帝王のおしごと!   作:コバハト

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第2話 帰る場所

3月。

 

春休みの大阪。

 

午前10時30分。

 

大阪市内のマンションの一室で、けたたましいアラームが鳴り響いていた。

 

ピピピピピッ!

 

「……んぅ……」

 

ベッドの中から、ゆっくりと腕が伸びる。

 

手探りでスマートフォンを掴むと、角晴は目を開けないまま画面を操作した。

 

ピッ。

 

アラームが止まる。

 

「……あと……5分……」

 

そのまま、再び布団へ潜り込もうとする。

 

しかし。

 

「…………」

 

何かを思い出したように、角晴の動きが止まった。

 

「……あれ?」

 

薄く目を開ける。

 

ぼんやりと天井を見つめながら、昨日の出来事を思い返した。

 

銀子と和カフェへ行った。

 

抹茶パフェを食べた。

 

八一のマンションへ行ったら、小さな女の子がいた。

 

その子は、八一の弟子になりたいと言っていた。

 

そして、帰り道。

 

『また一緒に出かけようね!』

 

『……また、行こう』

 

銀子と、そんな約束をした。

 

「……ふふっ」

 

角晴は小さく笑った。

 

昨日は楽しかった。

 

甘いものも美味しかったし、八一やあいとの会話も面白かった。

 

特に、あいの将棋への熱意には驚かされた。

 

まだ9歳だというのに、石川県から大阪までやって来るほど、将棋が好きなのだ。

 

(……すごいよねぇ)

 

自分も幼い頃から将棋が大好きだった。

 

しかし、あいの行動力には素直に感心してしまう。

 

(……八一、どうするんだろ)

 

そんなことを考えながら、角晴は寝返りを打った。

 

そして。

 

「…………」

 

再び目を閉じた。

 

「……まあ……あと5分……」

 

結局、二度寝するのだった。

 

───

 

午前11時15分。

 

ピロンッ。

 

スマートフォンの通知音が響いた。

 

「……ん……?」

 

角晴は布団の中から手を伸ばした。

 

画面を見る。

 

送り主は、清滝桂香。

 

『角晴くん、おはよう! 今日、何か予定ある?』

 

「……桂香姉さん……?」

 

角晴は眠そうな目を擦った。

 

そして、ゆっくりと返信する。

 

『おはよー! 特にないよ!』

 

数秒後。

 

『じゃあ、久しぶりにお昼でも食べに来ない? お父さんも今日は家にいるから』

 

「……おっ」

 

角晴の目が、少しだけ開いた。

 

清滝家。

 

3歳の頃から、中学2年生になるまで暮らしていた家。

 

今はマンションで一人暮らしをしているものの、角晴にとっては大切な実家だった。

 

最近も何度か顔を出しているが、ゆっくり食事をする機会は少なかった。

 

「……いいね!」

 

角晴は体を起こした。

 

『行く! 何か持っていこうか?』

 

『何もいらないよ。角晴くんが来てくれれば十分!』

 

その返信を見て、角晴は柔らかく微笑んだ。

 

「……桂香姉さんらしいなぁ」

 

続けて、メッセージが届く。

 

『それと、銀子ちゃんもいるよ』

 

「あっ、そうなんだ!」

 

銀子は清滝家で暮らしている。

 

昨日も一緒に出かけたばかりだったが、特に不思議なことではない。

 

角晴はすぐに返信した。

 

『じゃあ、準備して向かうね!』

 

『気をつけて来てね!』

 

「……よし!」

 

角晴はベッドから立ち上がった。

 

そして、時計を見る。

 

午前11時19分。

 

「……あ」

 

少しだけ考える。

 

昼食に誘われたということは、あまりのんびりしていられない。

 

「……急ごっ!」

 

角晴は慌てて洗面所へ向かった。

 

───

 

正午過ぎ。

 

大阪市内の住宅街。

 

角晴は、見慣れた道を歩いていた。

 

春の柔らかな日差しが、住宅街を照らしている。

 

道端には小さな花が咲き、時折吹く風にも冬の冷たさはほとんど感じられない。

 

「……もう春だなぁ」

 

角晴は空を見上げた。

 

ついこの間まで寒かったというのに、季節が変わるのは早いものだ。

 

そう考えているうちに、目的の家が見えてきた。

 

清滝家。

 

昔から何度も出入りしてきた、懐かしい家。

 

角晴は門の前で足を止めた。

 

「……ふふっ」

 

自然と笑みが零れる。

 

一人暮らしを始めた今でも、ここへ来ると不思議と落ち着く。

 

角晴は玄関へ向かった。

 

ピンポーン。

 

「はーい!」

 

家の中から、聞き慣れた女性の声がした。

 

少しして、玄関の扉が開く。

 

「いらっしゃい、角晴くん!」

 

「桂香姉さん! こんにちは!」

 

そこにいたのは、清滝桂香。

 

清滝鋼介の娘であり、角晴にとっては本当の姉のような存在だった。

 

桂香は角晴の姿を見ると、嬉しそうに微笑んだ。

 

「久しぶりだね!」

 

「あはは! この前も来たじゃん!」

 

「そうだけど、最近はゆっくりしていかなかったでしょ?」

 

「確かに!」

 

角晴は笑った。

 

「今日は予定ないから、ゆっくりできるよ!」

 

「本当? じゃあ、夕飯も食べていく?」

 

「えっ、いいの!?」

 

「もちろん!」

 

桂香は笑顔で頷いた。

 

「お父さんも喜ぶと思うよ」

 

「じゃあ、お言葉に甘えようかな!」

 

「ふふっ。どうぞ!」

 

角晴は靴を脱ぎ、家へ上がった。

 

「ただいまー!」

 

自然と、そんな言葉が口から出た。

 

桂香は一瞬、目を丸くする。

 

そして、優しく微笑んだ。

 

「おかえり、角晴くん」

 

その返事に、角晴も笑った。

 

───

 

「おじさーん!」

 

リビングへ入った角晴が、元気よく声を上げた。

 

すると、奥から豪快な声が返ってきた。

 

「おおっ! 角晴か!」

 

清滝鋼介。

 

角晴の師匠であり、幼い頃から彼を育ててきた人物だった。

 

清滝は新聞を置くと、嬉しそうに笑った。

 

「よう来たなぁ!」

 

「久しぶり!」

 

「何が久しぶりや! この前も顔見せとったやろ!」

 

「あはは! 桂香姉さんにも同じこと言われた!」

 

角晴が笑う。

 

清滝も豪快に笑った。

 

「ははは! そらそうやろ!」

 

角晴は向かいのソファへ腰を下ろした。

 

「今日はお休み?」

 

「おう! たまには家でゆっくりせんとな!」

 

「そっか!」

 

「お前はどうや? 対局の方は順調か?」

 

「うん! 最近も面白い将棋が多くて楽しいよ!」

 

「……ははっ!」

 

清滝は嬉しそうに笑った。

 

「相変わらずやなぁ、お前は!」

 

「え?」

 

「いや、何でもあらへん!」

 

清滝は首を振った。

 

昔から、角晴はそうだった。

 

勝ったときよりも、難しい将棋を指せたときの方が嬉しそうにする。

 

苦しい局面に追い込まれても、むしろ楽しそうに笑う。

 

その姿は、幼い頃から変わっていなかった。

 

「そういや、こないだの対局見たで」

 

「本当?」

 

「おう。終盤、なかなか危なかったやないか」

 

「あはは! そうなんだよ!」

 

角晴は頭を掻いた。

 

「途中、完全に読みを外されちゃってさ!」

 

「せやろな。あの攻めは鋭かったわ」

 

「うん! でも、すっごく面白かった!」

 

清滝は、そんな弟子を見つめていた。

 

「……角晴」

 

「ん?」

 

「……お前、ほんまに将棋好きやなぁ」

 

「もちろん!」

 

角晴は笑顔で答えた。

 

「大好きだよ!」

 

その言葉を聞いて、清滝は少しだけ目を細めた。

 

(……変わらんなぁ)

 

幼い頃の角晴を思い出す。

 

まだ3歳だった、小さな少年。

 

将棋盤の前に座り、難しい局面になるほど楽しそうに笑っていた。

 

そして。

 

両親を失った後。

 

涙を流しながら、もう一度将棋を楽しいと言ったあの日のこと。

 

清滝にとって、あの光景は今でも忘れられなかった。

 

(……立派になったもんや)

 

今や三冠。

 

将棋界の帝王と呼ばれる存在。

 

それでも、目の前にいる少年は、清滝にとって昔から変わらない大切な弟子だった。

 

「……おじさん?」

 

「ん?」

 

「どうかした?」

 

「……いや」

 

清滝は笑った。

 

「何でもあらへん!」

 

角晴は不思議そうに首を傾げた。

 

───

 

「角晴くん、お昼できたよー!」

 

キッチンから桂香の声が響いた。

 

「はーい!」

 

角晴は立ち上がる。

 

「手伝うよ!」

 

「あっ、大丈夫だよ!」

 

「いいって! 俺も何かやりたいし!」

 

角晴はキッチンへ向かった。

 

桂香は苦笑する。

 

「もう、角晴くんは昔からそうなんだから」

 

「あはは!」

 

テーブルに料理を並べる。

 

今日の昼食は、桂香が作った和食だった。

 

炊きたてのご飯。

 

味噌汁。

 

焼き魚。

 

小鉢にはほうれん草のおひたしと卵焼き。

 

「わぁ、美味しそう!」

 

角晴の目が輝いた。

 

「桂香姉さんのご飯、久しぶり!」

 

「ふふっ。たくさん食べてね!」

 

「もちろん!」

 

そのとき。

 

「……あ」

 

廊下から、小さな声が聞こえた。

 

角晴が振り向く。

 

そこには、空銀子が立っていた。

 

「銀子!」

 

「……角晴」

 

銀子は少しだけ目を丸くした。

 

「……来てたの?」

 

「うん! 桂香姉さんに呼ばれて!」

 

「……そう」

 

銀子は小さく頷いた。

 

昨日、一緒に出かけたばかり。

 

それなのに、こうして顔を見ると少し嬉しくなる。

 

「銀子もお昼?」

 

「……うん」

 

「じゃあ一緒に食べよ!」

 

「……言われなくても」

 

角晴は笑った。

 

「それもそうだね!」

 

桂香は、そんな2人のやり取りを微笑ましそうに眺めていた。

 

───

 

「いただきまーす!」

 

「……いただきます」

 

「いただきます!」

 

「ほな、いただこか!」

 

4人で食卓を囲む。

 

角晴は早速、卵焼きを一口食べた。

 

「……ん!」

 

そして、嬉しそうに笑った。

 

「やっぱり美味しい!」

 

「本当?」

 

「うん! 桂香姉さんの卵焼き大好き!」

 

「ふふっ。ありがとう!」

 

桂香は嬉しそうに微笑んだ。

 

銀子は、その様子を横目で見ていた。

 

(……本当に、美味しそうに食べるわね)

 

昔から角晴は、食事の時間が好きだった。

 

特に、清滝家で家族と一緒に食べる食事。

 

1人で暮らすようになってからも、それは変わらない。

 

「そういえば、角晴」

 

清滝が口を開いた。

 

「最近、ちゃんと飯食うとるんか?」

 

「うん! 毎日自炊してるよ!」

 

「ほぉ、偉いやないか!」

 

「おじさん、俺を何歳だと思ってるの?」

 

「ははは! ワシからしたら、まだまだ子供や!」

 

「ええっ!?」

 

角晴は不満そうに頬を膨らませた。

 

桂香が笑う。

 

「でも、角晴くんの料理、本当に上手だよね」

 

「そうかな?」

 

「うん! この前作ってくれたハンバーグも美味しかったし!」

 

「あっ、あれね!」

 

角晴は嬉しそうに笑った。

 

「今度また作るよ!」

 

「本当? 嬉しい!」

 

「……角晴」

 

銀子が口を開いた。

 

「ん?」

 

「……この前のフレンチトーストも、美味しかった」

 

「あっ!」

 

角晴は笑顔になった。

 

「本当? よかった!」

 

「……うん」

 

銀子は小さく頷く。

 

桂香は、そんな銀子の様子を見つめていた。

 

そして、何かを察したように微笑んだ。

 

「……ふふっ」

 

「……桂香さん?」

 

「ううん、何でもないよ!」

 

銀子は少しだけ眉を寄せた。

 

(……何、その笑顔……)

 

何となく、嫌な予感がする。

 

しかし、桂香はそれ以上何も言わず、楽しそうに食事を続けた。

 

───

 

昼食を終えた後。

 

角晴は清滝と向かい合っていた。

 

目の前には、将棋盤。

 

「……ほな、久しぶりに指そか!」

 

「うん!」

 

角晴は嬉しそうに頷いた。

 

「よろしくお願いします!」

 

「おう。よろしく頼むで!」

 

2人は駒を並べ始めた。

 

清滝と角晴。

 

師匠と弟子。

 

幼い頃から、数え切れないほど将棋を指してきた2人だった。

 

しかし、最近はお互いに対局や仕事が忙しく、こうしてゆっくり指す機会も減っていた。

 

「……さて」

 

清滝は盤面を見つめた。

 

「今日はどう来るんや?」

 

角晴はにっこりと笑う。

 

「ふふっ、どうしようかなぁ」

 

「……その顔、何か企んどるな?」

 

「あはは! どうだろ!」

 

角晴は駒を手に取った。

 

パチンッ。

 

乾いた駒音が響く。

 

清滝も応じる。

 

パチンッ。

 

2人の対局が始まった。

 

───

 

「……ほぉ」

 

対局開始からしばらくして。

 

清滝が小さく声を漏らした。

 

角晴は笑顔で盤面を見つめている。

 

序盤は、互いに飛車先を突き合う展開となった。

 

相掛かり。

 

角晴が最も好む戦型だった。

 

「……やっぱり相掛かりか」

 

「うん!」

 

角晴は嬉しそうに頷く。

 

「おじさんと指すなら、やっぱりこれかなって!」

 

「ははは! そうかそうか!」

 

清滝は笑った。

 

「ほな、ワシも遠慮せんで!」

 

「もちろん!」

 

2人は駒を進めていく。

 

清滝は長年の経験を活かし、堅実に陣形を整えていく。

 

一方の角晴は、柔軟な駒組みから積極的に仕掛けを狙っていた。

 

「……ふむ」

 

清滝が考え込む。

 

(……なかなか厄介な形にしてきよる)

 

昔は、角晴の将棋を指導する立場だった。

 

しかし、今は違う。

 

目の前の少年は三冠棋士。

 

自分よりも遥かに高い実績を持つ存在になっていた。

 

それでも、清滝にとっては大切な弟子。

 

勝ち負けだけではない。

 

こうして将棋を指せること自体が、嬉しかった。

 

パチンッ。

 

清滝が一手を指す。

 

すると。

 

「……あっ」

 

角晴の表情が変わった。

 

「……ふふっ」

 

小さく笑い始める。

 

清滝は、その笑みを見逃さなかった。

 

「……何や、角晴」

 

「ん?」

 

「……おもろいか?」

 

角晴は顔を上げた。

 

そして、嬉しそうに頷く。

 

「うん!」

 

その返事を聞いた瞬間。

 

清滝の脳裏に、懐かしい光景が蘇った。

 

───

 

まだ、角晴が幼かった頃。

 

涙を流しながら将棋盤を見つめていた少年。

 

『……しょうぎ……たのしい……っ!』

 

泣きながら。

 

それでも、笑っていた。

 

『……ぼく……やっぱり……しょうぎ、だいすき……!』

 

あの日。

 

清滝は、少年が再び将棋を楽しめるようになったことが、何よりも嬉しかった。

 

両親を失った悲しみは、決して消えるものではない。

 

それでも、角晴はもう一度、将棋を好きだと言えた。

 

そして今。

 

目の前には、15歳になった角晴がいる。

 

三冠を保持し、将棋界の帝王と呼ばれるまでに成長した少年。

 

それなのに。

 

将棋を指すときの笑顔は、あの頃と何も変わっていなかった。

 

───

 

「……おじさん?」

 

角晴の声で、清滝は我に返った。

 

「ん?」

 

「……大丈夫?」

 

「……ああ、すまんすまん!」

 

清滝は笑った。

 

「ちょっと昔のこと思い出しとったんや!」

 

「昔?」

 

「お前が、まだ小さかった頃や」

 

「あはは! 俺、そんなに変わった?」

 

「……いや」

 

清滝は首を振った。

 

「……変わらんなぁ」

 

「え?」

 

「……ほんまに、変わらん」

 

清滝は、柔らかな笑みを浮かべた。

 

角晴は不思議そうに首を傾げる。

 

しかし、すぐに盤面へ視線を戻した。

 

「……さて!」

 

そして、楽しそうに笑う。

 

「おじさん、ここからどうする?」

 

「……おっ?」

 

清滝も盤面を見つめた。

 

角晴の仕掛けは、思っていた以上に厳しかった。

 

「……こら、なかなか難しいな」

 

「でしょ!」

 

角晴の目が輝く。

 

「俺も、ここから先が楽しみなんだ!」

 

清滝は思わず笑った。

 

「……ははっ!」

 

そして、駒を手に取る。

 

「ほな、ワシも本気でいかせてもらうで!」

 

「うん!」

 

角晴は嬉しそうに頷いた。

 

「楽しみにしてる!」

 

───

 

それから約1時間。

 

対局は終盤を迎えていた。

 

清滝の攻めは鋭かった。

 

長年の経験に裏打ちされた、重厚な指し回し。

 

一手でも対応を間違えれば、一気に形勢を損ねかねない。

 

しかし。

 

「……ふふっ」

 

角晴は笑っていた。

 

(……面白い)

 

盤面を見つめる。

 

(ここで受けたら……いや、それだとちょっと苦しいか)

 

いくつもの変化が、頭の中に浮かんでは消えていく。

 

(……だったら、こっちかな)

 

角晴は駒を手に取った。

 

パチンッ。

 

清滝の目が細くなる。

 

「……ほぉ」

 

その一手は、清滝の予想から少し外れていた。

 

受けるのではなく、攻め合う。

 

しかも、相手の攻めを利用するような手だった。

 

「……なるほどなぁ」

 

清滝は盤面を見つめた。

 

「……こら、おもろい」

 

「でしょ!」

 

角晴は嬉しそうに笑う。

 

「俺も、ここが一番難しいと思う!」

 

清滝は、しばらく考え込んだ。

 

そして、駒を進める。

 

パチンッ。

 

角晴の笑みが深くなる。

 

「……あはは!」

 

思わず声が零れた。

 

「おじさん、すごい!」

 

「……何や?」

 

「その手、俺の読みより厳しい!」

 

「ははは! まだまだ若いもんには負けられへんからな!」

 

「うん!」

 

角晴は嬉しそうに頷いた。

 

そして、再び読みへ沈む。

 

やがて。

 

パチンッ。

 

角晴が一手を指した。

 

清滝は、その手を見つめる。

 

「…………」

 

しばらくして。

 

「……あかんな」

 

小さく呟いた。

 

「……角晴」

 

「ん?」

 

「……負けました」

 

清滝が頭を下げる。

 

角晴も姿勢を正した。

 

「ありがとうございました!」

 

対局は、角晴の勝利で終わった。

 

「……いやぁ!」

 

角晴は大きく息を吐いた。

 

「楽しかった!」

 

清滝は苦笑する。

 

「……ほんま、強うなったなぁ」

 

「えへへ!」

 

角晴は嬉しそうに笑った。

 

「でも、おじさんの最後の攻め、すごく怖かったよ!」

 

「……そうか?」

 

「うん!」

 

角晴は盤面を並べ直し始める。

 

「ここなんだけど、別の変化もあったと思うんだよね!」

 

「……どれどれ」

 

2人は、自然と感想戦を始めた。

 

その様子を、少し離れたところから見つめていた人物がいた。

 

清滝桂香。

 

そして、空銀子だった。

 

「……ふふっ」

 

桂香が微笑む。

 

「お父さん、嬉しそう」

 

「……そうだね」

 

銀子は頷いた。

 

角晴と清滝が楽しそうに将棋を指している。

 

その光景は、昔から何度も見てきたものだった。

 

「……角晴くん、本当に楽しそうだね」

 

「……いつも、あんな感じです」

 

「そうだね」

 

桂香は柔らかく笑った。

 

「……昔から、ずっと」

 

銀子は、角晴の横顔を見つめた。

 

(……うん)

 

昔から、ずっと。

 

角晴は将棋が大好きだった。

 

どれほど難しい局面でも。

 

どれほど苦しい将棋でも。

 

楽しそうに笑う。

 

銀子は、その笑顔が好きだった。

 

(……本当に、変わらない)

 

そう思いながら。

 

銀子も、ほんの少しだけ微笑んだ。

 

───

 

夕方。

 

清滝家のキッチンでは、夕食の準備が始まっていた。

 

「角晴くん、本当に手伝ってくれるの?」

 

「もちろん!」

 

角晴は袖をまくった。

 

「今日は俺も作りたい!」

 

「ふふっ。ありがとう!」

 

桂香は嬉しそうに頷いた。

 

「じゃあ、野菜切ってもらっていい?」

 

「了解!」

 

角晴は包丁を手に取った。

 

慣れた手つきで野菜を切り始める。

 

その様子を見て、桂香は感心したように笑った。

 

「……本当に上手になったね」

 

「そう?」

 

「うん!」

 

桂香は頷く。

 

「昔は、包丁持つのも危なっかしかったのに」

 

「あはは! そりゃそうだよ!」

 

角晴は笑った。

 

「小さい頃から手伝ってたもんね!」

 

「そうだねぇ」

 

桂香は懐かしそうに目を細めた。

 

まだ幼かった角晴。

 

両親を失い、清滝家で暮らし始めた頃。

 

最初は、何をするにも遠慮がちだった。

 

食事を出されても、黙って食べるだけ。

 

何かを欲しいと言うことも少なかった。

 

しかし、少しずつ笑顔を取り戻し、やがて桂香の後ろをついて回るようになった。

 

『けいかおねえちゃん!』

 

『なぁに?』

 

『ぼくも、やりたい!』

 

料理をしていると、必ずと言っていいほど手伝いたがった。

 

最初は野菜を洗うだけ。

 

次は、簡単な盛り付け。

 

そして、少しずつ包丁の使い方も覚えていった。

 

「……懐かしいね」

 

桂香が呟く。

 

「ん?」

 

角晴が顔を上げた。

 

「何が?」

 

「……角晴くんが小さかった頃のこと」

 

「あはは! また昔の話?」

 

角晴は楽しそうに笑う。

 

「おじさんも、さっき同じこと言ってたよ!」

 

「そうなの?」

 

「うん!」

 

桂香は小さく微笑んだ。

 

「……そっか」

 

それから、少しだけ真剣な表情になる。

 

「……角晴くん」

 

「ん?」

 

「……一人暮らし、寂しくない?」

 

角晴は、少しだけ目を丸くした。

 

「……寂しい?」

 

「うん」

 

桂香は、ゆっくりと頷いた。

 

「……無理してないかなって」

 

「…………」

 

角晴は少し考えた。

 

そして、柔らかく笑った。

 

「……大丈夫だよ!」

 

「……本当?」

 

「うん!」

 

角晴は頷く。

 

「一人暮らしも楽しいし、料理も好きだし!」

 

「……そう」

 

「それに」

 

角晴は、少しだけ笑みを深めた。

 

「俺には、帰ってくる場所があるからね!」

 

「…………」

 

桂香の動きが止まった。

 

「……角晴くん」

 

「ん?」

 

「……ここ?」

 

角晴は、きょとんとした。

 

そして、当然のように答えた。

 

「もちろん!」

 

「…………」

 

「だって、俺の実家でしょ?」

 

その言葉を聞いた瞬間。

 

桂香の胸が、じんわりと温かくなった。

 

「……そっか」

 

小さく呟く。

 

「……そうだね」

 

角晴は笑った。

 

「うん!」

 

桂香も、ゆっくりと微笑んだ。

 

「……おかえり、角晴くん」

 

「……え?」

 

突然の言葉に、角晴は目を丸くした。

 

しかし、すぐに笑顔になる。

 

「……ただいま!」

 

その声は、昔と変わらず明るかった。

 

───

 

「……何してるの?」

 

キッチンの入口から、銀子の声が聞こえた。

 

「銀子!」

 

角晴が振り向く。

 

「夕飯作ってる!」

 

「……見れば分かる」

 

「ええっ!?」

 

角晴は困ったように笑う。

 

銀子は、キッチンの中を覗き込んだ。

 

「……何作るの?」

 

「今日は肉じゃが!」

 

「……肉じゃが?」

 

「うん!」

 

角晴は嬉しそうに頷いた。

 

「あと、だし巻き卵とお味噌汁!」

 

「……結構作るのね」

 

「せっかくだし!」

 

桂香が笑った。

 

「銀子ちゃんも手伝ってくれる?」

 

「……はい」

 

銀子は頷いた。

 

そして、角晴の隣へ立つ。

 

「……何すればいい?」

 

「じゃあ、じゃがいもの皮むいてくれる?」

 

「……分かった」

 

銀子はピーラーを手に取った。

 

2人は並んで作業を始める。

 

角晴は野菜を切り、銀子はじゃがいもの皮をむく。

 

桂香は鍋を準備していた。

 

「……ねえ、銀子」

 

「……何?」

 

「昨日のパフェ、美味しかったね!」

 

「……うん」

 

「また行きたいなぁ」

 

「……そうね」

 

「今度は、別のお店も行ってみようよ!」

 

「…………」

 

銀子は少しだけ手を止めた。

 

「……別のお店?」

 

「うん!」

 

角晴は笑った。

 

「銀子のおすすめとかある?」

 

「……別に、ないけど」

 

「そっか!」

 

角晴は少し考えた。

 

「じゃあ、また俺が探しておくね!」

 

「……うん」

 

銀子は小さく頷いた。

 

そのやり取りを、桂香が静かに聞いていた。

 

「……ふふっ」

 

「……桂香さん?」

 

銀子が顔を上げる。

 

「……何ですか?」

 

「ううん!」

 

桂香は嬉しそうに微笑んだ。

 

「2人とも、本当に仲良しだなって!」

 

「…………っ!?」

 

銀子の顔が、一瞬で赤くなった。

 

「な、何を……!」

 

「あはは!」

 

角晴は楽しそうに笑った。

 

「そりゃ、昔から一緒にいるからね!」

 

「……っ!」

 

銀子は、角晴を睨んだ。

 

「……バカ」

 

「ええっ!? また!?」

 

角晴は困惑する。

 

桂香は、そんな2人を見て肩を震わせた。

 

(……本当に、昔から変わらないなぁ)

 

ただし。

 

(……角晴くんは、もう少し女の子の気持ちに気付いてあげてもいいと思うけど)

 

そう思いながら。

 

桂香は、そっと銀子へ微笑みかけた。

 

銀子は、その視線に気付く。

 

「…………」

 

そして、さらに顔を赤くした。

 

(……絶対、分かってる……!)

 

銀子は、恥ずかしさを誤魔化すように、じゃがいもの皮むきへ集中した。

 

───

 

午後6時30分。

 

清滝家の食卓には、温かな料理が並んでいた。

 

肉じゃが。

 

だし巻き卵。

 

味噌汁。

 

炊きたてのご飯。

 

そして、桂香が用意した小鉢。

 

「……おおっ!」

 

清滝が嬉しそうに声を上げた。

 

「今日は豪華やなぁ!」

 

「角晴くんと銀子ちゃんが手伝ってくれたの!」

 

桂香が笑う。

 

「ほぉ!」

 

清滝は角晴を見る。

 

「角晴、ようやったな!」

 

「あはは! 俺、料理好きだから!」

 

「銀子も手伝ったんか?」

 

「……はい」

 

銀子は小さく頷いた。

 

清滝は満足そうに笑った。

 

「ええこっちゃ!」

 

4人は席につく。

 

「いただきまーす!」

 

「いただきます」

 

「いただきます!」

 

夕食が始まった。

 

清滝は早速、肉じゃがを一口食べる。

 

「……うまい!」

 

角晴が嬉しそうに笑った。

 

「本当!?」

 

「おう!」

 

清滝は大きく頷いた。

 

「角晴、腕上げたなぁ!」

 

「えへへ!」

 

角晴は照れたように笑う。

 

桂香も肉じゃがを食べた。

 

「うん! 美味しい!」

 

「よかった!」

 

銀子も一口食べる。

 

「…………」

 

そして、小さく頷いた。

 

「……美味しい」

 

「ありがと、銀子!」

 

角晴は笑った。

 

銀子は、そっと視線を逸らす。

 

「……別に」

 

食卓には、温かな空気が流れていた。

 

───

 

食事が進んだ頃。

 

角晴が、ふと思い出したように口を開いた。

 

「……あっ、そういえば!」

 

「ん?」

 

清滝が顔を上げる。

 

「おじさん、八一から何か聞いてる?」

 

「八一?」

 

「うん!」

 

角晴は頷いた。

 

「実は昨日、八一のところに行ったんだけどさ!」

 

「ほぉ?」

 

清滝は興味深そうに身を乗り出した。

 

「何かあったんか?」

 

「それがね!」

 

角晴は楽しそうに笑った。

 

「八一の家に、小さな女の子がいたんだよ!」

 

「……は?」

 

清滝の動きが止まった。

 

「……女の子?」

 

「うん!」

 

「……八一の家に?」

 

「そう!」

 

清滝は、ゆっくりと箸を置いた。

 

「…………」

 

そして、低い声で呟いた。

 

「……あいつ、何しとんねん」

 

「……おじさん?」

 

角晴が首を傾げる。

 

銀子は、黙々と食事を続けていた。

 

桂香は苦笑する。

 

「……角晴くん、もう少し詳しく教えて?」

 

「あっ、うん!」

 

角晴は事情を説明し始めた。

 

雛鶴あいという9歳の少女。

 

石川県から大阪へ来たこと。

 

八一の弟子になりたいと言っていること。

 

そして、八一がどうすればいいのか悩んでいること。

 

「……なるほどなぁ」

 

清滝は腕を組んだ。

 

「……そういうことか」

 

「うん!」

 

角晴は頷く。

 

「すっごく将棋が好きな子だったよ!」

 

「……ほぉ」

 

「俺の棋譜も見てくれてたみたいでさ!」

 

角晴は嬉しそうに笑った。

 

「帝位を取ったときの将棋、見てくれてたんだ!」

 

「……そうか」

 

清滝は少し考えた。

 

「……八一は、何て言うとった?」

 

「まだ迷ってるみたい」

 

「……せやろな」

 

清滝は頷いた。

 

「弟子を取るいうんは、簡単なことやないからな」

 

「うん」

 

角晴も真剣な表情になる。

 

「俺も、そう思う」

 

清滝は、少しだけ角晴を見つめた。

 

「……お前も、弟子を取りたいんか?」

 

「えっ?」

 

突然の質問に、角晴は目を丸くした。

 

「……何で?」

 

「いや、何となくや!」

 

「あはは!」

 

角晴は笑った。

 

「実は、ちょっと思った!」

 

「……ほぉ?」

 

「八一とあいちゃん見てたら、俺もいつか弟子を取ってみたいなって!」

 

清滝は、少しだけ目を細めた。

 

「……そうか」

 

角晴は笑顔で頷く。

 

「うん!」

 

「……弟子を育てるいうんは、大変やぞ?」

 

「分かってるよ!」

 

角晴は頷いた。

 

「だから、今すぐってわけじゃないけどね!」

 

「……せやな」

 

清滝は小さく笑った。

 

「お前なら、ええ師匠になるかもしれんな」

 

「……本当?」

 

「おう!」

 

清滝は豪快に笑った。

 

「何せ、ワシの弟子やからな!」

 

「あはは!」

 

角晴も笑った。

 

「それ、自分で言う!?」

 

「ははは! 当たり前や!」

 

桂香も、銀子も笑っていた。

 

───

 

食後。

 

角晴はリビングのソファに座り、テレビを眺めていた。

 

清滝は新聞を読み、桂香は食器を片付けている。

 

銀子は、角晴の隣に座っていた。

 

「……角晴」

 

「ん?」

 

「……今日、帰るの?」

 

角晴は少し考えた。

 

「んー……どうしようかな」

 

「……そう」

 

銀子は小さく頷いた。

 

「……もう遅いし」

 

「うん?」

 

「……泊まっていけば?」

 

角晴は目を丸くした。

 

「……えっ、いいの?」

 

「……別に、いいでしょ」

 

「そっか!」

 

角晴は嬉しそうに笑った。

 

「じゃあ、泊まろっかな!」

 

「…………」

 

銀子は、少しだけ目を伏せた。

 

「……うん」

 

そのとき。

 

「……おっ?」

 

清滝が顔を上げた。

 

「角晴、今日は泊まっていくんか?」

 

「うん! いい?」

 

「当たり前や!」

 

清滝は豪快に笑った。

 

「ここはお前の家でもあるんやからな!」

 

角晴は、少しだけ目を丸くした。

 

そして、柔らかく笑う。

 

「……ありがと、おじさん!」

 

「おう!」

 

桂香も嬉しそうに微笑んだ。

 

「じゃあ、昔の部屋を準備するね!」

 

「あっ、大丈夫だよ!」

 

角晴は立ち上がる。

 

「自分でやる!」

 

「ふふっ。じゃあ、お願いしようかな!」

 

「任せて!」

 

角晴は楽しそうに階段へ向かった。

 

───

 

夜。

 

角晴は、昔使っていた自分の部屋にいた。

 

「……懐かしいなぁ」

 

小さく呟く。

 

部屋の中には、勉強机とベッド。

 

本棚には、昔読んでいた将棋の本が並んでいる。

 

壁には、奨励会時代の写真。

 

そして、机の上には、小さな将棋盤が置かれていた。

 

角晴は、ゆっくりと部屋を見回した。

 

「……全然変わってない」

 

一人暮らしを始めてからも、桂香が掃除をしてくれていたのだろう。

 

部屋は綺麗に整えられていた。

 

角晴は机へ近づく。

 

そして、将棋盤に手を伸ばした。

 

「…………」

 

小さな頃。

 

ここで、何度も将棋を指した。

 

清滝と。

 

八一と。

 

銀子と。

 

時には1人で、何時間も棋譜を並べていた。

 

将棋が好きで。

 

もっと強くなりたくて。

 

ただ、それだけを考えていた日々。

 

「……ふふっ」

 

角晴は小さく笑った。

 

そして、ふと机の引き出しへ目を向けた。

 

「……あれ?」

 

引き出しの奥に、小さな写真立てがあった。

 

取り出してみる。

 

そこには、幼い角晴と両親が写っていた。

 

「…………」

 

角晴の表情が、少しだけ変わった。

 

写真の中で、父親は笑っている。

 

母親も、優しく微笑んでいる。

 

そして、真ん中にいる幼い角晴は、両親に挟まれて満面の笑みを浮かべていた。

 

「……お父さん」

 

小さく呟く。

 

「……お母さん」

 

角晴は、写真を見つめた。

 

幼い頃の記憶。

 

父親と将棋を指した日。

 

母親に褒められた日。

 

そして。

 

帰ってこなかった、あの日。

 

「…………」

 

少しだけ、胸が苦しくなった。

 

今でも、両親に会いたいと思うことがある。

 

もし生きていたら。

 

今の自分を見て、何と言ってくれただろう。

 

三冠を取ったこと。

 

九段になったこと。

 

将棋界の帝王と呼ばれるようになったこと。

 

きっと、驚いてくれただろう。

 

そして。

 

『いい手だなぁ、角晴!』

 

父親は、あの頃と同じように笑ってくれたかもしれない。

 

『本当に将棋が好きなのね』

 

母親も、優しく微笑んでくれたかもしれない。

 

「……ふふっ」

 

角晴は小さく笑った。

 

「……俺、強くなったよ」

 

写真へ向かって、静かに語りかける。

 

「……お父さんより、ずっと強くなっちゃった」

 

少しだけ、寂しそうに笑う。

 

「……でも」

 

角晴は写真を見つめた。

 

「……まだまだ、強くなりたいんだ」

 

将棋が好きだから。

 

もっと面白い将棋を指したいから。

 

その気持ちは、昔から変わらない。

 

「……これからも、頑張るね」

 

角晴は、柔らかく微笑んだ。

 

そして、写真立てをそっと机へ戻した。

 

───

 

コンコン。

 

「……角晴?」

 

扉の向こうから、銀子の声がした。

 

「ん? 銀子?」

 

角晴は振り向いた。

 

「入っていいよ!」

 

カチャリ。

 

扉が開く。

 

そこには、部屋着姿の銀子が立っていた。

 

「……何してたの?」

 

「んー?」

 

角晴は少し考えた。

 

「昔の写真、見てた!」

 

「……写真?」

 

「うん!」

 

角晴は机の上の写真立てを指差した。

 

銀子は、ゆっくりと近づいた。

 

そして、写真を見つめる。

 

「…………」

 

幼い角晴。

 

そして、その両親。

 

銀子は、少しだけ目を伏せた。

 

「……そっか」

 

小さく呟く。

 

「……お父さんとお母さん」

 

「うん」

 

角晴は頷いた。

 

「……久しぶりに見た」

 

「……そう」

 

銀子は、そっと角晴を見上げた。

 

「……大丈夫?」

 

「……え?」

 

「……寂しくない?」

 

角晴は、少しだけ目を丸くした。

 

そして、柔らかく笑った。

 

「……寂しいよ」

 

銀子の表情が、わずかに変わった。

 

「……でもね」

 

角晴は続ける。

 

「……俺、今も幸せだから」

 

「…………」

 

「おじさんも、桂香姉さんもいるし」

 

角晴は笑った。

 

「八一もいるし!」

 

そして、銀子を見つめる。

 

「……銀子もいるからね!」

 

「…………っ」

 

銀子の頬が、ほんの少し赤くなった。

 

「……バカ」

 

「ええっ!?」

 

角晴は困惑した。

 

「今、変なこと言った!?」

 

「……言ってない」

 

「じゃあ何で!?」

 

銀子は、そっと視線を逸らした。

 

「……何でもない」

 

角晴は首を傾げた。

 

しかし、すぐに笑った。

 

「……まあ、いっか!」

 

銀子は、小さくため息をついた。

 

(……ほんと、バカ)

 

でも。

 

(……よかった)

 

角晴が笑っている。

 

それだけで、少し安心した。

 

───

 

「……ねえ、銀子」

 

「……何?」

 

角晴が口を開いた。

 

「……久しぶりに、ここで将棋しない?」

 

銀子は目を瞬かせた。

 

「……今から?」

 

「うん!」

 

角晴は笑った。

 

「昔、よくここで指してたじゃん!」

 

「……そうね」

 

銀子は、少しだけ部屋を見回した。

 

確かに、昔は何度もこの部屋で将棋を指した。

 

角晴が棋譜を並べていると、銀子も隣に座った。

 

そして、気付けば2人で何時間も研究していた。

 

「……いいよ」

 

銀子は小さく頷いた。

 

角晴は嬉しそうに笑う。

 

「やった!」

 

2人は将棋盤の前に座った。

 

駒を並べる。

 

「よろしくお願いします!」

 

「……よろしくお願いします」

 

パチンッ。

 

駒音が響いた。

 

静かな夜。

 

窓の外からは、遠くを走る車の音が聞こえる。

 

2人は、ゆっくりと将棋を指し始めた。

 

───

 

「……ふふっ」

 

しばらくして。

 

角晴が小さく笑った。

 

銀子は、そんな彼を見つめる。

 

「……何?」

 

「いやぁ、懐かしいなって!」

 

「……何が?」

 

「こうして、この部屋で銀子と将棋指すの!」

 

「…………」

 

銀子は、少しだけ視線を落とした。

 

「……そうね」

 

角晴は嬉しそうに笑った。

 

「昔、よく指したよね!」

 

「……うん」

 

「銀子、負けるとすっごく悔しそうだった!」

 

「……今も悔しいけど」

 

「あはは! それもそうか!」

 

角晴は笑った。

 

銀子も、ほんの少しだけ口元を緩めた。

 

そして、駒を進める。

 

パチンッ。

 

角晴の目が輝いた。

 

「おおっ!」

 

「……何?」

 

「今の手、いいね!」

 

「……そう?」

 

「うん!」

 

角晴は嬉しそうに頷いた。

 

「俺、ちょっと読み違えてた!」

 

銀子は、少しだけ微笑んだ。

 

「……じゃあ、勝てるかも」

 

「ふふっ!」

 

角晴は笑った。

 

「それは楽しみ!」

 

その言葉に、銀子も笑った。

 

小さな笑みだった。

 

しかし、確かに笑っていた。

 

───

 

対局が終わった頃には、時計の針は午後11時を回っていた。

 

「……ふぅ!」

 

角晴は大きく息を吐いた。

 

「楽しかった!」

 

「……そうね」

 

銀子も、小さく頷いた。

 

勝負は、角晴の勝ちだった。

 

しかし、銀子も簡単には負けなかった。

 

中盤では角晴を苦しめ、終盤まで激しい攻防が続いた。

 

「……銀子、強くなったね」

 

角晴が呟く。

 

「……何よ、急に」

 

「いや、本当に!」

 

角晴は笑った。

 

「昔と比べたら、全然違う!」

 

「……当たり前でしょ」

 

銀子は少しだけ頬を膨らませた。

 

「……私だって、ずっと勉強してるんだから」

 

「うん!」

 

角晴は嬉しそうに頷いた。

 

「だから、すっごく楽しい!」

 

「…………」

 

銀子は、角晴を見つめた。

 

その表情は、心から嬉しそうだった。

 

勝ったからではない。

 

自分の知らない手に出会えたから。

 

難しい将棋を指せたから。

 

それが嬉しいのだ。

 

(……ほんとに)

 

銀子は、そっと目を伏せた。

 

(……角晴らしい)

 

「……ねえ、角晴」

 

「ん?」

 

「……また、指そうね」

 

角晴は笑顔で頷いた。

 

「もちろん!」

 

「……うん」

 

銀子も、小さく微笑んだ。

 

───

 

それから少しして。

 

銀子は自分の部屋へ戻ることになった。

 

「……じゃあ、おやすみ」

 

「うん! おやすみ、銀子!」

 

角晴は笑顔で手を振った。

 

銀子は扉の前で、少しだけ立ち止まる。

 

「……角晴」

 

「ん?」

 

「……今日は、楽しかった」

 

角晴は目を丸くした。

 

そして、柔らかく微笑む。

 

「……俺も!」

 

「…………」

 

銀子は、小さく頷いた。

 

「……そっか」

 

そして、扉を閉めた。

 

カチャリ。

 

部屋に静寂が戻る。

 

角晴は、ゆっくりとベッドへ腰を下ろした。

 

「……ふぅ」

 

そして、天井を見上げる。

 

久しぶりの清滝家。

 

清滝との将棋。

 

桂香との料理。

 

銀子との夜の対局。

 

どれも、楽しかった。

 

「……ふふっ」

 

自然と笑みが零れる。

 

「……やっぱり、いいなぁ」

 

この家は、落ち着く。

 

一人暮らしも楽しい。

 

自分のペースで生活できるし、好きな時間に研究もできる。

 

けれど。

 

こうして家族と過ごす時間も、やっぱり大切だった。

 

角晴は、机の上の写真立てへ視線を向けた。

 

「……お父さん、お母さん」

 

小さく呟く。

 

「……おやすみ」

 

そして、部屋の明かりを消した。

 

───

 

同じ頃。

 

清滝家のリビング。

 

「……なあ、桂香」

 

清滝が口を開いた。

 

「何? お父さん」

 

「……角晴、よう笑うようになったなぁ」

 

桂香は、少しだけ目を丸くした。

 

そして、柔らかく微笑む。

 

「……そうだね」

 

清滝は、静かに頷いた。

 

「……あいつが小さかった頃のこと、思い出してな」

 

「…………」

 

桂香は、そっと目を伏せた。

 

両親を失った角晴。

 

泣いて、泣いて。

 

何日も笑わなくなった少年。

 

それでも、清滝と将棋を指すうちに、少しずつ笑顔を取り戻していった。

 

「……覚えてるよ」

 

桂香が呟く。

 

「……角晴くん、泣きながら笑ってたよね」

 

「……せやな」

 

清滝は、ゆっくりと頷いた。

 

「……将棋が楽しい言うてな」

 

「……うん」

 

「……あれから、よう頑張ったもんや」

 

清滝は、少しだけ目を細めた。

 

「……今じゃ三冠や」

 

「……本当だね」

 

桂香は微笑んだ。

 

「……でも」

 

「ん?」

 

「……角晴くん、昔と変わらないね」

 

清滝は、一瞬だけ目を丸くした。

 

そして。

 

「……ははっ!」

 

豪快に笑った。

 

「……せやな!」

 

桂香も笑う。

 

「……本当に、変わらない」

 

将棋が大好きで。

 

難しい局面ほど楽しそうに笑う。

 

そして、家族を大切にする。

 

そんな少年。

 

猿飛角晴。

 

清滝にとっても、桂香にとっても。

 

彼は、いつまでも大切な家族だった。

 

───

 

翌朝。

 

清滝家。

 

午前9時。

 

ピンポーン。

 

静かな家に、インターホンの音が響いた。

 

「……あら?」

 

桂香が顔を上げる。

 

「こんな朝から、誰だろう?」

 

玄関へ向かう。

 

そして、扉を開けた。

 

「……あっ」

 

そこには、見慣れた少年が立っていた。

 

九頭竜八一。

 

その隣には、小さな少女。

 

雛鶴あい。

 

「……桂香さん、おはようございます」

 

八一が頭を下げる。

 

「八一くん!」

 

桂香は驚いたように目を丸くした。

 

「どうしたの? こんな朝から」

 

「……実は」

 

八一は、少しだけ困ったように笑った。

 

「……師匠に、相談したいことがあって」

 

桂香は、隣にいるあいへ視線を向ける。

 

「……その子は?」

 

「……えっと」

 

八一が言葉に詰まる。

 

すると、あいが元気よく頭を下げた。

 

「初めまして! 雛鶴あいです!」

 

「……あら!」

 

桂香は、優しく微笑んだ。

 

「初めまして、あいちゃん!」

 

「はい!」

 

あいは嬉しそうに笑った。

 

その様子を見ながら。

 

八一は、そっと息を吐いた。

 

(……さて)

 

ここからが、本番だった。

 

そして。

 

2階の寝室では。

 

「……すぅ……」

 

猿飛角晴が、まだ気持ちよさそうに眠っていた。

 

昨日、あれほど楽しく将棋を指していた少年は。

 

今日もまた。

 

朝が弱かった。

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