チート持ち「どうせなら色んな人や動物に面白い走馬灯を仕込むか」 作:劇的な人生
20:09
一話から三話を改稿しました
袋が破れたとき、女の人は真っ先に牛乳をかばった。
豆腐は落ちた。ミニトマトも転がった。なのに、肝心の牛乳だけは両腕でしっかり抱えられている。
「……そんなに大事ですか、それ」
「大事なんです。昨日も買ったのに、もうないって言われたので」
夕方のスーパーの軒先だった。雨宿りをしていた俺が豆腐の容器を拾い、女の人が潰れかけたトマトを拾う。破れた袋を見た彼女は、牛乳を抱えたまま、ひどく困った顔をした。
「新しい袋、取ってきましょうか」
「いいんですか? あ、でもお金」
「一枚くらいなら」
「一枚でも、いただくのは悪いでしょう」
「じゃあ、あとで返してください」
言ってから、返してもらうためにまた会うのか、と気づいた。彼女も気づいたらしく、二人して笑ってしまった。
結局、俺が店内で袋を買い、彼女はその場で代金を渡してきた。十円玉を受け取るまで、なぜか頑として譲ってくれなかった。
「助かりました。帰ったらすぐご飯にしないといけなくて」
「牛乳も無事ですしね」
「そこ、一番大事なところです」
彼女は胸を張った。俺は思った。
この人、世界が滅ぶ日にも牛乳を守りそうだな。
唐突な思いつきだったが、妙に気に入った。
人類最後の日。空が割れ、大陸が沈み、神様みたいな何かが地球を踏み潰そうとしている。そんな日に、この人は買い物袋を胸に抱いている。もちろん、何も知らないからじゃない。全部知っていて、それでも家に牛乳を持ち帰ろうとするのだ。
いや、待てよ。
もっといいのがある。
世界を救う仕事をしているくせに、牛乳のことを忘れない人だ。
考えてみれば、世界の危機に関わっている人間にも、出勤日があって、休憩時間があって、帰りにスーパーに寄る日くらいあるだろう。全員が黒いマントを翻して叫んでいる必要はない。
天気予報を見て傘を持ち、出勤簿に判子を押し、異常を報告するための書類が三枚必要で、なのに肝心の設備は先月から調子が悪い。そういう職場が、人類の命運を握っている。
……かなりいい。
俺はその場で、頭の中に街を一つ作り始めた。
空には海がある。逆さまになった海の底を、巨大な魚が泳いでいる。潮が満ちると空の青さが深くなり、街の人々は窓を閉める。遥か昔に造られた設備が海を支えているが、その設備が何のために造られたのかを、もう正確に知る者はいない。
女の人は地下の管理施設で働いている。特別な血筋も、世界を救う才能もない。だけど仕事はできる。若い頃は失敗もしたし、部下を叱りすぎて泣かせたこともある。古い階段の三段目が軋むのを知っていて、夜勤のときには必ず温かい飲み物を二つ買う。
ある日、空の海が落ちてくる。
街じゅうの人間を避難させ、最後に残るのは彼女と、長い付き合いの同僚だ。二人で最終弁を閉じなければならない。扉の内側には、一人しか残れない。
その男は最後に、世界の命運とはまるで関係ないことを言う。
『帰りに牛乳を買ってきてくれ。今度こそ忘れるなよ』
『昨日も買ったでしょうが』
そこで二人は笑う。
馬鹿みたいだ。
世界が終わりかけているときに、牛乳である。けれど、二十年も一緒に働いた人間が最後に交わす会話としては、むしろそのくらいがいい。壮大なお別れの言葉など、いつだって言えるわけじゃない。
俺は一人でうなずいた。
女の人はもう袋を持ち直し、道路の向こうへ歩き出そうとしていた。信号が赤になったおかげで、まだ少しだけここにいる。
俺は雨粒を払うふりで、彼女の背中へ手を向けた。
そして今考えた人生を、思い浮かべる。青い空の海。地下施設の湿った空気。手袋の擦れた指先。失敗した点検。くたびれた同僚。ありふれた仕事の日々と、最後に閉じる扉。
俺には、そうして作り上げた人生を、他人の走馬灯へ紛れ込ませることができる。
生きている人間の頭へ、好きなときに思い出を流し込めるわけではない。俺が仕込んだものが姿を現すのは、相手が死に直面するときだ。その瞬間に限って、当人には自分が生きた人生として見えるらしい。
少なくとも、俺に与えられた能力というのはそういうものだった。
相手がいつそんな目に遭うのか、俺には分からない。そもそも何も起きず、一生を終えるかもしれない。仕込んだからといって、目の前で光が出るわけでも、本人が礼を言ってくれるわけでもない。
世界を征服するには、いささか不向きだ。
だから使い道を探すのは、もうやめた。
せっかく他人に存在しない人生を贈れるなら、せめて面白い人生を贈ろう。そう決めて以来、退屈な外出が少し楽しくなった。
向こうの歩道へ渡った女の人が、一度だけこちらを振り返った。
「本当に、ありがとうございました!」
「牛乳、気をつけて!」
彼女はまた笑い、雨の向こうへ消えた。
俺はスマホを取り出し、メモに書き込む。
『空の海/地下施設/女の責任者/最後の扉/牛乳』
そして、しばらく画面を眺めた。
「……あ」
男の名前を決めていなかった。
あれだけ長く一緒に働いた相手に、名前がないのは変だろうか。いや、長い付き合いでもずっと「主任」と呼ぶことはあるか。よし、それでいこう。
メモの最後に『主任(名前未定)』と足した。
そのあと、別の考えが浮かんだ。
どうせなら、主任のほうの人生も、誰かに仕込んでみたい。
一人は世界を救って生き残り、もう一人は扉の向こうに置き去りにされる。二人とも、互いのことを心の底から覚えている。ところが、今いる日本では会ったこともない。
その二人が、いつかどこかですれ違ったら。
「……いや、都合よすぎるか」
俺は笑ってスマホをしまった。
同じ空を二つの人生から見る、という発想だけは、あとで使おうと思った。
*
それから幾年かが過ぎた。
三宅佳乃は夕食の支度をしていた。
炊飯器の蓋を開け、味噌汁の火を弱め、冷蔵庫を開ける。中には牛乳が二本あった。一本で十分だと言ったのに、家族がまた買ってきたのだ。
「だから、まだあるって言ったのに」
ぼやきながら一本を奥へ押し込む。冷蔵庫の扉が閉まったところで、胸の奥に嫌な痛みが走った。
最初は、何かにつまずいたような、ほんの短い痛みだった。
佳乃は流し台に手をついた。息を吸おうとして、うまく吸えないことに気づいた。床が少し遠くなった気がして、もう一度台に体重をかける。
廊下から家族の声がした。
「ご飯、まだ?」
返事をしようとした。だが、喉から出たのは声にならない息だけだった。
目の前が暗くなる。
佳乃は膝をつき、次いで床に倒れた。誰かが走ってくる足音がした。名前を呼ばれた。救急車を、と叫ぶ声も聞こえた。
そのすべてが、急に遠くなる。
こんなところで死ぬのだろうか。
そんなはずはない。今朝だって普通だった。洗濯物を干し、買い物に行き、特売の卵を買いそびれて腹を立てた。明日の予定もある。夕食の途中だ。味噌汁の火だって、まだ――。
誰かがコンロの火を止めた音がした。
よかった、と佳乃は思った。
それを最後に、台所が消えた。
*
「三宅! 上に連絡がつかない!」
手すりを掴んだとたん、佳乃は指先の皮が剥けるほど強く握っていたことに気づいた。
地下二十七階。非常灯が赤く瞬き、階段の外側では空の海がゆっくり傾いている。魚影が一つ、ひび割れた観測窓の向こうを滑った。
海が落ちてくる。
それを食い止めるために、自分はここへ来た。
何もおかしくない。ここは長年働いてきた職場で、あの窓は春先になると結露し、三段目の階段は相変わらずひどい音を立てる。
佳乃は階段を駆け下りた。
「七番を落として! 先に外側の電源を切る!」
「七番を切ったら昇降機が止まります!」
「分かってる! どっちみち乗る時間なんてないでしょう!」
若い職員が何か言い返したが、途中で口をつぐんだ。
彼の顔を見て、佳乃は別の朝を思い出した。初めて配属されたばかりの彼が、書類の提出先を間違えて泣きそうになっていた朝。別の職員が辞めた夜。点検がうまくいき、珍しく全員で食堂へ行った日。休みを取った同僚の机に、誰かが菓子を一つ置いていたこと。
そんな日が幾つもあった。
ここで働いた時間は、決して短くない。
最下層へ到着すると、主任が制御室の前に立っていた。古い作業着の袖がまくれていて、いつもと同じように、片方の手袋だけをつけていない。
「遅いぞ」
「あと二分ある」
「二分で全部終わらせるつもりか」
「一分半で済ませる。残り三十秒は文句を言う時間」
主任は笑った。
その笑い方を、佳乃は知っていた。
初めて一緒に夜勤したときも、設備を壊して二人で始末書を書いたときも、この人は同じように笑った。佳乃が仕事を辞めると言い出したときには、笑わずに黙っていた。それから何日も口をきかなかったくせに、復帰した朝には、何も言わず温かい飲み物を机に置いてくれた。
「外側の電源は切った。あとは中の弁だけ」
「主任が入るの?」
「俺のほうが詳しい」
「私だって手順を覚えてる」
「お前は外から扉を閉める役だ」
すでに決まっていたことを、主任は当たり前のように告げた。
最後の弁を閉めれば、空の海は止まる。だが、弁が固定されるまで、内側から手を離すことができない。固定された時点で制御室は海の圧力を受け、外へ戻る道はなくなる。
一人は残らなければならない。
佳乃は知っていた。主任も知っていた。ここへ来る前に目を通した手順書にも、はっきりそう書かれていた。
それでも、誰が残るかまでは、書いていなかった。
「私が入る」
「お前は外にいる家族のところへ戻れ」
「主任だって、帰るところがあるでしょう!」
怒鳴り返した佳乃に、主任は少しだけ困った顔をした。
それはそうだ、と思った。彼が帰る場所を、自分は知っている。食べ物の好き嫌いも、休日に何をしているかも。職場で眠そうにしているときの理由も、言わなくなった家族の話も。
何年も一緒にいたのだから。
なのに、どうしてだろう。
佳乃は彼の名前を呼ぼうとして、言葉に詰まった。
いつも「主任」と呼んでいた。その呼び方で足りていた。顔も声も、指先の傷の位置まで知っている相手なのに、今さら別の呼び名が必要になるとは思わなかった。
「三宅」
主任が言った。
「そろそろだ。閉めてくれ」
制御室に青い光が満ち始めた。背後の窓に、海面の影が重なっている。佳乃は外側の操作盤に手を置き、扉の向こうへ入った主任を見た。
最後に何を言えばいいのか、分からなかった。
ありがとう、では足りない。ごめんなさい、では違う。助けてもらったことも、腹が立ったことも、もう会えないことも、そんな短い言葉には収まらない。
主任は操作盤の方を見たまま、ふいに言った。
「帰りに牛乳を買ってきてくれ。今度こそ忘れるなよ」
佳乃は思わず、笑ってしまった。
「昨日も買ったでしょうが」
「そうだったか」
「そうよ。あなたが全部飲んだの」
「じゃあ二本だな」
くだらない話だった。昨日も、一昨日も、きっと似たようなことを話した。明日だって、同じことを言い合うはずだった。
佳乃は扉を閉めた。
向こう側で主任が手を上げる。佳乃も手を上げ返した。覗き窓に走った青い光が、その顔を隠す。
施錠の音がした。
やがて、天井の向こうから聞こえていた海鳴りが止んだ。
街は助かったのだろう。これで、明日も誰かが学校へ行き、誰かが仕事に遅れ、誰かがスーパーで牛乳を買う。
佳乃は扉に手をつけたまま、立ち尽くしていた。
主任の顔は、はっきり覚えている。
一緒に過ごした日々も、最後の笑い方も。
ただ、その人の名前だけが、どうしても出てこなかった。
*
「お母さん! お願い、返事して!」
誰かの声が聞こえた。
扉を叩いていた手の感触が薄れ、別の手が自分の肩を揺さぶっているのを感じた。胸が痛む。空気が足りない。遠くで救急車の音がしたような気がした。
佳乃には、帰らなければならない場所が二つあった。
一つは、今さっき閉ざした地下の制御室。もう一つは、牛乳が二本入った冷蔵庫のある家。
どちらにも、確かに自分が過ごした日々がある。どちらにも、大切な人がいる。
けれど、今、すぐそばで自分を呼んでいるのは――。
佳乃は何とか口を動かそうとした。
返事が声になったのかどうかは、分からない。
ただ最後まで、扉の向こうのあの人に、名前で別れを告げられなかったことだけが、どうしようもなく悲しかった。
*
ずっと昔、雨のスーパーの軒先で、俺はスマホに一行だけ書き残していた。
『主任(名前未定)』
その名前を決めなかったことを、俺はとっくに忘れていた。