帝王のおしごと!   作:コバハト

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第6話 もう1人のあい

3月。

 

春休みも終わりに近づいた大阪。

 

午前9時。

 

九頭竜八一のマンションでは、今日も朝から元気な声が響いていた。

 

「ししょー! 朝ご飯ができました!」

 

「はーい! 今行くよ!」

 

八一は研究室から顔を出し、キッチンに立っている少女へ笑いかけた。

 

雛鶴あい。

 

9歳。

 

先日、研修会の入会試験を経て、正式に八一の弟子となった少女である。

 

その日以来、八一の生活はさらに賑やかになっていた。

 

「今日は鮭と卵焼きです!」

 

「おお、美味しそう!」

 

「えへへ! いっぱい食べてくださいね!」

 

テーブルに並べられた朝食を見て、八一は素直に感心した。

 

まだ9歳だというのに、あいの料理の腕前はなかなかのものだった。

 

実家が旅館を営んでいるだけあって、家事全般にも慣れている。

 

もっとも、八一としては、あまり家事を任せすぎるのもよくないと考えていた。

 

「いただきます!」

 

「いただきます!」

 

2人で手を合わせ、朝食を食べ始める。

 

「……うん、美味しい!」

 

「本当ですか!?」

 

「うん! ありがとう、あい」

 

「……えへへ!」

 

名前を呼ばれたあいは、嬉しそうに頬を緩めた。

 

正式な弟子になる前、八一は彼女を『あいちゃん』と呼んでいた。

 

しかし、今は違う。

 

『あい』。

 

師匠と弟子。

 

その関係を意識して、呼び方を変えたのだ。

 

あい自身も、その変化をとても喜んでいた。

 

「ししょー! 今日も将棋を教えてください!」

 

「もちろん。でも、まずは昨日の宿題を確認しようか」

 

「はい!」

 

あいは、満面の笑みで頷いた。

 

昨日、八一が出したのは中盤の次の一手を考える問題だった。

 

詰将棋ならば驚くほどの速さで正解へ辿り着くあいだが、実戦の中盤はまだ苦手としている。

 

それでも、本人はどこまでも意欲的だった。

 

「昨日の問題、全部考えてきました!」

 

「おっ、本当?」

 

「はい!」

 

「じゃあ、ご飯を食べたら見せてね」

 

「分かりました!」

 

そんなあいを見て、八一は小さく笑った。

 

弟子を持つ。

 

ほんの少し前までは、考えたこともなかった。

 

自分自身、まだ16歳。

 

竜王というタイトルは持っているものの、棋士として学ぶべきことは山ほどある。

 

それなのに、今は自分を『ししょー』と呼んでくれる子がいる。

 

その事実が、少しくすぐったかった。

 

(……頑張らないとな)

 

八一は、目の前で嬉しそうに朝食を食べるあいを見つめた。

 

自分がこの子の未来を預かると決めたのだ。

 

中途半端な気持ちではいられない。

 

「……ししょー?」

 

「ん?」

 

「どうしたんですか?」

 

「いや、何でもないよ」

 

八一は笑った。

 

「今日も一緒に頑張ろうね、あい」

 

「はいっ!」

 

少女の元気な返事が、朝の部屋に響いた。

 

───

 

同じ頃。

 

大阪市内のマンション。

 

「……んん〜!」

 

猿飛角晴は、ベッドの上で大きく伸びをした。

 

時計の針は午前9時30分を指している。

 

普段より少し早い起床だった。

 

「……まだ眠い」

 

ぼんやりと呟く。

 

寝癖のついた濃紺の髪を掻きながら、ゆっくりと上体を起こした。

 

15歳。

 

九段。

 

帝位、叡王、棋帝の三冠を保持する少年棋士。

 

『将棋界の帝王』。

 

世間では、そんな異名で呼ばれている。

 

しかし、自宅にいる彼は、どこにでもいそうな少し寝起きの悪い少年だった。

 

「……あれ?」

 

ベッドサイドに置いていたスマートフォンが震えている。

 

手に取って画面を確認すると、着信が入っていた。

 

「……月光会長?」

 

表示されていた名前を見て、角晴は少しだけ目を丸くした。

 

将棋連盟会長。

 

月光聖市。

 

将棋界を代表する大棋士の1人だった。

 

「……もしもし?」

 

『おはよう、猿飛君』

 

「おはようございます!」

 

『……今、起きたところかな?』

 

「……あはは」

 

角晴は困ったように笑った。

 

「分かります?」

 

『声で何となくね』

 

電話の向こうから、穏やかな笑い声が聞こえた。

 

角晴は、ベッドから立ち上がった。

 

「それで、どうしたんですか?」

 

『少し、君に頼みたいことがあってね』

 

「……頼みたいこと?」

 

『ああ。今日、会館に来る予定はあるかな?』

 

角晴は少しだけ考えた。

 

今日は公式戦がない。

 

午前中は自宅で研究し、午後から将棋会館へ向かうつもりだった。

 

「午後から行こうと思ってます!」

 

『それなら、会館に来たときに少し時間をもらえるかな』

 

「もちろんです!」

 

『ありがとう。では、待っているよ』

 

「はい!」

 

通話が終了した。

 

角晴は、しばらく画面を見つめた。

 

「……何だろう?」

 

会長から直接頼み事をされることは、珍しくない。

 

イベントへの参加。

 

若手棋士との研究会。

 

将棋の普及活動。

 

そういった仕事を依頼されることもあった。

 

しかし、今日の電話は少し違う気がした。

 

「……ま、行けば分かるか!」

 

角晴は笑った。

 

そして、洗面所へ向かう。

 

「……その前に朝ご飯!」

 

今日も、彼の1日が始まった。

 

───

 

午後1時。

 

関西将棋会館。

 

「こんにちはー!」

 

角晴が館内へ入ると、受付の職員が顔を上げた。

 

「猿飛三冠、お疲れ様です」

 

「お疲れ様です!」

 

角晴は笑顔で挨拶した。

 

「月光会長、いらっしゃいますか?」

 

「はい。会長室にいらっしゃいますよ」

 

「ありがとうございます!」

 

軽く頭を下げ、廊下を進む。

 

途中、何人かの棋士とすれ違った。

 

「おっ、猿飛三冠」

 

「こんにちは!」

 

「この前の対局、見たで。相変わらず面白い将棋指すなぁ」

 

「あはは! ありがとうございます!」

 

角晴は嬉しそうに笑った。

 

将棋の話をするのが好きな彼にとって、会館は居心地のよい場所だった。

 

幼い頃から通い慣れている。

 

清滝鋼介に弟子入りして以来、数え切れないほどの大人たちと将棋を指し、感想戦を重ねてきた。

 

今では自分が年上の棋士から意見を求められることもある。

 

それでも。

 

将棋盤を挟めば、年齢や肩書きは関係ない。

 

強い人と指す。

 

知らない手に出会う。

 

それが何より楽しかった。

 

やがて会長室の前に到着する。

 

コンコン。

 

「失礼します!」

 

『どうぞ』

 

扉を開けると、月光聖市が穏やかな表情で迎えてくれた。

 

「よく来てくれたね、猿飛君」

 

「こんにちは、会長!」

 

「どうぞ、座ってください」

 

「はい!」

 

角晴は勧められた椅子へ腰を下ろした。

 

月光は、机の上に置かれた書類へ目を落とす。

 

「早速だけれど、頼み事について話そうか」

 

「はい!」

 

「ある少女の将棋を見てもらいたいんだ」

 

「……女の子?」

 

角晴は首を傾げた。

 

「うん。9歳の女の子だよ」

 

「……へぇ!」

 

角晴の表情が明るくなる。

 

「将棋が好きな子なんですね!」

 

「そうだね。なかなかの腕前だと聞いている」

 

「……おお!」

 

月光は、そんな角晴を見て微笑んだ。

 

「君は本当に将棋が好きだね」

 

「あはは! 大好きですから!」

 

迷いのない返事だった。

 

月光は頷き、書類の1枚を差し出す。

 

「名前は、夜叉神天衣」

 

「……やしゃじん、あい?」

 

「そう。神戸に住んでいる少女だ」

 

角晴は、少しだけ考えた。

 

「……あいちゃん?」

 

思い浮かんだのは、八一の弟子となった雛鶴あい。

 

「……八一の弟子も、あいちゃんですよね!」

 

「そうだったね」

 

月光は小さく笑った。

 

「漢字は違うけれど、同じ名前だ」

 

「へぇ! 偶然ですね!」

 

角晴は嬉しそうに笑った。

 

「それで、その子と将棋を指せばいいんですか?」

 

「まずは、実力を確かめてほしい」

 

「……実力?」

 

「そう。本人はかなり自信があるようでね。指導する棋士にも条件を出している」

 

「……条件?」

 

角晴が目を丸くする。

 

月光は穏やかに答えた。

 

「A級棋士か、タイトルホルダーでなければ嫌だそうだ」

 

「……へぇ!」

 

角晴は、感心したように声を上げた。

 

「すごい条件ですね!」

 

「ははは。そうだね」

 

「でも、強い人と指したい気持ちは分かります!」

 

角晴は笑った。

 

「俺も小さい頃、強い人といっぱい指したかったですから!」

 

月光は、少しだけ目を細めた。

 

「……君は、その頃から変わらないね」

 

「そうですか?」

 

「うん。将棋に対する姿勢は、昔から同じだよ」

 

角晴は、少し照れたように笑った。

 

「……えへへ」

 

そして、改めて書類へ視線を戻す。

 

「……それで、俺に依頼が来たんですね」

 

「ああ。ぜひ、君に見てもらいたいと思ってね」

 

「分かりました!」

 

角晴は、すぐに頷いた。

 

「どんな将棋を指すのか楽しみです!」

 

月光は、穏やかに微笑んだ。

 

「ありがとう」

 

そして、机の上に置かれた別の書類を差し出す。

 

「訪問先の住所と、先方の連絡先だよ」

 

角晴は受け取った。

 

「……神戸かぁ」

 

大阪からそれほど遠くない。

 

電車で向かうこともできる。

 

「明日、行っても大丈夫ですか?」

 

「先方には確認しておこう」

 

「ありがとうございます!」

 

角晴は頭を下げた。

 

そのとき、月光が付け加えた。

 

「……ただし、猿飛君」

 

「……はい?」

 

「君にお願いしたいのは、あくまで少女の棋力を見ることだ」

 

角晴は、きょとんとした。

 

月光は続ける。

 

「最初から弟子に取ってほしいと言っているわけではないからね」

 

「……ああ!」

 

角晴は納得したように頷いた。

 

「大丈夫です!」

 

そして、笑顔で続ける。

 

「俺、今すぐ弟子が欲しいわけじゃないですから!」

 

月光は、少しだけ笑った。

 

「そうだろうね」

 

「でも、将棋は指してみたいです!」

 

「うん。それで十分だよ」

 

こうして。

 

角晴は、夜叉神天衣という少女と出会うことになった。

 

───

 

翌日。

 

午前11時。

 

兵庫県神戸市。

 

閑静な住宅街の一角に、ひときわ大きな屋敷が建っていた。

 

高い塀。

 

立派な門。

 

そして、広い敷地。

 

「……おおっ!」

 

門の前に立った角晴は、思わず声を上げた。

 

「……すっごい家!」

 

想像していた以上の豪邸だった。

 

「……ここで合ってるよね?」

 

スマートフォンで住所を確認する。

 

間違いない。

 

夜叉神家。

 

今回の訪問先だった。

 

「……よし!」

 

角晴はインターホンを押した。

 

『……はい』

 

女性の声が聞こえる。

 

「あっ! こんにちは!」

 

角晴は元気よく挨拶した。

 

「猿飛角晴です! 月光会長からお話があったと思うんですけど!」

 

『……猿飛三冠ですね』

 

「はい!」

 

『お待ちしておりました。少々お待ちください』

 

「ありがとうございます!」

 

しばらくして、立派な門が開いた。

 

そこから姿を現したのは、黒いスーツ姿の女性だった。

 

長い黒髪。

 

整った顔立ち。

 

そして、隙のない立ち姿。

 

「お待たせいたしました」

 

女性は丁寧に頭を下げた。

 

「池田晶と申します」

 

「初めまして!」

 

角晴も頭を下げる。

 

「猿飛角晴です!」

 

「存じ上げております。こちらへどうぞ」

 

「はい!」

 

角晴は晶の後について歩き始めた。

 

「……あの」

 

「はい?」

 

「池田さんは、天衣ちゃんのお家の人ですか?」

 

晶は、少しだけ顔を向けた。

 

「私は天衣お嬢様の付き人兼護衛を務めております」

 

「……護衛!?」

 

角晴は目を丸くした。

 

「すごいですね!」

 

「……ありがとうございます」

 

晶は丁寧に答えた。

 

しかし、その表情はほとんど変わらなかった。

 

「……お仕事、大変そうですね」

 

「いえ。私の務めですので」

 

「……そっか!」

 

角晴は笑った。

 

「頑張ってください!」

 

「……ありがとうございます」

 

晶は、ほんの少しだけ目を細めた。

 

将棋界の帝王。

 

15歳にして三冠を保持する天才棋士。

 

そんな人物が、ここまで気さくな少年だとは思っていなかった。

 

(……随分と、普通の少年のような方ですね)

 

ただし。

 

この少年が盤上ではまったく違う顔を見せることを、晶も知っていた。

 

そして。

 

今日、その将棋を天衣が目の当たりにすることになる。

 

───

 

広い廊下を進み、客間へ案内された。

 

そこには、1人の老人が座っていた。

 

鋭い目つき。

 

年齢を感じさせない堂々とした姿勢。

 

そして、普通の老人とは明らかに異なる迫力。

 

夜叉神弘天。

 

神戸で実業家として知られる、天衣の祖父だった。

 

「……おお」

 

弘天が顔を上げる。

 

「よう来てくれたな、猿飛三冠」

 

「初めまして!」

 

角晴は笑顔で頭を下げた。

 

「猿飛角晴です!」

 

「夜叉神弘天や。まあ、座ってくれ」

 

「ありがとうございます!」

 

角晴は勧められた席へ腰を下ろした。

 

弘天は、しばらく彼を見つめていた。

 

「……まだ15歳やったな」

 

「はい!」

 

「若いなぁ」

 

「あはは!」

 

角晴は笑った。

 

「よく言われます!」

 

弘天は、喉の奥で小さく笑った。

 

「しかし、三冠か」

 

「……はい」

 

「大したもんや」

 

「ありがとうございます!」

 

角晴は素直に頭を下げた。

 

弘天は、少しだけ感心したように目を細めた。

 

(……なるほど)

 

気取ったところがない。

 

大きな実績を持ちながら、自然体で人と接している。

 

弘天は、目の前の少年を静かに観察していた。

 

「……さて」

 

弘天が口を開いた。

 

「今日は孫の将棋を見てもらういう話やったな」

 

「はい!」

 

角晴は頷いた。

 

「月光会長から聞きました!」

 

「……そうか」

 

弘天は小さく息を吐いた。

 

「天衣は、少々気の強い娘でな」

 

「……そうなんですか?」

 

「まあ、会えば分かる」

 

その言葉に、角晴は少しだけ首を傾げた。

 

しかし、すぐに笑った。

 

「楽しみです!」

 

弘天は、その返事を聞いて小さく笑った。

 

「……そうか」

 

そして、晶へ視線を向ける。

 

「晶」

 

「はい」

 

「天衣を呼んできてくれ」

 

「かしこまりました」

 

晶は頭を下げ、部屋を出ていった。

 

───

 

数分後。

 

廊下から足音が聞こえてきた。

 

そして。

 

「……おじい様」

 

少し不機嫌そうな声。

 

扉が開く。

 

そこに立っていたのは、黒髪の少女だった。

 

整った顔立ち。

 

大きな瞳。

 

そして、どこか気品を感じさせる雰囲気。

 

夜叉神天衣。

 

9歳。

 

角晴が今日、将棋を指す相手だった。

 

「……天衣」

 

弘天が声をかける。

 

「こちらが、今日来てくださった猿飛三冠や」

 

天衣は、ゆっくりと角晴へ視線を向けた。

 

「…………」

 

そして。

 

「……ふぅん」

 

小さく呟いた。

 

角晴は笑顔で立ち上がる。

 

「初めまして!」

 

「…………」

 

「猿飛角晴です!」

 

天衣は、じっと角晴を見つめた。

 

そして。

 

「……あなたが?」

 

「うん!」

 

角晴は頷いた。

 

「よろしくね、天衣ちゃん!」

 

「…………」

 

天衣は、少しだけ眉を寄せた。

 

「……何で、いきなりちゃん付けなのよ」

 

「……えっ?」

 

角晴は目を丸くした。

 

「嫌だった?」

 

「……別に」

 

天衣は、そっぽを向いた。

 

「好きに呼べば?」

 

「……そっか!」

 

角晴は笑った。

 

「じゃあ、天衣ちゃん!」

 

「…………」

 

天衣は、わずかに頬を膨らませた。

 

(……何なの、この人)

 

三冠棋士。

 

将棋界の帝王。

 

そんな肩書きから、もっと威厳のある人物を想像していた。

 

しかし。

 

目の前にいるのは、どこにでもいそうな少年だった。

 

「……思ってたより普通なのね」

 

天衣が呟く。

 

角晴は、きょとんとした。

 

「……そう?」

 

「ええ」

 

天衣は腕を組んだ。

 

「もっと怖い人かと思ってたわ」

 

「あはは!」

 

角晴は楽しそうに笑った。

 

「俺、そんなに怖くないよ!」

 

「……見れば分かるわよ」

 

天衣は、呆れたようにため息をついた。

 

弘天は、そんな2人を見て小さく笑った。

 

「……まあまあ」

 

そして、角晴へ顔を向ける。

 

「早速やが、将棋を見てもらえるか?」

 

「もちろんです!」

 

角晴は笑顔で頷いた。

 

天衣も、真剣な表情になった。

 

「……いいわ」

 

そして、角晴を見つめる。

 

「でも、手加減なんてしないでよね」

 

角晴は、少しだけ目を丸くした。

 

そして。

 

「……うん!」

 

嬉しそうに笑った。

 

「俺も、しっかり指すよ!」

 

───

 

将棋盤が用意された。

 

立派な盤だった。

 

木目の美しい盤面。

 

丁寧に磨かれた駒。

 

角晴は、思わず目を輝かせた。

 

「……おおっ!」

 

「……何よ」

 

天衣が眉を寄せる。

 

角晴は、将棋盤を見つめながら答えた。

 

「すっごくいい盤だね!」

 

「……当然でしょ」

 

天衣は、少しだけ得意そうに言った。

 

「おじい様が用意してくださったんだから」

 

「……そっか!」

 

角晴は笑った。

 

「大切に使わなきゃね!」

 

「……言われなくても分かってるわよ」

 

天衣は、少しだけ視線を逸らした。

 

晶が、対局用の座布団を整える。

 

「猿飛三冠、こちらへどうぞ」

 

「ありがとうございます!」

 

角晴は座布団へ腰を下ろした。

 

向かいには天衣。

 

弘天は少し離れた場所から、2人を見守っている。

 

「……それで」

 

角晴が口を開いた。

 

「今日は4枚落ちでいいかな?」

 

「……4枚落ち?」

 

天衣が、少しだけ眉を寄せた。

 

4枚落ち。

 

上手が飛車、角、そして左右の香車を落とす駒落ち将棋。

 

大きなハンデだった。

 

「……私を馬鹿にしてるの?」

 

天衣が、低い声で言った。

 

角晴は目を丸くした。

 

「……えっ?」

 

「4枚も駒を落とすなんて」

 

天衣は腕を組んだ。

 

「そんなに私が弱いと思ってるわけ?」

 

角晴は、少しだけ考えた。

 

そして。

 

「……まだ分からないかな!」

 

「…………は?」

 

「だって、天衣ちゃんの将棋、まだ見たことないもん!」

 

「…………」

 

天衣は、言葉に詰まった。

 

角晴は、にっこりと笑う。

 

「まずは4枚落ちで指してみて、それから考えようよ!」

 

「……っ」

 

天衣は、少しだけ眉を寄せた。

 

(……何なのよ)

 

普通なら。

 

自分の実力を見下されたと思うところだった。

 

しかし、この少年には、そんな様子がまったくない。

 

本当に、まだ分からないと思っているだけなのだ。

 

「……いいわ」

 

天衣は、静かに頷いた。

 

「その代わり」

 

角晴を睨む。

 

「……負けても知らないわよ」

 

角晴は、嬉しそうに笑った。

 

「……うん!」

 

「…………」

 

天衣は、ますます不機嫌そうな顔になった。

 

(……調子狂うわね)

 

───

 

「よろしくお願いします」

 

角晴が頭を下げる。

 

「……よろしくお願いします」

 

天衣も頭を下げた。

 

4枚落ち。

 

上手、猿飛角晴。

 

下手、夜叉神天衣。

 

駒を落とした角晴が、最初の一手を指す。

 

パチンッ。

 

静かな部屋に、駒音が響いた。

 

天衣も駒を進める。

 

パチンッ。

 

序盤。

 

天衣は、落ち着いた手つきで駒を組んでいった。

 

(……ふぅん)

 

角晴は、盤面を見つめた。

 

(……なるほど)

 

指し手に迷いが少ない。

 

ただ暗記した定跡をなぞっているわけではない。

 

駒の働き。

 

相手の狙い。

 

そして、自分の攻め。

 

それらを考えながら指している。

 

(……面白いね)

 

角晴は、ほんの少しだけ笑った。

 

一方の天衣は、角晴の表情をちらりと見ていた。

 

(……笑ってる?)

 

まだ序盤。

 

どちらが有利とも言えない。

 

それなのに、角晴は楽しそうだった。

 

(……変な人)

 

天衣は、小さく眉を寄せた。

 

しかし、すぐに盤面へ意識を戻す。

 

今は、目の前の相手を倒すことだけを考えればいい。

 

(……絶対、勝ってやるんだから)

 

パチンッ。

 

天衣は、力強く駒を進めた。

 

───

 

対局が進むにつれ、部屋の空気は少しずつ変わっていった。

 

天衣の攻めは鋭かった。

 

4枚落ち。

 

飛車と角、そして香車2枚を失った角晴の陣形は、当然ながら攻撃力に乏しい。

 

しかし、角晴は無理に攻めようとはしなかった。

 

駒の働きを整える。

 

相手の狙いを読む。

 

そして、少しずつ局面を複雑にしていく。

 

「…………」

 

天衣は、盤面を見つめていた。

 

(……何よ、これ)

 

自分の方が駒得している。

 

当然だ。

 

最初から4枚も多いのだから。

 

それなのに。

 

(……攻めにくい)

 

何となく、思いどおりにならない。

 

攻めようとすると、先回りされる。

 

駒を動かそうとすると、別の場所に弱点が生まれる。

 

(……っ)

 

天衣は、唇を噛み締めた。

 

(……こんなはずじゃ)

 

しかし、角晴は相変わらず穏やかな表情だった。

 

「……ふふっ」

 

小さく笑う。

 

その声に、天衣が顔を上げた。

 

「……何よ」

 

「……ん?」

 

「……何で笑ってるの?」

 

角晴は、少しだけ考えた。

 

そして。

 

「……面白いから!」

 

「…………は?」

 

天衣は、目を丸くした。

 

角晴は、楽しそうに続ける。

 

「天衣ちゃん、結構思い切った手を指すね!」

 

「…………」

 

「すっごくいいと思う!」

 

その言葉に、天衣は少しだけ頬を赤くした。

 

「……当然でしょ!」

 

そして、すぐに顔を背ける。

 

「……私を誰だと思ってるのよ」

 

角晴は、笑顔で答えた。

 

「夜叉神天衣ちゃん!」

 

「……そういうことじゃないわよ!」

 

思わず声を荒げる。

 

弘天は、少し離れたところで楽しそうに笑っていた。

 

「……ははは!」

 

晶は、そんな2人を静かに見守っていた。

 

(……珍しいですね)

 

天衣が、ここまで感情を表に出しながら将棋を指している。

 

普段は、もっと冷静な少女だ。

 

しかし。

 

今日の相手は、どうにも調子が狂うらしい。

 

それでも。

 

天衣の目は、盤面から離れなかった。

 

───

 

中盤。

 

「……っ!」

 

天衣の表情が変わった。

 

(……この手……!)

 

角晴が指した一手。

 

それは、天衣の予想とは少し違うものだった。

 

一見すると、普通の受け。

 

しかし。

 

数手先を読むと、その意味が分かってくる。

 

(……これ、嫌な手ね)

 

天衣は、じっと盤面を見つめた。

 

攻めようと思えば、攻められる。

 

しかし、単純に踏み込むと、角晴の反撃を許してしまう。

 

(……どうする)

 

天衣は考えた。

 

そして。

 

パチンッ。

 

銀を前へ進めた。

 

角晴の目が、少しだけ輝いた。

 

(……おっ)

 

(……そう来たか!)

 

天衣の一手。

 

それは、角晴が予想していた手の1つだった。

 

しかし。

 

単なる攻めではない。

 

自陣の弱点を補いながら、次の攻撃を準備する一手。

 

(……なるほど)

 

角晴は、嬉しそうに笑った。

 

「……ふふっ!」

 

「……また笑ってる」

 

天衣が呟く。

 

角晴は、駒を手に取った。

 

「……だって」

 

パチンッ。

 

一手を指す。

 

「……面白いんだもん!」

 

「……っ!」

 

天衣の目が細くなった。

 

(……なら)

 

天衣も駒を進める。

 

パチンッ。

 

(……もっと面白くしてあげるわよ!)

 

その一手を見て、角晴の笑みが少しだけ深くなった。

 

(……いいね!)

 

2人の将棋は、徐々に激しさを増していった。

 

───

 

対局を見守っていた弘天は、静かに目を細めていた。

 

「……ほぉ」

 

思わず声が漏れる。

 

天衣は、普段から負けず嫌いな少女だった。

 

自分が正しいと思えば、簡単には譲らない。

 

将棋でも同じだ。

 

負けそうになると悔しがる。

 

勝てば、嬉しそうに笑う。

 

しかし、今日の天衣は少し違っていた。

 

「…………」

 

真剣な表情。

 

盤面を見つめる瞳。

 

そして、時折見せる驚き。

 

それらは、今までとは少し違うものだった。

 

(……楽しそうやな)

 

弘天は、心の中で呟いた。

 

少し離れた場所に立つ晶も、同じことを感じていた。

 

「……お嬢様」

 

小さく呟く。

 

天衣は、目の前の将棋に夢中になっていた。

 

相手が三冠棋士だから、というだけではない。

 

今、指している将棋そのものが、彼女を惹き付けているのだ。

 

───

 

終盤。

 

天衣は、じっと盤面を見つめていた。

 

(……あと少し)

 

角晴の玉。

 

そこへ迫るための攻め筋を、何度も読んでいた。

 

駒は十分にある。

 

攻める手段もある。

 

しかし。

 

(……届かない……?)

 

角晴の玉は、思っていた以上に捕まえにくかった。

 

(……何でよ)

 

天衣は、少しだけ唇を噛んだ。

 

4枚落ち。

 

圧倒的に有利な条件のはずだった。

 

それなのに。

 

今、自分は必死に読み続けている。

 

そして。

 

「……ふふっ」

 

角晴が、小さく笑った。

 

天衣は、思わず顔を上げる。

 

「……何よ」

 

角晴は、盤面を見つめたまま答えた。

 

「……難しいね!」

 

「…………」

 

「この局面、すっごく面白い!」

 

その声には、心からの楽しさが込められていた。

 

天衣は、しばらく角晴を見つめていた。

 

(……何なのよ)

 

普通なら。

 

この局面で笑えるはずがない。

 

4枚も駒を落としている。

 

少しでも間違えれば、すぐに負ける。

 

それなのに。

 

(……この人)

 

楽しそうに笑っている。

 

(……変な人)

 

そう思った。

 

しかし。

 

(……でも)

 

天衣は、再び盤面へ視線を戻した。

 

(……私だって)

 

小さく息を吸う。

 

(……負けたくない!)

 

そして。

 

パチンッ。

 

天衣は、勝負に出た。

 

───

 

角晴は、天衣の一手を見つめた。

 

「…………」

 

少しだけ、目を細める。

 

(……なるほど)

 

鋭い攻め。

 

思い切りがいい。

 

そして、何より。

 

勝負どころを見極める感覚がある。

 

(……ふふっ)

 

角晴は、小さく笑った。

 

(……この子、強くなるなぁ)

 

ただし。

 

今の天衣には、まだ足りないものがある。

 

局面全体を見る力。

 

受けの正確さ。

 

そして、相手が何を狙っているのかを最後まで考えること。

 

角晴は、静かに駒を手に取った。

 

パチンッ。

 

天衣の表情が変わった。

 

「……っ!?」

 

角晴の一手。

 

それは、天衣が読み切れていなかった受けだった。

 

攻めが止まる。

 

そして。

 

角晴の駒が、少しずつ前へ出始める。

 

(……嘘……)

 

天衣は、目を見開いた。

 

(……こんな手が……!)

 

一気に、局面が難しくなった。

 

いや。

 

正確には。

 

最初から難しかったのだ。

 

自分が、それに気付けていなかっただけ。

 

天衣は、拳を握り締めた。

 

(……まだよ)

 

諦めるつもりはなかった。

 

(……まだ、終わってない!)

 

そして、再び読み始めた。

 

───

 

対局は、さらに続いた。

 

しかし。

 

徐々に、角晴の読みが天衣を上回り始めた。

 

天衣が攻めれば、的確に受ける。

 

受けようとすれば、別の場所から圧力をかける。

 

そして、少しずつ。

 

確実に。

 

勝利へ近づいていく。

 

「…………」

 

天衣は、盤面を見つめていた。

 

(……何よ、これ)

 

悔しい。

 

本当に、悔しい。

 

4枚落ち。

 

相手は、飛車も角も香車もない。

 

それなのに。

 

(……勝てない……)

 

どれほど読んでも、角晴の指し手の方が深かった。

 

(……っ!)

 

天衣は、唇を噛み締めた。

 

そして。

 

パチンッ。

 

角晴が、最後の攻めへ踏み込んだ。

 

天衣の玉は、徐々に逃げ道を失っていく。

 

「…………」

 

何度も、何度も読む。

 

しかし。

 

(……ない)

 

勝ち筋が、見つからなかった。

 

やがて。

 

天衣は、ゆっくりと頭を下げた。

 

「……負けました」

 

小さな声だった。

 

角晴も、丁寧に頭を下げる。

 

「ありがとうございました!」

 

4枚落ち。

 

勝者。

 

猿飛角晴。

 

対局は、角晴の勝利に終わった。

 

───

 

「…………」

 

天衣は、しばらく盤面を見つめていた。

 

悔しい。

 

その感情が、胸の奥で渦巻いていた。

 

4枚も駒を落としてもらって。

 

それでも、勝てなかった。

 

「……っ」

 

小さく拳を握る。

 

角晴は、そんな天衣を見つめていた。

 

「……天衣ちゃん」

 

「……何よ」

 

少しだけ不機嫌そうな声。

 

角晴は、にっこりと笑った。

 

「……すっごく面白かった!」

 

「…………」

 

天衣は、目を丸くした。

 

「……は?」

 

「天衣ちゃん、いい将棋指すね!」

 

「…………」

 

「特に中盤の銀! あれ、すっごくよかった!」

 

角晴は、嬉しそうに盤面を示した。

 

「ここで、こういう狙いがあったでしょ?」

 

「……っ!」

 

天衣の表情が変わる。

 

自分が考えていた攻め筋。

 

角晴は、それを正確に理解していた。

 

「……分かってたの?」

 

「うん!」

 

角晴は笑った。

 

「いい手だったと思う!」

 

天衣は、少しだけ俯いた。

 

「……だったら、何で勝てなかったのよ」

 

小さな声だった。

 

角晴は、少しだけ考えた。

 

そして、静かに駒を並べ直した。

 

「……ここかな」

 

天衣が顔を上げる。

 

角晴は、ある局面を示した。

 

「天衣ちゃん、ここで攻めたでしょ?」

 

「……ええ」

 

「でも、ここは一度受けた方がよかったかも!」

 

「……受け?」

 

「うん!」

 

角晴は駒を動かした。

 

パチンッ。

 

「こう指しておくと、次の攻めがもっと厳しくなるんだ!」

 

「…………」

 

天衣は、盤面を見つめた。

 

そして。

 

「……あっ」

 

小さく声を上げた。

 

確かに。

 

その手を指していれば、局面は違っていたかもしれない。

 

「……なるほど」

 

天衣は、思わず呟いた。

 

角晴は、嬉しそうに笑った。

 

「……でしょ!」

 

そして、さらに駒を進める。

 

「でも、俺がこう指すと……」

 

「……だったら、こっちよ!」

 

天衣が、すぐに駒を動かした。

 

角晴の目が輝く。

 

「……おっ!」

 

「……何よ」

 

「……いいね!」

 

角晴は笑った。

 

「それも考えてた!」

 

「……っ!」

 

天衣は、少しだけ頬を膨らませた。

 

「……じゃあ、これは?」

 

パチンッ。

 

「……ふふっ!」

 

角晴も応じる。

 

パチンッ。

 

気付けば、2人は感想戦に夢中になっていた。

 

───

 

それから、しばらくして。

 

「……もう!」

 

天衣が、勢いよく顔を上げた。

 

「何なのよ、あなた!」

 

「……えっ?」

 

角晴は目を丸くした。

 

「……どうしたの?」

 

「……強すぎるのよ!」

 

その言葉に、角晴は少しだけ驚いた。

 

そして。

 

「あはは!」

 

楽しそうに笑った。

 

「ありがとう!」

 

「……褒めてないわよ!」

 

「ええっ!?」

 

角晴は困ったように笑った。

 

天衣は、ぷいっと顔を背けた。

 

しかし。

 

その頬には、ほんの少しだけ赤みが差していた。

 

(……悔しい)

 

負けたことが悔しい。

 

自分より遥かに強い相手がいることが悔しい。

 

でも。

 

(……また、指したい)

 

そんな気持ちも、確かにあった。

 

「……ねえ」

 

天衣が口を開いた。

 

「……ん?」

 

角晴が顔を向ける。

 

「……また、来るの?」

 

角晴は、少しだけ考えた。

 

「……うーん」

 

月光会長からの依頼は、まず天衣の棋力を見ること。

 

今日の対局で、その目的は果たした。

 

しかし。

 

角晴自身は、天衣の将棋をもっと見てみたいと思っていた。

 

「……また指したいね!」

 

笑顔で答える。

 

天衣は、少しだけ目を丸くした。

 

「……本当?」

 

「うん!」

 

角晴は頷いた。

 

「天衣ちゃんの将棋、面白いから!」

 

「…………」

 

天衣は、少しだけ視線を逸らした。

 

「……ふぅん」

 

そして。

 

「……まあ」

 

小さく呟く。

 

「……来たいなら、来てもいいわよ」

 

角晴は、嬉しそうに笑った。

 

「……やった!」

 

「……っ!」

 

天衣は、少しだけ頬を赤くした。

 

「……勘違いしないでよね!」

 

「……え?」

 

「……次は、絶対勝つんだから!」

 

その言葉に、角晴は目を輝かせた。

 

「……うん!」

 

そして、楽しそうに笑った。

 

「楽しみにしてる!」

 

───

 

対局を終えた天衣は、晶に案内されて自室へ戻っていった。

 

「……お嬢様」

 

「……何よ」

 

「お疲れ様でした」

 

「……別に」

 

天衣は、少しだけ不機嫌そうに答えた。

 

しかし。

 

その足取りは、どこか軽かった。

 

晶は、そんな天衣を見つめていた。

 

(……本当に、珍しいですね)

 

負けた直後だというのに。

 

悔しがりながらも、どこか楽しそうだった。

 

晶は、静かに微笑んだ。

 

───

 

客間。

 

「……猿飛三冠」

 

弘天が、角晴へ声をかけた。

 

「……はい!」

 

角晴が顔を上げる。

 

弘天は、静かに尋ねた。

 

「……どうやった?」

 

「……天衣ちゃんですか?」

 

「ああ」

 

角晴は、少しだけ考えた。

 

そして。

 

「……すっごく面白い将棋でした!」

 

笑顔で答えた。

 

弘天は、少しだけ目を細めた。

 

「……そうか」

 

「はい!」

 

角晴は続ける。

 

「特に、勝負どころで踏み込むのが上手ですね!」

 

「……ほぉ」

 

「でも、まだ少し攻め急ぐところがあるかなって」

 

角晴は、真剣な表情で続けた。

 

「受けの勉強をしたら、もっと強くなると思います!」

 

弘天は、静かに頷いた。

 

「……なるほどな」

 

そして、少しだけ考え込む。

 

「……猿飛三冠」

 

「……はい?」

 

「……天衣に、また将棋を教えてもらえるか?」

 

角晴は、少しだけ目を丸くした。

 

「……俺がですか?」

 

「ああ」

 

弘天は頷いた。

 

「今日の天衣、随分と楽しそうやった」

 

「……そうですか?」

 

「うん。あの子があそこまで夢中になって将棋を指すのは、久しぶりに見た気がする」

 

角晴は、少しだけ嬉しそうに笑った。

 

「……そっか!」

 

弘天は続ける。

 

「もちろん、忙しいのは分かっとる。無理を言うつもりはない」

 

「……あっ!」

 

角晴は、すぐに首を振った。

 

「大丈夫です!」

 

そして、笑顔で続ける。

 

「俺も、また天衣ちゃんと指したいですから!」

 

弘天は、少しだけ目を見開いた。

 

そして。

 

「……そうか」

 

静かに笑った。

 

「……ありがとう」

 

角晴も、嬉しそうに笑った。

 

「いえ!」

 

───

 

その日の夕方。

 

神戸から大阪へ戻る電車。

 

角晴は、窓際の席に座っていた。

 

「……ふぅ!」

 

大きく息を吐く。

 

「……楽しかった!」

 

今日の対局。

 

夜叉神天衣。

 

9歳の少女。

 

勝ち気で、少し生意気。

 

しかし。

 

将棋への情熱は、本物だった。

 

「……ふふっ」

 

角晴は、小さく笑った。

 

(……面白い子だったなぁ)

 

思い出すのは、天衣の指し手。

 

鋭い攻め。

 

思い切りのよさ。

 

そして、負けそうになっても諦めない姿勢。

 

(……強くなるだろうなぁ)

 

角晴は、スマートフォンを手に取った。

 

月光会長へ、簡単な報告を送る。

 

『今日はありがとうございました!』

 

『天衣ちゃん、すっごく面白い将棋を指す子でした!』

 

『また指してみたいです!』

 

送信する。

 

しばらくして。

 

返信が届いた。

 

『それはよかった。詳しい話は、また会館で聞かせてください』

 

角晴は、笑顔で返信した。

 

『はい!』

 

そして、スマートフォンをしまう。

 

「……さて」

 

窓の外へ視線を向ける。

 

夕暮れの街。

 

電車は、大阪へ向かって走っていた。

 

(……次は、どんな将棋になるかな)

 

角晴は、楽しそうに微笑んだ。

 

───

 

同じ頃。

 

夜叉神家。

 

天衣は、自室の机に向かっていた。

 

目の前には、将棋盤。

 

そして、今日の対局の棋譜。

 

「…………」

 

天衣は、じっと盤面を見つめていた。

 

「……ここで……」

 

駒を動かす。

 

パチンッ。

 

「……こうしておけば……」

 

さらに一手。

 

「…………」

 

しばらく考える。

 

そして。

 

「……っ!」

 

悔しそうに唇を噛んだ。

 

「……やっぱり、駄目じゃない!」

 

盤面を見つめる。

 

何度並べ直しても、角晴の読みは深かった。

 

自分が考えていた攻め。

 

それを、すべて見透かされていたようだった。

 

「……何なのよ、あいつ」

 

小さく呟く。

 

三冠棋士。

 

将棋界の帝王。

 

そんな肩書きだけの人間ではなかった。

 

実際に指してみて、初めて分かった。

 

(……強い)

 

本当に、強い。

 

そして。

 

(……楽しそうだった)

 

難しい局面になるほど、嬉しそうに笑う。

 

普通なら、苦しいはずなのに。

 

それでも、楽しそうに考え続けていた。

 

「……変な人」

 

天衣は、小さく呟いた。

 

しかし。

 

その口元には、ほんの少しだけ笑みが浮かんでいた。

 

「……次は」

 

ゆっくりと駒を手に取る。

 

「……絶対、勝つんだから」

 

パチンッ。

 

静かな部屋に、駒音が響いた。

 

───

 

翌日。

 

関西将棋会館。

 

午後2時。

 

「……兄弟子!」

 

八一が、廊下を歩いていた角晴を見つけた。

 

「……八一!」

 

角晴は笑顔で手を振った。

 

「お疲れ様!」

 

「お疲れ様です!」

 

八一は頭を下げる。

 

その隣には、あいが立っていた。

 

「猿飛三冠!」

 

「こんにちは、あいちゃん!」

 

「こんにちは!」

 

あいは元気よく頭を下げた。

 

角晴は嬉しそうに笑った。

 

「2人とも、今日も将棋?」

 

「はい!」

 

八一が頷く。

 

「今日はあいの勉強を見ていたんです」

 

「……おっ!」

 

角晴は目を輝かせた。

 

「いいね!」

 

「えへへ!」

 

あいは嬉しそうに笑った。

 

そのとき。

 

八一が、少しだけ首を傾げた。

 

「……そういえば、兄弟子」

 

「ん?」

 

「昨日、神戸に行ってたって聞いたんですけど」

 

「……ああ!」

 

角晴は頷いた。

 

「うん! ちょっと将棋を指しに行ってた!」

 

「……将棋?」

 

「うん!」

 

角晴は笑った。

 

「月光会長から頼まれてね!」

 

八一は、少しだけ驚いた。

 

「……会長から?」

 

「そう!」

 

角晴は頷いた。

 

「9歳の女の子の将棋を見てほしいって!」

 

「……9歳?」

 

八一は、目を丸くした。

 

その隣で。

 

「……女の子?」

 

あいが、少しだけ首を傾げた。

 

角晴は、楽しそうに続ける。

 

「うん! 天衣ちゃんっていう子!」

 

「……あい?」

 

あいが、驚いたように声を上げた。

 

「わたしと同じ名前ですか!?」

 

「そうなんだよ!」

 

角晴は笑った。

 

「漢字は違うけどね!」

 

「……へぇぇ!」

 

あいは、目を輝かせた。

 

「すごい偶然ですね!」

 

「でしょ!」

 

八一は、そんな2人を見て苦笑した。

 

「……それで、どうだったんですか?」

 

「……ん?」

 

「その子の将棋です」

 

角晴は、少しだけ考えた。

 

そして。

 

「……すっごく面白かった!」

 

満面の笑みで答えた。

 

八一は、思わず苦笑した。

 

(……やっぱり)

 

兄弟子らしい答えだった。

 

「……強かったんですか?」

 

「うん!」

 

角晴は頷いた。

 

「結構強いと思う!」

 

そして、楽しそうに続ける。

 

「特に、勝負どころの感覚がよかったかな!」

 

「……なるほど」

 

八一は、少しだけ考え込んだ。

 

(……9歳で、兄弟子にそこまで言わせるのか)

 

それは、なかなか珍しいことだった。

 

角晴は、誰の将棋でも楽しそうに見る。

 

しかし、実力についての評価は意外と正確だ。

 

強いところは褒める。

 

足りないところは、きちんと指摘する。

 

そんな彼が、面白いと言っている。

 

(……どんな子なんだろう)

 

八一は、少しだけ興味を持った。

 

「……兄弟子」

 

「ん?」

 

「その子、弟子にするんですか?」

 

角晴は、目を丸くした。

 

「……えっ?」

 

そして。

 

「あはは!」

 

楽しそうに笑った。

 

「まだ、そんなこと考えてないよ!」

 

「……そうなんですか?」

 

「うん!」

 

角晴は頷いた。

 

「昨日、初めて会ったばっかりだしね!」

 

八一は、納得したように頷いた。

 

「……確かに」

 

自分も、あいを正式な弟子にするまでには、いろいろなことがあった。

 

ただ将棋が強いから。

 

才能があるから。

 

それだけで、弟子を取るわけにはいかない。

 

師匠になるということは、その子の将来に責任を持つということなのだから。

 

「……でも」

 

角晴が、楽しそうに続けた。

 

「また指したいとは思ってるよ!」

 

八一は、少しだけ笑った。

 

「……兄弟子らしいですね」

 

「……そう?」

 

「はい」

 

八一は頷いた。

 

「……将棋が好きなんだなって」

 

その言葉に、角晴は満面の笑みを浮かべた。

 

「……もちろん!」

 

そして。

 

「大好きだよ!」

 

迷いのない返事だった。

 

───

 

その日の夜。

 

清滝家。

 

「……なるほどなぁ」

 

清滝鋼介は、角晴の話を聞いて腕を組んだ。

 

「夜叉神家の娘さんか」

 

「うん!」

 

角晴は頷いた。

 

「すっごく面白い将棋を指す子だったよ!」

 

その隣には、桂香が座っていた。

 

「へぇ! 角晴がそんなに褒めるなんて、珍しいね」

 

「あはは!」

 

角晴は笑った。

 

「だって、本当に面白かったんだもん!」

 

桂香も、小さく笑った。

 

「ふふっ。そうなんだ」

 

すると。

 

「……で?」

 

銀子が、静かに口を開いた。

 

「……ん?」

 

角晴が顔を向ける。

 

銀子は、少しだけ眉を寄せた。

 

「……あんた、その子をどうするつもり?」

 

「……どうする?」

 

角晴は首を傾げた。

 

「……弟子にするの?」

 

その言葉に、角晴は目を丸くした。

 

そして。

 

「……ううん!」

 

すぐに首を振った。

 

「まだ考えてないよ!」

 

「……そう」

 

銀子は、小さく頷いた。

 

「……ただ、将棋を見に行っただけ?」

 

「うん!」

 

角晴は笑った。

 

「月光会長から頼まれたからね!」

 

銀子は、少しだけ目を細めた。

 

「……ふぅん」

 

清滝が、小さく笑った。

 

「まあ、ええんちゃうか」

 

角晴が顔を向ける。

 

「……おじさん?」

 

清滝は頷いた。

 

「弟子を取るいうんは、簡単なことやない」

 

「……うん」

 

「ましてや、角晴はまだ15歳や」

 

清滝は、真剣な表情で続ける。

 

「三冠いう立場もある。自分の将棋で精一杯なこともあるやろ」

 

角晴は、静かに頷いた。

 

「……そうだね」

 

「せやけど」

 

清滝は、少しだけ笑った。

 

「その子の将棋が気になるんなら、また指してみたらええ」

 

角晴は、目を輝かせた。

 

「……うん!」

 

清滝は、穏やかに頷いた。

 

「それでええんや」

 

桂香も笑った。

 

「角晴らしいと思うよ」

 

「……えへへ!」

 

角晴は、少し照れたように笑った。

 

その様子を、銀子は静かに見つめていた。

 

(……本当に)

 

昔から、変わらない。

 

強い相手を見つければ、嬉しそうにする。

 

面白い将棋を見れば、目を輝かせる。

 

そして。

 

自分より年下の子供の将棋でも、真剣に向き合う。

 

(……そういうところ)

 

銀子は、小さく息を吐いた。

 

(……好きなのよね)

 

しかし。

 

そんなことを口にするつもりは、もちろんない。

 

「……角晴」

 

「ん?」

 

「……今度、私とも指しなさいよ」

 

角晴は、目を輝かせた。

 

「……いいの!?」

 

「……何よ、その反応」

 

銀子は、少しだけ眉を寄せた。

 

「……嫌なの?」

 

「そんなわけないじゃん!」

 

角晴は、嬉しそうに笑った。

 

「すっごく楽しみ!」

 

「…………」

 

銀子は、少しだけ視線を逸らした。

 

「……そう」

 

そして。

 

「……バカ」

 

小さく呟く。

 

「ええっ!?」

 

角晴は、驚いたように声を上げた。

 

「何で!?」

 

桂香は、そんな2人を見て楽しそうに笑っていた。

 

清滝も、小さく笑う。

 

いつもと変わらない清滝家の夜。

 

しかし。

 

角晴の周囲では、少しずつ新しい出会いが生まれ始めていた。

 

───

 

数日後。

 

神戸。

 

夜叉神家。

 

「……お嬢様」

 

晶が、自室の扉をノックした。

 

「……何よ」

 

中から、不機嫌そうな声が返ってくる。

 

「猿飛三冠から、ご連絡がありました」

 

「…………っ!」

 

部屋の中で、何かが動く音がした。

 

そして。

 

「……何ですって?」

 

天衣の声が、少しだけ高くなる。

 

晶は、静かに答えた。

 

「来週、お時間があれば再び将棋を指したいとのことです」

 

「…………」

 

しばらく、沈黙が流れた。

 

そして。

 

「……ふぅん」

 

天衣が、小さく呟いた。

 

「……そう」

 

晶は、扉の向こうへ声をかける。

 

「いかがなさいますか?」

 

「…………」

 

少しだけ間が空く。

 

そして。

 

「……いいわよ」

 

天衣が答えた。

 

「……来たいなら、来ればいいじゃない」

 

晶は、ほんの少しだけ微笑んだ。

 

「かしこまりました」

 

すると。

 

「……でも!」

 

天衣が、少しだけ大きな声を上げた。

 

「……はい?」

 

「……次は、絶対勝つって伝えておいて!」

 

その言葉に、晶は静かに頷いた。

 

「承知いたしました」

 

そして、部屋を離れていく。

 

扉の向こう。

 

天衣は、将棋盤の前に座っていた。

 

目の前には、数日前の対局の棋譜。

 

「…………」

 

小さく息を吐く。

 

「……次は」

 

駒を手に取る。

 

パチンッ。

 

「……絶対、負けないんだから」

 

その瞳には、確かな闘志が宿っていた。

 

───

 

一方。

 

大阪。

 

角晴のマンション。

 

ピロンッ。

 

スマートフォンが鳴った。

 

「……ん?」

 

研究室で将棋盤を見つめていた角晴は、画面を確認した。

 

送り主は池田晶。

 

『天衣お嬢様より、来週の対局をお受けするとのお返事をいただきました』

 

『次は絶対に勝つ、とおっしゃっております』

 

「……ふふっ」

 

角晴は、嬉しそうに笑った。

 

「……そっか!」

 

そして、返信する。

 

『ありがとうございます!』

 

『俺も楽しみにしてます!』

 

送信する。

 

それから、再び将棋盤へ視線を戻した。

 

「……さて」

 

目の前には、研究中の相掛かりの局面。

 

複雑な駒の配置。

 

難解な変化。

 

そして、まだ見えていない可能性。

 

角晴は、楽しそうに笑った。

 

「……ふふっ!」

 

駒を手に取る。

 

パチンッ。

 

「……やっぱり、将棋って面白いなぁ!」

 

その言葉は、誰に聞かせるでもなく、自然と零れたものだった。

 

猿飛角晴。

 

15歳。

 

将棋界の帝王。

 

3つのタイトルを保持する天才棋士。

 

そんな彼が、新しく出会った少女。

 

夜叉神天衣。

 

9歳。

 

勝ち気で、負けず嫌い。

 

そして、確かな才能を秘めた少女。

 

2人は、まだ師匠と弟子ではない。

 

ただ、将棋盤を挟んで出会っただけ。

 

しかし。

 

その出会いは、確かに新しい物語の始まりだった。

 

やがて。

 

2人の間に、どのような関係が生まれるのか。

 

それは、まだ誰にも分からない。

 

ただ1つ。

 

確かなことがある。

 

角晴も。

 

天衣も。

 

今は、次の対局を楽しみにしていた。

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