3月。
春休みの大阪。
午前9時。
清滝家の玄関には、2人の訪問者が立っていた。
1人は、九頭竜八一。
16歳にして竜王位を保持する、将棋界の若き天才棋士。
そして、もう1人。
「初めまして! 雛鶴あいです!」
元気よく頭を下げたのは、9歳の少女だった。
石川県の旅館『ひな鶴』の娘。
雛鶴あい。
八一の弟子になることを夢見て、はるばる大阪までやって来た少女である。
「……あら!」
玄関の扉を開けた清滝桂香は、少し驚いたように目を丸くした。
「初めまして、あいちゃん!」
「はい!」
あいは嬉しそうに笑った。
その隣で、八一はどこか疲れた表情を浮かべていた。
「……桂香さん、おはようございます」
「おはよう、八一くん」
桂香は微笑んだ。
「どうしたの? こんな朝早くから」
「……実は、師匠に相談したいことがありまして」
八一は困ったように笑った。
「ちょっと……事情が複雑なんですけど」
「……?」
桂香は、八一とあいを交互に見つめた。
そして、何となく事情を察したように頷いた。
「……とりあえず、上がって?」
「あ、ありがとうございます」
八一は頭を下げた。
あいも、それに続く。
「お邪魔します!」
元気な声が、清滝家の玄関に響いた。
───
「……なんや八一」
リビングへ入ってきた八一を見て、清滝鋼介が顔を上げた。
「朝っぱらから珍しいやないか」
「師匠、おはようございます」
「おう」
清滝は頷いた。
そして、その隣にいる少女へ視線を向ける。
「……ん?」
「お、おはようございます!」
あいは緊張した様子で頭を下げた。
「雛鶴あいと申します!」
「……雛鶴?」
清滝は少しだけ眉を上げた。
「ああ、お前が昨日、角晴の言うとった子か!」
「えっ?」
八一が驚いたように顔を上げる。
「兄弟子、もう話したんですか!?」
「おう!」
清滝は豪快に頷いた。
「昨日、夕飯食うとるときにな!」
「……そうですか」
八一は小さくため息をついた。
(……まあ、兄弟子なら話しますよね)
隠しておけるとは思っていなかった。
それでも、師匠に直接説明する前から知られているというのは、少しばかり気まずい。
清滝は、そんな八一を眺めていた。
「……それで?」
「……はい」
八一は姿勢を正した。
「師匠に、相談したいことがあります」
「……ほぉ」
清滝の表情が、少しだけ真剣になる。
「聞こか」
八一は頷いた。
そして、あいとの出会いについて話し始めた。
───
八一とあいが初めて出会ったのは、今から数ヶ月前のことだった。
当時の八一は、まだ竜王ではなかった。
史上最年少での竜王位獲得を目指し、竜王戦七番勝負へ挑んでいた。
相手は、長年にわたって将棋界の第一線で戦い続けてきた強豪棋士。
当然、簡単な勝負ではなかった。
初めての大舞台。
タイトル戦独特の緊張感。
何より、自分よりも遥かに経験豊富な棋士との戦い。
八一は、全身全霊で将棋に向き合っていた。
そんな竜王戦の対局会場の1つが、石川県にある旅館『ひな鶴』だった。
そこで出会ったのが、雛鶴あいである。
「……雛鶴さんのお嬢さんやったんか」
清滝が、納得したように頷いた。
「はい」
八一も頷く。
「対局のときに、旅館でお世話になった子なんです」
「……ほぉ」
「そのとき、あいちゃんに将棋を教える機会があって……」
八一は、少しだけ懐かしそうに目を細めた。
「……正直、驚きました」
清滝は黙って続きを待った。
───
竜王戦七番勝負。
対局会場となった旅館『ひな鶴』。
そこで八一は、小さな女の子から将棋を教えてほしいと頼まれた。
「将棋を教えてください!」
元気いっぱいに頭を下げる少女。
雛鶴あい。
当時、八一はタイトル戦の真っ最中だった。
当然、将棋の研究や対局準備で忙しい。
それでも、目の前の少女の熱意を無下にはできなかった。
少しだけなら。
そんな気持ちで、将棋盤を挟んだのだ。
最初は、ただの将棋好きな子供だと思っていた。
駒の動きを覚え、自分なりに指している。
その程度の認識だった。
しかし。
「……え?」
八一は、思わず盤面を見つめた。
あいが指した一手。
それは、単なる思いつきで指された手ではなかった。
目の前の駒を取るのではなく、その先の展開まで考えようとしていた。
もちろん、読みそのものは未熟だった。
駒の損得を間違えることもある。
序盤の知識も足りていない。
しかし。
終盤に入ると、少女の集中力は明らかに変わった。
「…………」
小さな体を前へ傾け、盤面をじっと見つめる。
目の前の局面に、全神経を集中させていた。
「……これ!」
パチンッ。
少女が駒を進める。
八一は、その一手を見つめた。
(……なるほど)
自分が考えていた手とは違う。
それでも、その先に確かな狙いがある。
未完成ではあるが、光るものがあった。
(……この子、もしかして……)
八一は、少しだけ目を細めた。
そして、自然と真剣になっていった。
相手は9歳の少女。
それでも、盤上に現れた可能性を見過ごすことはできなかった。
「……あいちゃん」
「はい!」
「何で、そこに指したの?」
あいは、嬉しそうに盤面を指差した。
「えっとですね!」
そこから始まった説明は、決して完璧なものではなかった。
読み抜けもあった。
間違っている部分もあった。
しかし。
一生懸命に考えていることだけは、はっきりと伝わってきた。
そして何より。
「将棋って、すっごく楽しいです!」
あいは、心から楽しそうに笑っていた。
八一は、その笑顔を見つめた。
(……この子、本当に将棋が好きなんだな)
そんなことを思ったのだった。
───
「……それで」
八一は、現在の清滝家で話を続けた。
「あいちゃんに、弟子入りしたいって言われたんです」
「……ほぉ」
清滝が頷く。
あいは、少し恥ずかしそうに俯いた。
「……はい」
「そのときは、まだ俺も竜王戦の途中だったので……」
八一は頭を掻いた。
「正直、弟子を取るなんて考えられなかったんです」
「……せやろな」
清滝は静かに頷いた。
八一は続ける。
「だから、俺……」
少しだけ言いにくそうに視線を逸らした。
「……竜王になれたら、願いを聞くって約束したんです」
「…………」
清滝の動きが止まった。
「……何やて?」
「……だから」
八一は、さらに気まずそうな表情になる。
「竜王になれたら、何でも言うことを聞くって……」
「…………」
数秒の沈黙。
そして。
「……八一ぃぃぃ!!」
清滝の怒声が響いた。
「ひぃっ!?」
八一の肩が跳ねる。
「お前、何ちゅう約束しとんねん!!」
「い、いや! だって!!」
「だってやあるか!!」
清滝は頭を抱えた。
「よりによって、小さい子にそんな約束するか普通!?」
「……すみません!!」
八一は慌てて頭を下げた。
その隣で、あいは不思議そうに2人を見つめていた。
「……?」
本人にとっては、大切な約束だった。
八一が竜王になったら、自分を弟子にしてもらう。
その約束を、ずっと覚えていたのだ。
「……それで?」
清滝は深く息を吐いた。
「お前、ほんまに竜王になってもうたわけやな」
「……はい」
八一は小さく頷いた。
「……それで、あいちゃんが大阪まで来たんです」
清滝は、しばらく黙っていた。
そして。
「……はぁぁ……」
大きなため息をついた。
「……なるほどなぁ」
ようやく事情が理解できた。
八一が困り果てている理由も。
あいが、そこまで強く弟子入りを希望している理由も。
「……そら、お前にも責任あるわ」
「……はい」
八一は、素直に頷いた。
───
「……でもな」
清滝は、あいへ視線を向けた。
「……嬢ちゃん」
「は、はい!」
あいは緊張した様子で背筋を伸ばす。
「将棋、好きなんか?」
「はい!」
迷いのない返事だった。
「大好きです!」
「……ほぉ」
「もっともっと強くなりたいんです!」
清滝は、その瞳を見つめた。
真っ直ぐな目だった。
将棋が好きで。
もっと強くなりたい。
その気持ちだけは、誰にも負けない。
そんな強い意志が感じられた。
(……なるほど)
清滝は、小さく頷いた。
(……八一が才能を認めるだけのことはあるんやろな)
八一は、あいの将棋についてさらに説明を続けた。
特に目を引いたのは、終盤の読みだった。
序盤では、知識不足から不利になることもある。
中盤でも、まだ形勢判断に粗さが残る。
しかし。
終盤に入ると、驚くような手が飛び出すことがあった。
「……それは、おもろいな」
清滝が呟く。
「はい」
八一は頷いた。
「俺も、そう思いました」
清滝は、少しだけ笑った。
「……昔の角晴を思い出すわ」
「……兄弟子ですか?」
「おう」
清滝は頷いた。
「角晴も、初めて指したときは驚かされたもんや」
もちろん、角晴とあいでは棋風も違う。
才能の現れ方も違う。
しかし。
将棋に夢中になっている姿。
そして、もっと強くなりたいという真っ直ぐな気持ち。
そこには、どこか通じるものがあった。
「……そういえば」
八一が顔を上げた。
「兄弟子は、今日は……?」
「……ああ」
清滝は苦笑した。
「上で寝とる」
「…………」
八一は、しばらく黙っていた。
そして。
「……やっぱり」
小さく呟いた。
───
同じ頃。
清滝家の2階。
「……すぅ……」
猿飛角晴は、気持ちよさそうに眠っていた。
昨夜は銀子と遅くまで将棋を指していた。
そのため、普段以上に朝が弱くなっている。
もっとも、特に予定がなければ昼近くまで眠ってしまうのは、いつものことだったが。
「……んぅ……」
角晴は寝返りを打つ。
そして、布団を抱き締めた。
「……あと……5分……」
誰も起こしていないというのに、そんな寝言を呟いた。
そのとき。
コンコン。
扉がノックされた。
「……角晴」
返事はない。
「……起きて」
聞き慣れた少女の声。
空銀子だった。
「……んー……」
「……もう9時過ぎてる」
「……まだ……9時……」
「……もう、でしょ」
「……休み……」
銀子は、扉の前で小さくため息をついた。
(……本当に、朝だけはどうしようもないわね)
将棋界の帝王。
15歳の三冠棋士。
そんな立派な肩書きを持つ少年が、今は布団の中で寝ぼけている。
銀子は扉を開けた。
「……入るわよ」
「……ん……」
角晴は、相変わらず眠そうだった。
銀子はベッドの脇へ近づく。
「……八一が来てる」
「……んー……」
「……あいちゃんも一緒」
「……あい……ちゃん……?」
角晴の眉が、少しだけ動いた。
「……あいちゃん……」
そして。
「……あっ」
ぱちり。
目が開いた。
「……八一!?」
「……そう」
「……来てるの!?」
角晴は勢いよく体を起こした。
銀子は、呆れたように彼を見つめる。
「……さっきから言ってるでしょ」
「……えっ!? 何で!?」
「……師匠に相談があるんだって」
「……ああ!」
角晴は納得したように頷いた。
「弟子入りのことか!」
「……多分ね」
「そっかぁ!」
角晴は嬉しそうに笑った。
「じゃあ、俺も行こっかな!」
そう言って、ベッドから降りようとする。
しかし。
「……ちょっと」
銀子が、すぐに止めた。
「ん?」
「……その格好で行くつもり?」
「……え?」
角晴は自分の姿を見下ろした。
寝癖のついた髪。
少しよれた部屋着。
そして、まだ眠そうな顔。
「……あはは!」
角晴は笑った。
「さすがに着替えてから行くよ!」
「……当たり前」
銀子は小さくため息をついた。
「……顔も洗いなさい」
「はーい!」
「……あと、髪」
「……え?」
「……寝癖」
角晴は頭へ手を伸ばした。
「……あっ」
銀子は呆れたように首を振った。
「……ほんと、バカ」
「ええっ!? 何で!?」
銀子は、ほんの少しだけ笑った。
「……早くしなさい」
そう言って、部屋を出ていく。
角晴は扉を見つめた。
「……何か、いつも怒られてる気がする」
小さく呟く。
しかし、すぐに笑った。
「……まあ、いっか!」
そして、洗面所へ向かった。
───
「……それで、師匠」
リビングでは、八一の相談が続いていた。
「……どうしたらいいでしょうか」
清滝は、少し考え込んだ。
「……そうやなぁ」
八一は、真剣な表情で返事を待っている。
あいも、緊張した様子だった。
「……八一」
「はい」
「お前、その子の才能を認めとるんやな?」
「……はい」
八一は頷いた。
「間違いなく、才能はあると思います」
「……ほぉ」
「ただ……」
八一は、少しだけ視線を落とした。
「……俺自身、まだ16歳です」
清滝は黙って聞いていた。
「竜王にはなりました。でも、棋士としてはまだまだですし……」
八一は、拳を握った。
「……弟子を取るなんて、考えたこともありませんでした」
その言葉に、清滝は小さく頷いた。
「……せやろな」
「……だから」
八一は顔を上げた。
「……どうすればいいのか、分からなくて」
清滝は、しばらく八一を見つめた。
そして。
「……八一」
「はい」
「……お前は、どうしたいんや?」
「…………」
八一の動きが止まった。
「……俺、ですか?」
「おう」
清滝は頷いた。
「弟子を取るんは、お前やろ?」
「…………」
「ワシが決めることやあらへん」
その言葉に、八一は黙り込んだ。
確かに、そのとおりだった。
弟子を取るのは、自分。
あいの将棋に向き合うのも、自分。
清滝が何を言ったとしても、最終的に決断しなければならないのは八一自身だった。
「…………」
八一は、そっとあいを見つめた。
少女は、不安そうにこちらを見ている。
「……ししょー」
小さな声だった。
「……わたし」
あいは、膝の上で拳を握った。
「……本当に、将棋が好きなんです」
八一は黙って耳を傾けた。
「もっと強くなりたいんです」
「…………」
「……だから」
あいは顔を上げた。
「……お願いします!」
深く頭を下げる。
「わたしを、お弟子さんにしてください!」
その声は、真剣だった。
清滝は、何も言わずに見守っていた。
───
「……おはよー!」
そのとき。
リビングの入口から、明るい声が響いた。
「……ん?」
全員が顔を向ける。
そこには、髪を整え、着替えを済ませた角晴が立っていた。
「八一! あいちゃん!」
角晴は嬉しそうに笑った。
「おはよう!」
「……兄弟子!?」
八一が驚いたように声を上げた。
「何でここにいるんですか!?」
「え?」
角晴は、きょとんとした。
そして、当然のように答えた。
「俺の実家だから?」
「……いや、そうですけど!」
八一は頭を抱えた。
「……昨日、帰ったんじゃなかったんですか!?」
「あはは! 泊まった!」
「……そういうことですか」
八一は深いため息をついた。
一方。
「……あっ!」
あいの目が輝いた。
「猿飛三冠!」
「おっ!」
角晴は笑顔で頷いた。
「一昨日ぶりだね!」
「はい!」
あいは嬉しそうに笑った。
「おはようございます!」
「うん! おはよう!」
その様子を見て、清滝は呆れたように笑った。
「……角晴」
「ん?」
「お前、今起きたんか?」
「……あはは!」
角晴は頭を掻いた。
「……うん!」
「……まったく!」
清滝は豪快に笑った。
「将棋の対局やったら、朝早うても起きるくせにな!」
「だって、今日はお休みだもん!」
「……それがあかんのや!」
八一は、そのやり取りを眺めていた。
(……相変わらずだなぁ)
盤上では、誰もが恐れる三冠棋士。
しかし、清滝家では昔から変わらない兄弟子だった。
「……それで?」
角晴が口を開いた。
「弟子入りの相談?」
「……はい」
八一は頷いた。
「師匠に相談していたところです」
「そっか!」
角晴は嬉しそうに笑った。
「じゃあ、俺も聞いていい?」
清滝は頷いた。
「おう。座り」
「はーい!」
角晴は、銀子の隣へ腰を下ろした。
「……角晴」
「ん?」
「……寝癖、まだ少し残ってる」
「えっ!?」
角晴は慌てて頭へ手を伸ばした。
銀子は、ほんの少しだけ笑った。
「……嘘」
「ええっ!?」
角晴の情けない声が響いた。
桂香が、思わず笑う。
八一は、再びため息をついた。
(……この兄弟子たち、本当に……)
───
「……さて」
清滝が咳払いをした。
「話を戻そか」
「……はい」
八一は姿勢を正した。
角晴も、真剣な表情で耳を傾ける。
「……角晴にも説明しとくか」
清滝が言うと、八一は頷いた。
「そうですね」
八一は、改めて角晴へ向き直る。
「兄弟子。実は、俺とあいちゃんが出会ったのは……」
「うん?」
「竜王戦のときなんです」
「……おおっ!」
角晴の目が輝いた。
「竜王に挑戦してたとき?」
「はい」
八一は頷いた。
「あいちゃんの実家が、対局会場だったんです」
「へぇぇ!」
角晴は感心したように声を上げた。
「そうだったんだ!」
「それで……」
八一は、少しだけ言いにくそうな表情になった。
「……竜王になれたら、願いを聞くって約束してしまって」
「…………」
角晴の動きが止まった。
「……え?」
「……はい」
「……何でも?」
「……何でも、です」
数秒の沈黙。
そして。
「……あははははっ!!」
角晴が、声を上げて笑い始めた。
「ちょっ!? 兄弟子!?」
八一が慌てる。
「笑わないでくださいよ!!」
「あはは! ご、ごめん!」
角晴は目元を拭った。
「いやぁ、八一らしいなぁって!」
「……どこがですか!?」
「だって、八一って昔からそういうところあるじゃん!」
「……ありませんよ!!」
八一は必死に否定した。
しかし。
「……あるでしょ」
銀子が、ぼそりと呟く。
「……姉弟子!?」
八一は、さらに頭を抱えた。
角晴は楽しそうに笑っていた。
「でもさ!」
「……何ですか?」
「……八一、本当に竜王になっちゃったんだもんね!」
「…………」
八一は、少しだけ目を丸くした。
角晴は、柔らかく微笑む。
「……すごいよね」
「……兄弟子」
「俺、嬉しかったなぁ」
角晴は笑った。
「八一が竜王になったとき!」
その言葉を聞いて、八一は少しだけ目を伏せた。
「……ありがとうございます」
小さく答える。
角晴は、いつもの笑顔で頷いた。
「うん!」
しかし。
「……だからこそ」
角晴は、少しだけ真剣な表情になった。
「……約束、ちゃんと考えないとね」
八一も頷いた。
「……はい」
───
清滝は、あいへ視線を向けた。
「……嬢ちゃん」
「は、はい!」
「……ちょっと聞いてええか?」
「はい!」
清滝は、ゆっくりと口を開いた。
「……お父さんとお母さんは、お前がここに来とること知っとるんか?」
「…………っ」
あいの肩が、わずかに動いた。
八一は、少しだけ眉を寄せた。
「……あいちゃん?」
「…………」
あいは、視線を落とした。
「……えっと」
小さな声だった。
「……その……」
角晴は、そんなあいを見つめていた。
(……あれ?)
昨日、八一のマンションでは、あいは母親に話していると言っていた。
しかし。
今の反応は、どう見ても様子がおかしい。
「……あいちゃん」
八一が声をかける。
「……昨日、俺には話してるって言ったよね?」
「…………」
あいは答えない。
「……あいちゃん?」
「……ごめんなさい……」
小さな声が響いた。
「…………」
八一の表情が固まった。
「……え?」
あいは、俯いたまま続ける。
「……本当は……」
声が震えていた。
「……ちゃんとは、話してません……」
「…………」
リビングに、静寂が落ちた。
そして。
「……えええええっ!?」
八一の悲鳴が響き渡った。
「ちょ、ちょっと待って!?」
八一は慌てて立ち上がった。
「じゃあ、ご両親は!? 今、あいちゃんが大阪にいることを知らないの!?」
「…………」
あいは、小さく頷いた。
「……はい……」
「……うそだろぉぉぉ!?」
八一は頭を抱えた。
「……俺、完全に信じてたのに!!」
角晴も、少し驚いたように目を丸くしていた。
「……あいちゃん」
「……はい……」
「……お母さんには、何て言って来たの?」
あいは、少しだけ顔を上げる。
「……お友達のところへ行くって……」
「…………」
角晴は、小さく息を吐いた。
清滝は腕を組み、静かにあいを見つめている。
銀子も、何も言わなかった。
桂香だけが、少し心配そうな表情を浮かべていた。
「……あいちゃん」
角晴が、優しく声をかける。
「……はい」
「……どうして、嘘ついちゃったの?」
あいは、唇を噛み締めた。
「……だって……」
小さな声だった。
「……お母さん、反対すると思ったから……」
「…………」
「……でも、わたし……」
あいの目に、涙が浮かび始める。
「……どうしても、将棋がしたくて……」
その言葉に、角晴は少しだけ目を細めた。
(……そっか)
将棋が好きで。
もっと強くなりたくて。
どうしても、諦められなかった。
その気持ちは、よく分かる。
しかし。
「……あいちゃん」
角晴は、ゆっくりと口を開いた。
「……将棋が好きなのは、すっごくいいことだと思うよ」
「…………」
「俺も、将棋大好きだからね」
あいは、そっと顔を上げた。
角晴は、柔らかく微笑んだ。
「……でも」
少しだけ、声を落とす。
「……お父さんとお母さんには、ちゃんと話さないと」
「…………」
「……きっと、すごく心配してると思うから」
あいの目から、涙が零れた。
「……はい……」
角晴は、少しだけ寂しそうに笑った。
「……会えるうちに、ちゃんと話しておいた方がいいよ」
その言葉には、普段とは少し違う重みがあった。
清滝は、何も言わずに角晴を見つめていた。
彼が何を思っているのか。
清滝には、何となく分かった。
角晴は、幼い頃に両親を亡くしている。
もう、直接話すことはできない。
だからこそ。
あいには、両親としっかり向き合ってほしいのだろう。
「……うん」
あいは、涙を拭った。
「……分かりました……」
角晴は、優しく微笑んだ。
「……うん!」
───
「……八一」
清滝が口を開いた。
「はい」
八一は、まだ少し疲れた表情で顔を上げた。
「……こうなった以上、まずは親御さんへの確認が先や」
「……はい」
八一は頷いた。
当然だった。
あいは、まだ9歳。
いくら将棋の才能があったとしても、保護者の同意なしに預かるわけにはいかない。
「……ワシから連盟にも話しとく」
清滝は続けた。
「事情を説明して、雛鶴さんのご両親に連絡してもらおか」
「……お願いします」
八一は深く頭を下げた。
あいは、不安そうな表情を浮かべていた。
「……お母さん……」
その声を聞いて、桂香が優しく微笑む。
「あいちゃん、大丈夫だよ」
「……え?」
「ちゃんとお話ししようね」
「……はい」
あいは小さく頷いた。
清滝は、ゆっくりと立ち上がった。
「……ほな、ちょっと電話してくるわ」
そして、別室へ向かった。
───
関西将棋会館。
午前10時過ぎ。
事務室では、職員たちが通常業務を進めていた。
その中で、1人の職員が電話を受け取っていた。
「……はい、承知いたしました」
電話の相手は、清滝鋼介だった。
事情を聞いた職員は、少しだけ表情を変えた。
「……9歳の女の子が?」
驚いたように確認する。
「……はい」
その後も、清滝から詳しい説明を受ける。
少女の名前。
出身地。
現在、九頭竜八一のもとにいること。
そして、弟子入りを希望していること。
「……分かりました」
職員は頷いた。
「こちらから、ご実家へ連絡を取ってみます」
電話を切る。
そして、必要な確認を進めた後。
石川県の旅館『ひな鶴』へ電話をかけた。
プルルルル……。
数回の呼び出し音。
やがて。
『はい。旅館ひな鶴でございます』
女性の声が聞こえた。
「お忙しいところ、失礼いたします。日本将棋連盟の者ですが……」
『……日本将棋連盟?』
女性の声が、少しだけ変わった。
「雛鶴あいさんの保護者の方はいらっしゃいますでしょうか?」
『……あいの?』
「はい。少々、お伺いしたいことがございまして」
一瞬の沈黙。
そして。
『……私が母親の亜希奈です』
落ち着いた声だった。
しかし、その奥には警戒が滲んでいた。
「……雛鶴様。実は、お嬢様のことでご連絡いたしました」
『……あいが、何か?』
職員は、慎重に言葉を選んだ。
「現在、あいさんが大阪にいらっしゃることは、ご存じでしょうか?」
『…………』
電話の向こうが、静かになった。
数秒後。
『……大阪?』
低い声だった。
「……はい」
『……あの子が?』
「……はい」
さらに、数秒の沈黙。
そして。
『……どういうことですか?』
その声は、先ほどまでとは明らかに違っていた。
職員は、背筋を伸ばした。
「……詳しくご説明いたします」
───
清滝家。
「……はぁぁ……」
八一は、ソファに深く沈み込んでいた。
「……まさか、本当に無断だったなんて……」
その隣で、角晴が苦笑している。
「あはは……大変だね、八一」
「兄弟子、笑い事じゃないですよ!」
「……ごめんごめん!」
角晴は慌てて謝った。
しかし、その表情には少しだけ笑みが残っていた。
「……でも、あいちゃんの気持ちも分かるんだよね」
「……まあ、それは俺も分かりますけど」
八一は、小さく息を吐いた。
「……でも、さすがにこれは……」
「うん」
角晴も頷いた。
「……ちゃんとしないとね」
そのとき。
「……ししょー……」
あいが、小さな声で話しかけた。
八一は顔を上げる。
「……あいちゃん」
「……ごめんなさい……」
あいは、深く頭を下げた。
「……嘘、ついて……」
「…………」
八一は、しばらく黙っていた。
そして。
「……うん」
ゆっくりと頷いた。
「……次からは、ちゃんと話してね」
「……はい……!」
あいは、涙を拭った。
八一は、少しだけ苦笑した。
「……本当に、もう……」
しかし、その声には怒りだけではない感情が込められていた。
困惑。
心配。
そして。
目の前の少女を、どうにかしてあげたいという気持ち。
角晴は、そんな八一を見つめていた。
(……八一)
小さく微笑む。
(……もう、半分くらい師匠みたいだね)
口には出さなかった。
きっと、今言えば八一が慌てるからだ。
───
しばらくして。
清滝がリビングへ戻ってきた。
「……おう」
全員が顔を上げる。
「おじさん!」
角晴が声をかけた。
「どうだった?」
「……連盟には話したで」
清滝は頷いた。
「向こうから、雛鶴さんのご実家に連絡してもらうことになった」
「……そうですか」
八一が小さく息を吐く。
「ありがとうございます」
「……おう」
清滝は頷いた。
そして、あいへ視線を向ける。
「……嬢ちゃん」
「……はい」
「……お母さん、心配しとると思うで」
「…………」
あいは、小さく頷いた。
「……はい」
清滝は、それ以上責めなかった。
ただ、静かに続ける。
「……将棋を指したいいう気持ちは、よう分かった」
あいが顔を上げる。
「……でもな」
清滝の声が、少しだけ真剣になる。
「……将棋だけで、世の中全部決まるわけやない」
「…………」
「家族も大事や」
あいは、黙って聞いていた。
「……そこは、忘れたらあかんで」
「……はい」
小さく頷く。
清滝は、柔らかく笑った。
「……よし」
そして、八一へ向き直る。
「……八一」
「はい」
「……お前は、どうしたいんや?」
その質問は、先ほどと同じだった。
しかし。
今度の八一は、すぐに答えなかった。
じっと、あいを見つめる。
将棋が好きで。
もっと強くなりたくて。
そのために、遠くからやって来た少女。
もちろん、嘘をついて来たことは褒められない。
しかし。
その熱意まで、否定することはできなかった。
「…………」
八一は、ゆっくりと口を開いた。
「……俺は」
少しだけ、言葉を選ぶ。
「……あいちゃんに、将棋を教えたいです」
あいの目が、大きく開いた。
「……ししょー……?」
八一は、真剣な表情で続けた。
「……でも、正式に弟子を取るっていうのは、まだ簡単には決められません」
清滝は頷いた。
「……せやろな」
「……だから」
八一は顔を上げた。
「……まずは、春休みの間だけでも」
一度、息を吸う。
「……あいちゃんの将棋を、見てみたいです」
リビングに、静寂が落ちた。
そして。
「……ほぉ」
清滝が、ゆっくりと笑った。
「……そうか」
八一は頷いた。
「はい」
その表情には、迷いだけではない、確かな決意があった。
清滝は、しばらく八一を見つめた。
そして。
「……ええんちゃうか」
小さく頷いた。
「……ただし」
「……はい」
「親御さんの了承が取れたら、や」
「……もちろんです」
八一は、真剣に頷いた。
───
その後。
連盟から、清滝家へ連絡が入った。
雛鶴家への連絡が取れたという報告だった。
母親の亜希奈は、あいが大阪にいることを知らなかった。
当然、驚いていた。
そして、怒ってもいた。
しかし。
あいが安全な場所にいること。
九頭竜八一と清滝鋼介が事情を把握していること。
そして、本人が将棋の勉強を希望していること。
それらを確認したうえで、ひとまず春休みの間、八一のもとで預かることについては、条件付きで了承することになった。
ただし。
正式な弟子入りについては、別の話。
今後、改めて話し合いが必要だった。
「……なるほどなぁ」
連絡を受けた清滝は、ゆっくりと頷いた。
「……分かりました」
電話を切る。
そして、リビングへ戻った。
「……八一」
「はい!」
八一が立ち上がる。
清滝は、ゆっくりと頷いた。
「……ひとまず、春休みの間だけなら預かってもええそうや」
「……えっ!?」
八一の目が開いた。
あいも、勢いよく顔を上げる。
「……本当ですか!?」
「おう」
清滝は頷いた。
「ただし、正式な弟子入りはまだや」
「……はい!」
八一は真剣に頷いた。
あいは、嬉しそうに両手を握り締める。
「……やった……!」
その目には、涙が浮かんでいた。
「……やったぁぁぁ!!」
あいが、元気よく声を上げる。
「ししょー!!」
そして。
ぎゅっ。
八一に抱きついた。
「うわっ!?」
八一が驚く。
「ちょ、ちょっと、あいちゃん!?」
「ありがとうございます!!」
あいは、嬉しそうに笑っていた。
「わたし、頑張ります!!」
「……あ、ああ!」
八一は、少しだけ困ったように笑った。
しかし。
その表情には、確かな喜びがあった。
───
「……ふふっ」
角晴は、その様子を眺めていた。
隣に座っていた銀子が、顔を向ける。
「……何?」
「いやぁ」
角晴は笑った。
「……よかったなって!」
「……そうね」
銀子も、小さく頷いた。
「……まだ正式に決まったわけじゃないけど」
「うん!」
角晴は頷く。
「でも、これからが楽しみだね!」
銀子は、そんな角晴を見つめた。
「……あんた、本当に嬉しそうね」
「そりゃそうだよ!」
角晴は笑った。
「将棋が好きな子が、もっと将棋を指せるようになるんだよ?」
「…………」
「嬉しいに決まってるじゃん!」
銀子は、少しだけ目を細めた。
(……ほんとに)
昔から、角晴はそうだった。
自分が将棋を指すのも好き。
他人の将棋を見るのも好き。
そして。
将棋が好きな人間が、楽しそうに指している姿を見るのも好きだった。
「……バカ」
銀子が、小さく呟く。
「ええっ!?」
角晴は驚いた。
「何で!?」
銀子は、ほんの少しだけ笑った。
「……何でもない」
「……またそれ!?」
角晴の情けない声が響く。
桂香は、そんな2人を見て楽しそうに笑っていた。
───
昼前。
八一とあいは、清滝家を後にすることになった。
玄関では、清滝と桂香、角晴、銀子が見送っていた。
「……師匠」
八一が頭を下げる。
「今日は、ありがとうございました」
「おう」
清滝は頷いた。
「……八一」
「はい」
「……これから大変やぞ」
「……分かってます」
八一は、真剣な表情で頷いた。
清滝は、そんな弟子を見つめる。
「……せやけど」
少しだけ笑った。
「……ええ経験になると思うで」
「……はい!」
八一は頷いた。
その隣で、あいも深く頭を下げる。
「ありがとうございました!」
「おう!」
清滝は豪快に笑った。
「頑張りや!」
「はい!」
あいは、元気よく頷いた。
桂香も、優しく微笑む。
「あいちゃん、また遊びに来てね!」
「はい!」
そして。
「八一!」
角晴が声をかけた。
「……兄弟子」
八一が振り向く。
角晴は、にっこりと笑った。
「……頑張ってね!」
「…………」
「困ったことがあったら、いつでも相談してよ!」
八一は、少しだけ目を丸くした。
そして。
「……ありがとうございます」
柔らかく微笑んだ。
「……兄弟子」
「ん?」
「……そのときは、お願いします」
「もちろん!」
角晴は笑顔で頷いた。
その様子を見て、あいが元気よく声を上げた。
「猿飛三冠!」
「ん?」
「わたし、もっともっと強くなります!」
「……おおっ!」
角晴の目が輝いた。
「いいね!」
「はい!」
あいは、力強く頷いた。
「いつか、猿飛三冠とも将棋を指したいです!」
角晴は、一瞬だけ目を丸くした。
そして。
「……ふふっ」
嬉しそうに笑った。
「……楽しみにしてる!」
その言葉に、あいも笑った。
「はい!」
八一は、そんな2人を見つめていた。
(……本当に、将棋が好きなんだなぁ)
兄弟子も。
そして、あいも。
将棋が大好きで。
もっと強くなりたいと願っている。
その姿を見ていると、自分も負けていられないと思う。
「……さて」
八一は小さく息を吐いた。
「……帰ろうか、あいちゃん」
「はい! ししょー!」
2人は、並んで歩き始めた。
清滝家の門を出て、春の街へ向かっていく。
その背中を、角晴たちは静かに見送っていた。
───
「……行ったなぁ」
清滝が、小さく呟いた。
「……そうだね」
桂香が頷く。
角晴は、しばらく2人の背中を眺めていた。
そして。
「……ふふっ」
小さく笑った。
「……何や、角晴」
清滝が顔を向ける。
「ん?」
「……何がおもろいんや?」
角晴は、嬉しそうに答えた。
「……いやぁ」
少しだけ、目を細める。
「……八一も、師匠になるんだなぁって!」
「……せやな」
清滝は頷いた。
「……まだ、正式には決まっとらんけどな」
「うん!」
角晴は笑った。
「……でも、何か嬉しいね!」
清滝は、そんな弟子を見つめていた。
そして、少しだけ微笑んだ。
「……お前も、いつかそうなるんやろな」
「……え?」
角晴が顔を上げる。
「……師匠に?」
「おう」
清滝は頷いた。
「……お前も、いつか弟子を取るんやろ?」
角晴は、少しだけ考えた。
そして。
「……うん!」
笑顔で頷いた。
「……いつか、取ってみたい!」
その言葉に、清滝は豪快に笑った。
「ははは! そうか!」
角晴も笑う。
「うん!」
銀子は、そんな2人を見つめていた。
そして、そっと微笑んだ。
(……角晴が師匠になる日……)
いつか、そんな日が来るのだろうか。
もし来るのなら。
自分は、その隣にいられるだろうか。
「…………」
銀子は、少しだけ目を伏せた。
そして。
(……いる)
心の中で、小さく呟いた。
(……絶対に)
角晴の隣に。
これからも。
ずっと。
───
猿飛角晴。
15歳。
帝位。
叡王。
棋帝。
3つのタイトルを保持する、若き天才棋士。
『将棋界の帝王』
その異名を持つ少年は、この日。
1つの新しい師弟関係の始まりを見届けた。
九頭竜八一。
そして、雛鶴あい。
竜王と、その弟子を目指す少女。
まだ正式な師弟ではない。
しかし、その第一歩は確かに踏み出された。
これから、あいは将棋の世界へ足を踏み入れていく。
勝利も。
敗北も。
喜びも。
悔しさも。
すべてを経験しながら、少しずつ成長していくだろう。
そして。
角晴自身にも、いずれ新たな出会いが訪れる。
まだ知らない少女。
まだ見ぬ才能。
そして、まだ経験したことのない師匠という立場。
その未来を、角晴はまだ知らない。
ただ。
今は、目の前の将棋を楽しむだけだった。
「……さて!」
角晴は、大きく伸びをした。
「おじさん!」
「ん?」
「……もう1局、指さない?」
清滝は、一瞬だけ目を丸くした。
そして。
「……はははっ!」
豪快に笑った。
「……お前、ほんまに将棋好きやなぁ!」
「もちろん!」
角晴は笑顔で頷いた。
「大好きだよ!」
清滝は、嬉しそうに笑った。
「……ほな、指そか!」
「うん!」
2人は、再び将棋盤へ向かった。
その姿を、桂香と銀子が微笑ましく見つめていた。
春の清滝家。
穏やかな日差しの中。
今日もまた、駒音が響く。
パチンッ。
新しい物語が、静かに動き始めていた。