inning:1 泡沫の夢
——全てのドラマを、青空は見守っていた。
暦は夏。世間は蝉の喧しさと蒸し暑さに疲弊し、ただただ過ぎ去るのを待ち兼ねる。しかし今、そんな夏の暑さも蝉の音も掻き消す程の熱気を生み出す場所が、この青空の下にはあった。
——兵庫県西宮市・阪神甲子園球場。
響き渡るのはアルプススタンドの大応援。吹奏楽によって統率された感情と願いは、渋滞する事なくグラウンドの選手達に行き届く。
それらは全て力となり、盛夏の暑さすら忘れるほどの感動と熱狂を生む。決した勝敗に片や笑い、片や涙を流して青春に別れを告げることとなる。そんなドラマに、いつしか内野も外野も酔いしれていた。
《3番・キャッチャー、
——ツーアウト満塁。一打逆転のチャンス。そんなどこかの漫画のような展開を、いつ誰が任されるのかも分からない。緊張に震える体を真夏の灼火は蒸し、込み上げる勝利への信念は気温以上の暑さを心に生み出す。
全ての球児が目指す夢舞台・甲子園。その切符の行く先は、神のみぞ知る。
夢にまで見て、恋焦がれて、泣いて、泥に塗れて。恥も外聞も要らない。あるのは勝負に懸ける矜持と想いだけ。
ここに来るまでに何度もバットを振り、幾度と無く死線のような厳しい練習を乗り越えた。なのに最後は、居るのか居ないのかも分からない野球の女神様にその全てを託す──。
そんな矛盾に命を懸け、闘志を燃やす瞬間に。
──彼は、悦び狂っていた。
△▽
「……」
……心地良い、朝風だった。
寝ぼけて目も頭も冴えない中で感じたその心地良さに、二度寝へのハードルが格段に下がっていく。しかし今日は平日。高校生の自分は、これから学校に行く身支度をしなければならない。
今日ほど休日でない事を恨む日は無い。心地良さが恨み節に変わる。心の中でそんなセルフ連想ゲームをした後、眠い目を擦りながら制服に身を包み、下の階へと重い足取りを向けて行った。
「おはよう
「おはよう……」
言葉を発せば欠伸が出る。眠そうだな、と苦笑いする父親を背に顔を洗い、漸く目が覚めてきた俺はリビングで待つ父親と共にトーストに齧り付いた。
「……そういえばさ、親父……俺の部屋の隣の空き部屋、
「んん? 何の話や?」
「親父俺に掃除させただろ。忘れたんかいな」
「ああ。忘れてた。すまんすまん。ゔ、ゔゔん」
「……何や、改まって」
「実はな扇詩。父さんな、再婚することにしたんや」
「お、おお……そ、そうなんか。お、おめでとうございます」
「ありがとう。今日の晩からこの家に住むからそのつもりで
「襲わんわ。やから隣の部屋掃除させたんか」
「そうそう。言ってくれて助かったわ。ありがとうな」
「……まずは掃除してくれたことに礼を言わんかい」
こんな抜けた親父ではあるが、証券会社に勤めながらシングルファザーとして俺をここまで育て上げた人だ。色々迷惑も掛けてるし文句は言えない。取り敢えず今は、幸せを掴んだことを祝福しよう。
「おはよー」
「おはよー
「おはよ!」
兵庫県
「……」
「
「……ん?」
クラス1の美少女と名高い
「この席良いよね、
「……」
俺が座るのは窓際の席だ。そしてそこから見えるのは、野球の聖地・阪神甲子園球場。球児なら誰もが、あの場所でプレーすることを夢見たであろう。俺もその内の1人で、何より今でもそれを望んでいる。
「……席、変わろか?」
「あ、いや! 大丈夫! そういうわけじゃないから!」
「ホームルームを始めるぞ、皆席に着け」
「あ。ごめんね」
手をひらりと振った斉投に手を振り返す。担任の平山先生が教卓に立ち、教室は静まり返る。日直の号令で一礼し、平山先生司会のもと今日1日がスタートした。
(……そういえば、今日再婚相手来るぅて
ふと、甲子園球場を見ながら朝の会話を思い出す。
(美空ちゃん……やったか)
ちらっ、と斉投の横顔を一瞥する。
(……なわけ、無いわな)
そんな事を思いながら、俺の1日はゆっくりと過ぎて行った。
▽△
……時間後。PM19時。
「ただいま~」
「おおやっと帰ったんか扇詩。さぁさぁ早よリビングへ来い」
「待てや、手くらい洗わせろや」
「お前なぁ、今日再婚相手が来るって
「あ、やべ……い、急ぐわ」
やっべ、トレーニングに夢中になって忘れてた。てか時間言ってなかったよな?
「すいません。お待たせしました」
「いえいえ、大丈夫ですよ~」
「こ、こんばんは~」
「こんばんは~…………」
「…………」
「……ん? どうした2人とも」
「は、花咲くん!?」
「斉投……!? お、おい親父! どういう事や!?」
「
「そりゃあまぁ言うとったけど……」
(連れ子って斉投美空やったんか)
(連れ子って花咲くんだったんだ……)
「美空、あんた顔赤いわよ」
「ね、熱でもあるんか?」
「だ、大丈夫! 大丈夫ですから!」
「そ、そうか……取り敢えず扇詩、突っ立っとらんで座れ」
「あ、ああ……」
「にしても……扇詩君? 体大きいわねぇ。身長何センチくらいあるの?」
「184センチです」
「まぁ。お父さんと同じくらいねぇ」
「俺より大きいで。なぁ」
「おん、まぁそうやな」
「……」
「ほら美空、何か無いの」
「えっ? あ、え、えーっと……」
「美空ちゃんは扇詩と同じ学校だったやんな? クラスは?」
「お、同じです。2ーA」
「おお。そうか。おい扇詩。守ったれや」
「何でやねん」
「同じクラスに扇詩君が居てくれたら安心だわ~」
「お前も男やろ。期待に応えんか」
「調子の
ふと斉投……今日からは美空と呼ぶべきか。美空の方を見ると、ほんのりと頬が赤い。目が合うと逸らす。でもサイドポニーは相変わらず犬の尻尾だ。ダメだこれ、守る前に嫌われてるわ。確信。
「そういえば扇詩君、さっきまで何してたの? 部活?」
「あーー……ま、まぁ、そんなとこです」
「へぇ、何してるの?」
「一応、野球です」
「野球! かっこいいわねぇ。学校から帰ってすぐ練習してたの?」
「まぁ、はい」
「こいつ、野球部でもないのに野球の練習ばっかりしとるんや」
「そうなの? ウチの美空も同じよ。ねぇ」
「あ、う、うん……お、扇詩くんも野球やるんだ?」
「ああ……まぁ」
「美空ちゃん、ポジションは?」
「ぴ、ピッチャーです」
「ピッチャー! 丁度
「どっちでも
「キャッチャー……」
「……ん?」
「あ、うんうん。大丈夫。何でもない」
「……あれ? 美空、彗勢に普通の野球部ってあったっけ」
「うんうん、無いよ。男女混合野球部だけ」
「男女混合野球かぁ。お父さん、こんな汗臭い男の中に美空ちゃん入れたないなぁ」
「ケッ」
「あれ? どういうこと? 扇詩君は混合野球部の人なの?」
「いいえ、違います。まぁ……その、フリーです」
「何で野球部の無い彗勢に入ったの? 混合野球をやるため?」
「いいえ、そういうわけでは」
「コイツプロ野球選手目指しとんねん」
「あらそうなのね。でもそれなら尚更、高校野球やった方がいいんじゃないの?」
「……まぁ、それはそうなんですけど」
「コイツにも色々あるんよ。思春期やから。美空ちゃんのこといやらしい目で見たり」
「えっ」
「見 て へ ん わ」
「ホンマか?」
「家 族 や ぞ」
「さよか」
そんな会話をして、新しい家族生活がスタートした。いつも通りに風呂に入りたい所だが、レディーファーストが我が家の家訓らしく風呂の待ち時間が長引いた。あのクソ親父め、風呂冷めてんじゃねぇか。寒いったらありゃしない。
「……あ」
「……おう」
ふと美空と目が合う。互い金縛りに合ったように動けず時間だけが過ぎていく。気まずい空気を振り払う為に、俺は一言だけ呟いた。
「……おやすみ、美空」
「お……おやすみ、扇詩くん」
かちゃり。扉を閉める。家族は増えたが、この部屋は変わらない。変わらないはずなのに、新しい家に来たような新鮮さと落ち着かなさがある。何より隣に、あのクラス1の美女・斉投美空が居ると考えたら落ち着かないのは、健全な思春期の男からすれば当然だ。
そんな奴に「おやすみ、美空」て。どんだけキザなんだ俺は。恥ずかしくて死にそうだ。
「……もう寝よ……明日も早い」
そう呟いて、眠れもしない夜に目を閉じるのだった。
△▽
——翌日。
「美空、帰ろ~」
「あ、ごめん。私今日部活」
「え~行くん? カラオケしよ?」
「ごめんね。じゃ」
友達の誘いを断り教室を出る。ふと思い出し、窓際の席を一瞥した。
「……」
誰も居ない。花咲扇詩は先に帰路についたようだ。短いスカートが翻らないよう注意しながら小走りで昇降口まで行くと、
「花咲くん!」
「ん……?」
今出ようかという彼を見つけた。慌てて靴を履き替える自分の姿を見て困惑している。そんな彼に、私は勇気を振り絞って言った。
「きょ、今日さ……その、私も一緒に練習していい? 扇詩くんと」
「……俺と? 混合野球部はどうしたん?」
「今日……休みなの。ほんとはね。でも、その……扇詩くんと野球してみたくて」
「……そうか。でもちょっと移動すんで」
「グラウンドあるから! そこ使えば良いよ」
「良
「うん、大丈夫! 私キャプテンだし!」
「そういう問題なんか分からんけど……じゃあ、御言葉に甘えて」
「うん! ちょっとグラウンドで待ってて! すぐに行くから!」
「お、おう……」
——男女混合野球。文字通り、男女が同じチームで競う野球。既存の野球と殆どルールは同じで、最近はトレンドになりつつある。
近年の出生率の低下や強豪私学の不適切問題等、野球を取り巻く環境が変化してきた昨今。今逆に増えつつある女子選手やドロップアウトした男子選手などの受け皿となるべく誕生したのが、この男女混合野球だ。
とはいえどまだまだ黎明期で、所謂夏の大会に参加する高校は全国を探しても60校程。秋に関しては50にも満たない。そしてその大半が、硬式野球部やソフトボール部から助っ人を借りるなどして参加した急増の寄せ集めチームなのだ。
「……ここ、やんな」
裏門の目の前。この裏門が開いているのを見た事が無い。水泳部が活動するプールの目の前、全長60m程の小さなグラウンド。よく見れば外側は芝生が生い茂り、グラウンドはあまり整備されていない。本当にこんな所で混合野球部は練習をしているのだろうか。
「扇詩くん!」
「おお」
野球ユニフォームに着替えた美空が合流する。サイドポニーを後ろに変え、先程までのキラキラした女子高生から一転。球児ならぬ
「お待たせ」
「おう。……じゃ、やるか」
「うん!」
闊達な返事を返し、俺達はトレーニングをスタートさせる。ストレッチ、体操を終えてランニング。女子とランニングするなんて初めての経験だが、本人は息一つ変えず着いてきている。寧ろ追い抜かれそうになった。
肩、腰、膝、足首を解し、適当なタイミングでお互いキャッチボールを始める。
「……ん゛っ!」
「——あいナイスボール!」
良い球投げるな。さすがはキャプテン。
「扇詩くん、捕るの上手いね」
「キャッチャーやからな」
「そういえばそう言ってたね。……あの、今日投げて良い?」
「ん? ブルペンに入るんか?」
「そう! 良いかな……?」
「構わんよ。生きた球を取るのが何よりの練習やからな」
「やった! ありがとう!」
花を咲かせたような笑顔を浮かべて、肩が温まった美空は早速ブルペンを指差した。小さいグラウンドだがブルペンは完備されている。ここだけしっかりと整備されているようだ。
「うし、お待たせ」
「大丈夫! じゃ、いっくよーー!」
扱うボールは硬球。防具をしっかりと装着した。マスク越しに見える美空の姿。さっきまでのよそよそしい姿からは一変、元気で快活な女子高生へとその姿を変えている。
それだけではない。ワインドアップから右脚一本で立つ姿は美しく、体をしなやかに使い、ロングアームを鞭のようにして右腕はボールを放つ——。
——放たれた軌跡はすぐに目の前にやって来た。そう錯覚するほどの速度。縫い目が殆ど見えず、感じ取れる情報は辺りに轟く強烈な風切り音だけ。生物の本能が恐怖すら感じ捕る。まるで螺旋状に空間を抉り進む弾丸。人体から放たれたことすら忘れるそれを、左手のミットはしっかりと掴み受け止めた。
「……ナイスボール」
——一級品だ。お世辞抜き、流麗な回転が目を見張る程の球威を生み出している。速度も男子顔負け、恐らく120km/hは出ている。初見でこの球を打つのは男子でも難しいだろう。
本人の顔を見れば分かる。ベストボールだ。制球力こそ高くはないが、素材の良さは一級品だ。
楽しくなってきたのか、美空のボールは更に速度を上げていく。ややコントロールは散らかっているが、ボール自体は悪くない。
「……ん゛っ!」
「——あああいナイスボール!」
——30球。気付けば球数を重ねていた。「ふぅ」と息を吐いて恥ずかしげに笑う美空の様子を見て、俺は小休止を取らせる意味合いで立ち上がった。
「
「えへへ。私も! やっぱり扇詩くん、捕るの上手い! もっと投げて良い?」
「まだ春で寒いし、投げるのはこの辺にしとこうや。俺はバッティング練習するけど、美空は?」
「私もする!」
「おお、無理すんなよ」
「大丈夫!」
防具を外し、プールに背中を向け防球フェンスに向かって打撃練習を開始。美空は打撃力もかなり高い。スイングがパワフルで、ぶつかったフェンスからボールがそのまま返ってくる。投手だからか野球センスは抜群だ。
「交代!」
「おう」
今思えば、こうやって部活のようなニュアンスで野球をするのはいつぶりだろう。中学以来だから——
打球はフェンスにぶつかり、俺達の立っている所よりも後ろは勢い良く転がっていく。美空は驚いているのか、目を見開いて吹き笑いを堪えてばかり居る。
木製バットが白球を捉える音。この快音が俺は好きだ。重いバットを振り回した甲斐がある。およそ20球、ミスショット無しでフェンスに叩き付けた。
「うぅし。ナイスバッティン」
「……」
「……ん? どうした?」
「やっぱり扇詩君凄いよ! ウチの子達より何倍も凄い!」
「お、おお……そうか」
美空も中々だと思うが……そんな事を考えながらお互いのバッティングを眺め合い、練習はつつがなく終わりを迎えた。
「あー、つめたーい! 気持ち良い!」
「お前な、まだ夜は寒いぞ。大丈夫か」
「大丈夫! 私暑がりだから!」
「そういう問題なんか?」
練習を終えた脚で蛇口に頭を突っ込む女の子って本当に居るんだな。初めて知った。
「うし、じゃあ帰るか。2人とも待ってるだろうし」
「だね! ……あ! 扇詩くん!」
「ん? どうした?」
「扇詩くんさ、良かったら混合野球部で野球やらない? 楽しいと思うよ!」
「……それは——」
——蘇る。過去の光景が。一生懸けても忘れられない、築き上げたものが一瞬で崩れ落ちていくあの絶望が。亀裂の入った所からゆっくりと、血液が落ちて行くあの感覚が。
何故そんな事を考える? ただ今の俺は頷けば良い。だが——その
「——……」
「……扇詩くん?」
「……すまん。行こ、もう
「あ……うん。それで——」
「——置いてくぞ」
「あ——」
両脚が重い。何かに引っ張られるような、そんな感覚。
ちゃんと返事を返せなかったからか、それとも——いずれにしても、俺の心の亀裂は、ゆっくりと冷たい血を垂れ流していた。