チート持ち「どうせなら色んな人や動物に面白い走馬灯を仕込むか」 作:劇的な人生
人間の一生を二つも作ったというのに、俺は犬の人生について何も知らなかった。
そりゃそうだ。普通に生きていれば、犬と二十年同じ職場に勤めたりしない。第一、犬が職場にいる必要もない。
でも、空の上に海がある街には、犬くらいいたっていいだろう。
これも数年前、忘れ物窓口でスマホを返してもらった日の帰り道だ。小さな犬が工事用の柵を嗅いでいた。
「なあ、お前なら、あの街で何してた?」
犬は無視した。
飼い主の人が代わりに笑った。
「いつもこんな感じなんですよ。食べ物の匂いばかり気にして」
「そうなんですね」
なるほど。人間が世界の終わりに弁を閉めている間、犬は地下の通路で昼飯の匂いを追いかけていたのかもしれない。
そこで俺は、空の海に三つ目の人生を作った。
停電した廊下。床の冷たさ。誰かの落としたパンの匂い。遠くで泣く人の声。犬は意味も分からず走り、閉じ込められた職員を見つける。
そいつが世界を救ったと知る者は誰もいない。
そんな人生を思い浮かべながら、俺は犬へ手を向けた。
犬がくしゃみをした。
「風邪かな」
飼い主は首をかしげ、リードを少し引いた。犬はすぐに歩き出す。もちろん、今ここで何か特別な行動を始めるわけじゃない。
俺の頭の中では世界を救った犬が、現実には枯れ葉を踏んで帰っていった。
悪くない。
*
「お前、またその街の話か」
数日後、佐伯にそう言われた。
「今度は犬だ」
「犬?」
「知らないところで人間を助けてた犬」
「世界が滅ぶ街だろ。どうやって助けたんだよ」
「それを今から考える」
「考えてから来い」
紙コップを持った佐伯は、俺のスマホを覗き込んだ。
「で、あの主任には名前がついたのか」
「いや」
「二十年も一緒にいたんだろ」
「俺の方では決めてないんだよ」
「それ、女の人がかわいそうだな」
俺はちょっと驚いた。
俺が面白がっているのは、別々の人間へ同じ世界の違う人生を仕込めることだ。佐伯は、架空の女の人が名前を呼べないことの方を気にしている。
「書いてみろよ」と佐伯が言った。
「何を」
「その話。俺だけが聞くのももったいない」
走馬灯を使えば、死ぬ間際にしか読めない超豪華小説を一人に配れる。たしかにそれは俺の趣味だ。
でも、普通に公開したら、誰かに感想をもらえるかもしれない。
世界を滅ぼすような話なのに、十円玉が好きな読者が現れたりするのだ。
それも面白い。
俺は書き始めた。名前のない主任と、牛乳を二本買っていた女の人の話を。
書き上げて公開すると、佐伯から短い感想が届いた。主任の名前をまた聞かれたので、まだ決めていないと返した。
*
その話は、何年かたってもネットの片隅に残った。
空にある海。地下施設。七番。最後の扉。名前のない主任。
それを公開したことで、何が起こるかなんて考えなかった。
考えたくなかった、と言う方が正しいかもしれない。
何年か後、あの文字列を探す誰かがいることを、当時の俺は知らなかった。
*
それでも俺は、空の海ばかりを作っていたわけではなかった。
通りすがりの人を見て、別の人生がふっと浮かぶことがある。港の案内所で、観光客の手袋を追いかけて走る女性を見かけた日には、帰らない誰かを灯台で待ち続ける人生を一つ仕込んだ。
その女性は何も気づかず、次の客へ道を教えに戻った。俺も、そのあとのことは知らない。
自分の書いた小説には感想が届く。走馬灯には届かない。
俺は両方を、しばらく楽しんでいた。