3月。
春休みの大阪。
午前10時30分。
大阪市内のマンションの一室で、けたたましいアラームが鳴り響いていた。
ピピピピピッ!
「……んぅ……」
ベッドの中から、ゆっくりと腕が伸びる。
手探りでスマートフォンを掴むと、角晴は目を開けないまま画面を操作した。
ピッ。
アラームが止まる。
「……あと……5分……」
そのまま、再び布団へ潜り込もうとする。
しかし。
「…………」
何かを思い出したように、角晴の動きが止まった。
「……あれ?」
薄く目を開ける。
ぼんやりと天井を見つめながら、昨日の出来事を思い返した。
銀子と和カフェへ行った。
抹茶パフェを食べた。
八一のマンションへ行ったら、小さな女の子がいた。
その子は、八一の弟子になりたいと言っていた。
そして、帰り道。
『また一緒に出かけようね!』
『……また、行こう』
銀子と、そんな約束をした。
「……ふふっ」
角晴は小さく笑った。
昨日は楽しかった。
甘いものも美味しかったし、八一やあいとの会話も面白かった。
特に、あいの将棋への熱意には驚かされた。
まだ9歳だというのに、石川県から大阪までやって来るほど、将棋が好きなのだ。
(……すごいよねぇ)
自分も幼い頃から将棋が大好きだった。
しかし、あいの行動力には素直に感心してしまう。
(……八一、どうするんだろ)
そんなことを考えながら、角晴は寝返りを打った。
そして。
「…………」
再び目を閉じた。
「……まあ……あと5分……」
結局、二度寝するのだった。
───
午前11時15分。
ピロンッ。
スマートフォンの通知音が響いた。
「……ん……?」
角晴は布団の中から手を伸ばした。
画面を見る。
送り主は、清滝桂香。
『角晴くん、おはよう! 今日、何か予定ある?』
「……桂香姉さん……?」
角晴は眠そうな目を擦った。
そして、ゆっくりと返信する。
『おはよー! 特にないよ!』
数秒後。
『じゃあ、久しぶりにお昼でも食べに来ない? お父さんも今日は家にいるから』
「……おっ」
角晴の目が、少しだけ開いた。
清滝家。
3歳の頃から、中学2年生になるまで暮らしていた家。
今はマンションで一人暮らしをしているものの、角晴にとっては大切な実家だった。
最近も何度か顔を出しているが、ゆっくり食事をする機会は少なかった。
「……いいね!」
角晴は体を起こした。
『行く! 何か持っていこうか?』
『何もいらないよ。角晴くんが来てくれれば十分!』
その返信を見て、角晴は柔らかく微笑んだ。
「……桂香姉さんらしいなぁ」
続けて、メッセージが届く。
『それと、銀子ちゃんもいるよ』
「あっ、そうなんだ!」
銀子は清滝家で暮らしている。
昨日も一緒に出かけたばかりだったが、特に不思議なことではない。
角晴はすぐに返信した。
『じゃあ、準備して向かうね!』
『気をつけて来てね!』
「……よし!」
角晴はベッドから立ち上がった。
そして、時計を見る。
午前11時19分。
「……あ」
少しだけ考える。
昼食に誘われたということは、あまりのんびりしていられない。
「……急ごっ!」
角晴は慌てて洗面所へ向かった。
───
正午過ぎ。
大阪市内の住宅街。
角晴は、見慣れた道を歩いていた。
春の柔らかな日差しが、住宅街を照らしている。
道端には小さな花が咲き、時折吹く風にも冬の冷たさはほとんど感じられない。
「……もう春だなぁ」
角晴は空を見上げた。
ついこの間まで寒かったというのに、季節が変わるのは早いものだ。
そう考えているうちに、目的の家が見えてきた。
清滝家。
昔から何度も出入りしてきた、懐かしい家。
角晴は門の前で足を止めた。
「……ふふっ」
自然と笑みが零れる。
一人暮らしを始めた今でも、ここへ来ると不思議と落ち着く。
角晴は玄関へ向かった。
ピンポーン。
「はーい!」
家の中から、聞き慣れた女性の声がした。
少しして、玄関の扉が開く。
「いらっしゃい、角晴くん!」
「桂香姉さん! こんにちは!」
そこにいたのは、清滝桂香。
清滝鋼介の娘であり、角晴にとっては本当の姉のような存在だった。
桂香は角晴の姿を見ると、嬉しそうに微笑んだ。
「久しぶりだね!」
「あはは! この前も来たじゃん!」
「そうだけど、最近はゆっくりしていかなかったでしょ?」
「確かに!」
角晴は笑った。
「今日は予定ないから、ゆっくりできるよ!」
「本当? じゃあ、夕飯も食べていく?」
「えっ、いいの!?」
「もちろん!」
桂香は笑顔で頷いた。
「お父さんも喜ぶと思うよ」
「じゃあ、お言葉に甘えようかな!」
「ふふっ。どうぞ!」
角晴は靴を脱ぎ、家へ上がった。
「ただいまー!」
自然と、そんな言葉が口から出た。
桂香は一瞬、目を丸くする。
そして、優しく微笑んだ。
「おかえり、角晴くん」
その返事に、角晴も笑った。
───
「おじさーん!」
リビングへ入った角晴が、元気よく声を上げた。
すると、奥から豪快な声が返ってきた。
「おおっ! 角晴か!」
清滝鋼介。
角晴の師匠であり、幼い頃から彼を育ててきた人物だった。
清滝は新聞を置くと、嬉しそうに笑った。
「よう来たなぁ!」
「久しぶり!」
「何が久しぶりや! この前も顔見せとったやろ!」
「あはは! 桂香姉さんにも同じこと言われた!」
角晴が笑う。
清滝も豪快に笑った。
「ははは! そらそうやろ!」
角晴は向かいのソファへ腰を下ろした。
「今日はお休み?」
「おう! たまには家でゆっくりせんとな!」
「そっか!」
「お前はどうや? 対局の方は順調か?」
「うん! 最近も面白い将棋が多くて楽しいよ!」
「……ははっ!」
清滝は嬉しそうに笑った。
「相変わらずやなぁ、お前は!」
「え?」
「いや、何でもあらへん!」
清滝は首を振った。
昔から、角晴はそうだった。
勝ったときよりも、難しい将棋を指せたときの方が嬉しそうにする。
苦しい局面に追い込まれても、むしろ楽しそうに笑う。
その姿は、幼い頃から変わっていなかった。
「そういや、こないだの対局見たで」
「本当?」
「おう。終盤、なかなか危なかったやないか」
「あはは! そうなんだよ!」
角晴は頭を掻いた。
「途中、完全に読みを外されちゃってさ!」
「せやろな。あの攻めは鋭かったわ」
「うん! でも、すっごく面白かった!」
清滝は、そんな弟子を見つめていた。
「……角晴」
「ん?」
「……お前、ほんまに将棋好きやなぁ」
「もちろん!」
角晴は笑顔で答えた。
「大好きだよ!」
その言葉を聞いて、清滝は少しだけ目を細めた。
(……変わらんなぁ)
幼い頃の角晴を思い出す。
まだ3歳だった、小さな少年。
将棋盤の前に座り、難しい局面になるほど楽しそうに笑っていた。
そして。
両親を失った後。
涙を流しながら、もう一度将棋を楽しいと言ったあの日のこと。
清滝にとって、あの光景は今でも忘れられなかった。
(……立派になったもんや)
今や三冠。
将棋界の帝王と呼ばれる存在。
それでも、目の前にいる少年は、清滝にとって昔から変わらない大切な弟子だった。
「……おじさん?」
「ん?」
「どうかした?」
「……いや」
清滝は笑った。
「何でもあらへん!」
角晴は不思議そうに首を傾げた。
───
「角晴くん、お昼できたよー!」
キッチンから桂香の声が響いた。
「はーい!」
角晴は立ち上がる。
「手伝うよ!」
「あっ、大丈夫だよ!」
「いいって! 俺も何かやりたいし!」
角晴はキッチンへ向かった。
桂香は苦笑する。
「もう、角晴くんは昔からそうなんだから」
「あはは!」
テーブルに料理を並べる。
今日の昼食は、桂香が作った和食だった。
炊きたてのご飯。
味噌汁。
焼き魚。
小鉢にはほうれん草のおひたしと卵焼き。
「わぁ、美味しそう!」
角晴の目が輝いた。
「桂香姉さんのご飯、久しぶり!」
「ふふっ。たくさん食べてね!」
「もちろん!」
そのとき。
「……あ」
廊下から、小さな声が聞こえた。
角晴が振り向く。
そこには、空銀子が立っていた。
「銀子!」
「……角晴」
銀子は少しだけ目を丸くした。
「……来てたの?」
「うん! 桂香姉さんに呼ばれて!」
「……そう」
銀子は小さく頷いた。
昨日、一緒に出かけたばかり。
それなのに、こうして顔を見ると少し嬉しくなる。
「銀子もお昼?」
「……うん」
「じゃあ一緒に食べよ!」
「……言われなくても」
角晴は笑った。
「それもそうだね!」
桂香は、そんな2人のやり取りを微笑ましそうに眺めていた。
───
「いただきまーす!」
「……いただきます」
「いただきます!」
「ほな、いただこか!」
4人で食卓を囲む。
角晴は早速、卵焼きを一口食べた。
「……ん!」
そして、嬉しそうに笑った。
「やっぱり美味しい!」
「本当?」
「うん! 桂香姉さんの卵焼き大好き!」
「ふふっ。ありがとう!」
桂香は嬉しそうに微笑んだ。
銀子は、その様子を横目で見ていた。
(……本当に、美味しそうに食べるわね)
昔から角晴は、食事の時間が好きだった。
特に、清滝家で家族と一緒に食べる食事。
1人で暮らすようになってからも、それは変わらない。
「そういえば、角晴」
清滝が口を開いた。
「最近、ちゃんと飯食うとるんか?」
「うん! 毎日自炊してるよ!」
「ほぉ、偉いやないか!」
「おじさん、俺を何歳だと思ってるの?」
「ははは! ワシからしたら、まだまだ子供や!」
「ええっ!?」
角晴は不満そうに頬を膨らませた。
桂香が笑う。
「でも、角晴くんの料理、本当に上手だよね」
「そうかな?」
「うん! この前作ってくれたハンバーグも美味しかったし!」
「あっ、あれね!」
角晴は嬉しそうに笑った。
「今度また作るよ!」
「本当? 嬉しい!」
「……角晴」
銀子が口を開いた。
「ん?」
「……この前のフレンチトーストも、美味しかった」
「あっ!」
角晴は笑顔になった。
「本当? よかった!」
「……うん」
銀子は小さく頷く。
桂香は、そんな銀子の様子を見つめていた。
そして、何かを察したように微笑んだ。
「……ふふっ」
「……桂香さん?」
「ううん、何でもないよ!」
銀子は少しだけ眉を寄せた。
(……何、その笑顔……)
何となく、嫌な予感がする。
しかし、桂香はそれ以上何も言わず、楽しそうに食事を続けた。
───
昼食を終えた後。
角晴は清滝と向かい合っていた。
目の前には、将棋盤。
「……ほな、久しぶりに指そか!」
「うん!」
角晴は嬉しそうに頷いた。
「よろしくお願いします!」
「おう。よろしく頼むで!」
2人は駒を並べ始めた。
清滝と角晴。
師匠と弟子。
幼い頃から、数え切れないほど将棋を指してきた2人だった。
しかし、最近はお互いに対局や仕事が忙しく、こうしてゆっくり指す機会も減っていた。
「……さて」
清滝は盤面を見つめた。
「今日はどう来るんや?」
角晴はにっこりと笑う。
「ふふっ、どうしようかなぁ」
「……その顔、何か企んどるな?」
「あはは! どうだろ!」
角晴は駒を手に取った。
パチンッ。
乾いた駒音が響く。
清滝も応じる。
パチンッ。
2人の対局が始まった。
───
「……ほぉ」
対局開始からしばらくして。
清滝が小さく声を漏らした。
角晴は笑顔で盤面を見つめている。
序盤は、互いに飛車先を突き合う展開となった。
相掛かり。
角晴が最も好む戦型だった。
「……やっぱり相掛かりか」
「うん!」
角晴は嬉しそうに頷く。
「おじさんと指すなら、やっぱりこれかなって!」
「ははは! そうかそうか!」
清滝は笑った。
「ほな、ワシも遠慮せんで!」
「もちろん!」
2人は駒を進めていく。
清滝は長年の経験を活かし、堅実に陣形を整えていく。
一方の角晴は、柔軟な駒組みから積極的に仕掛けを狙っていた。
「……ふむ」
清滝が考え込む。
(……なかなか厄介な形にしてきよる)
昔は、角晴の将棋を指導する立場だった。
しかし、今は違う。
目の前の少年は三冠棋士。
自分よりも遥かに高い実績を持つ存在になっていた。
それでも、清滝にとっては大切な弟子。
勝ち負けだけではない。
こうして将棋を指せること自体が、嬉しかった。
パチンッ。
清滝が一手を指す。
すると。
「……あっ」
角晴の表情が変わった。
「……ふふっ」
小さく笑い始める。
清滝は、その笑みを見逃さなかった。
「……何や、角晴」
「ん?」
「……おもろいか?」
角晴は顔を上げた。
そして、嬉しそうに頷く。
「うん!」
その返事を聞いた瞬間。
清滝の脳裏に、懐かしい光景が蘇った。
───
まだ、角晴が幼かった頃。
涙を流しながら将棋盤を見つめていた少年。
『……しょうぎ……たのしい……っ!』
泣きながら。
それでも、笑っていた。
『……ぼく……やっぱり……しょうぎ、だいすき……!』
あの日。
清滝は、少年が再び将棋を楽しめるようになったことが、何よりも嬉しかった。
両親を失った悲しみは、決して消えるものではない。
それでも、角晴はもう一度、将棋を好きだと言えた。
そして今。
目の前には、15歳になった角晴がいる。
三冠を保持し、将棋界の帝王と呼ばれるまでに成長した少年。
それなのに。
将棋を指すときの笑顔は、あの頃と何も変わっていなかった。
───
「……おじさん?」
角晴の声で、清滝は我に返った。
「ん?」
「……大丈夫?」
「……ああ、すまんすまん!」
清滝は笑った。
「ちょっと昔のこと思い出しとったんや!」
「昔?」
「お前が、まだ小さかった頃や」
「あはは! 俺、そんなに変わった?」
「……いや」
清滝は首を振った。
「……変わらんなぁ」
「え?」
「……ほんまに、変わらん」
清滝は、柔らかな笑みを浮かべた。
角晴は不思議そうに首を傾げる。
しかし、すぐに盤面へ視線を戻した。
「……さて!」
そして、楽しそうに笑う。
「おじさん、ここからどうする?」
「……おっ?」
清滝も盤面を見つめた。
角晴の仕掛けは、思っていた以上に厳しかった。
「……こら、なかなか難しいな」
「でしょ!」
角晴の目が輝く。
「俺も、ここから先が楽しみなんだ!」
清滝は思わず笑った。
「……ははっ!」
そして、駒を手に取る。
「ほな、ワシも本気でいかせてもらうで!」
「うん!」
角晴は嬉しそうに頷いた。
「楽しみにしてる!」
───
それから約1時間。
対局は終盤を迎えていた。
清滝の攻めは鋭かった。
長年の経験に裏打ちされた、重厚な指し回し。
一手でも対応を間違えれば、一気に形勢を損ねかねない。
しかし。
「……ふふっ」
角晴は笑っていた。
(……面白い)
盤面を見つめる。
(ここで受けたら……いや、それだとちょっと苦しいか)
いくつもの変化が、頭の中に浮かんでは消えていく。
(……だったら、こっちかな)
角晴は駒を手に取った。
パチンッ。
清滝の目が細くなる。
「……ほぉ」
その一手は、清滝の予想から少し外れていた。
受けるのではなく、攻め合う。
しかも、相手の攻めを利用するような手だった。
「……なるほどなぁ」
清滝は盤面を見つめた。
「……こら、おもろい」
「でしょ!」
角晴は嬉しそうに笑う。
「俺も、ここが一番難しいと思う!」
清滝は、しばらく考え込んだ。
そして、駒を進める。
パチンッ。
角晴の笑みが深くなる。
「……あはは!」
思わず声が零れた。
「おじさん、すごい!」
「……何や?」
「その手、俺の読みより厳しい!」
「ははは! まだまだ若いもんには負けられへんからな!」
「うん!」
角晴は嬉しそうに頷いた。
そして、再び読みへ沈む。
やがて。
パチンッ。
角晴が一手を指した。
清滝は、その手を見つめる。
「…………」
しばらくして。
「……あかんな」
小さく呟いた。
「……角晴」
「ん?」
「……負けました」
清滝が頭を下げる。
角晴も姿勢を正した。
「ありがとうございました!」
対局は、角晴の勝利で終わった。
「……いやぁ!」
角晴は大きく息を吐いた。
「楽しかった!」
清滝は苦笑する。
「……ほんま、強うなったなぁ」
「えへへ!」
角晴は嬉しそうに笑った。
「でも、おじさんの最後の攻め、すごく怖かったよ!」
「……そうか?」
「うん!」
角晴は盤面を並べ直し始める。
「ここなんだけど、別の変化もあったと思うんだよね!」
「……どれどれ」
2人は、自然と感想戦を始めた。
その様子を、少し離れたところから見つめていた人物がいた。
清滝桂香。
そして、空銀子だった。
「……ふふっ」
桂香が微笑む。
「お父さん、嬉しそう」
「……そうだね」
銀子は頷いた。
角晴と清滝が楽しそうに将棋を指している。
その光景は、昔から何度も見てきたものだった。
「……角晴くん、本当に楽しそうだね」
「……いつも、あんな感じです」
「そうだね」
桂香は柔らかく笑った。
「……昔から、ずっと」
銀子は、角晴の横顔を見つめた。
(……うん)
昔から、ずっと。
角晴は将棋が大好きだった。
どれほど難しい局面でも。
どれほど苦しい将棋でも。
楽しそうに笑う。
銀子は、その笑顔が好きだった。
(……本当に、変わらない)
そう思いながら。
銀子も、ほんの少しだけ微笑んだ。
───
夕方。
清滝家のキッチンでは、夕食の準備が始まっていた。
「角晴くん、本当に手伝ってくれるの?」
「もちろん!」
角晴は袖をまくった。
「今日は俺も作りたい!」
「ふふっ。ありがとう!」
桂香は嬉しそうに頷いた。
「じゃあ、野菜切ってもらっていい?」
「了解!」
角晴は包丁を手に取った。
慣れた手つきで野菜を切り始める。
その様子を見て、桂香は感心したように笑った。
「……本当に上手になったね」
「そう?」
「うん!」
桂香は頷く。
「昔は、包丁持つのも危なっかしかったのに」
「あはは! そりゃそうだよ!」
角晴は笑った。
「小さい頃から手伝ってたもんね!」
「そうだねぇ」
桂香は懐かしそうに目を細めた。
まだ幼かった角晴。
両親を失い、清滝家で暮らし始めた頃。
最初は、何をするにも遠慮がちだった。
食事を出されても、黙って食べるだけ。
何かを欲しいと言うことも少なかった。
しかし、少しずつ笑顔を取り戻し、やがて桂香の後ろをついて回るようになった。
『けいかおねえちゃん!』
『なぁに?』
『ぼくも、やりたい!』
料理をしていると、必ずと言っていいほど手伝いたがった。
最初は野菜を洗うだけ。
次は、簡単な盛り付け。
そして、少しずつ包丁の使い方も覚えていった。
「……懐かしいね」
桂香が呟く。
「ん?」
角晴が顔を上げた。
「何が?」
「……角晴くんが小さかった頃のこと」
「あはは! また昔の話?」
角晴は楽しそうに笑う。
「おじさんも、さっき同じこと言ってたよ!」
「そうなの?」
「うん!」
桂香は小さく微笑んだ。
「……そっか」
それから、少しだけ真剣な表情になる。
「……角晴くん」
「ん?」
「……一人暮らし、寂しくない?」
角晴は、少しだけ目を丸くした。
「……寂しい?」
「うん」
桂香は、ゆっくりと頷いた。
「……無理してないかなって」
「…………」
角晴は少し考えた。
そして、柔らかく笑った。
「……大丈夫だよ!」
「……本当?」
「うん!」
角晴は頷く。
「一人暮らしも楽しいし、料理も好きだし!」
「……そう」
「それに」
角晴は、少しだけ笑みを深めた。
「俺には、帰ってくる場所があるからね!」
「…………」
桂香の動きが止まった。
「……角晴くん」
「ん?」
「……ここ?」
角晴は、きょとんとした。
そして、当然のように答えた。
「もちろん!」
「…………」
「だって、俺の実家でしょ?」
その言葉を聞いた瞬間。
桂香の胸が、じんわりと温かくなった。
「……そっか」
小さく呟く。
「……そうだね」
角晴は笑った。
「うん!」
桂香も、ゆっくりと微笑んだ。
「……おかえり、角晴くん」
「……え?」
突然の言葉に、角晴は目を丸くした。
しかし、すぐに笑顔になる。
「……ただいま!」
その声は、昔と変わらず明るかった。
───
「……何してるの?」
キッチンの入口から、銀子の声が聞こえた。
「銀子!」
角晴が振り向く。
「夕飯作ってる!」
「……見れば分かる」
「ええっ!?」
角晴は困ったように笑う。
銀子は、キッチンの中を覗き込んだ。
「……何作るの?」
「今日は肉じゃが!」
「……肉じゃが?」
「うん!」
角晴は嬉しそうに頷いた。
「あと、だし巻き卵とお味噌汁!」
「……結構作るのね」
「せっかくだし!」
桂香が笑った。
「銀子ちゃんも手伝ってくれる?」
「……はい」
銀子は頷いた。
そして、角晴の隣へ立つ。
「……何すればいい?」
「じゃあ、じゃがいもの皮むいてくれる?」
「……分かった」
銀子はピーラーを手に取った。
2人は並んで作業を始める。
角晴は野菜を切り、銀子はじゃがいもの皮をむく。
桂香は鍋を準備していた。
「……ねえ、銀子」
「……何?」
「昨日のパフェ、美味しかったね!」
「……うん」
「また行きたいなぁ」
「……そうね」
「今度は、別のお店も行ってみようよ!」
「…………」
銀子は少しだけ手を止めた。
「……別のお店?」
「うん!」
角晴は笑った。
「銀子のおすすめとかある?」
「……別に、ないけど」
「そっか!」
角晴は少し考えた。
「じゃあ、また俺が探しておくね!」
「……うん」
銀子は小さく頷いた。
そのやり取りを、桂香が静かに聞いていた。
「……ふふっ」
「……桂香さん?」
銀子が顔を上げる。
「……何ですか?」
「ううん!」
桂香は嬉しそうに微笑んだ。
「2人とも、本当に仲良しだなって!」
「…………っ!?」
銀子の顔が、一瞬で赤くなった。
「な、何を……!」
「あはは!」
角晴は楽しそうに笑った。
「そりゃ、昔から一緒にいるからね!」
「……っ!」
銀子は、角晴を睨んだ。
「……バカ」
「ええっ!? また!?」
角晴は困惑する。
桂香は、そんな2人を見て肩を震わせた。
(……本当に、昔から変わらないなぁ)
ただし。
(……角晴くんは、もう少し女の子の気持ちに気付いてあげてもいいと思うけど)
そう思いながら。
桂香は、そっと銀子へ微笑みかけた。
銀子は、その視線に気付く。
「…………」
そして、さらに顔を赤くした。
(……絶対、分かってる……!)
銀子は、恥ずかしさを誤魔化すように、じゃがいもの皮むきへ集中した。
───
午後6時30分。
清滝家の食卓には、温かな料理が並んでいた。
肉じゃが。
だし巻き卵。
味噌汁。
炊きたてのご飯。
そして、桂香が用意した小鉢。
「……おおっ!」
清滝が嬉しそうに声を上げた。
「今日は豪華やなぁ!」
「角晴くんと銀子ちゃんが手伝ってくれたの!」
桂香が笑う。
「ほぉ!」
清滝は角晴を見る。
「角晴、ようやったな!」
「あはは! 俺、料理好きだから!」
「銀子も手伝ったんか?」
「……はい」
銀子は小さく頷いた。
清滝は満足そうに笑った。
「ええこっちゃ!」
4人は席につく。
「いただきまーす!」
「いただきます」
「いただきます!」
夕食が始まった。
清滝は早速、肉じゃがを一口食べる。
「……うまい!」
角晴が嬉しそうに笑った。
「本当!?」
「おう!」
清滝は大きく頷いた。
「角晴、腕上げたなぁ!」
「えへへ!」
角晴は照れたように笑う。
桂香も肉じゃがを食べた。
「うん! 美味しい!」
「よかった!」
銀子も一口食べる。
「…………」
そして、小さく頷いた。
「……美味しい」
「ありがと、銀子!」
角晴は笑った。
銀子は、そっと視線を逸らす。
「……別に」
食卓には、温かな空気が流れていた。
───
食事が進んだ頃。
角晴が、ふと思い出したように口を開いた。
「……あっ、そういえば!」
「ん?」
清滝が顔を上げる。
「おじさん、八一から何か聞いてる?」
「八一?」
「うん!」
角晴は頷いた。
「実は昨日、八一のところに行ったんだけどさ!」
「ほぉ?」
清滝は興味深そうに身を乗り出した。
「何かあったんか?」
「それがね!」
角晴は楽しそうに笑った。
「八一の家に、小さな女の子がいたんだよ!」
「……は?」
清滝の動きが止まった。
「……女の子?」
「うん!」
「……八一の家に?」
「そう!」
清滝は、ゆっくりと箸を置いた。
「…………」
そして、低い声で呟いた。
「……あいつ、何しとんねん」
「……おじさん?」
角晴が首を傾げる。
銀子は、黙々と食事を続けていた。
桂香は苦笑する。
「……角晴くん、もう少し詳しく教えて?」
「あっ、うん!」
角晴は事情を説明し始めた。
雛鶴あいという9歳の少女。
石川県から大阪へ来たこと。
八一の弟子になりたいと言っていること。
そして、八一がどうすればいいのか悩んでいること。
「……なるほどなぁ」
清滝は腕を組んだ。
「……そういうことか」
「うん!」
角晴は頷く。
「すっごく将棋が好きな子だったよ!」
「……ほぉ」
「俺の棋譜も見てくれてたみたいでさ!」
角晴は嬉しそうに笑った。
「帝位を取ったときの将棋、見てくれてたんだ!」
「……そうか」
清滝は少し考えた。
「……八一は、何て言うとった?」
「まだ迷ってるみたい」
「……せやろな」
清滝は頷いた。
「弟子を取るいうんは、簡単なことやないからな」
「うん」
角晴も真剣な表情になる。
「俺も、そう思う」
清滝は、少しだけ角晴を見つめた。
「……お前も、弟子を取りたいんか?」
「えっ?」
突然の質問に、角晴は目を丸くした。
「……何で?」
「いや、何となくや!」
「あはは!」
角晴は笑った。
「実は、ちょっと思った!」
「……ほぉ?」
「八一とあいちゃん見てたら、俺もいつか弟子を取ってみたいなって!」
清滝は、少しだけ目を細めた。
「……そうか」
角晴は笑顔で頷く。
「うん!」
「……弟子を育てるいうんは、大変やぞ?」
「分かってるよ!」
角晴は頷いた。
「だから、今すぐってわけじゃないけどね!」
「……せやな」
清滝は小さく笑った。
「お前なら、ええ師匠になるかもしれんな」
「……本当?」
「おう!」
清滝は豪快に笑った。
「何せ、ワシの弟子やからな!」
「あはは!」
角晴も笑った。
「それ、自分で言う!?」
「ははは! 当たり前や!」
桂香も、銀子も笑っていた。
───
食後。
角晴はリビングのソファに座り、テレビを眺めていた。
清滝は新聞を読み、桂香は食器を片付けている。
銀子は、角晴の隣に座っていた。
「……角晴」
「ん?」
「……今日、帰るの?」
角晴は少し考えた。
「んー……どうしようかな」
「……そう」
銀子は小さく頷いた。
「……もう遅いし」
「うん?」
「……泊まっていけば?」
角晴は目を丸くした。
「……えっ、いいの?」
「……別に、いいでしょ」
「そっか!」
角晴は嬉しそうに笑った。
「じゃあ、泊まろっかな!」
「…………」
銀子は、少しだけ目を伏せた。
「……うん」
そのとき。
「……おっ?」
清滝が顔を上げた。
「角晴、今日は泊まっていくんか?」
「うん! いい?」
「当たり前や!」
清滝は豪快に笑った。
「ここはお前の家でもあるんやからな!」
角晴は、少しだけ目を丸くした。
そして、柔らかく笑う。
「……ありがと、おじさん!」
「おう!」
桂香も嬉しそうに微笑んだ。
「じゃあ、昔の部屋を準備するね!」
「あっ、大丈夫だよ!」
角晴は立ち上がる。
「自分でやる!」
「ふふっ。じゃあ、お願いしようかな!」
「任せて!」
角晴は楽しそうに階段へ向かった。
───
夜。
角晴は、昔使っていた自分の部屋にいた。
「……懐かしいなぁ」
小さく呟く。
部屋の中には、勉強机とベッド。
本棚には、昔読んでいた将棋の本が並んでいる。
壁には、奨励会時代の写真。
そして、机の上には、小さな将棋盤が置かれていた。
角晴は、ゆっくりと部屋を見回した。
「……全然変わってない」
一人暮らしを始めてからも、桂香が掃除をしてくれていたのだろう。
部屋は綺麗に整えられていた。
角晴は机へ近づく。
そして、将棋盤に手を伸ばした。
「…………」
小さな頃。
ここで、何度も将棋を指した。
清滝と。
八一と。
銀子と。
時には1人で、何時間も棋譜を並べていた。
将棋が好きで。
もっと強くなりたくて。
ただ、それだけを考えていた日々。
「……ふふっ」
角晴は小さく笑った。
そして、ふと机の引き出しへ目を向けた。
「……あれ?」
引き出しの奥に、小さな写真立てがあった。
取り出してみる。
そこには、幼い角晴と両親が写っていた。
「…………」
角晴の表情が、少しだけ変わった。
写真の中で、父親は笑っている。
母親も、優しく微笑んでいる。
そして、真ん中にいる幼い角晴は、両親に挟まれて満面の笑みを浮かべていた。
「……お父さん」
小さく呟く。
「……お母さん」
角晴は、写真を見つめた。
幼い頃の記憶。
父親と将棋を指した日。
母親に褒められた日。
そして。
帰ってこなかった、あの日。
「…………」
少しだけ、胸が苦しくなった。
今でも、両親に会いたいと思うことがある。
もし生きていたら。
今の自分を見て、何と言ってくれただろう。
三冠を取ったこと。
九段になったこと。
将棋界の帝王と呼ばれるようになったこと。
きっと、驚いてくれただろう。
そして。
『いい手だなぁ、角晴!』
父親は、あの頃と同じように笑ってくれたかもしれない。
『本当に将棋が好きなのね』
母親も、優しく微笑んでくれたかもしれない。
「……ふふっ」
角晴は小さく笑った。
「……俺、強くなったよ」
写真へ向かって、静かに語りかける。
「……お父さんより、ずっと強くなっちゃった」
少しだけ、寂しそうに笑う。
「……でも」
角晴は写真を見つめた。
「……まだまだ、強くなりたいんだ」
将棋が好きだから。
もっと面白い将棋を指したいから。
その気持ちは、昔から変わらない。
「……これからも、頑張るね」
角晴は、柔らかく微笑んだ。
そして、写真立てをそっと机へ戻した。
───
コンコン。
「……角晴?」
扉の向こうから、銀子の声がした。
「ん? 銀子?」
角晴は振り向いた。
「入っていいよ!」
カチャリ。
扉が開く。
そこには、部屋着姿の銀子が立っていた。
「……何してたの?」
「んー?」
角晴は少し考えた。
「昔の写真、見てた!」
「……写真?」
「うん!」
角晴は机の上の写真立てを指差した。
銀子は、ゆっくりと近づいた。
そして、写真を見つめる。
「…………」
幼い角晴。
そして、その両親。
銀子は、少しだけ目を伏せた。
「……そっか」
小さく呟く。
「……お父さんとお母さん」
「うん」
角晴は頷いた。
「……久しぶりに見た」
「……そう」
銀子は、そっと角晴を見上げた。
「……大丈夫?」
「……え?」
「……寂しくない?」
角晴は、少しだけ目を丸くした。
そして、柔らかく笑った。
「……寂しいよ」
銀子の表情が、わずかに変わった。
「……でもね」
角晴は続ける。
「……俺、今も幸せだから」
「…………」
「おじさんも、桂香姉さんもいるし」
角晴は笑った。
「八一もいるし!」
そして、銀子を見つめる。
「……銀子もいるからね!」
「…………っ」
銀子の頬が、ほんの少し赤くなった。
「……バカ」
「ええっ!?」
角晴は困惑した。
「今、変なこと言った!?」
「……言ってない」
「じゃあ何で!?」
銀子は、そっと視線を逸らした。
「……何でもない」
角晴は首を傾げた。
しかし、すぐに笑った。
「……まあ、いっか!」
銀子は、小さくため息をついた。
(……ほんと、バカ)
でも。
(……よかった)
角晴が笑っている。
それだけで、少し安心した。
───
「……ねえ、銀子」
「……何?」
角晴が口を開いた。
「……久しぶりに、ここで将棋しない?」
銀子は目を瞬かせた。
「……今から?」
「うん!」
角晴は笑った。
「昔、よくここで指してたじゃん!」
「……そうね」
銀子は、少しだけ部屋を見回した。
確かに、昔は何度もこの部屋で将棋を指した。
角晴が棋譜を並べていると、銀子も隣に座った。
そして、気付けば2人で何時間も研究していた。
「……いいよ」
銀子は小さく頷いた。
角晴は嬉しそうに笑う。
「やった!」
2人は将棋盤の前に座った。
駒を並べる。
「よろしくお願いします!」
「……よろしくお願いします」
パチンッ。
駒音が響いた。
静かな夜。
窓の外からは、遠くを走る車の音が聞こえる。
2人は、ゆっくりと将棋を指し始めた。
───
「……ふふっ」
しばらくして。
角晴が小さく笑った。
銀子は、そんな彼を見つめる。
「……何?」
「いやぁ、懐かしいなって!」
「……何が?」
「こうして、この部屋で銀子と将棋指すの!」
「…………」
銀子は、少しだけ視線を落とした。
「……そうね」
角晴は嬉しそうに笑った。
「昔、よく指したよね!」
「……うん」
「銀子、負けるとすっごく悔しそうだった!」
「……今も悔しいけど」
「あはは! それもそうか!」
角晴は笑った。
銀子も、ほんの少しだけ口元を緩めた。
そして、駒を進める。
パチンッ。
角晴の目が輝いた。
「おおっ!」
「……何?」
「今の手、いいね!」
「……そう?」
「うん!」
角晴は嬉しそうに頷いた。
「俺、ちょっと読み違えてた!」
銀子は、少しだけ微笑んだ。
「……じゃあ、勝てるかも」
「ふふっ!」
角晴は笑った。
「それは楽しみ!」
その言葉に、銀子も笑った。
小さな笑みだった。
しかし、確かに笑っていた。
───
対局が終わった頃には、時計の針は午後11時を回っていた。
「……ふぅ!」
角晴は大きく息を吐いた。
「楽しかった!」
「……そうね」
銀子も、小さく頷いた。
勝負は、角晴の勝ちだった。
しかし、銀子も簡単には負けなかった。
中盤では角晴を苦しめ、終盤まで激しい攻防が続いた。
「……銀子、強くなったね」
角晴が呟く。
「……何よ、急に」
「いや、本当に!」
角晴は笑った。
「昔と比べたら、全然違う!」
「……当たり前でしょ」
銀子は少しだけ頬を膨らませた。
「……私だって、ずっと勉強してるんだから」
「うん!」
角晴は嬉しそうに頷いた。
「だから、すっごく楽しい!」
「…………」
銀子は、角晴を見つめた。
その表情は、心から嬉しそうだった。
勝ったからではない。
自分の知らない手に出会えたから。
難しい将棋を指せたから。
それが嬉しいのだ。
(……ほんとに)
銀子は、そっと目を伏せた。
(……角晴らしい)
「……ねえ、角晴」
「ん?」
「……また、指そうね」
角晴は笑顔で頷いた。
「もちろん!」
「……うん」
銀子も、小さく微笑んだ。
───
それから少しして。
銀子は自分の部屋へ戻ることになった。
「……じゃあ、おやすみ」
「うん! おやすみ、銀子!」
角晴は笑顔で手を振った。
銀子は扉の前で、少しだけ立ち止まる。
「……角晴」
「ん?」
「……今日は、楽しかった」
角晴は目を丸くした。
そして、柔らかく微笑む。
「……俺も!」
「…………」
銀子は、小さく頷いた。
「……そっか」
そして、扉を閉めた。
カチャリ。
部屋に静寂が戻る。
角晴は、ゆっくりとベッドへ腰を下ろした。
「……ふぅ」
そして、天井を見上げる。
久しぶりの清滝家。
清滝との将棋。
桂香との料理。
銀子との夜の対局。
どれも、楽しかった。
「……ふふっ」
自然と笑みが零れる。
「……やっぱり、いいなぁ」
この家は、落ち着く。
一人暮らしも楽しい。
自分のペースで生活できるし、好きな時間に研究もできる。
けれど。
こうして家族と過ごす時間も、やっぱり大切だった。
角晴は、机の上の写真立てへ視線を向けた。
「……お父さん、お母さん」
小さく呟く。
「……おやすみ」
そして、部屋の明かりを消した。
───
同じ頃。
清滝家のリビング。
「……なあ、桂香」
清滝が口を開いた。
「何? お父さん」
「……角晴、よう笑うようになったなぁ」
桂香は、少しだけ目を丸くした。
そして、柔らかく微笑む。
「……そうだね」
清滝は、静かに頷いた。
「……あいつが小さかった頃のこと、思い出してな」
「…………」
桂香は、そっと目を伏せた。
両親を失った角晴。
泣いて、泣いて。
何日も笑わなくなった少年。
それでも、清滝と将棋を指すうちに、少しずつ笑顔を取り戻していった。
「……覚えてるよ」
桂香が呟く。
「……角晴くん、泣きながら笑ってたよね」
「……せやな」
清滝は、ゆっくりと頷いた。
「……将棋が楽しい言うてな」
「……うん」
「……あれから、よう頑張ったもんや」
清滝は、少しだけ目を細めた。
「……今じゃ三冠や」
「……本当だね」
桂香は微笑んだ。
「……でも」
「ん?」
「……角晴くん、昔と変わらないね」
清滝は、一瞬だけ目を丸くした。
そして。
「……ははっ!」
豪快に笑った。
「……せやな!」
桂香も笑う。
「……本当に、変わらない」
将棋が大好きで。
難しい局面ほど楽しそうに笑う。
そして、家族を大切にする。
そんな少年。
猿飛角晴。
清滝にとっても、桂香にとっても。
彼は、いつまでも大切な家族だった。
───
翌朝。
清滝家。
午前9時。
ピンポーン。
静かな家に、インターホンの音が響いた。
「……あら?」
桂香が顔を上げる。
「こんな朝から、誰だろう?」
玄関へ向かう。
そして、扉を開けた。
「……あっ」
そこには、見慣れた少年が立っていた。
九頭竜八一。
その隣には、小さな少女。
雛鶴あい。
「……桂香さん、おはようございます」
八一が頭を下げる。
「八一くん!」
桂香は驚いたように目を丸くした。
「どうしたの? こんな朝から」
「……実は」
八一は、少しだけ困ったように笑った。
「……師匠に、相談したいことがあって」
桂香は、隣にいるあいへ視線を向ける。
「……その子は?」
「……えっと」
八一が言葉に詰まる。
すると、あいが元気よく頭を下げた。
「初めまして! 雛鶴あいです!」
「……あら!」
桂香は、優しく微笑んだ。
「初めまして、あいちゃん!」
「はい!」
あいは嬉しそうに笑った。
その様子を見ながら。
八一は、そっと息を吐いた。
(……さて)
ここからが、本番だった。
そして。
2階の寝室では。
「……すぅ……」
猿飛角晴が、まだ気持ちよさそうに眠っていた。
昨日、あれほど楽しく将棋を指していた少年は。
今日もまた。
朝が弱かった。