チート持ち「どうせなら色んな人や動物に面白い走馬灯を仕込むか」 作:劇的な人生
母が目を覚ましたとき、私はちょうど自分の手を見ていた。
右の人差し指に小さな傷がある。鍋の火を止めたときにつけたものだ。痛みはもうほとんどなかったけれど、母が倒れているのを見つけてから、私は何度もそこを触っていた。
「……何してるの」
聞き慣れた声だった。少し遠くて、ひどくかすれているのに、母の声だとすぐ分かった。
「起きた」
「うん」
「起きたんだね」
同じことを二度言うと、母は困ったように眉を寄せた。いつもなら「一回で聞こえる」と返すところだ。でも今日は、息をすることにさえ気を使っているようだった。
私は人を呼んだ。母は何か言いたそうにしていたけれど、今は話すより休んでください、と言われて素直に目を閉じた。
それから半日ほどたって、短く話せる時間ができた。
「鍋は」
「止めたよ」
母の口が、ほんの少し緩んだ。
「よかった」
「そっちが先なの」
「だって、火事になったら困るでしょ」
私は笑って、それから顔を伏せた。何日か前、火を止めたことをひどく後悔した。母が倒れているのに、どうして私は先にそんなことをしたのだろう、と。母にとっては、それがちゃんと意味のあることらしい。
母が手を伸ばしてきた。指を握る力は弱かったけれど、私はしばらく離せなかった。
「ねえ」
「なに」
「変なこと、言うかもしれない」
私は椅子を近づけた。
「変なことなら、いつも言ってるよ」
「そうだった」
母は一度目を閉じた。笑っていた顔から、急に別の何かが遠ざかっていくみたいだった。
「主任がね、帰ってこないの」
私は手を握り直した。
「主任って、職場の人?」
「……そう、だと思う」
「名前は?」
母は目を開けた。
「それが、分からないの」
母には昔から知り合いが多い。私が名前を知らない人もいる。だから主任という人がいてもおかしくはない。でも母の言い方は、そういう相手を思い出せない人の言い方とは少し違っていた。
「長いこと一緒だったのに。あの人の顔も、声も、帰りたがっていたことも覚えてるのに」
そこまで言って、母は息を整えた。
「お願いしてもいい?」
「何?」
「紙。書くものが欲しい」
すぐに持ってきた小さなメモ帳の一枚に、母は時間をかけて三つの言葉を書いた。
『主任』
『七番』
『牛乳』
文字は少し曲がっていた。
「これ、何?」
「分からない。でも忘れたくない」
母はペンを置き、紙を私の方へ押した。
「変なことだって分かってる。だけど、少し元気になったら、これが何なのか一緒に探してくれない?」
私は答えに迷った。母にはまず眠ってほしかった。仕事のことだって、退院してから考えればいいと思った。
それでも紙を受け取った。
「分かった。でも、今日は休む。約束」
「……はい」
母は目を閉じた。今度は安らいだ顔になった。
私はメモを裏返してみた。三つの言葉は透けて見えなかった。
母が書いたものなのに、私には何も分からない。
けれど、その紙を持つ人間が一人増えた。
病室を出る前に振り返ると、母は薄く目を開けていた。
「ねえ」
「なに?」
「二本、あった?」
私は思わず笑った。
「あるよ。冷蔵庫にちゃんと二本」
母もうなずいた。
何十年も一緒に働いたという、名前のない男のことは、まだ分からない。
でも母は生きている。
だから私は、母の頼みごとを引き受けた。