定刻。場所は彗勢高校グラウンド。男女混合野球部存続を懸けた、白楼学園との運命の一戦が幕を開けた。
先攻は白楼、後攻は彗勢。先発マウンドを任されたのは主将・斉投美空。この試合に並々ならぬ想いを抱いて臨んだ彼女の初球は、聖川のミットに爆音を響かせて打者の胸元を抉った。
「——ストライク!」
1番バッターは左打席。内角高めの胸元にまずワンストライク。バッターも少し驚いている。バットを握り直した2球目、強振したが高めのボール球を空振った。
「良いぞ、美空!」
聖川からも感激の声が飛ぶ。美空は間髪入れず、テンポ良く3球目を投げ込んだ。
「——センター!」
詰まった当たり。打ち上げたバッターは一瞬俯き一塁へと走り出す。彗勢のセンターを守るのは1年生・
「ワンナウト——!」
聖川の声が飛ぶ。続く2番打者に対しても速球を投じ、4球目を弾かれる。
当てただけのバッティングはサード正面。サードを守るのは生徒会会計・
「ツーアウト! 美空、ここからクリーンナップだ、しっかりな」
「うん!」
1番、2番とテンポ良く来た。続く3番打者に対しても強気の直球勝負。初球は痛烈な打球がファールゾーンに転がっていくが、2球で空振りを奪い美空の動きはキレを増していく。
自信はボールに乗り移る。3球目。コースとしてはやや甘い所にいったものの、力に押し切られた打球はピッチャー正面。美空が鈴原にボールを転送し、スリーアウトとなった。
「ナイスピッチング、美空」
「美空ちゃんすげぇわ!」
美空、初回を三者凡退。見事なピッチングを披露し、彗勢ナインのムードは急上昇。
「ナイスピッチング、美空」
「えへへ、ありがとう!」
不安が払拭できたのか、緊張し引き攣っていた顔に笑顔が戻る。まだ初回を終えたばかりとはいえ、昨夏3位の強豪を相手に堂々たるピッチングを熟したその強心臓は、評価以上に感嘆に値するだろう。
(いける……! 私のピッチングが、通用する!)
自信が身に付いた。直球勝負でここまでの結果を手繰り寄せられた。問題はここからではあるが、不安に潰される心配が無くなったのは美空にとってこの上なく大きい。予想しない形で、彗勢側に流れを引き寄せられた。
「……盛り上がってんな、
「まだ初回さ。問題無い、いつも通りに行こう」
「だな」
——攻守変わって攻めは彗勢守るは白楼。マウンドに上がるのは白楼のエース右腕・神童麗奈。誰も彼もが求めるその美貌を凛々しい様相に染めて、初対戦となる彗勢打線を迎え撃つ。
「頑張って、
「おーん」
いくら守れて美空が打たせなかったとして、打って得点しなければ意味は無い。攻守が代わって状況も一変する。彗勢の先頭打者・ショートを守る
「……」
左打席。ヘルメットからはみ出るほどの金髪と碧眼が自身を睨め付ける。この蛇のような視線に怯む者が殆どだが、この貴公女は違う。
「——ストライク!」
左打者の
「速いな……」
「……」
聖川の言葉は世辞ではない。これは単なる事実だ。次の投球に入るまで無駄な動きは一切無い。淡々、堂々とピッチングそのものを行なっている。
続く2球目も同じ
3球目。神童の投じたボールは左打席から見て外側へ大きく逸れていった。これを見て乾、迷いなく見逃しを選択——が、捕手・坂本がこれを掴み取り——。
「ストライク! バッターアウト!」
——
「外からスライダーを入れて来たか」
「えぐいコントロールやな。めっちゃ曲がってたで今の」
聖川が分析し、鈴原が驚く。そうするしか無い。今のは投げ込んだ神童を褒めるべきだ。ボールからストライクになるボールを左打者の外角に捩じ込む技術など、硬式野球でもそうそうできる者はいない。
俗に言うバックドアと呼ばれる技術。このたった3球で、神童麗奈はその高い技術を彗勢ナインに知らしめた。
(今日も絶好調だな、神童……リードする俺も、責任重大だ)
神童の快投の裏に、坂本の計略あり——左打者が続く2番・螺子松には初球から外のスライダーで攻めていく。外角とスライダーの軌道を意識させられた勝負球、内角低めのストレートに手が出ず。螺子松は見逃し三振に倒れた。
「ど、ドンマイドンマイ! 切り替えていこう!」
そう美空が声を掛けるが、彗勢ベンチに先程までのムードは無い。右打席、3番の聖川も2球で追い込まれ、3球目と4球目の速球を当てて行ったが、5球目——決め球の
鷹のように状況を俯瞰し、獲物の逃げ道を塞ぎ仕留める。それを淡々と熟す様は最早プロフェッショナルに等しい。冬眠から目覚めた
(ボールからストライク、ストライクからボール……まるでプロや。ストレートとスライダーだけでここまで投げる。高校生になってからピッチャーやり出したはずのに、どんな才能しとんねん麗奈は……)
「……すまない」
「謝る必要は無いよ! 点を取られなきゃ負ける事はないんだから! さぁ頑張ろう!」
「……ああ」
「ナイスピッチング、神童」
「ああ。慶四郎も中々のリードだったよ」
「お褒めに預かり光栄だ。ペース配分。気にしながら行こうぜ」
神童が要した球は13球。美空よりも3球多いが、それ以上に彗勢ナインへ与えたイメージはあまりにも驚異的だ。美空と同等かそれ以上のストレート、大きく曲がるスライダー。彗勢には無い武器を持つ脅威。
彗勢ナインの置かれた状況は変わっていない。寧ろ崖に追い詰められたと言えるだろう。その両肩に伸し掛かるプレッシャーは、あまりにも重く——。
「——セカンド!」
この回先頭はその神童。エースで4番、その風格を示す
(白楼の貴公女……伊達ではないか)
続くは5番・正捕手の坂本慶四郎。こちらも美空の直球を初球から捉え、左中間を真っ二つに破るツーベースヒットを放った。
(さすがは強豪、速球対応はお手のものということか……!)
その対応力の高さに聖川も舌を巻く。ノーアウト二、三塁。初回の三者凡退から打って変わり、この試合最初の山場を迎えた。
「……花咲」
「何ですか?」
「君はこの試合をどう見る? あの子達は……白楼に勝利できるか?」
「現状、普通に見るんやったら無理に近いですね。ウチにあのピッチャーから打てる選手は……美空と聖川さんくらいやと思います」
「では君なら、あの投手をどう打ち崩す?」
「まだ情報が足りなさすぎますね。打席で粘ってどんな球を投げてくるのか知らないと俺には無理です。少なくとも、3打席はかかります」
「……野球というのは難しいのだな。君やあの子達を見ていると簡単そうに見えてくる」
「とんでもないですよ。ただ野球は9回ツーアウト……混合野球は7回までですけど、それまで分かりませんのでね」
「……そうだな」
6番打者の打球が内野の頭を越える。ショート後方センター前方、乾を制した首藤が走りながら掴む。
犠牲フライにしては浅い位置。首藤の体勢の悪さを見て一瞬スタートが頭をよぎったが、神童はスタートを切らず。首藤のバックホームを一瞥し、自らの判断に胸を撫で下ろした。
(首藤さん肩
(良いセンターだな。走っていたらアウトになっていた)
頷く扇詩、神童。安堵したのは美空と聖川。失点が免れない状況を回避し、救われた美空の心には改めて火が着く。
7番打者をこの試合で初めて三振に仕留めると、8番打者の痛烈な当たりを鈴原が抑え、スリーアウトとなった。
「ナイスキャッチ鈴原くん!」
「おう! ……あ~右手いったぁ」
連打を許したがこの回も0で抑えた。ピンチを切り抜けたことでバッテリーの強張りも少し緩んでいる。
「惜しかったね。あと一本出ていたら良かったんだけど」
「ウチのバッターは遊んでばっかりで練習しねぇからなぁ」
「慶四郎」
「分かってるよ。行こうぜ旦那」
「ああ」
……2回裏。先頭の4番・美空に対しても神童は直球とスライダーのみで勝負していく。内から外へ大きく横断するスライダーに思わず美空も絶句する。自分の野球人生の中で見た事も無い軌道。それでもバットを短く握り直し、何とかくらい付いていく。
カウントはツーボールツーストライク。この打席7球目、高めへ外れたストレートを捉え、打球は神童の頭上を越えて行った。
「おっしゃ! センター前! ナイスや美空ちゃん!」
彗勢ナイン待望の初ヒットは美空のバットから。神童のストレートを弾き返し、ランナーが一塁に進んだ。
(……高めの釣り球だったんだけど……彼女が一枚上手だったな)
「気にしなくて良い! 落ち着いていこう、神童!」
坂本の声に微笑みを返す。ピンチを乗り越え初ヒットも生まれた。流れは来つつある——そう思っていた彗勢ナインの幻想を、神童の右腕は悉く粉砕していく。
ヒットが出ようがランナーが居ようが、ホームに還えさなければ良い。ランナーを背にしても変わらない球威と制球は、5番の
続く6番・左打者の鈴原に対しても直球勝負。外のスライダーに何とか反応し、得意の流し打ちでバットに当てるもサード正面。5ー6ー3のダブルプレーが成立し、スリーアウトとなった。
「……美空、大丈夫か?」
「全然平気! まだ試合はこれからだよ!」
試合は投手戦の様相を見せつつある。その優劣ははっきりとしていはいるものの、ここまで両チーム無得点。
だが彗勢は依然として、神童麗奈に対する打開策が何1つとして見つかっていない。ストレートとスライダーのコンビネーションに踊らされ、そして白楼打線は美空の球にタイミングが合いつつある。捉えられるのも時間の問題か。
3回は引き続き両エースが好投を見せ3人で攻撃を終了。試合は折り返しの4回。
白楼はクリーンナップからの好打順。既に打者2巡目を迎えた美空と聖川のバッテリーは、先刻のヒットを踏まえてどう立ち回るか——。
(……次はさっき出た4番だ。2人の前にランナーは出したくない……)
聖川は外に構える。次がヒットで出塁した2人だけに、このバッターを仕留めておきたい気持ちはバッテリー共に同じ。美空が投じた初球は聖川の構える所よりも内側——失投を見逃さず、バッターはこれを振り抜いた。
「——ショート!」
強い打球。しかし打球はショート正面。守るのは
——だが送球は鈴原の頭上を通過。そのままベンチの方向へと逸れる。ボールデッドの判定が下りランナーは二塁へと進塁した。
(……最悪だ、こんな時に)
顔には出さずとも心の中で舌打つ聖川。当の乾は「ごめーん」と笑っている。取れたアウトを取らなかったツケはかならず回ってくる——それが、今。
(どうする——どうすれば良い)
この試合は1点勝負。彗勢にとって1点を奪われる事が何よりの致命傷になる。当然その危険は避けなければならない。しかし今、その最大の山場を迎えている。
(美空……)
美空の呼吸が浅くなってきている。無理も無い。相手は強豪、部の存続を懸けたプレッシャー、更に初回からかなり飛ばしていたこともあって疲労が見え始めている。
体力の回復を図る為か良かったテンポも悪化し始め、序盤までクリアだったコントロールもアバウトなものになっている。今の美空にとってこの状況は絶体絶命の一歩手前だ。
「——ボール! ボールスリー!」
ストライクが入らない。聖川の構えた所からは大きく外れ、3球でスリーボールとなった。
(……
この後は先程ツーベースヒットを放った坂本が控えている。その手前このまま歩かせれば首を絞めるだけ。バッテリーは何としてもここでゲッツー、せめて1つでもアウトを取っておきたい所。
だがその手段が無い。そしてあと1球外せばフォアボール。ストレートしか勝負できる球を持たない美空にできることは、ストライクゾーンにボールを
それを、白楼の
「——ライト!
痛烈に引っ張った打球はライト方向。神童の予想通り、置きに行ったボールを捉えてライト線。たどたどしい蓮池にこの打球を捕れるわけもなく、一塁塁審がフェアの判定を響かせた。
「
急を要する中でも聖川の指示は飛ぶ。後逸した打球を首藤がカバーに向かい漸くボールを手中に収めるが、蓮池はどうすれば良いのか分からずあたふたとしているだけ。それでも首藤は迷わず
螺子松がホームに送ろうとするが、既に三塁ランナーはホームを踏んでいる。打った神童は三塁にスライディング。ボールが間に合うわけもなく、彼女の顔をただ眺めるしかなかった。
——守備難。週2回しか練習をしない彗勢ナインには、必ず着いて回る問題だ。
記録上美空に自責点は付かない。乾の悪送球から蓮池の後逸。しかし1点を失った事には変わりない。神童のタイムリースリーベースと三塁側ベンチの歓声——それらが、彗勢ナインを針の筵にする。
試合が動いた。流れは完全に白楼。続く坂本は初球を叩き、打球は左中間へ。センターの首藤がレフトの浜崎を制してこれを抑えるが、三塁ランナーの神童がタッチアップ。首藤の返球は間に合わず、白楼に2点目が入った。
(……最悪だ)
アウトは1つ取った。だがそれと引き換えに2点を失った。それも1番最悪な形で。
——スコアボードに刻まれた「2」の文字、その意味はあまりにも大きい。あと4イニングスで神童を攻略しなければならないが、今の彗勢ナインに彼女を打ち崩す気力を持ち合わせてはいない。
グラウンドに立つ者達は皆それを理解した。しかし美空だけはその反骨心を絶やしていない。続く6番打者を空振り三振に打ち取り、マウンドの上で咆哮を轟かせた。
「斉投……まだ、彼女は諦めてはいない。まだいけそうだな」
「……いや」
「花咲?」
「……代えた方が良いと思います」
「何故だ?」
「多分ですけど、美空は肩を——」
——金属バットと、何かがひしゃげたような鈍い音。言葉を遮ったそれに思わず扇詩と平山はその方向を向く。
件の音がどこから鳴ったものなのけ一瞬分からなかった。だが、頭上に舞い上がったボールを見て確信した。
「——美空!!」
響き渡る聖川の悲鳴。こぼれ球にサードの三田村が拾い一塁に送球するが、捕殺は間に合わなかった。
「美空!」
「美空ちゃん、大丈夫か!」
駆け寄る聖川と鈴原。一目散に駆け寄る2人。その2人を止めたのは、
「美空、大丈夫か?」
——扇詩だ。すぐに主審にタイムを要求しマウンドへと駆け寄る。美空に気を取られているが、今はインプレー中。サードの三田村がタイムをかけるか逡巡していた。
扇詩が動かなければバッターランナーは二塁への進塁を試みていただろう。それを食い止めたのは間違いなくこの扇詩。素早い判断が傷を最小限の大きさに止め、右手首を抑えて蹲ったまま動けない美空の状況を確認する時間を確保した。
「美空、どこを痛めた? 美空」
「……っ、だい、じょうぶ……! 大丈夫、だから……!」
「大丈夫なわけ無いやろ! どこや、今のピッチャーライナーでどこにぶつけた!? 答えんかい!」
「大丈夫……! 大丈夫!」
美空は扇詩を制し、
「私は大丈夫! ちょっとぶつけたくらいだから!」
「……」
「ほんまか? 今の音やばかったぞ?」
「大丈夫! ほら!」
と、右手を勢い良く掌屈する美空。聖川は思わず目を見開くが、次にはもう笑顔を浮かべて、
「私は大丈夫! ほらみんな戻って、この回を抑えよう!」
そう言って皆を促す。それを見て内野陣は周りを見ながら恐る恐る守備位置へ——聖川と鈴原は変わらず怪訝さを拭いきれなかったが、試合の手前長居はできず。主審の問いかけにも気丈に応じ、試合は再開された。
「……」
「花咲、斉投の状況は?」
「……すいません、分かりません。でも正直、直ぐにでも……代えた方が」
眼前に迫ったボールに美空は反応したものの、捕る程の余裕は無く——自分の顔を守る為右手を出したが、結果右手の
本人の右手を確認する事は出来なかったが——硬式球の硬さは生半可なものではない。下手をすれば右手の骨に異常が見られるかもしれない。
「——ショート!」
打球は三遊間を抜けるヒット。6、7番と連打で出塁。続く8番打者にもストレートの
「……」
「花咲、どこへ行く」
「準備します」
「準備……? 誰と代わる気だ? 君はキャッチャーだろう?」
「……美空はもう投げられません。リリースポイントもおかしくなってるし、何よりさっきの事があってからボールの力が落ちてます。このままいけば試合が壊れます」
「だが君はキャッチャーだろう? 君が投げる気なのか?」
その言葉を向けた矢先、ボールは打者の後方へ舞い上がる。一塁側ベンチ手前、ファールゾーンへ聖川が駆ける。鈴原も追うが、聖川が迷い無く飛び込みそのボールを掴み取った。
「アウト! スリーアウトチェンジ!」
漸く、長い攻撃を終えた。彗勢はこの回、聖川のファインプレーで満塁のピンチを切り抜けたものの、拙守から神童のタイムリーと坂本の犠牲フライで2点を献上。
神童攻略の糸口の最中に背負う足枷は、彗勢ナインの闘志を削ぐのには充分だった。ナインらがベンチに戻るその足取りは重い。対し白楼は余裕すらある。
そして何より、美空の容体は——。
「美空、右手は」
「大丈夫だよ、果補ちゃん」
「——良いから見せろ!」
「きゃ——」
——予想、通りだった。
ライナーが直撃した右手は赫く——いや、青く見えるほど赫く腫れ上がり痛々しい。聖川に捕まれた所から迸る痛みで思わず涙がこぼれる。聖川は目を閉じ、その手を優しく離した。
「こんな手で……何故投げ続けた。お前は何故……そこまでするんだ」
「私なら大丈夫! 大丈夫だから! この試合、最後まで投げ切れるから!」
「——いいや、無理や」
「扇詩くん……? 何でそんなこと言うの?」
「自分が1番分かっとるやろ。お前、その右手だけやなしに右肩も痛いんやろ」
「……どう言う事だ、美空」
「……そ、それは」
「オーバーワーク。聖川さんに止められても、見えない所で投げ続けた。その無理が祟った。そうやな?」
「……っ」
「美空……お前……あれだけ、無理をするなと言ったろうに……」
「……私はこの部を潰したくないの。それに、これは私が招いたことだから……!」
「別に、そこまでする必要無いし」
——バットに肩に乗せてそう呟く。金髪碧眼、ショートを守る
「気持ちは理解できるんやけどさ、そこまでやられたらこっちが悪いって思うし。寧ろさっさと終わらせてあげたいって思ってまうわ」
「
「何やったら棄権って
「ダメ! それだけは絶対ダメ!」
「……まぁ分かったけどさぁ。こっちとしては正直これ以上やりたないで。だって美空1人に無理さしてってすんの嫌やしあーしは。しょーみ、ここで終わってもあーしは
「……悪いけど、私も
「
「……普段生徒会で殆ど練習来てない私が言うのも違うけど、こればっかりは乾さんの言う通りだと思うよ」
「見ていられないもの……」
「
「……悪いけど、俺もみんなと
「……」
縋るように美空は聖川を見上げた。だが聖川は——。
「お前は良くやったよ、美空……もう私は、お前の球を受けられない」
「……」
「……棄権しよう、美空」
——押し留めていた壁が、決壊した。
一粒、二粒。雨が降っていくように、ベンチにへたり込んだ美空の瞼から、涙が零れ落ちていく。
声を上げはしない。感情は止まっている。思考も、理性も——全ての道が絶たれ、成す術も無くなり立ち尽くすように。そして最後に唯一出来る事が無意味に涙を流す事。
感情も頭も現状に着いていけず、理解できた時にはもう遅く。ただただそうする事しか今の美空にはできない。
全ては自分の行動の結果。一体どうすれば良かったのか、後悔が錯綜していく。紙に水を垂らしたようにして悔恨が心の中で広がっていき、それが自身への怒りへと変わっていった。
「……棄権、伝えてくるし」
誰も頷きはしなかった。しかしそれは肯定の合図でもあった。乾はベンチに戻ってバットを置き、そのままグラウンドへと向かっていく——。
「——待って」
嗚咽に震え、言葉の原型が崩れている。しかし伝えるには十分、乾らは皆美空の方を向いた。
「……私、まだ投げる。投げたい壊れても良いから投げたい! まだ、試合を終わらせないで!」
涙を強引に拭いて、そう叫ぶ。聖川は理解をしつつもどこか呆れ、そして諌めるようにして、
「……美空」
「壊れても良いから投げる! 私のせいでチームが無くなるのは嫌! 何よりみんなとまだ野球がしたい! みんなとする野球が大好きだから……壊したくない! 私のせいで、終わらせたくない!! だから……投げさせて! お願い!!」
「もう辞めぇや、美空ちゃん……見てられへんて……」
「……っ、おわらせたくない……! まだ……私はなげ、られる……!!」
「美空……!」
「こんな肩壊れても良い! だから——」
——その右肩に優しく乗せられた右手。その差し出し人は、真っ直ぐに美空の顔を見据えていた。
「——壊れても
「扇詩くん……」
「……お前はチームのエースや。やからその責任を果たしたい気持ちは分かる。でもその気持ちの使い方間違えたら、みんなが美空に対して、一生罪悪感を抱える事になんねん。お前の肩壊してもうたってな」
「でも私は……!」
「……つくづく松尾に似とる奴やな、お前は」
「……松尾くん……に?」
「……乾さん、螺子松さん、聖川さん。バッティングの準備や」
「はぁ?」
「試合はまだ終わってへん。この試合に勝って、ここまで投げ抜いたエースに報いるんや」
「おい新入り! 何を
「お前こそ何を
「はぁ? じゃあ誰が投げんねん」
「……俺が投げれば
「はぁあ!?」
「……いや、俺いうよりも……
「何……?」
「お前の気持ちは
「……」
「……後は、俺と松尾に任してくれるか?」
「……」
頷くこともなく、返事をする事もなく。扇詩は美空の頭を優しく撫でた後、美空の帽子を顔までずらし顔を隠した。
「さぁやるでみんな。4回2失点で負けとんのはバッターの責任や。名門相手に仕事果たしたエースの仕事に報いるで」
「本気? 本気なん? なぁ」
「何しとんねん乾、審判怒っとんで。早よ行けや」
「……何やねんホンマ」
バッターラップを求める主審に頭を下げる乾。その背中を一瞥した聖川は、
「……正気か?」
「ピッチャーなんかできんのかいな新入り」
「おう。美空の所で代打で出るわ。出てな、聖川さん」
「……」
訝しげに扇詩を見上げる聖川の背後。乾は神童のストレートの前に手も足も出ず空振り三振。続く螺子松もバットを短く持つが、嘲笑うかのようなスライダーで見逃し三振に倒れた。
「……うし」
……ネクストバッターズサークル。前打者の息遣いすら伝わってくる。ストライクカウントが溜まれば溜まるほど、心臓を鳴らす緊張は高まっていく。
だが扇詩はこの緊張を感じる度に高揚していた。実に3年振りの実践。心と細胞の奥底から求めていた時間に、彼の野球小僧魂は今にも火焔放射を放とうとしていた。
(ピッチャーとしてはともかく、バッターとしての実力はあるはずだ。
3球目、空振り——カウントはワンボールツーストライク。バットを短く握り直した聖川、4球目——。
「——サード!」
高めに浮いたスライダーを捉えた。三遊間の真ん中を射抜く打球がレフト前へと這い進んでいく。
ツーアウトから聖川が出塁。この試合彗勢打線2本目のヒットが飛び出し、聖川は思わず右手を強く握り締めた。
「……よし」
扇詩、主審に代打を告げる。右打席、高鳴り急ぎたがる心臓を落ち着かせるようにゆっくりと足下を整備。87cmの低反発バットを握り締めた。
(……来たか、扇詩)
両肩を回して解す。この試合で神童が見せた初めての動きだ。それだけ、彼女がこの男を警戒しているのが分かる。
184cm、85kg。やせぎすに見えて筋肉質なその四肢を見ると、バットが爪楊枝のように見えてくる。
頭と同じ高さに構え、ピッチャーの投球を待つ——その風格たるや、日本代表の正捕手として活躍した城島健司を彷彿とさせる。当然白楼バッテリーはそれを感じ取り、
(……どこ投げても打たれそうだな)
(甘く入れば持って行かれる。行くよ、慶四郎……!)
——その初球。坂本のミットは外角低め。そこへ向かって投げ込んだボールを、扇詩は迷い無く振り抜いた。
「——ファール!!」
左方向への大ファール。
(どうなってんだよ……!?)
(心臓が止まった……さすがは扇詩、今日まで……トレーニングを重ねて来たんだね)
3年。この長きに渡る時間は、花咲扇詩を確かに強くした。
「——レフト!!」
一塁ランナーの聖川は打球が上がった瞬間スタートを切る。
「おっしゃああ! 聖川ちゃん! 還って来い!!」
鈴原の言葉通り、外野がもたつく間に聖川は三塁を周る。中継からバックホームされたのは聖川がホームに突入するのとほぼ同時。ヘッドスライディングでホームへと滑り込む。坂本のタッチか、聖川の左手か——その場に居た全員が、主審に注目した。
「——アウト! スリーアウトチェンジ!!」
——が、判定はアウト。得点ならず。扇詩のバッティングは水泡に帰し、一塁側ベンチからため息が漏れた。
「どこに居たんだあんな野郎は」
「あれが扇詩だよ。慶四郎」
「見れば分かる。どうやって抑えりゃ良いんだあんなのは」
「……解禁しよう」
「……分かった。良い相手だもんな」
「ああ」
神童は一塁側ベンチに走って戻る扇詩を見据え、
(僕は嬉しいよ、君がここまで強くなっていたことが——だが、それでも僕は負けない。絶対に——)
「——やるなぁ新入り! 凄え当たりやったで!」
「でも得点にはなってない。あと1打席で何とかしなあかん。その為には抑えなな」
「……」
「美空、何黙っとんねん」
「ぇ……?」
「このチームはお前のチームや。お前が先頭で盛り上げぇや。俺らはお前の声を待っとる。抑えて来たるから、信じて待っとけ」
「……うん……!」
「さて花咲、私にどうさせる気だ? 球種は——」
「……本気でやるん? あいつが」
「まぁ、控え選手出さんと棄権するんも良くないかもやし」
「ほぉん……」
「——コースは任せる。そこに
「……わ、分かった。その言葉信じるぞ」
相変わらず怪訝な様子の聖川は、主審にピッチャー交代を伝令する。ロジンバックに右手を染め、扇詩はゆっくりとピッチャーズプレートに足をかけホームベースを見下ろした。
(……康太、お前こんな景色見とったんやな)
全てを見渡し、見上げる扇詩には分からない光景だった。誰よりも高い場所から試合を左右する。仲間を背にするこの緊張感。これが、松尾と美空を創り上げたのだ。
ふと扇詩は思い出す。混合野球部に入部する事を決意した時、松尾の前で呟いた言葉を。
「寄り道」。それはどうやら、自分だけではなかったようで——。
「……まさか、
【——早い者勝ちやで、扇詩】
……そんな言葉が聞こえて来たような気がした、18.4m先。
「……っしゃ、行くで——!」
花咲扇詩と松尾