チート持ち「どうせなら色んな人や動物に面白い走馬灯を仕込むか」 作:劇的な人生
数年前。雨のスーパーで牛乳を守った女の人と別れてから、まだ数日しか経っていなかった。
俺は電車で、スマホのメモを眺めていた。
『主任(名前未定)』
世界の終わりに、扉の向こうへ残る男。片方の手袋を外していて、最後に牛乳を買ってこいと言う。
「……こいつ、そこに行くまで何をしてたんだ?」
女の人には地下施設で二十年働いた人生を仕込んだ。主任とは言い争いもしたし、笑ったこともある。そういう日々を、俺が勝手に作った。
ところが主任自身については、ろくに考えていない。
彼女の記憶の中では、ちゃんと生きていた男だ。それを今から作るのは順序が逆な気もするが、まあいいだろう。
「向こう側も作るか」
そう呟いたところで、スマホが指から滑った。
「あっ」
ドアが開く。座席の端で跳ねたスマホが、ホームへ転がっていった。慌てて降りたが、人の足に隠れた一瞬の間に見失った。
よりによって、人生を作りかけたところで。
*
「黒いケースで、角が割れてます。あと、カメラの横に白い傷が」
「背面ですか?」
「はい。……たぶん」
忘れ物窓口の男は、俺の曖昧な説明を一つずつ書き留めた。どの車両に乗ったか、どこで降りたか。尋ねられるたび、何となく覚えていたはずのことが怪しくなっていく。
「機種名は分かりますか」
「調べれば……あ、スマホがないんだった」
男は笑わずに待ってくれた。俺がようやく答えると、奥へ確認に行った。
その間にも、傘を忘れた人や定期券を探す人が来る。男の同僚は、どこで何をなくしたのか分からない客に、怒らず順番に聞き直していた。
ここでは毎日、知らない誰かの困りごとが持ち込まれるのだろう。
しばらくして、さっきの男が戻ってきた。
「似た物はありますが、背面に傷がありません」
「えっ。絶対ありますよ」
言い返してから、思い出した。
傷がついていたのはケースではなく、その下の本体だ。俺はケースをつけたまま、見えない傷を説明していたのだった。
「……すみません。中です」
「中、ですか」
男は一度だけ目を閉じ、それからもう一度奥へ行った。
怒られるかと思ったが、今度は本体を確認するための手続きを説明してくれた。角が割れた黒いケースが目の前に出てきたとき、思った以上にほっとした。
「これです。助かりました」
「見つかってよかったです」
男は次の人を呼びかけ、ふと思い出したように言った。
「今度は落とさないようにしてくださいね」
「……善処します」
そこで、ようやく少し笑った。
*
改札のそばでスマホを開く。
『主任(名前未定)』
さっきまで作りかけていた男が、少し違って見えた。
誰かを救う人間だって、四六時中立派なことを言っている必要はない。人の説明を聞き直して、面倒な確認をやり直して、終われば次の人を呼ぶ。そんな仕事をしている人が、世界の終わりにたまたま当番だったら。
「……いいな、それ」
俺は続きを書いた。
主任は仕事が好きなわけではない。休みは休みたいし、他人の間違いには文句も言う。けれど点検票に気になる数字があれば、見なかったことにはできない。
女の責任者とは長い付き合いだ。二人で設備を壊して始末書を書いたこともある。彼女は決断が早く、たまに人の話を最後まで聞かない。腹が立ったことは何度もある。それでも彼女に助けられた日も、同じくらいあった。
最後の日、空の海が落ちかける。
弁を押さえる役には一人残らなければならない。主任は自分が入ると言った。
怖くなかったわけじゃない。
家に帰りたかった。洗濯物も片づけていないし、朝に聞いたくだらない話の続きも気になる。でも自分が外へ出れば、彼女が中に残る。
だから主任は、設備には自分の方が詳しいような顔をして、扉を閉めさせた。
『帰りに牛乳を買ってきてくれ。今度こそ忘れるなよ』
『昨日も買ったでしょうが』
ああ、よかった。
彼女は最後まで、いつもの彼女だった。
――と、ここまで書いて首をひねった。
「ちょっといい人すぎるな」
こいつは、自分の犠牲を美談にされたら怒る男の方がいい。あの弁は手順書どおりに動かなかったのだ。最後の瞬間まで、設備の故障に腹を立てていたに違いない。
生きて帰れたら、報告書に書いてやろう。
『最終弁、作動不良。改修を強く要望』
誰も読まないかもしれないけれど。
女の人の記憶では、主任は落ち着いて扉に入った。主任自身の人生では、死ぬほど怖かったことにしよう。
同じ出来事を、別々の人間が別々に覚える。しかも、どちらも嘘をついているつもりはない。
その食い違いが、妙に面白かった。
窓口を見ると、男は別の客から傘の特徴を聞いていた。さっき俺にしたのと同じように、曖昧なところだけ聞き返している。
この人にしよう。
俺は窓口の横を通り過ぎるふりをして、軽く手を上げた。
地下の階段。古い点検票。仕事に文句を言いながら帰り支度をする夜。ずっと隣にいた女。最後に閉まる扉。
いま作った人生を、一つながりの記憶として思い浮かべる。
男は顔を上げない。死にかけているわけでもないのだから、当然だ。
俺はメモに足した。
『空の海/主任側/忘れ物窓口』
『主任も、帰りたかった』
名前は、また決めなかった。
あの男が現実に何という名前で、どこへ帰るのかは、俺の知らない話だった。
*
窓口の男は、仕事の終わりに同僚から引き継ぎを頼まれた。
「特徴が違うなら、同じ傘だと決めないでください。分かるところまででいいですから」
そう伝えて鞄を持つ。今日は友人との約束があった。
さっきの妙な客が、自分を世界の終わりに取り残す人生を作ったとは知らず、男は駅を出た。
駅の外では雨が上がりかけていた。約束の時間を確かめて、男は少しだけ歩く速さを上げた。