3月。
春休みの大阪。
11時が過ぎた頃。
大阪市内のマンションの一室で、1人の少年が鏡の前に立っていた。
「……うん、こんな感じかな!」
猿飛角晴。
15歳。
帝位、叡王、棋帝の3つのタイトルを保持する、将棋界の若き三冠棋士である。
しかし、現在の彼は将棋盤ではなく、鏡に映った自分の姿を眺めていた。
白いシャツに黒のスラックス。
その上から、少し大きめの薄手のカーディガンを羽織っている。
髪も整え、外出の準備は万端だった。
「財布……スマホ……鍵……」
ポケットを順番に確認する。
「よし!」
時計を見る。
午前11時26分。
昨日、銀子に言った時刻まであと4分。
「……ふふっ」
角晴は満足そうに笑った。
「今日はちゃんと起きられた!」
普段から朝が苦手な彼にとって、これはちょっとした快挙だった。
もっとも、今日は目覚ましを3つも設定していたのだが。
それでも、寝坊しなかったことに変わりはない。
角晴はソファへ腰を下ろし、スマートフォンを手に取った。
『銀子、準備できたよ!』
メッセージを送る。
返事が来るまでの間、昨日見つけた和カフェのメニューを眺めていた。
濃厚抹茶パフェ。
抹茶ティラミス。
抹茶わらび餅。
ほうじ茶アイス。
「……全部美味しそうだなぁ」
小さく呟く。
そのとき。
ピロンッ。
『今向かってる』
銀子からの返信だった。
「おっ!」
角晴はすぐに返事を打ち込む。
『了解! 気をつけてね!』
送信すると、再びメニューに目を戻した。
(……パフェもいいけど、ティラミスも気になるんだよね)
真剣な表情で画面を見つめる。
まるで、難解な終盤の局面を読んでいるかのようだった。
───
同じ頃。
マンションへ向かう道を、1人の少女が歩いていた。
空銀子。
14歳。
女流将棋界で活躍する『浪速の白雪姫』。
そして、角晴の妹弟子でもある少女だった。
今日の銀子は、白いブラウスに淡い水色のカーディガン。
膝丈のスカートを合わせ、髪には小さな飾りをつけていた。
普段より、ほんの少しだけおしゃれをしている。
もっとも、それを本人が認めるかどうかは別の話だが。
(……別に)
銀子は歩きながら考える。
(……ただ、甘いものを食べに行くだけだし)
それだけ。
角晴と2人で出かけることだって、初めてではない。
昔から一緒に買い物へ行くこともあれば、食事をすることもあった。
だから、何も特別なことではない。
……はずだった。
「…………」
銀子は、そっと自分の服装を見下ろした。
(……変じゃない、よね)
今朝。
服を選ぶのに、いつもより時間がかかった。
何を着ていけばいいのか分からず、何度も鏡の前に立った。
結局、普段とあまり変わらない服装になってしまったが。
それでも、少しだけ気合いが入っていることは、自分でも分かっていた。
(……角晴、気付くかな)
一瞬、そんなことを考える。
しかし、すぐに首を横へ振った。
(……気付くわけないか)
相手は、あの角晴である。
盤上では恐ろしいほど鋭い読みを見せるくせに、日常では驚くほど鈍感な少年。
まして、女の子の服装の変化など。
(……期待するだけ無駄)
銀子は小さく息を吐いた。
けれど。
今日が楽しみであることだけは、否定できなかった。
───
ピンポーン。
「はーい!」
インターホンが鳴った瞬間、角晴はソファから立ち上がった。
玄関へ向かい、扉を開ける。
「銀子! いらっしゃい!」
「……こんにちは」
「待ってたよ!」
「……そう」
銀子は小さく頷いた。
そして、角晴を見上げる。
「……ちゃんと起きてたのね」
「もちろん!」
角晴は得意げに胸を張った。
「今日は11時には起きたからね!」
「……遅い」
「ええっ!? 休みの日だよ!?」
「……約束がある日でしょ」
「あはは! それはそうだけど!」
角晴は楽しそうに笑った。
銀子は呆れたようにため息をつく。
しかし、その目元はどこか柔らかかった。
「……じゃあ、行く?」
「うん!」
角晴は靴を履き、玄関の鍵を閉める。
そして、銀子へ向き直った。
その瞬間。
「……あれ?」
銀子の肩が、ぴくりと動いた。
「……何?」
角晴は銀子の服装を眺める。
「今日の服、可愛いね!」
「…………っ!?」
銀子の顔が、一瞬で赤くなった。
「な、何……急に……!」
「え? いや、似合ってるなって思って!」
角晴は何でもないことのように笑う。
「その水色、銀子に合ってるよね!」
「…………」
銀子は顔を逸らした。
(……気付いた……)
予想外だった。
まさか、あの角晴が。
「……ありがと」
小さな声で答える。
「ん?」
「……何でもない!」
「ええっ!?」
角晴は困惑したように目を瞬かせた。
「……何で怒ってるの?」
「……怒ってない」
「絶対怒ってるじゃん!」
「……うるさい」
そう言いながら、銀子は先に歩き始めた。
角晴は慌てて後を追う。
「ちょっと待ってよ、銀子!」
その声を背中で聞きながら。
銀子は、誰にも見えないように微笑んでいた。
───
大阪の街は、春休みらしい賑わいを見せていた。
学生たちのグループ。
買い物を楽しむ人々。
観光客らしき家族連れ。
暖かな日差しの下、様々な人々が行き交っている。
角晴と銀子は、並んで歩いていた。
「今日、結構暖かいね!」
「……そうね」
「もうすぐ桜も咲きそう!」
「……うん」
「銀子は花見とか行く?」
「……あんまり」
「そっかぁ」
角晴は少し考えた。
「じゃあ、今度みんなで行かない?」
「……みんな?」
「八一とか、桂香姉さんとか! おじさんも誘って!」
「……師匠も?」
「うん!」
角晴は楽しそうに頷く。
「お弁当とか作ってさ!」
銀子は角晴を横目で見た。
「……あんたが作るの?」
「もちろん! 俺、料理好きだし!」
「……知ってる」
「銀子の好きなものも入れるよ!」
「…………」
銀子は小さく目を伏せた。
「……そう」
その返事を聞いた角晴は、にっこりと笑った。
「じゃあ決まりだね!」
「……まだ行くって言ってない」
「ええっ!?」
角晴の情けない声が響く。
銀子は、少しだけ楽しそうに笑った。
───
目的の和カフェは、大通りから少し入った場所にあった。
木目を基調とした落ち着いた外観。
入口には小さな暖簾がかかり、店先には季節限定の甘味が写真付きで紹介されている。
「……おおっ!」
角晴の目が輝いた。
「銀子、見て!」
「……見えてる」
「これ! 抹茶パフェ!」
「……昨日も見せられた」
「あはは! そうだった!」
角晴は嬉しそうに暖簾をくぐった。
店内は、和風の落ち着いた雰囲気だった。
木製のテーブル。
柔らかな照明。
窓際には小さな観葉植物が置かれている。
まだ昼過ぎということもあり、店内には何組かの客がいた。
「いらっしゃいませ。2名様ですか?」
「はい!」
「こちらのお席へどうぞ」
案内されたのは、窓際の2人掛けの席だった。
角晴は銀子に先に座るよう促し、自分も向かいへ腰を下ろした。
「……いいお店だね!」
「……そうね」
銀子は店内を見回した。
騒がしすぎず、静かすぎない。
落ち着いて話ができそうな場所だった。
「さて!」
角晴がメニューを開く。
「何にしようかなぁ!」
その目は、すっかり真剣だった。
銀子は思わず呆れる。
「……昨日から決めてたんじゃないの?」
「うん! でも実物のメニュー見たら迷っちゃって!」
「……子供」
「銀子だって甘いもの好きでしょ?」
「……それとこれとは別」
「あはは!」
角晴は楽しそうに笑った。
その後も数分間、メニューとにらめっこを続ける。
抹茶パフェ。
抹茶ティラミス。
抹茶ぜんざい。
ほうじ茶パフェ。
「……うーん」
角晴が唸る。
「……決まらない」
「……全部食べれば?」
「それはさすがに多いかなぁ」
「……じゃあ、パフェにしなさい」
「やっぱり?」
「……それ目当てで来たんでしょ」
「確かに!」
角晴は嬉しそうに頷いた。
「銀子は?」
「……ほうじ茶パフェ」
「おおっ! そっちも美味しそう!」
「……食べたいの?」
「ちょっと気になる!」
「…………」
銀子はメニューを閉じた。
そして、少しだけ視線を逸らす。
「……一口くらいなら」
「本当!?」
角晴の顔が輝く。
「ありがと、銀子!」
「……別に」
銀子は小さく答えた。
(……一口くらい、普通だし)
自分に言い聞かせる。
しかし、頬が少し熱い。
そんな銀子の様子に気付くことなく、角晴は店員を呼んだ。
───
「お待たせいたしました」
しばらくして、2つのパフェが運ばれてきた。
「……わぁ!」
角晴が思わず声を上げた。
目の前には、鮮やかな緑色の抹茶パフェ。
抹茶アイスに抹茶クリーム。
白玉と小豆。
透明な器の中には、抹茶ゼリーやスポンジが綺麗な層を作っていた。
銀子のほうじ茶パフェも、香ばしい茶色を基調とした美しい盛り付けだった。
「……すごい!」
角晴はスマートフォンを取り出した。
「写真撮ろ!」
「……子供」
「せっかくだし!」
角晴は様々な角度から写真を撮った。
銀子はそんな様子を眺めていた。
「……そんなに撮ってどうするの?」
「思い出!」
「……食べ物の?」
「うん!」
角晴は笑顔で答えた。
「あとで見返したら、また食べたくなるじゃん!」
「……そういうもの?」
「そういうもの!」
銀子は小さく笑った。
そして、自分もスマートフォンを取り出す。
「……私も撮ろ」
「あれ? 銀子も撮るんだ?」
「……別に、いいでしょ」
「もちろん!」
角晴は嬉しそうに頷いた。
2人で写真を撮り終え、ようやくスプーンを手に取る。
「いただきまーす!」
「……いただきます」
角晴は抹茶アイスを一口食べた。
「…………!」
次の瞬間。
「……美味しい!!」
その声に、銀子が小さく肩を跳ねさせた。
「……声、大きい」
「あっ、ごめん!」
角晴は慌てて口元を押さえる。
しかし、すぐに笑顔になった。
「でも、本当に美味しい!」
銀子もほうじ茶パフェを一口食べる。
「…………」
口の中に、香ばしい風味が広がった。
甘さも控えめで、食べやすい。
「……美味しい」
「でしょ!?」
「……何であんたが得意げなの」
「あはは!」
角晴は笑った。
そして、しばらく自分のパフェを楽しんだ後。
「……銀子」
「……何?」
「そっち、一口もらっていい?」
「…………」
銀子の手が止まった。
(……来た)
さっき、一口くらいならいいと言った。
だから、別におかしいことではない。
ただ。
「……いいけど」
銀子は、自分の器を少しだけ前へ押した。
「ありがと!」
角晴はスプーンを伸ばそうとして、ふと手を止めた。
「……あ、そうだ」
「……?」
「俺のも食べる?」
「…………」
銀子は角晴を見つめる。
「……いいの?」
「もちろん!」
角晴は抹茶パフェの器を差し出した。
「すっごく美味しいよ!」
銀子は少し迷ってから、頷いた。
「……じゃあ、一口」
2人はお互いのパフェを交換し、それぞれ一口ずつ味わった。
「……おおっ! ほうじ茶も美味しい!」
「……抹茶も美味しい」
「でしょ!」
角晴は嬉しそうに笑う。
その笑顔を見ながら、銀子は思った。
(……こういう時間、好きだな)
将棋を指しているわけではない。
研究をしているわけでもない。
ただ、2人で甘いものを食べている。
それだけなのに。
いつもより少しだけ、特別な時間に感じられた。
───
「……そういえば」
パフェを半分ほど食べた頃。
銀子が口を開いた。
「……最近、八一とは指してる?」
「八一?」
角晴はスプーンを止めた。
「この前、研究会で指したよ!」
「……どうだった?」
「いやぁ、強かった!」
角晴は楽しそうに笑った。
「中盤で結構苦しくなっちゃってさ!」
「……勝ったの?」
「うん、最後は何とか!」
「……ふーん」
銀子は小さく頷いた。
「……あいつも、竜王になってから忙しそうだし」
「そうだねぇ」
角晴は少し考える。
「でも、最近は将棋以外でも忙しいみたいなんだよね」
「……将棋以外?」
「うん!」
銀子が眉を寄せる。
「……何かあったの?」
「いや、それがよく分からなくて」
角晴は苦笑した。
「昨日連絡したら、何か慌ててたんだよね」
「……八一が?」
「うん」
角晴はスマートフォンを取り出した。
「ほら、これ」
画面には、八一とのやり取りが表示されていた。
『兄弟子、ちょっと聞いてください!』
『どうしたの?』
『大変なことになりました!』
『えっ、何!?』
『説明すると長いんですけど!』
『じゃあ電話する?』
『今は無理です!!』
『ええっ!?』
銀子は無言で画面を見つめた。
「…………」
そして、一言。
「……何やってるの、あいつ」
「分かんない!」
角晴は楽しそうに笑った。
「でも、何か困ってるみたいだし、あとで顔出そうかなって」
「……あんたが?」
「うん!」
「……巻き込まれるわよ」
「あはは! まあ、八一だし!」
「……それが問題なんでしょ」
銀子はため息をついた。
それから、少し考える。
「……私も行く」
「え?」
「……八一のところ」
「銀子も?」
「……変なことしてないか確認する」
「……あはは!」
角晴は声を上げて笑った。
「八一、銀子に怒られるかもね!」
「……怒られるようなことしてなければいいけど」
銀子の声音は冷たかった。
角晴は、なぜか背筋が寒くなった。
(……八一、ごめん)
まだ何も起きていないのに。
角晴は、心の中で弟弟子に謝った。
───
食事を終えた2人は、会計を済ませて店を出た。
「いやぁ、美味しかった!」
角晴は満足そうに笑った。
「また来たいな!」
「……そうね」
「次はティラミスも食べたい!」
「……まだ食べる気なの?」
「次来たときだよ!」
「……分かってる」
銀子は呆れたように答える。
しかし、ほんの少しだけ口元が緩んでいた。
店を出たところで、角晴はスマートフォンを確認した。
「……あ」
「……どうしたの?」
「八一から連絡来てる!」
画面には、短いメッセージが表示されていた。
『兄弟子、今どこにいます?』
「……おおっ!」
角晴はすぐに返信する。
『銀子と甘いもの食べてた! これから八一のところ行こうかなって思ってるよ!』
しばらくして。
『えっ!?』
さらに続けて。
『姉弟子も一緒なんですか!?』
『うん!』
『ちょっと待ってください!!』
「……あれ?」
角晴は首を傾げた。
「何かすごい慌ててる」
銀子は画面を覗き込んだ。
「…………」
「どうしたんだろ?」
「……行けば分かるでしょ」
「そうだね!」
角晴はスマートフォンをポケットへしまった。
「じゃあ、八一のところ行こっか!」
「……うん」
こうして2人は、九頭竜八一の暮らすマンションへ向かうことになった。
その先で、とんでもない光景を目撃することになるとも知らずに。
───
同じ頃。
九頭竜八一の自宅。
「……だから! 何でこうなるんだよ!!」
部屋の中に、少年の悲鳴が響いていた。
九頭竜八一。
16歳。
史上最年少で竜王位を獲得した、若き天才棋士。
その彼が今、頭を抱えていた。
理由は、目の前にいる小さな少女だった。
「ししょー!」
「だから! まだ師匠じゃないって!」
「でも、わたし、ししょーのお弟子さんになるんです!」
「いや、だからね!?」
八一の目の前には、幼い少女が座っていた。
雛鶴あい。
9歳。
石川県から大阪へやって来た、小さな将棋少女である。
彼女は、八一の弟子になるためにやって来たのだった。
「……あのね、あいちゃん」
八一はできるだけ優しい声で話しかけた。
「弟子になるっていうのは、そんなに簡単なことじゃないんだよ?」
「はい!」
「将棋の勉強も大変だし、学校だってあるでしょ?」
「はい!」
「だから、ちゃんと親御さんとも相談しないと……」
「お母さんにはお話ししてます!」
「……そうなんだ」
八一は頭を抱えた。
(……いや、だからって……!)
そもそも、なぜ自分の部屋に少女がいるのか。
説明するには、少し時間を遡る必要がある。
以前、八一はある旅館で将棋を指したことがあった。
そこで出会ったのが、雛鶴あいだった。
将棋が好きで、純粋で。
そして、驚くほどの才能を持っていた少女。
八一は、その才能を認めていた。
しかし、それと弟子にするかどうかは別問題だ。
まして、自分はまだ16歳。
ついこの間、竜王になったばかりである。
弟子を取るなど、考えたこともなかった。
それなのに。
「ししょー! 今日も将棋を教えてください!」
「……あのねぇ……」
八一は深いため息をついた。
そのとき。
ピロンッ。
スマートフォンが鳴った。
「……ん?」
画面を確認する。
兄弟子からの返信だった。
『銀子と甘いもの食べてた! これから八一のところ行こうかなって思ってるよ!』
「…………」
八一の顔が引きつった。
「……え?」
兄弟子。
猿飛角晴。
それだけなら、まだいい。
問題は。
「……姉弟子も……?」
空銀子。
あの、恐ろしい姉弟子が。
今から。
ここへ来る。
「…………」
八一は、ゆっくりと目の前の少女へ視線を向けた。
あいは、にこにこと笑っている。
「ししょー?」
「…………」
八一の額に、冷たい汗が流れた。
(……まずい)
非常にまずい。
ただでさえ、事情が複雑なのだ。
そこへ銀子が来たらどうなるか。
考えたくもなかった。
八一は慌ててスマートフォンを操作した。
『ちょっと待ってください!!』
しかし。
既読。
返事はない。
「……終わった」
八一は小さく呟いた。
「ししょー?」
「……あいちゃん」
「はい!」
「……ちょっと、まずいことになった」
「……?」
あいは不思議そうに首を傾げた。
───
それから約20分後。
ピンポーン。
「…………」
八一の肩が跳ねた。
「……来た」
玄関の向こうから、明るい声が聞こえる。
「八一ー! 来たよー!」
間違いない。
兄弟子の声だ。
さらに。
「……八一、いるんでしょ」
銀子の声も聞こえた。
八一は、その場で固まった。
(……どうしよう)
何と説明すればいいのか。
どうすれば誤解されずに済むのか。
必死に考える。
しかし、答えは出ない。
「……八一?」
角晴の声がする。
「大丈夫?」
「……八一」
続いて銀子の声。
「……開けなさい」
「…………」
八一は観念した。
「……はい」
ゆっくりと玄関へ向かう。
そして。
カチャリ。
扉を開けた。
「やっほー、八一!」
そこには、いつもの笑顔を浮かべた角晴がいた。
その隣には、無表情の銀子。
「……こんにちは、兄弟子」
「うん! こんにちは!」
「……姉弟子も」
「……うん」
銀子の声は、妙に冷たかった。
八一は引きつった笑みを浮かべる。
「……えっと、何か用ですか?」
「いやぁ、最近忙しそうだったから!」
角晴は笑った。
「大丈夫かなって思って!」
「……あ、ありがとうございます」
「……で?」
銀子が口を開いた。
「……何を隠してるの?」
「…………っ!?」
八一の顔が凍りつく。
「……な、何のことですか?」
「……顔に書いてある」
「……ええっ!?」
角晴は八一の顔を覗き込んだ。
「本当だ! すごい汗!」
「兄弟子!?」
「大丈夫? 体調悪い?」
「い、いや! そうじゃなくて……!」
八一が慌てていると。
部屋の奥から、小さな足音が聞こえてきた。
「ししょー?」
「…………」
八一の動きが止まる。
角晴と銀子も、同時に顔を向けた。
「……ん?」
「…………?」
そこには、可愛らしい少女が立っていた。
長い髪を揺らし、ぱっちりとした目で2人を見つめている。
「あっ!」
少女は嬉しそうに声を上げた。
「お客さんですか?」
「…………」
角晴が瞬きをする。
銀子の目が細くなる。
八一は、天井を仰いだ。
(……終わった)
完全に。
終わった。
───
「……八一」
最初に口を開いたのは、銀子だった。
「……この子、誰?」
「……えっと」
八一は言葉に詰まる。
「……その……」
「……何?」
「……いや、説明すると長くなるんですけど……」
銀子の目が、さらに細くなった。
「……へぇ」
「……っ!」
角晴は、そんな2人のやり取りを眺めていた。
そして、あいへ視線を向ける。
「こんにちは!」
「こんにちは!」
あいは元気よく頭を下げた。
「雛鶴あいです!」
「雛鶴あいちゃんかぁ!」
角晴は笑顔で頷いた。
「俺は猿飛角晴! よろしくね!」
「さるとび……?」
あいは、少し考える。
そして。
「……あっ!!」
突然、大きな声を上げた。
「もしかして!!」
「ん?」
「将棋界の帝王さんですか!?」
「……あはは!」
角晴は思わず笑った。
「そう呼ばれてるね!」
「わぁぁぁ!!」
あいの目が輝いた。
「本物ですか!?」
「本物だよ!」
「すごいです!!」
あいは興奮した様子で角晴を見つめる。
「わたし、棋譜見たことあります!」
「えっ、本当?」
「はい!」
あいは力強く頷いた。
「帝位を取ったときの将棋です!」
角晴は目を丸くした。
「あっ! 相掛かりの?」
「はい!」
「おおっ!」
角晴の顔が、一気に明るくなった。
「俺、あの将棋すっごく好きなんだ!」
「わたしもです!」
「本当!?」
「はい! 最後の攻めがすごくて!」
「分かる! あそこ、結構難しかったんだよね!」
2人は、すっかり将棋の話で盛り上がっていた。
八一は、その様子を呆然と見つめている。
(……兄弟子……)
さすがというべきか。
本当に、誰とでも将棋の話で仲良くなってしまう。
一方。
「…………」
銀子は、無言で2人を見つめていた。
正確には。
角晴に嬉しそうに話しかけているあいを、じっと見ていた。
「……角晴」
「ん?」
「……その子と仲良くするのはいいけど」
「うん?」
「……まず、八一から事情を聞きなさい」
「あっ!」
角晴は思い出したように顔を上げた。
「そうだった!」
そして、八一へ向き直る。
「八一! この子、どうしたの?」
「……やっと聞いてくれた……」
八一は疲れ切った声を漏らした。
───
「……なるほどねぇ」
事情を聞き終えた角晴は、ゆっくりと頷いた。
全員でリビングへ移動し、八一がこれまでの経緯を説明したのだった。
雛鶴あい。
石川県の旅館の娘。
以前、八一と将棋を指したことがあり、そのときから弟子入りを希望していた。
そして今回。
その約束を胸に、大阪までやって来た。
「……すごい行動力だね!」
角晴は感心したように言った。
「俺、びっくりした!」
「えへへ!」
あいは嬉しそうに笑う。
「ししょーのお弟子さんになりたいので!」
「……だから、まだ弟子じゃないって!」
八一は慌てて訂正した。
「……まったく」
銀子は腕を組んだ。
「……あんた、何やってるのよ」
「いや、俺だって困ってるんですよ!」
「……困ってる?」
「はい!」
八一は必死に頷いた。
「突然来たんですよ!? 俺だってどうしたらいいか……!」
「……でも、家に上げたんでしょ」
「そ、それは……!」
「……ふーん」
銀子の視線が冷たい。
八一は思わず角晴へ助けを求めた。
「兄弟子……!」
「ん?」
「……助けてください……!」
角晴は少し考えた。
そして、あいへ向き直る。
「あいちゃん」
「はい!」
「将棋、好き?」
「大好きです!」
即答だった。
角晴は嬉しそうに微笑んだ。
「そっか!」
「はい!」
「じゃあ、八一の弟子になりたいのも、その気持ちから?」
「はい!」
あいは真剣な表情になった。
「もっともっと強くなりたいんです!」
「……うん」
角晴は頷いた。
「その気持ちは、すごく分かるよ」
幼い頃の自分を思い出す。
もっと将棋を指したい。
もっと強くなりたい。
それだけを考えていた日々。
「……でもね」
角晴は、少しだけ声を落とした。
「弟子になるっていうのは、簡単なことじゃないんだ」
あいは目を瞬かせた。
「……はい」
「八一も、あいちゃんの将棋にちゃんと向き合わなきゃいけなくなるし」
「…………」
「もちろん、あいちゃんも大変なことがいっぱいあると思う」
角晴は柔らかく笑った。
「だから、ちゃんと考えて決めないとね」
あいは、しばらく黙っていた。
そして。
「……それでも!」
顔を上げる。
「わたし、強くなりたいです!」
「…………」
「ししょーみたいに、強い棋士になりたいんです!」
その瞳には、迷いがなかった。
角晴は、少しだけ目を細めた。
(……いい目だなぁ)
将棋が好きで。
強くなりたい。
その気持ちが、真っ直ぐに伝わってくる。
角晴は笑った。
「……そっか!」
そして、八一へ向き直る。
「八一」
「……はい」
「この子、すごくいい子だね!」
「……それは、そうですけど」
八一は困ったように頭を掻いた。
「俺、まだ弟子を取るなんて考えたこともなくて……」
「うん、そうだよね」
角晴は頷く。
「でも、八一ならいい師匠になれると思うよ!」
「……兄弟子」
「だって、八一って将棋にはすっごく真面目だし!」
「…………」
「教えるのも、きっと上手だと思う!」
八一は、少しだけ目を伏せた。
「……ありがとうございます」
その言葉には、素直な嬉しさが滲んでいた。
しかし。
「……ちょっと待ちなさい」
銀子の声が響いた。
「……角晴」
「ん?」
「……簡単に勧めすぎ」
「え?」
「……弟子を取るって、そういうことでしょ」
「……ああ、うん」
角晴は少し考えた。
「確かに、そうだね」
銀子は八一を見つめる。
「……ちゃんと考えなさいよ」
「……はい」
八一は真剣に頷いた。
───
その後。
少し落ち着いたところで、八一がお茶を用意することになった。
「……兄弟子、お茶でいいですか?」
「うん! ありがと!」
「姉弟子は?」
「……同じのでいい」
「あいちゃんは?」
「わたしもお茶で大丈夫です!」
八一はキッチンへ向かった。
角晴はソファに座り、あいと将棋の話をしている。
銀子は、その隣で静かにお茶を待っていた。
「……そういえば」
あいが口を開いた。
「猿飛三冠って、空女王と仲良しなんですね!」
「……え?」
銀子が反応する。
角晴は笑顔で頷いた。
「うん! 小さい頃から一緒にいるからね!」
「へぇぇ!」
あいの目が輝く。
「じゃあ、お付き合いしてるんですか?」
「…………っ!?」
銀子が、勢いよく顔を上げた。
「……なっ!?」
角晴は一瞬、きょとんとする。
そして。
「あはは!」
楽しそうに笑った。
「違う違う!」
「えっ、違うんですか?」
「うん!」
角晴は何でもないことのように答える。
「銀子は、妹みたいなものだからね!」
「…………」
銀子の表情が、すっと消えた。
「……妹」
小さく呟く。
角晴は気付いていない。
「そうそう! 家族みたいな感じ!」
「…………」
銀子のこめかみが、わずかに動いた。
「……角晴」
「ん?」
「……あとで覚えてなさい」
「ええっ!? 何で!?」
あいは不思議そうに2人を見つめる。
「……?」
そして。
「あっ!」
何かを思いついたように手を叩いた。
「じゃあ、猿飛三冠と空女王は兄妹なんですね!」
「うん! そんな感じ!」
「……違う!」
銀子が即座に否定した。
「えっ!?」
あいが驚く。
角晴も目を丸くした。
「……銀子?」
「……何でもない!」
「ええっ!?」
角晴は困惑した。
あいは、ますます分からなくなった。
そんな2人の様子を見て。
キッチンから戻ってきた八一は、嫌な予感を覚えた。
(……何か、また面倒なことになってる……)
───
それからしばらくして。
八一の部屋には、ようやく落ち着いた空気が戻っていた。
……はずだった。
「ししょー!」
「……はいはい」
「この前の将棋、もう1回教えてください!」
「……分かったから、ちょっと待って」
八一が将棋盤を準備している。
あいは、その隣で嬉しそうに駒を並べていた。
角晴はソファから、その様子を眺めている。
「……いいなぁ」
ぽつりと呟いた。
銀子が顔を向ける。
「……何が?」
「弟子!」
「……弟子?」
「うん!」
角晴は笑った。
「俺も、いつか弟子を取ってみたいなぁって思って!」
「…………」
銀子は、少し驚いたように角晴を見つめた。
「……あんたが?」
「うん!」
「……まだ15歳でしょ」
「あはは! そうなんだけど!」
角晴は頭を掻いた。
「でも、八一見てたら、ちょっと羨ましくなっちゃった!」
「……まだ正式に弟子になったわけじゃないけど」
「それもそうだね!」
角晴は笑った。
そして、将棋盤へ視線を戻す。
あいが一生懸命に駒を並べている。
八一は、その様子を優しく見守っていた。
角晴は、ふと昔の自分を思い出した。
清滝に初めて将棋を教わった日。
難しい局面を前に、笑ってしまったこと。
そして。
涙を流しながら、もう一度将棋を好きだと思えた日のこと。
(……おじさんも、こんな気持ちだったのかな)
角晴は小さく微笑んだ。
「……いいね」
「……何が?」
銀子が尋ねる。
角晴は、柔らかく答えた。
「将棋って、やっぱりいいなぁって!」
「…………」
銀子は、その横顔を見つめた。
(……ほんとに)
いつも、そうだった。
角晴は将棋の話になると、心から楽しそうに笑う。
その笑顔を見ていると、自分まで嬉しくなってしまう。
銀子は、そっと目を伏せた。
「……そうね」
小さく答える。
角晴は、にこりと笑った。
───
しかし。
平穏な時間は、長くは続かなかった。
「……あっ!」
突然、あいが声を上げた。
「……どうしたの?」
八一が顔を向ける。
「ししょー! これ!」
あいは、スマートフォンを手にしていた。
八一の部屋で撮った写真を、嬉しそうに見せている。
「……あいちゃん?」
「さっきの写真です!」
「……写真?」
角晴が興味津々で近づいてくる。
「何の写真?」
「ししょーと一緒に撮った写真です!」
「おおっ!」
角晴は笑った。
「いいね!」
「はい!」
あいは嬉しそうに頷いた。
「でも、これだとちょっと普通なので……」
「……普通?」
角晴が首を傾げる。
あいは、何やら真剣な表情で考え始めた。
そして。
「……あっ!」
突然、八一の腕に抱きついた。
「ししょー!」
「うわっ!?」
八一が驚く。
その瞬間。
カシャッ。
角晴のスマートフォンから、シャッター音が響いた。
「……あ」
全員の動きが止まった。
「…………」
八一が、ゆっくりと角晴を見る。
「……兄弟子?」
「……あはは」
角晴は、少しだけ目を逸らした。
「……いい写真、撮れたかも」
「……何してるんですか!?」
八一の悲鳴が響いた。
角晴は楽しそうに笑う。
「いやぁ、何か面白くて!」
「面白くないです!!」
「ええっ!?」
あいは、きょとんとしている。
「……?」
そして、銀子。
「…………」
銀子は無言でスマートフォンの画面を覗き込んだ。
そこには。
幼い少女に腕を抱きしめられ、慌てふためく竜王の姿が映っていた。
「…………」
銀子の口元が、わずかに持ち上がる。
「……へぇ」
「……姉弟子?」
八一の背筋が凍った。
「……これは、なかなか」
「……な、何がですか!?」
銀子は静かに微笑んだ。
「……面白い写真ね」
「…………っ!?」
八一は青ざめた。
一方、角晴は楽しそうに笑っている。
「でしょ!」
「……角晴」
「ん?」
「……それ、送って」
「いいよ!」
「兄弟子ぃぃぃ!?」
八一の絶叫が、部屋中に響き渡った。
───
「……もう、最悪だ……」
八一はソファに崩れ落ちていた。
角晴は隣で、楽しそうに写真を眺めている。
「いやぁ、いい写真!」
「……消してください」
「えー?」
「……お願いします……」
八一は本気で泣きそうだった。
しかし。
「……八一」
銀子が静かに口を開く。
「……何ですか、姉弟子……」
「……この子のこと、ちゃんと責任持ちなさいよ」
「……はい?」
八一が顔を上げる。
銀子は、あいを見つめた。
「……将棋を教えるなら、中途半端なことしないで」
「…………」
八一の表情が、少しだけ真剣になった。
「……分かってます」
「……ならいい」
銀子は短く答えた。
角晴も、ゆっくりと頷く。
「うん!」
そして、笑顔で続けた。
「八一なら大丈夫だよ!」
「……兄弟子」
「俺、信じてるから!」
八一は、少しだけ目を伏せた。
「……ありがとうございます」
その言葉には、確かな感謝が込められていた。
だが。
「……それと」
角晴が、にこにこと笑った。
「写真、めっちゃ面白いから保存しとくね!」
「消してくださいよぉぉぉ!!」
再び、八一の悲鳴が響き渡った。
銀子は小さく笑い。
あいは不思議そうに首を傾げ。
角晴は、心の底から楽しそうに笑っていた。
───
夕方。
八一のマンションを出た角晴と銀子は、並んで歩いていた。
「いやぁ、楽しかった!」
角晴は満足そうに笑った。
「八一、大変そうだったね!」
「……誰のせいよ」
「え?」
「……何でもない」
銀子は小さくため息をついた。
そして、角晴を横目で見る。
「……あんた、あの写真どうするの?」
「ん? 保存してるよ!」
「……本当に?」
「うん!」
角晴は笑った。
「八一が困ってたら消すけどね!」
「……もう困ってたでしょ」
「あはは! 確かに!」
角晴は頭を掻いた。
「じゃあ、あとで消しておこっかな!」
「……そうしなさい」
銀子は呆れたように答えた。
しばらく歩く。
春の風が、2人の間を通り抜けた。
「……ねえ、銀子」
「……何?」
「今日、楽しかった?」
銀子は足を止めた。
「…………」
角晴も立ち止まる。
「……銀子?」
「……楽しかった」
小さな声だった。
角晴は、嬉しそうに笑った。
「よかった!」
「…………」
「俺もすっごく楽しかったよ!」
銀子は、少しだけ視線を逸らした。
「……そう」
角晴は空を見上げた。
夕暮れの空が、淡い橙色に染まっている。
「また一緒に出かけようね!」
「…………」
銀子は、しばらく黙っていた。
そして。
「……うん」
小さく頷いた。
「……また、行こう」
角晴は笑顔で頷いた。
「約束ね!」
「……うん」
2人は、再び歩き始めた。
将棋界の帝王。
浪速の白雪姫。
盤上では、多くの棋士が恐れる才能を持つ2人。
けれど、今はただの少年と少女だった。
将棋の話をして。
甘いものを食べて。
弟弟子の騒動に巻き込まれて。
笑い合う。
そんな、ごく普通の春休み。
しかし。
この日、2人が出会った小さな少女の存在は、やがて将棋界に大きな変化をもたらしていく。
九頭竜八一と雛鶴あい。
竜王と、その弟子を目指す少女。
そして、猿飛角晴。
若き三冠棋士の前にも、いずれ新たな出会いが訪れることになる。
まだ誰も知らない未来。
まだ誰も読めない一手。
それでも、角晴はきっと笑うだろう。
難しい局面ほど。
未知の世界が広がるほど。
彼は、将棋を楽しむのだから。