大阪・新世界。
将棋道場『双玉クラブ』。
「だったら、私と指してみない?」
「はいっ!」
夜叉神天衣の挑戦に、雛鶴あいは迷うことなく頷いた。
同じ9歳。
同じ「あい」という名前。
しかし、性格も育ってきた環境も、将棋の指し方も違う2人だった。
「へぇ。なかなかいい返事するじゃない」
天衣は満足そうに笑い、近くにあった将棋盤へ目を向けた。
「じゃあ、さっさと始めましょう」
「はい! よろしくお願いします!」
あいが元気よく頭を下げる。
その様子を見ていた八一も、興味深そうに2人を見比べていた。
「兄弟子、この子が例の……」
「うん。夜叉神天衣ちゃん。前に話した子だよ」
「なるほど……」
八一は天衣へ視線を向けた。
兄弟子が才能を認めた少女。
どんな将棋を指すのか、気にならないわけがない。
ところが、2人が盤の前に座ろうとしたところで、角晴が声をかけた。
「あ、ちょっと待って!」
「……何よ?」
天衣が振り返る。
「今日はもうやめとこうか」
「……は?」
天衣の眉がぴくりと動いた。
「何でよ」
「天衣ちゃん、今日何局指した?」
「……そんなの覚えてないわよ」
「でしょ? 朝からずっと指してるし、結構疲れてると思うんだよね」
「疲れてないわよ!」
天衣は即座に反論した。
しかし、角晴はその言葉に笑って首を振った。
「いやいや、さっきの対局も結構危なかったじゃん」
「……っ!」
「それに、せっかく同い年の子と指すんだから、万全の状態で指してほしいんだ」
角晴はそう言って、あいにも顔を向けた。
「あいちゃんも、それでいい?」
「えっ……」
あいは少し驚いたように天衣を見た。
将棋を指してみたい気持ちはある。
けれど、相手が疲れているなら話は別だ。
「はい! わたしは大丈夫です!」
「ありがとう」
角晴が笑う。
しかし、天衣は納得していなかった。
「ちょっと! 勝手に決めないでよ!」
「天衣ちゃん」
角晴は天衣の前にしゃがみ、目線を合わせた。
「将棋って、集中力が大事でしょ?」
「そんなの知ってるわよ」
「じゃあ、今日はもう十分頑張ったんだし、次にしようよ」
「……私が負けると思ってるの?」
その質問に、角晴は少し目を丸くした。
そして、楽しそうに笑った。
「ははっ! そういうことじゃないって!」
「だったら!」
「勝ち負けじゃなくてさ。どうせ指すなら、お互い本気でぶつかってほしいんだよ」
「…………」
「それに、天衣ちゃんもこの子の将棋が気になるんでしょ?」
角晴の言葉に、天衣は一瞬黙った。
図星だった。
目の前にいる雛鶴あい。
九頭竜八一の弟子であり、自分と同い年の少女。
しかも、将棋の才能があるらしい。
そんな相手と指してみたくないわけがない。
「……まあ、少しはね」
「でしょ?」
角晴は笑った。
「だったら、楽しみは取っておこうよ」
「…………」
天衣はしばらく角晴を睨んでいたが、やがて小さく息を吐いた。
「……分かったわよ」
「よし!」
「でも!」
天衣は、あいを指さした。
「次に会ったときは、絶対に指すから!」
「はい!」
あいも負けじと頷いた。
「わたしも楽しみにしてます!」
2人の視線が交わる。
そこには、先ほどまでとは違う熱が宿っていた。
角晴はその様子を見ながら、満足そうに頷いた。
(うん。いいライバルになりそうだな)
───
「ところで兄弟子」
八一が、ふと思い出したように口を開いた。
「さっきから気になってたんですけど……」
「ん?」
「その子、僕のことずっと変な目で見てません?」
角晴が天衣を見る。
天衣は腕を組んだまま、八一を見上げていた。
「……別に?」
「いや、絶対何か思ってますよね!?」
「そうね。将棋の竜王って、もっとまともな人だと思ってたわ」
「ちょっと!?」
角晴は思わず吹き出した。
「ぶっ……あははは!」
「兄弟子! また笑ってる!」
「いや、だって……!」
八一は頭を抱えた。
「もう勘弁してくださいよ……」
そのときだった。
「九頭竜先生ー!」
道場の入口付近から、澪が声を上げた。
「こっちに来てください!」
「え? どうしたの?」
八一が振り返る。
すると、シャルロットが駆け寄ってきた。
「やいちおにーちゃん!」
そのまま、八一の腕にぎゅっと抱きつく。
「わわっ、シャルちゃん!?」
「あのね、あのね!」
さらに、あいも八一の隣にやってきた。
「ししょー! あの局面なんですけど!」
「えっ、ちょっと待って! 順番に!」
小学生の少女たちに囲まれ、八一は慌ただしく対応し始めた。
その光景を見て、天衣がぽつりと呟く。
「……やっぱりロリコンじゃない」
「ぶはっ!」
角晴が再び吹き出した。
「あははは! 八一、もう駄目だ!」
「兄弟子!?」
「いや、これは言われても仕方ないって!」
「仕方なくないですよ!!」
八一の悲鳴が、道場中に響いた。
周囲の常連客たちも、何事かと顔を上げる。
「何や、また竜王が騒いどるんか?」
「若いもんは元気やなぁ」
そんな声まで聞こえてきた。
八一は、すっかり肩を落としていた。
「……僕、何か悪いことしました?」
角晴は笑いながら肩を叩く。
「いや、何もしてないと思うよ」
「だったら助けてくださいよ!」
「ごめん、無理」
「何で!?」
「だって面白いし」
「兄弟子ぃ!!」
その日、八一は最後まで角晴に助けてもらえなかった。
───
夕方。
道場を出た角晴たちは、通天閣の見える通りを歩いていた。
天衣の隣には晶が付き添い、少し後ろを八一たちが歩いている。
「天衣ちゃん、今日はどうだった?」
角晴が尋ねると、天衣は少し考えてから答えた。
「……悪くなかったわ」
「そっか」
「でも、あの子とは指したかったわね」
天衣はちらりと後ろを振り返った。
八一の隣を歩く雛鶴あい。
何やら楽しそうに将棋の話をしている。
「今度はちゃんと指せるんでしょうね?」
「もちろん。そのときは止めないよ」
「……約束よ」
「うん、約束」
角晴は笑った。
その横顔を、天衣はそっと見上げる。
初めて出会った日のことを思い出す。
4枚落ちで負けた対局。
自分がいい手を指すと、嬉しそうに笑う。
難しい局面では、むしろ楽しそうになる。
けれど、悪手を指した途端、その笑顔が消えた。
あのときの表情を、天衣は今でも忘れられなかった。
(……絶対に、あんな顔させないんだから)
次は、もっといい将棋を指す。
もっと強くなって、角晴を驚かせてやる。
そう思ったところで、天衣は別のことに気付いた。
(……あれ?)
自分はどうして、そこまで角晴に認められたいのだろう。
答えは、すぐには出なかった。
───
数日後。
関西将棋会館。
昼過ぎの休憩室では、角晴がスマートフォンを眺めながら菓子パンを食べていた。
今日は午前中から研究会があり、ちょうど一段落したところだった。
「……ん?」
何気なく見ていたネットの将棋関連の話題で、妙な文字が目に入る。
『ロリ竜王、またも小学生を引き連れて将棋会館に登場』
「…………」
角晴は一度、画面を確認した。
そして。
「……ぶっ!」
思わず噴き出した。
「あははは! 何これ!」
記事というほど大げさなものではない。
将棋ファンたちが集まるネット上の掲示板で、八一の最近の姿が話題になっていたのだ。
『最近の竜王、いつも小学生と一緒にいるな』
『弟子が小学生なのは知ってるけど、他にも何人かいるよな?』
『会館でよく見かける』
『ロリ竜王』
『名前がひどすぎるw』
どうやら、八一が小学生の少女たちと一緒にいる姿は、以前から何度も目撃されていたらしい。
雛鶴あいを弟子に迎えたことに加え、JS研の少女たちとも頻繁に行動している。
その結果、いつの間にか『ロリ竜王』という呼び名が広まっていたようだった。
「はははっ! 八一、いつの間にこんなことに!」
角晴は肩を震わせた。
もちろん、八一が少女たちに将棋を教えているだけなのは知っている。
それでも、あまりに状況が面白かった。
ちょうどそのとき。
「……兄弟子?」
聞き慣れた声がした。
顔を上げると、八一が休憩室の入口に立っていた。
「あ、八一!」
「何をそんなに笑ってるんですか?」
「いや、ちょうどいいところに来た!」
角晴はスマートフォンを差し出した。
「これ見てよ!」
「え?」
八一が画面を覗き込む。
そして。
「…………」
表情が固まった。
「……何ですか、これ」
「ロリ竜王だって! あははは!」
「何でこんな呼び名が広まってるんですか!?」
「いや、俺に聞かれても!」
角晴は笑いながら答えた。
「普段から小学生の女の子たちと一緒にいるからじゃない?」
「将棋を教えてるだけですから!!」
「知ってる知ってる!」
「絶対面白がってますよね!?」
「そりゃ面白いでしょ!」
八一は頭を抱えた。
「……最悪だ」
角晴は、まだ笑っていた。
「しかもさ、会館でよく見かけるって書いてあるよ」
「見かけるも何も、将棋会館なんだから来るに決まってるでしょう!?」
「まあ、そうだよね」
「兄弟子!」
「ん?」
「笑ってないで、何とかしてくださいよ!」
角晴は少し考えた。
そして、あっさり答える。
「いや、無理じゃない?」
「何でですか!?」
「だって、俺が広めたわけじゃないし」
「そういうことじゃなくて!」
「それに、実際よく一緒にいるのは本当でしょ?」
「それはそうですけど!」
「じゃあ、仕方ないね!」
「仕方なくないです!!」
角晴はとうとう声を上げて笑った。
「あははは! 八一、ほんと面白いな!」
八一は椅子に座り込み、深いため息をついた。
「……兄弟子って、たまに本当に酷いですよね」
「えー、そんなことないって」
「あります!」
そのとき、休憩室の扉が開いた。
「……何してるの?」
姿を現したのは、空銀子だった。
「おっ、銀子!」
「角晴、何そんなに笑ってるの」
角晴は笑いを堪えながらスマートフォンを差し出した。
「これ見て!」
銀子は画面を確認した。
「…………」
そして、八一を見る。
「……ロリ竜王」
「姉弟子まで!?」
銀子は無表情のまま言った。
「別に間違ってないんじゃない?」
「間違ってますよ!!」
「……うるさい」
「ひどい!」
角晴は再び笑い始めた。
八一は完全に味方を失っていた。
───
同じ日の午後。
関西将棋会館の一室。
「お疲れ様です、会長!」
角晴が声をかけると、月光聖市が穏やかに応じた。
「やあ、猿飛君。来てくれてありがとう」
「いえいえ!」
「男鹿さん、お茶をお願いできるかな」
「承知しました」
ささりは角晴を席へ案内すると、2人の前にお茶を用意した。
「それで、夜叉神さんの様子はどうかな?」
月光が尋ねる。
角晴は、これまでの指導について話し始めた。
最初の4枚落ち対局。
新世界の双玉クラブでの実戦。
パンサーとの連敗。
そして、そこから少しずつ変化し始めた天衣の将棋。
月光は途中で口を挟まず、静かに話を聞いていた。
「……なるほど」
一通り話し終えると、月光が口を開いた。
「君は、彼女をどう評価している?」
「かなり才能があると思いますよ」
角晴は迷わず答えた。
「特に、相手が嫌がるところを見つける感覚が鋭いです。あれは結構すごいですね」
「ほう」
「ただ、まだ経験不足です。自分の読みを信じすぎるところもありますし」
角晴は少し笑った。
「まあ、その辺はこれからですね」
月光は頷いた。
「君がそこまで評価するなら、やはり期待できそうだ」
「俺も楽しみです!」
「そこで、ひとつ提案があるんだ」
「提案ですか?」
「夜叉神さんを、研修会に入れてみてはどうだろう」
角晴は少し目を丸くした。
「研修会、ですか」
「そう。彼女には、もっと幅広い相手と継続的に指せる環境が必要だと思うんだ」
「……なるほど」
角晴は腕を組んで考える。
研修会。
プロ棋士を目指す少年少女たちが、実力を磨くために集まる場所。
対局だけでなく、棋力によるクラス分けや昇級制度もある。
道場とは違う緊張感の中で、同じように強くなりたいと願う相手と戦える。
「確かに、今の天衣ちゃんにはいいかもしれませんね」
「そう思うかい?」
「はい。特にあの子、負けず嫌いですから」
角晴は楽しそうに笑った。
「同じくらいの年齢で、自分より強い子がいたら、絶対燃えると思います」
「ははは。そうだろうね」
月光も笑う。
「それに、雛鶴さんもいる」
「……ああ!」
角晴は手を打った。
「そういえば、あの2人、この前会ったんですよ!」
「ほう?」
「天衣ちゃんがあいちゃんに対局を申し込んだんですけど、その日はもう疲れてたので、俺が止めちゃって」
「なるほど」
「でも、2人とも指したそうでしたよ」
角晴は笑った。
「研修会で会ったら、面白いことになりそうですね!」
月光は穏やかに頷いた。
「それなら、なおさらだね」
そして、少し声の調子を改めた。
「ただし、研修会に入るには試験を受けてもらう必要がある」
「はい」
「その点も含めて、夜叉神さんとお祖父様に話してもらえるかな」
「分かりました! 今度神戸に行ったときに話してみます」
「ありがとう。助かるよ」
角晴は笑った。
「いえ! 俺も天衣ちゃんがどこまで強くなるのか楽しみなので」
その言葉に、月光は静かに微笑んだ。
「……猿飛君」
「はい?」
「君自身は、彼女を弟子にするつもりはあるのかな?」
角晴は少し考えた。
「……どうでしょうね」
「まだ決めていない?」
「はい。今は将棋を教えてるだけですし」
角晴は続ける。
「でも、あの子が本気で将棋を続けたいなら、できることはしてあげたいと思ってます」
「そうか」
月光は頷いた。
「それなら、今はそれでいいだろう」
「はい!」
角晴はまだ知らなかった。
その少女が、既に自分の弟子になることを望み始めていることを。
───
その日の夕方。
清滝家。
「お邪魔しまーす!」
「角晴、おかえり!」
玄関から顔を出したのは桂香だった。
「ただいま、桂香姉さん!」
角晴は笑顔で靴を脱いだ。
「おじさんは?」
「居間にいるよ。銀子ちゃんも来てる」
「そっか!」
角晴は居間へ向かった。
そこには清滝鋼介と銀子、そして八一とあいの姿があった。
「あ、兄弟子!」
「角晴!」
「猿飛三冠、こんにちは!」
「おっ、みんないるじゃん!」
角晴は笑顔で挨拶した。
「何や、角晴。今日はえらい機嫌ええなぁ」
清滝が笑う。
「そう?」
「顔見りゃ分かるわ」
角晴は少し笑った。
「まあ、ちょっと面白いことがあって」
その言葉に、八一が嫌な予感を覚えた。
「……兄弟子」
「ん?」
「まさか、またあの話じゃ……」
「あはは! 大丈夫だって!」
「本当ですか!?」
「今はしないよ!」
「今は!?」
角晴が笑う。
銀子は呆れたようにため息をついた。
「……あんたたち、うるさい」
「ごめんごめん!」
角晴は笑いながら座布団へ腰を下ろした。
桂香がお茶を運んでくる。
「はい、角晴」
「ありがとう、桂香姉さん!」
いつもの清滝家。
この家にいると、角晴は自然と肩の力が抜けた。
幼い頃から過ごしてきた、大切な場所だった。
───
夕食までの時間。
八一は清滝と将棋の話をしており、角晴は桂香の料理を手伝っていた。
その間、あいは銀子の隣で詰将棋を解いていた。
「……空女王」
「何?」
銀子は視線を向ける。
あいは、少し迷ったように口を開いた。
「……夜叉神さんって、強いんですか?」
銀子は、あいの顔を見た。
「……気になるの?」
「はい」
あいは小さく頷いた。
「猿飛三冠が、すごく才能のある子だって言ってたので」
「……そう」
銀子は少し考える。
「私はまだ指したことないけど、角晴がそう言うなら強いんじゃない?」
「……やっぱり」
あいは、少しだけ俯いた。
「わたしと同じ9歳なのに……」
その言葉に、銀子は眉を寄せた。
「同じ年だから、何?」
「え?」
「同じ年なら、同じくらいの強さじゃなきゃ駄目なの?」
「……いえ」
銀子は、詰将棋の本を閉じた。
「だったら、気にする必要ないでしょ」
「……でも」
あいは顔を上げる。
「負けたくないんです」
その声には、はっきりとした意思があった。
銀子は、少しだけ目を細めた。
「……そう」
「ししょーにも、猿飛三冠にも、強くなったって思ってもらいたいです」
「だったら、強くなればいいじゃない」
銀子はあっさりと言った。
「えっ?」
「負けたくないなら、勉強する。強くなりたいなら、将棋を指す。それだけでしょ」
「…………」
「相手が誰かなんて関係ない。盤を挟んだら、勝つことだけ考えなさい」
あいは、その言葉をじっと聞いていた。
銀子は続ける。
「それに、まだ指してもいないんでしょ?」
「……はい」
「だったら、最初から負けることばっかり考えてどうするの」
「……!」
あいの表情が変わった。
「……そうですね!」
銀子は小さく頷いた。
「分かったなら、続き」
「はい!」
あいは再び詰将棋の本を開いた。
その様子を、少し離れたキッチンから角晴が見ていた。
「……銀子、相変わらずだね」
小さく呟く。
隣で桂香が笑った。
「でも、いいこと言ってたでしょ?」
「うん」
角晴も笑った。
「銀子らしいなって思った」
桂香は、そんな角晴を横目で見る。
(……本当に、この子は)
銀子の気持ちには、いつになったら気付くのだろう。
桂香は小さくため息をついた。
「……角晴」
「ん?」
「たまには銀子ちゃんのこと、ちゃんと見てあげなさいよ?」
「え?」
角晴は首を傾げた。
「いつも見てるけど?」
「……そういう意味じゃないんだけどなぁ」
桂香は苦笑した。
角晴は、最後まで意味が分からなかった。
───
翌日。
兵庫県神戸市。
夜叉神家。
「こんにちは!」
角晴が訪れると、晶が玄関で出迎えた。
「お待ちしておりました、猿飛三冠」
「こんにちは、池田さん!」
「本日もよろしくお願いいたします」
「こちらこそ!」
案内されて客間へ向かうと、そこには天衣の姿があった。
「……遅いわよ」
「え? 約束の時間ぴったりじゃない?」
角晴が時計を確認する。
「ほら、ちゃんと時間通りだよ」
「……そういう問題じゃないの」
「えー?」
角晴は苦笑した。
「まあいいや。今日もよろしくね、天衣ちゃん!」
「……ふん」
天衣は顔を背けた。
しかし、どこか嬉しそうにも見えた。
───
しばらくして。
角晴と天衣は将棋盤を挟んで向かい合っていた。
今日は、前回の対局の復習を中心に勉強する予定だった。
「じゃあ、ここから考えてみようか」
角晴が駒を並べる。
そこには、天衣がパンサーに負けた対局の局面が再現されていた。
「……この局面ね」
「うん。天衣ちゃんだったら、どう指す?」
天衣は盤面をじっと見つめる。
しばらく考えた後、駒を進めた。
パチンッ。
角晴の口元が少し緩んだ。
「へぇ、いいね」
「……当然でしょ」
「でも、俺ならこっちかな」
角晴も駒を進める。
天衣は、すぐにその狙いを読もうとした。
(……なるほど)
相手の攻めを受けながら、次の反撃に備える一手。
しかし。
「だったら、こっちよ!」
天衣は、別の駒を動かした。
角晴は盤面を見た。
そして。
「……おっ」
少し驚いたように笑う。
「いいじゃん!」
「……!」
「前だったら、そこで攻め急いでたと思うけど」
角晴は楽しそうに続けた。
「ちゃんと相手の手を考えられるようになってるね」
天衣は、少しだけ顔を背けた。
「……当たり前よ」
しかし。
(……認めてくれた)
胸の奥が、少しだけ温かくなる。
角晴に褒められるのは、悪くない。
いや。
本当は、かなり嬉しかった。
(……もっと)
天衣は、盤面へ視線を戻す。
(もっと強くなれば……)
いつか、あの4枚落ちでも勝てるようになるかもしれない。
いや、もっと先。
いつかは、平手でも角晴と戦ってみたい。
そして。
(……あいつに、認めてもらえたら)
天衣は、少しだけ唇を結んだ。
(……弟子に、してくれるわよね)
その考えが浮かんだ瞬間、自分でも少し驚いた。
(……何考えてるのよ、私)
まだ正式に弟子になりたいと言ったわけではない。
そもそも、自分からそんなことを言うつもりもなかった。
けれど。
角晴の弟子になれたら。
毎日ではなくても、もっと将棋を教えてもらえる。
もっと近くで、その強さを知ることができる。
そして、自分が強くなる姿を見てもらえる。
そう考えると、胸が高鳴った。
「……天衣ちゃん?」
「……っ!」
角晴の声に、天衣は顔を上げた。
「何よ!」
「いや、さっきからずっと考え込んでるから」
「……別に!」
「そっか?」
角晴は首を傾げた。
天衣は慌てて盤面へ視線を戻す。
(……絶対に言わないんだから)
そんな自分の本心を、本人に知られるわけにはいかなかった。
───
昼過ぎ。
客間には、夜叉神弘天も姿を見せていた。
角晴は、月光会長から提案された話を切り出した。
「実は今日、将棋の勉強とは別にお話があるんです」
弘天が顔を上げる。
「ほう。何や?」
「天衣ちゃんの研修会入会についてなんですけど」
「……研修会?」
天衣が眉を寄せた。
角晴は頷く。
「うん。月光会長からも提案があってね」
「……ふぅん」
天衣は腕を組んだ。
「それで?」
「天衣ちゃん、研修会に入ってみない?」
角晴は笑顔で尋ねた。
「今よりもっと強い相手と指せるし、同じくらいの年齢の子もいるよ」
「……別に、今のままでも十分なんだけど」
天衣は、興味のなさそうな態度を取った。
しかし、角晴は気にせず続ける。
「そう? でも、あいちゃんも研修会で将棋を指してるんだよ」
「……!」
天衣の表情が変わった。
「あの子も?」
「うん。八一の弟子の雛鶴あいちゃん」
角晴は頷いた。
「この前、指したがってたでしょ?」
「……別に」
天衣は顔を背けた。
しかし、明らかに興味を持っていた。
角晴は笑った。
「それに、研修会には試験があるんだ」
「試験?」
「うん。入るには、ちゃんと実力を見てもらわないといけないからね」
「……なるほど」
天衣は少し考えた。
試験。
つまり、自分の実力を示す機会だ。
(……だったら)
天衣は、ちらりと角晴を見る。
(そこで結果を出せば、あいつも私の実力を認めるはず)
そして。
(……きっと、弟子にしてくれる)
そう考えると、研修会という場所が急に魅力的に思えてきた。
「……いいわよ」
天衣が口を開いた。
角晴が顔を向ける。
「ん?」
「その研修会、入ってあげてもいいわ」
角晴は少し笑った。
「おっ、やる気になった?」
「別に。今より強い相手と指せるなら、悪くないってだけよ」
「ははっ、そっか!」
角晴は頷いた。
「じゃあ、試験を受けてみようか!」
「……ええ」
天衣は、少しだけ口元を緩めた。
弘天は、そんな孫の様子を静かに見つめていた。
(……なるほどなぁ)
普段の天衣なら、興味のないことには頑として首を縦に振らない。
しかし、角晴の言葉には素直に耳を傾けている。
しかも。
(……あの子、嬉しそうやな)
弘天は小さく笑った。
「猿飛三冠」
「はい?」
「孫のこと、よろしく頼むわ」
角晴は笑顔で頷いた。
「もちろんです!」
そして、天衣へ顔を向ける。
「天衣ちゃん、試験までにもう少し勉強しようね!」
「……言われなくても分かってるわよ」
天衣は、少しだけ頬を膨らませた。
しかし、その目には強い決意が宿っていた。
───
その日の夕方。
角晴が帰った後。
天衣は自室の将棋盤に向かっていた。
目の前には、これまでの対局を記録した棋譜が並んでいる。
角晴との4枚落ち対局。
パンサーとの対局。
そして、今日教わった手順。
「……ここで、こうして……」
駒を動かす。
パチンッ。
「……違う」
もう一度並べ直す。
「……こっちなら……」
考える。
読みを進める。
そして、また駒を動かす。
何度も、何度も。
そのうち、天衣はふと手を止めた。
(……猿飛角晴)
初めて会ったときは、ただの生意気な三冠棋士だと思っていた。
自分より6歳も年上。
しかも、将棋ではまったく歯が立たない。
あの余裕そうな態度が、何より腹立たしかった。
それなのに。
今は、少し違っていた。
(……もっと、教えてもらいたい)
もっと強くなりたい。
もっと将棋を指したい。
そして。
(……あいつの弟子に、なりたい)
天衣は、静かに駒を握った。
自分から頼むつもりはない。
そんなことをしたら、負けを認めるみたいで悔しいから。
だから。
(……絶対に認めさせてやるんだから)
研修会で結果を出す。
雛鶴あいにも負けない。
そして、角晴に自分の実力を認めてもらう。
そうすれば、きっと。
「……見てなさいよ」
天衣は小さく呟いた。
「絶対に、あんたの弟子になってやるんだから」
その声には、強い決意が込められていた。
───
一方。
大阪。
九頭竜八一のマンション。
「……ししょー」
研究室では、あいが詰将棋の本を開いていた。
「ん? どうしたの?」
八一が顔を上げる。
「わたし、もっと強くなりたいです」
その言葉に、八一は少し驚いた。
「……うん」
あいは続ける。
「夜叉神さんと、将棋を指してみたいんです」
「……そっか」
八一は小さく笑った。
「兄弟子が教えてる子だもんね」
「はい!」
あいは力強く頷いた。
「負けたくないです!」
八一は、そんな弟子を見ながら思う。
あいが、同い年の少女をここまで強く意識するのは珍しい。
けれど、それは決して悪いことではない。
むしろ、強くなるためには大切な感情だった。
「分かった」
八一は頷いた。
「じゃあ、もっと勉強しようか」
「はい!」
あいの顔が明るくなる。
「頑張ります!」
八一も笑った。
「うん。一緒に頑張ろう」
2人は、再び将棋盤へ向き直った。
───
数日後。
関西将棋会館。
角晴は、月光会長へ天衣の返事を伝えていた。
「……というわけで、天衣ちゃんも研修会の試験を受ける気になりました!」
「それはよかった」
月光は穏やかに頷いた。
「では、こちらで手続きを進めておこう」
「ありがとうございます!」
「男鹿さん、お願いできるかな」
「承知しました」
ささりが答える。
「夜叉神家には、試験の日程が決まり次第ご連絡いたします」
「よろしくお願いします!」
角晴は頭を下げた。
月光は少し笑った。
「猿飛君も、随分と楽しそうだね」
「そうですか?」
「うん。声で分かるよ」
角晴は少し考えた。
そして、笑った。
「まあ、楽しみですからね!」
「ほう?」
「天衣ちゃんがどこまで強くなるのか。それに、あいちゃんと指したらどんな将棋になるのかも気になりますし!」
月光は穏やかに頷いた。
「若い才能がぶつかり合うのは、いいことだね」
「はい!」
角晴は笑顔で答えた。
「俺も、負けてられませんね!」
その言葉に、月光は小さく笑った。
「君はもう三冠じゃないか」
「それでも、もっと強くなりたいですから!」
「……そうか」
月光は、どこか嬉しそうに頷いた。
「その気持ちを、どうか忘れないでいてほしい」
「もちろんです!」
角晴は笑った。
将棋が好きだ。
強い相手と指すのが好きだ。
難しい局面を考えるのが好きだ。
そして、誰かが将棋を好きになり、強くなっていく姿を見るのも悪くない。
15歳。
三冠棋士。
将棋界の帝王。
猿飛角晴の周囲には、今日も新しい将棋の可能性が広がっていた。
───
神戸。
夜叉神天衣は、将棋盤の前で静かに駒を進めていた。
大阪。
雛鶴あいは、師匠の八一とともに詰将棋を解いていた。
同じ9歳。
同じ名前。
そして、同じように将棋を愛する2人の少女。
まだ、互いの実力を知らない。
しかし、次に出会うとき。
その2人は、同じ盤を挟んで向かい合うことになる。
夜叉神天衣。
雛鶴あい。
2人の少女の物語が、今。
静かに動き始めていた。