帝王のおしごと!   作:コバハト

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第8話 勝利への執念

4月上旬。

 

兵庫県神戸市。

 

夜叉神家の屋敷では、朝から慌ただしく準備が進められていた。

 

「お嬢様、お支度はお済みでしょうか?」

 

「とっくに終わってるわよ」

 

池田晶が部屋を訪ねると、夜叉神天衣は既に着替えを済ませ、机に向かっていた。

 

その手には、使い込まれた詰将棋の本がある。

 

「……また将棋のお勉強ですか?」

 

「何よ。悪い?」

 

「いいえ。ただ、そろそろ朝食のお時間ですので」

 

「分かってるわよ」

 

天衣は本を閉じた。

 

今日は研修会の入会試験がある。

 

これまで新世界の将棋道場で実戦経験を積み、猿飛角晴から指導を受けてきた。

 

そして、いよいよ自分の実力を試す日がやってきたのだ。

 

(……別に、緊張なんかしてないわ)

 

天衣はそう自分に言い聞かせた。

 

しかし、昨夜はいつもより寝付きが悪かった。

 

原因は分かっている。

 

研修会の試験そのものではない。

 

(……あいつ、今日も来るのよね)

 

猿飛角晴。

 

15歳にして三冠を保持する、将棋界の帝王。

 

そして、現在の天衣に将棋を教えている少年だ。

 

初めて指した4枚落ちでは、まったく歯が立たなかった。

 

そのうえ、角晴は難しい局面になるほど楽しそうに笑い、天衣が悪手を指した途端、露骨につまらなそうな表情になった。

 

あのときの悔しさは、今でも忘れていない。

 

けれど。

 

(……あいつに、認めてもらいたい)

 

いつからか、そう思うようになっていた。

 

角晴は自分の将棋を真剣に見てくれる。

 

いい手を指せば褒めてくれるし、悪いところがあれば遠慮なく指摘してくる。

 

何より、将棋を指しているときの角晴は、本当に楽しそうだった。

 

そんな姿を見ているうちに、天衣の中に新しい願いが生まれていた。

 

(……弟子に、なりたい)

 

もちろん、自分から頼むつもりはない。

 

そんなことを言うのは、何だか負けを認めるみたいで悔しい。

 

だからこそ。

 

(今日の試験で、実力を見せつけてやるんだから)

 

天衣は立ち上がった。

 

「晶!」

 

「はい」

 

「今日は絶対に勝つわよ」

 

晶は、そんな主人の姿を見て小さく微笑んだ。

 

「はい。応援しております」

 

───

 

午前8時30分。

 

夜叉神家の玄関。

 

「おはようございます!」

 

明るい声とともに姿を現したのは、猿飛角晴だった。

 

濃紺の髪を整え、いつものように柔らかな笑顔を浮かべている。

 

「おお、猿飛三冠。朝早くからすまんな」

 

弘天が声をかけた。

 

「いえいえ! 今日は俺も楽しみにしてたので!」

 

角晴は笑って答える。

 

「天衣ちゃんは?」

 

「もうすぐ来るはずや」

 

その言葉と同時に、廊下の奥から天衣が姿を現した。

 

「……何よ。もう来てたの?」

 

「おはよう、天衣ちゃん!」

 

「……おはよう」

 

天衣は小さく返事をする。

 

角晴は、その姿を見て笑った。

 

「準備はばっちり?」

 

「当然でしょ」

 

「そっか! じゃあ今日は頑張ろうね」

 

「言われなくても分かってるわよ」

 

天衣は腕を組んだ。

 

そして、角晴をまっすぐに見上げる。

 

「今日はちゃんと私の将棋を見てなさいよ」

 

「もちろん!」

 

角晴は即答した。

 

「どんな将棋を指すのか、楽しみにしてるよ」

 

「……ふん」

 

天衣は顔を背けた。

 

しかし、その言葉に胸が少し高鳴ったことは、誰にも気付かれていなかった。

 

───

 

大阪へ向かう車内。

 

運転席には晶。

 

後部座席には角晴と天衣が座っていた。

 

天衣は窓の外を眺めながら、時折スマートフォンで詰将棋を確認している。

 

角晴は、その横でのんびりと景色を眺めていた。

 

「……ねえ」

 

「ん?」

 

「本当に試験って、そんなに難しいの?」

 

天衣が尋ねた。

 

角晴は少し考える。

 

「相手にもよるけど、簡単ではないと思うよ」

 

「……そう」

 

「でも、今の天衣ちゃんなら十分戦えると思う」

 

「……本当に?」

 

「うん」

 

角晴は笑った。

 

「じゃなきゃ、試験を受けてみようなんて言わないよ」

 

天衣は少し黙った。

 

(……そっか)

 

角晴は、自分なら戦えると思っている。

 

その事実が、天衣には嬉しかった。

 

しかし、すぐにいつもの調子に戻る。

 

「まあ、当然よね!」

 

「あはは、そうだね」

 

「……何よ、その笑い方」

 

「いや、天衣ちゃんらしいなって」

 

「……変なの」

 

天衣は再び窓の外へ顔を向けた。

 

角晴は気付いていなかったが、その口元には小さな笑みが浮かんでいた。

 

───

 

午前9時30分。

 

関西将棋会館。

 

「おはようございます!」

 

角晴が受付に挨拶すると、職員が笑顔で頭を下げた。

 

「猿飛三冠、おはようございます」

 

「今日はよろしくお願いします!」

 

「はい。夜叉神さんの試験ですね」

 

「そうです!」

 

その隣で、天衣が少し不満そうに口を開いた。

 

「……何であんたの方が張り切ってるのよ」

 

「え? だって楽しみじゃん」

 

「試験を受けるのは私なんだけど」

 

「分かってるって!」

 

角晴は笑った。

 

「だから、天衣ちゃんの将棋を楽しみにしてるんだよ」

 

「……そう」

 

天衣は少しだけ視線を逸らした。

 

そのとき。

 

「……兄弟子!」

 

聞き慣れた声が響いた。

 

角晴が振り返ると、九頭竜八一が歩いてきた。

 

その隣には、雛鶴あいがいる。

 

「おっ、八一! おはよう!」

 

「おはようございます!」

 

「猿飛三冠、おはようございます!」

 

「あいちゃんもおはよう!」

 

角晴は笑顔で挨拶した。

 

しかし、その横で天衣は目を細めていた。

 

「……あら」

 

あいも天衣に気付く。

 

「あっ! 夜叉神さん!」

 

「久しぶりね」

 

「はい!」

 

あいは元気よく頷いた。

 

「今日は研修会の試験なんですよね?」

 

「そうよ」

 

天衣は腕を組んだ。

 

「あなたも来てたのね」

 

「はい! ししょーと一緒に来ました!」

 

「……ふぅん」

 

天衣は八一へ視線を向ける。

 

「相変わらずなのね、ロリコン竜王」

 

「ちょっと待って!?」

 

八一が即座に反応した。

 

「その呼び方、やめてくれない!?」

 

「何よ。違うの?」

 

「違うから!!」

 

角晴は思わず吹き出した。

 

「ぶっ……あははは!」

 

「兄弟子! 笑ってないで助けてくださいよ!」

 

「無理!」

 

「何でですか!?」

 

「いや、だって面白いし!」

 

「僕の名誉がかかってるんですよ!?」

 

「でも、ネットでもロリ竜王って呼ばれてるじゃん」

 

「それを今言わないでください!!」

 

角晴は肩を震わせた。

 

天衣は呆れたように八一を見ていた。

 

「……本当に、こんなのが竜王なのね」

 

「こんなのって何!?」

 

八一の悲鳴が廊下に響く。

 

すると、あいが慌てて口を開いた。

 

「夜叉神さん! ししょーはロリコンじゃありません!」

 

「……そうなの?」

 

「はい! ししょーはすごく優しくて、将棋も強くて、立派な方なんです!」

 

八一は感動したようにあいを見た。

 

「あい……!」

 

しかし。

 

「……でも、小学生の女の子ばっかり連れてるのは事実でしょ?」

 

天衣の一言で、八一は再び固まった。

 

「…………」

 

角晴はとうとう堪えきれず、声を上げて笑った。

 

「あははは! 八一、もう諦めたら?」

 

「諦めませんよ!!」

 

───

 

しばらくして。

 

試験の説明が始まる時間となり、天衣たちは対局室へ向かった。

 

そこには、研修会幹事を務める久留野義経七段の姿があった。

 

「おはようございます、猿飛三冠」

 

「おはようございます! 今日はよろしくお願いします!」

 

「こちらこそ」

 

久留野は笑顔で答えた。

 

そして、天衣へ顔を向ける。

 

「君が夜叉神天衣さんだね」

 

「はい」

 

「今日は君の将棋を見せてもらうよ」

 

「……分かりました」

 

天衣は真剣な表情で頷いた。

 

久留野は試験の流れを説明した。

 

研修会員との対局。

 

そして、棋力を確認するための対局。

 

複数の相手との実戦を通し、入会を認められるだけの実力があるかを判断する。

 

角晴は、天衣の隣で説明を聞いていた。

 

「天衣ちゃん」

 

「……何よ」

 

「いつも通り指せば大丈夫だからね」

 

「……分かってるわよ」

 

天衣は小さく答えた。

 

そして、盤の前へ向かった。

 

(……見てなさいよ)

 

角晴へ一瞬だけ視線を向ける。

 

(私がどれだけ強いか、思い知らせてあげるんだから)

 

───

 

午前10時。

 

第1局。

 

対局相手は、研修会に所属する少年だった。

 

「よろしくお願いします」

 

「よろしくお願いします」

 

互いに頭を下げる。

 

駒が並べられ、対局が始まった。

 

パチンッ。

 

天衣は序盤から落ち着いた指し回しを見せていた。

 

相手の駒組みを観察しながら、自分の陣形を整えていく。

 

以前の天衣なら、攻められる形を見つけるとすぐに仕掛けていたかもしれない。

 

しかし、今は違う。

 

(……焦る必要なんてないわ)

 

相手の狙いを確認する。

 

守るべきところを守る。

 

そのうえで、攻める機会を探す。

 

新世界の将棋道場で、何度も教わったことだった。

 

「…………」

 

対局相手の少年は、少しずつ考慮時間を使い始めた。

 

天衣の指し手が、思っていたよりも厳しい。

 

攻めようとすると、先回りされる。

 

守りを固めようとすると、別の場所に圧力がかかる。

 

そして、中盤。

 

天衣が一枚の銀を進めた。

 

パチンッ。

 

(……よし)

 

その一手には、明確な狙いがあった。

 

相手が受ければ、別の場所から攻める。

 

攻めてくれば、反撃する。

 

どちらに転んでも、天衣が主導権を握れる形だった。

 

少し離れた場所で盤面を見ていた角晴は、楽しそうに笑った。

 

(へぇ、いいじゃん)

 

新世界で教えたことを、ちゃんと自分の将棋に取り入れている。

 

ただ覚えただけではない。

 

天衣なりに理解し、使いこなそうとしていた。

 

(……やっぱり、教えがいがあるな)

 

角晴は満足そうに頷いた。

 

そして。

 

「……負けました」

 

対局相手の少年が頭を下げた。

 

「ありがとうございました」

 

天衣も丁寧に頭を下げる。

 

第1局。

 

夜叉神天衣、勝利。

 

───

 

「お疲れ様!」

 

対局を終えた天衣へ、角晴が声をかける。

 

「……当然でしょ」

 

天衣は腕を組んだ。

 

「これくらい、勝てなきゃ困るわ」

 

「ははっ、そうだね」

 

角晴は笑った。

 

「でも、さっきの銀はよかったよ」

 

「……そう?」

 

「うん。前だったら、もう少し早く攻めてたと思うけど」

 

角晴は盤面を思い出しながら続ける。

 

「ちゃんと相手の反撃まで考えられてたね」

 

天衣は、少しだけ目を丸くした。

 

(……褒められた)

 

しかし、すぐに顔を背ける。

 

「……当たり前よ」

 

角晴は、その反応に苦笑した。

 

「じゃあ、次も頑張ろうか」

 

「言われなくても!」

 

天衣は再び対局室へ向かった。

 

───

 

第2局。

 

今度の相手は、天衣より年上の研修会員だった。

 

序盤から、激しい駒のぶつかり合いが始まる。

 

相手は積極的に攻めてきた。

 

天衣の陣形に圧力をかけ、早い段階から主導権を握ろうとする。

 

(……ふぅん)

 

天衣は盤面を見つめた。

 

(なかなかやるじゃない)

 

しかし、焦りはなかった。

 

相手の攻めには勢いがある。

 

だが、その分だけ自陣に隙も生まれていた。

 

(……そこね)

 

天衣は、じっと機会を待った。

 

そして、相手が攻め駒を前進させた瞬間。

 

パチンッ。

 

静かに角を打ち込んだ。

 

「……っ!」

 

相手の表情が変わる。

 

攻めながら守るつもりだった陣形に、思わぬ弱点が生まれていた。

 

そこを、天衣は見逃さなかった。

 

(……そうよ)

 

天衣の口元が、わずかに緩む。

 

(こういう手を待ってたのよ)

 

その後も、天衣は落ち着いて指し続けた。

 

相手の攻めを受け止めながら、少しずつ反撃を強めていく。

 

そして、終盤。

 

「……負けました」

 

相手が投了した。

 

第2局。

 

夜叉神天衣、勝利。

 

2連勝。

 

その結果に、周囲の研修会員たちも少しずつ注目し始めていた。

 

「……あの子、強くない?」

 

「まだ9歳なんだろ?」

 

「猿飛三冠が教えてる子らしいよ」

 

そんな声が聞こえてくる。

 

天衣は、少しだけ得意げに顔を上げた。

 

(……当然でしょ)

 

しかし、すぐに角晴の姿を探した。

 

角晴は、少し離れた場所で久留野と将棋の話をしていた。

 

その表情は楽しそうだった。

 

(……ちゃんと見てたわよね?)

 

天衣は、少しだけ不満そうに眉を寄せた。

 

───

 

昼休憩。

 

将棋会館の休憩スペース。

 

「お疲れ様、天衣ちゃん!」

 

角晴が声をかけると、天衣は椅子に腰かけたまま顔を上げた。

 

「……何よ」

 

「2連勝だね! いい調子じゃん!」

 

「当然よ」

 

天衣は腕を組む。

 

「私が負けるわけないでしょ」

 

角晴は笑った。

 

「ははっ、それくらい自信がある方がいいよ」

 

「……ふん」

 

天衣は少しだけ視線を逸らした。

 

そのとき、晶が昼食を用意してきた。

 

「お嬢様、お食事をどうぞ」

 

「ありがとう、晶」

 

天衣は箸を手に取る。

 

角晴も隣で昼食を食べ始めた。

 

「……ねえ」

 

「ん?」

 

「私の将棋、どうだった?」

 

天衣が、何気ない口調を装って尋ねる。

 

角晴は少し考えた。

 

「うん、かなりよかったよ」

 

「……そう」

 

「特に2局目。あの角打ちは面白かったね」

 

「……分かってたの?」

 

「もちろん」

 

角晴は笑った。

 

「あそこ、相手も結構嫌だったと思うよ」

 

天衣は、少しだけ嬉しくなった。

 

しかし、角晴は続ける。

 

「ただ、終盤はちょっと危なかったかな」

 

「……え?」

 

「途中で、もっと厳しく攻められる手があったんだよね」

 

「…………」

 

天衣の表情が変わった。

 

角晴は、そんな様子を見て少し笑った。

 

「あとで一緒に確認しようか」

 

「……分かったわよ」

 

天衣は、少し不満そうに答えた。

 

(……やっぱり)

 

簡単には褒めてくれない。

 

いや、褒めてはくれる。

 

けれど、まだ自分が気付いていないところまで、角晴は見えている。

 

(……悔しい)

 

そして。

 

(……もっと、強くなりたい)

 

天衣は、静かに箸を置いた。

 

───

 

午後1時。

 

研修会の対局室。

 

「それでは、次の対局を始めます」

 

久留野の声が響いた。

 

天衣は盤の前へ向かう。

 

そして。

 

「……あっ」

 

目の前に座っていた少女を見て、少し目を丸くした。

 

雛鶴あい。

 

「……夜叉神さん!」

 

あいも驚いたように顔を上げる。

 

「……あなたが相手なのね」

 

天衣は、ゆっくりと口元を緩めた。

 

「はい!」

 

あいは力強く頷いた。

 

「よろしくお願いします!」

 

「……ふぅん」

 

天衣は向かい側へ座る。

 

そして、挑戦的に笑った。

 

「この前の続きね」

 

「はい!」

 

あいも笑った。

 

「ずっと指してみたかったんです!」

 

「奇遇ね」

 

天衣は駒を並べ始める。

 

「私もよ」

 

その様子を、少し離れた場所から角晴と八一が見守っていた。

 

「……兄弟子」

 

「ん?」

 

「とうとうですね」

 

「うん」

 

角晴は楽しそうに笑った。

 

「いやー、楽しみだな!」

 

八一も小さく頷く。

 

「僕もです。あいがどこまで戦えるか……」

 

角晴は、八一へ顔を向けた。

 

「どっちが勝つと思う?」

 

「……難しいですね」

 

八一は少し考えた。

 

「兄弟子は?」

 

角晴は、再び2人へ視線を向ける。

 

そして、笑った。

 

「分かんない!」

 

「えっ!?」

 

八一が驚く。

 

「兄弟子でも分からないんですか?」

 

「うん。だって、2人とも面白い将棋を指すからね」

 

角晴は続ける。

 

「天衣ちゃんは勝負どころの感覚が鋭いし、あいちゃんは終盤の読みがすごい」

 

「……そうですね」

 

「どっちが勝ってもおかしくないと思うよ」

 

角晴は、楽しそうに笑った。

 

「だから面白いんじゃん!」

 

八一も、少しだけ笑った。

 

「……確かに」

 

───

 

午後1時10分。

 

夜叉神天衣。

 

雛鶴あい。

 

同じ9歳の少女たちが、初めて正式な対局で向かい合った。

 

「よろしくお願いします」

 

「よろしくお願いします」

 

互いに頭を下げる。

 

そして。

 

パチンッ。

 

対局が始まった。

 

───

 

序盤。

 

先手のあいは、慎重に駒組みを進めていた。

 

相手は、自分と同い年の少女。

 

しかし、猿飛角晴が才能を認めた相手でもある。

 

(……絶対に負けたくない)

 

あいは、静かに駒を進めた。

 

一方の天衣も、相手の指し手を注意深く観察していた。

 

(……なるほど)

 

雛鶴あい。

 

九頭竜竜王の弟子。

 

その実力は、まだ分からない。

 

けれど。

 

(……弱いわけないわよね)

 

天衣は、ゆっくりと駒を進める。

 

パチンッ。

 

序盤から、互いに一歩も引かない展開となっていた。

 

あいは自分の形を整えながら、攻める機会を探る。

 

天衣は相手の狙いを読み、先回りするように駒を配置する。

 

2人とも、年齢からは想像できないほど落ち着いた指し回しだった。

 

「…………」

 

八一は、盤面を見つめていた。

 

(……なるほど)

 

兄弟子が天衣の才能を認めた理由が、少しずつ分かってきた。

 

天衣は、あいとは違う。

 

あいは読みの深さで勝負する。

 

一つの局面から、何手も先まで読み進めていく。

 

一方の天衣は、相手が何をしたいのかを見抜くのが上手い。

 

そして、相手が嫌がる場所に駒を進める。

 

(……厄介な相手だな)

 

八一は、少しだけ眉を寄せた。

 

その隣で、角晴が楽しそうに笑っていた。

 

「……いいねぇ」

 

「兄弟子?」

 

「いや、天衣ちゃん、ちゃんと考えてるなって」

 

角晴は小さく頷いた。

 

「でも、あいちゃんもいい形だね」

 

八一も盤面へ視線を戻す。

 

確かに、あいの陣形は整っていた。

 

互いに簡単には崩れそうにない。

 

(……これは、長くなりそうだ)

 

八一は、静かに息を吐いた。

 

───

 

中盤。

 

先に仕掛けたのは、あいだった。

 

パチンッ。

 

銀が前進する。

 

その一手を見た瞬間、天衣の表情が変わった。

 

(……来たわね)

 

あいの攻めは鋭かった。

 

一見すると普通の銀の進出。

 

しかし、その先には複数の攻め筋が隠されている。

 

(……なるほど)

 

天衣は、相手の狙いを読んだ。

 

そして、静かに応じる。

 

パチンッ。

 

あいは、すぐに次の手を指した。

 

「…………」

 

天衣の目が細くなる。

 

(……速い)

 

迷いがない。

 

あいは、既にその先の変化まで読んでいるようだった。

 

(……面白いじゃない)

 

天衣は、少しだけ笑った。

 

しかし、あいの攻めは止まらなかった。

 

次々と駒がぶつかる。

 

盤面は、あっという間に激しい戦いへと変わっていった。

 

───

 

「……兄弟子」

 

八一が、小さく呟いた。

 

「これ、あいが少しいいですよね?」

 

角晴は盤面を見つめた。

 

「うん。今はそうだね」

 

「……やっぱり」

 

八一は、少しだけ安心した。

 

しかし、角晴は続ける。

 

「でも、まだ分かんないよ」

 

「え?」

 

「天衣ちゃん、こういう将棋は得意だからね」

 

角晴は楽しそうに笑った。

 

「相手に攻めさせて、隙を見つけるのが上手いんだ」

 

その言葉通り。

 

天衣は、あいの攻めを受けながら反撃の機会を探っていた。

 

(……まだよ)

 

自玉は少しずつ危険になっている。

 

しかし、相手の攻めも無理をしている。

 

(……ここで焦ったら負ける)

 

天衣は、静かに駒を進めた。

 

パチンッ。

 

その一手を見た瞬間。

 

あいの表情が変わった。

 

「……っ!」

 

(……この手!)

 

読みになかった受け。

 

しかも、ただ守るだけではない。

 

自分の攻め駒の働きを制限しながら、次の反撃を狙っている。

 

(……そんな)

 

あいは、慌てて盤面を読み直した。

 

しかし、簡単には答えが見つからない。

 

(……どうしよう)

 

その様子を見て、天衣は少しだけ笑った。

 

(……そう簡単には勝たせないわよ)

 

───

 

終盤。

 

対局は、完全な混戦となっていた。

 

互いの玉が危険な位置にあり、一手の間違いがそのまま敗北につながる。

 

あいは、必死に読みを進めていた。

 

(……こうして……)

 

頭の中で駒を動かす。

 

(……こうして……)

 

さらに先を読む。

 

(……だったら……)

 

あいの身体が、小さく揺れ始めた。

 

それは、深く読みを進めるときに見せる癖だった。

 

一方の天衣は、そんな相手の様子を観察していた。

 

(……すごい)

 

読みの深さ。

 

それだけなら、自分より上かもしれない。

 

しかし。

 

(……負けない)

 

天衣は、静かに駒を進めた。

 

パチンッ。

 

その一手に、あいの表情が変わる。

 

(……また!)

 

読みを外された。

 

自分が予想していた手とは違う。

 

しかし、決して悪い手ではない。

 

むしろ、こちらが一番嫌がる場所を突いてくる。

 

(……この子、強い!)

 

あいは、初めてはっきりとそう感じた。

 

同い年。

 

同じ名前。

 

けれど、自分とはまったく違う将棋を指す。

 

(……でも!)

 

あいは、駒を手に取った。

 

(わたしだって、負けません!)

 

パチンッ。

 

攻めは続く。

 

天衣の玉へ、少しずつ迫っていく。

 

───

 

「……すごいですね」

 

八一が、小さく呟いた。

 

角晴も盤面を見つめていた。

 

「うん。かなり面白い将棋になってる」

 

2人とも、予想以上の力を発揮していた。

 

特に、あいの終盤力は凄まじい。

 

普通なら諦めてしまうような局面でも、攻め筋を見つけてくる。

 

一方、天衣も簡単には崩れない。

 

相手の読みを外し、最も嫌な場所に駒を進める。

 

まさに、異なる才能のぶつかり合いだった。

 

しかし。

 

角晴は、ある局面で少しだけ目を細めた。

 

(……あれ?)

 

盤面を見つめる。

 

(……ここ、もしかして)

 

天衣の玉には、非常に厳しい攻めが迫っていた。

 

あいが正確に読み切れば、勝ち切れる可能性がある。

 

角晴は、頭の中で手順を進めた。

 

(……ああ、なるほど)

 

そして、口元が少しだけ緩む。

 

(……見つけられるかな)

 

もちろん、対局中に助言することはできない。

 

角晴は黙って盤面を見つめた。

 

その隣で、八一も真剣な表情をしていた。

 

───

 

天衣は、必死に考えていた。

 

(……まずいわね)

 

あいの攻めが、想像以上に厳しい。

 

自玉は、今にも詰まされそうな状態だった。

 

(……でも)

 

天衣は、相手の表情を確認する。

 

あいは、深く考え込んでいた。

 

(……まだ、何かあるはず)

 

天衣は、自分の持ち駒を確認した。

 

そして、盤面へ視線を戻す。

 

(……これなら)

 

一手。

 

まだ、戦える手がある。

 

天衣は、静かに駒を進めた。

 

パチンッ。

 

あいが顔を上げる。

 

「……っ!」

 

その一手は、あいの読みを外すものだった。

 

(……そんな!)

 

あいは、慌てて次の手を探す。

 

しかし、残り時間は少ない。

 

(……どうしよう)

 

頭の中で、いくつもの変化が浮かんでは消える。

 

(……これじゃ、駄目)

 

別の手を読む。

 

(……こっちも……)

 

そして。

 

パチンッ。

 

あいは、ようやく一手を指した。

 

その瞬間。

 

角晴の表情が、わずかに変わった。

 

(……あ)

 

天衣の玉を詰ます手順が、消えた。

 

(……そっちか)

 

角晴は、静かに盤面を見つめた。

 

しかし、何も言わなかった。

 

対局は、まだ終わっていない。

 

───

 

天衣は、あいの指した手を見た。

 

(……なるほど)

 

その一手で、自玉への攻めが少しだけ緩んだ。

 

(……なら)

 

天衣は、すぐに反撃の手順を読んだ。

 

(……いける!)

 

パチンッ。

 

鋭い一手。

 

あいの玉へ攻めが迫る。

 

「……っ!」

 

あいの表情が変わった。

 

(……まずい!)

 

自分の攻めが止まった。

 

それどころか、今度は自分の玉が危険になっている。

 

(……何で……)

 

あいは必死に読みを進めた。

 

しかし、勝ち筋が見つからない。

 

(……まだ!)

 

諦めたくない。

 

負けたくない。

 

ししょーに教わったことを、全部出し切りたい。

 

あいは、懸命に駒を進めた。

 

しかし。

 

天衣の攻めは止まらなかった。

 

そして、数手後。

 

「…………」

 

あいの手が止まった。

 

盤面を見つめる。

 

何度読んでも、自玉を守る手が見つからない。

 

「……負けました」

 

小さな声だった。

 

天衣は、ゆっくりと頭を下げる。

 

「ありがとうございました」

 

夜叉神天衣。

 

雛鶴あい。

 

初対局。

 

勝者、夜叉神天衣。

 

───

 

「……勝った」

 

天衣は、静かに呟いた。

 

そして、少しずつ実感が湧いてくる。

 

(……勝った!)

 

九頭竜八一の弟子。

 

自分と同じ9歳の少女。

 

その相手に、勝つことができた。

 

天衣は、思わず笑みを浮かべた。

 

「……ふふっ」

 

そして、あいを見る。

 

「なかなか強かったわよ」

 

「…………」

 

あいは、俯いたまま動かなかった。

 

悔しい。

 

負けた。

 

同い年の少女に。

 

しかも、自分が得意な終盤で押し切れなかった。

 

(……何で……)

 

あいの目に、涙が浮かび始める。

 

その様子を見て、天衣は少しだけ眉を寄せた。

 

(……泣くほど悔しいのね)

 

しかし、天衣自身も負けた悔しさは知っていた。

 

角晴との4枚落ち対局。

 

パンサーとの連敗。

 

あのとき、自分も同じ気持ちだった。

 

だからこそ、余計なことは言わなかった。

 

───

 

「お疲れ様!」

 

対局を終えた2人へ、角晴が声をかけた。

 

その隣には八一もいる。

 

「2人とも、すごくいい将棋だったよ!」

 

角晴は笑った。

 

天衣は、少しだけ得意げに顔を上げる。

 

「当然でしょ」

 

そして、ちらりと角晴を見る。

 

(……どう?)

 

勝った。

 

ちゃんと結果を出した。

 

これなら、認めてもらえるはずだ。

 

天衣は、期待を隠しながら尋ねた。

 

「……で?」

 

「ん?」

 

「私の将棋、どうだったのよ」

 

角晴は少し考えた。

 

「うん。かなりよかったよ」

 

「……そう」

 

「特に、あいちゃんの攻めを受け切ったところ。あれはよかったね」

 

天衣は、少しだけ嬉しくなった。

 

しかし。

 

「ただ……」

 

角晴が続ける。

 

「最後、ちょっと危なかったかな」

 

「……え?」

 

天衣は目を丸くした。

 

「危なかった?」

 

「うん」

 

角晴は盤面へ視線を向ける。

 

「実は、あいちゃんに勝ち筋があったんだよね」

 

「……は?」

 

天衣の表情が変わった。

 

そのとき。

 

「そうですね」

 

久留野が、2人の近くへ歩いてきた。

 

「ちょうど感想戦をしようと思っていたところです」

 

角晴は頷いた。

 

「お願いします!」

 

───

 

感想戦。

 

久留野は、終盤の局面まで盤面を戻した。

 

「ここです」

 

天衣とあいが、盤面を覗き込む。

 

「……ここ?」

 

天衣が眉を寄せる。

 

久留野は頷いた。

 

「はい。この局面では、先手の雛鶴さんに勝ち筋がありました」

 

「……えっ?」

 

あいが顔を上げる。

 

久留野は、静かに駒を動かした。

 

パチンッ。

 

「まず、4二竜」

 

「……!」

 

あいの表情が変わる。

 

「同飛と取らせて、2三金」

 

久留野は、手順を進めていく。

 

「3一玉に、4三桂」

 

「……あっ」

 

あいが、小さく声を上げた。

 

「同飛と取れば、3二金まで」

 

パチンッ。

 

盤上に、詰みの形が現れた。

 

「……7手詰です」

 

「…………」

 

あいは、盤面を見つめたまま動かなかった。

 

天衣も、目を見開いていた。

 

(……嘘)

 

詰んでいた。

 

自分の玉は、あの局面で詰んでいたのだ。

 

(……こんな手が)

 

天衣は、何度も盤面を確認した。

 

しかし、どう読んでも逃げ道がない。

 

完全な詰みだった。

 

「……あ」

 

その隣で、あいが小さく声を漏らした。

 

(……何で)

 

7手詰。

 

普段の自分なら、解けないはずがない。

 

それなのに。

 

(……何で、気付かなかったの……)

 

あいの目から、涙がこぼれた。

 

「……っ」

 

一粒。

 

また一粒。

 

涙が盤面へ落ちそうになる。

 

「……わたし……」

 

声が震える。

 

「……勝てたのに……」

 

八一は、そんな弟子の姿を静かに見つめていた。

 

「……あい」

 

しかし、すぐに慰める言葉はかけなかった。

 

将棋で負ける悔しさ。

 

自分の見落としで勝ちを逃す苦しさ。

 

それは、棋士なら誰もが経験するものだった。

 

そして、あいも今、それを経験している。

 

───

 

一方。

 

天衣も、複雑な表情で盤面を見つめていた。

 

勝った。

 

確かに、自分が勝った。

 

しかし。

 

(……見逃してもらっただけじゃない)

 

相手が正確に指していれば、負けていた。

 

それは、天衣にとって受け入れがたい事実だった。

 

(……こんなの)

 

天衣は、唇を噛んだ。

 

(……こんなの、勝った気がしないじゃない!)

 

そのとき。

 

「天衣ちゃん」

 

角晴が声をかけた。

 

「……何よ」

 

天衣は、少しだけ顔を上げる。

 

角晴は、穏やかな表情をしていた。

 

「勝ったことは、ちゃんと誇っていいと思うよ」

 

「……でも」

 

「うん。あいちゃんに勝ち筋があったのも事実だね」

 

角晴は頷いた。

 

「でも、将棋って相手が間違えることも含めて勝負だからさ」

 

「…………」

 

「最後まで諦めずに指したから、天衣ちゃんは勝てたんだよ」

 

天衣は、黙って聞いていた。

 

角晴は続ける。

 

「ただ、次はもっといい将棋にしたいね」

 

「……!」

 

その言葉に、天衣の表情が変わった。

 

角晴は笑った。

 

「今日の将棋、面白かったよ。でも、まだまだ強くなれると思う」

 

天衣は、しばらく何も言わなかった。

 

そして。

 

「……当然でしょ」

 

小さく答えた。

 

「次は、もっと強くなってやるわ」

 

角晴は笑った。

 

「うん! 楽しみにしてる!」

 

その言葉に、天衣は少しだけ口元を緩めた。

 

しかし、胸の奥には別の感情が残っていた。

 

(……まだ)

 

まだ、足りない。

 

角晴に認めてもらうには。

 

正式な弟子にしてもらうには。

 

もっと、強くならなければならない。

 

───

 

感想戦を終えた後。

 

あいは、八一とともに休憩スペースへ向かった。

 

「……ししょー」

 

「ん?」

 

「……わたし、負けちゃいました」

 

八一は、静かに頷いた。

 

「うん」

 

「……勝てたのに」

 

あいの声が震える。

 

「……勝てたのに、気付けませんでした」

 

八一は、少しだけ考えた。

 

そして、あいの隣へしゃがんだ。

 

「……悔しい?」

 

「……はい」

 

あいは、小さく頷いた。

 

「すごく、悔しいです……!」

 

八一は、そんな弟子の姿を見つめた。

 

そして、静かに言った。

 

「じゃあ、その悔しさを忘れないで」

 

「……え?」

 

「今日の負けは、あいにとって大事な経験になると思う」

 

八一は続ける。

 

「将棋って、強い人でも間違えるんだ。俺だって、何度も間違えて負けてきた」

 

「…………」

 

「でも、そのたびに勉強して、少しずつ強くなっていくんだよ」

 

あいは、涙を拭った。

 

そして、まっすぐに八一を見る。

 

「……ししょー」

 

「うん?」

 

「……もっと、厳しくしてください」

 

八一は少し驚いた。

 

「……え?」

 

「もっと将棋を教えてください!」

 

あいは、力強く続けた。

 

「わたし、もっと強くなりたいです!」

 

その声には、迷いがなかった。

 

「……夜叉神さんに、負けたくないです!」

 

八一は、少しだけ笑った。

 

そして。

 

「……分かった」

 

静かに頷いた。

 

「じゃあ、これからもっと厳しくなるよ?」

 

「はい!」

 

あいは、涙を拭いながら笑った。

 

「望むところです!」

 

八一も笑った。

 

「うん。一緒に頑張ろう」

 

───

 

夕方。

 

研修会の試験が終了した。

 

夜叉神天衣は、入会を認められることになった。

 

「……合格です」

 

久留野の言葉に、天衣は少しだけ目を丸くした。

 

「……そう」

 

そして、すぐにいつもの調子に戻る。

 

「当然でしょ」

 

久留野は、小さく笑った。

 

「これからも頑張ってください」

 

「……はい」

 

天衣は、丁寧に頭を下げた。

 

その隣で、弘天が嬉しそうに笑っていた。

 

「よう頑張ったな、天衣!」

 

「……別に」

 

天衣は顔を背けた。

 

「これくらい、当然よ」

 

しかし、その表情は少しだけ嬉しそうだった。

 

晶も、静かに微笑んでいた。

 

「おめでとうございます、お嬢様」

 

「……ありがとう」

 

そして。

 

「天衣ちゃん!」

 

角晴が声をかける。

 

「合格おめでとう!」

 

「……ふん」

 

天衣は腕を組んだ。

 

「当然でしょ」

 

角晴は笑った。

 

「ははっ、そうだね!」

 

そして、少し真剣な表情になる。

 

「でも、今日の将棋は本当によかったよ」

 

「……そう?」

 

「うん。最初に会ったときより、かなり強くなってる」

 

天衣は、少しだけ目を丸くした。

 

(……強くなってる)

 

角晴が、そう言ってくれた。

 

それが、何より嬉しかった。

 

「……まあ、当たり前よね」

 

天衣は、少しだけ得意げに答えた。

 

角晴は笑った。

 

「じゃあ、これからも一緒に頑張ろうか!」

 

「……ええ」

 

天衣は頷いた。

 

しかし、心の中では別のことを考えていた。

 

(……一緒に)

 

その言葉が、妙に嬉しかった。

 

けれど。

 

(……まだ、弟子じゃないのよね)

 

角晴は、今も自分を指導しているだけだ。

 

正式な師匠と弟子ではない。

 

その事実が、少しだけ寂しかった。

 

(……でも)

 

天衣は、静かに拳を握った。

 

(もっと強くなれば、きっと……)

 

いつか。

 

角晴の方から、弟子に誘ってくれる。

 

その日まで。

 

(……絶対に、諦めないんだから)

 

天衣は、角晴の横顔を見つめた。

 

───

 

その日の夜。

 

大阪。

 

猿飛角晴のマンション。

 

「……ふぅ」

 

帰宅した角晴は、ソファへ腰を下ろした。

 

今日は、なかなか充実した1日だった。

 

夜叉神天衣。

 

雛鶴あい。

 

同じ9歳の少女たちが、初めて本気でぶつかり合った。

 

その将棋は、想像以上に面白かった。

 

(……いい勝負だったな)

 

角晴は、小さく笑った。

 

2人とも、まだまだ未熟だ。

 

しかし、それぞれに素晴らしい才能を持っている。

 

あいの読みの深さ。

 

天衣の勝負勘。

 

どちらも、簡単に身に付けられるものではない。

 

(……これからが楽しみだ)

 

角晴は、ふと今日の対局を思い出した。

 

終盤。

 

あいに詰みがあった局面。

 

そして、それを見逃した一手。

 

(……あそこ、惜しかったなぁ)

 

しかし。

 

(……でも、天衣ちゃんもよく粘った)

 

あの局面から勝ち切ったのは、見事だった。

 

そして、あいも最後まで諦めなかった。

 

(……2人とも、もっと強くなるだろうな)

 

角晴は立ち上がった。

 

研究室へ向かう。

 

机の上には、研究中の相掛かりの局面が残されていた。

 

角晴は盤の前へ座り、駒を手に取る。

 

パチンッ。

 

「……さて」

 

少し考える。

 

そして、口元に笑みが浮かんだ。

 

「……こっちも面白そうだな」

 

将棋は、まだまだ奥が深い。

 

どれだけ強くなっても、知らないことがある。

 

難しい局面がある。

 

そして、自分より強い相手がいるかもしれない。

 

だからこそ。

 

(……もっと強くなりたい)

 

角晴は、楽しそうに駒を進めた。

 

───

 

一方。

 

神戸。

 

夜叉神家。

 

天衣は、自室の将棋盤に向かっていた。

 

目の前には、今日の対局を記録した棋譜。

 

雛鶴あいとの初対局。

 

「……ここで……」

 

駒を動かす。

 

パチンッ。

 

「……こうしておけば……」

 

さらに一手。

 

しかし、すぐに首を振った。

 

「……違う」

 

もう一度並べ直す。

 

久留野から教わった7手詰。

 

自分の玉が詰んでいた局面。

 

天衣は、何度もその手順を確認していた。

 

(……あの子)

 

雛鶴あい。

 

同い年。

 

同じ名前。

 

そして、自分とはまったく違う才能を持つ少女。

 

(……強かった)

 

それは、認めざるを得なかった。

 

けれど。

 

(……次も、絶対に負けない)

 

天衣は、静かに駒を進めた。

 

パチンッ。

 

そして、ふと角晴の顔を思い出した。

 

試験の合格を伝えたとき。

 

角晴は、嬉しそうに笑ってくれた。

 

『合格おめでとう!』

 

『最初に会ったときより、かなり強くなってる』

 

その言葉が、今でも胸に残っている。

 

(……もっと)

 

もっと強くなりたい。

 

もっと褒めてもらいたい。

 

そして。

 

(……あいつの弟子に、なりたい)

 

天衣は、静かに駒を握った。

 

自分から頼むつもりはない。

 

そんなことをしたら、負けを認めるみたいで悔しいから。

 

だから。

 

(……絶対に認めさせてやるんだから)

 

いつか、角晴が自分を正式な弟子にしたいと思うほど強くなる。

 

そのために。

 

「……見てなさいよ」

 

天衣は、小さく呟いた。

 

「絶対に、あんたの弟子になってやるんだから」

 

その瞳には、強い決意が宿っていた。

 

───

 

同じ頃。

 

大阪。

 

九頭竜八一のマンション。

 

「……ししょー!」

 

研究室から、あいの元気な声が響いた。

 

「ん? どうしたの?」

 

八一が顔を上げる。

 

「この詰将棋、もう1回お願いします!」

 

八一は、少しだけ驚いた。

 

「……まだやるの?」

 

「はい!」

 

あいは力強く頷いた。

 

「今日は、まだ終わりたくないです!」

 

八一は、そんな弟子を見つめた。

 

そして、少しだけ笑った。

 

「……分かった」

 

駒を並べ直す。

 

「じゃあ、次はもう少し難しい問題にしようか」

 

「はい!」

 

あいの目が輝いた。

 

その姿を見て、八一は思う。

 

今日の敗北は、確かに悔しいものだった。

 

しかし、その悔しさが、あいをさらに強くする。

 

そして、夜叉神天衣というライバルの存在が、これからのあいに大きな影響を与えるだろう。

 

(……兄弟子)

 

八一は、ふと角晴の顔を思い出した。

 

兄弟子が見つけてきた少女。

 

その存在が、あいを変え始めている。

 

(……本当に、すごい人だな)

 

八一は小さく笑った。

 

そして、再び将棋盤へ向き直る。

 

「じゃあ、始めようか」

 

「はい!」

 

駒音が、静かな部屋に響いた。

 

───

 

夜叉神天衣。

 

雛鶴あい。

 

同じ9歳。

 

同じ名前。

 

しかし、まったく異なる才能を持つ少女たち。

 

初めての対局は、天衣の勝利に終わった。

 

けれど、それは決して終わりではない。

 

勝った者には、次への課題が残った。

 

負けた者には、忘れられない悔しさが残った。

 

そして、その両方が。

 

2人を、さらに強くしていく。

 

将棋盤の上で生まれた、小さなライバル関係。

 

その物語は、まだ始まったばかりだった。

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