チート持ち「どうせなら色んな人や動物に面白い走馬灯を仕込むか」   作:劇的な人生

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第二話

母が目を覚ましたとき、私はちょうど自分の手を見ていた。

 

 右の人差し指に小さな傷がある。鍋の火を止めたときにつけたものだ。痛みはもうほとんどなかったけれど、母が倒れているのを見つけてから、私は何度もそこを触っていた。

 

「……何してるの」

 

 聞き慣れた声だった。少し遠くて、ひどくかすれているのに、母の声だとすぐ分かった。

 

「起きた」

「うん」

「起きたんだね」

 

 同じことを二度言うと、母は困ったように眉を寄せた。いつもなら「一回で聞こえる」と返すところだ。でも今日は、息をすることにさえ気を使っているようだった。

 

 私は人を呼んだ。母は何か言いたそうにしていたけれど、今は話すより休んでください、と言われて素直に目を閉じた。

 

 それから半日ほどたって、短く話せる時間ができた。

 

「鍋は」

「止めたよ」

 

 母の口が、ほんの少し緩んだ。

 

「よかった」

「そっちが先なの」

「だって、火事になったら困るでしょ」

 

 私は笑って、それから顔を伏せた。何日か前、火を止めたことをひどく後悔した。母が倒れているのに、どうして私は先にそんなことをしたのだろう、と。母にとっては、それがちゃんと意味のあることらしい。

 

 母が手を伸ばしてきた。指を握る力は弱かったけれど、私はしばらく離せなかった。

 

「ねえ」

「なに」

「変なこと、言うかもしれない」

 

 私は椅子を近づけた。

 

「変なことなら、いつも言ってるよ」

「そうだった」

 

 母は一度目を閉じた。笑っていた顔から、急に別の何かが遠ざかっていくみたいだった。

 

「主任がね、帰ってこないの」

 

 私は手を握り直した。

 

「主任って、職場の人?」

「……そう、だと思う」

「名前は?」

 

 母は目を開けた。

 

「それが、分からないの」

 

 母には昔から知り合いが多い。私が名前を知らない人もいる。だから主任という人がいてもおかしくはない。でも母の言い方は、そういう相手を思い出せない人の言い方とは少し違っていた。

 

「長いこと一緒だったのに。あの人の顔も、声も、帰りたがっていたことも覚えてるのに」

 

 そこまで言って、母は息を整えた。

 

「お願いしてもいい?」

「何?」

「紙。書くものが欲しい」

 

 すぐに持ってきた小さなメモ帳の一枚に、母は時間をかけて三つの言葉を書いた。

 

『主任』

『七番』

『牛乳』

 

 文字は少し曲がっていた。

 

「これ、何?」

「分からない。でも忘れたくない」

 

 母はペンを置き、紙を私の方へ押した。

 

「変なことだって分かってる。だけど、少し元気になったら、これが何なのか一緒に探してくれない?」

 

 私は答えに迷った。母にはまず眠ってほしかった。仕事のことだって、退院してから考えればいいと思った。

 

 それでも紙を受け取った。

 

「分かった。でも、今日は休む。約束」

「……はい」

 

 母は目を閉じた。今度は安らいだ顔になった。

 

 私はメモを裏返してみた。三つの言葉は透けて見えなかった。

 

 母が書いたものなのに、私には何も分からない。

 

 けれど、その紙を持つ人間が一人増えた。

 

 病室を出る前に振り返ると、母は薄く目を開けていた。

 

「ねえ」

「なに?」

「二本、あった?」

 

 私は思わず笑った。

 

「あるよ。冷蔵庫にちゃんと二本」

 

 母もうなずいた。

 

 何十年も一緒に働いたという、名前のない男のことは、まだ分からない。

 

 でも母は生きている。

 

 だから私は、母の頼みごとを引き受けた。

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