帝王のおしごと!   作:コバハト

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第1話 竜王の犯行現場

3月。

 

春休みの大阪。

 

11時が過ぎた頃。

 

大阪市内のマンションの一室で、1人の少年が鏡の前に立っていた。

 

「……うん、こんな感じかな!」

 

猿飛角晴。

 

15歳。

 

帝位、叡王、棋帝の3つのタイトルを保持する、将棋界の若き三冠棋士である。

 

しかし、現在の彼は将棋盤ではなく、鏡に映った自分の姿を眺めていた。

 

白いシャツに黒のスラックス。

 

その上から、少し大きめの薄手のカーディガンを羽織っている。

 

髪も整え、外出の準備は万端だった。

 

「財布……スマホ……鍵……」

 

ポケットを順番に確認する。

 

「よし!」

 

時計を見る。

 

午前11時26分。

 

昨日、銀子に言った時刻まであと4分。

 

「……ふふっ」

 

角晴は満足そうに笑った。

 

「今日はちゃんと起きられた!」

 

普段から朝が苦手な彼にとって、これはちょっとした快挙だった。

 

もっとも、今日は目覚ましを3つも設定していたのだが。

 

それでも、寝坊しなかったことに変わりはない。

 

角晴はソファへ腰を下ろし、スマートフォンを手に取った。

 

『銀子、準備できたよ!』

 

メッセージを送る。

 

返事が来るまでの間、昨日見つけた和カフェのメニューを眺めていた。

 

濃厚抹茶パフェ。

 

抹茶ティラミス。

 

抹茶わらび餅。

 

ほうじ茶アイス。

 

「……全部美味しそうだなぁ」

 

小さく呟く。

 

そのとき。

 

ピロンッ。

 

『今向かってる』

 

銀子からの返信だった。

 

「おっ!」

 

角晴はすぐに返事を打ち込む。

 

『了解! 気をつけてね!』

 

送信すると、再びメニューに目を戻した。

 

(……パフェもいいけど、ティラミスも気になるんだよね)

 

真剣な表情で画面を見つめる。

 

まるで、難解な終盤の局面を読んでいるかのようだった。

 

───

 

同じ頃。

 

マンションへ向かう道を、1人の少女が歩いていた。

 

空銀子。

 

14歳。

 

女流将棋界で活躍する『浪速の白雪姫』。

 

そして、角晴の妹弟子でもある少女だった。

 

今日の銀子は、白いブラウスに淡い水色のカーディガン。

 

膝丈のスカートを合わせ、髪には小さな飾りをつけていた。

 

普段より、ほんの少しだけおしゃれをしている。

 

もっとも、それを本人が認めるかどうかは別の話だが。

 

(……別に)

 

銀子は歩きながら考える。

 

(……ただ、甘いものを食べに行くだけだし)

 

それだけ。

 

角晴と2人で出かけることだって、初めてではない。

 

昔から一緒に買い物へ行くこともあれば、食事をすることもあった。

 

だから、何も特別なことではない。

 

……はずだった。

 

「…………」

 

銀子は、そっと自分の服装を見下ろした。

 

(……変じゃない、よね)

 

今朝。

 

服を選ぶのに、いつもより時間がかかった。

 

何を着ていけばいいのか分からず、何度も鏡の前に立った。

 

結局、普段とあまり変わらない服装になってしまったが。

 

それでも、少しだけ気合いが入っていることは、自分でも分かっていた。

 

(……角晴、気付くかな)

 

一瞬、そんなことを考える。

 

しかし、すぐに首を横へ振った。

 

(……気付くわけないか)

 

相手は、あの角晴である。

 

盤上では恐ろしいほど鋭い読みを見せるくせに、日常では驚くほど鈍感な少年。

 

まして、女の子の服装の変化など。

 

(……期待するだけ無駄)

 

銀子は小さく息を吐いた。

 

けれど。

 

今日が楽しみであることだけは、否定できなかった。

 

───

 

ピンポーン。

 

「はーい!」

 

インターホンが鳴った瞬間、角晴はソファから立ち上がった。

 

玄関へ向かい、扉を開ける。

 

「銀子! いらっしゃい!」

 

「……こんにちは」

 

「待ってたよ!」

 

「……そう」

 

銀子は小さく頷いた。

 

そして、角晴を見上げる。

 

「……ちゃんと起きてたのね」

 

「もちろん!」

 

角晴は得意げに胸を張った。

 

「今日は11時には起きたからね!」

 

「……遅い」

 

「ええっ!? 休みの日だよ!?」

 

「……約束がある日でしょ」

 

「あはは! それはそうだけど!」

 

角晴は楽しそうに笑った。

 

銀子は呆れたようにため息をつく。

 

しかし、その目元はどこか柔らかかった。

 

「……じゃあ、行く?」

 

「うん!」

 

角晴は靴を履き、玄関の鍵を閉める。

 

そして、銀子へ向き直った。

 

その瞬間。

 

「……あれ?」

 

銀子の肩が、ぴくりと動いた。

 

「……何?」

 

角晴は銀子の服装を眺める。

 

「今日の服、可愛いね!」

 

「…………っ!?」

 

銀子の顔が、一瞬で赤くなった。

 

「な、何……急に……!」

 

「え? いや、似合ってるなって思って!」

 

角晴は何でもないことのように笑う。

 

「その水色、銀子に合ってるよね!」

 

「…………」

 

銀子は顔を逸らした。

 

(……気付いた……)

 

予想外だった。

 

まさか、あの角晴が。

 

「……ありがと」

 

小さな声で答える。

 

「ん?」

 

「……何でもない!」

 

「ええっ!?」

 

角晴は困惑したように目を瞬かせた。

 

「……何で怒ってるの?」

 

「……怒ってない」

 

「絶対怒ってるじゃん!」

 

「……うるさい」

 

そう言いながら、銀子は先に歩き始めた。

 

角晴は慌てて後を追う。

 

「ちょっと待ってよ、銀子!」

 

その声を背中で聞きながら。

 

銀子は、誰にも見えないように微笑んでいた。

 

───

 

大阪の街は、春休みらしい賑わいを見せていた。

 

学生たちのグループ。

 

買い物を楽しむ人々。

 

観光客らしき家族連れ。

 

暖かな日差しの下、様々な人々が行き交っている。

 

角晴と銀子は、並んで歩いていた。

 

「今日、結構暖かいね!」

 

「……そうね」

 

「もうすぐ桜も咲きそう!」

 

「……うん」

 

「銀子は花見とか行く?」

 

「……あんまり」

 

「そっかぁ」

 

角晴は少し考えた。

 

「じゃあ、今度みんなで行かない?」

 

「……みんな?」

 

「八一とか、桂香姉さんとか! おじさんも誘って!」

 

「……師匠も?」

 

「うん!」

 

角晴は楽しそうに頷く。

 

「お弁当とか作ってさ!」

 

銀子は角晴を横目で見た。

 

「……あんたが作るの?」

 

「もちろん! 俺、料理好きだし!」

 

「……知ってる」

 

「銀子の好きなものも入れるよ!」

 

「…………」

 

銀子は小さく目を伏せた。

 

「……そう」

 

その返事を聞いた角晴は、にっこりと笑った。

 

「じゃあ決まりだね!」

 

「……まだ行くって言ってない」

 

「ええっ!?」

 

角晴の情けない声が響く。

 

銀子は、少しだけ楽しそうに笑った。

 

───

 

目的の和カフェは、大通りから少し入った場所にあった。

 

木目を基調とした落ち着いた外観。

 

入口には小さな暖簾がかかり、店先には季節限定の甘味が写真付きで紹介されている。

 

「……おおっ!」

 

角晴の目が輝いた。

 

「銀子、見て!」

 

「……見えてる」

 

「これ! 抹茶パフェ!」

 

「……昨日も見せられた」

 

「あはは! そうだった!」

 

角晴は嬉しそうに暖簾をくぐった。

 

店内は、和風の落ち着いた雰囲気だった。

 

木製のテーブル。

 

柔らかな照明。

 

窓際には小さな観葉植物が置かれている。

 

まだ昼過ぎということもあり、店内には何組かの客がいた。

 

「いらっしゃいませ。2名様ですか?」

 

「はい!」

 

「こちらのお席へどうぞ」

 

案内されたのは、窓際の2人掛けの席だった。

 

角晴は銀子に先に座るよう促し、自分も向かいへ腰を下ろした。

 

「……いいお店だね!」

 

「……そうね」

 

銀子は店内を見回した。

 

騒がしすぎず、静かすぎない。

 

落ち着いて話ができそうな場所だった。

 

「さて!」

 

角晴がメニューを開く。

 

「何にしようかなぁ!」

 

その目は、すっかり真剣だった。

 

銀子は思わず呆れる。

 

「……昨日から決めてたんじゃないの?」

 

「うん! でも実物のメニュー見たら迷っちゃって!」

 

「……子供」

 

「銀子だって甘いもの好きでしょ?」

 

「……それとこれとは別」

 

「あはは!」

 

角晴は楽しそうに笑った。

 

その後も数分間、メニューとにらめっこを続ける。

 

抹茶パフェ。

 

抹茶ティラミス。

 

抹茶ぜんざい。

 

ほうじ茶パフェ。

 

「……うーん」

 

角晴が唸る。

 

「……決まらない」

 

「……全部食べれば?」

 

「それはさすがに多いかなぁ」

 

「……じゃあ、パフェにしなさい」

 

「やっぱり?」

 

「……それ目当てで来たんでしょ」

 

「確かに!」

 

角晴は嬉しそうに頷いた。

 

「銀子は?」

 

「……ほうじ茶パフェ」

 

「おおっ! そっちも美味しそう!」

 

「……食べたいの?」

 

「ちょっと気になる!」

 

「…………」

 

銀子はメニューを閉じた。

 

そして、少しだけ視線を逸らす。

 

「……一口くらいなら」

 

「本当!?」

 

角晴の顔が輝く。

 

「ありがと、銀子!」

 

「……別に」

 

銀子は小さく答えた。

 

(……一口くらい、普通だし)

 

自分に言い聞かせる。

 

しかし、頬が少し熱い。

 

そんな銀子の様子に気付くことなく、角晴は店員を呼んだ。

 

───

 

「お待たせいたしました」

 

しばらくして、2つのパフェが運ばれてきた。

 

「……わぁ!」

 

角晴が思わず声を上げた。

 

目の前には、鮮やかな緑色の抹茶パフェ。

 

抹茶アイスに抹茶クリーム。

 

白玉と小豆。

 

透明な器の中には、抹茶ゼリーやスポンジが綺麗な層を作っていた。

 

銀子のほうじ茶パフェも、香ばしい茶色を基調とした美しい盛り付けだった。

 

「……すごい!」

 

角晴はスマートフォンを取り出した。

 

「写真撮ろ!」

 

「……子供」

 

「せっかくだし!」

 

角晴は様々な角度から写真を撮った。

 

銀子はそんな様子を眺めていた。

 

「……そんなに撮ってどうするの?」

 

「思い出!」

 

「……食べ物の?」

 

「うん!」

 

角晴は笑顔で答えた。

 

「あとで見返したら、また食べたくなるじゃん!」

 

「……そういうもの?」

 

「そういうもの!」

 

銀子は小さく笑った。

 

そして、自分もスマートフォンを取り出す。

 

「……私も撮ろ」

 

「あれ? 銀子も撮るんだ?」

 

「……別に、いいでしょ」

 

「もちろん!」

 

角晴は嬉しそうに頷いた。

 

2人で写真を撮り終え、ようやくスプーンを手に取る。

 

「いただきまーす!」

 

「……いただきます」

 

角晴は抹茶アイスを一口食べた。

 

「…………!」

 

次の瞬間。

 

「……美味しい!!」

 

その声に、銀子が小さく肩を跳ねさせた。

 

「……声、大きい」

 

「あっ、ごめん!」

 

角晴は慌てて口元を押さえる。

 

しかし、すぐに笑顔になった。

 

「でも、本当に美味しい!」

 

銀子もほうじ茶パフェを一口食べる。

 

「…………」

 

口の中に、香ばしい風味が広がった。

 

甘さも控えめで、食べやすい。

 

「……美味しい」

 

「でしょ!?」

 

「……何であんたが得意げなの」

 

「あはは!」

 

角晴は笑った。

 

そして、しばらく自分のパフェを楽しんだ後。

 

「……銀子」

 

「……何?」

 

「そっち、一口もらっていい?」

 

「…………」

 

銀子の手が止まった。

 

(……来た)

 

さっき、一口くらいならいいと言った。

 

だから、別におかしいことではない。

 

ただ。

 

「……いいけど」

 

銀子は、自分の器を少しだけ前へ押した。

 

「ありがと!」

 

角晴はスプーンを伸ばそうとして、ふと手を止めた。

 

「……あ、そうだ」

 

「……?」

 

「俺のも食べる?」

 

「…………」

 

銀子は角晴を見つめる。

 

「……いいの?」

 

「もちろん!」

 

角晴は抹茶パフェの器を差し出した。

 

「すっごく美味しいよ!」

 

銀子は少し迷ってから、頷いた。

 

「……じゃあ、一口」

 

2人はお互いのパフェを交換し、それぞれ一口ずつ味わった。

 

「……おおっ! ほうじ茶も美味しい!」

 

「……抹茶も美味しい」

 

「でしょ!」

 

角晴は嬉しそうに笑う。

 

その笑顔を見ながら、銀子は思った。

 

(……こういう時間、好きだな)

 

将棋を指しているわけではない。

 

研究をしているわけでもない。

 

ただ、2人で甘いものを食べている。

 

それだけなのに。

 

いつもより少しだけ、特別な時間に感じられた。

 

───

 

「……そういえば」

 

パフェを半分ほど食べた頃。

 

銀子が口を開いた。

 

「……最近、八一とは指してる?」

 

「八一?」

 

角晴はスプーンを止めた。

 

「この前、研究会で指したよ!」

 

「……どうだった?」

 

「いやぁ、強かった!」

 

角晴は楽しそうに笑った。

 

「中盤で結構苦しくなっちゃってさ!」

 

「……勝ったの?」

 

「うん、最後は何とか!」

 

「……ふーん」

 

銀子は小さく頷いた。

 

「……あいつも、竜王になってから忙しそうだし」

 

「そうだねぇ」

 

角晴は少し考える。

 

「でも、最近は将棋以外でも忙しいみたいなんだよね」

 

「……将棋以外?」

 

「うん!」

 

銀子が眉を寄せる。

 

「……何かあったの?」

 

「いや、それがよく分からなくて」

 

角晴は苦笑した。

 

「昨日連絡したら、何か慌ててたんだよね」

 

「……八一が?」

 

「うん」

 

角晴はスマートフォンを取り出した。

 

「ほら、これ」

 

画面には、八一とのやり取りが表示されていた。

 

『兄弟子、ちょっと聞いてください!』

 

『どうしたの?』

 

『大変なことになりました!』

 

『えっ、何!?』

 

『説明すると長いんですけど!』

 

『じゃあ電話する?』

 

『今は無理です!!』

 

『ええっ!?』

 

銀子は無言で画面を見つめた。

 

「…………」

 

そして、一言。

 

「……何やってるの、あいつ」

 

「分かんない!」

 

角晴は楽しそうに笑った。

 

「でも、何か困ってるみたいだし、あとで顔出そうかなって」

 

「……あんたが?」

 

「うん!」

 

「……巻き込まれるわよ」

 

「あはは! まあ、八一だし!」

 

「……それが問題なんでしょ」

 

銀子はため息をついた。

 

それから、少し考える。

 

「……私も行く」

 

「え?」

 

「……八一のところ」

 

「銀子も?」

 

「……変なことしてないか確認する」

 

「……あはは!」

 

角晴は声を上げて笑った。

 

「八一、銀子に怒られるかもね!」

 

「……怒られるようなことしてなければいいけど」

 

銀子の声音は冷たかった。

 

角晴は、なぜか背筋が寒くなった。

 

(……八一、ごめん)

 

まだ何も起きていないのに。

 

角晴は、心の中で弟弟子に謝った。

 

───

 

食事を終えた2人は、会計を済ませて店を出た。

 

「いやぁ、美味しかった!」

 

角晴は満足そうに笑った。

 

「また来たいな!」

 

「……そうね」

 

「次はティラミスも食べたい!」

 

「……まだ食べる気なの?」

 

「次来たときだよ!」

 

「……分かってる」

 

銀子は呆れたように答える。

 

しかし、ほんの少しだけ口元が緩んでいた。

 

店を出たところで、角晴はスマートフォンを確認した。

 

「……あ」

 

「……どうしたの?」

 

「八一から連絡来てる!」

 

画面には、短いメッセージが表示されていた。

 

『兄弟子、今どこにいます?』

 

「……おおっ!」

 

角晴はすぐに返信する。

 

『銀子と甘いもの食べてた! これから八一のところ行こうかなって思ってるよ!』

 

しばらくして。

 

『えっ!?』

 

さらに続けて。

 

『姉弟子も一緒なんですか!?』

 

『うん!』

 

『ちょっと待ってください!!』

 

「……あれ?」

 

角晴は首を傾げた。

 

「何かすごい慌ててる」

 

銀子は画面を覗き込んだ。

 

「…………」

 

「どうしたんだろ?」

 

「……行けば分かるでしょ」

 

「そうだね!」

 

角晴はスマートフォンをポケットへしまった。

 

「じゃあ、八一のところ行こっか!」

 

「……うん」

 

こうして2人は、九頭竜八一の暮らすマンションへ向かうことになった。

 

その先で、とんでもない光景を目撃することになるとも知らずに。

 

───

 

同じ頃。

 

九頭竜八一の自宅。

 

「……だから! 何でこうなるんだよ!!」

 

部屋の中に、少年の悲鳴が響いていた。

 

九頭竜八一。

 

16歳。

 

史上最年少で竜王位を獲得した、若き天才棋士。

 

その彼が今、頭を抱えていた。

 

理由は、目の前にいる小さな少女だった。

 

「ししょー!」

 

「だから! まだ師匠じゃないって!」

 

「でも、わたし、ししょーのお弟子さんになるんです!」

 

「いや、だからね!?」

 

八一の目の前には、幼い少女が座っていた。

 

雛鶴あい。

 

9歳。

 

石川県から大阪へやって来た、小さな将棋少女である。

 

彼女は、八一の弟子になるためにやって来たのだった。

 

「……あのね、あいちゃん」

 

八一はできるだけ優しい声で話しかけた。

 

「弟子になるっていうのは、そんなに簡単なことじゃないんだよ?」

 

「はい!」

 

「将棋の勉強も大変だし、学校だってあるでしょ?」

 

「はい!」

 

「だから、ちゃんと親御さんとも相談しないと……」

 

「お母さんにはお話ししてます!」

 

「……そうなんだ」

 

八一は頭を抱えた。

 

(……いや、だからって……!)

 

そもそも、なぜ自分の部屋に少女がいるのか。

 

説明するには、少し時間を遡る必要がある。

 

以前、八一はある旅館で将棋を指したことがあった。

 

そこで出会ったのが、雛鶴あいだった。

 

将棋が好きで、純粋で。

 

そして、驚くほどの才能を持っていた少女。

 

八一は、その才能を認めていた。

 

しかし、それと弟子にするかどうかは別問題だ。

 

まして、自分はまだ16歳。

 

ついこの間、竜王になったばかりである。

 

弟子を取るなど、考えたこともなかった。

 

それなのに。

 

「ししょー! 今日も将棋を教えてください!」

 

「……あのねぇ……」

 

八一は深いため息をついた。

 

そのとき。

 

ピロンッ。

 

スマートフォンが鳴った。

 

「……ん?」

 

画面を確認する。

 

兄弟子からの返信だった。

 

『銀子と甘いもの食べてた! これから八一のところ行こうかなって思ってるよ!』

 

「…………」

 

八一の顔が引きつった。

 

「……え?」

 

兄弟子。

 

猿飛角晴。

 

それだけなら、まだいい。

 

問題は。

 

「……姉弟子も……?」

 

空銀子。

 

あの、恐ろしい姉弟子が。

 

今から。

 

ここへ来る。

 

「…………」

 

八一は、ゆっくりと目の前の少女へ視線を向けた。

 

あいは、にこにこと笑っている。

 

「ししょー?」

 

「…………」

 

八一の額に、冷たい汗が流れた。

 

(……まずい)

 

非常にまずい。

 

ただでさえ、事情が複雑なのだ。

 

そこへ銀子が来たらどうなるか。

 

考えたくもなかった。

 

八一は慌ててスマートフォンを操作した。

 

『ちょっと待ってください!!』

 

しかし。

 

既読。

 

返事はない。

 

「……終わった」

 

八一は小さく呟いた。

 

「ししょー?」

 

「……あいちゃん」

 

「はい!」

 

「……ちょっと、まずいことになった」

 

「……?」

 

あいは不思議そうに首を傾げた。

 

───

 

それから約20分後。

 

ピンポーン。

 

「…………」

 

八一の肩が跳ねた。

 

「……来た」

 

玄関の向こうから、明るい声が聞こえる。

 

「八一ー! 来たよー!」

 

間違いない。

 

兄弟子の声だ。

 

さらに。

 

「……八一、いるんでしょ」

 

銀子の声も聞こえた。

 

八一は、その場で固まった。

 

(……どうしよう)

 

何と説明すればいいのか。

 

どうすれば誤解されずに済むのか。

 

必死に考える。

 

しかし、答えは出ない。

 

「……八一?」

 

角晴の声がする。

 

「大丈夫?」

 

「……八一」

 

続いて銀子の声。

 

「……開けなさい」

 

「…………」

 

八一は観念した。

 

「……はい」

 

ゆっくりと玄関へ向かう。

 

そして。

 

カチャリ。

 

扉を開けた。

 

「やっほー、八一!」

 

そこには、いつもの笑顔を浮かべた角晴がいた。

 

その隣には、無表情の銀子。

 

「……こんにちは、兄弟子」

 

「うん! こんにちは!」

 

「……姉弟子も」

 

「……うん」

 

銀子の声は、妙に冷たかった。

 

八一は引きつった笑みを浮かべる。

 

「……えっと、何か用ですか?」

 

「いやぁ、最近忙しそうだったから!」

 

角晴は笑った。

 

「大丈夫かなって思って!」

 

「……あ、ありがとうございます」

 

「……で?」

 

銀子が口を開いた。

 

「……何を隠してるの?」

 

「…………っ!?」

 

八一の顔が凍りつく。

 

「……な、何のことですか?」

 

「……顔に書いてある」

 

「……ええっ!?」

 

角晴は八一の顔を覗き込んだ。

 

「本当だ! すごい汗!」

 

「兄弟子!?」

 

「大丈夫? 体調悪い?」

 

「い、いや! そうじゃなくて……!」

 

八一が慌てていると。

 

部屋の奥から、小さな足音が聞こえてきた。

 

「ししょー?」

 

「…………」

 

八一の動きが止まる。

 

角晴と銀子も、同時に顔を向けた。

 

「……ん?」

 

「…………?」

 

そこには、可愛らしい少女が立っていた。

 

長い髪を揺らし、ぱっちりとした目で2人を見つめている。

 

「あっ!」

 

少女は嬉しそうに声を上げた。

 

「お客さんですか?」

 

「…………」

 

角晴が瞬きをする。

 

銀子の目が細くなる。

 

八一は、天井を仰いだ。

 

(……終わった)

 

完全に。

 

終わった。

 

───

 

「……八一」

 

最初に口を開いたのは、銀子だった。

 

「……この子、誰?」

 

「……えっと」

 

八一は言葉に詰まる。

 

「……その……」

 

「……何?」

 

「……いや、説明すると長くなるんですけど……」

 

銀子の目が、さらに細くなった。

 

「……へぇ」

 

「……っ!」

 

角晴は、そんな2人のやり取りを眺めていた。

 

そして、あいへ視線を向ける。

 

「こんにちは!」

 

「こんにちは!」

 

あいは元気よく頭を下げた。

 

「雛鶴あいです!」

 

「雛鶴あいちゃんかぁ!」

 

角晴は笑顔で頷いた。

 

「俺は猿飛角晴! よろしくね!」

 

「さるとび……?」

 

あいは、少し考える。

 

そして。

 

「……あっ!!」

 

突然、大きな声を上げた。

 

「もしかして!!」

 

「ん?」

 

「将棋界の帝王さんですか!?」

 

「……あはは!」

 

角晴は思わず笑った。

 

「そう呼ばれてるね!」

 

「わぁぁぁ!!」

 

あいの目が輝いた。

 

「本物ですか!?」

 

「本物だよ!」

 

「すごいです!!」

 

あいは興奮した様子で角晴を見つめる。

 

「わたし、棋譜見たことあります!」

 

「えっ、本当?」

 

「はい!」

 

あいは力強く頷いた。

 

「帝位を取ったときの将棋です!」

 

角晴は目を丸くした。

 

「あっ! 相掛かりの?」

 

「はい!」

 

「おおっ!」

 

角晴の顔が、一気に明るくなった。

 

「俺、あの将棋すっごく好きなんだ!」

 

「わたしもです!」

 

「本当!?」

 

「はい! 最後の攻めがすごくて!」

 

「分かる! あそこ、結構難しかったんだよね!」

 

2人は、すっかり将棋の話で盛り上がっていた。

 

八一は、その様子を呆然と見つめている。

 

(……兄弟子……)

 

さすがというべきか。

 

本当に、誰とでも将棋の話で仲良くなってしまう。

 

一方。

 

「…………」

 

銀子は、無言で2人を見つめていた。

 

正確には。

 

角晴に嬉しそうに話しかけているあいを、じっと見ていた。

 

「……角晴」

 

「ん?」

 

「……その子と仲良くするのはいいけど」

 

「うん?」

 

「……まず、八一から事情を聞きなさい」

 

「あっ!」

 

角晴は思い出したように顔を上げた。

 

「そうだった!」

 

そして、八一へ向き直る。

 

「八一! この子、どうしたの?」

 

「……やっと聞いてくれた……」

 

八一は疲れ切った声を漏らした。

 

───

 

「……なるほどねぇ」

 

事情を聞き終えた角晴は、ゆっくりと頷いた。

 

全員でリビングへ移動し、八一がこれまでの経緯を説明したのだった。

 

雛鶴あい。

 

石川県の旅館の娘。

 

以前、八一と将棋を指したことがあり、そのときから弟子入りを希望していた。

 

そして今回。

 

その約束を胸に、大阪までやって来た。

 

「……すごい行動力だね!」

 

角晴は感心したように言った。

 

「俺、びっくりした!」

 

「えへへ!」

 

あいは嬉しそうに笑う。

 

「ししょーのお弟子さんになりたいので!」

 

「……だから、まだ弟子じゃないって!」

 

八一は慌てて訂正した。

 

「……まったく」

 

銀子は腕を組んだ。

 

「……あんた、何やってるのよ」

 

「いや、俺だって困ってるんですよ!」

 

「……困ってる?」

 

「はい!」

 

八一は必死に頷いた。

 

「突然来たんですよ!? 俺だってどうしたらいいか……!」

 

「……でも、家に上げたんでしょ」

 

「そ、それは……!」

 

「……ふーん」

 

銀子の視線が冷たい。

 

八一は思わず角晴へ助けを求めた。

 

「兄弟子……!」

 

「ん?」

 

「……助けてください……!」

 

角晴は少し考えた。

 

そして、あいへ向き直る。

 

「あいちゃん」

 

「はい!」

 

「将棋、好き?」

 

「大好きです!」

 

即答だった。

 

角晴は嬉しそうに微笑んだ。

 

「そっか!」

 

「はい!」

 

「じゃあ、八一の弟子になりたいのも、その気持ちから?」

 

「はい!」

 

あいは真剣な表情になった。

 

「もっともっと強くなりたいんです!」

 

「……うん」

 

角晴は頷いた。

 

「その気持ちは、すごく分かるよ」

 

幼い頃の自分を思い出す。

 

もっと将棋を指したい。

 

もっと強くなりたい。

 

それだけを考えていた日々。

 

「……でもね」

 

角晴は、少しだけ声を落とした。

 

「弟子になるっていうのは、簡単なことじゃないんだ」

 

あいは目を瞬かせた。

 

「……はい」

 

「八一も、あいちゃんの将棋にちゃんと向き合わなきゃいけなくなるし」

 

「…………」

 

「もちろん、あいちゃんも大変なことがいっぱいあると思う」

 

角晴は柔らかく笑った。

 

「だから、ちゃんと考えて決めないとね」

 

あいは、しばらく黙っていた。

 

そして。

 

「……それでも!」

 

顔を上げる。

 

「わたし、強くなりたいです!」

 

「…………」

 

「ししょーみたいに、強い棋士になりたいんです!」

 

その瞳には、迷いがなかった。

 

角晴は、少しだけ目を細めた。

 

(……いい目だなぁ)

 

将棋が好きで。

 

強くなりたい。

 

その気持ちが、真っ直ぐに伝わってくる。

 

角晴は笑った。

 

「……そっか!」

 

そして、八一へ向き直る。

 

「八一」

 

「……はい」

 

「この子、すごくいい子だね!」

 

「……それは、そうですけど」

 

八一は困ったように頭を掻いた。

 

「俺、まだ弟子を取るなんて考えたこともなくて……」

 

「うん、そうだよね」

 

角晴は頷く。

 

「でも、八一ならいい師匠になれると思うよ!」

 

「……兄弟子」

 

「だって、八一って将棋にはすっごく真面目だし!」

 

「…………」

 

「教えるのも、きっと上手だと思う!」

 

八一は、少しだけ目を伏せた。

 

「……ありがとうございます」

 

その言葉には、素直な嬉しさが滲んでいた。

 

しかし。

 

「……ちょっと待ちなさい」

 

銀子の声が響いた。

 

「……角晴」

 

「ん?」

 

「……簡単に勧めすぎ」

 

「え?」

 

「……弟子を取るって、そういうことでしょ」

 

「……ああ、うん」

 

角晴は少し考えた。

 

「確かに、そうだね」

 

銀子は八一を見つめる。

 

「……ちゃんと考えなさいよ」

 

「……はい」

 

八一は真剣に頷いた。

 

───

 

その後。

 

少し落ち着いたところで、八一がお茶を用意することになった。

 

「……兄弟子、お茶でいいですか?」

 

「うん! ありがと!」

 

「姉弟子は?」

 

「……同じのでいい」

 

「あいちゃんは?」

 

「わたしもお茶で大丈夫です!」

 

八一はキッチンへ向かった。

 

角晴はソファに座り、あいと将棋の話をしている。

 

銀子は、その隣で静かにお茶を待っていた。

 

「……そういえば」

 

あいが口を開いた。

 

「猿飛三冠って、空女王と仲良しなんですね!」

 

「……え?」

 

銀子が反応する。

 

角晴は笑顔で頷いた。

 

「うん! 小さい頃から一緒にいるからね!」

 

「へぇぇ!」

 

あいの目が輝く。

 

「じゃあ、お付き合いしてるんですか?」

 

「…………っ!?」

 

銀子が、勢いよく顔を上げた。

 

「……なっ!?」

 

角晴は一瞬、きょとんとする。

 

そして。

 

「あはは!」

 

楽しそうに笑った。

 

「違う違う!」

 

「えっ、違うんですか?」

 

「うん!」

 

角晴は何でもないことのように答える。

 

「銀子は、妹みたいなものだからね!」

 

「…………」

 

銀子の表情が、すっと消えた。

 

「……妹」

 

小さく呟く。

 

角晴は気付いていない。

 

「そうそう! 家族みたいな感じ!」

 

「…………」

 

銀子のこめかみが、わずかに動いた。

 

「……角晴」

 

「ん?」

 

「……あとで覚えてなさい」

 

「ええっ!? 何で!?」

 

あいは不思議そうに2人を見つめる。

 

「……?」

 

そして。

 

「あっ!」

 

何かを思いついたように手を叩いた。

 

「じゃあ、猿飛三冠と空女王は兄妹なんですね!」

 

「うん! そんな感じ!」

 

「……違う!」

 

銀子が即座に否定した。

 

「えっ!?」

 

あいが驚く。

 

角晴も目を丸くした。

 

「……銀子?」

 

「……何でもない!」

 

「ええっ!?」

 

角晴は困惑した。

 

あいは、ますます分からなくなった。

 

そんな2人の様子を見て。

 

キッチンから戻ってきた八一は、嫌な予感を覚えた。

 

(……何か、また面倒なことになってる……)

 

───

 

それからしばらくして。

 

八一の部屋には、ようやく落ち着いた空気が戻っていた。

 

……はずだった。

 

「ししょー!」

 

「……はいはい」

 

「この前の将棋、もう1回教えてください!」

 

「……分かったから、ちょっと待って」

 

八一が将棋盤を準備している。

 

あいは、その隣で嬉しそうに駒を並べていた。

 

角晴はソファから、その様子を眺めている。

 

「……いいなぁ」

 

ぽつりと呟いた。

 

銀子が顔を向ける。

 

「……何が?」

 

「弟子!」

 

「……弟子?」

 

「うん!」

 

角晴は笑った。

 

「俺も、いつか弟子を取ってみたいなぁって思って!」

 

「…………」

 

銀子は、少し驚いたように角晴を見つめた。

 

「……あんたが?」

 

「うん!」

 

「……まだ15歳でしょ」

 

「あはは! そうなんだけど!」

 

角晴は頭を掻いた。

 

「でも、八一見てたら、ちょっと羨ましくなっちゃった!」

 

「……まだ正式に弟子になったわけじゃないけど」

 

「それもそうだね!」

 

角晴は笑った。

 

そして、将棋盤へ視線を戻す。

 

あいが一生懸命に駒を並べている。

 

八一は、その様子を優しく見守っていた。

 

角晴は、ふと昔の自分を思い出した。

 

清滝に初めて将棋を教わった日。

 

難しい局面を前に、笑ってしまったこと。

 

そして。

 

涙を流しながら、もう一度将棋を好きだと思えた日のこと。

 

(……おじさんも、こんな気持ちだったのかな)

 

角晴は小さく微笑んだ。

 

「……いいね」

 

「……何が?」

 

銀子が尋ねる。

 

角晴は、柔らかく答えた。

 

「将棋って、やっぱりいいなぁって!」

 

「…………」

 

銀子は、その横顔を見つめた。

 

(……ほんとに)

 

いつも、そうだった。

 

角晴は将棋の話になると、心から楽しそうに笑う。

 

その笑顔を見ていると、自分まで嬉しくなってしまう。

 

銀子は、そっと目を伏せた。

 

「……そうね」

 

小さく答える。

 

角晴は、にこりと笑った。

 

───

 

しかし。

 

平穏な時間は、長くは続かなかった。

 

「……あっ!」

 

突然、あいが声を上げた。

 

「……どうしたの?」

 

八一が顔を向ける。

 

「ししょー! これ!」

 

あいは、スマートフォンを手にしていた。

 

八一の部屋で撮った写真を、嬉しそうに見せている。

 

「……あいちゃん?」

 

「さっきの写真です!」

 

「……写真?」

 

角晴が興味津々で近づいてくる。

 

「何の写真?」

 

「ししょーと一緒に撮った写真です!」

 

「おおっ!」

 

角晴は笑った。

 

「いいね!」

 

「はい!」

 

あいは嬉しそうに頷いた。

 

「でも、これだとちょっと普通なので……」

 

「……普通?」

 

角晴が首を傾げる。

 

あいは、何やら真剣な表情で考え始めた。

 

そして。

 

「……あっ!」

 

突然、八一の腕に抱きついた。

 

「ししょー!」

 

「うわっ!?」

 

八一が驚く。

 

その瞬間。

 

カシャッ。

 

角晴のスマートフォンから、シャッター音が響いた。

 

「……あ」

 

全員の動きが止まった。

 

「…………」

 

八一が、ゆっくりと角晴を見る。

 

「……兄弟子?」

 

「……あはは」

 

角晴は、少しだけ目を逸らした。

 

「……いい写真、撮れたかも」

 

「……何してるんですか!?」

 

八一の悲鳴が響いた。

 

角晴は楽しそうに笑う。

 

「いやぁ、何か面白くて!」

 

「面白くないです!!」

 

「ええっ!?」

 

あいは、きょとんとしている。

 

「……?」

 

そして、銀子。

 

「…………」

 

銀子は無言でスマートフォンの画面を覗き込んだ。

 

そこには。

 

幼い少女に腕を抱きしめられ、慌てふためく竜王の姿が映っていた。

 

「…………」

 

銀子の口元が、わずかに持ち上がる。

 

「……へぇ」

 

「……姉弟子?」

 

八一の背筋が凍った。

 

「……これは、なかなか」

 

「……な、何がですか!?」

 

銀子は静かに微笑んだ。

 

「……面白い写真ね」

 

「…………っ!?」

 

八一は青ざめた。

 

一方、角晴は楽しそうに笑っている。

 

「でしょ!」

 

「……角晴」

 

「ん?」

 

「……それ、送って」

 

「いいよ!」

 

「兄弟子ぃぃぃ!?」

 

八一の絶叫が、部屋中に響き渡った。

 

───

 

「……もう、最悪だ……」

 

八一はソファに崩れ落ちていた。

 

角晴は隣で、楽しそうに写真を眺めている。

 

「いやぁ、いい写真!」

 

「……消してください」

 

「えー?」

 

「……お願いします……」

 

八一は本気で泣きそうだった。

 

しかし。

 

「……八一」

 

銀子が静かに口を開く。

 

「……何ですか、姉弟子……」

 

「……この子のこと、ちゃんと責任持ちなさいよ」

 

「……はい?」

 

八一が顔を上げる。

 

銀子は、あいを見つめた。

 

「……将棋を教えるなら、中途半端なことしないで」

 

「…………」

 

八一の表情が、少しだけ真剣になった。

 

「……分かってます」

 

「……ならいい」

 

銀子は短く答えた。

 

角晴も、ゆっくりと頷く。

 

「うん!」

 

そして、笑顔で続けた。

 

「八一なら大丈夫だよ!」

 

「……兄弟子」

 

「俺、信じてるから!」

 

八一は、少しだけ目を伏せた。

 

「……ありがとうございます」

 

その言葉には、確かな感謝が込められていた。

 

だが。

 

「……それと」

 

角晴が、にこにこと笑った。

 

「写真、めっちゃ面白いから保存しとくね!」

 

「消してくださいよぉぉぉ!!」

 

再び、八一の悲鳴が響き渡った。

 

銀子は小さく笑い。

 

あいは不思議そうに首を傾げ。

 

角晴は、心の底から楽しそうに笑っていた。

 

───

 

夕方。

 

八一のマンションを出た角晴と銀子は、並んで歩いていた。

 

「いやぁ、楽しかった!」

 

角晴は満足そうに笑った。

 

「八一、大変そうだったね!」

 

「……誰のせいよ」

 

「え?」

 

「……何でもない」

 

銀子は小さくため息をついた。

 

そして、角晴を横目で見る。

 

「……あんた、あの写真どうするの?」

 

「ん? 保存してるよ!」

 

「……本当に?」

 

「うん!」

 

角晴は笑った。

 

「八一が困ってたら消すけどね!」

 

「……もう困ってたでしょ」

 

「あはは! 確かに!」

 

角晴は頭を掻いた。

 

「じゃあ、あとで消しておこっかな!」

 

「……そうしなさい」

 

銀子は呆れたように答えた。

 

しばらく歩く。

 

春の風が、2人の間を通り抜けた。

 

「……ねえ、銀子」

 

「……何?」

 

「今日、楽しかった?」

 

銀子は足を止めた。

 

「…………」

 

角晴も立ち止まる。

 

「……銀子?」

 

「……楽しかった」

 

小さな声だった。

 

角晴は、嬉しそうに笑った。

 

「よかった!」

 

「…………」

 

「俺もすっごく楽しかったよ!」

 

銀子は、少しだけ視線を逸らした。

 

「……そう」

 

角晴は空を見上げた。

 

夕暮れの空が、淡い橙色に染まっている。

 

「また一緒に出かけようね!」

 

「…………」

 

銀子は、しばらく黙っていた。

 

そして。

 

「……うん」

 

小さく頷いた。

 

「……また、行こう」

 

角晴は笑顔で頷いた。

 

「約束ね!」

 

「……うん」

 

2人は、再び歩き始めた。

 

将棋界の帝王。

 

浪速の白雪姫。

 

盤上では、多くの棋士が恐れる才能を持つ2人。

 

けれど、今はただの少年と少女だった。

 

将棋の話をして。

 

甘いものを食べて。

 

弟弟子の騒動に巻き込まれて。

 

笑い合う。

 

そんな、ごく普通の春休み。

 

しかし。

 

この日、2人が出会った小さな少女の存在は、やがて将棋界に大きな変化をもたらしていく。

 

九頭竜八一と雛鶴あい。

 

竜王と、その弟子を目指す少女。

 

そして、猿飛角晴。

 

若き三冠棋士の前にも、いずれ新たな出会いが訪れることになる。

 

まだ誰も知らない未来。

 

まだ誰も読めない一手。

 

それでも、角晴はきっと笑うだろう。

 

難しい局面ほど。

 

未知の世界が広がるほど。

 

彼は、将棋を楽しむのだから。

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