進めた。
一方の角晴も、相手の狙いを読んでいた。
(……三枝さん、今日はかなり慎重だな)
角晴は、少しだけ笑う。
(……まあ、そうだよね)
角換わりは、一手の違いで形勢が大きく変わることも多い。
互いに研究を重ねていれば、簡単には仕掛けられない。
しかし。
(……このままじゃ、ちょっとつまらないな)
角晴は、盤面を見つめた。
そして、少しだけ考える。
(……だったら)
一手。
角晴は、銀を前進させた。
パチンッ。
三枝の眉が、僅かに動いた。
(……ほう)
その一手は、相手の仕掛けを誘うような指し手だった。
銀の位置を変えることで、角晴の陣形には僅かな隙が生まれる。
しかし、その隙を突こうとすれば、別の場所に反撃の余地ができる。
(……なるほど)
三枝は、静かに考えた。
(……誘っているのか)
角晴は、落ち着いた表情で盤面を見つめていた。
三枝は、少しだけ口元を緩めた。
(……面白い)
そして。
攻めの一手を選んだ。
───
中盤。
三枝が仕掛けたことで、盤上の空気が一変した。
歩がぶつかり、銀が前進する。
角晴も、それに応じて駒を動かした。
互いに譲らない攻防。
しかし、三枝の攻めは予想以上に鋭かった。
角晴が用意していた反撃筋を、先回りして封じてくる。
(……へぇ)
角晴の目が、僅かに細くなった。
(……その手は考えてなかった)
三枝の一手。
それは、角晴の研究から僅かに外れた指し手だった。
普通なら、少し焦る場面。
しかし。
「……ははっ」
角晴は、小さく笑った。
その声に、三枝が顔を上げる。
(……来たか)
三枝は、角晴の笑みを見て僅かに息を吐いた。
猿飛角晴が対局中に笑い始める。
それは、将棋界ではよく知られた光景だった。
苦しい局面。
難解な変化。
予想外の好手。
そうした場面に直面すると、角晴はむしろ楽しそうになる。
そして、追い詰められるほど笑みが深くなる。
(……ここからが厄介なんだよな)
三枝は、静かに考えた。
角晴が笑っているということは、目の前の将棋を楽しんでいるということ。
しかし、それは決して余裕があるという意味ではない。
むしろ、本当に難しい局面へ入った証拠でもある。
(……だが)
三枝は駒を手に取った。
(……こちらも簡単には負けられない)
パチンッ。
鋭い一手。
その瞬間。
角晴の笑みが、さらに深くなった。
「……いいですね」
小さな声が漏れる。
「……すごく、いい」
三枝は、静かに盤面を見つめた。
(……やはり、そう来るか)
角晴の反応は予想通りだった。
しかし、だからといって簡単に勝てるわけではない。
むしろ。
ここからが、本当の勝負だった。
───
別室。
将棋会館の控室では、複数の棋士が角晴と三枝の対局を検討していた。
「……三枝七段、いい将棋してるな」
「猿飛三冠も、少し苦しいんじゃないか?」
「角換わりでここまで踏み込むとはな」
棋士たちは、盤面を見つめながら意見を交わしていた。
そのうちの1人が、ふと笑った。
「……そろそろ猿飛三冠、笑ってる頃じゃないか?」
「ははは。あり得るな」
別の棋士が頷く。
「三枝七段も分かってるだろうけど、あの笑顔は怖いからな」
「笑われるのが怖いって、普通は逆なんだがな」
「……いや、あいつの場合は違うだろ」
棋士の1人が、静かに言った。
「本当に怖いのは、笑わなくなったときだよ」
その言葉に、周囲が頷いた。
角晴は、強い相手との難しい将棋を心から楽しむ。
しかし、相手が大きな悪手を指した瞬間、その笑顔が消えることがある。
それは、勝負の楽しさが失われたとき。
相手が期待していた水準の手を指さなかったとき。
本人に悪気はない。
けれど、相手にとっては、笑われるよりも屈辱的な反応になり得る。
「……まあ、三枝七段なら簡単には崩れないだろう」
「そうだな」
棋士たちは、再び盤面へ視線を戻した。
───
対局室。
角晴は、長考に入っていた。
三枝の攻めは鋭い。
角晴の陣形は、少しずつ圧迫されていた。
(……受けるだけじゃ、厳しいな)
角晴は、頭の中で手順を進めた。
銀を引く。
角を打つ。
飛車を動かす。
いくつもの変化が浮かんでは消える。
(……こっちは駄目)
別の手を読む。
(……これも、三枝さんがいい)
角晴は、静かに息を吐いた。
しかし、笑みは消えない。
(……やっぱり、強いなぁ)
三枝の将棋は、堅実だった。
派手な手は少ない。
けれど、一手一手が正確で、相手に簡単な反撃を許さない。
(……こういう人、好きなんだよね)
角晴は、楽しそうに笑った。
そして。
(……よし)
ある一手を見つけた。
自玉の守りを少し薄くする代わりに、相手の攻め駒へ圧力をかける。
決して安全な手ではない。
しかし、成功すれば形勢を立て直せる可能性がある。
角晴は、駒を手に取った。
パチンッ。
銀を打ち込む。
三枝の表情が、僅かに変わった。
(……なるほど)
その一手は、三枝に選択を迫るものだった。
攻めを続けるか。
一度受けるか。
どちらも簡単ではない。
(……面白い)
三枝は、小さく息を吐いた。
そして、静かに考え始めた。
───
対局開始から、既に数時間。
盤上は、激しい攻防の末に終盤へ入りつつあった。
角晴の玉は、決して安全ではない。
三枝の玉も、徐々に危険な位置へ追い込まれている。
互いに一手の間違いが致命傷になる局面。
角晴は、楽しそうだった。
(……最高だな)
自分の読み。
相手の読み。
その両方がぶつかり合い、盤面が少しずつ変化していく。
(……こういう将棋が、一番好きだ)
三枝が駒を進める。
パチンッ。
角晴の笑みが、さらに深くなる。
「……なるほど」
小さく呟く。
(……その手か)
三枝の攻めは、最後まで鋭かった。
こちらの受けを外しながら、玉へ迫ってくる。
しかし、角晴も簡単には崩れない。
一手。
また一手。
互いの駒が、盤上を行き交う。
そして。
角晴は、静かに駒を手に取った。
(……ここだ)
パチンッ。
鋭い一手。
三枝が、僅かに目を見開いた。
(……っ!)
その手は、三枝が読みから外していた一手だった。
角晴は、攻め駒をあえて犠牲にすることで、別の場所に新たな攻め筋を作っていた。
一見すると駒損。
しかし、その先には三枝の玉へ迫る厳しい手順が隠されている。
(……なるほど)
三枝は、静かに息を吐いた。
(……これが、帝王か)
角晴は、楽しそうに笑っていた。
その笑みは、先ほどまでよりも深い。
しかし、三枝は怯まなかった。
(……まだだ)
まだ、勝負は終わっていない。
三枝は、次の一手を指した。
───
最終盤。
盤上には、互いの攻め駒が入り乱れていた。
三枝の玉には、角晴の攻めが迫る。
しかし、角晴の玉も決して安全ではない。
三枝は、最後の反撃を試みた。
パチンッ。
角晴は、盤面を見つめる。
(……なるほど)
その一手で、自玉の逃げ道が少し狭くなった。
しかし。
(……こっちが先に届く)
角晴は、静かに駒を進めた。
パチンッ。
三枝は、しばらく盤面を見つめていた。
何度も、何度も読みを進める。
しかし。
(……駄目か)
受けても、次の攻めがある。
逃げても、追撃が続く。
角晴の攻めは、既に止まらない形になっていた。
三枝は、ゆっくりと息を吐いた。
そして。
「……負けました」
その言葉が、対局室に響いた。
角晴は、静かに頭を下げた。
「ありがとうございました」
三枝も頭を下げる。
「ありがとうございました」
竜王戦予選。
勝者、猿飛角晴。
───
「……ふぅ」
角晴は、ゆっくりと息を吐いた。
そして、先ほどまでの深い笑みが消え、いつもの明るい表情に戻った。
「いやー、すごく難しい将棋でした!」
三枝が小さく笑う。
「こちらも、かなり勝ちに近付いたと思っていたんですがね」
「本当ですよ! 途中、かなり苦しかったです!」
角晴は笑った。
「特に中盤の銀の使い方、すごかったです!」
「ありがとうございます」
三枝は、少しだけ苦笑した。
「しかし、最後の勝負手には参りました」
「ははっ! あれ、結構怖かったんですよ」
「……そうは見えませんでしたが」
角晴は、一瞬きょとんとした。
そして。
「あはは! そうですか?」
三枝も笑った。
「ええ。随分と楽しそうでしたから」
「……まあ、楽しかったですし!」
角晴は、あっさり答えた。
その言葉に、三枝は小さく笑った。
「……本当に、噂通りですね」
そして、盤面へ視線を戻す。
「では、感想戦を始めましょうか」
「はい!」
角晴は、嬉しそうに頷いた。
───
同日の夕方。
大阪。
清滝家。
「ただいまー!」
角晴が玄関から声をかけると、奥から桂香が顔を出した。
「角晴、おかえり!」
「ただいま、桂香姉さん!」
角晴は笑顔で靴を脱いだ。
「今日、公式戦だったんでしょ?」
「うん!」
「どうだった?」
角晴は、少しだけ得意げに笑った。
「勝ったよ!」
「本当!? おめでとう!」
桂香が嬉しそうに笑う。
「ありがとう!」
角晴は、いつものように居間へ向かった。
そこには、清滝鋼介と銀子の姿があった。
「おお、角晴!」
「おじさん、ただいま!」
「今日も勝ったらしいな!」
「うん!」
清滝は豪快に笑った。
「ようやった!」
「ありがとう!」
その隣で、銀子が小さく口を開いた。
「……おめでとう」
角晴が顔を向ける。
「ありがと、銀子!」
「……三枝七段、結構強かったでしょ」
「うん! すごくいい将棋だったよ!」
角晴は、嬉しそうに話し始めた。
「中盤でさ、俺が全然考えてなかった手が出てきて!」
銀子は、静かに聞いていた。
角晴が将棋の話をするときの表情。
楽しそうに目を輝かせる姿。
それは、幼い頃から何も変わっていない。
(……ほんと、将棋が好きなんだから)
銀子は、小さく笑った。
しかし。
その横で、桂香は少しだけ複雑な表情を浮かべていた。
───
夕食後。
清滝家のキッチン。
角晴は、桂香と一緒に食器を片付けていた。
「今日はありがとう、桂香姉さん!」
「いいのよ。角晴も手伝ってくれてるし」
桂香は笑った。
角晴は、皿を洗いながらふと尋ねた。
「……そういえば、桂香姉さん」
「ん?」
「最近、将棋どう?」
桂香の手が、一瞬止まった。
「……え?」
「研修会」
角晴は、少しだけ真剣な表情になった。
「最近、あんまり調子よくないのかなって」
桂香は、しばらく黙っていた。
そして、小さく笑った。
「……ばれちゃった?」
角晴は、少しだけ苦笑した。
「まあ、昔から一緒にいるしね」
「……そっか」
桂香は、静かに息を吐いた。
「……最近ね、思うように勝てないの」
「……うん」
「頑張ってるつもりなんだけど、なかなか結果が出なくて」
桂香は、少しだけ俯いた。
「……みんな、どんどん強くなっていくのにね」
角晴は、黙って聞いていた。
「角晴も、銀子ちゃんも……」
桂香は続ける。
「八一くんだって、あんなに強くなった」
「…………」
「それに、あいちゃんまで……」
桂香は、少しだけ笑った。
「……私だけ、置いていかれてる気がするの」
角晴は、何も言わなかった。
桂香が、どれだけ努力してきたか知っている。
夜遅くまで将棋盤に向かい、何度も負けては立ち上がってきた。
その姿を、幼い頃から見てきた。
だからこそ。
簡単に「大丈夫」とは言えなかった。
勝負の世界では、努力が必ず報われるとは限らない。
どれだけ頑張っても、届かないことがある。
それを、角晴自身も知っている。
「……桂香姉さん」
角晴が口を開いた。
「……何?」
「俺、桂香姉さんがどれだけ頑張ってきたか知ってるよ」
桂香は、少しだけ目を見開いた。
「……角晴」
「小さい頃からずっと見てきたし」
角晴は、少しだけ笑った。
「だから、まだ諦めてほしくないな」
「…………」
「もちろん、簡単なことじゃないのは分かってる」
角晴は続ける。
「でも、桂香姉さんが本気で目指してるなら、俺も応援したい」
桂香は、しばらく何も言わなかった。
そして。
「……ありがとう」
小さく呟いた。
角晴は、笑った。
「うん!」
桂香も、少しだけ笑みを浮かべた。
しかし。
その胸の奥には、まだ消えない不安が残っていた。
───
数日後。
関西将棋会館。
研修会の対局予定が掲示されていた。
桂香は、その前で足を止めた。
「…………」
視線を動かす。
次回の対局相手。
そこに書かれていた名前を見た瞬間、桂香の表情が変わった。
『雛鶴あい』
「…………」
桂香は、しばらくその名前を見つめていた。
まだ9歳の少女。
八一の弟子。
清滝家にもよく来る、明るくて素直な女の子。
しかし。
盤を挟めば、そんなことは関係ない。
自分も。
あいも。
勝つために将棋を指す。
(……あいちゃん)
桂香は、静かに息を吐いた。
(……負けられない)
その気持ちは、決して小さくなかった。
研修会で思うように勝てない日々。
迫り来る降級の不安。
そして、若い才能への焦り。
すべてを抱えたまま。
桂香は、次の対局へ向かおうとしていた。
───
猿飛角晴。
15歳。
中学3年生。
三冠棋士。
そして、夜叉神天衣の師匠。
学校では、友人たちと笑い合う普通の少年。
将棋盤の前では、難解な局面ほど楽しそうに笑う勝負師。
その隣には、幼い頃からずっと一緒にいる少女がいる。
空銀子。
14歳。
女王。
そして、角晴へ想いを寄せる幼馴染。
変わらないように見える日常。
しかし、その中では少しずつ新しい関係が生まれ、誰かの心が動いていた。
弟子を迎えた角晴。
その変化を複雑な気持ちで見つめる銀子。
将棋の壁にぶつかる桂香。
そして、新しいライバルと出会った2人のあい。
それぞれの想いを抱えながら。
物語は、次の局面へ進んでいく。