帝王のおしごと!   作:コバハト

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第7話 譲れない思い

大阪・新世界。

 

将棋道場『双玉クラブ』。

 

「だったら、私と指してみない?」

 

「はいっ!」

 

夜叉神天衣の挑戦に、雛鶴あいは迷うことなく頷いた。

 

同じ9歳。

 

同じ「あい」という名前。

 

しかし、性格も育ってきた環境も、将棋の指し方も違う2人だった。

 

「へぇ。なかなかいい返事するじゃない」

 

天衣は満足そうに笑い、近くにあった将棋盤へ目を向けた。

 

「じゃあ、さっさと始めましょう」

 

「はい! よろしくお願いします!」

 

あいが元気よく頭を下げる。

 

その様子を見ていた八一も、興味深そうに2人を見比べていた。

 

「兄弟子、この子が例の……」

 

「うん。夜叉神天衣ちゃん。前に話した子だよ」

 

「なるほど……」

 

八一は天衣へ視線を向けた。

 

兄弟子が才能を認めた少女。

 

どんな将棋を指すのか、気にならないわけがない。

 

ところが、2人が盤の前に座ろうとしたところで、角晴が声をかけた。

 

「あ、ちょっと待って!」

 

「……何よ?」

 

天衣が振り返る。

 

「今日はもうやめとこうか」

 

「……は?」

 

天衣の眉がぴくりと動いた。

 

「何でよ」

 

「天衣ちゃん、今日何局指した?」

 

「……そんなの覚えてないわよ」

 

「でしょ? 朝からずっと指してるし、結構疲れてると思うんだよね」

 

「疲れてないわよ!」

 

天衣は即座に反論した。

 

しかし、角晴はその言葉に笑って首を振った。

 

「いやいや、さっきの対局も結構危なかったじゃん」

 

「……っ!」

 

「それに、せっかく同い年の子と指すんだから、万全の状態で指してほしいんだ」

 

角晴はそう言って、あいにも顔を向けた。

 

「あいちゃんも、それでいい?」

 

「えっ……」

 

あいは少し驚いたように天衣を見た。

 

将棋を指してみたい気持ちはある。

 

けれど、相手が疲れているなら話は別だ。

 

「はい! わたしは大丈夫です!」

 

「ありがとう」

 

角晴が笑う。

 

しかし、天衣は納得していなかった。

 

「ちょっと! 勝手に決めないでよ!」

 

「天衣ちゃん」

 

角晴は天衣の前にしゃがみ、目線を合わせた。

 

「将棋って、集中力が大事でしょ?」

 

「そんなの知ってるわよ」

 

「じゃあ、今日はもう十分頑張ったんだし、次にしようよ」

 

「……私が負けると思ってるの?」

 

その質問に、角晴は少し目を丸くした。

 

そして、楽しそうに笑った。

 

「ははっ! そういうことじゃないって!」

 

「だったら!」

 

「勝ち負けじゃなくてさ。どうせ指すなら、お互い本気でぶつかってほしいんだよ」

 

「…………」

 

「それに、天衣ちゃんもこの子の将棋が気になるんでしょ?」

 

角晴の言葉に、天衣は一瞬黙った。

 

図星だった。

 

目の前にいる雛鶴あい。

 

九頭竜八一の弟子であり、自分と同い年の少女。

 

しかも、将棋の才能があるらしい。

 

そんな相手と指してみたくないわけがない。

 

「……まあ、少しはね」

 

「でしょ?」

 

角晴は笑った。

 

「だったら、楽しみは取っておこうよ」

 

「…………」

 

天衣はしばらく角晴を睨んでいたが、やがて小さく息を吐いた。

 

「……分かったわよ」

 

「よし!」

 

「でも!」

 

天衣は、あいを指さした。

 

「次に会ったときは、絶対に指すから!」

 

「はい!」

 

あいも負けじと頷いた。

 

「わたしも楽しみにしてます!」

 

2人の視線が交わる。

 

そこには、先ほどまでとは違う熱が宿っていた。

 

角晴はその様子を見ながら、満足そうに頷いた。

 

(うん。いいライバルになりそうだな)

 

───

 

「ところで兄弟子」

 

八一が、ふと思い出したように口を開いた。

 

「さっきから気になってたんですけど……」

 

「ん?」

 

「その子、僕のことずっと変な目で見てません?」

 

角晴が天衣を見る。

 

天衣は腕を組んだまま、八一を見上げていた。

 

「……別に?」

 

「いや、絶対何か思ってますよね!?」

 

「そうね。将棋の竜王って、もっとまともな人だと思ってたわ」

 

「ちょっと!?」

 

角晴は思わず吹き出した。

 

「ぶっ……あははは!」

 

「兄弟子! また笑ってる!」

 

「いや、だって……!」

 

八一は頭を抱えた。

 

「もう勘弁してくださいよ……」

 

そのときだった。

 

「九頭竜先生ー!」

 

道場の入口付近から、澪が声を上げた。

 

「こっちに来てください!」

 

「え? どうしたの?」

 

八一が振り返る。

 

すると、シャルロットが駆け寄ってきた。

 

「やいちおにーちゃん!」

 

そのまま、八一の腕にぎゅっと抱きつく。

 

「わわっ、シャルちゃん!?」

 

「あのね、あのね!」

 

さらに、あいも八一の隣にやってきた。

 

「ししょー! あの局面なんですけど!」

 

「えっ、ちょっと待って! 順番に!」

 

小学生の少女たちに囲まれ、八一は慌ただしく対応し始めた。

 

その光景を見て、天衣がぽつりと呟く。

 

「……やっぱりロリコンじゃない」

 

「ぶはっ!」

 

角晴が再び吹き出した。

 

「あははは! 八一、もう駄目だ!」

 

「兄弟子!?」

 

「いや、これは言われても仕方ないって!」

 

「仕方なくないですよ!!」

 

八一の悲鳴が、道場中に響いた。

 

周囲の常連客たちも、何事かと顔を上げる。

 

「何や、また竜王が騒いどるんか?」

 

「若いもんは元気やなぁ」

 

そんな声まで聞こえてきた。

 

八一は、すっかり肩を落としていた。

 

「……僕、何か悪いことしました?」

 

角晴は笑いながら肩を叩く。

 

「いや、何もしてないと思うよ」

 

「だったら助けてくださいよ!」

 

「ごめん、無理」

 

「何で!?」

 

「だって面白いし」

 

「兄弟子ぃ!!」

 

その日、八一は最後まで角晴に助けてもらえなかった。

 

───

 

夕方。

 

道場を出た角晴たちは、通天閣の見える通りを歩いていた。

 

天衣の隣には晶が付き添い、少し後ろを八一たちが歩いている。

 

「天衣ちゃん、今日はどうだった?」

 

角晴が尋ねると、天衣は少し考えてから答えた。

 

「……悪くなかったわ」

 

「そっか」

 

「でも、あの子とは指したかったわね」

 

天衣はちらりと後ろを振り返った。

 

八一の隣を歩く雛鶴あい。

 

何やら楽しそうに将棋の話をしている。

 

「今度はちゃんと指せるんでしょうね?」

 

「もちろん。そのときは止めないよ」

 

「……約束よ」

 

「うん、約束」

 

角晴は笑った。

 

その横顔を、天衣はそっと見上げる。

 

初めて出会った日のことを思い出す。

 

4枚落ちで負けた対局。

 

自分がいい手を指すと、嬉しそうに笑う。

 

難しい局面では、むしろ楽しそうになる。

 

けれど、悪手を指した途端、その笑顔が消えた。

 

あのときの表情を、天衣は今でも忘れられなかった。

 

(……絶対に、あんな顔させないんだから)

 

次は、もっといい将棋を指す。

 

もっと強くなって、角晴を驚かせてやる。

 

そう思ったところで、天衣は別のことに気付いた。

 

(……あれ?)

 

自分はどうして、そこまで角晴に認められたいのだろう。

 

答えは、すぐには出なかった。

 

───

 

数日後。

 

関西将棋会館。

 

昼過ぎの休憩室では、角晴がスマートフォンを眺めながら菓子パンを食べていた。

 

今日は午前中から研究会があり、ちょうど一段落したところだった。

 

「……ん?」

 

何気なく見ていたネットの将棋関連の話題で、妙な文字が目に入る。

 

『ロリ竜王、またも小学生を引き連れて将棋会館に登場』

 

「…………」

 

角晴は一度、画面を確認した。

 

そして。

 

「……ぶっ!」

 

思わず噴き出した。

 

「あははは! 何これ!」

 

記事というほど大げさなものではない。

 

将棋ファンたちが集まるネット上の掲示板で、八一の最近の姿が話題になっていたのだ。

 

『最近の竜王、いつも小学生と一緒にいるな』

 

『弟子が小学生なのは知ってるけど、他にも何人かいるよな?』

 

『会館でよく見かける』

 

『ロリ竜王』

 

『名前がひどすぎるw』

 

どうやら、八一が小学生の少女たちと一緒にいる姿は、以前から何度も目撃されていたらしい。

 

雛鶴あいを弟子に迎えたことに加え、JS研の少女たちとも頻繁に行動している。

 

その結果、いつの間にか『ロリ竜王』という呼び名が広まっていたようだった。

 

「はははっ! 八一、いつの間にこんなことに!」

 

角晴は肩を震わせた。

 

もちろん、八一が少女たちに将棋を教えているだけなのは知っている。

 

それでも、あまりに状況が面白かった。

 

ちょうどそのとき。

 

「……兄弟子?」

 

聞き慣れた声がした。

 

顔を上げると、八一が休憩室の入口に立っていた。

 

「あ、八一!」

 

「何をそんなに笑ってるんですか?」

 

「いや、ちょうどいいところに来た!」

 

角晴はスマートフォンを差し出した。

 

「これ見てよ!」

 

「え?」

 

八一が画面を覗き込む。

 

そして。

 

「…………」

 

表情が固まった。

 

「……何ですか、これ」

 

「ロリ竜王だって! あははは!」

 

「何でこんな呼び名が広まってるんですか!?」

 

「いや、俺に聞かれても!」

 

角晴は笑いながら答えた。

 

「普段から小学生の女の子たちと一緒にいるからじゃない?」

 

「将棋を教えてるだけですから!!」

 

「知ってる知ってる!」

 

「絶対面白がってますよね!?」

 

「そりゃ面白いでしょ!」

 

八一は頭を抱えた。

 

「……最悪だ」

 

角晴は、まだ笑っていた。

 

「しかもさ、会館でよく見かけるって書いてあるよ」

 

「見かけるも何も、将棋会館なんだから来るに決まってるでしょう!?」

 

「まあ、そうだよね」

 

「兄弟子!」

 

「ん?」

 

「笑ってないで、何とかしてくださいよ!」

 

角晴は少し考えた。

 

そして、あっさり答える。

 

「いや、無理じゃない?」

 

「何でですか!?」

 

「だって、俺が広めたわけじゃないし」

 

「そういうことじゃなくて!」

 

「それに、実際よく一緒にいるのは本当でしょ?」

 

「それはそうですけど!」

 

「じゃあ、仕方ないね!」

 

「仕方なくないです!!」

 

角晴はとうとう声を上げて笑った。

 

「あははは! 八一、ほんと面白いな!」

 

八一は椅子に座り込み、深いため息をついた。

 

「……兄弟子って、たまに本当に酷いですよね」

 

「えー、そんなことないって」

 

「あります!」

 

そのとき、休憩室の扉が開いた。

 

「……何してるの?」

 

姿を現したのは、空銀子だった。

 

「おっ、銀子!」

 

「角晴、何そんなに笑ってるの」

 

角晴は笑いを堪えながらスマートフォンを差し出した。

 

「これ見て!」

 

銀子は画面を確認した。

 

「…………」

 

そして、八一を見る。

 

「……ロリ竜王」

 

「姉弟子まで!?」

 

銀子は無表情のまま言った。

 

「別に間違ってないんじゃない?」

 

「間違ってますよ!!」

 

「……うるさい」

 

「ひどい!」

 

角晴は再び笑い始めた。

 

八一は完全に味方を失っていた。

 

───

 

同じ日の午後。

 

関西将棋会館の一室。

 

「お疲れ様です、会長!」

 

角晴が声をかけると、月光聖市が穏やかに応じた。

 

「やあ、猿飛君。来てくれてありがとう」

 

「いえいえ!」

 

「男鹿さん、お茶をお願いできるかな」

 

「承知しました」

 

ささりは角晴を席へ案内すると、2人の前にお茶を用意した。

 

「それで、夜叉神さんの様子はどうかな?」

 

月光が尋ねる。

 

角晴は、これまでの指導について話し始めた。

 

最初の4枚落ち対局。

 

新世界の双玉クラブでの実戦。

 

パンサーとの連敗。

 

そして、そこから少しずつ変化し始めた天衣の将棋。

 

月光は途中で口を挟まず、静かに話を聞いていた。

 

「……なるほど」

 

一通り話し終えると、月光が口を開いた。

 

「君は、彼女をどう評価している?」

 

「かなり才能があると思いますよ」

 

角晴は迷わず答えた。

 

「特に、相手が嫌がるところを見つける感覚が鋭いです。あれは結構すごいですね」

 

「ほう」

 

「ただ、まだ経験不足です。自分の読みを信じすぎるところもありますし」

 

角晴は少し笑った。

 

「まあ、その辺はこれからですね」

 

月光は頷いた。

 

「君がそこまで評価するなら、やはり期待できそうだ」

 

「俺も楽しみです!」

 

「そこで、ひとつ提案があるんだ」

 

「提案ですか?」

 

「夜叉神さんを、研修会に入れてみてはどうだろう」

 

角晴は少し目を丸くした。

 

「研修会、ですか」

 

「そう。彼女には、もっと幅広い相手と継続的に指せる環境が必要だと思うんだ」

 

「……なるほど」

 

角晴は腕を組んで考える。

 

研修会。

 

プロ棋士を目指す少年少女たちが、実力を磨くために集まる場所。

 

対局だけでなく、棋力によるクラス分けや昇級制度もある。

 

道場とは違う緊張感の中で、同じように強くなりたいと願う相手と戦える。

 

「確かに、今の天衣ちゃんにはいいかもしれませんね」

 

「そう思うかい?」

 

「はい。特にあの子、負けず嫌いですから」

 

角晴は楽しそうに笑った。

 

「同じくらいの年齢で、自分より強い子がいたら、絶対燃えると思います」

 

「ははは。そうだろうね」

 

月光も笑う。

 

「それに、雛鶴さんもいる」

 

「……ああ!」

 

角晴は手を打った。

 

「そういえば、あの2人、この前会ったんですよ!」

 

「ほう?」

 

「天衣ちゃんがあいちゃんに対局を申し込んだんですけど、その日はもう疲れてたので、俺が止めちゃって」

 

「なるほど」

 

「でも、2人とも指したそうでしたよ」

 

角晴は笑った。

 

「研修会で会ったら、面白いことになりそうですね!」

 

月光は穏やかに頷いた。

 

「それなら、なおさらだね」

 

そして、少し声の調子を改めた。

 

「ただし、研修会に入るには試験を受けてもらう必要がある」

 

「はい」

 

「その点も含めて、夜叉神さんとお祖父様に話してもらえるかな」

 

「分かりました! 今度神戸に行ったときに話してみます」

 

「ありがとう。助かるよ」

 

角晴は笑った。

 

「いえ! 俺も天衣ちゃんがどこまで強くなるのか楽しみなので」

 

その言葉に、月光は静かに微笑んだ。

 

「……猿飛君」

 

「はい?」

 

「君自身は、彼女を弟子にするつもりはあるのかな?」

 

角晴は少し考えた。

 

「……どうでしょうね」

 

「まだ決めていない?」

 

「はい。今は将棋を教えてるだけですし」

 

角晴は続ける。

 

「でも、あの子が本気で将棋を続けたいなら、できることはしてあげたいと思ってます」

 

「そうか」

 

月光は頷いた。

 

「それなら、今はそれでいいだろう」

 

「はい!」

 

角晴はまだ知らなかった。

 

その少女が、既に自分の弟子になることを望み始めていることを。

 

───

 

その日の夕方。

 

清滝家。

 

「お邪魔しまーす!」

 

「角晴、おかえり!」

 

玄関から顔を出したのは桂香だった。

 

「ただいま、桂香姉さん!」

 

角晴は笑顔で靴を脱いだ。

 

「おじさんは?」

 

「居間にいるよ。銀子ちゃんも来てる」

 

「そっか!」

 

角晴は居間へ向かった。

 

そこには清滝鋼介と銀子、そして八一とあいの姿があった。

 

「あ、兄弟子!」

 

「角晴!」

 

「猿飛三冠、こんにちは!」

 

「おっ、みんないるじゃん!」

 

角晴は笑顔で挨拶した。

 

「何や、角晴。今日はえらい機嫌ええなぁ」

 

清滝が笑う。

 

「そう?」

 

「顔見りゃ分かるわ」

 

角晴は少し笑った。

 

「まあ、ちょっと面白いことがあって」

 

その言葉に、八一が嫌な予感を覚えた。

 

「……兄弟子」

 

「ん?」

 

「まさか、またあの話じゃ……」

 

「あはは! 大丈夫だって!」

 

「本当ですか!?」

 

「今はしないよ!」

 

「今は!?」

 

角晴が笑う。

 

銀子は呆れたようにため息をついた。

 

「……あんたたち、うるさい」

 

「ごめんごめん!」

 

角晴は笑いながら座布団へ腰を下ろした。

 

桂香がお茶を運んでくる。

 

「はい、角晴」

 

「ありがとう、桂香姉さん!」

 

いつもの清滝家。

 

この家にいると、角晴は自然と肩の力が抜けた。

 

幼い頃から過ごしてきた、大切な場所だった。

 

───

 

夕食までの時間。

 

八一は清滝と将棋の話をしており、角晴は桂香の料理を手伝っていた。

 

その間、あいは銀子の隣で詰将棋を解いていた。

 

「……空女王」

 

「何?」

 

銀子は視線を向ける。

 

あいは、少し迷ったように口を開いた。

 

「……夜叉神さんって、強いんですか?」

 

銀子は、あいの顔を見た。

 

「……気になるの?」

 

「はい」

 

あいは小さく頷いた。

 

「猿飛三冠が、すごく才能のある子だって言ってたので」

 

「……そう」

 

銀子は少し考える。

 

「私はまだ指したことないけど、角晴がそう言うなら強いんじゃない?」

 

「……やっぱり」

 

あいは、少しだけ俯いた。

 

「わたしと同じ9歳なのに……」

 

その言葉に、銀子は眉を寄せた。

 

「同じ年だから、何?」

 

「え?」

 

「同じ年なら、同じくらいの強さじゃなきゃ駄目なの?」

 

「……いえ」

 

銀子は、詰将棋の本を閉じた。

 

「だったら、気にする必要ないでしょ」

 

「……でも」

 

あいは顔を上げる。

 

「負けたくないんです」

 

その声には、はっきりとした意思があった。

 

銀子は、少しだけ目を細めた。

 

「……そう」

 

「ししょーにも、猿飛三冠にも、強くなったって思ってもらいたいです」

 

「だったら、強くなればいいじゃない」

 

銀子はあっさりと言った。

 

「えっ?」

 

「負けたくないなら、勉強する。強くなりたいなら、将棋を指す。それだけでしょ」

 

「…………」

 

「相手が誰かなんて関係ない。盤を挟んだら、勝つことだけ考えなさい」

 

あいは、その言葉をじっと聞いていた。

 

銀子は続ける。

 

「それに、まだ指してもいないんでしょ?」

 

「……はい」

 

「だったら、最初から負けることばっかり考えてどうするの」

 

「……!」

 

あいの表情が変わった。

 

「……そうですね!」

 

銀子は小さく頷いた。

 

「分かったなら、続き」

 

「はい!」

 

あいは再び詰将棋の本を開いた。

 

その様子を、少し離れたキッチンから角晴が見ていた。

 

「……銀子、相変わらずだね」

 

小さく呟く。

 

隣で桂香が笑った。

 

「でも、いいこと言ってたでしょ?」

 

「うん」

 

角晴も笑った。

 

「銀子らしいなって思った」

 

桂香は、そんな角晴を横目で見る。

 

(……本当に、この子は)

 

銀子の気持ちには、いつになったら気付くのだろう。

 

桂香は小さくため息をついた。

 

「……角晴」

 

「ん?」

 

「たまには銀子ちゃんのこと、ちゃんと見てあげなさいよ?」

 

「え?」

 

角晴は首を傾げた。

 

「いつも見てるけど?」

 

「……そういう意味じゃないんだけどなぁ」

 

桂香は苦笑した。

 

角晴は、最後まで意味が分からなかった。

 

───

 

翌日。

 

兵庫県神戸市。

 

夜叉神家。

 

「こんにちは!」

 

角晴が訪れると、晶が玄関で出迎えた。

 

「お待ちしておりました、猿飛三冠」

 

「こんにちは、池田さん!」

 

「本日もよろしくお願いいたします」

 

「こちらこそ!」

 

案内されて客間へ向かうと、そこには天衣の姿があった。

 

「……遅いわよ」

 

「え? 約束の時間ぴったりじゃない?」

 

角晴が時計を確認する。

 

「ほら、ちゃんと時間通りだよ」

 

「……そういう問題じゃないの」

 

「えー?」

 

角晴は苦笑した。

 

「まあいいや。今日もよろしくね、天衣ちゃん!」

 

「……ふん」

 

天衣は顔を背けた。

 

しかし、どこか嬉しそうにも見えた。

 

───

 

しばらくして。

 

角晴と天衣は将棋盤を挟んで向かい合っていた。

 

今日は、前回の対局の復習を中心に勉強する予定だった。

 

「じゃあ、ここから考えてみようか」

 

角晴が駒を並べる。

 

そこには、天衣がパンサーに負けた対局の局面が再現されていた。

 

「……この局面ね」

 

「うん。天衣ちゃんだったら、どう指す?」

 

天衣は盤面をじっと見つめる。

 

しばらく考えた後、駒を進めた。

 

パチンッ。

 

角晴の口元が少し緩んだ。

 

「へぇ、いいね」

 

「……当然でしょ」

 

「でも、俺ならこっちかな」

 

角晴も駒を進める。

 

天衣は、すぐにその狙いを読もうとした。

 

(……なるほど)

 

相手の攻めを受けながら、次の反撃に備える一手。

 

しかし。

 

「だったら、こっちよ!」

 

天衣は、別の駒を動かした。

 

角晴は盤面を見た。

 

そして。

 

「……おっ」

 

少し驚いたように笑う。

 

「いいじゃん!」

 

「……!」

 

「前だったら、そこで攻め急いでたと思うけど」

 

角晴は楽しそうに続けた。

 

「ちゃんと相手の手を考えられるようになってるね」

 

天衣は、少しだけ顔を背けた。

 

「……当たり前よ」

 

しかし。

 

(……認めてくれた)

 

胸の奥が、少しだけ温かくなる。

 

角晴に褒められるのは、悪くない。

 

いや。

 

本当は、かなり嬉しかった。

 

(……もっと)

 

天衣は、盤面へ視線を戻す。

 

(もっと強くなれば……)

 

いつか、あの4枚落ちでも勝てるようになるかもしれない。

 

いや、もっと先。

 

いつかは、平手でも角晴と戦ってみたい。

 

そして。

 

(……あいつに、認めてもらえたら)

 

天衣は、少しだけ唇を結んだ。

 

(……弟子に、してくれるわよね)

 

その考えが浮かんだ瞬間、自分でも少し驚いた。

 

(……何考えてるのよ、私)

 

まだ正式に弟子になりたいと言ったわけではない。

 

そもそも、自分からそんなことを言うつもりもなかった。

 

けれど。

 

角晴の弟子になれたら。

 

毎日ではなくても、もっと将棋を教えてもらえる。

 

もっと近くで、その強さを知ることができる。

 

そして、自分が強くなる姿を見てもらえる。

 

そう考えると、胸が高鳴った。

 

「……天衣ちゃん?」

 

「……っ!」

 

角晴の声に、天衣は顔を上げた。

 

「何よ!」

 

「いや、さっきからずっと考え込んでるから」

 

「……別に!」

 

「そっか?」

 

角晴は首を傾げた。

 

天衣は慌てて盤面へ視線を戻す。

 

(……絶対に言わないんだから)

 

そんな自分の本心を、本人に知られるわけにはいかなかった。

 

───

 

昼過ぎ。

 

客間には、夜叉神弘天も姿を見せていた。

 

角晴は、月光会長から提案された話を切り出した。

 

「実は今日、将棋の勉強とは別にお話があるんです」

 

弘天が顔を上げる。

 

「ほう。何や?」

 

「天衣ちゃんの研修会入会についてなんですけど」

 

「……研修会?」

 

天衣が眉を寄せた。

 

角晴は頷く。

 

「うん。月光会長からも提案があってね」

 

「……ふぅん」

 

天衣は腕を組んだ。

 

「それで?」

 

「天衣ちゃん、研修会に入ってみない?」

 

角晴は笑顔で尋ねた。

 

「今よりもっと強い相手と指せるし、同じくらいの年齢の子もいるよ」

 

「……別に、今のままでも十分なんだけど」

 

天衣は、興味のなさそうな態度を取った。

 

しかし、角晴は気にせず続ける。

 

「そう? でも、あいちゃんも研修会で将棋を指してるんだよ」

 

「……!」

 

天衣の表情が変わった。

 

「あの子も?」

 

「うん。八一の弟子の雛鶴あいちゃん」

 

角晴は頷いた。

 

「この前、指したがってたでしょ?」

 

「……別に」

 

天衣は顔を背けた。

 

しかし、明らかに興味を持っていた。

 

角晴は笑った。

 

「それに、研修会には試験があるんだ」

 

「試験?」

 

「うん。入るには、ちゃんと実力を見てもらわないといけないからね」

 

「……なるほど」

 

天衣は少し考えた。

 

試験。

 

つまり、自分の実力を示す機会だ。

 

(……だったら)

 

天衣は、ちらりと角晴を見る。

 

(そこで結果を出せば、あいつも私の実力を認めるはず)

 

そして。

 

(……きっと、弟子にしてくれる)

 

そう考えると、研修会という場所が急に魅力的に思えてきた。

 

「……いいわよ」

 

天衣が口を開いた。

 

角晴が顔を向ける。

 

「ん?」

 

「その研修会、入ってあげてもいいわ」

 

角晴は少し笑った。

 

「おっ、やる気になった?」

 

「別に。今より強い相手と指せるなら、悪くないってだけよ」

 

「ははっ、そっか!」

 

角晴は頷いた。

 

「じゃあ、試験を受けてみようか!」

 

「……ええ」

 

天衣は、少しだけ口元を緩めた。

 

弘天は、そんな孫の様子を静かに見つめていた。

 

(……なるほどなぁ)

 

普段の天衣なら、興味のないことには頑として首を縦に振らない。

 

しかし、角晴の言葉には素直に耳を傾けている。

 

しかも。

 

(……あの子、嬉しそうやな)

 

弘天は小さく笑った。

 

「猿飛三冠」

 

「はい?」

 

「孫のこと、よろしく頼むわ」

 

角晴は笑顔で頷いた。

 

「もちろんです!」

 

そして、天衣へ顔を向ける。

 

「天衣ちゃん、試験までにもう少し勉強しようね!」

 

「……言われなくても分かってるわよ」

 

天衣は、少しだけ頬を膨らませた。

 

しかし、その目には強い決意が宿っていた。

 

───

 

その日の夕方。

 

角晴が帰った後。

 

天衣は自室の将棋盤に向かっていた。

 

目の前には、これまでの対局を記録した棋譜が並んでいる。

 

角晴との4枚落ち対局。

 

パンサーとの対局。

 

そして、今日教わった手順。

 

「……ここで、こうして……」

 

駒を動かす。

 

パチンッ。

 

「……違う」

 

もう一度並べ直す。

 

「……こっちなら……」

 

考える。

 

読みを進める。

 

そして、また駒を動かす。

 

何度も、何度も。

 

そのうち、天衣はふと手を止めた。

 

(……猿飛角晴)

 

初めて会ったときは、ただの生意気な三冠棋士だと思っていた。

 

自分より6歳も年上。

 

しかも、将棋ではまったく歯が立たない。

 

あの余裕そうな態度が、何より腹立たしかった。

 

それなのに。

 

今は、少し違っていた。

 

(……もっと、教えてもらいたい)

 

もっと強くなりたい。

 

もっと将棋を指したい。

 

そして。

 

(……あいつの弟子に、なりたい)

 

天衣は、静かに駒を握った。

 

自分から頼むつもりはない。

 

そんなことをしたら、負けを認めるみたいで悔しいから。

 

だから。

 

(……絶対に認めさせてやるんだから)

 

研修会で結果を出す。

 

雛鶴あいにも負けない。

 

そして、角晴に自分の実力を認めてもらう。

 

そうすれば、きっと。

 

「……見てなさいよ」

 

天衣は小さく呟いた。

 

「絶対に、あんたの弟子になってやるんだから」

 

その声には、強い決意が込められていた。

 

───

 

一方。

 

大阪。

 

九頭竜八一のマンション。

 

「……ししょー」

 

研究室では、あいが詰将棋の本を開いていた。

 

「ん? どうしたの?」

 

八一が顔を上げる。

 

「わたし、もっと強くなりたいです」

 

その言葉に、八一は少し驚いた。

 

「……うん」

 

あいは続ける。

 

「夜叉神さんと、将棋を指してみたいんです」

 

「……そっか」

 

八一は小さく笑った。

 

「兄弟子が教えてる子だもんね」

 

「はい!」

 

あいは力強く頷いた。

 

「負けたくないです!」

 

八一は、そんな弟子を見ながら思う。

 

あいが、同い年の少女をここまで強く意識するのは珍しい。

 

けれど、それは決して悪いことではない。

 

むしろ、強くなるためには大切な感情だった。

 

「分かった」

 

八一は頷いた。

 

「じゃあ、もっと勉強しようか」

 

「はい!」

 

あいの顔が明るくなる。

 

「頑張ります!」

 

八一も笑った。

 

「うん。一緒に頑張ろう」

 

2人は、再び将棋盤へ向き直った。

 

───

 

数日後。

 

関西将棋会館。

 

角晴は、月光会長へ天衣の返事を伝えていた。

 

「……というわけで、天衣ちゃんも研修会の試験を受ける気になりました!」

 

「それはよかった」

 

月光は穏やかに頷いた。

 

「では、こちらで手続きを進めておこう」

 

「ありがとうございます!」

 

「男鹿さん、お願いできるかな」

 

「承知しました」

 

ささりが答える。

 

「夜叉神家には、試験の日程が決まり次第ご連絡いたします」

 

「よろしくお願いします!」

 

角晴は頭を下げた。

 

月光は少し笑った。

 

「猿飛君も、随分と楽しそうだね」

 

「そうですか?」

 

「うん。声で分かるよ」

 

角晴は少し考えた。

 

そして、笑った。

 

「まあ、楽しみですからね!」

 

「ほう?」

 

「天衣ちゃんがどこまで強くなるのか。それに、あいちゃんと指したらどんな将棋になるのかも気になりますし!」

 

月光は穏やかに頷いた。

 

「若い才能がぶつかり合うのは、いいことだね」

 

「はい!」

 

角晴は笑顔で答えた。

 

「俺も、負けてられませんね!」

 

その言葉に、月光は小さく笑った。

 

「君はもう三冠じゃないか」

 

「それでも、もっと強くなりたいですから!」

 

「……そうか」

 

月光は、どこか嬉しそうに頷いた。

 

「その気持ちを、どうか忘れないでいてほしい」

 

「もちろんです!」

 

角晴は笑った。

 

将棋が好きだ。

 

強い相手と指すのが好きだ。

 

難しい局面を考えるのが好きだ。

 

そして、誰かが将棋を好きになり、強くなっていく姿を見るのも悪くない。

 

15歳。

 

三冠棋士。

 

将棋界の帝王。

 

猿飛角晴の周囲には、今日も新しい将棋の可能性が広がっていた。

 

───

 

神戸。

 

夜叉神天衣は、将棋盤の前で静かに駒を進めていた。

 

大阪。

 

雛鶴あいは、師匠の八一とともに詰将棋を解いていた。

 

同じ9歳。

 

同じ名前。

 

そして、同じように将棋を愛する2人の少女。

 

まだ、互いの実力を知らない。

 

しかし、次に出会うとき。

 

その2人は、同じ盤を挟んで向かい合うことになる。

 

夜叉神天衣。

 

雛鶴あい。

 

2人の少女の物語が、今。

 

静かに動き始めていた。

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