3月。
春休みも終わりに近づいた大阪。
午前9時。
九頭竜八一のマンションでは、今日も朝から元気な声が響いていた。
「ししょー! 朝ご飯ができました!」
「はーい! 今行くよ!」
八一は研究室から顔を出し、キッチンに立っている少女へ笑いかけた。
雛鶴あい。
9歳。
先日、研修会の入会試験を経て、正式に八一の弟子となった少女である。
その日以来、八一の生活はさらに賑やかになっていた。
「今日は鮭と卵焼きです!」
「おお、美味しそう!」
「えへへ! いっぱい食べてくださいね!」
テーブルに並べられた朝食を見て、八一は素直に感心した。
まだ9歳だというのに、あいの料理の腕前はなかなかのものだった。
実家が旅館を営んでいるだけあって、家事全般にも慣れている。
もっとも、八一としては、あまり家事を任せすぎるのもよくないと考えていた。
「いただきます!」
「いただきます!」
2人で手を合わせ、朝食を食べ始める。
「……うん、美味しい!」
「本当ですか!?」
「うん! ありがとう、あい」
「……えへへ!」
名前を呼ばれたあいは、嬉しそうに頬を緩めた。
正式な弟子になる前、八一は彼女を『あいちゃん』と呼んでいた。
しかし、今は違う。
『あい』。
師匠と弟子。
その関係を意識して、呼び方を変えたのだ。
あい自身も、その変化をとても喜んでいた。
「ししょー! 今日も将棋を教えてください!」
「もちろん。でも、まずは昨日の宿題を確認しようか」
「はい!」
あいは、満面の笑みで頷いた。
昨日、八一が出したのは中盤の次の一手を考える問題だった。
詰将棋ならば驚くほどの速さで正解へ辿り着くあいだが、実戦の中盤はまだ苦手としている。
それでも、本人はどこまでも意欲的だった。
「昨日の問題、全部考えてきました!」
「おっ、本当?」
「はい!」
「じゃあ、ご飯を食べたら見せてね」
「分かりました!」
そんなあいを見て、八一は小さく笑った。
弟子を持つ。
ほんの少し前までは、考えたこともなかった。
自分自身、まだ16歳。
竜王というタイトルは持っているものの、棋士として学ぶべきことは山ほどある。
それなのに、今は自分を『ししょー』と呼んでくれる子がいる。
その事実が、少しくすぐったかった。
(……頑張らないとな)
八一は、目の前で嬉しそうに朝食を食べるあいを見つめた。
自分がこの子の未来を預かると決めたのだ。
中途半端な気持ちではいられない。
「……ししょー?」
「ん?」
「どうしたんですか?」
「いや、何でもないよ」
八一は笑った。
「今日も一緒に頑張ろうね、あい」
「はいっ!」
少女の元気な返事が、朝の部屋に響いた。
───
同じ頃。
大阪市内のマンション。
「……んん〜!」
猿飛角晴は、ベッドの上で大きく伸びをした。
時計の針は午前9時30分を指している。
普段より少し早い起床だった。
「……まだ眠い」
ぼんやりと呟く。
寝癖のついた濃紺の髪を掻きながら、ゆっくりと上体を起こした。
15歳。
九段。
帝位、叡王、棋帝の三冠を保持する少年棋士。
『将棋界の帝王』。
世間では、そんな異名で呼ばれている。
しかし、自宅にいる彼は、どこにでもいそうな少し寝起きの悪い少年だった。
「……あれ?」
ベッドサイドに置いていたスマートフォンが震えている。
手に取って画面を確認すると、着信が入っていた。
「……月光会長?」
表示されていた名前を見て、角晴は少しだけ目を丸くした。
将棋連盟会長。
月光聖市。
将棋界を代表する大棋士の1人だった。
「……もしもし?」
『おはよう、猿飛君』
「おはようございます!」
『……今、起きたところかな?』
「……あはは」
角晴は困ったように笑った。
「分かります?」
『声で何となくね』
電話の向こうから、穏やかな笑い声が聞こえた。
角晴は、ベッドから立ち上がった。
「それで、どうしたんですか?」
『少し、君に頼みたいことがあってね』
「……頼みたいこと?」
『ああ。今日、会館に来る予定はあるかな?』
角晴は少しだけ考えた。
今日は公式戦がない。
午前中は自宅で研究し、午後から将棋会館へ向かうつもりだった。
「午後から行こうと思ってます!」
『それなら、会館に来たときに少し時間をもらえるかな』
「もちろんです!」
『ありがとう。では、待っているよ』
「はい!」
通話が終了した。
角晴は、しばらく画面を見つめた。
「……何だろう?」
会長から直接頼み事をされることは、珍しくない。
イベントへの参加。
若手棋士との研究会。
将棋の普及活動。
そういった仕事を依頼されることもあった。
しかし、今日の電話は少し違う気がした。
「……ま、行けば分かるか!」
角晴は笑った。
そして、洗面所へ向かう。
「……その前に朝ご飯!」
今日も、彼の1日が始まった。
───
午後1時。
関西将棋会館。
「こんにちはー!」
角晴が館内へ入ると、受付の職員が顔を上げた。
「猿飛三冠、お疲れ様です」
「お疲れ様です!」
角晴は笑顔で挨拶した。
「月光会長、いらっしゃいますか?」
「はい。会長室にいらっしゃいますよ」
「ありがとうございます!」
軽く頭を下げ、廊下を進む。
途中、何人かの棋士とすれ違った。
「おっ、猿飛三冠」
「こんにちは!」
「この前の対局、見たで。相変わらず面白い将棋指すなぁ」
「あはは! ありがとうございます!」
角晴は嬉しそうに笑った。
将棋の話をするのが好きな彼にとって、会館は居心地のよい場所だった。
幼い頃から通い慣れている。
清滝鋼介に弟子入りして以来、数え切れないほどの大人たちと将棋を指し、感想戦を重ねてきた。
今では自分が年上の棋士から意見を求められることもある。
それでも。
将棋盤を挟めば、年齢や肩書きは関係ない。
強い人と指す。
知らない手に出会う。
それが何より楽しかった。
やがて会長室の前に到着する。
コンコン。
「失礼します!」
『どうぞ』
扉を開けると、月光聖市が穏やかな表情で迎えてくれた。
「よく来てくれたね、猿飛君」
「こんにちは、会長!」
「どうぞ、座ってください」
「はい!」
角晴は勧められた椅子へ腰を下ろした。
月光は、机の上に置かれた書類へ目を落とす。
「早速だけれど、頼み事について話そうか」
「はい!」
「ある少女の将棋を見てもらいたいんだ」
「……女の子?」
角晴は首を傾げた。
「うん。9歳の女の子だよ」
「……へぇ!」
角晴の表情が明るくなる。
「将棋が好きな子なんですね!」
「そうだね。なかなかの腕前だと聞いている」
「……おお!」
月光は、そんな角晴を見て微笑んだ。
「君は本当に将棋が好きだね」
「あはは! 大好きですから!」
迷いのない返事だった。
月光は頷き、書類の1枚を差し出す。
「名前は、夜叉神天衣」
「……やしゃじん、あい?」
「そう。神戸に住んでいる少女だ」
角晴は、少しだけ考えた。
「……あいちゃん?」
思い浮かんだのは、八一の弟子となった雛鶴あい。
「……八一の弟子も、あいちゃんですよね!」
「そうだったね」
月光は小さく笑った。
「漢字は違うけれど、同じ名前だ」
「へぇ! 偶然ですね!」
角晴は嬉しそうに笑った。
「それで、その子と将棋を指せばいいんですか?」
「まずは、実力を確かめてほしい」
「……実力?」
「そう。本人はかなり自信があるようでね。指導する棋士にも条件を出している」
「……条件?」
角晴が目を丸くする。
月光は穏やかに答えた。
「A級棋士か、タイトルホルダーでなければ嫌だそうだ」
「……へぇ!」
角晴は、感心したように声を上げた。
「すごい条件ですね!」
「ははは。そうだね」
「でも、強い人と指したい気持ちは分かります!」
角晴は笑った。
「俺も小さい頃、強い人といっぱい指したかったですから!」
月光は、少しだけ目を細めた。
「……君は、その頃から変わらないね」
「そうですか?」
「うん。将棋に対する姿勢は、昔から同じだよ」
角晴は、少し照れたように笑った。
「……えへへ」
そして、改めて書類へ視線を戻す。
「……それで、俺に依頼が来たんですね」
「ああ。ぜひ、君に見てもらいたいと思ってね」
「分かりました!」
角晴は、すぐに頷いた。
「どんな将棋を指すのか楽しみです!」
月光は、穏やかに微笑んだ。
「ありがとう」
そして、机の上に置かれた別の書類を差し出す。
「訪問先の住所と、先方の連絡先だよ」
角晴は受け取った。
「……神戸かぁ」
大阪からそれほど遠くない。
電車で向かうこともできる。
「明日、行っても大丈夫ですか?」
「先方には確認しておこう」
「ありがとうございます!」
角晴は頭を下げた。
そのとき、月光が付け加えた。
「……ただし、猿飛君」
「……はい?」
「君にお願いしたいのは、あくまで少女の棋力を見ることだ」
角晴は、きょとんとした。
月光は続ける。
「最初から弟子に取ってほしいと言っているわけではないからね」
「……ああ!」
角晴は納得したように頷いた。
「大丈夫です!」
そして、笑顔で続ける。
「俺、今すぐ弟子が欲しいわけじゃないですから!」
月光は、少しだけ笑った。
「そうだろうね」
「でも、将棋は指してみたいです!」
「うん。それで十分だよ」
こうして。
角晴は、夜叉神天衣という少女と出会うことになった。
───
翌日。
午前11時。
兵庫県神戸市。
閑静な住宅街の一角に、ひときわ大きな屋敷が建っていた。
高い塀。
立派な門。
そして、広い敷地。
「……おおっ!」
門の前に立った角晴は、思わず声を上げた。
「……すっごい家!」
想像していた以上の豪邸だった。
「……ここで合ってるよね?」
スマートフォンで住所を確認する。
間違いない。
夜叉神家。
今回の訪問先だった。
「……よし!」
角晴はインターホンを押した。
『……はい』
女性の声が聞こえる。
「あっ! こんにちは!」
角晴は元気よく挨拶した。
「猿飛角晴です! 月光会長からお話があったと思うんですけど!」
『……猿飛三冠ですね』
「はい!」
『お待ちしておりました。少々お待ちください』
「ありがとうございます!」
しばらくして、立派な門が開いた。
そこから姿を現したのは、黒いスーツ姿の女性だった。
長い黒髪。
整った顔立ち。
そして、隙のない立ち姿。
「お待たせいたしました」
女性は丁寧に頭を下げた。
「池田晶と申します」
「初めまして!」
角晴も頭を下げる。
「猿飛角晴です!」
「存じ上げております。こちらへどうぞ」
「はい!」
角晴は晶の後について歩き始めた。
「……あの」
「はい?」
「池田さんは、天衣ちゃんのお家の人ですか?」
晶は、少しだけ顔を向けた。
「私は天衣お嬢様の付き人兼護衛を務めております」
「……護衛!?」
角晴は目を丸くした。
「すごいですね!」
「……ありがとうございます」
晶は丁寧に答えた。
しかし、その表情はほとんど変わらなかった。
「……お仕事、大変そうですね」
「いえ。私の務めですので」
「……そっか!」
角晴は笑った。
「頑張ってください!」
「……ありがとうございます」
晶は、ほんの少しだけ目を細めた。
将棋界の帝王。
15歳にして三冠を保持する天才棋士。
そんな人物が、ここまで気さくな少年だとは思っていなかった。
(……随分と、普通の少年のような方ですね)
ただし。
この少年が盤上ではまったく違う顔を見せることを、晶も知っていた。
そして。
今日、その将棋を天衣が目の当たりにすることになる。
───
広い廊下を進み、客間へ案内された。
そこには、1人の老人が座っていた。
鋭い目つき。
年齢を感じさせない堂々とした姿勢。
そして、普通の老人とは明らかに異なる迫力。
夜叉神弘天。
神戸で実業家として知られる、天衣の祖父だった。
「……おお」
弘天が顔を上げる。
「よう来てくれたな、猿飛三冠」
「初めまして!」
角晴は笑顔で頭を下げた。
「猿飛角晴です!」
「夜叉神弘天や。まあ、座ってくれ」
「ありがとうございます!」
角晴は勧められた席へ腰を下ろした。
弘天は、しばらく彼を見つめていた。
「……まだ15歳やったな」
「はい!」
「若いなぁ」
「あはは!」
角晴は笑った。
「よく言われます!」
弘天は、喉の奥で小さく笑った。
「しかし、三冠か」
「……はい」
「大したもんや」
「ありがとうございます!」
角晴は素直に頭を下げた。
弘天は、少しだけ感心したように目を細めた。
(……なるほど)
気取ったところがない。
大きな実績を持ちながら、自然体で人と接している。
弘天は、目の前の少年を静かに観察していた。
「……さて」
弘天が口を開いた。
「今日は孫の将棋を見てもらういう話やったな」
「はい!」
角晴は頷いた。
「月光会長から聞きました!」
「……そうか」
弘天は小さく息を吐いた。
「天衣は、少々気の強い娘でな」
「……そうなんですか?」
「まあ、会えば分かる」
その言葉に、角晴は少しだけ首を傾げた。
しかし、すぐに笑った。
「楽しみです!」
弘天は、その返事を聞いて小さく笑った。
「……そうか」
そして、晶へ視線を向ける。
「晶」
「はい」
「天衣を呼んできてくれ」
「かしこまりました」
晶は頭を下げ、部屋を出ていった。
───
数分後。
廊下から足音が聞こえてきた。
そして。
「……おじい様」
少し不機嫌そうな声。
扉が開く。
そこに立っていたのは、黒髪の少女だった。
整った顔立ち。
大きな瞳。
そして、どこか気品を感じさせる雰囲気。
夜叉神天衣。
9歳。
角晴が今日、将棋を指す相手だった。
「……天衣」
弘天が声をかける。
「こちらが、今日来てくださった猿飛三冠や」
天衣は、ゆっくりと角晴へ視線を向けた。
「…………」
そして。
「……ふぅん」
小さく呟いた。
角晴は笑顔で立ち上がる。
「初めまして!」
「…………」
「猿飛角晴です!」
天衣は、じっと角晴を見つめた。
そして。
「……あなたが?」
「うん!」
角晴は頷いた。
「よろしくね、天衣ちゃん!」
「…………」
天衣は、少しだけ眉を寄せた。
「……何で、いきなりちゃん付けなのよ」
「……えっ?」
角晴は目を丸くした。
「嫌だった?」
「……別に」
天衣は、そっぽを向いた。
「好きに呼べば?」
「……そっか!」
角晴は笑った。
「じゃあ、天衣ちゃん!」
「…………」
天衣は、わずかに頬を膨らませた。
(……何なの、この人)
三冠棋士。
将棋界の帝王。
そんな肩書きから、もっと威厳のある人物を想像していた。
しかし。
目の前にいるのは、どこにでもいそうな少年だった。
「……思ってたより普通なのね」
天衣が呟く。
角晴は、きょとんとした。
「……そう?」
「ええ」
天衣は腕を組んだ。
「もっと怖い人かと思ってたわ」
「あはは!」
角晴は楽しそうに笑った。
「俺、そんなに怖くないよ!」
「……見れば分かるわよ」
天衣は、呆れたようにため息をついた。
弘天は、そんな2人を見て小さく笑った。
「……まあまあ」
そして、角晴へ顔を向ける。
「早速やが、将棋を見てもらえるか?」
「もちろんです!」
角晴は笑顔で頷いた。
天衣も、真剣な表情になった。
「……いいわ」
そして、角晴を見つめる。
「でも、手加減なんてしないでよね」
角晴は、少しだけ目を丸くした。
そして。
「……うん!」
嬉しそうに笑った。
「俺も、しっかり指すよ!」
───
将棋盤が用意された。
立派な盤だった。
木目の美しい盤面。
丁寧に磨かれた駒。
角晴は、思わず目を輝かせた。
「……おおっ!」
「……何よ」
天衣が眉を寄せる。
角晴は、将棋盤を見つめながら答えた。
「すっごくいい盤だね!」
「……当然でしょ」
天衣は、少しだけ得意そうに言った。
「おじい様が用意してくださったんだから」
「……そっか!」
角晴は笑った。
「大切に使わなきゃね!」
「……言われなくても分かってるわよ」
天衣は、少しだけ視線を逸らした。
晶が、対局用の座布団を整える。
「猿飛三冠、こちらへどうぞ」
「ありがとうございます!」
角晴は座布団へ腰を下ろした。
向かいには天衣。
弘天は少し離れた場所から、2人を見守っている。
「……それで」
角晴が口を開いた。
「今日は4枚落ちでいいかな?」
「……4枚落ち?」
天衣が、少しだけ眉を寄せた。
4枚落ち。
上手が飛車、角、そして左右の香車を落とす駒落ち将棋。
大きなハンデだった。
「……私を馬鹿にしてるの?」
天衣が、低い声で言った。
角晴は目を丸くした。
「……えっ?」
「4枚も駒を落とすなんて」
天衣は腕を組んだ。
「そんなに私が弱いと思ってるわけ?」
角晴は、少しだけ考えた。
そして。
「……まだ分からないかな!」
「…………は?」
「だって、天衣ちゃんの将棋、まだ見たことないもん!」
「…………」
天衣は、言葉に詰まった。
角晴は、にっこりと笑う。
「まずは4枚落ちで指してみて、それから考えようよ!」
「……っ」
天衣は、少しだけ眉を寄せた。
(……何なのよ)
普通なら。
自分の実力を見下されたと思うところだった。
しかし、この少年には、そんな様子がまったくない。
本当に、まだ分からないと思っているだけなのだ。
「……いいわ」
天衣は、静かに頷いた。
「その代わり」
角晴を睨む。
「……負けても知らないわよ」
角晴は、嬉しそうに笑った。
「……うん!」
「…………」
天衣は、ますます不機嫌そうな顔になった。
(……調子狂うわね)
───
「よろしくお願いします」
角晴が頭を下げる。
「……よろしくお願いします」
天衣も頭を下げた。
4枚落ち。
上手、猿飛角晴。
下手、夜叉神天衣。
駒を落とした角晴が、最初の一手を指す。
パチンッ。
静かな部屋に、駒音が響いた。
天衣も駒を進める。
パチンッ。
序盤。
天衣は、落ち着いた手つきで駒を組んでいった。
(……ふぅん)
角晴は、盤面を見つめた。
(……なるほど)
指し手に迷いが少ない。
ただ暗記した定跡をなぞっているわけではない。
駒の働き。
相手の狙い。
そして、自分の攻め。
それらを考えながら指している。
(……面白いね)
角晴は、ほんの少しだけ笑った。
一方の天衣は、角晴の表情をちらりと見ていた。
(……笑ってる?)
まだ序盤。
どちらが有利とも言えない。
それなのに、角晴は楽しそうだった。
(……変な人)
天衣は、小さく眉を寄せた。
しかし、すぐに盤面へ意識を戻す。
今は、目の前の相手を倒すことだけを考えればいい。
(……絶対、勝ってやるんだから)
パチンッ。
天衣は、力強く駒を進めた。
───
対局が進むにつれ、部屋の空気は少しずつ変わっていった。
天衣の攻めは鋭かった。
4枚落ち。
飛車と角、そして香車2枚を失った角晴の陣形は、当然ながら攻撃力に乏しい。
しかし、角晴は無理に攻めようとはしなかった。
駒の働きを整える。
相手の狙いを読む。
そして、少しずつ局面を複雑にしていく。
「…………」
天衣は、盤面を見つめていた。
(……何よ、これ)
自分の方が駒得している。
当然だ。
最初から4枚も多いのだから。
それなのに。
(……攻めにくい)
何となく、思いどおりにならない。
攻めようとすると、先回りされる。
駒を動かそうとすると、別の場所に弱点が生まれる。
(……っ)
天衣は、唇を噛み締めた。
(……こんなはずじゃ)
しかし、角晴は相変わらず穏やかな表情だった。
「……ふふっ」
小さく笑う。
その声に、天衣が顔を上げた。
「……何よ」
「……ん?」
「……何で笑ってるの?」
角晴は、少しだけ考えた。
そして。
「……面白いから!」
「…………は?」
天衣は、目を丸くした。
角晴は、楽しそうに続ける。
「天衣ちゃん、結構思い切った手を指すね!」
「…………」
「すっごくいいと思う!」
その言葉に、天衣は少しだけ頬を赤くした。
「……当然でしょ!」
そして、すぐに顔を背ける。
「……私を誰だと思ってるのよ」
角晴は、笑顔で答えた。
「夜叉神天衣ちゃん!」
「……そういうことじゃないわよ!」
思わず声を荒げる。
弘天は、少し離れたところで楽しそうに笑っていた。
「……ははは!」
晶は、そんな2人を静かに見守っていた。
(……珍しいですね)
天衣が、ここまで感情を表に出しながら将棋を指している。
普段は、もっと冷静な少女だ。
しかし。
今日の相手は、どうにも調子が狂うらしい。
それでも。
天衣の目は、盤面から離れなかった。
───
中盤。
「……っ!」
天衣の表情が変わった。
(……この手……!)
角晴が指した一手。
それは、天衣の予想とは少し違うものだった。
一見すると、普通の受け。
しかし。
数手先を読むと、その意味が分かってくる。
(……これ、嫌な手ね)
天衣は、じっと盤面を見つめた。
攻めようと思えば、攻められる。
しかし、単純に踏み込むと、角晴の反撃を許してしまう。
(……どうする)
天衣は考えた。
そして。
パチンッ。
銀を前へ進めた。
角晴の目が、少しだけ輝いた。
(……おっ)
(……そう来たか!)
天衣の一手。
それは、角晴が予想していた手の1つだった。
しかし。
単なる攻めではない。
自陣の弱点を補いながら、次の攻撃を準備する一手。
(……なるほど)
角晴は、嬉しそうに笑った。
「……ふふっ!」
「……また笑ってる」
天衣が呟く。
角晴は、駒を手に取った。
「……だって」
パチンッ。
一手を指す。
「……面白いんだもん!」
「……っ!」
天衣の目が細くなった。
(……なら)
天衣も駒を進める。
パチンッ。
(……もっと面白くしてあげるわよ!)
その一手を見て、角晴の笑みが少しだけ深くなった。
(……いいね!)
2人の将棋は、徐々に激しさを増していった。
───
対局を見守っていた弘天は、静かに目を細めていた。
「……ほぉ」
思わず声が漏れる。
天衣は、普段から負けず嫌いな少女だった。
自分が正しいと思えば、簡単には譲らない。
将棋でも同じだ。
負けそうになると悔しがる。
勝てば、嬉しそうに笑う。
しかし、今日の天衣は少し違っていた。
「…………」
真剣な表情。
盤面を見つめる瞳。
そして、時折見せる驚き。
それらは、今までとは少し違うものだった。
(……楽しそうやな)
弘天は、心の中で呟いた。
少し離れた場所に立つ晶も、同じことを感じていた。
「……お嬢様」
小さく呟く。
天衣は、目の前の将棋に夢中になっていた。
相手が三冠棋士だから、というだけではない。
今、指している将棋そのものが、彼女を惹き付けているのだ。
───
終盤。
天衣は、じっと盤面を見つめていた。
(……あと少し)
角晴の玉。
そこへ迫るための攻め筋を、何度も読んでいた。
駒は十分にある。
攻める手段もある。
しかし。
(……届かない……?)
角晴の玉は、思っていた以上に捕まえにくかった。
(……何でよ)
天衣は、少しだけ唇を噛んだ。
4枚落ち。
圧倒的に有利な条件のはずだった。
それなのに。
今、自分は必死に読み続けている。
そして。
「……ふふっ」
角晴が、小さく笑った。
天衣は、思わず顔を上げる。
「……何よ」
角晴は、盤面を見つめたまま答えた。
「……難しいね!」
「…………」
「この局面、すっごく面白い!」
その声には、心からの楽しさが込められていた。
天衣は、しばらく角晴を見つめていた。
(……何なのよ)
普通なら。
この局面で笑えるはずがない。
4枚も駒を落としている。
少しでも間違えれば、すぐに負ける。
それなのに。
(……この人)
楽しそうに笑っている。
(……変な人)
そう思った。
しかし。
(……でも)
天衣は、再び盤面へ視線を戻した。
(……私だって)
小さく息を吸う。
(……負けたくない!)
そして。
パチンッ。
天衣は、勝負に出た。
───
角晴は、天衣の一手を見つめた。
「…………」
少しだけ、目を細める。
(……なるほど)
鋭い攻め。
思い切りがいい。
そして、何より。
勝負どころを見極める感覚がある。
(……ふふっ)
角晴は、小さく笑った。
(……この子、強くなるなぁ)
ただし。
今の天衣には、まだ足りないものがある。
局面全体を見る力。
受けの正確さ。
そして、相手が何を狙っているのかを最後まで考えること。
角晴は、静かに駒を手に取った。
パチンッ。
天衣の表情が変わった。
「……っ!?」
角晴の一手。
それは、天衣が読み切れていなかった受けだった。
攻めが止まる。
そして。
角晴の駒が、少しずつ前へ出始める。
(……嘘……)
天衣は、目を見開いた。
(……こんな手が……!)
一気に、局面が難しくなった。
いや。
正確には。
最初から難しかったのだ。
自分が、それに気付けていなかっただけ。
天衣は、拳を握り締めた。
(……まだよ)
諦めるつもりはなかった。
(……まだ、終わってない!)
そして、再び読み始めた。
───
対局は、さらに続いた。
しかし。
徐々に、角晴の読みが天衣を上回り始めた。
天衣が攻めれば、的確に受ける。
受けようとすれば、別の場所から圧力をかける。
そして、少しずつ。
確実に。
勝利へ近づいていく。
「…………」
天衣は、盤面を見つめていた。
(……何よ、これ)
悔しい。
本当に、悔しい。
4枚落ち。
相手は、飛車も角も香車もない。
それなのに。
(……勝てない……)
どれほど読んでも、角晴の指し手の方が深かった。
(……っ!)
天衣は、唇を噛み締めた。
そして。
パチンッ。
角晴が、最後の攻めへ踏み込んだ。
天衣の玉は、徐々に逃げ道を失っていく。
「…………」
何度も、何度も読む。
しかし。
(……ない)
勝ち筋が、見つからなかった。
やがて。
天衣は、ゆっくりと頭を下げた。
「……負けました」
小さな声だった。
角晴も、丁寧に頭を下げる。
「ありがとうございました!」
4枚落ち。
勝者。
猿飛角晴。
対局は、角晴の勝利に終わった。
───
「…………」
天衣は、しばらく盤面を見つめていた。
悔しい。
その感情が、胸の奥で渦巻いていた。
4枚も駒を落としてもらって。
それでも、勝てなかった。
「……っ」
小さく拳を握る。
角晴は、そんな天衣を見つめていた。
「……天衣ちゃん」
「……何よ」
少しだけ不機嫌そうな声。
角晴は、にっこりと笑った。
「……すっごく面白かった!」
「…………」
天衣は、目を丸くした。
「……は?」
「天衣ちゃん、いい将棋指すね!」
「…………」
「特に中盤の銀! あれ、すっごくよかった!」
角晴は、嬉しそうに盤面を示した。
「ここで、こういう狙いがあったでしょ?」
「……っ!」
天衣の表情が変わる。
自分が考えていた攻め筋。
角晴は、それを正確に理解していた。
「……分かってたの?」
「うん!」
角晴は笑った。
「いい手だったと思う!」
天衣は、少しだけ俯いた。
「……だったら、何で勝てなかったのよ」
小さな声だった。
角晴は、少しだけ考えた。
そして、静かに駒を並べ直した。
「……ここかな」
天衣が顔を上げる。
角晴は、ある局面を示した。
「天衣ちゃん、ここで攻めたでしょ?」
「……ええ」
「でも、ここは一度受けた方がよかったかも!」
「……受け?」
「うん!」
角晴は駒を動かした。
パチンッ。
「こう指しておくと、次の攻めがもっと厳しくなるんだ!」
「…………」
天衣は、盤面を見つめた。
そして。
「……あっ」
小さく声を上げた。
確かに。
その手を指していれば、局面は違っていたかもしれない。
「……なるほど」
天衣は、思わず呟いた。
角晴は、嬉しそうに笑った。
「……でしょ!」
そして、さらに駒を進める。
「でも、俺がこう指すと……」
「……だったら、こっちよ!」
天衣が、すぐに駒を動かした。
角晴の目が輝く。
「……おっ!」
「……何よ」
「……いいね!」
角晴は笑った。
「それも考えてた!」
「……っ!」
天衣は、少しだけ頬を膨らませた。
「……じゃあ、これは?」
パチンッ。
「……ふふっ!」
角晴も応じる。
パチンッ。
気付けば、2人は感想戦に夢中になっていた。
───
それから、しばらくして。
「……もう!」
天衣が、勢いよく顔を上げた。
「何なのよ、あなた!」
「……えっ?」
角晴は目を丸くした。
「……どうしたの?」
「……強すぎるのよ!」
その言葉に、角晴は少しだけ驚いた。
そして。
「あはは!」
楽しそうに笑った。
「ありがとう!」
「……褒めてないわよ!」
「ええっ!?」
角晴は困ったように笑った。
天衣は、ぷいっと顔を背けた。
しかし。
その頬には、ほんの少しだけ赤みが差していた。
(……悔しい)
負けたことが悔しい。
自分より遥かに強い相手がいることが悔しい。
でも。
(……また、指したい)
そんな気持ちも、確かにあった。
「……ねえ」
天衣が口を開いた。
「……ん?」
角晴が顔を向ける。
「……また、来るの?」
角晴は、少しだけ考えた。
「……うーん」
月光会長からの依頼は、まず天衣の棋力を見ること。
今日の対局で、その目的は果たした。
しかし。
角晴自身は、天衣の将棋をもっと見てみたいと思っていた。
「……また指したいね!」
笑顔で答える。
天衣は、少しだけ目を丸くした。
「……本当?」
「うん!」
角晴は頷いた。
「天衣ちゃんの将棋、面白いから!」
「…………」
天衣は、少しだけ視線を逸らした。
「……ふぅん」
そして。
「……まあ」
小さく呟く。
「……来たいなら、来てもいいわよ」
角晴は、嬉しそうに笑った。
「……やった!」
「……っ!」
天衣は、少しだけ頬を赤くした。
「……勘違いしないでよね!」
「……え?」
「……次は、絶対勝つんだから!」
その言葉に、角晴は目を輝かせた。
「……うん!」
そして、楽しそうに笑った。
「楽しみにしてる!」
───
対局を終えた天衣は、晶に案内されて自室へ戻っていった。
「……お嬢様」
「……何よ」
「お疲れ様でした」
「……別に」
天衣は、少しだけ不機嫌そうに答えた。
しかし。
その足取りは、どこか軽かった。
晶は、そんな天衣を見つめていた。
(……本当に、珍しいですね)
負けた直後だというのに。
悔しがりながらも、どこか楽しそうだった。
晶は、静かに微笑んだ。
───
客間。
「……猿飛三冠」
弘天が、角晴へ声をかけた。
「……はい!」
角晴が顔を上げる。
弘天は、静かに尋ねた。
「……どうやった?」
「……天衣ちゃんですか?」
「ああ」
角晴は、少しだけ考えた。
そして。
「……すっごく面白い将棋でした!」
笑顔で答えた。
弘天は、少しだけ目を細めた。
「……そうか」
「はい!」
角晴は続ける。
「特に、勝負どころで踏み込むのが上手ですね!」
「……ほぉ」
「でも、まだ少し攻め急ぐところがあるかなって」
角晴は、真剣な表情で続けた。
「受けの勉強をしたら、もっと強くなると思います!」
弘天は、静かに頷いた。
「……なるほどな」
そして、少しだけ考え込む。
「……猿飛三冠」
「……はい?」
「……天衣に、また将棋を教えてもらえるか?」
角晴は、少しだけ目を丸くした。
「……俺がですか?」
「ああ」
弘天は頷いた。
「今日の天衣、随分と楽しそうやった」
「……そうですか?」
「うん。あの子があそこまで夢中になって将棋を指すのは、久しぶりに見た気がする」
角晴は、少しだけ嬉しそうに笑った。
「……そっか!」
弘天は続ける。
「もちろん、忙しいのは分かっとる。無理を言うつもりはない」
「……あっ!」
角晴は、すぐに首を振った。
「大丈夫です!」
そして、笑顔で続ける。
「俺も、また天衣ちゃんと指したいですから!」
弘天は、少しだけ目を見開いた。
そして。
「……そうか」
静かに笑った。
「……ありがとう」
角晴も、嬉しそうに笑った。
「いえ!」
───
その日の夕方。
神戸から大阪へ戻る電車。
角晴は、窓際の席に座っていた。
「……ふぅ!」
大きく息を吐く。
「……楽しかった!」
今日の対局。
夜叉神天衣。
9歳の少女。
勝ち気で、少し生意気。
しかし。
将棋への情熱は、本物だった。
「……ふふっ」
角晴は、小さく笑った。
(……面白い子だったなぁ)
思い出すのは、天衣の指し手。
鋭い攻め。
思い切りのよさ。
そして、負けそうになっても諦めない姿勢。
(……強くなるだろうなぁ)
角晴は、スマートフォンを手に取った。
月光会長へ、簡単な報告を送る。
『今日はありがとうございました!』
『天衣ちゃん、すっごく面白い将棋を指す子でした!』
『また指してみたいです!』
送信する。
しばらくして。
返信が届いた。
『それはよかった。詳しい話は、また会館で聞かせてください』
角晴は、笑顔で返信した。
『はい!』
そして、スマートフォンをしまう。
「……さて」
窓の外へ視線を向ける。
夕暮れの街。
電車は、大阪へ向かって走っていた。
(……次は、どんな将棋になるかな)
角晴は、楽しそうに微笑んだ。
───
同じ頃。
夜叉神家。
天衣は、自室の机に向かっていた。
目の前には、将棋盤。
そして、今日の対局の棋譜。
「…………」
天衣は、じっと盤面を見つめていた。
「……ここで……」
駒を動かす。
パチンッ。
「……こうしておけば……」
さらに一手。
「…………」
しばらく考える。
そして。
「……っ!」
悔しそうに唇を噛んだ。
「……やっぱり、駄目じゃない!」
盤面を見つめる。
何度並べ直しても、角晴の読みは深かった。
自分が考えていた攻め。
それを、すべて見透かされていたようだった。
「……何なのよ、あいつ」
小さく呟く。
三冠棋士。
将棋界の帝王。
そんな肩書きだけの人間ではなかった。
実際に指してみて、初めて分かった。
(……強い)
本当に、強い。
そして。
(……楽しそうだった)
難しい局面になるほど、嬉しそうに笑う。
普通なら、苦しいはずなのに。
それでも、楽しそうに考え続けていた。
「……変な人」
天衣は、小さく呟いた。
しかし。
その口元には、ほんの少しだけ笑みが浮かんでいた。
「……次は」
ゆっくりと駒を手に取る。
「……絶対、勝つんだから」
パチンッ。
静かな部屋に、駒音が響いた。
───
翌日。
関西将棋会館。
午後2時。
「……兄弟子!」
八一が、廊下を歩いていた角晴を見つけた。
「……八一!」
角晴は笑顔で手を振った。
「お疲れ様!」
「お疲れ様です!」
八一は頭を下げる。
その隣には、あいが立っていた。
「猿飛三冠!」
「こんにちは、あいちゃん!」
「こんにちは!」
あいは元気よく頭を下げた。
角晴は嬉しそうに笑った。
「2人とも、今日も将棋?」
「はい!」
八一が頷く。
「今日はあいの勉強を見ていたんです」
「……おっ!」
角晴は目を輝かせた。
「いいね!」
「えへへ!」
あいは嬉しそうに笑った。
そのとき。
八一が、少しだけ首を傾げた。
「……そういえば、兄弟子」
「ん?」
「昨日、神戸に行ってたって聞いたんですけど」
「……ああ!」
角晴は頷いた。
「うん! ちょっと将棋を指しに行ってた!」
「……将棋?」
「うん!」
角晴は笑った。
「月光会長から頼まれてね!」
八一は、少しだけ驚いた。
「……会長から?」
「そう!」
角晴は頷いた。
「9歳の女の子の将棋を見てほしいって!」
「……9歳?」
八一は、目を丸くした。
その隣で。
「……女の子?」
あいが、少しだけ首を傾げた。
角晴は、楽しそうに続ける。
「うん! 天衣ちゃんっていう子!」
「……あい?」
あいが、驚いたように声を上げた。
「わたしと同じ名前ですか!?」
「そうなんだよ!」
角晴は笑った。
「漢字は違うけどね!」
「……へぇぇ!」
あいは、目を輝かせた。
「すごい偶然ですね!」
「でしょ!」
八一は、そんな2人を見て苦笑した。
「……それで、どうだったんですか?」
「……ん?」
「その子の将棋です」
角晴は、少しだけ考えた。
そして。
「……すっごく面白かった!」
満面の笑みで答えた。
八一は、思わず苦笑した。
(……やっぱり)
兄弟子らしい答えだった。
「……強かったんですか?」
「うん!」
角晴は頷いた。
「結構強いと思う!」
そして、楽しそうに続ける。
「特に、勝負どころの感覚がよかったかな!」
「……なるほど」
八一は、少しだけ考え込んだ。
(……9歳で、兄弟子にそこまで言わせるのか)
それは、なかなか珍しいことだった。
角晴は、誰の将棋でも楽しそうに見る。
しかし、実力についての評価は意外と正確だ。
強いところは褒める。
足りないところは、きちんと指摘する。
そんな彼が、面白いと言っている。
(……どんな子なんだろう)
八一は、少しだけ興味を持った。
「……兄弟子」
「ん?」
「その子、弟子にするんですか?」
角晴は、目を丸くした。
「……えっ?」
そして。
「あはは!」
楽しそうに笑った。
「まだ、そんなこと考えてないよ!」
「……そうなんですか?」
「うん!」
角晴は頷いた。
「昨日、初めて会ったばっかりだしね!」
八一は、納得したように頷いた。
「……確かに」
自分も、あいを正式な弟子にするまでには、いろいろなことがあった。
ただ将棋が強いから。
才能があるから。
それだけで、弟子を取るわけにはいかない。
師匠になるということは、その子の将来に責任を持つということなのだから。
「……でも」
角晴が、楽しそうに続けた。
「また指したいとは思ってるよ!」
八一は、少しだけ笑った。
「……兄弟子らしいですね」
「……そう?」
「はい」
八一は頷いた。
「……将棋が好きなんだなって」
その言葉に、角晴は満面の笑みを浮かべた。
「……もちろん!」
そして。
「大好きだよ!」
迷いのない返事だった。
───
その日の夜。
清滝家。
「……なるほどなぁ」
清滝鋼介は、角晴の話を聞いて腕を組んだ。
「夜叉神家の娘さんか」
「うん!」
角晴は頷いた。
「すっごく面白い将棋を指す子だったよ!」
その隣には、桂香が座っていた。
「へぇ! 角晴がそんなに褒めるなんて、珍しいね」
「あはは!」
角晴は笑った。
「だって、本当に面白かったんだもん!」
桂香も、小さく笑った。
「ふふっ。そうなんだ」
すると。
「……で?」
銀子が、静かに口を開いた。
「……ん?」
角晴が顔を向ける。
銀子は、少しだけ眉を寄せた。
「……あんた、その子をどうするつもり?」
「……どうする?」
角晴は首を傾げた。
「……弟子にするの?」
その言葉に、角晴は目を丸くした。
そして。
「……ううん!」
すぐに首を振った。
「まだ考えてないよ!」
「……そう」
銀子は、小さく頷いた。
「……ただ、将棋を見に行っただけ?」
「うん!」
角晴は笑った。
「月光会長から頼まれたからね!」
銀子は、少しだけ目を細めた。
「……ふぅん」
清滝が、小さく笑った。
「まあ、ええんちゃうか」
角晴が顔を向ける。
「……おじさん?」
清滝は頷いた。
「弟子を取るいうんは、簡単なことやない」
「……うん」
「ましてや、角晴はまだ15歳や」
清滝は、真剣な表情で続ける。
「三冠いう立場もある。自分の将棋で精一杯なこともあるやろ」
角晴は、静かに頷いた。
「……そうだね」
「せやけど」
清滝は、少しだけ笑った。
「その子の将棋が気になるんなら、また指してみたらええ」
角晴は、目を輝かせた。
「……うん!」
清滝は、穏やかに頷いた。
「それでええんや」
桂香も笑った。
「角晴らしいと思うよ」
「……えへへ!」
角晴は、少し照れたように笑った。
その様子を、銀子は静かに見つめていた。
(……本当に)
昔から、変わらない。
強い相手を見つければ、嬉しそうにする。
面白い将棋を見れば、目を輝かせる。
そして。
自分より年下の子供の将棋でも、真剣に向き合う。
(……そういうところ)
銀子は、小さく息を吐いた。
(……好きなのよね)
しかし。
そんなことを口にするつもりは、もちろんない。
「……角晴」
「ん?」
「……今度、私とも指しなさいよ」
角晴は、目を輝かせた。
「……いいの!?」
「……何よ、その反応」
銀子は、少しだけ眉を寄せた。
「……嫌なの?」
「そんなわけないじゃん!」
角晴は、嬉しそうに笑った。
「すっごく楽しみ!」
「…………」
銀子は、少しだけ視線を逸らした。
「……そう」
そして。
「……バカ」
小さく呟く。
「ええっ!?」
角晴は、驚いたように声を上げた。
「何で!?」
桂香は、そんな2人を見て楽しそうに笑っていた。
清滝も、小さく笑う。
いつもと変わらない清滝家の夜。
しかし。
角晴の周囲では、少しずつ新しい出会いが生まれ始めていた。
───
数日後。
神戸。
夜叉神家。
「……お嬢様」
晶が、自室の扉をノックした。
「……何よ」
中から、不機嫌そうな声が返ってくる。
「猿飛三冠から、ご連絡がありました」
「…………っ!」
部屋の中で、何かが動く音がした。
そして。
「……何ですって?」
天衣の声が、少しだけ高くなる。
晶は、静かに答えた。
「来週、お時間があれば再び将棋を指したいとのことです」
「…………」
しばらく、沈黙が流れた。
そして。
「……ふぅん」
天衣が、小さく呟いた。
「……そう」
晶は、扉の向こうへ声をかける。
「いかがなさいますか?」
「…………」
少しだけ間が空く。
そして。
「……いいわよ」
天衣が答えた。
「……来たいなら、来ればいいじゃない」
晶は、ほんの少しだけ微笑んだ。
「かしこまりました」
すると。
「……でも!」
天衣が、少しだけ大きな声を上げた。
「……はい?」
「……次は、絶対勝つって伝えておいて!」
その言葉に、晶は静かに頷いた。
「承知いたしました」
そして、部屋を離れていく。
扉の向こう。
天衣は、将棋盤の前に座っていた。
目の前には、数日前の対局の棋譜。
「…………」
小さく息を吐く。
「……次は」
駒を手に取る。
パチンッ。
「……絶対、負けないんだから」
その瞳には、確かな闘志が宿っていた。
───
一方。
大阪。
角晴のマンション。
ピロンッ。
スマートフォンが鳴った。
「……ん?」
研究室で将棋盤を見つめていた角晴は、画面を確認した。
送り主は池田晶。
『天衣お嬢様より、来週の対局をお受けするとのお返事をいただきました』
『次は絶対に勝つ、とおっしゃっております』
「……ふふっ」
角晴は、嬉しそうに笑った。
「……そっか!」
そして、返信する。
『ありがとうございます!』
『俺も楽しみにしてます!』
送信する。
それから、再び将棋盤へ視線を戻した。
「……さて」
目の前には、研究中の相掛かりの局面。
複雑な駒の配置。
難解な変化。
そして、まだ見えていない可能性。
角晴は、楽しそうに笑った。
「……ふふっ!」
駒を手に取る。
パチンッ。
「……やっぱり、将棋って面白いなぁ!」
その言葉は、誰に聞かせるでもなく、自然と零れたものだった。
猿飛角晴。
15歳。
将棋界の帝王。
3つのタイトルを保持する天才棋士。
そんな彼が、新しく出会った少女。
夜叉神天衣。
9歳。
勝ち気で、負けず嫌い。
そして、確かな才能を秘めた少女。
2人は、まだ師匠と弟子ではない。
ただ、将棋盤を挟んで出会っただけ。
しかし。
その出会いは、確かに新しい物語の始まりだった。
やがて。
2人の間に、どのような関係が生まれるのか。
それは、まだ誰にも分からない。
ただ1つ。
確かなことがある。
角晴も。
天衣も。
今は、次の対局を楽しみにしていた。