3月。
春休みの大阪。
九頭竜八一のマンション。
午前8時30分。
八一side
「……はぁ」
パソコンの画面を見つめながら、俺は小さくため息をついた。
竜王になってから、もう何局負けたんだろう。
史上最年少竜王。
そんな肩書きを手に入れたはずなのに、最近は勝てない日々が続いている。
竜王戦七番勝負。
あのときは、確かに将棋が指せていた。
苦しい局面でも最善を探し続け、勝負どころでは踏み込むことができた。
自分の将棋を信じていた。
それなのに。
竜王というタイトルを手に入れてから、何かがおかしくなった。
読みが合わない。
優勢だと思った局面で逆転される。
終盤で踏み込めず、勝ちを逃す。
そして、負ける。
また負ける。
その繰り返しだった。
「……何でだよ」
小さく呟く。
昨日も棋譜を何度も並べ直した。
負けた将棋の原因を探した。
悪手も見つかった。
改善すべき部分も分かった。
だけど、それだけではどうにもならない何かが、胸の奥に引っかかっていた。
俺は気分転換のつもりで、将棋の掲示板を開いた。
……開かなければよかった。
『九頭竜竜王、また負けたのかよ』
『竜王になってから負けすぎじゃね?』
『史上最年少竜王(笑)』
『タイトル取れたの、たまたまだろ』
『竜王戦だけ調子よかったんじゃないの?』
『あの連敗っぷりを見ると、次の防衛戦は厳しそう』
「…………」
……分かってる。
最近、勝てていないことくらい。
誰よりも、俺自身が分かっている。
それでも。
こうして文字にされると、やっぱり堪える。
俺は無言で画面をスクロールした。
すると、今度は見慣れた名前が目に入った。
『同年代の棋士は活躍してるのにな』
『猿飛角晴15歳で三冠だぞ?』
『しかも九段。あの歳でタイトル3つは化け物すぎる』
『空銀子も14歳で女王のタイトル保持してるし』
『浪速の白雪姫は女流公式戦での活躍も安定してる』
『清滝一門、九頭竜以外は絶好調じゃん』
『猿飛三冠も空女王も年下なのにな』
『兄弟子と姉弟子は結果出してるのに、九頭竜竜王は何やってんだ?』
「…………」
……余計なお世話だ。
兄弟子も姉弟子も、強い。
そんなことは、俺が一番よく知っている。
兄弟子は15歳にして三冠。
帝位、叡王、棋帝。
どれも簡単に獲得できるタイトルじゃない。
対局でも研究会でも、あの人はいつも楽しそうに将棋を指している。
苦しい局面になるほど笑う、少し変わった人だ。
でも、その裏でどれほど努力しているかも知っている。
姉弟子だってそうだ。
14歳にして女王。
『浪速の白雪姫』と呼ばれるあの人は、普段こそ恐ろしいけれど、将棋に対しては誰よりも真剣だ。
どんなに厳しい局面でも諦めず、勝つために努力し続けている。
2人が結果を残しているのは、当然だと思う。
それだけの実力があるんだから。
……でも。
『清滝一門の落ちこぼれは九頭竜竜王だけか』
『猿飛三冠と空女王に囲まれてるの、逆に惨めだな』
『竜王戦はまぐれだったんだろ』
『次のタイトル戦で本当の実力が分かるな』
「……っ」
思わず、マウスを握る手に力が入った。
……何も知らないくせに。
兄弟子も姉弟子も、俺が竜王になったときは本気で喜んでくれた。
師匠も、桂香さんも。
みんな、祝ってくれた。
なのに。
どうして、他人が勝手に俺たちを比べるんだ。
「……俺だって」
竜王戦を、偶然勝ち抜いたわけじゃない。
必死に考えて。
必死に指して。
何度も苦しい局面を乗り越えて。
ようやく掴み取ったタイトルなんだ。
それなのに。
……最近は、勝てない。
兄弟子は三冠として結果を残し続けている。
姉弟子も女王として結果を残している。
2人とも、自分の将棋を貫いている。
それなのに、俺は。
「……何やってるんだろうな、俺」
竜王になった。
夢だったタイトルを手に入れた。
それなのに。
「……何で、勝てないんだろう」
答えは、画面のどこにも書いていなかった。
───
コンコン。
「ししょー?」
突然、部屋の扉がノックされた。
「……ん?」
俺は顔を上げる。
「ししょー! 朝ご飯、できました!」
聞き慣れ始めた、明るい声。
雛鶴あい。
9歳。
石川県から大阪まで押しかけてきた、俺の弟子候補だ。
先日、清滝師匠のところへ相談に行った結果、春休みの間だけ預かることになった。
もちろん、正式な弟子入りが決まったわけではない。
それでも、あいちゃんは俺のことを『ししょー』と呼び続けている。
「……もうそんな時間か」
時計を見る。
午前8時42分。
いつの間にか、ずいぶん時間が経っていた。
「ししょー?」
「あっ、うん! 今行く!」
俺は慌ててブラウザを閉じた。
そして、椅子から立ち上がる。
扉を開けると、エプロン姿のあいちゃんが立っていた。
「おはようございます!」
「ああ、おはよう」
「今日は卵焼きを作ってみました!」
「えっ? 卵焼き?」
「はい!」
あいちゃんは嬉しそうに頷いた。
「ししょーに美味しいものを食べてもらいたくて!」
「……そっか」
思わず、少しだけ笑ってしまった。
昨日まで、1人で暮らしていた部屋。
朝起きても、誰もいない。
食事を作るのも、食べるのも1人。
それが当たり前だった。
だけど、今は違う。
「……じゃあ、いただこうかな」
「はい!」
あいちゃんは嬉しそうに笑った。
そして、俺の手を引こうとする。
「早く行きましょう!」
「ちょ、ちょっと待って!」
慌てて後を追う。
その元気な背中を見つめながら、俺は思った。
(……本当に、すごい子だな)
ただ将棋が好きというだけじゃない。
毎日、全力で生きている。
そんな印象だった。
───
食卓には、ご飯と味噌汁、卵焼きが並んでいた。
「……おおっ」
思わず声が漏れる。
「これ、全部あいちゃんが?」
「はい!」
あいちゃんは胸を張った。
「お料理は、旅館で少しお手伝いしてたので!」
「……なるほど」
さすが旅館の娘というべきか。
9歳にしては、ずいぶんしっかりしている。
「いただきます」
「いただきます!」
卵焼きを一口食べる。
「……あっ」
美味しい。
少し甘めの味付けで、焼き加減も悪くない。
「……美味しいよ、あいちゃん」
「本当ですか!?」
「うん」
「やったぁ!」
あいちゃんは両手を握り締めた。
「ししょーに褒めてもらえました!」
「いや、そんなに喜ばなくても……」
「嬉しいです!」
満面の笑みだった。
その顔を見ていると、何だかこちらまで嬉しくなってくる。
「……ありがとう」
俺は、もう一口卵焼きを食べた。
昨日までの静かな朝とは、ずいぶん違う。
でも。
(……悪くないかもな)
そんなことを思った。
───
食事を終えた後。
あいは将棋盤の前に座り、分厚い本を開いていた。
「……うーん」
小さく唸りながら、盤面を見つめる。
目の前には、詰将棋の問題が並べられていた。
祖父が残してくれた詰将棋の本。
あいが将棋を好きになり、独学で何度も繰り返してきた大切なものだった。
「……あっ!」
あいの表情が明るくなる。
「分かりました!」
「……ん?」
八一が顔を上げる。
「もう解けたの?」
「はい!」
あいは嬉しそうに頷いた。
「ここに金を打って、それから……」
次々と駒を動かしていく。
八一は、その手順を見つめた。
「…………」
そして、少しだけ目を丸くした。
(……やっぱり、すごいな)
詰将棋に関しては、驚くほど読みが鋭い。
複雑な手順でも、粘り強く考えて答えへ辿り着く。
しかし、それがそのまま実戦での強さにつながるわけではない。
序盤の駒組み。
中盤の形勢判断。
相手の狙いを見抜くための知識。
あいには、まだ学ばなければならないことが山ほどあった。
「……あいちゃん」
「はい!」
「詰将棋、好きなんだね」
「大好きです!」
あいは満面の笑みを浮かべた。
「難しい問題が解けると、すっごく嬉しいんです!」
「……そっか」
八一は小さく笑った。
「じゃあ、今日はもっと面白いところへ連れていってあげようかな」
「……えっ?」
あいが顔を上げる。
「どこですか!?」
「将棋会館」
「……将棋会館!?」
あいの目が輝いた。
「本当ですか!?」
「うん」
八一は頷いた。
「今日は俺も公式戦があるからね」
「……公式戦?」
「うん。神鍋歩夢六段と対局するんだ」
「……かんなべ、あゆむ……?」
あいは、不思議そうに首を傾げた。
「……誰ですか?」
「えっ?」
八一は少し驚いた。
「あいちゃん、知らない?」
「はい!」
あいは元気よく頷いた。
「すごく強い人なんですか?」
「うん。かなり強い棋士だよ」
「……へぇぇ!」
あいは感心したように声を上げた。
しかし、すぐに満面の笑みを浮かべる。
「でも、ししょーの方が強いですよね!」
「……え?」
「だって、ししょーは竜王ですから!」
「…………」
八一は、思わず言葉に詰まった。
今朝、ネットで見た言葉。
竜王になってからの連敗。
タイトル保持者として、結果を残せていない現実。
それらが、嫌でも脳裏に浮かんだ。
しかし。
「ししょーなら絶対勝てます!」
あいは、何の疑いもなく言った。
その瞳には、迷いがなかった。
八一は、少しだけ目を伏せた。
「……ありがとう、あいちゃん」
そして、小さく笑った。
「……頑張るよ」
「はい!」
あいは嬉しそうに頷いた。
───
同じ頃。
大阪市内のマンション。
「……ふふっ」
猿飛角晴は、自宅の研究室で将棋盤を眺めていた。
15歳。
帝位、叡王、棋帝。
3つのタイトルを保持する、将棋界の帝王。
その彼は今、少し難しい顔をしながら盤面を見つめていた。
「……ここで銀を上がると……」
駒を動かす。
パチンッ。
「……んー」
再び考える。
「だったら、こっちかな?」
さらに一手。
「……あっ」
角晴の目が輝いた。
「ふふっ!」
自然と笑みが零れる。
「……面白い!」
昨夜から研究していた局面だった。
相掛かりから派生した、少し珍しい形。
互いの玉が薄く、攻めと受けの判断が難しい。
正確に読まなければ、一手で形勢が変わりかねない。
それでも。
いや、だからこそ。
角晴は楽しそうだった。
「……こういう将棋、好きだなぁ」
そう呟いたとき。
ピロンッ。
スマートフォンが鳴った。
「ん?」
画面を見る。
送り主は、八一だった。
『兄弟子、今日会館に来ますか?』
「……おっ!」
角晴は嬉しそうに笑った。
『行く予定だよ!』
すぐに返信する。
数秒後。
『よかったです。今日、歩夢さんと対局なので』
「……あっ!」
角晴は思い出したように声を上げた。
「そうだった!」
八一と神鍋歩夢六段。
どちらも強い棋士だ。
以前から交流のある2人だけに、角晴も今回の対局を楽しみにしていた。
『対局頑張ってね!』
送信する。
続けて。
『あいちゃんも一緒?』
『はい。会館に連れていこうと思ってます』
「……なるほど!」
角晴は笑った。
『じゃあ、俺も顔出すね!』
『ありがとうございます』
やり取りを終え、角晴は再び盤面へ視線を戻した。
「……さて」
少しだけ考える。
「……もうちょっと研究してから行こうかな!」
そして、駒を手に取った。
パチンッ。
静かな部屋に、心地よい駒音が響いた。
───
関西将棋会館。
午前10時過ぎ。
「……わぁぁぁ!」
建物を見上げたあいが、感嘆の声を上げた。
「ここが将棋会館……!」
「うん」
八一は頷いた。
「関西の棋士にとっては、大切な場所だよ」
あいは、目を輝かせながら建物を見つめていた。
将棋会館。
プロ棋士たちが対局を行い、奨励会員や研修会員たちが腕を磨く場所。
将棋を志す人間にとって、特別な意味を持つ場所だった。
「……すごいです!」
「……そんなに?」
「はい!」
あいは嬉しそうに頷いた。
「ここに、たくさんの強い人がいるんですよね!」
「そうだね」
八一は小さく笑った。
「俺より強い人だって、たくさんいるよ」
「……えっ!?」
あいは驚いたように顔を上げた。
「ししょーより強い人が!?」
「……そりゃ、いるよ」
八一は苦笑した。
「俺、最近負けてばっかりだし」
何気なく口にした言葉。
しかし。
「……そんなことありません!」
あいが、突然声を上げた。
「……え?」
八一は驚く。
あいは、真剣な表情で続けた。
「ししょーは、すっごく強いです!」
「……あいちゃん」
「だって!」
あいは拳を握った。
「竜王なんですから!」
その言葉に、八一は一瞬だけ黙った。
竜王。
確かに、自分は竜王だ。
でも。
最近の対局結果を考えると、その言葉を素直に受け取れない。
「……ありがとう」
それでも、八一は小さく笑った。
「……じゃあ、行こうか」
「はい!」
2人は、将棋会館の中へ入っていった。
───
建物の中に入ると、あいは落ち着かない様子で周囲を見回していた。
「ししょー! あの方も棋士さんですか!?」
「うん。そうだよ」
「……すごい!」
「……あいちゃん、ちょっと声を小さくしようね」
「は、はい!」
慌てて口元を押さえる。
八一は苦笑した。
初めて将棋会館へ来た人間なら、多少興奮してしまうのも無理はない。
ましてや、あいは9歳。
今まで、本で詰将棋を解いてきた少女にとって、この場所は憧れの世界そのものなのだろう。
そのとき。
「……あっ!」
廊下の向こうから、明るい声が聞こえた。
「八一先生!」
八一が顔を向ける。
そこには、数人の少女が立っていた。
「……ああ!」
八一は笑顔になった。
「みんな、こんにちは」
「こんにちはー!」
最初に駆け寄ってきたのは、水越澪。
活発で明るい少女だった。
その隣には、礼儀正しい雰囲気の貞任綾乃。
そして、金髪の小さな少女。
シャルロット・イゾアール。
「やいちおにーちゃん!」
「うわっ!?」
シャルロットが嬉しそうに駆け寄ってきた。
八一は慌てて身を屈める。
「シャルちゃん!?」
「えへへ!」
シャルロットは、満面の笑みを浮かべた。
その様子を見て、澪が楽しそうに笑う。
「シャル、八一先生のこと大好きだもんね!」
「うん!」
「……あはは」
八一は困ったように笑った。
あいは、その様子をじっと見つめていた。
「…………」
そして。
「……ししょー?」
少しだけ低い声。
「……ん?」
八一が振り向く。
あいは、シャルロットと八一を交互に見つめていた。
「……こちらの方たちは?」
「ああ、紹介するね」
八一は慌てて姿勢を正した。
「将棋会館で将棋を勉強している子たちだよ」
「水越澪でーす!」
澪が元気よく手を上げた。
「よろしくね!」
「貞任綾乃と申します」
綾乃は丁寧に頭を下げた。
「よろしくお願いいたします」
「シャルロット・イゾアールです!」
シャルロットも嬉しそうに笑う。
「シャルってよんでね!」
あいは、少しだけ目を丸くした。
そして、慌てて頭を下げる。
「初めまして! 雛鶴あいです!」
「へぇ! あいちゃんっていうんだ!」
澪が目を輝かせる。
「よろしくね!」
「はい!」
あいは嬉しそうに笑った。
───
「……ところで」
澪が、八一へ視線を向けた。
「八一先生」
「ん?」
「この子、どうしたの?」
「……え?」
八一は一瞬だけ固まった。
「……えっと」
説明しようとして、言葉に詰まる。
まだ正式な弟子ではない。
春休みの間だけ預かっている。
しかし、一緒に暮らしていることまで説明すると、何だか面倒なことになりそうな気がした。
「……その」
八一は頭を掻いた。
「……俺の弟子候補、かな?」
「……弟子!?」
澪の目が輝いた。
「八一先生、弟子取ったの!?」
「いや! まだ正式には!」
「……へぇぇ!」
澪は楽しそうに笑った。
「すごいじゃん!」
綾乃も感心したように頷く。
「九頭竜竜王のお弟子さん候補なのですね」
「……はい!」
あいは嬉しそうに頷いた。
「わたし、ししょーの弟子になるために石川から大阪まで来たんです!」
「……石川から!?」
澪が驚いたように声を上げた。
「すごい!」
すると。
「……ねえ、やいちおにーちゃん」
シャルロットが首を傾げた。
「……あいちゃんと、いっしょにすんでるの?」
「……えっ?」
八一の表情が固まる。
「……あ、ああ」
「うん!」
あいが、元気よく頷いた。
「今はししょーのお家で一緒に暮らしています!」
「…………」
八一は、静かに目を閉じた。
(……あっ)
嫌な予感がする。
そして。
「……ええええっ!?」
澪が大きな声を上げた。
「八一先生、小学生の女の子と同棲してるの!?」
「ち、違う!!」
八一は慌てて否定した。
「いや、一緒に暮らしてるのは事実だけど!」
「……事実なんだ」
綾乃が、少しだけ困ったように呟く。
「……いや、だから!!」
八一は頭を抱えた。
(……何でこうなるんだよ!?)
そのとき。
「……八一先生?」
澪が、にやりと笑った。
「……もしかして、ロリコン?」
「違うってぇぇぇ!!」
八一の悲鳴が廊下に響いた。
あいは、そんな八一を不思議そうに見上げていた。
「……ししょー?」
「……何でもないよ、あいちゃん」
八一は、疲れ切った声で答えた。
───
「……あはは!」
その騒ぎを、少し離れた場所から見ていた少年が笑った。
「八一、何してるの?」
「あっ!?」
八一が振り向く。
そこには、猿飛角晴が立っていた。
「……兄弟子!」
「やっほー!」
角晴は笑顔で手を振った。
「お疲れ様!」
「お疲れ様です!」
八一は、ほっとしたように息を吐いた。
「……助けてください!」
「……え?」
角晴は不思議そうに首を傾げた。
「何を?」
「……いや、もういいです」
八一は肩を落とした。
すると、澪が角晴に気付いた。
「あっ、猿飛三冠!」
「こんにちは、澪ちゃん!」
角晴は笑顔で挨拶した。
「こんにちは!」
綾乃も丁寧に頭を下げる。
「猿飛三冠、こんにちは」
「うん! こんにちは!」
シャルロットも元気よく手を振った。
「こんにちはー!」
「こんにちは、シャルちゃん!」
角晴は笑って手を振り返した。
「みんな、今日も将棋の勉強?」
「うん!」
澪が頷く。
「今日は新しい子も来たんだよ!」
「……あっ!」
角晴は、あいへ視線を向けた。
「ふふっ。あいちゃん、もう友達できたんだね!」
「猿飛三冠!」
あいは嬉しそうに笑った。
「はい!」
「よかったね!」
角晴も笑った。
すると、澪が不思議そうに首を傾げた。
「……あれ?」
「ん?」
「猿飛三冠、あいちゃんのこと知ってるの?」
「うん!」
角晴は頷いた。
「八一のところで会ったんだ!」
「……へぇぇ!」
澪は感心したように声を上げた。
その隣で、八一は何故か嫌な予感を覚えた。
そして。
「……やっぱり、八一先生の家に行くと小学生の女の子がいるんだね」
澪が、にやりと笑った。
「……ちょっと!?」
八一は慌てた。
「その言い方、やめてくれない!?」
角晴は、そんな八一を見て苦笑した。
「あはは! 大変だね、八一!」
「兄弟子! 笑ってないでください!」
「ええっ!? 何で!?」
その場に、楽しそうな笑い声が響いた。
───
「……さて」
八一は時計を確認した。
「そろそろ対局の準備をしないと」
「……あっ」
あいが顔を上げる。
「ししょー、もう行くんですか?」
「うん」
八一は頷いた。
「今日は大事な公式戦だからね」
「……はい!」
あいは力強く頷いた。
「頑張ってください!」
「……ありがとう」
八一は笑った。
そのとき、澪が口を開いた。
「ねえ、八一先生!」
「ん?」
「あいちゃん、私たちと一緒に将棋指してもいい?」
「……えっ?」
八一は少し驚いた。
しかし、すぐに笑顔になる。
「もちろん!」
そして、あいへ向き直った。
「あいちゃん、どう?」
「……いいんですか!?」
あいの目が輝く。
「うん」
八一は頷いた。
「同じくらいの年齢の子と将棋を指すのは、すごく勉強になるよ」
「……はい!」
あいは嬉しそうに笑った。
角晴も頷いた。
「いいと思うよ!」
そして、澪たちへ向き直る。
「みんな、あいちゃんのことよろしくね!」
「はーい!」
澪が元気よく答えた。
綾乃も頷く。
「もちろんです」
シャルロットも嬉しそうに笑った。
「いっしょにあそぼー!」
「……ありがとうございます!」
あいは深く頭を下げた。
八一は、ほっと息を吐いた。
これなら、あいも退屈せずに済むだろう。
「……それじゃあ」
八一は姿勢を正した。
「行ってくるね」
「はい!」
あいは、満面の笑みを浮かべた。
「ししょー! 絶対勝ってくださいね!」
「……うん」
八一は、小さく頷いた。
「頑張ってくるよ」
───
将棋会館の一室。
あいは、澪と向かい合っていた。
目の前には将棋盤。
「よろしくお願いします!」
「よろしくね!」
2人は頭を下げた。
パチンッ。
駒音が響く。
あいは、少し緊張した様子で盤面を見つめた。
これまで、1人で詰将棋を解くことは何度もあった。
八一とも将棋を指した。
しかし、同年代の子供と本格的に対局する経験は、まだ少なかった。
「……うーん」
あいは考え込む。
一方の澪は、慣れた手つきで駒を進めていた。
序盤。
あいは、少しずつ不利になっていった。
「……あれ?」
自分では悪い手を指したつもりはなかった。
しかし、気付けば駒の働きに差がついている。
「……うーん」
あいは、真剣な表情で盤面を見つめた。
澪は、そんなあいを見て少しだけ笑う。
「……あいちゃん」
「……はい?」
「もっと気楽に指していいんだよ?」
「……でも」
あいは、少しだけ俯いた。
「……負けたくないです」
その言葉に、澪は目を丸くした。
そして。
「……あはは!」
楽しそうに笑った。
「そっか!」
澪は笑顔で頷いた。
「じゃあ、あたしも負けないよ!」
「……はい!」
あいも笑った。
そして、再び盤面へ向き直った。
───
しばらくして。
「……負けました」
あいが、小さく頭を下げた。
「ありがとうございました!」
澪も頭を下げる。
勝負は、澪の勝利だった。
「……うぅ」
あいは、悔しそうに盤面を見つめていた。
自分では、一生懸命考えたつもりだった。
しかし、うまくいかなかった。
詰将棋なら、もっと先まで読める。
難しい問題だって、何度も解いてきた。
それなのに。
実戦では、思うように指せない。
「……難しいです」
小さく呟く。
その様子を見て、綾乃が口を開いた。
「……あいさん」
「……はい?」
「よろしければ、次は私と指しませんか?」
「……えっ?」
あいは顔を上げた。
「……いいんですか?」
「もちろんです」
綾乃は微笑んだ。
「私も、あいさんの将棋を見てみたいので」
あいは、少しだけ考えた。
そして。
「……お願いします!」
力強く頷いた。
───
角晴は、少し離れたところでその様子を見ていた。
「……ふふっ」
嬉しそうに笑う。
(……いいなぁ)
同年代の子供たちが、真剣に将棋を指している。
勝って喜ぶ子。
負けて悔しがる子。
それぞれが、自分なりに強くなろうとしている。
角晴は、そんな光景が好きだった。
「……猿飛三冠」
そのとき、近くにいた職員が声をかけた。
「……あっ!」
角晴が振り向く。
「はい!」
「先ほどお話しされていた資料、準備できましたよ」
「本当ですか!?」
角晴は嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます!」
そして、あいたちへ視線を向けた。
「……じゃあ、みんな」
声をかける。
「俺、ちょっと用事あるから!」
「はーい!」
澪が手を振った。
綾乃も頭を下げる。
「お疲れ様です」
「うん!」
角晴は笑顔で頷いた。
「あいちゃんも、頑張ってね!」
「はい!」
あいは元気よく答えた。
「ありがとうございます、猿飛三冠!」
角晴は笑って手を振ると、職員と一緒に部屋を出ていった。
───
対局室。
「よろしくお願いします」
八一が頭を下げる。
向かいに座っているのは、神鍋歩夢六段。
独特の雰囲気を持つ、実力派棋士だった。
「……よろしく頼む」
歩夢も、真剣な表情で頭を下げた。
そして。
「……九頭竜竜王」
「……はい?」
「今日こそ、貴様の竜を討ち取らせてもらう!」
「……あ、はい」
八一は苦笑した。
(……相変わらずだなぁ)
歩夢の言動には、少し独特なところがある。
しかし。
その将棋は本物だった。
鋭い攻め。
大胆な構想。
そして、勝負どころでの思い切りのよさ。
決して油断できる相手ではない。
(……よし)
八一は、盤面へ視線を落とした。
(……集中しよう)
最近は負けが続いている。
ネットでも厳しい言葉を浴びせられている。
それでも。
対局が始まれば、そんなものは関係ない。
盤上には、ただ81マスの世界が広がっているだけだ。
パチンッ。
最初の駒音が響いた。
───
対局は、互いに慎重な駒組みから始まった。
歩夢は、堅い穴熊の陣形を築いていく。
一方の八一も、自分の陣形を整えながら攻めの形を作っていた。
序盤から大きな乱れはない。
しかし。
中盤に入ると、少しずつ緊張感が増していった。
(……ここで仕掛けるか)
八一は、歩夢の陣形を見つめた。
相手の玉は堅い。
こちらは攻めの形を作っているものの、簡単には崩せそうにない。
(……難しいな)
八一は考え込んだ。
そして、一手を指す。
パチンッ。
歩夢が盤面を見つめた。
「……ふっ」
小さく笑う。
「……来たか」
八一は顔を上げた。
(……何?)
歩夢は、ゆっくりと駒を手に取った。
「……九頭竜竜王」
「……はい」
「貴様に見せてやろう」
その声は、妙に低かった。
「……我が切り札を!」
パチンッ。
鋭い駒音。
盤上に、1枚の香車が打ち込まれた。
「……っ!?」
八一の表情が変わった。
(……香車!?)
歩夢は、満足そうに笑った。
「……龍殺しのゲオルギウス!」
「…………」
八一は、思わず目を瞬かせた。
(……いや、香車ですよね?)
しかし。
その一手は、決してふざけたものではなかった。
むしろ、非常に厳しい攻めだった。
歩夢は穴熊の堅陣を頼りに、飛車を捨ててまで攻めをつないできた。
そして今。
香車を使った鋭い攻撃が、八一の玉へ迫っている。
(……まずい)
八一は盤面を見つめた。
(……思っていたより、ずっと厳しい)
歩夢の狙いを読み直す。
何通りもの変化が頭の中に浮かぶ。
しかし、どれも簡単ではなかった。
(……どうする)
盤上の空気が、一気に重くなった。
───
同じ頃。
将棋会館の別室。
「……へぇ」
角晴が、小さく声を上げた。
目の前には、八一と歩夢の対局の棋譜が表示されていた。
「……歩夢さん、すごい!」
角晴は嬉しそうに笑った。
(……ここで香車かぁ!)
盤面を見つめる。
(……なるほど)
歩夢の攻めは鋭い。
自陣の堅さを活かし、危険を承知で踏み込んでいる。
(……面白いなぁ)
角晴は、少しだけ目を細めた。
(……八一、どうするんだろ)
難しい局面。
厳しい攻め。
そこから、どんな一手が生まれるのか。
角晴は、心から楽しみにしていた。
「……ふふっ」
小さく笑う。
「……いい将棋だなぁ」
そのとき。
「……猿飛三冠」
近くにいた棋士が声をかけた。
「……ん?」
角晴が振り向く。
「どうしたんですか?」
「いや、楽しそうだなと思いまして」
「あはは!」
角晴は笑った。
「だって、すっごく面白い局面なんですよ!」
そう言って、再び盤面へ視線を戻す。
「……ここから、八一がどう指すのか楽しみです!」
その言葉には、迷いがなかった。
兄弟子として。
そして、1人の棋士として。
角晴は、八一の将棋を信じていた。
───
対局室。
「…………」
八一は、盤面を見つめていた。
歩夢の香車。
それが、こちらの玉へ鋭く迫っている。
(……厳しい)
何度読んでも、簡単な受けは見つからない。
一手受けても、別の攻めが飛んでくる。
反撃しようにも、相手の囲いは堅い。
(……どうする)
焦りが、胸の奥に広がる。
そして、ふと。
今朝見た掲示板の言葉が、脳裏に浮かんだ。
『竜王戦はまぐれだったんだろ』
『兄弟子と姉弟子は結果出してるのに』
「……っ」
八一は、わずかに眉を寄せた。
(……違う)
そんなことを考えている場合じゃない。
今、目の前にあるのは将棋盤だ。
歩夢が指した手を、どう受けるか。
それだけを考えなければならない。
(……集中しろ)
八一は、ゆっくりと息を吐いた。
もう一度、盤面を見つめる。
(……まだ、終わってない)
自分に言い聞かせる。
(……まだ、指せる)
しかし。
読みを進めれば進めるほど、苦しい変化ばかりが見えてくる。
(……駄目だ)
何度も、同じ結論に辿り着く。
(……これ以上、どうすれば……)
八一は、そっと息を吐いた。
そして。
(……最後に、一度くらい)
せめて王手を掛けてから。
そんな考えが、頭をよぎった。
───
その頃。
あいは、将棋会館の対局室にいた。
もちろん、勝負の邪魔にならないよう、決められた場所から静かに見守っている。
目の前では、八一と歩夢が真剣に将棋を指していた。
「…………」
あいは、じっと盤面を見つめる。
難しい。
本当に、難しい局面だった。
序盤からの流れを、すべて理解できているわけではない。
しかし。
今、八一が苦しいことだけは分かった。
(……ししょー)
あいは、小さく拳を握った。
(……頑張ってください)
心の中で、そう願う。
そして、盤面を読み始めた。
(……ここに金を打って……)
頭の中で、駒を動かす。
(……でも、それだと……)
違う。
(……こっち?)
何度も考える。
何度も読み直す。
詰将棋とは違う。
最初から答えが決まっているわけではない。
相手も、自分の思いどおりには指してくれない。
それでも。
(……まだ、何かあるはずです)
あいは、必死に盤面を見つめ続けた。
ししょーは、強い。
自分が憧れた棋士。
竜王になった人。
そして。
将棋を教えてくれる、大切な人。
だから。
(……絶対、諦めません)
あいは、真剣な表情で盤面を読み続けた。
───
八一side
(……もう、駄目かもしれない)
俺は、盤面を見つめていた。
歩夢さんの攻めは、あまりにも厳しい。
受けても受けても、次の攻めが飛んでくる。
こちらの攻めは届かない。
相手の玉は、堅い穴熊の中。
(……どうする)
何度考えても、苦しい変化ばかりが浮かぶ。
そして。
(……最後に、一度くらい王手を掛けて……)
そんな考えが、頭をよぎった。
そのとき。
ふと、視線を上げた。
「…………」
そこにいたのは、あいちゃんだった。
小さな体。
真剣な表情。
そして、盤面を見つめる瞳。
「…………」
あいちゃんは、何も言わない。
ただ、必死に考えていた。
まるで、自分が対局しているかのように。
(……あいちゃん)
俺は、少しだけ目を細めた。
あいちゃんは、まだ9歳だ。
将棋を本格的に勉強し始めたばかり。
プロ棋士のことだって、ほとんど知らない。
それでも。
今、この局面から何かを見つけようとしている。
諦めずに。
必死に。
(……そうか)
俺は、ゆっくりと息を吐いた。
(……俺、何やってるんだろう)
まだ、負けたわけじゃない。
投了したわけでもない。
なのに。
自分から諦めようとしていた。
(……駄目だな)
思わず、苦笑したくなった。
(……弟子候補の前で、こんな将棋見せられないだろ)
俺は、もう一度盤面へ視線を戻した。
(……考えろ)
まだ、何かあるはずだ。
(……最後まで)
そして。
(……絶対に、諦めるな)
俺は、深く息を吸った。
もう一度、読みを始める。
───
それから、長い時間が経った。
対局は、想像を絶する長手数の将棋になっていた。
歩夢の攻め。
八一の粘り。
互いに一歩も譲らない。
盤上では、何度も形勢が揺れ動いていた。
そして。
八一は、少しずつ自玉を前進させていった。
入玉。
相手陣へ玉を逃がし、詰まされにくい形を作る。
簡単なことではなかった。
一手間違えれば、たちまち寄せられてしまう。
それでも。
八一は、最後まで読み続けた。
「…………」
歩夢は、真剣な表情で盤面を見つめていた。
「……九頭竜竜王」
小さく呟く。
「……まさか、ここまで粘るとはな」
八一は、何も答えなかった。
ただ、盤面を見つめていた。
(……まだだ)
(……まだ、終わらない)
そして。
パチンッ。
一手を指す。
歩夢も応じる。
パチンッ。
駒音が、静かな対局室に響き続けた。
───
別室。
「……すごい」
角晴は、棋譜を見つめていた。
対局は、すでに長時間に及んでいる。
そして、手数も驚くほど伸びていた。
「……八一、すごいなぁ」
角晴は、小さく呟いた。
歩夢の鋭い攻めを凌ぎ続け、入玉を目指す。
簡単にできることではない。
少しでも気を抜けば、すべてが崩れてしまう。
それでも、八一は諦めなかった。
「……ふふっ」
角晴は、嬉しそうに笑った。
(……やっぱり、強いね)
そして、もう一度盤面を見つめた。
(……ここから、どうなるんだろ)
角晴の目は、子供のように輝いていた。
───
対局室。
長い、長い戦い。
そして。
402手。
歩夢が、静かに頭を下げた。
「……負けました」
その瞬間。
八一は、ゆっくりと息を吐いた。
「……ありがとうございました」
勝者。
九頭竜八一。
竜王の勝利だった。
「…………」
八一は、しばらく盤面を見つめていた。
勝った。
本当に、勝った。
あれほど苦しかった将棋。
何度も諦めそうになった。
それでも。
最後まで指し続けた。
そして、勝利を掴んだ。
「……ふぅ」
大きく息を吐く。
体中から力が抜けていくようだった。
「……九頭竜竜王」
歩夢が口を開いた。
「……はい」
八一が顔を上げる。
歩夢は、少しだけ笑った。
「……見事だった」
「……ありがとうございます」
八一も、小さく微笑んだ。
「……でも、歩夢さんの香車、本当に厳しかったです」
「……ふっ」
歩夢は笑った。
「……龍殺しのゲオルギウスか」
「……はい」
「……あれを凌ぐとは、さすが竜王」
八一は、少しだけ苦笑した。
「……いや、本当に危なかったですよ」
2人は、自然と感想戦を始めた。
盤面を並べ直す。
互いの読みを確認する。
そして、何度も変化を検討する。
その時間は、八一にとって久しぶりに心地よいものだった。
───
対局室を出ると。
「ししょー!!」
元気な声が響いた。
「……うわっ!?」
八一が驚く。
次の瞬間。
あいが、勢いよく駆け寄ってきた。
「おめでとうございます!!」
「ちょ、ちょっと、あいちゃん!」
八一は慌てて受け止めた。
「……ありがとうございます!」
あいは、嬉しそうに笑っていた。
「ししょー、すっごくかっこよかったです!」
「……あはは」
八一は、少しだけ照れたように笑った。
「……ありがとう」
その後ろから、角晴が歩いてくる。
「八一!」
「……兄弟子」
角晴は、満面の笑みだった。
「おめでとう!」
「……ありがとうございます」
八一は、素直に頭を下げた。
角晴は笑った。
「いやぁ、すっごく面白かった!」
「……本当ですか?」
「うん!」
角晴は嬉しそうに頷いた。
「歩夢さんの香車もすごかったし、八一の粘りもすっごくよかった!」
「……あはは」
八一は、少しだけ笑った。
「……ありがとうございます」
角晴は、そんな八一を見つめた。
そして、柔らかく微笑む。
「……八一」
「はい?」
「……今日、楽しかった?」
八一は、一瞬だけ目を丸くした。
そして、少し考えた。
今日の将棋。
苦しい局面。
歩夢の鋭い攻め。
何度も読み直した終盤。
そして。
勝利した瞬間。
「…………」
八一は、ゆっくりと頷いた。
「……はい」
小さな声だった。
「……すごく、楽しかったです」
その言葉に、角晴は嬉しそうに笑った。
「……そっか!」
「……はい」
八一も、少しだけ笑った。
「……久しぶりに、そう思えました」
角晴は、何も言わずに頷いた。
それだけで、十分だった。
───
その頃。
将棋会館の廊下。
「……八一先生!」
澪が元気よく声を上げた。
「……ん?」
八一が顔を向ける。
そこには、澪と綾乃、シャルロットがいた。
「勝ったんだって!?」
「……うん」
八一は小さく笑った。
「何とかね」
「すごーい!」
澪が嬉しそうに笑う。
綾乃も丁寧に頭を下げた。
「おめでとうございます」
「……ありがとう」
八一は微笑んだ。
すると。
「やいちおにーちゃん!」
シャルロットが、嬉しそうに駆け寄ってきた。
「……うわっ!?」
八一は慌てて身を屈める。
「シャルちゃん!?」
「おめでとー!」
「……ありがとう」
八一は困ったように笑った。
その様子を、角晴は少し離れたところから眺めていた。
「……あはは!」
楽しそうに笑う。
「八一、人気者だね!」
「兄弟子! 笑ってないでください!」
「ええっ!? 何で!?」
八一の情けない声が響いた。
すると、廊下を通りかかった棋士が足を止めた。
「……九頭竜竜王、また小さい女の子に囲まれとるんか」
「ち、違いますって!!」
八一の悲鳴が、廊下に響いた。
角晴は、そんな様子を見て笑っていた。
───
帰り道。
八一とあいは、並んで歩いていた。
「……ししょー!」
「ん?」
「今日、すっごく楽しかったです!」
「……そっか」
八一は笑った。
「よかったね」
「はい!」
あいは嬉しそうに頷いた。
「新しいお友達もできました!」
「……おおっ」
八一は、少しだけ驚いた。
「もう?」
「はい!」
「……すごいね」
「えへへ!」
あいは照れたように笑った。
「澪ちゃんと、綾乃ちゃんと、シャルちゃんです!」
「……そっか」
八一は頷いた。
「仲良くできそう?」
「はい!」
あいは、力強く頷いた。
「また一緒に将棋を指したいです!」
その言葉に、八一は小さく微笑んだ。
「……うん」
あいは、しばらく楽しそうに歩いていた。
しかし。
「……あの、ししょー」
少しだけ声が小さくなる。
「……ん?」
「……わたしも、もっと強くなれますか?」
八一は、足を止めた。
あいも立ち止まる。
そして、不安そうにこちらを見上げた。
「……今日、いっぱい負けちゃって……」
小さく呟く。
「……もっと強くなりたいです」
八一は、しばらくあいを見つめていた。
そして。
「……なれるよ」
静かに答えた。
「……本当ですか?」
「うん」
八一は頷く。
「でも、簡単じゃないよ」
「……はい」
「負けることもあるし、悔しい思いもする」
「……はい」
「それでも、将棋を続けられる?」
あいは、少しだけ考えた。
そして。
「……はい!」
力強く頷いた。
「わたし、将棋が大好きです!」
八一は、柔らかく微笑んだ。
「……そっか」
そして、歩き始める。
「……じゃあ、頑張ろうか」
「はい! ししょー!」
あいは、嬉しそうに後を追った。
───
同じ頃。
大阪市内のマンション。
角晴は、自宅へ戻っていた。
「……ふぅ!」
ソファへ腰を下ろす。
「いやぁ、今日は楽しかった!」
将棋会館で出会った子供たち。
初めて見たあいの将棋。
そして、八一と歩夢の公式戦。
どれも、印象に残るものだった。
角晴は、スマートフォンを手に取った。
そして、銀子へメッセージを送る。
『銀子! 今日、八一が歩夢さんに勝ったよ!』
しばらくして。
ピロンッ。
『知ってる』
「あはは!」
角晴は笑った。
『すっごく面白い将棋だった!』
『そう』
『銀子も見た?』
『棋譜は確認した』
「……おっ!」
角晴は嬉しそうに笑った。
『じゃあ、今度一緒に並べようよ!』
少し間が空く。
そして。
『……いいけど』
「……やった!」
角晴は笑顔になった。
『楽しみにしてる!』
送信する。
その後、しばらくして。
『……私も』
短い返信が届いた。
角晴は、嬉しそうに微笑んだ。
「……ふふっ」
そして、スマートフォンを置いた。
───
清滝家。
銀子は、自分の部屋でスマートフォンを見つめていた。
「…………」
画面には、角晴とのやり取りが表示されている。
『楽しみにしてる!』
その一文を、もう一度眺めた。
「……ほんとに」
小さく呟く。
「……あんたは、将棋ばっかり」
銀子は、そっと息を吐いた。
しかし。
口元には、ほんの少しだけ笑みが浮かんでいた。
(……でも)
角晴と一緒に将棋を指す時間。
棋譜を並べる時間。
その時間が、銀子は好きだった。
昔から、ずっと。
「……楽しみ」
誰にも聞こえない声で呟く。
そして、スマートフォンを胸元へ抱き寄せた。
───
夜。
九頭竜八一のマンション。
「……ししょー!」
あいが、元気よく声を上げた。
「今日の将棋、もう1回教えてください!」
「……今から?」
八一は、少しだけ苦笑した。
「はい!」
あいは、目を輝かせていた。
「歩夢先生の香車、すっごく気になって!」
「……ああ、あれね」
八一は笑った。
「じゃあ、ちょっとだけ並べてみようか」
「はい!」
2人は将棋盤の前に座った。
駒を並べる。
今日の公式戦。
歩夢の鋭い攻め。
そして、八一の反撃。
「……ここでね」
八一が駒を進める。
「歩夢さんが、この香車を打ってきたんだ」
「……はい!」
あいは、真剣な表情で盤面を見つめた。
「……すごいです」
「うん」
八一は頷いた。
「俺も、かなり苦しかった」
あいは、少しだけ顔を上げる。
「……でも、ししょーは勝ちました!」
「……うん」
八一は、小さく笑った。
「……そうだね」
その言葉を口にした瞬間。
胸の奥が、少しだけ温かくなった。
今日、勝った。
久しぶりに、公式戦で勝つことができた。
それだけではない。
将棋を楽しむ気持ちも、少しだけ取り戻せた気がした。
「……ししょー?」
あいが、不思議そうに首を傾げる。
八一は顔を上げた。
「……ん?」
「……どうしたんですか?」
「……いや」
八一は、柔らかく微笑んだ。
「……何でもないよ」
そして、盤面へ視線を戻す。
「……じゃあ、続きやろうか」
「はい!」
あいは、元気よく頷いた。
パチンッ。
静かな部屋に、駒音が響く。
───
一方。
石川県。
旅館『ひな鶴』。
夜。
雛鶴亜希奈は、静かな部屋で電話を見つめていた。
数日前。
将棋連盟から、娘について連絡があった。
あいが大阪にいること。
九頭竜八一のもとで将棋を学びたいと希望していること。
そして、春休みの間だけ預かるという話になっていること。
それらは、すでに聞いていた。
もちろん、簡単に納得できる話ではない。
娘は、まだ9歳。
将棋が好きだからといって、何でも許されるわけではない。
それに。
あいには、旅館の娘としての将来もある。
「…………」
亜希奈は、静かに息を吐いた。
「……あい」
小さく呟く。
娘が将棋を好きなことは知っている。
夢中になっていることも。
しかし。
将棋の世界へ進むということが、どれほど厳しい道なのか。
それを、本当に理解しているのだろうか。
「……まったく」
亜希奈は、少しだけ眉を寄せた。
「……あの子は」
そして、ゆっくりと立ち上がる。
娘と、直接話さなければならない。
九頭竜八一という少年とも。
正式な弟子入りを認めるかどうか。
その判断は、まだ下していない。
「……さて」
亜希奈は、静かに呟いた。
「……どうしましょうか」
窓の外には、夜の街が広がっていた。
───
大阪。
九頭竜八一のマンション。
午後11時。
「……ふぅ」
八一は、パソコンの前に座っていた。
あいは、すでに眠っている。
今日1日、将棋会館でたくさんの人と出会い、将棋を指した。
きっと、疲れていたのだろう。
今頃、楽しい夢でも見ているのかもしれない。
「……さて」
八一は、画面を見つめた。
そこには、今日の対局結果が表示されていた。
九頭竜八一竜王。
勝利。
神鍋歩夢六段。
敗北。
「…………」
八一は、しばらくその文字を眺めていた。
そして。
「……ふふっ」
小さく笑った。
今日、勝てた。
それだけで、すべてが解決したわけではない。
まだ課題は山ほどある。
負けた将棋の反省も必要だ。
これからも、強い相手との対局が続く。
でも。
「……よかった」
小さく呟いた。
今日は、将棋が楽しかった。
苦しい局面でも、最後まで諦めずに指せた。
それだけで、少しだけ前へ進めた気がした。
八一は、ふとスマートフォンを手に取った。
画面には、兄弟子からのメッセージが届いていた。
『八一! 今日はお疲れ様!』
『すっごくいい将棋だったよ!』
『また今度、研究会でも指そうね!』
「…………」
八一は、少しだけ目を細めた。
兄弟子。
猿飛角晴。
15歳にして三冠を保持する、将棋界の帝王。
自分より年下なのに、遥かに先を歩いているように感じることがある。
姉弟子もそうだ。
空銀子。
14歳にして女王のタイトルを保持し、今も着実に実績を積み重ねている。
2人とも、すごい。
本当に、すごい棋士だ。
だからこそ。
「……俺も」
八一は、静かに呟いた。
「……負けてられないな」
尊敬している。
誇りに思っている。
そして。
いつか、盤上で堂々と競い合える存在でありたい。
八一は、スマートフォンを操作した。
『ありがとうございます、兄弟子!』
『またお願いします!』
送信する。
すぐに既読がついた。
そして。
『もちろん! 楽しみにしてる!』
その返信を見て、八一は小さく笑った。
「……本当に」
兄弟子らしい。
いつだって、将棋を楽しんでいる。
その姿を見ていると、自分も将棋が好きだったことを思い出せる。
八一は、ゆっくりと立ち上がった。
そして、窓の外を見つめる。
春の大阪。
夜の街には、まだ多くの明かりが灯っていた。
「……明日も、頑張るか」
小さく呟く。
明日もまた、将棋を指す。
あいに将棋を教える。
自分自身も、もっと強くなる。
そのために。
「……おやすみ」
八一は、部屋の明かりを消した。
───
九頭竜八一。
16歳。
史上最年少で竜王位を獲得した、若き棋士。
その前には、まだ多くの壁が立ちはだかっている。
勝てない苦しさ。
タイトル保持者としての重圧。
そして、同年代の天才たちとの比較。
しかし。
八一は、1人ではなかった。
将棋を愛する兄弟子。
厳しくも頼もしい姉弟子。
自分を信じてくれる師匠と家族。
そして。
新しく現れた、小さな弟子候補。
雛鶴あい。
その存在が、少しずつ八一の日常を変え始めていた。
一方。
将棋界の帝王。
猿飛角晴もまた、変わらない日常を過ごしていた。
将棋を指し。
将棋を楽しみ。
新しい才能との出会いを喜ぶ。
そんな、ごく普通の春休み。
けれど。
八一とあいにとって、これから始まる日々は決して穏やかなものばかりではない。
娘の将来を案じる両親。
将棋の世界の厳しさ。
そして、待ち受ける新たな試練。
それでも。
将棋盤の前に座る限り、彼らは前を向く。
強くなりたい。
もっと将棋を指したい。
その純粋な気持ちを胸に。
今日もまた、新しい一手が指される。
パチンッ。
春の大阪に、駒音が響いていた。