3月。
春休みの大阪。
九頭竜八一のマンション。
午前10時。
「ししょー! ししょー!」
「……ん?」
リビングで棋譜を並べていた八一は、元気な声に顔を上げた。
そこには、エプロン姿の雛鶴あいが立っていた。
「お洗濯、終わりました!」
「……えっ、もう?」
「はい!」
あいは嬉しそうに頷いた。
「お部屋のお掃除も終わりました!」
「……あ、ありがとう」
八一は苦笑した。
あいがやって来てから、数日。
マンションの生活は、すっかり変わっていた。
以前は1人暮らしだったため、多少部屋が散らかっていても気にしなかった。
食事も簡単なもので済ませることが多かった。
しかし、今は違う。
朝起きれば、あいが元気よく挨拶してくれる。
食卓には、温かな料理が並ぶ。
そして、空いた時間には将棋盤を挟んで一緒に勉強する。
「……本当に、すごいなぁ」
八一が呟く。
「……?」
あいは不思議そうに首を傾げた。
「どうしたんですか?」
「いや、あいちゃんはしっかりしてるなって」
「えへへ!」
あいは嬉しそうに笑った。
「ししょーのお役に立てるなら、何でもします!」
「……そ、そっか」
八一は少しだけ頬を掻いた。
(……何か、妙に慕われてるなぁ)
それ自体は嬉しい。
しかし、あまり甘えすぎるのもよくないだろう。
まだ9歳の女の子なのだ。
「……でも、あいちゃん」
「はい!」
「家事は俺もするからね。あいちゃんは将棋の勉強を優先していいんだよ」
「……はい!」
あいは元気よく頷いた。
「じゃあ、将棋を教えてください!」
「……あはは」
八一は笑った。
「本当に将棋が好きなんだね」
「もちろんです!」
あいは満面の笑みを浮かべた。
「大好きです!」
八一は、その笑顔を見て少しだけ目を細めた。
(……そうだよな)
自分も、昔はこんなふうに将棋へ夢中になっていた。
勝つこと。
負けること。
強くなること。
そのすべてが、新鮮だった。
今は竜王という肩書きを背負い、勝敗に苦しむことも増えた。
それでも。
将棋が好きという気持ちは、失いたくなかった。
「……よし!」
八一は笑った。
「じゃあ、今日は昨日の将棋を並べ直してみようか!」
「はい!」
あいは嬉しそうに将棋盤の前へ座った。
───
それから約1時間。
「……うーん」
あいは、難しい表情で盤面を見つめていた。
目の前には、昨日指した実戦の局面。
あいが中盤で不利になった場面だった。
「……ここで、どうしたらよかったんでしょう」
「そうだね」
八一は頷いた。
「まず、相手が何を狙っているか考えてみようか」
「……はい」
あいは、じっと盤面を見つめた。
「……ここに銀が来ると……」
頭の中で駒を動かす。
「……あっ!」
何かに気付いたように声を上げた。
「飛車が危ないです!」
「うん」
八一は微笑んだ。
「そういうこと」
「……なるほど!」
あいは目を輝かせた。
「じゃあ、ここで受けておけば……!」
駒を動かす。
八一は頷いた。
「それも1つの考え方だね」
あいは嬉しそうに笑った。
「……えへへ!」
そして、再び盤面へ向き直る。
その集中力には、八一も驚かされることが多かった。
特に終盤。
詰みが見える局面になると、あいの読みは急激に鋭くなる。
祖父が残した詰将棋の本。
何度も、何度も解いてきた経験。
それが、確かな力になっていた。
しかし。
実戦では、詰将棋のように答えが決まっているわけではない。
序盤の駒組み。
中盤の駆け引き。
形勢判断。
あいには、まだまだ学ぶべきことが山ほどあった。
(……でも)
八一は、目の前の少女を見つめた。
(……本当に、才能がある)
もっと将棋を教えたい。
もっと強くなった姿を見てみたい。
その気持ちは、日を追うごとに大きくなっていた。
そんなときだった。
ピンポーン。
玄関のインターホンが鳴った。
「……ん?」
八一が顔を上げる。
「誰だろう?」
「お客さんでしょうか?」
あいも首を傾げた。
八一は立ち上がった。
「ちょっと見てくるね」
「はい!」
そして、玄関へ向かう。
モニターを確認した瞬間。
「…………え?」
八一の動きが止まった。
画面に映っていたのは、見覚えのある男女だった。
石川県の旅館『ひな鶴』。
その女将と主人。
つまり。
雛鶴あいの両親だった。
「……うそ」
八一は、思わず呟いた。
そして。
「……あいちゃぁぁぁん!!」
マンション中に、八一の悲鳴が響いた。
───
数分後。
リビングには、何とも言えない緊張感が漂っていた。
ソファに座っているのは、雛鶴亜希奈。
あいの母親であり、旅館『ひな鶴』の女将だった。
その隣には、父親の隆。
そして、向かい側には八一。
あいは、八一の隣で小さくなっていた。
「…………」
亜希奈は、静かに娘を見つめていた。
「……あい」
「……は、はい」
「こちらへ来なさい」
「…………」
あいは、少しだけ八一を見上げた。
八一は困ったような表情を浮かべる。
しかし、何も言えなかった。
当然だ。
あいが無断で大阪まで来たことについては、八一にも責任がある。
清滝を通じて連盟から連絡を入れ、春休みの間だけ預かる了承は得られたものの、直接説明する必要があるのは変わらなかった。
あいは、ゆっくりと母親の前へ歩いていった。
「……お母さん」
「……あい」
亜希奈は、静かに口を開いた。
「あなた、自分が何をしたか分かっていますか?」
「…………」
あいは俯いた。
「……はい」
「本当に?」
「……はい……」
亜希奈は、小さく息を吐いた。
「お母さんが、どれほど心配したと思っているの?」
「…………」
「連盟の方から電話をいただいたとき、何が起きたのかと思いました」
あいは、唇を噛み締めた。
「……ごめんなさい……」
「謝れば済むことではありません」
厳しい声だった。
しかし、その言葉には怒りだけでなく、娘を心配する気持ちが込められていた。
「あなたは、まだ9歳なのよ」
「……はい」
「1人で遠くまで行ってはいけません」
「……はい……」
あいの目に、涙が浮かび始めた。
八一は、黙ってその様子を見つめていた。
何か言いたかった。
しかし、ここは親子の問題だ。
軽々しく口を挟むことはできなかった。
やがて。
亜希奈は、八一へ視線を向けた。
「……九頭竜先生」
「……は、はい!」
八一は慌てて背筋を伸ばした。
「この度は、娘が大変ご迷惑をおかけしました」
亜希奈が深く頭を下げる。
「い、いえ! そんな!」
八一は慌てて首を振った。
「迷惑だなんて、そんなことは……!」
「ですが」
亜希奈は顔を上げた。
「娘を、このまま大阪に置いておくわけにはまいりません」
「…………」
八一の表情が固まった。
あいも、勢いよく顔を上げる。
「……お母さん!」
「……あい」
「わたし、帰りたくありません!」
その声に、亜希奈は眉を寄せた。
「……何ですって?」
あいは、拳を握り締めた。
「……わたし、将棋がしたいんです!」
「…………」
「もっともっと強くなりたいんです!」
その声は震えていた。
それでも、あいは顔を上げ続けた。
「……お願いします!」
深く頭を下げる。
「わたし、ししょーの弟子になりたいんです!」
リビングに、静寂が落ちた。
───
「……九頭竜先生」
亜希奈が口を開いた。
「……はい」
八一は姿勢を正した。
「先生は、あいの将棋をどうお考えですか?」
「…………」
突然の質問だった。
しかし、八一はすぐに答えた。
「……才能があると思っています」
亜希奈は、黙って続きを待った。
「まだ実戦経験は少ないですし、序盤や中盤の知識も足りません」
八一は、真剣な表情で続ける。
「でも、終盤の読みは驚くほど鋭いんです」
「……そうですか」
「それに」
八一は、あいへ視線を向けた。
「何より、将棋が本当に好きなんです」
あいは、少しだけ顔を上げた。
八一は続けた。
「俺は、あいちゃんに将棋を教えたいです」
「…………」
「もっと強くなった姿を、見てみたいと思っています」
その言葉を聞いて、あいの目から涙が零れた。
「……ししょー……」
亜希奈は、しばらく黙っていた。
そして。
「……分かりました」
静かに口を開く。
八一が顔を上げた。
「……では、1つ条件があります」
「……条件?」
「はい」
亜希奈は、真剣な表情で続けた。
「研修会の入会試験を受けてもらいます」
「……研修会?」
あいが首を傾げた。
八一は、少しだけ目を見開いた。
「……それは……」
研修会。
将棋を学ぶ子供たちが、棋力向上を目指して対局を重ねる場所。
女流棋士を目指す者にとっても、大切な修業の場だった。
しかし。
亜希奈の言葉は、そこで終わらなかった。
「その試験で、3戦全勝できたなら」
一度、言葉を切る。
「正式に、あいが将棋を続けることを認めましょう」
「…………」
八一の動きが止まった。
「……3戦、全勝?」
「はい」
亜希奈は頷いた。
「1度でも負けた場合は、石川県へ連れて帰ります」
「……っ!」
あいが息を呑んだ。
八一も、言葉を失っていた。
3連勝。
それが、どれほど難しい条件なのか。
将棋を指す人間なら、誰でも分かる。
どれほど実力があっても、負けることはある。
ましてや、あいは実戦経験の少ない9歳の少女だ。
「……あの」
八一が口を開こうとする。
しかし。
「……やります!」
あいが、力強く声を上げた。
「……あいちゃん!?」
八一が驚く。
あいは、母親を真っ直ぐ見つめていた。
「わたし、やります!」
「……本当に?」
「はい!」
あいは頷いた。
「絶対に、3回勝ちます!」
その目に、迷いはなかった。
八一は、そんなあいを見つめていた。
(……あいちゃん)
小さな少女。
まだ、将棋を始めて間もない。
それでも。
目の前の厳しい条件から、逃げようとはしなかった。
亜希奈は、しばらく娘を見つめていた。
そして。
「……分かりました」
静かに頷いた。
「では、その結果で判断します」
───
同日。
午後。
清滝家。
「……3戦全勝!?」
清滝鋼介の声が、リビングに響いた。
「……はい」
八一は、小さく頷いた。
雛鶴家との話し合いを終えた後、八一は清滝へ相談に来ていた。
その隣には、あい。
そして、向かいのソファには角晴が座っていた。
「……それは、また厳しい条件やなぁ」
清滝は腕を組んだ。
「……そうなんです」
八一は頷いた。
「でも、あいちゃんはやるって……」
「……はい!」
あいは力強く頷いた。
「頑張ります!」
その様子を見て、角晴が柔らかく微笑んだ。
「……そっか」
「……猿飛三冠」
あいが顔を上げる。
角晴は、にっこりと笑った。
「……応援してるよ!」
「……はい!」
あいは嬉しそうに頷いた。
しかし。
角晴は、少しだけ真剣な表情になった。
「……でも、あいちゃん」
「……はい?」
「……簡単じゃないと思うよ」
「…………」
あいは、少しだけ目を丸くした。
角晴は続ける。
「3回勝つって、すっごく大変だからね」
あいは、ゆっくりと頷いた。
「……はい」
「俺だって、負けることあるし」
その言葉に、あいが驚いた。
「……猿飛三冠でもですか?」
「もちろん!」
角晴は笑った。
「負けるよ!」
あいは、少しだけ考え込んだ。
八一は、その様子を見て小さく苦笑した。
(……まあ、兄弟子は特別強いけどね)
15歳にして三冠。
その実績は、将棋界でも極めて異例だった。
しかし。
角晴自身は、自分が負けることを特別なことだとは思っていない。
負けた将棋にも、必ず学べることがある。
そう考えているのだ。
「……でもね」
角晴は、優しく続けた。
「勝ちたいって気持ちは、すっごく大事だと思う」
「……はい」
「だから、最後まで諦めないでね」
あいは、力強く頷いた。
「はい!」
その返事を聞いて、角晴は嬉しそうに笑った。
───
それから数日。
あいの研修会試験が近付いていた。
八一のマンションでは、毎日のように将棋の勉強が続いていた。
「……ここで、どうする?」
「……うーん」
あいは、真剣な表情で盤面を見つめる。
「……これです!」
パチンッ。
駒音が響いた。
八一は、その一手を確認する。
「……なるほど」
少しだけ考えた後、頷いた。
「悪くないね」
「……本当ですか!?」
「うん」
八一は微笑んだ。
「でも、相手がこう指してきたら?」
パチンッ。
別の一手を示す。
あいは、再び考え込んだ。
「……うーん」
将棋盤の前に座る2人。
その時間は、日に日に長くなっていた。
八一は、あいの強みを伸ばしながら、弱点を補おうとしていた。
詰将棋で鍛えた読み。
終盤の鋭さ。
それらは、間違いなく大きな武器だった。
しかし。
序盤で大きく不利になれば、終盤まで持ち込むことすら難しい。
だからこそ。
基本的な駒組み。
相手の狙い。
そして、形勢判断。
八一は、丁寧に教え続けた。
「……ししょー!」
「ん?」
「もう1局、お願いします!」
「……えっ?」
時計を見る。
午後10時。
「……あいちゃん」
八一は苦笑した。
「そろそろ寝ようか」
「……ええっ!?」
あいは、少しだけ頬を膨らませた。
「まだ指したいです!」
「……気持ちは分かるけど」
八一は優しく笑った。
「体調を整えるのも、大事なことだよ」
「……むぅ」
あいは、少しだけ不満そうだった。
しかし。
「……分かりました」
小さく頷く。
「……明日も、お願いします!」
「もちろん」
八一は笑った。
───
試験前夜。
午後9時30分。
「……ししょー」
寝る準備を終えたあいが、八一の部屋を訪ねてきた。
「……ん?」
八一が顔を上げる。
「どうしたの?」
「……あの」
あいは、少しだけ言いにくそうに俯いた。
「……お願いがあるんです」
「……お願い?」
「はい」
あいは、小さく頷いた。
「……明日の試験で」
少しだけ、声が震える。
「……ししょーのことを、近くに感じられるものが欲しいです」
「…………」
八一は、目を瞬かせた。
「……え?」
「……お守りにしたいんです」
あいは、真剣な表情で続けた。
「ししょーが使ってるものなら、何でもいいです!」
八一は、少しだけ考えた。
ハンカチ。
ペン。
何か、いつも使っているもの。
しかし。
(……せっかくなら)
小さく微笑む。
「……分かった」
あいが顔を上げた。
「……本当ですか!?」
「うん」
八一は頷いた。
「明日の朝までに、何か用意しておくよ」
「……ありがとうございます!」
あいは、嬉しそうに頭を下げた。
そして、部屋を出ていく。
八一は、その背中を見送った。
「…………」
しばらく考える。
そして。
「……よし」
机の引き出しを開けた。
そこから取り出したのは、1本の扇子だった。
───
翌朝。
九頭竜八一のマンション。
「……あれ?」
目を覚ましたあいは、枕元に置かれたものに気付いた。
扇子。
綺麗に閉じられた、1本の扇子だった。
「……これ……」
そっと手に取る。
そして、ゆっくりと開いた。
そこには。
『勇気』
力強い文字が書かれていた。
「…………」
あいの目が、大きく開いた。
「……ししょー……」
小さく呟く。
そして。
「……えへへ!」
嬉しそうに笑った。
扇子を胸元へ抱き締める。
「……頑張ります!」
その瞳には、確かな決意が宿っていた。
───
研修会試験当日。
関西将棋会館。
午前9時30分。
会館には、いつもとは少し違う緊張感が漂っていた。
研修会の入会試験。
将棋を学ぶ子供たちにとって、重要な機会だった。
そして今日。
雛鶴あいにとっては、将棋を続けられるかどうかが決まる日でもあった。
「……ふぅ」
八一は、小さく息を吐いた。
隣には、あい。
その手には、昨日渡した扇子が握られていた。
「……あいちゃん」
「はい!」
「……緊張してる?」
あいは、少しだけ考えた。
そして。
「……はい」
正直に頷いた。
「……すっごく、緊張してます」
「……そっか」
八一は、柔らかく微笑んだ。
「……大丈夫」
「……え?」
「今まで、たくさん勉強してきたでしょ?」
あいは、ゆっくりと頷いた。
「……はい」
「だったら、あとは自分を信じよう」
「…………」
「……最後まで、頑張ってね」
その言葉に、あいは力強く頷いた。
「はい!」
───
同じ頃。
将棋会館の廊下。
「……あっ!」
角晴が、見慣れた少女を見つけた。
「銀子!」
「……角晴」
空銀子が、ゆっくりと振り向いた。
14歳。
女王のタイトルを保持する、浪速の白雪姫。
その表情は、いつもどおり落ち着いていた。
「……来てたの?」
「うん!」
角晴は笑った。
「今日は、あいちゃんの試験でしょ?」
「……そうね」
銀子は頷いた。
「……あんたも見るの?」
「うん! 予定が空いてるからね!」
角晴は嬉しそうに笑った。
「……それに」
少しだけ、声を落とす。
「銀子も指すんでしょ?」
「…………」
銀子は、少しだけ目を細めた。
「……知ってたの?」
「うん!」
角晴は頷いた。
「おじさんから聞いた!」
「……そう」
銀子は、小さく頷いた。
そして、静かに言った。
「……手加減しないわよ」
その声は、真剣だった。
角晴は、少しだけ目を丸くした。
しかし、すぐに笑った。
「……うん!」
「…………」
銀子は、角晴を見つめた。
「……あんた、あの子を応援してるんでしょ?」
「してるよ!」
角晴は、迷いなく答えた。
「……じゃあ」
銀子は、少しだけ視線を落とした。
「……私が勝ったら、あの子は帰ることになるかもしれない」
角晴は、静かに頷いた。
「……そうだね」
「…………」
銀子は、少しだけ眉を寄せた。
「……それでも?」
角晴は、柔らかく微笑んだ。
「……うん」
そして、はっきりと言った。
「銀子には、全力で指してほしい」
「…………」
銀子の目が、わずかに開いた。
角晴は続ける。
「銀子が手加減したら、あいちゃんのためにもならないと思うんだ」
「…………」
「だから」
角晴は、にっこりと笑った。
「いつもどおりの銀子の将棋、楽しみにしてる!」
その言葉を聞いて、銀子は少しだけ目を伏せた。
「……バカ」
小さく呟く。
「ええっ!?」
角晴は驚いた。
「何で!?」
銀子は、そっと視線を逸らした。
「……何でもない」
しかし。
その頬は、ほんの少し赤くなっていた。
(……本当に)
銀子は、心の中で呟いた。
(……あんたって、そういうところよね)
どちらかを贔屓するわけではない。
ただ、目の前の将棋を大切にする。
角晴は、昔からそうだった。
銀子は、そんな彼のことが好きだった。
───
午前10時。
研修会試験。
第1局。
雛鶴あいの対局相手は、貞任綾乃だった。
「あいさん」
綾乃が、丁寧に頭を下げた。
「よろしくお願いいたします」
「はい!」
あいも頭を下げる。
「よろしくお願いします!」
数日前。
JS研で出会ったばかりの友達。
しかし。
今日は、正式な勝負だった。
あいにとっては、絶対に負けられない対局。
綾乃にとっても、簡単に負けるつもりはない。
2人は、真剣な表情で盤面へ向き直った。
パチンッ。
最初の駒音が響く。
───
対局は、序盤から慎重に進んでいった。
綾乃は、丁寧に陣形を整えていく。
あいも、八一から教わったことを思い出しながら駒を進めていた。
(……落ち着いて)
心の中で、自分に言い聞かせる。
(……ししょーが教えてくれたことを……)
目の前の局面を見つめる。
相手の狙い。
駒の働き。
そして、自分の攻め。
1つずつ、確認していく。
やがて。
「……あっ」
あいは、ある変化に気付いた。
綾乃の陣形。
その中に、わずかな隙が生まれていた。
(……ここなら……)
あいは、じっと盤面を見つめた。
何度も、何度も先を読む。
そして。
パチンッ。
駒を進めた。
綾乃の表情が、少しだけ変わった。
「……っ」
その一手は、綾乃の予想よりも厳しかった。
受けようとしても、次の攻めが見えてくる。
あいの読みが、終盤へ向かって鋭さを増していった。
───
「……負けました」
綾乃が、静かに頭を下げた。
「……ありがとうございました!」
あいも深く頭を下げる。
勝者。
雛鶴あい。
研修会試験。
第1局、勝利。
「……やった……!」
あいは、小さく呟いた。
そして。
「……やったぁ!」
嬉しそうに笑った。
少し離れたところで見守っていた八一も、ほっと息を吐く。
「……よかった」
角晴も、柔らかく微笑んだ。
「……ふふっ」
(……すごいね、あいちゃん)
一方。
銀子は、静かに盤面を見つめていた。
(……なるほど)
思っていた以上に、終盤の読みが鋭い。
まだ未熟な部分は多い。
しかし。
それを補うだけの、確かな才能がある。
銀子は、小さく目を細めた。
(……でも)
その瞳には、真剣な光が宿っていた。
(……それだけじゃ、勝てないわよ)
───
第2局。
対局相手は、久留野義経七段。
研修会の幹事を務める、経験豊富なプロ棋士だった。
「……よろしくお願いします」
あいが深く頭を下げる。
久留野も、穏やかに頷いた。
「よろしくお願いします」
相手は、プロ棋士。
あいにとっては、これまで以上に大きな壁だった。
もちろん、対局には駒落ちの条件が設けられている。
しかし、それでも簡単ではない。
プロ棋士の読み。
経験。
そして、局面全体を見る力。
それらは、まだ9歳のあいには遠く及ばないものだった。
「……ふぅ」
あいは、小さく息を吐いた。
そして、盤面を見つめる。
(……大丈夫)
自分に言い聞かせる。
(……ししょーが、教えてくれたから)
将棋盤の前に座る。
目の前の局面だけを考える。
今は、それだけだった。
───
「……ほぉ」
久留野は、少しだけ目を細めた。
あいの指し手。
それは、なかなか鋭いものだった。
(……なるほど)
確かに、才能がある。
まだ粗削りではあるが、終盤の読みは素晴らしい。
しかし。
(……ここからどうするかな)
久留野は、駒を手に取った。
パチンッ。
定跡から少し外れた一手。
あいが、目を丸くした。
「……えっ?」
それは、八一との研究では見たことのない手だった。
(……こんな手があるんだ……)
戸惑いが広がる。
しかし。
(……考えなきゃ)
あいは、盤面を見つめ続けた。
知らない手。
難しい局面。
それでも、諦めない。
何度も、何度も読む。
やがて。
「……あっ」
あいの表情が変わった。
(……これなら……!)
そして、駒を進めた。
パチンッ。
久留野の目が、わずかに開いた。
「……ほぉ」
思わず声が漏れる。
(……面白い)
その一手には、確かな狙いがあった。
まだ未熟な部分はある。
しかし。
自分で考え、自分で答えを見つけようとしている。
その姿勢は、十分に評価できるものだった。
───
しばらくして。
「……負けました」
久留野が、静かに頭を下げた。
「……ありがとうございました!」
あいも深く頭を下げる。
第2局。
勝者、雛鶴あい。
これで。
2戦2勝。
「……やったぁぁぁ!!」
あいは、嬉しそうに声を上げた。
八一も、思わず笑顔になる。
「……すごい!」
角晴も、嬉しそうに頷いた。
「……ふふっ!」
あいは、満面の笑みで八一のもとへ駆け寄った。
「ししょー!」
「……あいちゃん!」
「勝ちました!」
「うん!」
八一は笑った。
「すごかったよ!」
「……えへへ!」
あいは、嬉しそうに笑った。
その光景を、銀子は少し離れた場所から見つめていた。
「…………」
そして。
静かに立ち上がる。
次の対局。
それは、自分の番だった。
───
研修会試験。
最終局。
対局相手。
空銀子。
14歳。
女王。
『浪速の白雪姫』
女性棋士の中でも、極めて高い実力を持つ少女だった。
「…………」
あいは、対局席に座った。
その向かいに、銀子が腰を下ろす。
白い肌。
整った顔立ち。
そして、どこか冷たさを感じさせる瞳。
あいは、思わず息を呑んだ。
(……空女王……)
将棋会館で会ったときも、少し怖い人だと思った。
しかし。
今は、それ以上だった。
目の前に座った銀子から、圧倒的な緊張感が伝わってくる。
「……よろしくお願いします」
銀子が、静かに頭を下げた。
「……よ、よろしくお願いします!」
あいも慌てて頭を下げる。
駒落ち。
銀子の飛車落ちで行われる対局だった。
普通なら、大きなハンデ。
しかし。
銀子の表情に、油断は一切なかった。
(……手加減はしない)
銀子は、静かに盤面を見つめた。
将棋は、勝負。
相手が9歳でも。
将棋を始めて間もなくても。
そして。
この一局に、あいの将来がかかっていたとしても。
盤上では、全力で指す。
それが、銀子の考えだった。
パチンッ。
最初の駒音が響いた。
───
対局室の外。
八一は、緊張した表情で盤面を見守っていた。
「…………」
2戦2勝。
あと1勝。
それだけで、あいは正式に将棋を続けられる。
しかし。
最後の相手は、銀子だった。
(……姉弟子)
八一は、拳を握った。
銀子の強さは、誰よりも知っているつもりだった。
昔から、何度も将棋を指してきた。
何度も負かされてきた。
そして、そのたびに銀子の強さを思い知らされてきた。
だからこそ。
(……厳しい)
八一は、静かに息を吐いた。
その隣で、角晴が盤面を見つめていた。
「…………」
普段のような笑顔は、少しだけ控えめだった。
しかし。
その瞳には、興味深そうな光が宿っている。
「……兄弟子」
八一が口を開いた。
「ん?」
角晴が顔を向ける。
「……どう思いますか?」
角晴は、少しだけ考えた。
そして。
「……難しいね」
静かに答えた。
「……やっぱり」
八一が小さく呟く。
角晴は続けた。
「銀子は、すっごく強いから」
「……はい」
「でも」
角晴は、盤面へ視線を戻した。
「……あいちゃんの将棋も、楽しみだね」
「…………」
八一は、少しだけ目を丸くした。
角晴は、柔らかく笑った。
「最後まで、見守ろうよ」
八一は、静かに頷いた。
「……はい」
───
対局は、序盤から銀子が主導権を握っていた。
飛車落ち。
それでも、銀子の駒組みは正確だった。
あいが攻めようとすれば、先回りして受ける。
駒を活用しようとすれば、その動きを封じる。
そして、少しずつ。
少しずつ。
あいの陣形を崩していく。
(……っ!)
あいは、唇を噛み締めた。
(……強い……)
分かっていた。
空女王は、強い人だ。
でも。
これほどまでに差があるとは思っていなかった。
(……どうしよう)
盤面を見つめる。
攻めがつながらない。
受けようとしても、別の場所から攻められる。
自分が考えていることを、すべて見透かされているようだった。
(……怖い……)
あいは、小さく息を呑んだ。
そのとき。
パチンッ。
銀子が、一手を指した。
「……っ!」
あいの表情が変わる。
さらに厳しい手。
どこまでも、逃がしてくれない。
(……負ける……)
そんな考えが、頭をよぎった。
しかし。
(……嫌……)
あいは、拳を握った。
(……負けたくない……!)
───
銀子side
……まだ、諦めないのね。
目の前の少女を見つめる。
雛鶴あい。
9歳。
八一の弟子候補。
正直に言えば、最初は少し厄介な子だと思っていた。
突然現れて、八一の家に住み始めた。
しかも、八一のことを『ししょー』と呼んでいる。
……まあ、それは別にどうでもいいけど。
今、目の前にいる少女は、ただの子供ではなかった。
将棋が好きで。
もっと強くなりたくて。
そのために、必死に戦っている。
……でも。
それだけじゃ、勝てない。
私は、駒を手に取った。
パチンッ。
……どうする?
あんたの攻めは、もうほとんど続かない。
こっちは、まだ余裕がある。
このままなら、私の勝ち。
そう思っていた。
しかし。
「…………」
雛鶴あいの表情が、少しずつ変わり始めた。
俯いていた顔が、ゆっくりと上がる。
そして。
「……まだ……」
小さな声。
「……まだ、終わってません……!」
その瞳を見た瞬間。
私は、少しだけ目を細めた。
(……へぇ)
諦めない。
そんな目だった。
……いいじゃない。
だったら。
最後まで、相手をしてあげる。
───
「……ふふっ」
角晴が、小さく笑った。
八一が顔を向ける。
「……兄弟子?」
「……面白くなってきたね」
「……え?」
角晴は、盤面を見つめていた。
「……あいちゃん、すごい」
その声には、確かな感心が込められていた。
先ほどまで。
あいは、銀子の圧力に押されていた。
しかし。
今は違う。
追い詰められた局面で、再び読み始めている。
そして。
「……あっ」
角晴の目が輝いた。
「……なるほど!」
八一も盤面へ視線を戻す。
「……これは……」
あいが指した一手。
それは、思っていた以上に厳しいものだった。
終盤の読み。
詰将棋で鍛えた力。
それが、ついに実戦の中で現れ始めていた。
「……すごい」
八一が呟く。
角晴も頷いた。
「……うん!」
その表情は、心から嬉しそうだった。
「……でも」
角晴は、少しだけ目を細めた。
「……銀子も、ここからだね」
その言葉に、八一は静かに頷いた。
───
終盤。
対局は、激しさを増していた。
あいは、最後まで諦めずに攻め続けた。
銀子の玉へ迫る。
何度も、何度も。
そして。
「……っ!」
銀子の表情が、わずかに変わった。
(……なるほど)
目の前の少女。
その読みは、確かに鋭かった。
まだ未熟。
それでも。
終盤だけなら、驚くほど深く読む。
(……面白い)
銀子は、静かに目を細めた。
しかし。
勝負は、まだ終わっていない。
そして。
銀子は、駒を手に取った。
パチンッ。
角。
あいの玉へ、鋭い王手が飛んだ。
「……っ!」
あいが息を呑む。
(……王手……!)
逃げ道を探す。
受けを考える。
そして、駒を進めた。
しかし。
パチンッ。
次は、香車。
再び王手。
「……っ!」
あいの表情が変わる。
(……まだ……!)
必死に読む。
何度も、何度も。
そして。
パチンッ。
銀子が、最後の一手を指した。
飛車。
あいの玉へ、決定的な王手。
「…………」
あいの動きが止まった。
(……あれ……?)
盤面を見つめる。
逃げ道は、ない。
玉を動かしても、次の一手で詰む。
(……だったら……)
あいは、駒台へ手を伸ばした。
合い駒。
それがあれば、まだ。
「…………」
しかし。
指先は、何も掴まなかった。
駒台には、駒が残っていなかった。
「…………」
あいの目が、大きく開いた。
(……ない……)
もう、受ける手がない。
「…………」
しばらく、盤面を見つめる。
そして。
「……負けました……」
小さな声が響いた。
銀子は、静かに頭を下げた。
「……ありがとうございました」
あいも、深く頭を下げる。
「……ありがとうございました……」
研修会試験。
最終局。
勝者。
空銀子。
雛鶴あい。
2勝1敗。
3戦全勝という条件には、届かなかった。
───
「…………」
あいは、盤面を見つめていた。
涙が、ぽろぽろと零れ落ちる。
「……うぅ……」
悔しかった。
本当に、悔しかった。
あと1勝だった。
あと1回勝てば、将棋を続けられた。
ししょーの弟子になれた。
それなのに。
「……うっ……」
涙が止まらない。
八一は、そんなあいを見つめていた。
「……あいちゃん……」
声をかけようとする。
しかし。
何を言えばいいのか分からなかった。
銀子は、静かに立ち上がった。
そして、あいを見下ろす。
「……雛鶴あい」
あいが、涙を拭いながら顔を上げた。
「……はい……」
銀子は、少しだけ目を細めた。
「……強くなりなさい」
「…………」
「……もっと、ずっと」
その声は、厳しかった。
しかし。
決して、冷たいものではなかった。
あいは、涙を流しながら頷いた。
「……はい……!」
銀子は、それ以上何も言わず、静かにその場を離れた。
───
廊下。
「……銀子」
聞き慣れた声がした。
銀子が顔を上げる。
そこには、角晴が立っていた。
「……角晴」
角晴は、柔らかく微笑んだ。
「……お疲れ様!」
「……うん」
銀子は小さく頷いた。
角晴は、嬉しそうに笑った。
「……すごくいい将棋だったね!」
「…………」
銀子は、少しだけ目を丸くした。
「……そう?」
「うん!」
角晴は頷いた。
「銀子の終盤、すっごくよかった!」
「…………」
「でも、あいちゃんも頑張ったね!」
銀子は、小さく息を吐いた。
「……そうね」
そして、少しだけ目を伏せた。
「……あの子、強くなると思う」
角晴は、嬉しそうに笑った。
「……うん!」
「…………」
銀子は、そんな角晴を見つめた。
「……あんた」
「ん?」
「……怒らないの?」
角晴は、きょとんとした。
「……何で?」
「……私が勝ったから」
「……えっ?」
角晴は、少しだけ目を丸くした。
そして。
「……あはは!」
楽しそうに笑った。
「怒るわけないじゃん!」
「…………」
「銀子、すっごくいい将棋指してたもん!」
その言葉に、銀子の頬が少しだけ赤くなった。
「……バカ」
「ええっ!?」
角晴は驚いた。
「また!?」
銀子は、そっと視線を逸らした。
しかし。
口元には、ほんの少しだけ笑みが浮かんでいた。
(……ほんとに)
この人は。
昔から、変わらない。
勝った人も。
負けた人も。
その将棋を、ちゃんと見ている。
だから。
(……好きなのよ)
銀子は、心の中で小さく呟いた。
───
その頃。
将棋会館の一室。
雛鶴亜希奈は、静かに娘を見つめていた。
「……あい」
「…………」
あいは、俯いたままだった。
「……約束は、覚えていますね?」
「…………」
小さく頷く。
「……はい……」
「3戦全勝」
亜希奈は、静かに続けた。
「それが、条件でした」
「……はい……」
あいの声が震える。
「……ですから」
亜希奈は、ゆっくりと口を開いた。
「石川県へ帰りましょう」
「…………っ!」
あいの肩が、大きく震えた。
「……お母さん……」
「……あい」
「……わたし……」
声が詰まる。
「……帰りたく……ない……」
涙が、ぽろぽろと零れ落ちる。
「……将棋……したい……」
その言葉を聞いて、亜希奈は少しだけ目を伏せた。
しかし。
「……約束は、約束です」
静かに言った。
あいは、何も言えなかった。
そのとき。
「……待ってください!」
八一の声が響いた。
全員が顔を向ける。
そこには、真剣な表情の九頭竜八一が立っていた。
───
「……九頭竜先生?」
亜希奈が、少し驚いたように顔を上げた。
八一は、深く息を吸った。
そして。
「……お願いします!」
勢いよく頭を下げた。
「……あいちゃんを、俺の弟子にさせてください!」
「…………」
亜希奈の動きが止まった。
「……九頭竜先生」
八一は、顔を上げなかった。
「……あいちゃんには、才能があります!」
声が震えていた。
「まだ、未熟です!」
「…………」
「序盤も、中盤も、まだまだです!」
八一は、拳を握り締めた。
「……でも!」
顔を上げる。
「……あの終盤の読みは、本物なんです!」
その瞳は、真剣だった。
「……俺は、あいちゃんを強くしたい!」
亜希奈は、黙って聞いていた。
八一は続ける。
「……もっと将棋を教えたいです!」
「…………」
「……もっと、あいちゃんの将棋を見たいんです!」
そして。
八一は、畳の上に両手をついた。
深く。
深く、頭を下げる。
「……お願いします!!」
その姿に、あいが目を見開いた。
「……ししょー……」
八一は、顔を上げなかった。
「……あいちゃんを、俺に預けてください!!」
リビングに、静寂が落ちた。
───
亜希奈は、しばらく八一を見つめていた。
史上最年少で竜王位を獲得した、16歳の少年。
その彼が。
今、必死に頭を下げている。
娘のために。
「…………」
亜希奈は、そっと目を伏せた。
「……九頭竜先生」
「……はい!」
八一が顔を上げる。
「……あいを、本当に弟子にしたいのですか?」
「……はい!」
迷いのない返事だった。
「……責任を持って、指導できますか?」
「……はい!」
八一は頷いた。
「……約束します!」
亜希奈は、しばらく黙っていた。
そして、夫の隆へ視線を向けた。
隆は、静かに頷いた。
「……そうだな」
その言葉に、亜希奈は小さく息を吐いた。
そして。
「……分かりました」
静かに口を開いた。
「……えっ?」
八一が顔を上げる。
亜希奈は、ゆっくりと頷いた。
「……あいを、よろしくお願いいたします」
「…………」
八一の動きが止まった。
「……本当、ですか……?」
「はい」
亜希奈は頷いた。
「ただし」
その声が、少しだけ厳しくなる。
「……半端な覚悟では、困ります」
「……はい!」
八一は、真剣な表情で頷いた。
「……必ず、強くします!」
亜希奈は、少しだけ目を細めた。
そして。
「……では、よろしくお願いいたします」
深く頭を下げた。
八一も、慌てて頭を下げる。
「……こちらこそ、よろしくお願いします!」
───
「……ししょー……」
あいが、小さな声で呟いた。
八一が顔を向ける。
「……あいちゃん」
その瞬間。
「……ししょぉぉぉ!!」
あいが、勢いよく駆け寄ってきた。
「うわっ!?」
八一は慌てて受け止める。
「……ありがとうございます!!」
あいは、涙を流しながら叫んだ。
「……ありがとうございます!!」
「……あいちゃん……」
八一は、少しだけ目を細めた。
そして。
「……うん」
柔らかく微笑む。
「……これから、一緒に頑張ろうね」
「……はい!!」
あいは、力強く頷いた。
───
少し離れた場所。
角晴は、その様子を静かに見守っていた。
「……ふふっ」
小さく笑う。
「……よかったね、八一」
その隣には、銀子が立っていた。
「……そうね」
銀子も、小さく頷いた。
「……でも」
少しだけ目を細める。
「……これからが大変よ」
「うん!」
角晴は笑った。
「……でも、楽しみだね!」
銀子は、そんな角晴を見つめた。
「……あんた、本当にそればっかり」
「えっ!?」
角晴は驚いた。
「……だって、楽しみじゃん!」
銀子は、小さくため息をついた。
しかし。
その口元には、ほんの少しだけ笑みが浮かんでいた。
「……バカ」
「ええっ!? また!?」
角晴の情けない声が響いた。
銀子は、少しだけ笑った。
───
夕方。
将棋会館の外。
春の柔らかな日差しが、街を照らしていた。
「……ふぅ!」
八一は、大きく息を吐いた。
隣には、あい。
その手には、八一からもらった扇子が握られていた。
「……ししょー!」
「ん?」
「……これからも、よろしくお願いします!」
あいは、満面の笑みで頭を下げた。
八一は、少しだけ目を丸くした。
そして。
「……うん!」
笑顔で頷いた。
「よろしくね、あいちゃんいや、あい!」
その様子を、少し離れたところから角晴と銀子が見つめていた。
「……ふふっ」
角晴は、嬉しそうに笑った。
「……八一も、師匠になったんだね」
「……そうね」
銀子が頷く。
角晴は、少しだけ目を細めた。
「……何か、嬉しいなぁ」
銀子は、そんな彼を見つめていた。
そして、静かに口を開く。
「……角晴」
「ん?」
「……あんたも、いつか弟子を取るんでしょ?」
角晴は、少しだけ考えた。
そして。
「……うん!」
笑顔で頷いた。
「……いつかね!」
その言葉に、銀子も小さく微笑んだ。
「……そう」
そして、2人は並んで歩き始めた。
春の大阪。
穏やかな風が吹いていた。
───
雛鶴あい。
9歳。
将棋を愛する、小さな少女。
その日。
彼女は、正式に九頭竜八一の弟子となった。
3戦全勝という条件には届かなかった。
しかし。
最後まで諦めずに戦った姿。
そして。
その才能を信じ、頭を下げた八一の覚悟。
それらが、両親の心を動かした。
一方。
空銀子。
14歳。
女王。
浪速の白雪姫。
彼女は、容赦のない将棋であいに勝利した。
しかし。
その勝負を通して、あいの才能を認め始めていた。
そして。
猿飛角晴。
15歳。
帝位、叡王、棋帝。
3つのタイトルを保持する、将棋界の帝王。
彼は、そのすべてを見届けていた。
勝った者。
負けた者。
そして、新しく師匠となった者。
それぞれが、将棋を通して成長していく。
そんな光景を、角晴は心から嬉しく思っていた。
「……さて!」
角晴は、大きく伸びをした。
「銀子!」
「……何?」
「……今日、何か甘いもの食べて帰らない?」
「…………」
銀子は、少しだけ目を丸くした。
そして。
「……いいけど」
小さく頷いた。
角晴は、嬉しそうに笑った。
「やった!」
銀子は、そんな角晴を見つめていた。
(……ほんとに)
どれだけ強くなっても。
どれだけ有名になっても。
この人は、昔から変わらない。
将棋が好きで。
甘いものが好きで。
そして。
自分の大切な人たちを、心から応援できる。
そんな少年。
「……角晴」
「ん?」
「……今日は、私が選ぶ」
「……えっ?」
角晴は目を丸くした。
「お店?」
「……そう」
銀子は、少しだけ視線を逸らした。
「……たまには、いいでしょ」
角晴は、にっこりと笑った。
「もちろん!」
そして、楽しそうに続ける。
「……銀子のおすすめ、楽しみ!」
その言葉に、銀子は少しだけ頬を赤くした。
「……バカ」
「ええっ!? また!?」
角晴の情けない声が響く。
銀子は、ほんの少しだけ笑った。
春の大阪。
穏やかな夕暮れ。
2人は、並んで歩いていった。